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内閣支持率が急落しているという。それはそうだろう。物価高、上がらぬ賃金、不安定な中東情勢と問題は山積みなのに、国民生活とも関係がなく、さして緊急とも思えない法案の制定を急ぐ理由がよくわからない。ただし、かといって、野党の支持率が上がるとも思えない。今、問題になっている副首都構想にしても、最初から大阪ありきと言う感じで、実際に大阪の経済界には待望論が強いという話も聞く。副首都であるということを錦の御旗にして、国の負担で北陸新幹線の駅ができる。副首都という名目で国の機関もできる。副首都の発展のための施策が行われる。格の高いポストも生まれるので官界だって大歓迎だろう。しかしこうしたものの費用は所詮は国の税金である。そうなると当然になぜ大阪に…と思う。大震災、火山噴火など、日本ではどこでも災害の危険がある。ただ、先の関東大震災をみても、関東全域が壊滅的被害というのは、さすがに考えにくい。いざという場合の首都機能を担う都市は必要であっても、それは大宮副都心、幕張副都心のような関東にある副都心ではまずいのだろうか。副都心構想にも東京の災害に備えるという視点もあったのではないか。※最近、聴かれなくなった言葉に「男は仕事、女は家庭という男女の役割分担の見直し」という言葉がある、言葉が消えたのは、そんな役割分担など過去のものになったからだろう。ところがそういう役割分担意識があったのはそんなに昔のことではない。一頃はお嬢様ブームと言うものもあって、若い女性は家事手伝いがかっこいいとされた時代もあった。フリーターが若者の自由な生き方と言われ、世は好景気を謳歌していたころだ。その頃よりは後の世代になるが、最近、婚活市場では、そうした花嫁修業を続けたまま、40代に入ったような女性もいるという。4070とか8050とかと言って中高年ニートが社会問題になっているが、こうした中には実は男性よりもはるかに多く女性が含まれているのではないか。親が死亡した後に生活に困窮するようになれば、彼女らもまた、そうした古い男女の役割分担意識の被害者なのかもしれない。ただし、そうした役割分担意識のあった時代は男女の就職時の差別も当然のように行われていた時代でもあったのだが。
2026年07月26日
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「父と子」を読了した。この小説に描かれている世代対立はロシア特有のものがあるが、社会が変動していくときに、急進的な若い世代と保守的な親世代の対立というのは歴史のあちこちで常に起きているものだろう。日本でいえば、文明開化期の封建的な親世代と開明的な子世代、終戦後の軍国主義に染まった親世代と民主的な子世代というように。「父と子」は日本でもよく読まれたと思うのだが、最近はどうもこうした古典は影が薄くなっているようにも見える。急進的なニヒリストのバザーロフと彼に心酔するアルカージーという人間関係は、全共闘運動でもみかけたことがあるし、それに似たものは青年主体の様々な社会変革運動でもきっとあるものだろう。そして、アルカージーが結婚という人生の新たな局面にたったときには、この関係は終わりを告げる。「父と子」は世代の対立を描いた小説ということがよくいわれるが、全体を読むと親子の情愛を描いているところが印象に残る。もちろん親が子を思うほどには子は親を思わないので、親の子に対する情愛である。中学生の時に読んだ際には気づかなかったのだが、特にバザーロフの父の優秀な一人息子に対する恐れの混じった愛と、その息子が死んだ後の悲嘆の場面が印象的である。そして臨終の際の宗教の問題もある。無神論の子に対して、親は宗教的儀式を望む。世代効果だけでなく、加齢効果もあるのだが、親世代の方が子世代よりも信心深いものである。同じような場面は「ある愛の詩」にもあったと思う。バザーロフはロシア文学史上初めて現れた雑階級出身の人物とされる。たしかに父は貴族出身でないが、軍医にまでなった後は貴族の娘と結婚し、領地を持っている。もともとの貴族ではないので、農民には親近感を持たれているが、それでも旦那であることには変わりない。本格的に地主以外の階級の主人公がでてくるのはもっと後になってからだろう。登場人物の誰もがどこかにいそうであり、そして誰もが小説の中で生きている。古典的名作文学にはこうしたものが多いし、今は読まれなくなっているのが残念に思う。
2026年07月24日
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ある世代は記憶しているかもしれないが、その昔、旺文社文庫というのがあった。若草色のつやつやした表紙も感じよく、ほどよく挿絵の入っているのも気に入っていた。それも外国文学では原典にあった挿絵というので、イメージ想像の助けには十分であった。中学生の頃は学校の図書室でよくこの旺文社文庫を借りて読んだ。日本や外国の古典的作品が多かったのだが、今はそうした古典と言うのはあまり読まれないのだろうか。書店でもあまり見かけないし、世界文学全集などというものも発行されなくなって久しい。中学生の頃はよくそうした世界文学なるものを読んでいたのだが、だいたいは自分が読んだというために読んでいたように思う。要するにあまり物語を理解していたわけでも、面白いとおもっていたわけもなかったように思う。「父と子」はその旺文社文庫で中学三年の夏休みに読んだ。十九世紀のロシアを舞台に世代の対立という永遠のテーマを描いたと小説というのに惹かれ、期末テストが終わったらさっそく借りてワクワクしながら読んだ。読んでいるときは、やはりあまり面白いとも思わず、読み終わったときはただ読み終わったというだけの感想しかなかった。ただ、小説のディテールはところどころ妙に印象に残っていたので、いつかは読み返したいと思っていたのだが、まさかこんなに間があくとは…。ただ読みながら中学三年の夏の記憶がよみがえってくるので読書とは不思議なものだ。今にしてみると、なぜ、面白くないと思ったのかがわかる。主人公は「女性及び女性美の愛好家」とあるが、それってただの面食いだろうし、ヒロインに惹かれたのも美人というのが大きな要素だ。今読んでみると、この真意は唯物的で科学しか信じない主人公が詩的なもの、芸術的なものを否定している故だろう。