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背番号28(その6)
背番号28の第6回目です
江夏さんのあとを受けた長谷川さんや中田良弘さんがあまりパッとしなかったのもあって背番号「28」」を日本人選手や投手につけにくくなったのかな?
中田さんのあとはなぜか外国人野手に与えられたんだよ はて誰でしょうね?
その外国人選手も期待に応えられず、さらに入れ替わりで入団する外国人野手へと受け継がれるのよ 誰だかわかる?
そしてそのあともキャッチャーが着けてるのよね 江夏さんのイメージから離れてしまって ちょっと「28」が迷走した時期って感じがするわ エース級の投手が着けるはずが価値を落としてしまったのよ
グレン・デービス 内野手
フロリダ州ジャクソンビル出身。あまり境遇に恵まれなかった少年時代はウィキペディアに譲るが、ユニバーサル・クリスチャン高校時代は投打二刀流で注目される選手で、1979(昭和54)年のドラフトではボルチモア・オリオールズから投手として指名されている。
しかし、野手としてやっていきたいとの想いからプロ入りを拒否してジョージア大学に進むが、1年でマナティー短大に編入し1981(昭和56)年のドラフトでヒューストン・アストロズに指名されて入団している。
アストロズには7年間在籍しており、1年目こそ2本だったが、2年目の20本塁打を皮切りに、31本、27本、30本、34本、22本と中軸打者として大きく貢献している。
1991(平成3)年、トレードにより高校時代に指名を拒否したボルチモア・オリオールズに移籍するが、1年目が49試合で10本、2年目は106試合に出たが13本、3年目には30試合で1本と期待に応えることができなかったため居場所を失う。
1994(平成6)年はカンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約して3Aオハマでプレーし、シーズン27本塁打97打点の数字を挙げたがメジャー昇格は無かった。
しかしながらメジャー通算190本塁打の実績は捨てがたく、1994(平成6)年11月、阪神タイガースとの契約が成立する。推定年俸は当時のレートで1億5000万円というから、この右打ちの強打者に対する期待のほどが判る。背番号は「28」を着けることになった。
1年目の1995(平成7)年、オマリーが抜けて主砲不在のタイガースの救世主になるか注目が集まる中、開幕戦では4番サードで出場しグレンはいきなり来日初本塁打を放ったが、打率は2割5分前後で確実性がなくチームを浮上させるほどの力にはなっていない。
タイガースはオールスター前に8連敗を記録するなど最下位争いが続き、前半戦終了時点で中村勝広監督が休養、後半戦は藤田二軍監督が代行を務めることになる。亀山が負傷離脱、新庄もケガもあったがそれ以上に藤田監督とそりが合わず干されてしまい、戦力はガタガタになってしまった。
グレンは120試合で453打数116安打77打点23本塁打、打率 . 256という助っ人としては微妙な数字でシーズンを終えたが、ホームラン23本はチーム最多だったため現状維持での残留が決まる。
ところが1996(平成8)年、春季キャンプ中から「練習態度が悪い」と藤田監督に指摘され開幕戦をベンチで迎えたグレンは、「起用法が気に入らない」という理由で監督と対立するようになる。
藤田監督は何かとこういうトラブルがあったが、結局グレンは背筋痛も発症して満足にプレーに集中できず、33試合114打数27安打18打点5本塁打、打率 . 236と低迷したまま6月11日に解雇されてしまう。(同日に同僚のクールボーも解雇に至っているし、9月には藤田監督も解任されている)
2年間の数字は153試合567打数143安打95打点28本塁打、打率が . 252だったが、好い指導者がいればもっと数字は残せたのでは?とみる人は多かった。球団側の内紛や暗黒時代の低迷期だったことがプレーにいい影響を与えなかったと言えるかもしれない。
クレイグ・ワーシントン 内野手
カリフォルニア州ロサンゼルス出身。表記のとおり「ワシントン」ではなく「ワーシントン」である。
