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背番号34(その5)
背番号34の第5回目です 今回も3名の選手をご紹介するよ
1人目は高校野球でも活躍した沖縄県出身のサウスポーで8年間着けてるね 2人目は2代目の地元に近い西濃運輸から入団したこれも投手 最後はフリーエージェントで来たあの細身のサウスポー ファンの皆さんならお分かりですよね
3人とも投手で2人が左投げ その背番号が「34」というのは金田さんを意識してのことなんだなって想像してます では少し長くなるけど順番に追っていこうね
仲田 幸司 投手
出生地はアメリカ合衆国ネバダ州で、アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれたが、国籍は日本。空軍将校だった父が沖縄米軍基地に配属されることになって移住した。
米軍基地内のアメリカンスクールから那覇市内の小学校に転向し、2年生の時に友達に誘われ野球を始めた。中学3年時にこれも友達の誘いで興南高校の野球部のテストを受けたところ素質が認められて進学することになる。
高校では3季で甲子園に出場し、1983(昭和58)年夏の選手権では長崎商業戦で17三振を奪うなど三振が取れるサウスポーとして注目された。
ところがコントロールはアバウトで投げてみないとわからない。全く制球が定まらないと思えば、次の試合では突然好投するなど監督泣かせの投手だった。
ただ持っているポテンシャルには期待感があり、複数のプロ球団が上位にリストアップする有望株ととらえていた。1983年秋のドラフト会議では3巡目で阪神と南海ホークスが指名し、抽選で阪神が交渉権を得て入団する。最初にもらった背番号は「48」だった。
背番号48を着けていた当時の仲田投手
入団1年目の1984(昭和59)年は1年間ファームに置かれる。プロ初勝利は2年目の1985(昭和60)年で、5月12日のヤクルト戦での先発。この試合ではフォアボール4個を出したものの、被安打3、8奪三振での完封勝利だから驚く。
仲田はこの年に3勝(4敗)を挙げてリーグ優勝にも貢献したわけだが、制球力の面で信頼できなかったため、短期決戦の日本シリーズでの登板はなかった。
1986(昭和61)年が7勝12敗、1987(昭和62)年は8勝11敗と勝ち星は伸びていくが、負け越しが続いている。毎年投球イニング数に近い三振を取る割には勝ち星に結び付いていないのは、制球力の無さが大きな要因だった。

1987年に宮本四郎が引退したため「34」が空き、仲田は1988(昭和63)年に引き継いでいるが、その後も1991(平成3)年まで一度も勝ち越したことがなく、二けた勝利もできない状態が続いている。
ところがプロ9年目の1992(平成4)年、阪神は最後までヤクルトと優勝を争ったが、この年のチーム成績は突如覚醒した仲田の好投によるところが大きい。
なにしろ35試合(先発30)に登板して14勝12敗1セーブ、キャリア唯一の二けた勝利。投球回が217回1 /
3でこれはリーグ最多。194奪三振もリーグトップでタイトルを取っている。その一方で四死球は激減という信じられない変身だった。
これで不動のエースになったかとファンも大喜びしたが、翌1993(平成5)年には3勝12敗と急降下し、もとのノーコンに戻ってしまう。
1994(平成6)年は7勝6敗とやや持ち直しているが、1995(平成7)年はわずか9試合しか登板はなく、0勝2敗に終わっている。
数字から言えば戦力外でもおかしくないが、何を思ったか仲田は1995年オフにFA宣言する。この宣言の会見の席上で仲田は涙ながらに語った。
「僕はタイガースに育ててもらったので、タイガースが大好き。できれば、ずっとタテジマのユニホームを着ていたい。でも…」
仲田によれば球団の評価と対応は次の様なものだったそうだ。
(1)FA宣言しても獲得に乗り出す球団はない。
(2)トレードも考えていない。
(3)宣言して残留を決めても来季年俸4000万円(5000万円から1000万円ダウン)の変更はない。
「僕の評価や、どこも取ってくれないという話をして、『君のFA権は紙切れみたいなもんや』と言われたんです。『紙切れ』って」
球団からここまで冷たくされて泣くしかなかった仲田だったが、1991年(平成3)年の秋季キャンプで臨時コーチとして指導を受けた廣岡達朗がGMを務める千葉ロッテ・マリーンズが獲得に乗り出してくれたため、セ・リーグ生え抜き日本人選手のパ・リーグへのFA移籍第一号となった。
ロッテには2年間在籍したが、1996(平成8)年が9試合0勝1敗、1997(平成9)年にはサイドハンドにフォーム改造してみたが10試合0勝0敗と振るわず、1勝も挙げることができないまま戦力外を通告される。
現役続行を望み、同時に戦力外となった遠山昭治とともに野村新監督が就任した阪神の入団テストを受けたが、遠山は採用、仲田は不採用となって引退した。
プロ通算成績は335試合(先発198)に登板、57勝99敗4セーブ、1335回を投げて642四球、1158奪三振、自責点602、防御率4 .