また、最初に読んだときには登場人物の行動がわかりにくかった。ロシア文学には必ず高い教養と自尊心故に社会になじめない余計者という人物がでてくるという。日本で言うと高等遊民が近く、登場人物の一人であるパーヴェルがそれにあたるのだが、他の登場人物も何をしているのかよくわからない。主な登場人物はそれぞれに領地を持っており、それだけで暮らせるので、社交を中心に物語が進行するので、中学生の頃はわかりにくかったのだろう。特に仕事をするわけでもなく、友人の家に長逗留、美女の誉れ高い未亡人の家に長逗留で、その間の恋愛や反目で物語が進む。世代の対立がテーマと言うが、これは19世紀ロシアにおける特殊事情がある。西欧では着々と近代文明が発展している。ロシアでは貴族という地主階級と農民との完全格差社会になっている。貴族は農地管理以外は社交が生活の中心であるのに対し、農民は無知なままにおかれている。まさに生産手段を所有しているか否かで階級が決まる社会であり、貴族と農民は別の民族といわれるくらいに酷い断絶があった。そうした現実の中から、西欧主義、虚無主義など様々な思想が若い世代に生まれてくる。そういう意味での世代対立である。主人公のバザーロフは医師の卵で自然科学者であり、何物も尊敬しない虚無主義者として描かれている。自然科学をつきつめていけば、身分制的権威も宗教的権威も根拠をなくす。19世紀のロシアはそうした社会変革につながる思想やそれによる動きが徐々に醸成されていった時期なのだろうし、そういう時代の若者とその父世代の対立を描いた小説として興味深い。
2026年07月23日
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ワールドカップについては、国民性の展覧会という言葉があるらしい。優勝国が歓喜にわくのは当然にしても、そうでない場合、暴動が起きる国、監督を糾弾する国、国民こぞって大歓迎する国と反応は様々だ。まあ、監督もそうなのだが、選手だって常人には考えられないほどの厳しい練習を積んできていて、精いっぱいやってきたのだから、あまり責めるのもなんだかなあと思う。今度ばかりは某アスリートの名言のメダルメダルというのならあんた達がやってみればと言った気持ちも分かる気がする。必死な選手達の試合をビール片手に楽しんでいたのだからよいではないか。敗退したからこそ、今度こそという楽しみがあるというものだ…とスポーツ音痴でスポーツに興味のない私などは思うのだ。あと、FIFAの会長はワールドカップの出場国をさらに倍増することを考えているという。今回でも、ワールドカップで初めてその存在を知った小国があったが、これを増やすとなると主な国はたいてい出られることになる。巨大な市場になりうる中国をどうしてもだしたいらしく、これも、どこまで本気かわからないが、米中共催という提案も行ったらしい。選手のユニフォームなど出場国の多くの人が購入するし、中国出場ともなれば、そうしたグッズを通じてのFIFAの利益は膨大になるだろう。そして放映権料もある。だから中国を出場させたいというのもわからないでもない。そうして考えていくと、将来的には試合の時間も中国のゴールデンタイムに合わせるなんていう時代がくるのかもしれない。
2026年07月22日
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東京でもそろそろ「梅雨明け宣言」がでそうなのだが、この「宣言」という言葉がいつも気になっている。宣言と言うのは関白宣言とか平和都市宣言とかいうように、自分の意思を表明するものだ。気象庁が別に梅雨と言う気象現象そのものを左右しているわけでもないのに。皇室典範が改正された。他に問題山積のこの時期になぜ典範改正を急ぐのかよくわからない。世論調査では女性天皇を認めるという意見が多いようなのだが、改正は皇位を男性に限るものになっている。世論調査結果に表れている国民の意見との関係はどうなるのだろうか。もちろん、この世論調査の聞き方は抽象的に女性天皇について聞いているわけで、特定の人物を想定したというものではないのだが。今やる必要がないと言えば国旗損壊罪も副首都と同様だ。国旗損壊罪は成立したが副首都はこれからだ。副首都は複数指定が可能であるので、東京から距離のある核都市が指定され、新幹線延伸などの錦の御旗になっていくのだろう。懸案となっている北陸新幹線の大阪接続や東北新幹線の札幌までの接続である。今までの政令市の上に副首都という格上の都市ができる感覚なのだが、無駄な出費のないことを願いたい。集中しつつ縮小というのは、これから日本のあちこちでみられる現象で、東京でも都心には高層マンションがどんどん建設される一方で、昔からの住宅街では櫛の歯の抜けるように空き地がでてきている。スポーツに興味はないが、ワールドカップというお祭りが終わるのは寂しい。今年の流行語大賞候補は「なんでやねん」もあるが、なんといっても「バイキングロー」ではないか。ユーチューブでは、大勢の市民が一体となって応援している光景がでてくるが、一体となった応援はうらやましい。さっそく甲子園の応援でも、とりいれるところがでてきているという。
2026年07月19日
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韓国ドラマ「明日も出勤」を見ている。工業大学を卒業して7年目の女性が主人公で、その上司との恋愛がラブコメタッチで描かれている。ともに新製品開発を行うという設定なのだが、あまりその大変さは描かれておらず、ラブコメが中心なのは娯楽作なので仕方ないだろう。ただ舞台が人もうらやむ大手企業で、開発するのがAI家電というのが興味深い。AIというとパソコンやスマホにある機能で、質問するとなんでも答えてくれるものしか知らないし、これも、そつないけれども役にたたない回答が多く、最近ではあまり利用していない。これが主人公らが開発しようとしているAI家電というのは、常時電源の入っている冷蔵庫に接続し、家の家電を管理するだけではなく、冷蔵庫の食材も把握し、賞味期限の近づいたものを教える機能もあるという。これを発展させれば、それぞれの家庭の状況や家族の好みを把握した上で、その日の季節や気候にあったレシピを提案する機能もできるだろう。ドラマはSFではないので、現実にこうした家電の開発もありうるということなのかもしれない。