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背番号17(その5)
背番号17の第5回目です
前回紹介した3人の選手のうちドラフト1位の2人は怪我で泣いてるし もう一人は「二軍のエース」で終わっちゃってるよね
でも「17」の暗黒時代はまだまだ続くんだよ 今回の最初に登場する選手もまたまたドラフト1位なんだけど まったく残念な結果に終わってる 暗い「事件」もあったのよ
2人目に出てくる人は西武からのトレードで来た選手ですが プロ入りはドラフト1位だった投手よ!
ドラ1にこの番号着けさせちゃいけないんじゃないかっておもえてくるわ
山村宏樹 投手
山梨県敷島町の出身で高校は甲府工業に進む。2年生の夏に甲子園に出場しすでにエースで4番という中心選手だった。1回戦で完投勝ち、2回戦敗退。3年次は県予選ベスト8で敗退している。
高校生の投手としては、ストレートの伸び、変化球のキレともに高レベルで「江川2世」と評判になり、1994(平成6)年のドラフト会議でタイガースに1位指名されて入団している。背番号は「17」。

1年目の1995(平成7)年はファームでの12試合に登板して0勝2敗、防御率6 .
49で、もっぱら体力づくりに専念している。
1996(平成8)年も一軍に上がることはなく、ウェスタンで3試合投げただけ。1勝0敗で防御率は1 . 13。
1997(平成9)年になるとファームでは7勝7敗、防御率も3 . 12と力を出し始め、6月には初めて一軍に呼ばれ中継ぎで5試合に投げた。しかしすぐにファームに戻されている。一軍では0勝0敗で防御率は4 . 82だった。
1998(平成10)年は一軍で10試合に登板し先発も5試合経験する。9月17日には広島戦でプロ入り初勝利も飾った。
そんなとき「17」にまつわる暗雲が山村にも覆いかぶさってくる。この年から自律神経失調症を発症して心身のバランスに変調を来たし、まともに野球ができるような状態ではなくなってしまった。
当時のタイガースでは(あえて実名で書くが)中込伸によるチームメイトへの嫌がらせが横行していると噂されていた。真相は当人たち以外には分からない。山村は「後頭部踏みつけ事件」もう一人中谷仁の「携帯眼球直撃事件」という報道があったのは事実である。しかし中込が故意に起こした事件なのかどうかや、山村のケースではそもそも中込がやったのかどうかも霧の中だ。
今までの「17」にまつわる経緯やこの心身の失調を気にしてか山村は1999(平成11)年に背番号「17」を返上して「21」に変えている。「17」の黒歴史に新たな1ページが加わってしまったと言えるかもしれない。