06だった。
中ノ瀬 幸泰 投手
岐阜県高山市出身。高校は地元の高山工業高校。甲子園出場の経験はないが右投げ本格派で三振を取る能力が高く、県内では好投手の評価を受けている。高校卒業後は地元岐阜県の社会人・西濃運輸に入社した。
社会人4年目の1994(平成6)年、第65回都市対抗野球本戦で2試合連続完封を記録するなど準優勝へ貢献し、久慈賞を受賞して一躍プロ注目の投手となる。タイプとしてはヤクルトの小川泰弘投手のような投手だ。
翌1995(平成7)年のドラフト会議において2位逆指名でタイガースに入団。背番号はFAで移籍した仲田の着けていた「34」を引き継ぐことになった。
ルーキーイヤーの1996(平成8)年は開幕一軍に抜擢されるもののプロの壁は厚く、開幕戦で打ち込まれるなど跳ね返されてファームへ。

2年目の1997(平成9)年には監督が吉田義男に代わったが、中ノ瀬の一軍での登板機会はなかった。
1998(平成10
)年だったと記憶しているが、中ノ瀬にとって致命的な登板があった。筆者(先代)が観戦に行った試合で、フォアボール、連打で動揺してしまって「1つのアウトが取れない」というパニック状態になったときがあった。
どうしようもなくなって交代を願うかのようにベンチを見るが誰も来てくれない。そのまま晒し者のようにされて打ち込まれ、この時に完全に自信喪失してしまったと思う。
野村監督に代わった1999(平成11)年にはわずか1試合しか登板できず、オフに戦力外を通告される。現役続行を希望して西武ライオンズの入団テストに挑んだものの採用されず、プロ野球を去ることになった。
2000(平成12)年には西濃運輸に復帰して2004(平成16)年まで現役を続けた。
プロでの通算成績は14試合0勝2敗、22回を投げ14四球20奪三振、自責点17、防御率6 .
95に終わっている。
星野 伸之 投手
北海道旭川市出身。高校は道立旭川工業高校。選手を集めているわけでもない一般的な高校で、星野は1年生からエースになっているが甲子園出場など縁も無いまま3年間を過ごした。それでも3年時には北海道拓殖銀行野球部から内定をもらっている。その時点でプロへ進むことは考えていなかったと言う。
地方大会でのチーム成績とは関係なく、やはり左投手は貴重で、抜け目ないプロのスカウトは星野のチェックをしており、複数球団がマークする投手だった。そのなかでも阪急ブレーブスが熱心で、1983(昭和58)年のドラフト会議で5位指名してくれた。これで気持ちが動き、プロ入りを決意する。
後列の背番号「53」の選手が星野 まだ上田監督時代だった
星野本人は大学へ行ったつもりで入ったと言っているが、球団の評価は高く、高卒1年目の1985(昭和60)年から一軍で投げさせており、17試合(先発3)2勝2敗1セーブの数字を残した。
2年目の1986(昭和61)年には35試合(先発20)でローテーションの一角を任されて9勝8敗。規定投球回数もクリアし、153回で129三振を取るなど十分通用している。
3年目となった1987(昭和62)年から1997(平成9)年までは11年連続2桁勝利を挙げてエースに君臨する。1989(平成元)年と1996(平成8)年には勝率1位のタイトルを取るなど、内容的にも安定しており、「王子様」のニックネームが定着する。
1996年オフにはFAを宣言し、年俸1億2000万円の3年契約+再契約金3000万円でオリックスに残留している。
12度目の2桁勝利(11勝)を挙げた1999(平成11)年オフ、星野は2度目のFAを宣言する。前回の時も阪神への移籍の希望は持っていたなかで残留したが、2回目は野村監督の強い勧誘もあり、同じ関西で生活上も大きな変化がないことから入団を決断する。
しかし、パリーグの打者を翻弄してきたピッチングにも陰りが見え、待球してくるセリーグでは苦戦を強いられる。
タイガース1年目の2000(平成12)年は、開幕投手に抜擢され、シーズンでは21試合にすべて先発しローテーションの一角を担ったが、5勝10敗、防御率4 .
04と好い数字が残せない。
2001(平成13)年は10試合1勝2敗、防御率も4 .
60と悪化し、ほぼ戦力になれなかった。星野仙一が監督に就任した2002(平成14)年は8試合2勝1敗となってしまい、球団は来季契約を考えていたようだが、星野は自ら引退を決意した。
通算成績は427試合(先発384)176勝140敗2セーブ、2669回1 / 3で927四球、2041奪三振、自責点1079、防御率3 . 64という素晴らしい数字だ。
2006(平成18)年から2009(平成22)年まで4年間タイガースの二軍投手コーチ。その後2010(平成22)年から2017(平成28)年まで一軍・二軍で投手コーチや育成コーチを歴任した。
ストレートの最速記録がどんどん塗り替えられていく中で、これほど遅いストレートで勝ち星を積み上げ、2000奪三振も記録している稀有な存在はいない。完投が129試合あるのも平成時代の投手の中では突出して多い。
星野の持ち球は130キロに満たないようなストレート、70~90キロ程度の大きく緩いカーブ、120キロ前後のフォークの3種類しかなかったが、本人も試行錯誤しながらフォームを改良し続けた。
ギリギリまで身体でボールを隠す独特のフォーム
非常にテイクバックがコンパクトで、投げる直前まで打者から見えないフォームにたどり着き、そこから同じ腕の振りで3種類のボールを投げ分けて打者を翻弄している。コントロール自体はそれほど正確ではなかったが、それが反って打ちにくさになっていたかもしれない。
クイックも非常に速く、構え遅れた打者には大胆に真ん中へ投げてカウントを取るなど、強打者ほど星野独特の投球術に悩まされた。
清原和博、中村紀洋、タフィ・ローズ、鈴木一郎(チームメイトだったが)などが一様に「星野の球はすごく速く感じた」と証言している。初芝清(元ロッテ)などは具体的に「伊良部の158キロより速く見える」とまで語っている。
まとめ
仲田さんはタイガースファンの中ではかなり有名なんだよね 「トラボルタ」って愛称だった中田良弘さんが「ちゅん」 今回登場の仲田幸司さんはにんべんがあるため「ジンタ」と呼ばれてチーム内で区別されてたんだって
ボールは速くて三振が取れるんだけど 波が激しく「1年に1度凄いピッチングをする投手」と言う誉めてるのか貶してるのか微妙な評価をされてるよ
中ノ瀬投手は2代目と同じ県の出身で西濃運輸から入団してる 都市対抗準優勝で期待されてたけどプロの壁に跳ね返されたね 中ノ瀬さんが甲子園で晒し者になった試合は先代が現場で観戦してて「見てるのがつらかった」って・・・
星野さんは対戦した選手たちにも多くのプロ野球ファンにも謎の投手だわ 信じられない遅い球なのに「速く見える」というのよ スタンドから見てるファンには「なんて遅い球なの!」というふうにしか見えなかったのに こういう特殊なタイプの投手も「何十年に一人の投手」なんだろうね
先代はタイガースで200勝達成できるとおもってたみたい でも厳しいプロ野球にもいろんな生きる道があることを感じたって言ってる
背番号34-6につづく

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