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詩人べーコンは人生の苦の相(すがた)を歌って、こういっています。
世界は泡沫(うたかた)である。人生は束の間に過ぎない。
母胎に宿るそもそもから、墓場にいたるその時まで、
人生は苦の連続である。揺籃(ゆりかご)からとり出される。
それから気兼ね苦労で育て上げられる。
さて、こうした末に、なり上がった人の命が不壊(ふえ)なればこそ、
生命の頼りがたなさは、水に描ける絵、砂に刻める文字もおろかである。
内地にいて感情を満足させたい、
これはけだし人間の病気である。
海を越えて、他国に行くことは、
困難であり、また危険である。
時には戦争があって、われらを苦しめる。
が、しかし、それが終われば、
こんどは又平和のために一層苦しむ。
こうして一々数えていったあげくの果ては、何が残るか。生まれたことや、死ぬことを悲観する。残るのは、ただこれだけである。
三界は火宅
あの有名な「法華経 ] は、またわれらに告げています。
三界は安きことなし、猶火宅の如し
衆苦充満して、甚だ畏怖(おそる)べし
つねに生、老、病死の憂患(うれい)あり
是(かく)の如き業の火、熾燃(しねん)として息(や)まず
私どもの住むこの世界は、あたかもさかんに燃えている火宅である、という釈尊のこの体験こそ、尊い人間苦への警告だったのです。苦諦の真理に対する目覚めだったのです。
かくてこそ、
如来(ほとけ)はすでに三界の火宅を離れて
寂然(じゃくねん)として閑居(げんご)し、林野に安処せり
今この三界は、皆是れ我有(もの)なり
その中の衆生は、悉(ことごと)く是れわが子なり
しかもいま此処は、諸(もろもろ)の患難 ( うれい ) 多し
唯(た)だ我一人のみ、能(よ)く救護(くご)をなす
という、われらに対する、仏陀の限りなき慈悲の手は、さし伸べられたのではありませんか。
人生への第一歩
まことに「人生は苦なり」という、その苦の真理に目覚めることこそ、宗教への第一歩ではないでしょうか。しかし、所詮、第一歩はあくまで第一歩です。それは決して宗教の結論ではないからです。宗教の全部ではないからです。それは宗教への第一歩であるばかりではありません。苦の認識こそ、ほんとうの人生に目覚める第一歩なのです。すなわち「苦」という自覚が機縁になって、ここにはじ めてしっかりした地上の生活がうちたてられてゆくのです。したがって「苦の自覚」をもたない人は、人生の見方が浅薄です。皮相的です。「最も苦しんだ人のみ、人の子を教える資格がある」というのは、それです。お坊っちゃん育ちは、とかく何事を見るにつけ、するにつけ、みんな浅薄です。あさほかです。子供を育てる場合でも、このこつが必要です。「かわいい子には旅させよ」とは、たしかに味わうべきことばです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア