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背番号41(その3)
2代目タイガース非公式サイトです
みなさんこんにちは 背番号41の第3回目です
前回と同様に ある程度年配世代でないとなじみが薄い選手が続くなあ 今回の3人が在籍したのは昭和50年代から平成の始めまでの期間だね
その間には昭和60年のリーグ優勝・日本一も含まれるんだけど今回の3名はほぼ縁のなかった人たち 資料なども少なくて存在感そのものがあまりないのよ
はたしてファンの記憶にどれくらい残ってるか? まずは本文でどんな選手だったか把握してみてね
渡辺 純志 内野手
山口県岩国市出身で高校は県立岩国高校。公立の普通科で野球の強豪校でもなく高校時代は全く無名。卒業後は社会人野球の東洋紡岩国に入社している。
ところがオイルショック後の不況でチームが解散。そこに声をかけ1976(昭和51)年のドラフト会議で5位指名したのがタイガースだった。
入団当時の監督は往年の名ショート吉田義男で、渡辺の守備力を評価しての指名だったようだ。背番号は「41」が与えられた。
渡辺は基本セカンド・サード・ショートが守れるユーティリティ性が高い選手だったが、入団したころのレギュラー陣はセカンドが中村勝広、サードが掛布雅之、ショートには藤田平がおり、簡単に割り込める好況ではなかった。
ルーキーイヤーは1977(昭和52)年、就任3年目の吉田監督はキャンプから若手内野陣の底上げのため自らノックバットを振るって指導している。
ルーキーの渡辺は伝説となった「恐怖の5メートルノック」も経験した。文字通りノッカーの吉田から5メートルほどの位置に守らされて遠慮なく打ってこられる。これは掛布も同様に受けており当時選手の間では恐怖だったという。
1年目は11試合の出場で終わったが、吉田の指導を受けて守備力は向上しており、後藤次男監督に代わった1978(昭和53)年は58試合で起用される。いるのかいないのか分からない目立たない選手だったことから、1年目に「けむり」というあだ名で呼ばれたが、2年目になって存在感が出てきたわけだ。
ところが1979(昭和54)年に田淵幸一がらみのトレードで真弓明信が移籍してくると、藤田平がファーストに回り、真弓がショートに入る。それでもセカンドの中村に衰えが見えてチャンスが来るかに見えた。
しかしついていないことに、1980(昭和55)年にはデーブ・ヒルトン、岡田彰布が加入してきてセカンドのポジションを埋めてしまったため、もう渡辺にチャンスはなくなった。
1981(昭和56)年は一軍公式戦に出場できないまま終わり、オフに現役を退いている。
通算成績は122試合168打数34安打9打点2本塁打、17四球44三振、打率 . 202だった。
月山 栄珠 捕手
千葉県柏市の出身。県立印旛高校(現:県立印旛明誠高校)に進学し投手から捕手に転向する。中学時代から地元では番長で知られ、練習も平気でさぼりがちだったが、印旛高校の蒲原監督が首根っこを押さえてでも練習に参加させ、本人も改心して精進した結果キャプテンにまで成長している。
3年時の1981(昭和56)年には選抜大会で甲子園の土を踏む。エースの佐藤文雄との強力なバッテリーで決勝戦まで勝ち進み、最後は吉村禎章がいたPL学園に9回逆転サヨナラで敗れたものの準優勝。月山は準決勝でホームランを打つなど強肩強打の捕手として高い評価を受けた。
夏は予選で敗退し、大学進学を考えていたところ、同年のドラフト会議でタイガースから3位で指名されたことでプロ入りを選択し、引退した渡辺純志の「41」を引きついでいる。ちなみに高校でバッテリーを組んだ投手の佐藤文雄もドラフト外でタイガースに同期入団した。
しかし高卒の捕手が簡単に一軍に上がれるはずもなく、ルーキーイヤーの1982(昭和57)、2年目の1983(昭和58)年はファームに置かれ鍛えられる。
1984(昭和59)年に初めて一軍に上がるがわずか6試合、3打席でノーヒットという成績に過ぎなかった。
1985(昭和60)年も8試合13打数2安打1打点5三振で終わっており、チームが日本一に沸く中で、月山は全途多難な状況にあった。
入団5年目の1986(昭和61)年1月、左肩鎖骨を折る大けがをしてしまう。 Wikipedia
の記事では「虎風荘の階段を踏み外した」との記載があり、異説として本人が「スキーで転倒した」と語ったとの記載がある。どれが真相かはわからない。いずれにしてもこの怪我が致命傷となり1年を棒に振る。
翌1987(昭和62)年には、フロントに籍を置く「練習生扱い」として在籍するが、復帰のめどが立たないまま同年7月に引退している。
プロ通算成績は14試合 16打数2安打1打点1死球5三振、打率 . 176。
吉川 弘幸 外野手
鹿児島県出身で高校は東大阪市にある太成高校(太成学院大学付属高校)。大きい大会などでの実績はなく、全国的な知名度はどうだったか分からないが、「 Yahoo 知恵袋」には次の様な記載があるので抜粋した。
「 大阪府下では№1の一番スイッチヒッターだ。武器は 100 ㍍を11秒3で走る俊足。打ったヒットの半数以上を二塁打、三塁打に変えてしまう。強い右のリストを生かすために高二からスイッチヒッターへ。常に4割以上のハイアベレージを残し、打撃力もかなりのセンスを秘めている。 」
1983(昭和58)年のドラフト会議でタイガースから5位指名を受けてプロ入り。最初の背番号は「58」に決まる。「41」は5年目から引退する1990(平成2)年までの3年間着けている。
1983年のドラフト会議でのタイガースは、1位が中西清起、2位が池田親房、3位が仲田幸司と上位は投手だった。この年のドラフトはかなり豊作で、他球団では巨人1位が水野雄仁、広島1位は川端順、ヤクルトは1位が高野光で2位に池山隆寛、西武の1位は渡辺久信で2位が辻発彦、中日は1位が藤王康晴で5位に山本昌弘がいた。
吉川は入団から4年間はファームに留め置かれているが、3年目の1986(昭和61)年にはウェスタンリーグの首位打者になるなど成績も伸びてきた。
5年目の1988(昭和63)年に背番号を「41」に変えると、初めて一軍に昇格。9試合に出場しているがほぼ代走で、バッターボックスには1打席しか立っていない。
翌1989(平成元)年には6試合、10打席で2安打、盗塁も決めた。10月にはスタメンに起用されたこともあった。
しかし一軍レベルでの力不足はどうしようもなく翌1990(平成2)年は出場機会も無いまま過ぎてオフに引退している。
15試合8打数2安打0打点、1盗塁3四球2三振、打率 .
250というのが一軍公式戦での通算記録である。
まとめ
背番号40番台というのは 何か一芸を持ってて 「うまく育ってくれたら面白い」という感じの選手に与えられてるように思うのね 渡辺さんは内野守備、2番目の月山さんは肩、3人目の吉川さんは足ということで それぞれ特徴を持ってたのよ
でも ある程度の総合力がないとやっぱり一軍ではなかなか使ってもらえないのが現実 今回の3人は限界を感じたらスッと引退してるように見えるわ
初めから三拍子そろったような選手はもう少し若い番号をもらうんだろうね その点今着けてる村上投手はどうなのかな 大学までで完成形になってた投手にもおもえるけど
ではこれで背番号「41」の3回目を終わります 次回4回目も3名にするけど、3名で4年間しか進まないのよ 1人目が2年 残る2名はそれぞれ1年しか着けてません さて誰でしょうね?
背番号41―4に続く

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