AIランキングというものがあり、この分野では米中がしのぎを削っており、アジアでも韓国やUAEが上位にきているという。かつてはアジアきっての先進国日本というイメージがあったのだが、AIの分野ではそうもいえなくなっているのではないか。AI家電の開発もSFのような話なのだが、韓国ではドラマの背景になるくらいに、ありそうな話になっているのだろうか。知らんけど…。そういえば、途中リタイヤした韓国ドラマでも人気俳優の青年がAIを話し相手、相談相手にしている場面があった。スマホやパソコンでAIを相談相手にするというのはあるのだが、実際に言葉をしゃべるAIというのも実用化されていて、すでに、日本でも使っている人もいるのだろう。姿が人間に近づけば、友人のいない人には友人の代わりになり、家族のいない人には家族の代わりになるので、将来は、人間型AIが孤独解消の切り札になるのかもしれない。もっとも、不気味の谷というものがあって、人間に似すぎていると気味悪さを感じるという心理もあるのだという。AIの進歩は凄まじく、そのうち多くの人が第二の脳のように、AIに多くのことを相談し、代わりに考えてもらうという時代がくるのかもしれない。そうなると、大企業のトップや政治家も同様に様々な決断をする際AIに相談するようになる。考えをまとめる文章作成もAIはお手の物である。AIの発達によって個人の生活の便利だけでなく、孤独の解消、そして第二の脳としての助言をしていくことで、結果的に人間が賢くなるのと同様の効果が得られるのかもしれない。それとも、AIに頼ることになった人間は思考能力が低下するのだろうか。
2026年07月17日
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最近、ある新聞のコラムに選挙の際には有権者テストを行い、知識がなかったりSNSに流されたりしやすい人々は選挙から排除すべきだといった意見が半ば冗談めかして書いてあった。もちろんこんなことはできっこないし、マスコミに流されるのは良いがSNSに流されるのは悪いなどというのも全く意味不明だ。それに、知識というか知能で有権者資格をきるようにしたら、結局のところ、金持ちだけが選挙権をもった制限選挙の時代と同じようなことになるだろう。今のような高度に発達した資本主義社会では、多少の例外はあるにしても、階層を決める要素は血統でも親の資産でもなく、本人の能力、それも知的能力という要素が一番大きいのだから。古代ギリシャでは賢人政治が理想とされたというが、賢人政治がもしあったとしても、それは単に賢人に都合がよい政治が行われるだけだろう。自衛隊員が貧乏人の子がなるといった発言もそうなのだが、リベラルといった人々ほど差別的な感覚が目立つのはどういうわけなのだろうか。自分らと違う意見を持っている人々はうましかばかり…こんな感覚でいる限り支持など伸びようがない。現政権の支持率が比較的高いことだって、支持者が別に推し活感覚で支持しているわけではないし、そもそも推し活政治なんて言っているのはマスコミだけだろう。この前の選挙での自民圧勝の一番大きな原因は推し活というよりも、自殺点のような立憲民主と公明との合併が元凶ではないか。そのあたりの反省もなく、有権者のレベルに原因をもっていこうとするから…ダメなんだよと言いたい。
2026年07月16日
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想像していたような神社から古代史を読み解くといった本ではなかった。そうではなく、神社の歴史をまとめたものといった方がよいだろう。神社と言えばはるか昔からそこにあって変わらないものというイメージがあるのだが、実はそうではない。自然発生的にあった神社も律令体制の中に組み込まれ、さらに神仏習合の時代があった。明治以降は、歴史上の忠臣や維新後の軍人らを祀った新しい神社もでき、明治神宮も創建された。その反面仏教色は除かれ、祭神が変わった例もある。国家神道と言う言葉ができたのは実は戦後で、概念として国家神道と神社神道の分離が行われ、国家神道を消し去ろうとする占領政策に抗して神社神道が生き残った。神社本庁ができたのも戦後である。伝統と言うと、なにか神聖なもので、はるか昔からそれがあったかのように思いがちなのだが、実はそうではないというものも多い。神社の祭神も変わることもあり、かつては寺でもあったところが神社になった例もある。雰囲気がどことなる寺を思わせる神社などは、神仏習合の頃は寺でもあったのかもしれない。もちろん古い神社で祭神も変わらないというところもある。宗像神社や伊勢神宮、出雲大社などは古事記にも記述がある。ただ、それでも昔と今とは同じではない。伊勢神宮はかつては境内に店が並んでいたという。今、伊勢神宮と言えば、いかにも神域といった静謐な感じを連想するのだが、それも明治以降のものなのではないか。
2026年07月15日
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れいわ新選組の山本太郎氏が政界を引退するという。多発性骨髄腫の一歩手前というのもわかりにくかったし、数か月遅れてスピード違反の話がでてきたことも異様な気がする。ただ、それでも、今回の政界引退にはとうとう…と思う。政党を立ち上げ、話題になっても、その後もその政党が伸び続けるためには政策通も含めたそれ相応の人材が必要だ。れいわの場合、山本氏のきわだった知名度はあったものの、他は素人同然の人が目立ち、人材不足の感は否めなかった。世の中には経済的に恵まれている層とそうでない層とがいる。傾向としては経済的に恵まれている層ほど、政治に対する関心も高く、知識も豊富だ。一方、そうでない層の中にも、まあまあ現状に大きな不満もなくマスコミに流されやすい層(いわゆるB層)と漠とした不満を持っていて政治にも絶望している層とがある。実は後者というのはブルーオーシャン(未開拓の大きな市場)で、れいわはここのあたりに支持を広げていったのではないか。同じくこの層に広がっていった政党として参政党があり、参政党の伸長はれいわの伸び悩みと表裏一体なのかもしれない。これからもれいわを離れた層の多くは参政党に向かうのではないか。右とか左といった区分では、よくれいわは左あるいは極左、参政党が右とか極右とか言われる。しかし、そろそろこの右とか左といった区分は意味がなくなっているのではないか。欧州で、相当の支持を得、支持者の多くが貧困層であるような政党を極右と呼ぶのも変だろう。れいわと参政党は似ている。党首にきわだったカリスマ性があるのだが、そのイメージが既存のエリートのイメージとは真逆であることも共通している。すでに定住している外国人の扱いについての考えは異なるが、移民労働力の受け入れに抑制的なことなどの政策面の共通性も多い。さらにいえばもう一つ共通点がある。マスコミやいわゆるリベラルと言われている人々からの評価が低いことである。こうした人々は、護憲とか反原発とか戦争反対とかそういった主張を重視するし、デモなどを行ったりそれを好意的に報じるのもこの層である。しかし、多くの有権者はそうした理念的なものよりも、もっと身近な問題に反応して投票する。ひところ大報道された官邸周辺の反原発デモが結局は政治の流れに大きな影響を与えなかった理由もこのあたりにあるのではないか。
2026年07月14日
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物価高やイラン情勢など生活に直結する問題が山積しているのに、今、国会で問題になっているのは、国旗損壊罪、皇室典範改正、そして副首都とみごとに国民の生活とはあまり関係ないものばかりだ。いったいどうなっているのだろうか。特に副首都については、その副首都がどういうもので、何のために置かれるのかがわかりにくい。首都機能の一部を他都市に分散し、非常時のバックアップとするというのだが、これは東京とは地理的距離のある都市に優先的に公共事業を割り当てたり税金を投入しようという構想で、もともと利権がらみの話にしかみえない。日本の場合、非常時といえばまず震災や富士山の噴火などで、そうなると、関東の都市や震災の危険の指摘されている都市は除外される。それでも、具体的な候補はいくつかの都市に絞られそうなのだが、その中から決めるとなると大変である。かつて首都移転構想というものがあり、いくつかの都市が名乗りをあげていたが、どこも決めてがなく、いつのまにかいわれなくなった。あれと同じようなことになるのではないか。日本の人口は今後も減少をしてゆくが、それは均等に減っていくのではなく、集中しつつ減っていく。急激に人口が減っているところもある反面、都心の区では小学校を新設しているところもある。やがては全国津々浦々にインフラを整備することも不可能になってゆくのではないか。そうなると政策としても集中を進めてゆかざるを得ない。最近熊などの獣害のニュースが多く聞かれるが、これも過疎の結果なのかもしれない。熊ではないが、最近、千葉県富津市の旅館に行ったとき、住民が減った一方で、猿や猪が多く出没するようになって大変だといった話を聞いた。熊のようにニュースにはならないが猿、猪、鹿といった野生動物も増えている。東京にも空き地や空き家が目立つようになったが、東京からほど近い市原市にも廃墟といってもいいところがある。住民がいなくなった団地と完全に人の気配がなくシャッターだけになった商店街である。商店街が代替わりで普通の住宅街になっていくというところはよくあるのだが、そこは、アーケードは壊れたまま撤去されておらず、看板の色も褪せていないなど、全く時が止まって凍結したような光景であった。そうした廃墟の中に一軒だけ、人が集まっているところがあり、何かと思ってみるとある政党が活動に使っているようである。男女の賃金格差是正、選択的夫婦別姓という文字が大きく掲げられてあった。※訪れたのは土曜日の午前で、もしかしたらシャッターを閉めた商店の中にも、営業しているところもあるのかもしれないことを付記しておく。
2026年07月12日
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映画オデッセイアでトロイ戦争の原因となった絶世の美女ヘレンを黒人の俳優が演じるということで議論になっているという。ポリコレと称して今まで白人のやっていた役に黒人をあてることがあるというが、いったい誰が望んでいるのか意味がわからない。自分は人種差別などはしていない、それどころか一般大衆の人種的偏見をなくすことに貢献しているのだという、インテリの自己満足にしかみえない。オデッセイアではヘレンの容姿について美女だとしか書いてなく、別に白人に限定した記述はないのだが、登場人物のほとんどが白人なので、普通に考えたら白人だろう。映像で再現された壮大なギリシャ神話の世界にひたってみたいという観客の要望を考えれば、ヘレンは白い肌金髪の白人の美女の方がよいし、そうであってほしいと思うのは人種差別とは関係ないように思う。それは源氏物語を映像化した場合に光源氏が金髪では違和感があるのと同じだろう。以前、ディビット・コパフィールドの小説を読んだ後、それを映像化した映画を探したことがあった。「どん底作家の人生に幸あれ!」がそれなのだが、ディビッドと最後に結ばれる才色兼備の女性が黒人、その父親で恩人の紳士が東洋人になっていた。そして主人公はたしかインド系の俳優で、19世紀の英国でこのビジュアルはないだろうと思った。それに小説中には愚かな人物や悪辣な人物もでてくるのだが、主人公及び好感度の高い人物だけ非白人にしてあるのは、かえって差別的な感じがした。多人種多民族の国家で映画のヒーローヒロインが白人ばかりなのはおかしいという議論はわからないでもない。けれどもそれは白人のイメージで定着している物語の人物を非白人にいれかえるのではなく、非白人が主人公になっている物語を発掘あるいは創造していくことでよいではないか、この方向でのものも最近では結構出てきているようにみえる。
2026年07月10日
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後悔していることがある。ここのところは読んだ本は原則として読んだ本としてカテゴリ分類しているのだが、昔はそうしたことをしていなかった。そのため、カテゴリで検索しても、でてこないことが多い。印象に残っている本もずいぶんあったのに、その当時どんな感想をもったのかがわからないのは残念なことだ。ところで、この自分が読んだ本を検索してみると、読んで印象に残った本、読んだことは覚えているが中身の記憶のない本、読んだことすら忘れている本の三種があるようだ。最後の読んだことすらも覚えていない…というのは少し怖ろしい。最近、ひやひやしたことがある。電車の中でスマホを探したけれどもない。外出先では地図、路線、スケジュール確認などでスマホを一度はみるものなのだが、必死でスマホを見た記憶をたどる。たぶん、家に置いたままなのだろうと思ったのだが、家にスマホがあることを確認するまでは気が気ではなかった。無意識のうちにスマホを出し、無意識のうちにスマホを置いたままにするなんてことはないだろうなあと思うのだが、それでも、どっかに忘れて悪用されたらと思うと不安はつきない。さすがに銀行口座との紐づけなどはしていないし、個人情報などといったってすごいものがあるわけでもないのであるが。この頃のニュースでわからないことがある。皇室典範の改正が政治課題になっていることである。内外ともに難問山積みの今の状況ならもっと他に検討しなければならないことがあるように思う。皇室典範は関心事だし、多くの人がそれぞれの意見をもつテーマではあるのだが、今急に検討しなければならないことであるとも思えない。次の皇位継承などは何十年か先の話であるし、皇族の減少と言っても、皇族の公務のほとんどは制度上の根拠のあるものではない。なぜ今なのだろうか…と不思議でならない。
2026年07月09日
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「楽園のカンヴァス」を読んだ。伝説のコレクターの所蔵するルソー作品の真贋を鑑定するために呼び寄せられた男女二人。一人はMOMAのアシスタントキュレーター、一人は新進のルソー研究者。ルソー研究者は才色兼備の日本女性で作者の理想的自画像なのかも…と思ったがよけいなかんぐりだろう。対象となるのはルソーの大作「夢」とそっくりな「夢を見た」という作品。絵は果たして本物かどうか、本物にしろ偽物にしろ、これが書かれた背景は何か、ルソーの「夢」にでてくるモデルの女性の正体は誰か。そうした様々な謎にさらにインターポールの女性がからみ、一種のミステリー小説のような趣もある。ただ全体にどことなく少女漫画のような雰囲気を感じるのは、作者が美しい女性作家だと思うからだろうか。さらにいえば、アシスタントキュレーターには次第に女性研究者に対する愛が芽生える展開になっており、恋愛小説のようでもある。豪華な西洋館、謎、恋愛となると、ゴシックロマンにも似てくる。けれども、この小説の面白さの一番の要素はルソーという画家とその作品ではないか。ルソーは最初の頃は日曜画家の子供じみた絵と言われ、なかなか評価が定まらなかったが、今では多くの人に愛される画家となっている。同じ作者の「たゆたえども沈まず」を読んだときにはゴッホの画をみたが、今度はルソーの画を見ながら小説を読んだ。画家の人生、絵の描かれた背景、そうしたものに思いをはせれば、絵の数だけ物語があるのかもしれない。
2026年07月08日
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去年に比べると今年の梅雨は梅雨らしい梅雨で、気温も去年に比べて低い。ところがヨーロッパでは早くも40度を超える日もあるというのだから驚くばかりだ。普通に考えればかの地は夏でも日本よりも涼しいはずで、そのせいかエアコンの普及率も低いという。なにか地球規模で大きな気候変動が進行中なのかもしれない。閑話休題映画「免許返納」を見に行った。あまり予備知識を持たずに見たので、当初は日常系ドタバタコメディだと思っていた。ところが見てみると、主人公はかつて一世を風靡したスター俳優で、ライバルである俳優の最後の願いを叶えるというストーリーになっていた。主人公は、かつてのアクションはできなくなっているが、かといって映画賞狙いの「老人家族」の主役というのも本意ではない。それに、ライバルにハリウッドからラスボス役のオファーが来たのも面白くない。もちろん、主人公のように芸能界で息長く活動できる人は一握りの幸運児だけである。そうはなれなかった人々も映画には出てくる。子役の時はもてはやされたものの芸能界からは消え、今ではマネージャーをやっている女性。そして若いころは小劇団に所属し芸能界を目指していたが、一向に目が出ず、今はスナックのママになっている女性。こういう人々もきっと多いだろう。子供の頃、CMなどで話題になっていた子役で大人になってから名前を聞いた人は少ない。小劇団所属の俳優も数多くいて、もともと演劇の世界はプロアマの境界があいまいな世界で、演劇だけで生活できるようになるのは一握りだという。これはこれで面白い映画なのだが、難を言えば、ハリウッド関係者が全然それらしく見えなかったことと、合成映像だけでアクションを作るのはいくらなんでも無理ではないかということくらいだろうか。そしてまた、タイトルとなっている「免許返納」はストーリーの中心ではないし、今時、70歳くらいで免許返納するという人は少ないのではないか。
2026年07月07日
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昔、伊勢物語でこんな歌を習った。つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを古今和歌集では在原業平の作とあり、伊勢物語では男が病気になったときの歌とある。伊勢物語の男は在原業平の場合が多いので、在原業平の歌なのだろう。多くの人が時世の歌を残している。在原業平は「昨日今日とは思はざりしを」だったが、覚悟の上の死もある。かへらじと かねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる 楠木正行あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし 大石蔵之助面白いのは狂歌師の作でこんなのはどうだろうか。百ゐても 同じ浮世に 同じ花 月はまんまる 雪は白妙 永田貞柳江戸時代の浮世は確かに50年、100年でもあまり変わりそうもなかった。けれども今は世の変転はめまぐるしい。月はさすがに当分は真ん丸なのだが、桜の開花期も、降雪量も、温暖化のせいか変わってきている。貞柳さんも今の時代なら、世の行く末をもっと見ていたいと思うのだろうか。
2026年07月06日
