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拙ブログの前回(1月27日)の拙文記事「篤姫が鶴丸城で斉彬と初対面」で、「寺尾美保『天璋院篤姫』(高城書店、2007年6月)によると、斉彬は嘉永4年12月15日(1852年1月6日)に一門家の家族を鶴丸城に招いており、そのときに今和泉家の娘として篤姫(当時は於一ですね)も出席しているそうです」と書きました。 なお、寺尾美保『天璋院篤姫』の書中には、この史実の原典史料名として『公史料』としか書かれていませんでした。当然、『公史料』とは鹿児島県維新史料編さん所から出されている『鹿児島県史料 斉彬公史料』のことだと思ったのですが、その第何巻のどのページにどのように載っているのか気になりましたので、鹿児島県立図書館まで行って確認してきました。 それで、判明したのですが、『鹿児島県史料 斉彬公史料』第1巻(鹿児島県維新史料編さん所、1981年1月)の422頁から424頁にかけて嘉永4年12月15日に開かれた「御家督御内証御祝」のことが載っていました。すなわち、「御家督初テ就御下国、御内証御祝御兄弟様方・御女中方来ル十五日御招、御料理被進被下、御能拝見被仰付候御次第」として、当日の参加者名や出された料理、能の演目などが紹介されていました。 そして、それらの「兄弟様方・御女中方」の中に、「島津安藝殿」(篤姫の父親ですね)とその「奥方」に加えてさらに「島津安藝殿」の「息女」の「於一 於龍 於才」の名前も列記されており、「右畢テ御見物所ヘ被為入」としています。「御見物所」とは、能を鑑賞する広間のことでしょうね。そしてさらに「於御見物所御一門方一同御目見、引続大目附以上御目見被仰付」とあり、その下に[御見物所御手狭故、御一門方並種子島弾正殿大目附以上一人ツヽ御目見」との注が付けられていました。 注の内容から判断するに、「御見物所」は狭かったので、「御見物所」に入った人たちは改めて斉彬の前に一人ずつ出て拝謁したようですね。そうしますと、於一(後の篤姫)もまた斉彬と直接対面したと思われます。 寺尾美保『天璋院篤姫』は、これらのことを踏まえて同書の137頁に「史料には、島津安泰(忠剛)殿息女として於一(篤姫)、於龍、於才と三人の娘の名前が並んでいる。この会に、今和泉島津家からは、忠剛夫妻と三人の娘、忠剛の義父忠喬夫妻、そして篤姫の兄忠冬夫妻が出席していた。これが、今和泉島津家の娘として斉彬に初めて対顔を許された日であったと思われる」と書いたようです。 やはり嘉永4年12月15日(1852年1月6日)は篤姫と斉彬の初対面の日だったのですね。
2008年01月31日
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NHK大河ドラマ「篤姫」の第4回目では、ようやく薩摩藩の藩主となった島津斉彬(高橋英樹)が鹿児島の鶴丸城で島津一門四家(重富、加治木、垂水、今和泉のことを指します)を招き、今和泉家の第4子の於一(宮崎あおい)も城で斉彬に初めて会う場面も出てきます。 さて、於一は後に藩主・斉彬の養女となり、新たに篤姫と名づけられるのですが、そんな彼女と斉彬の初対面はいつあったのでしょうか。またそのとき、斉彬は今和泉家の娘である於一を将軍家に嫁がせることを意識して対面していたのでしょうか。そのことを改めて調べなおしてみることにしました。 寺尾美保『天璋院篤姫』(高城書店、2007年6月)によると、斉彬は嘉永4年12月15日(1852年1月6日)に一門家の家族を鶴丸城に招いており、そのときに今和泉家の娘として篤姫(当時は於一ですね)も出席しているそうです。 では、斉彬はどのような思いで於一を見ていたのでしょうか。もうこの段階ですでに於一を将軍家に嫁がせる候補者の一人と考えていたようですよ。 拙ホームページ「宮尾登美子の『天璋院篤姫』と鹿児島」の中で、将軍家と篤姫との縁組問題について芳即正著『島津斉彬』(吉川弘文館、1993年11月)の説を紹介しましたように、徳川家定の夫人が嘉永3年6月(1850年7月)に亡くなった後、将軍家から島津家に縁談の申し込みがあり、その時点から候補者探しが始まったそうです。 そして、薩摩藩内で家臣らの推薦を受けて今和泉家の島津忠剛の娘の於一を候補として考えるようになり、嘉永4年12月15日(1852年1月6日)に鶴丸城で開かれた「御家督御内証御祝」での斉彬を囲んでの能鑑賞会で直接対面する機会を得た後、嘉永5年2月26日(1852年3月16日)には島津本家の別荘の磯邸(いまの仙巌園ですね)での花見の宴に於一の父親の島津忠剛を招いています。上に紹介した寺尾美保『天璋院篤姫』では、「おそらくこの日、斉彬から忠剛に対篤姫の将来についての話があったと考えられる」としています。勿論、「篤姫の将来についての話」とは徳川家との縁組問題のことですね。
2008年01月27日
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今日(1月20日)のNHK大河ドラマ「篤姫」の第3回目には、下加治屋町に住む大久保正助(原田泰造)すなわち若き日の大久保利通が父親の大久保利世(大和田伸也)とともに薩摩藩のお家騒動(お由羅の子供の忠教を支持する派と世子の斉彬を支持する派とに藩内が割れていると表現しています)に巻き込まれ、利世は遠島に送られ、正助は謹慎処分を受けることとなり、母親の大久保フク(真野響子)や2人の妹たちが団扇作りで家計を支える話が出てきます。 薩摩藩のお家騒動とは嘉永2年(1849)に起った「高崎崩れ」(俗称「お由羅騒動」)のことで、藩主・斉興の怒りを買った彬高崎五郎右衛門等50余名が酷刑に処せられています。なお「崩れ」とは検挙事件のことをいいます。この高崎崩れでは、実際に大久保家の父子が連座し、琉球館附役だった父の次右衛門利世は喜界島遠島の重刑を受け、記録所書役助だった息子の大久保正助は職を失います。次右衛門には嘉永2年12月(1850年1月)に流刑の命が出されますが、当時、喜界島への渡航は年1回(春に出帆し秋に帰航)だけだったので、実際には嘉永3年4月(1850年5月12日)に船出しています。この後、大久保家は非常な生活困窮に苦しむことになるのですが、そのことについて『鹿児島百年』上巻(南日本新聞社、1968年1月)はつぎのように書いています。「嘉永三年の四月に、次右衛門が喜界島に流刑の船出したあと、一家の苦斗が始まった。父・次右衛門は遠島まで、琉球館付役であったし、一蔵も記録所書役で、一家はゆとりのある暮らしであったが、高崎くずれの突発で、次右衛門はただちに免職になり、一蔵も職をとりあげられた。二十一歳の一蔵は、三人の妹と病気の母をかかえて、窮乏をきわめた。次右衛門の遠島生活は、足かけ六年続くが、その間に森山新蔵が、一蔵の家計を援助したようである。森山はのちに『精忠組』のスボンサーになった人物であるが、大久保のこの間の苦斗は、彼の忍耐カを練りあげる源泉になったようである。」 ところで、大久保家の家格は鹿児島城下士中の最下層に属す御小姓与(おこしょうぐみ)でした。大久保利通生誕地碑も下級武士の居住区だった加治屋町にあります。この加治屋町は、大久保利通のみならず西郷隆盛、大山巌、村田新八、黒田清隆、東郷平八郎、山本権兵衛などを輩出したことで有名ですね。 しかし毛利敏彦『大久保利通』(中公新書、1969年5月)によると、明治43年(1910年)に出版された勝田孫弥著『大久保利通伝』に「利通の生れたる所は、甲突川の西に方り、高麗町と称うる地にあり、されど、其幼年の頃、家族と共に加治屋町に移住せしより、自ら甲東と号し、また後年誕生の記念碑も、加治屋町の旧址に建設したるものなり」と記されているそうです。 実際に大久保利通が誕生したのは、高麗橋の下流近くの甲突川右岸だったようですが、大久保利通生誕地碑はその誕生地から甲突川を挟んだ対岸の加治屋町にあります。そのことについて上に紹介した毛利敏彦の『大久保利通』は、「加治屋町出生が通説となったのは、鹿児島の人が、郷党の偉人として併称する西郷と大久保を、同一町内の出生としたい願いからきたのであろう」としています。
2008年01月20日
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NHK大河ドラマ「篤姫」の第2話には、調所広郷(平幹二朗)が島津斉興(長門裕之)の側室・お由羅(涼風真世)と組んで斉彬(高橋英樹)の子どもたちの呪詛調伏を企んでいるという噂や、さらには薩摩藩士の一部が島津斉彬(高橋英樹)の四男が亡くなったことに怒って「調所一派の悪行」を書き連ねた密書を作り、それが藩主の斉興を隠居させる計画と関連があると見なされ、大量の人々が切腹させられるという話が出てきます。 これらの話は「お由羅騒動」としてよく知られています。斉彬の子どもたちが次々と夭折したことに対し、薩摩藩士の一部がお由羅たちの呪詛によるものだと考え、お由羅やその息子の忠教(後の久光)の暗殺を企て、そのために少なからぬ人々が酷刑に処せられたようです。これらのことは歴史的事実のようですが、この「呪詛調伏」などという妖しげな話がからんだ騒動の背後には、もしかしたら当時の薩摩に内在する深刻な問題があったのかもしれませんね。 それで、手許の本で「お由羅騒動」を調べなおしていましたら、原口虎雄『幕末の薩摩』(中公新書、1966年4月)にこの騒動についての興味深い事実が書かれていることを気付きました。なお、この本では、斉興の別邸だった花倉お仮屋で「斉興と調所は、大胆にも偽金造りを始めた」としていることに対しまして、これはどうも史実として確証できないようだと私は書きましたが、「お由羅騒動」についての指摘は検討に値すると思いました。同書は、調所の財政改革が城下士族に及んだときの状況をつぎのように書いています。「調所の改革が、借金の整理や黒糖専売などにとどまっている間は、虫けら同然の百姓町人だけにかかわることだと、無関心ですまされた城下士族も、改革の鉾先が農政や軍制にまで向けられてくると、足元に火がついたような危惧を抱いた。なにしろ、家禄の収納は減る、役得はなくなる、過上高は吐き出さねばならない、これまでの武芸は無用化してしまうといった、空前の社会革命だったからだ。しかも改革の担当者たちは、茶坊主上りの家老をはじめ成上り者、ことに癪にさわるのが町人たちの抜擢であった。