1985(昭和60)年、二次ドラフト1位でボルチモア・オリオールズに入団するが、メジャーに上がったのは1988(昭和63)年だった。
昇格2年目の1989(平成元)年には145試合497打数123安打70打点15本塁打、打率 . 247という成績を挙げてレギュラー三塁手になる。1990(平成2)年も133試合に出ているが96安打44打点8本塁打と数字は下がった。
翌1991(平成3)年には出場が31試合に激減し、オフにサンディエゴパドレスにトレード。さらに次シーズン開幕前にクリーブランド・インディアンズに移籍している。
その後も1993(平成5)年から1995(平成7)年の間に、カブス、レッズ、フィリーズ、レンジャースと移籍を繰り返しており、メジャーでは毎年20試合前後の出場しかできなかった。
レンジャース在籍中の1996年、グレンとクールボーを解雇したタイガースから声がかかり、入れ替わる形で入団する。当時グレンの代わりがクレイグ、クールボーの代わりがケビン・マースという2人同時入れ替えで、「打ってクレイグ!頼んマース」のキャッチフレーズで温かく?迎えられた。
来日と同時に3番に入って22試合に出場、75打数20安打12打点3本塁打で打率 . 267ながら、選球眼がよく12四球を選んで出塁率は . 380だったのでそれなりに貢献はした。
しかし8月に入って右ふくらはぎ肉離れで走行不能となり、9月21日に解雇されている。
プレイヤーとしてはまとまっていたため、メジャーで移籍を繰り返しているくらいなら1992年ころにタイガースに来ていれば、それなりの成績が残せたのではないかと思わせた選手である。
定詰 雅彦 捕手
広島県山県郡安芸太田町出身。強肩の捕手として広陵高校3年の春に選抜大会に出場したが1回戦敗退に終わっている。2学年下に金本知憲がいた。高校を卒業後は日立造船有明に入部するが2年で廃部となり新日鉄広畑に移る。
1990(平成2)年には都市対抗野球で準優勝、社会人ベストナイン捕手となり、ワールドカップ日本代表にも選ばれた。同年のドラフト会議でロッテ・オリオンズから2位指名を受けて入団している。
オリオンズには6年間在籍しているが、100試合以上出場できたのは1994(平成6)年と1995(平成7)年だけで、2番手・3番手の捕手に甘んじている。ただし伊良部秀樹との相性が良かったため専属捕手のような存在ではあった。
ロッテ時代の6年間のうち5シーズンが打率1割台で、バッティングに進歩がみられなかったことでレギュラー捕手にはなれなかった。
1996(平成8)年のオフ、鮎川義文との交換トレードでタイガースへ入団、解雇されたグレンが着けていた「28」を引き継ぐことになる。
サングラスがトレードマーク
移籍1年目の1997(平成9)年は吉田監督が守備固め捕手として使っており、62試合の出場があった。
ところが1998(平成10)年に野村監督に代わると、オープン戦での凡ミスから酷評されてチーム構想から外れ、出番は12試合に減ってしまう。そのオフには背番号「28」をルーキーの福原忍に譲り、自らは「45」を着けた。
しかし1999(平成11)年も出場は6試合、2000(平成12)年はついに一軍出場0に終わり、オフに戦力外を通告されて現役を退いた。
通算成績は511試合1027打数192安打88打点14本塁打、打率 .
187だった。
まとめ
今回の3名は江夏さんの作った「背番号28の栄光」に水を差してしまったかなあ
両外国人選手は全くダメと言うわけではなかったようなのね 野球人生の中で「時」に恵まれなかった感じがするよ そもそもタイガース自体がすさんでいた時代だしね
定詰さんは野村監督に干されちゃった 矢野さんが移籍して来たってことも大きな壁だったし
ということですっかり値打ちが下がった「28」だけど 次回は福原さんが盛り返すのよ なにしろ18年間も着けたんだから!
背番号28―7につづく

これ年末に買いました 前のが壊れてしまったのでタイガース背番号史 35-7 2025年11月17日
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