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テレビはあまり見ないのだが、朝のニュース番組は朝食時間ということもあり、みている。日本のワールドカップ敗退が決まった後、日本選手関連の報道が少なくなったのはよいとして、変なのは韓国敗退で韓国の監督が批判されているということを大報道していたことだ。まだまだ、ワールドカップが続いているのであれば、今後の各国の勝敗予想など報道することはいくらでもあるし、日本在住の外国人コミュニティの応援コメントだってよいのではないか。それなのに、韓国の監督が批判されていることについて、わざわざ現地にいって市民の声まで拾ってくるなんてのは、報道機関としてどうなのかと思う。たしかに、韓国グループリーグ敗退後、韓国の選手や監督が非難されているという報道があったときは驚いた。ワールドカップに出るような選手は天性の才だけでなく、常人離れをした練習を積み重ね、国家代表というプレッシャーのもとで試合に臨んでいる。勝ちたいのはどこも同じで、それが期待に応えなかったからと言って選手や監督を非難するのは酷いではないか。この時ばかりは「メダルメダルというのならあんた達がやってみればよい」と言った某アスリートの気持ちも分かる気がした。その後、大統領が非難だとか、監督が外国に行ったとなると、もうなんだかわからないが、それはそうとして、所詮は外国のことで、文化も国情も違う。日本の朝のニュース番組で延々とやることだとは思えない。話は変わるが、今回のワールドカップでアジア枠が増加したのは、中国とインドを出したいというFIFAの思惑があるのだという。ワールドカップでは様々な関連グッズが発売され、その収益の何割かはFIFAの収益になるという。中国もインドも10億を超える突出した人口大国である。経済発展も著しいし、グッズを買えるような層も増えている。そうした人々が億単位でグッズを買うようになったらFIFAの収益は莫大である。メキシコで行われたワールドカップ開会式では中国の人気キャラであるラブブが登場していたが、これも中国市場を意識していたのだろうか。アジア枠の増加とかいったやり方ではなく、もう中国とインドは無条件でワールドカップに出場としてもよいのではないか。人類全体の祭典なので10億以上の国は無視できないとか理屈はどうにでもつくように思う。それにしても10億以上も人口のいる国で、なぜ、ボールを蹴るのがうまい11人を集めることができないのだろうか。それも不思議である。
2026年07月05日
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かつてプロジェクトxという番組が評判になったことがある。日本の戦後復興、そして高度成長からバブルまでの繁栄を支えた様々な新製品の開発に至る苦労をドラマ仕立てにした番組だった。日本の繁栄を実際に支えたのは、こうした研究開発部門に携わる人材だったのだろう。そうした人材が輩出された背景を考えると、どうしても戦時中の状況に思い至る。あの時代、国策として科学教育の振興が唱えられ、「科学する少年」という言葉が流行ったという。現実的にも理系の学生は徴兵猶予の制度があったので、理系の志望者が激増し、定員もまた増えた。プロジェクトxの技術者の中には、そうした世代の人が多かったように思う。政府は理系人材の養成のために、新設の理系学部に補助金を出すなどの政策を打ち出しているが、これはピントはずれではないか。学部を作れば人材がわいてくるわけではない。今でも理系に分類される学部の中には入試に数学や物理化学がなく、卒業生の多くは専門と関係ない部門に就職しているところがある。新設の学部にさほど優秀な人材が集まるとも思えず、単に補助金の無駄遣いになるだけではないか。それよりは国立の理系について、授業料を昔のように激安にした方がずっとよい。かつてのように徴兵猶予を特権にすることはできない以上、それに代わる大きな特権が理系に誘導するためには効果的だろう。授業料激安というのは、別に家計が苦しいという家でなくとも、親の負担を思いやるような子には魅力的なものである。受験勉強も、そして大学に入ってからの専門の勉強も、文系に比べ、理系の方がずっと厳しい。だからこそ、理系に行くことのできる優秀層には、あえてその選択をするだけのインセンティブが必要だろう。そしてまた、学部卒業後の待遇もある。昔は、理系最上位層は大学院に進んで無給かわずかの奨学金しか収入がないということがあったが、今ではどうなのだろうか。真面目な受験生ほど、卒業後の進路もみすえて学部選択をする。同じように理系の女子優遇枠なるものも意味不明だ。医学部は女子が進出しているので、女子枠はもっぱら工学部や理学部での優遇なのだが、専門を生かせる企業の採用枠があれば、優遇などしなくても、女子の受験生は集まる。企業の方にも採用を敬遠し、また、女子学生の方にも企業の研究開発部門は無理だと思う意識があるのだろうか。そもそも女子には理系に向いている人は少ないという説はどこまで本当かどうかわからない。子供などを見ていると女子と男子で興味の方向が違うと思うことがあるが、それと学問の適不適は別だろう。かつては漢学は男子のものとされていたのだが、今では漢文が男子のものだと思っている人はいない。最後に理系人材というと、日本の頭脳というようなトップクラスの人材ばかりではなく、実験を補助する人材、製造されたもののメンテにあたる人材もまた必要だろう。その意味で工業高校を減らし、専門性のあまりない四年生大学ばかりを増やしてきたのはよかったのかどうか。そんなことも考えてしまう。
2026年07月03日
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「華麗なる一族」を読んだ。実は、こういうことはたまにあるのだが、図書館で上巻の次を探したのだが、中は誰かが借りていたのか下巻しかなかった。そこで、これは上下二巻だと思って下を読み始めたのだが、どうも話が飛んでいるようだ。検索してみると、やはり上中下の三巻であったが、すでに下巻を読み始めていたのでそのまま読み、その後、中巻を読んだ。ストーリーの骨子は銀行再編という固いテーマなのだが、中心となる華麗なる一族だけでなく、ライバル銀行の銀行員や官僚など様々な人間が俯瞰的な神の視点で描かれており、すごい小説としかいいようがない。華麗なる一族の核は万俵大介であるが、銀髪の整った容姿で冷徹な紳士なのだが、家庭では妻妾同居どころか妻妾同衾の生活を送っている。銀行家としては、合併の野心を持っているが、家庭生活では長男の出生に疑念を抱いている。愛人の相子は女子高等師範を卒業して留学をしたほどの才媛であるが、米国での結婚生活に破れて帰国した後は就職先もなく、万俵家の家庭教師になった後、大介の愛人になる。才覚を活かしての閨閥づくりは彼女の万俵家の存在価値でもあった。多彩な登場人物の誰もがそれぞれの悩みや願いを持ち、そして誰もが、実際にいそうな人物に思える。閨閥づくりの結婚を嫌って兄の部下に惹かれていく次女も、高炉建設にかける長男も、日銀天下り人事に反発する銀行員も、各人の夢や悩みはそれぞれに深刻である。性格的には善人に描かれているライバル銀行の三雲頭取も、客観的には私情を業務に持ち込んでいるようにしか見えない。昭和40年代の銀行再編を背景とした人間絵巻として一読の価値のある小説だと思う。