ノド元過ぎれば熱さを忘れるの諺の通り、財政改革で一息つくと、それが誰のお蔭でもたらされたかを忘れ、欝積した不平が爆発した。調所の執政のように、二十数年の長年月にわたる独裁は、まず史上類例が少ないのだから、人心の倦むのも無理はない。そこに虚実とりまぜ大小無数の噂が飛び、非難が生まれた。」 しかし、「反調所派がどんなに虚をうかがっても、調所に落ち度はなく、また斉興の信任は小ゆるぎ一つするものではなかった」ので、反調所派は世子斉彬が襲封し斉興が隠居することを期待するようになったのですが、斉興はなかなか家督を斉彬に譲ろうとしません。 原口虎雄の同上書は、そんな中で「もともと格式が厳重で、おまけに男専女卑のうるさい尚武の国で、一介の江戸の下町娘が側室となり久光を生んだことそれ自体、すでに不幸の影がまつわりついていた」とし、さらに斉興が「士踊」(さむらいおどり)という武士の調練をかねた勇壮な踊りを「由羅はじめ奥の女中たちを側にはべらせて見物した」ことや、「由羅の兄が武士にとりたてられて岡田半七利友と名乗り、小納戸頭取を勤めていたが」、「湯治先で酒に酔って乗馬で小児を踏み殺したのを、由羅が金を出して内済にしてくれたという事件」、「由羅が側用人伊集院平に頼んで貨殖をしているという噂があったが、これは事実であった」こと、「時には奥向から政事に口出しすることも多かったらしい」とし、さらに「わが子久光を家督にすえようとして斉彬の廃嫡を企み、調所や二階堂志津馬・島津将曹・伊集院平などを語らって、斉興に斉彬のことを讒言しているという評判であった」らしいことから、斉形もこの噂には動かされて不安がっていたとしています。 反調所派のこのようなお由羅への反撥と斉彬への期待が「お由羅騒動」の背後にあったとする指摘は正鵠を射ているように思われます。
2008年01月19日
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NHKの大河ドラマ[篤姫」が今月6日から始まったこともあり、NHKは2007年4月25日に放映した「その時歴史が動いた」の「大奥 華(はな)にも意地あり ~江戸城無血開城・天璋院篤姫~」を今日また夜の10時から再放送しました。それで私もこの番組を見直したのですが、討幕軍の江戸城総攻撃を「一通の手紙がすんでのところで食い止めた」、江戸城無血開城の裏には「天璋院篤姫の決死の行動があった」、天璋院篤姫の嘆願書が「西郷隆盛の心に痛撃を与えた」といった解説にはやはり納得ができませんでした。 私は、拙ホームページ「宮尾登美子の『天璋院篤姫』と鹿児島」の中に「篤姫から西郷隆盛への嘆願書」について文章を載せ、「勿論、旧幕府の代表となった勝海舟の和平路線に従って出された天璋院の嘆願書もそれなりの意味があったとは思いますが、やはり薩長も徳川も国内の内乱が激化することによる欧米列強の干渉、侵略を危惧し恐れたことが西郷隆盛と勝海舟の和平会談に繋がったのではないでしょうか」と書きました。またさらに「江戸城無血開城と勝海舟」というホームページもアップして、戸城無血開城に勝海舟の果たした役割を私なりに詳しく紹介いたしました。 それで、今夜はNHKの「大奥 華(はな)にも意地あり ~江戸城無血開城・天璋院篤姫~」でも紹介されていた和宮の嘆願書の内容とそれに対する西郷隆盛、大久保利通の反応を紹介して私の見解をさらに補強しておきたいと思います。 武部敏夫『和宮』(吉川弘文館、1965年3月)には、慶応4年1月21日に和宮が土御門藤子を使者として慶喜の嘆願書および橋本実麗・実梁父子宛に彼女が書いた直書(じきしょ)各一通を持たせて西上させたとしています。土御門藤子は2月1日には桑名に滞陣中の橋本実梁に面会して和宮の直書を手交したそうですが、この和宮の直書にはつぎのようなことが書かれてあったそうです。「此度之一件は兎も角も、慶喜是れ迄重々不行届の事故、慶喜一身は何様にも仰せ付けられ、何卒家名立ち行き候様幾重にも願い度さ、後世迄当家朝敵之汚名を残し儀事、私身に取り侯ては は実に残念に存じ参らせ候。何卒私への御憐愍と思しめされ、汚名を雪ぎ、家名相立ち候様、私身命にかへ願ひ上げまいらせ侯。是非々々官軍差向けられ御取りつぶしに相成り侯はゞ、私事も当家滅亡を見つゝながらへ居り候も残念に侯まゝ、急度(きっと)覚悟致し候所存に候。私一命は倍しみ申さず侯へ共、朝敵と共に身命を捨て侯事は朝廷へ恐れ入り候事と誠に心痛致し居り候。心中御憐察有らせられ、願之通り家名之処御憐愍有らせられ候はゞ、私は申す迄もなく一門家僕之者共深く朝恩を仰ぎ候事と存じまいらせ侯。」(『静寛院宮御日記』) しかし、西郷隆盛は同年2月2日附けの大久保利通宛書簡で「慶喜退隠之嘆願、甚だ以て不届千万、是非切腹迄には参り申さず候はでは相済まず、必ず越土(越前・土佐両藩)抔よりも寛論起こり候半(わん)歟。然れば静寛院と申しても矢張り賊之一味と成りて、退隠位にて相済候事と思食され候はゞ致し方なく候に付、断然追討在らせられ度事と存じ奉り候」(『大久保利通文書』第七)と書いているのです。 江戸幕府第14代将軍徳川家茂の正室だった和宮(静寛院)は薩摩・長州が奉じている明治天皇の叔母であり、また先代の天皇である孝明天皇の妹なのですが、西郷隆盛はそんな和宮のことを「矢張り賊之一味」と言い切り、彼女が慶喜の処分を退隠ぐらいにしてもらいたいと思うのは当然だとしても、やはり慶喜は断然追討せねばならぬとしているのですね。 