しかし背番号を変えたくらいで気分が晴れることはなく、ファームですら投げられないほどになってしまい、オフに戦力外とみなされて自由契約選手となる。タイガースでは5年間で1勝を挙げたのみに終わり、事実上のクビだった。
この状況に救いの手を差し伸べたのが近鉄の一軍監督に就任したばかりの梨田昌孝だった。直前まで近鉄の二軍監督に就いており、ウェスタンで山村の投球を間近に見ていたため「潜在能力は持っているから環境が変われば再生できるはず」と山村を獲得している。
2000(平成12)年、近鉄に移った山村は27試合(先発24)に投げて6勝9敗、翌2001(平成13)年は23試合(先発16)で7勝6敗とローテーションの一角でそれなりに結果を残すことができた。
2002(平成14)年から2004(平成16)年までの3年間は1勝しかできず厳しい状況になるが、2004年の近鉄球団消滅による分配ドラフトで楽天に移籍が決まるとまた復活する。
2005(平成17)年は16試合(先発11)で2勝7敗だったが、2006(平成18)年には30試合(先発22)に投げて7勝10敗と頑張りを見せている。
その後はブルペンに配置されて2012(平成24)年まで18年に及ぶプロ野 球生活を全うした。引退セレモニーではチームメイトに胴上げされている。
通算成績は225試合(先発90)31勝44敗2セーブ20ホールド330奪三振、671回1 / 3で自責点が374、防御率5 . 01だった。
なお、チーム内の嫌がらせ事件については、文春オンラインの記事(
「ドラ1
クラッシャー」中込伸は中谷仁の左目になぜ“
至近距離から”
携帯電話を投げたのか…
元エースが語り始めた“24
年前の真相” |
文春オンライン (bunshun.jp)
)が詳しいので参照してほしいが、これも真相かどうかは確かめようがない。
杉山賢人 投手
1999(平成11)年に山村が返上した「17」を引き継いだのは、トレードで西武ライオンズから移籍してきたサウスポー、杉山賢人である。
静岡県沼津市出身で沼津学園高校から専修大学へと進んでいるが、いずれも主力投手という存在ではなかった。大学通算成績も43試合で4勝8敗、防御率3 . 65と全く目立っていない。
飛躍するのは社会人東芝に入ってからだ。1991(平成3)年の都市対抗で3勝して優勝に貢献し「若獅子賞」を受賞。
1992(平成4)年にはバルセロナ五輪の代表に入り銅メダルを獲得、日本選手権でも2勝して優勝している。これらの実績がみとめられ、同年のドラフト会議で西武からの1位指名を受けてプロ入りした。
173センチと小柄だがキレがあり、1年目はリーグ最多の54試合に登板し50試合がリリーフ。7勝2敗5セーブで防御率2 .80
の成績を上げて最優秀新人に選ばれている。74回を投げて82三振を奪っており、三振奪取率が非常に高いのが特徴だった。
ところが1年目の54試合74
㌄
がピークで、年々数字が下がっていく。1998(平成10)年は44試合に投げながら投球回数は18回であり、ワンポイントの使われ方がほとんどになっていた。
1999(平成11)年、シーズン途中の6月7日に投手陣の手薄なタイガースへ
平塚克洋との1対1のトレードで
移籍してくる。タイガースでは16試合(先発9)に登板して2勝4敗だったが、防御率は5.08とよく打たれた印象だった。
2000(平成12)年は開幕から一軍昇格の無いまま、5月24日に吉田剛・西川慎一との交換で大阪近鉄バファローズへ移籍することになる。近鉄では27試合にすべてリリーフ登板し0勝1敗。
翌2001(平成13)年4月3日には横浜ベイスターズへトレードされ、32試合に投げたが0勝1敗で、シーズン終了後に戦力外。トライアウトも受けたがどこからも話がなく引退している。
通算333試合17勝13敗17セーブ、防御率は3.91だった。その中で317回1 / 3で295個の三振奪取は立派な記録だろう。
吉田 剛(よしだたかし) 内野手
2000(平成11)年に杉山賢人とのトレードで近鉄から移籍してきたのが吉田剛である。
茨城県取手市出身で、県立取手二高時代には2年のときに捕手として1983(昭和58)年の選抜大会に出場しているが1回戦敗退。
翌1984(昭和59)年の選抜では遊撃手としてベスト8、そして同年の夏は決勝に進み、桑田・清原のいた PL
学園と当たっている。吉田は桑田からレフトへホームランを打つなどチームに初優勝をもたらした。
1984年のドラフト会議では、2位で近鉄と西武が競合し、抽選に勝った近鉄に入団する。
近鉄では2000(平成12)年の途中まで、16年間在籍するがレギュラーと呼べる100試合以上出場したのは3シーズンしかない。これはセカンド、サード、ショートが守れるユーティリティさが仇になった可能性もある。
杉山の項で書いたとおり2000年5月に交換トレードでタイガースに移籍し、ショートを守って65試合に出ている。背番号は交換相手の杉山からスライドした「17」を着け、成績は149打数36安打13打点2本塁打で打率 .
242だった。
7月19日の甲子園での巨人戦では桑田からサヨナラヒットを打っている。この時は清原がファーストを守っており、お立ち台で16年前の甲子園決勝を思い出して感無量になっていたのが思い出深い。タイガースにおける唯一のヒーローインタビューだった。
2001(平成13)年は藤本や沖原の台頭で1度も一軍からお呼びがかからないままシーズンを終え、戦力外となって引退した。
現役16年間の通算成績は1012試合1966打数632安打166打点18本塁打125盗塁、打率 .
243である。
まとめ
今回は何と言っていいのか冴えない3人になっちゃいました
山村さんは入団した当初からタイガースという球団の空気になじめなかったようなのね 素質はあったのに発揮しないまま出て行くことになったのは残念よね
杉山さんは新人王にもなったけど1年目が一番良くてだんだん成績が落ちていったところでタイガースに来たわけ 活躍のできる状態じゃなかったんじゃないの?
吉田さんも成績が落ち切ったところでの移籍 久慈さんを放出したあと穴が開いてしまった遊撃手の補強だったんだけどタイガースで実働したのは1年だけよ 本当に獲得しなければならない選手だったか疑問だわ
「17」は未だ浮上せずね
17の6に続く

タイガース背番号史 42-9 2026.07.30
タイガース背番号史 42-8 2026.07.28
タイガース背番号史 42-6 2026.07.24 コメント(2)