2026年07月02日
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裁判の傍聴に行った友人からこんな事件の話をきいた。死体遺棄と年金詐欺に問われた事案で、30代の娘が70代の母の遺体を台所にビニールシートにつつんで放置し、年金をそのまま受給していたという。こういう事件は昨今では多いので、いちいち記事にしないのかもしれないし、してもほとんどがベタ記事だろう。この30代の女性は精神疾患があって、長期の引きこもり中で、コンビニに買い物に行くのがやっとだったという。事件の発覚は家賃の請求にきた大家さんからだった。親が亡くなったときに、やることは百事ある。生活力のない子供がどうしてよいかわからぬままに、遺体を放置し、犯罪者になってしまう事件を防ぐために、こうした場合の緊急の連絡先を設け、周知する必要があるのかもしれない。別の事件であるが、似たような引きこもりの娘と親の事例で、親の死後、一週間ほどで匂いに耐え切れなくなった娘が110番通報をして事件が発覚したというものもある。これも、親の死の直後に110番をしていれば事件にならなかったのだろう。110番とか119番なら誰でも知っている。最近ではこの緊急性のない版の番号も周知が図られている。こうしたところでも、扱っているのかもしれないが、家で親が亡くなっていたら、どこにまず連絡をすればよいかは周知しておく必要があるだろう。凶悪な人間と違って無知な人間が犯罪者になってしまうのを防ぐ方策については、まだまだやることがあるように思う。8050問題については、最近では9060問題ともいわれ、究極的には親の死と残された息子娘の問題になる。こうした親の遺体放置や年金詐取の事案は今後も増えていくように思う。
2026年07月01日
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その昔「独立国ブーム」というものがあった。きっかけは井上ひさしの「吉里吉里国」という小説だったが、あちこちの自治体が独立国を名乗り始めた。もっとも独立といっても一種の遊びで多くは観光誘致が目的だったように思う。この独立国を扱った小説は吉里吉里国が最初ではなく、星新一のマイ国家というものがあった。ただこちらは一軒の家が国家を宣言するという話で、吉里吉里国のオリジナリティを否定するものではない。こうした観光誘致の独立国で一番話題になったのがニコニコ共和国だろう。この間、このニコニコ共和国があった岳温泉の街をみてきた。小川が真ん中を流れる坂道はなかなかよい感じで、共和国を偲ぶものを探したのだが、国会議事堂であった観光会館には時計の後があり、日本時間とニコニコ時間の二つの表示がそのまま残っていた。ニコニコ時間は日本時間よりも一時間遅く経済効果を狙ったのだろう。坂道の方はそれほど寂れている感じはなかったのだが、坂下にある大きなホテルは二つあるうちの一つは廃業していた。社員旅行などの大人数の旅行の衰退だけでなく、東日本大震災やコロナも打撃だったのかもしれない。こうした町おこしというか観光客誘致のための独立国というのは、これからはうまれないだろう。いまさらやっても二番せんじのようであるし、そういうものを面白がるという感覚もなくなっている。全体に高齢化していて、子供連れの家族旅行というのも少なくなっていることもある。最近にぎわっている観光地というのは、外国人が多く来ているところで、寺院仏閣や古民家などの日本的景観のあるところや富士山や火山性の地形などの外国にはない自然景観のあるところが人気のようだ。ただ温泉というだけでは、外国人をよびこむのは難しいのかもしれない。そういえば、温泉地に行っても、大浴場に欧米人が入っているのはほとんどみかけない。どうも、むこうには、入浴はトイレ同様にプライベート空間という意識があって、他人と共同の空間で入浴することには抵抗があるのだろう。仕切りのないトイレに抵抗を感じるのと同じようなものなのかもしれない。ただこれも逆にいえば、温泉だけの観光地というのは、インバウンド需要ではなく、静かで情緒あふれるところとして人気を博するのかもしれない。そうしてみると小川を真ん中にした坂道の温泉街はよい雰囲気であるし、下の鏡が池もなかなかである。今回は、ほとんど通り過ぎただけであるが、いつかは泊まってみたい気がする。
2026年06月30日
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政府は皇室典範の改正を急いでいる。女性皇族が結婚後の皇族の身分を維持できることと、旧皇族の15歳以上の独身男性を養子にできることが骨子なのであるが、未婚の女性皇族も、旧皇族の15歳以上の独身男性もそれほど大勢いるとは思えない。皇族の身分に残るにしても、皇族の養子になるにしても、本人の意思に反してはできないだろう。典範の改正でそれができるにしても、本人が望まなければ現状と変わらない。この少数の方々の意向はどのようなものなのだろうか。そこのところにまったくふれないで、政治家をはじめ、多くの人が議論しているのが不思議な気がする。もう一つ、政府は憲法改正にも積極的なようだ。憲法改正には発議の後に、国民投票という手続きがある。最終的には国民の意思によるものなので、発議すらも阻止しようとするのが一種の愚民視だと思う。環境権が規定されていないとか、被疑者の権利は多々規定されているのに被害者の権利がないとかいろいろな議論があるが、実質的な問題は九条の改正につきるだろう。九条があるから平和が維持されてきたのではないし、九条があったからといって、ミサイルが飛んでくるのを阻止できるわけもない。ただ、九条があったから、そして今もあるから、自衛隊を戦場に送ることを拒否できる。九条がなかったらベトナムやイラクに多くの若者が派兵されていたかもしれない。もし、九条が改正されれば、今後は同盟国の一員として「血を流す」普通の国になるわけであるが、国民はそれを選択するのであろうか。