また同じく武部敏夫『和宮』によると、大久保利通も西郷隆盛と同様に強硬論だったそうで、『大久保利通文書』第七所収の鹿児島藩士の蓑由伝兵衛に宛てられた同年二月十六日附の手紙の中で、慶事が和宮にすがって謝罪の嘆願書を提出したことを知らせて、「誠あほらしさ、沙汰之限りに御坐候。反状顕然、朝敵たるを以て親征と迄相決せられ候を、遁隠位を以て謝罪などゝ、益(ますます)愚弄し奉るの甚舗(はなはだしき)に御坐候。天地容るべからざる之大罪なれば天地之間を退隠して後初めて兵を解かれて然るべし」と書いているそうです。 明治天皇を奉じた薩長が討幕軍を東征させたのですが、薩摩側の指導者の西郷隆盛や大久保利通にとって明治天皇の叔母の和宮も「矢張り賊之一味」であり、そんな和宮にすがって謝罪の嘆願書を提出したことなど「誠あほらしさ、沙汰之限りに御坐候」ということになるのですね。天璋院篤姫だって彼らにとっては「矢張り賊之一味」であり、そんな篤姫の嘆願書など「誠あほらしさ、沙汰之限りに御坐候」ということだったのではないでしょうか。
2008年01月16日
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調所広郷と贋金(偽金、ニセ金)づくりとの関連で詳しく論じられた文献がないかと探しておりましたら、なんと芳即正『坂本龍馬と薩長同盟 …新説・通説異論あり…』(高城書店、1998年12月)のなかに「ホント? 華倉御殿のニセ金造り」という論考があることに気付きました。書名からそんな論考が掲載されているなんて思いもしなかったのですが、インターネットを検索していて今日やっと判明したのです。この芳即正の論考は、原口泉『かごしま歴史散歩』の記載では天保4、5年(1833年~1834年)頃に建てられた華倉御殿において調所広郷によってニセ金造りが始められた、としていることに対し疑問を呈したものです。 芳即正の同論考によりますと、まず東大史料編纂所所蔵の島津家史料の中にある名越左源太の『続常不止集』の弘化2年(1845年)の記事に「華倉御茶屋」のことがつぎのように記録されているそうです。 一、華倉御茶屋 右は中村御茶屋の地面を、御手元御製薬方へ差し出され候に付き、右引き 替えに、吉野村の内華倉末川久馬御抱地(おんかけち)ならびに同所東郷 半七枦場(はぜば)等、御用地相成り、磯御茶屋引き続き一囲(ひとかこ) いにて、右の通り御造立仰せ付けられ候条、承るべき向へ申し渡すべく候 七月十七日(弘化二巳) この史料の意味は、「今度占丁村御茶屋の敷地を製薬方に差し出したので、その代わりに吉野村の中の華倉にある、末川久馬の抱地(開墾地)と東郷半七の枦場(枦を植えてある土地)を、藩の御用地にして磯御殿と一まとめにし、そこに華倉御茶屋をつくる事になった、知らせるべきところに知らせよ」ということだそうです。 最後の日付の「七月十七日(弘化二巳)」の「弘化二巳」は弘化2年の巳の年ということでしょうが、弘化2年は干支で乙巳(きのと)なのでこう表記したのですね。これが華倉御茶屋すなわち花倉御仮屋についての最初の記録のようですから、調所広郷の贋金造りの工場となったと想定されている花倉御仮屋は弘化2年7月17日(1845年8月19日)以降に建設が始まったと考えられますね。 ではこの花倉御仮屋の建物はいつ頃完成したのでしょうか。芳即正の同論考によりますと、島津家磯邸『日記』弘化四年(一八四七)三月十一日の条に、藩主斉興が「四ッ時(十時)御供揃いにて華倉御見分に入らせられ、御帰り掛け磯に入らせらる」とあり、さらに同年四月二日の条に、斉興が「五つ半時(九時)御供揃いにて華倉御茶屋へ御滞在に入らせられ候」とあるそうですから、弘化4年3月11日(1847年4月25日)にはほぼ完成し、同年4月2日(1847年5月16日)には完成して滞在できるようになっていたと思われますね。 なお同論考は、華倉御殿建設に調所広郷が関わっていた事実は認めてつぎのように述べています。「現在旧華倉御殿不動堂跡の地に、弘化四年九月と刻んだ手水鉢が建っているが、造園なども全部出来上がったのがこの九月ごろということであろう。また仙巌園内の御庭神社の前庭にある五基の石灯籠に弘化四年九月吉日とあり、幾つかには調所笑左衛門広郷・末川久馬その他の担当者の職氏名が刻まれている。これは恐らく先の手水鉢と同様華倉御殿内にあったものだろうが、御殿廃止後に仙巌園内に移されたものと思われる。この弘化四年は西暦一八四七年で、以上のいきさつから考えると、弘化四年より十三年前の天保五年には、華倉御殿はまだ出来ていなかった事になる。だから原口説はこの点では誤りという事になるが、でも調所広郷が造ったという事はその通りである。」 この華倉御殿はその後も御殿として使われたようで、新納久仰の日記である『久仰雑記』に安政3年3月1日(1856年4月5日)の条にも隠居の斉興が泊まった話が記録されているそうです。しかし、同じ『久仰雑記』の安政3年10月23日(1856年11月20日)には新納久仰自身が銅璞荒焼きの場所を華倉へ移す計画のために現地に行ったということが記録されており、御殿のみに使用されていた訳ではないようです。 