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今回から背番7に移ります
ざっと見てみたんだけど この背番号は長く着けた人もいるし 移籍がらみの大物も多いの 「6」は内野手が多かったけど「7」はポジションにはあまりこだわってない番号ね だって最初がピッチャーよ
まずは球団創成期からみていくね
村田重治投手
初代背番号7は村田重治。東京京橋商業の出身で東京市役所職員だったが、野球選手としての村田を高く評価していた当時の法大監督藤田信夫が若林忠志に 推薦したことで大阪タイガースに入団した。
タイガースでは昭和11(1936)年秋にたった1試合4イニング投げただけである。0勝0敗で防御率2 .
25というのがタイガースでの全成績。
その後昭和12(1937)年は大東京軍~ライオンと移籍し、この年限りで辞めている。2年通算でも6試合、0勝1敗18回2 /
3で自責点10、防御率は4 .
74だった。
広田修三 捕手
村田の次に背番号7を着けたのは広田修三。広島県の松本商業(現瀬戸内高校)の出身で、広島専売局を経て昭和11(1936)年に名古屋金鯱軍創設に参加したが、ほとんど出番がないことを不服としてすぐに移籍を希望。同年半ばに石本監督が引っ張って大阪タイガースに移籍する。タイガースにとって移籍入団第1号の選手だ。
昭和12(1937)年春から試合に出ているが、金鯱軍にいた時より出場数は減った。昭和14(1939)年までタイガースに在籍した3年間の通算で56試合102打数15安打10打点1本塁打、打率は . 147という寂しい記録しか残せなかった。強肩の捕手だったが打撃に見るべきものがなかったようだ。
昭和15(1940)年にライオン(のち朝日軍)移籍し、5年間プレーしたが昭和19(1944)年オフに引退した。
松尾五郎 外野手
松尾は佐賀商業を卒業したのち満洲にわたり、大連実業団に入って松木謙二郎と同僚となる。その縁があって昭和15(1940)年に松木の誘いで大阪タイガースに入団し背番号7を着けることになった。
昭和17(1942)年まで3年間プレーしたが、通算133試合382打数87安打41打点で本塁打は0。打率 . 223という成績だった。
3年目に最も多い58試合に出ており安打・打点ともに自己最多、盗塁数も増え、まだこれからだったが昭和18(1943)年に軍へ召集され、復員してもプロ野球には戻らなかった。
戦後は、地元の杵島炭鉱に入り、昭和27(1952)年と昭和28(1953)年の都市対抗野球に出場している。
まとめ
まとめるといってもこれはどうしようもないなあ 一生懸命写真も探してみたけどほとんど残ってないし
この時期はプロ野球そのものが始まったばかりで 手探りしてたんじゃない? 食べていけない人もいたかも すぐやめたり1年で移籍したりと落ち着きがないようだけど仕方なかったとおもう
そこへ戦争という邪魔が入ったのも痛かったんだよね プロ野球が創設されたのが昭和11年だから 次の年には中国での戦争が始まったし
タイガースの3選手も知らない人ばかりだけど ちゃんと歴史の記録にとどめてあげないとかわいそうね
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