そして、『忠義公史料』によりますと、明治2年12月には鹿児島藩庁(知政所)から「華倉細工場之儀、引取り仰せ付けられ候、左候て同所跡へ生産万管轄金性分析所召し建てられ候条、会計局総裁へ申し渡し、承るべき向へも申し渡すべく候」という達しが出されているそうです。そうしますと、華倉には細工場が建てられていたようで、さらに明治になってそれが廃止されて金属の分析所が作られたようですね。芳即正の同論考はそのことと関連させて、「原口泉さんは華倉を『掘り返すと金クソが出てくるので、鋳造工場があったことがわかる』としているが、果たしてストレートにそう決めてよいものだろうか」と述べています。 以上の芳即正の論考を読んで、私はますます調所広郷が贋金づくりを行っていたという説に対する疑問を深めました。花倉御仮屋は弘化4年4月2日(1847年5月16日)に完成した建物のようですが、調所広郷は嘉永元年の12月19日(1849年1月13日)に江戸で死去していますから、花倉御仮屋が建てられてから1年半ほどで彼は他界していることになります。50万両も備蓄するほどに財政改革を成功させた段階であり、まだ江戸幕府の権威が失墜していないこの頃に、調所広郷が敢えて幕府禁制の贋金造りなどという危ないことに手を染めたりするものなのか、また仮に調所広郷が贋金造りを企図したとしても、生前に本格的にそれを実行に移す時間などあったのか等のことから、調所と贋金作りを関連させることには大いに疑問があるのですが、みなさんはどう思われますか。
2008年01月14日
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NHKの大河ドラマ「篤姫」の第2話が今夜放映されましたが、私が一番興味を持って観ていたのは調所広郷の贋金づくりの話がどのように描かれているかということでした。 於一(宮崎あおい)は肝付猶尚五郎(瑛太)から調所広郷(平幹二朗)が「けくらのお化け屋敷で贋金づくりをしているらしい」という噂を聞かされます。さらに調所が藩主・島津斉興(長門裕之)の側室・お由羅(涼風真世)と組んで斉彬(高橋英樹)の子どもたちの呪詛調伏を企んでいるという噂を耳にしたときに、調所からの招待状が届き、肝付猶尚五郎と一緒に調所邸を訪れ、調所本人にお由羅による呪詛調伏の噂の真偽を確かめます。そのとき調所は「調伏の噂はあずかり知らぬこと」と否定しながらも、「銀座常是」と刻された銀貨(ニ朱銀だと思われます)を於一と尚五郎に渡し、それが贋金であることを伝えます。そして、「贋金造りの屋敷はすでに閉じており、これが最後の一枚であることを明らかにし、「役割を超えた天命ならば、また致し方ない」と語ります。その後、江戸に呼び出された調所は、幕府老中の阿部正弘(草刈正雄)から清国で抜け荷(密貿易)を行った罪を問われます。これに対して、調所は全ての罪を全て自分が負おうと考え、江戸の薩摩藩邸で服毒自殺するのです。 今回のドラマの時代設定は、斉彬が調所の情報探索を進める弘化4年(1847年)から翌年の調所の自殺があった嘉永元年(1848年)ということのようです。それで、ドラマでは調所自身に「けくらのお化け屋敷」で贋金造りを行っていたと語らせています。「けくらのお化け屋敷」とは藩主・島津斉興の別邸である「花倉の御仮屋」のことでしょう。 なお、島津家30代当主の島津忠重の『炉辺南国記』(つかさ書房、1983年)には、花倉の別邸のことがつぎのように紹介されています。「磯邸からその東方、国道上を数町行くと花倉(けくら)に達する。私の幼時聞いた話では、恐らく斉興のころかと思うが、別邸が造営せられ、完成したので引越した晩に大暴風雨が襲来して、終夜皆生きた心地はなく、夜明けとともにやっと静まったという。当時のこととて、これはてっきり天狗の仕業だということとなり、その後この別邸は一度も使用されなかった。偶然の大台風と考えられるが、惜しいことをしたものと考える。行ってみると庭の跡は実に規模雄大で、天然と人工を加えた大石を取入れ、外周の石垣、石塀、石橋なども現存しているのにかかわらず、すべてが半ば埋もれ、半ば壊れているのは遺憾至極である。正門のあった位置なども、石を築き上げ、立派に残っていて、如何に構想が大きかったかを知るに足るものがある。庭前には桜島と錦江湾とを控え、西方はるかに磯海岸付近を望み、南西方には鹿児島港や市の一部も見得る位置にあり、東方は、現在は木が繁っていて何も見ることはできないが、磯邸よりもだいたいにおいて一般のながめは佳良のように思う。」 「篤姫」のドラマでは、この島津家の花倉の別邸のことを「花倉のお化け屋敷」と呼称して、そこで調所広郷が贋金づくりが行われていたように描いているのですね。しかし、調所広郷が贋金造りをおこなっていたことは、拙ブログですでに2回に渡って述べてきましたように史実としては大いに疑問があります。 ただし、後に薩摩藩の藩主が忠義となった時代には大いに鋳造されたようですよ。すなわち、島津忠義の父親で「国父」と称された島津久光が藩の実権を掌握した時代には、薩摩藩は琉球通宝の鋳造を幕府から認可される中で天保通宝の密鋳が大々的に行われたようです。 芳即正『島津久光と明治維新』(新人物往来社、2002年12月)によりますと、島津久光が文久2年(1862年)に「琉球救助を名目にして三年間を限り、天保通宝と同じ形の琉球通宝を鋳造することを幕府から許され、同年十二月から鋳造を始めた。担当者の市来四郎によると、三年間に二百九〇万両をつくり、三分の二の利益を得たという」とのことです。そうしますと、薩摩藩はこの鋳銭事業によってわずか3年間で193万両以上の巨額の利益を得たことになりますね。また、同じ芳即正の「鹿児島藩廃仏毀釈前史」(『鹿児島歴史研究会』第3号、1998年10月)には、鋳銭事業の担当者だった市来四郎の日記に基づき、幕末の薩摩藩の銭鋳事業と廃仏毀釈の関連が考察されていますが、同論文はこの琉球通宝鋳造計画には当初から天保通宝鋳造の意図があった」ことを明らかにしています。なお、これらのことは拙ホームページ「獅子文六の『南の風』と福昌寺跡」 にアップしてあります。 また、「独立行政法人 造幣局」のホームページの「江戸時代の地方貨」には、琉球通宝の写真に添えてつぎのような簡単な解説文が載っていました。「文久2年(1862年)8月、琉球救済を名目にして鹿児島藩が幕府に藩内通用銭として3年の期限つきで許可された貨幣で、天保銭型としたその裏には天保銭の密鋳を予定していたからだといわれています。」
2008年01月13日
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佐藤雅美『薩摩藩経済官僚』、台明寺岩人『斉彬に消された男 調所笑左衛門広郷』、安部龍太郎『薩摩燃ゆ』の小説には、調所広郷が天保年間から藩主・島津斉興の別邸として建てられた花倉(けくら)の御仮屋(別邸のこと)で贋金を造っていたとしています。しかし芳即正『島津斉彬』(吉川弘文館、1993年11月)は、「原口虎雄『幕末の薩摩』に、調所が天保四、五年ごろ華倉別邸でにせ金づくりをやったとあるが、華倉別邸はそれから十数年後の弘化三年製製煉所をつくったとき中村別邸をこわしてその代わりにつくったもので、この話は疑問」であるとしています。 なお、藩主・島津斉興の別邸である花倉(けくら)の御仮屋と華倉別邸とは同一の建物のことを指していると思われます。それで、花倉(けくら)の御仮屋のことを芳即正・五味克夫監修『鹿児島県の地名 日本歴史地名体系47』(平凡社、1998年7月)で調べてみることにしました。同書の182頁に薩摩藩主だった島津家の別邸「仙巌園」についての解説がありますが、そこに「花倉御仮屋跡」の説明もつぎのように記載されていました。「仙巌園から国道10号を八〇〇メートルほど北に進むと花倉(けくら)御仮屋跡がある。弘化四年(一八四七)に島津斉興が中村(なかむら)別邸の代わりとして造った別邸であったが、文久三年(一八六三)の薩英戦争後、国分に移された(続常不止集;忠義公史料など)。現在跡地には石垣や手水鉢、庭石などが残る。」 花倉御仮屋は弘化4年(1847年)に建てられているようですね。しかし、台明寺岩人『斉彬に消された男 調所笑左衛門広郷』には、調所広郷の贋金造りが天保5年(1834年)から開始されたとしているように、上記の小説はいずれも調所広郷が天保年間から贋金造りを始めたように描いています。この天保年間において調所広郷は財政改革を成功させ、弘化元年(1844年)には50万両の備蓄さえ達成させているので、それと贋金造りを関連させて考えているのですね。 ところが、調所広郷は嘉永元年の12月19日(1849年1月13日)に江戸で死去しているのですから、花倉御仮屋が建てられてから2年ほどで彼は他界していることになります。50万両も備蓄するほどに財政改革を成功させた段階で、調所広郷が敢えて幕府禁制の贋金造りなどという危ないことに手を染めたりするものなのでしょうか。また、仮に調所広郷が贋金造りを企図したとしても、生前に本格的にそれを実行に移す時間などあったのでしょうか。このようなことを考えますと、調所広郷の贋金造り説には非常な疑問が生じるのですが、みなさんはどう思われますか。
2008年01月12日
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NHKの大河ドラマ「篤姫」の第一回目に平幹二朗演じる調所広郷が登場してきますが、平幹二朗の燻し銀のような深みのある演技が素晴らしく、そんなこともあって調所広郷という人物にあらためて関心を持った視聴者も多かったのではないでしょうか。 この調所広郷については、佐藤雅美『薩摩藩経済官僚』(講談社文庫、1989年6月)、台明寺岩人『斉彬に消された男 調所笑左衛門広郷』(南方新社、2006年12月)、安部龍太郎『薩摩燃ゆ』(2007年10月)という時代小説がありますが、いずれの作品においても、薩摩藩の財政改革のために非情に徹する彼の姿が生々しく描かれています。そしてこれらの作品には共通して島津藩主・斉興の花倉(けくら)の別邸での贋金作りの話が出てきており、彼の財政改革の光と影のなかの影の部分を表わすものとして読者に強い印象を与えています。 ところが、芳即正『調所広郷』(吉川弘文館、1987年5月)には調所広郷が贋金づくりをおこなったという記述はどこにもなく、さらに同じ著者の『島津斉彬』(吉川弘文館、1993年11月)129頁にはつぎのような記述があります。「原口虎雄『幕末の薩摩』に、調所が天保四、五年ごろ華倉別邸でにせ金づくりをやったとあるが、華倉別邸はそれから十数年後の弘化三年製製煉所をつくったとき中村別邸をこわしてその代わりにつくったもので、この話は疑問。使用すれば斉彬の鋳銭こそにせ金づくりとなる(『磯邸日記』、名越左源太『続常不止集』)。」 これは私にとって史実に関する意外な指摘でした。私は先に紹介しました佐藤雅美『薩摩藩経済官僚』、台明寺岩人『斉彬に消された男 調所笑左衛門広郷』、安部龍太郎『薩摩燃ゆ』の小説を読んでいたこともあり、調所広郷が贋金作りに手を染めていたことは明らかな歴史的事実だと思い込んでいました。しかし、幕末の薩摩藩についての優れた歴史研究者である芳即正が調所広郷による「天保四、五年ごろ華倉別邸でにせ金をやった」という話は疑問であると指摘しているのです。幕末の薩摩藩についての優れた歴史研究者のこの指摘は重たいものがあると思いますが、このことについてどなたか詳しいことを教えていただけたら有難いと思います。
2008年01月10日
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NHKの大河ドラマ「篤姫」が今日1月6日から放映が始まりました。鹿児島に住んでいる人間としては桜島や石橋の西田橋等が映し出されるだけで嬉しくなりますが、ドラマと史実の関連で特に興味を持ったのは、篤姫(宮崎あおい)の父親の島津忠剛(長塚京三)が薩摩藩の家老である調所広郷(平幹二朗)から弘化4年(1847年)に「百姓に対して手ぬるい」と批判され、家政改革を行うようにとの藩主・島津斉興(長門裕之)の命を伝える場面です。 しかし、寺尾美保『天璋院篤姫』(高城書店、2007年6月)には、島津忠剛すなわち安芸守が今和泉家の財政難を救ってもらうために調所広郷すなわち笑左衛門に窮状を伝えて相談に乗ってもらい、その結果困難な状況を打開することができたとする史料が紹介されています。すなわち調所広郷の改革を輔佐していた海老原清熙(海老原宗之丞)の「御取調書類草稿」(『鹿児島県資料集三十九』所収)につぎのようなことが書いてあるそうです。 島津忠剛が「雨天ニハ廊下ヲ傘ヲサシ、少キ子共ヲ浜屋敷へ遣ルニ駕寵へ両人モ乗セヤル」様な財政難に苦しみ、そのことを海老原宗之丞に伝え、「笑左衛門殿へ申シ呉ヨト、御手ヲ席ヘツカセラレ承ハリシ間、畏り奉ルト申シ、其日笑左衛門殿へ其旨ヲ申シ」、「間モナク笑左衛門殿ヲ今和泉屋敷へ召シ」、財政難解決のために相談に乗ってもらい、海老原たちが今和泉家の財政改革に着手し、「用ヲ節シ費ヲ省キ、安藝殿ニハ毎日其席へ御出、大小皆御聞少モ遺漏ナク行届キ、其年ヨリ菜種・蝋共珍シキ高価ニテ、従前二比スレハ雲泥ノ差ニテ、年末二至り余金ヲ生シ」たとのことです。 調所広郷の島津藩財政改革には、確かにドラマにも描かれているような百姓たちへの苛斂誅求ともいえる厳しい取立て等があったようですが、少なくとも今和泉家にとっては調所広郷は財政難解決の恩人だったようですね。 右上に載せた写真は調所広郷(1776-1848年)の銅像で、1998年3月に鹿児島市天保山町の天保山公園に建立されたものです。この銅像は、前迫初実・元県石材連合会会長と野添武二・元県歯科医師会会長が調所広郷の功績を後世に伝えようと建造し、鹿児島市に寄贈したものです。なお、この銅像の碑文には、幕府から密貿易の罪を負わされて自害した調所広郷の功績を称えて次のようなことが刻まれています。「幕末に近い文政十年(1827年)薩摩藩の借金は、五百万両の巨額に達していた。当時の藩の年収総額十数万両は、借金金利に遠く及ばず、正に破産の危うきにあった。 時の島津重豪公は、究極の策として一介の茶坊主上がりの調所広郷を家老に抜擢、藩財政改革を厳命した。 広郷はその期待に応え巨額の負債を解決し、あまつさえ五十万両の蓄えさえ残した。 更に藩政の興隆を図り、数々の土木工事を行った。平成五年八.六災害で惜しくも決潰あるいは撤去されたが、広く県民に親しまれた西田橋等甲突川五石橋も、天保山の造成も全て調所の発案である。 改革は藩内に留まらず、広く海外交易にも力を注ぎ、琉球を通じた中国貿易の拡大や、北海道に至る国内各地との物流の交易をはかって、藩財政の改革の実を挙げたのは、この調所広郷である。 だが歴史は時の為政者によって作られる。調所広郷は幕府に呼ばれ密貿易の罪を負い自害に追い込まれ、今も汚名のままである。 しかし、斉彬公の行った集成館事業をはじめとする殖産興業・富国強兵策・軍備の改革の資金も、明治維新の桧舞台での西郷・大久保の活躍も全て調所の命を賭け、心血を注いだ財政改革の成功があったからと思う。 此処に調所広郷の銅像を建立し、偉業の後世に遺ることを願う。」
2008年01月06日
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NHK大河ドラマ「篤姫」もいよいよ明日6日から始まりますね。幕末の鹿児島がどのように描かれるのかとても楽しみにしています。それだけに、昨夜4日の午後11時に放映されたNHK総合テレビの「カウントダウン篤姫」は大いに期待し、同番組に鹿児島市浜町にある石橋記念公園が映し出されたときは、篤姫ゆかりの地について新たな情報が得られるのではないかと喜んだものです。なぜなら、鹿児島市の浜町にある石橋記念公園の近くに2ヶ所も篤姫ゆかりの地があるからです。 塩満郁夫・友野春久編『新たな発見にに出会う 鹿児島城下絵図散歩』(高城書店、2004年12月)という書籍がありますが、これは鹿児島県立図書館に所蔵されている安政6年(1859年)頃作成と推定される「旧薩藩御城下絵図面」に現在の鹿児島市の地図を重ね合わせ、約4千ヵ所の現住所と当時の建物や住人を見比べられる一覧表が付いている貴重な本です。同書によりますと、島津峯之助(篤姫の兄の島津忠敬の通称で、上の二人の兄が若くして病死したために今和泉島津家12代当主になっています)の屋敷に関して、現在の浜町にあるものとして2つの場所が挙げられています。 一つは「春日町12番の北、浜町3番の北西」にある「島津峯之助殿中屋敷」で、現在そこにある構造物としては「上町グラハン」があるとのことです。もう一つは「浜町2番の中」にある「島津峯之助殿下屋敷」で、現在は「鹿児島操車場」になっているとのことです。 しかし、「カウントダウン篤姫」の番組では、浜町にかつて今和泉家の中屋敷、下屋敷があったことなど全く触れませんでした。では、なぜがこの番組で浜町の石橋記念公園が紹介されたのかといいますと、同地で大河ドラマ「篤姫」のロケが行われ、大名行列のシーンをそこに移築された西田橋を使って撮影したりしたからのようです。昨夜の番組は、コロッケと定岡正二が篤姫関連のクイズを解いたり(斉彬、斉興、久光のなかで兄弟は誰かとか、篤姫の夫となった徳川家定は第何代将軍かといった簡単な問題でした)、大河ドラマ「篤姫」のメイキング映像を紹介したりするだけで、残念ながら私が期待するような史実の紹介はありませんでした。 6日から始まる実際の番組では、幕末の薩摩関連のことで新たな史跡や史実が紹介されることを期待したいと思います。
2008年01月05日
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naomatsuさん、明けましておめでとうございます、今年もよろしくお願いいたします。 今年3月に鹿児島である学会参加は研究原稿提出のために取りやめられたとのことで、お会いできなくてとても残念ですが、ぜひ納得のいく内容の原稿を仕上げられるようお祈りしております。 ところで、昨年11月にSLニセコ号に乗って日帰り旅行された体験を「SLニセコ号で行く日帰り温泉旅行」と題されて昨年12月14日にアップされていたのですね。新年の挨拶と一緒にそのことをご連絡くださり本当にありがとうございました。 私が子どもの頃は、Sl(汽車といっていました)が黒煙をモクモクと出して汽笛を鳴らしながら到るところを元気に爆走していましたが、いまはとても珍しい存在となりましたね。それだけにSLニセコ号の記事をとても興味深く拝見させてもらいました。黒い蒸気機関車の姿や車両内の四角張った木製の椅子、薪ストーブ等にとても懐かしい感じがしました。naomatsuさんは、そんなレトロなSLによる北海道の秋の旅を大いに満喫されたことでしょうね。 ところで、SLニセコ号はヘッドライトをカニの目玉のように煙突の左右に2個突き出したC11-207号という蒸気機関車が動かしているのですね。この札幌から蘭越町間を秋の期間限定で走っているSLニセコ号のことを私もインターネットでちょっと調べてみました。 同SLは、太平洋戦争が始まった1941年に日立製作所笠戸工場で製造製造された蒸気機関車のC11-207号機で、北海道でも濃霧の多い日高本線を中心に走行するために前照灯が2個装備されたことから「カニ目」と呼ばれていたとのことですね。1974年に廃車となり、静内公園に保存されていたそうですが、北海道鉄道開通120周年イベントとして2000年に動態保存機として復活することになったそうですが、復活1年目は車軸の異常発熱のために171号機が代わりに走っており、翌年から秋の季節に土・日・祝日のみ期間限定で元気に走っているとのことですね。 なお、このC11-207号機は、昨年の9月8日、9日に財政再建団体の北海道夕張市を応援するために「SL夕張応援号」として夕張市のJR石勝線を走ったそうですね。
2008年01月04日
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みなさん、今年もよろしくお願いいたします、やまももです。 2008年になってのブログ書初めは冠雪した桜島の紹介です。12月31日から南国の鹿児島も寒気と強風に見舞われ、元旦も荒天の日が続いたのですが、2日には久しぶりに太陽が青空の上に明るく輝き、我が家の近くからもうっすらと雪化粧がほどこされた櫻島の美しい姿を見ることができましたので、デジカメで2008年最初の撮影をしました。
2008年01月02日
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