2026年06月29日
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テレビの平均視聴時間が減少傾向にあり、2023年度上半期にはゴールデンタイムの視聴率が49.2%まで低下し、民放キー局も10%を下回る局が増えているという。さらに、テレビを置かない世帯も増えているという。そうだろうなと思う。今はスマホやパソコンで好きなものをみることができるし、ニュースもスマホで十分である。それになにより、番組がつまらない。視聴率が取れないから製作費が減る、製作費が減るからますますつまらなくなるの悪循環に入っているのではないか。特に目立つのはグルメ番組とか食べ物店を紹介する番組である。だいたい人がものを食べているのをみて何が面白いのだろうか。テレビで視覚や聴覚は伝えることができるが、味覚は伝えることができない。画面の向こうでうまいのなんのと騒いでいるのをみたってねえ…と思う。次によくあるのは、一般人の私生活を報道する番組だ。こういうのはテレビにとにかく出たいという人が一定数いるのでなりたつのかもしれないが、多くは世間一般にはどうでもよい話である。どうでもよいのならよいのだが、一軒家に住む人の紹介が犯罪を誘発するとなると問題である。人間には、人の人生を覗き見たいという欲望もあるので、一定の視聴率はとれるのかもしれないけど、安易な感じもする。ただ、テレビ番組の中にも力の入ったドラマなどもあるし、映像や音楽でながら視聴に最適のものもある。そしてまた、一つのテーマに沿ってわかりやすく解説したものも面白い。YouTubeには、歴史、科学、数学、事件など様々な分野についてわかりやすく解説したものが数多くあげられている。製作は素人で金もかけていないだろう。もし、テレビ局が、専門家と資金力をつかってこうした様々なテーマについて解説したものを作ればよいものになるだろう。未解決事件シリーズや映像の世紀などはかなりこれに近いと思う。テレビにはつまらないものが多いと思いながら、一方で、テレビに期待するものもある。
2026年06月28日
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「新書世界現代史~なぜ力こそ正義はよみがえったのか」を読んだ。中国やロシアの最近の動向を「中華民族の復興」や「大ロシア復活」への野望で説くという見方はそのとおりだろう。ただ、そうしたものは指導者はそれに近い階層にあるだけで、民衆はとにかく日々の暮らしこそが最大の関心事だ。とにかく豊かになってきている中国はともかく、ウクライナ戦争で国内が疲弊してきているロシアは大ロシア復活と言ってみても民衆の不満は高まっていくのではないか。また、欧米の白人に見られる「人種置換」の不安も、筆写は批判的に描いているようだが、この要素も国際情勢を考えるときにはかかせない要因だろう。人種置換というのは、白人の地で異人種がやってきて入れ替わってしまうかもしれないということなのだが、欧州内での民族移動などは昔からある。小公女セーラは英仏混血の少女だし、家なき子レミはフランスの港に捨てられた英国貴族の子でイタリア人の親友とともにフランスを放浪する。欧州で排外主義が起きるようになったのは西アジア、ついでアフリカから大量の移民がやってくるようになってからだろう。こうした「人種置換」の不安を大衆の感情論と切って捨てるのではなく、こうした感情が世界のどこにでも存在するということは忘れてはならない。単純に言えば、周囲が見慣れない顔ばかりになっていくというのは人間の根源的な不安なのかもしれない。米国のトランプ支持者や欧州の極右や伝統回帰、そしてSNSにも筆者は批判的だし、筆写だけでなく、マスコミエリートは総じて批判的なのだが、そうしたものが、選挙民の多くを占める大衆の支持を得ているという現実には目をそらしてはならないだろう。グローバリズムで恩恵を受けているのはエリートだけという見方にも一面の真実はある。かつての右と左、資本主義対社会主義に代わり、今後はグローバリズム対アンチグローバリズムが対立の軸になっていくのではないか。そして各国が自国優先になっていくとき、世界の警察官役を果たす国家もなく、国連のような機関も形骸化していく実態があるのではないか。そんなことを考えさせられた。
2026年06月25日
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暗く陰惨な映画に違いないと題名からかってに想像していたのだが、見てみると思った以上に面白い。主観的にはこの間、ネットで見た「国宝」よりも良いかもしれないと思ったくらいだ。戦国時代、荒木村重が信長に反旗をひるがえして籠城し、使者としてやってきた黒田官兵衛も捕らえられる。これ自体は史実であるが、荒木村重の反乱の理由は今でも謎らしい。映画では、荒木村重と黒田官兵衛の心理戦が大変な緊張感とともに描かれる。このあたりはもちろんフィクションなのだが、籠城している荒木とそこにさらにとらわれている黒田の間に何が起きていたかは歴史好きの想像を刺激するところだろう。大量殺戮者の信長に対する生命尊重の荒木という見立ては現代的なのだが、実際、荒木村重の謀反の原因には、ついていけなくなったという動機があったのではないか。籠城を舞台にした心理劇として一見の価値のある映画だと思う。ところで、日本史を海外の歴史と比べた時、気づくのは権力者の途方もない贅沢や途方もない残虐な話が少ないことである。歴代天皇、歴代将軍の中で、とんでもない贅沢をした人や大量粛清をした人がいただろうか。日本史三大悪女(淀君、日野富子、北条政子)も三大悪人(道鏡、平将門、足利尊氏)も、どうもそんなに悪いという感じがしない。道鏡は下野に流された後、住民に慕われ、今も墓が守られている。そうした日本史の中で信長と秀吉は例外的にみえる。ところが日本史上人気のある人物もこの二人にかなり集中しているのも不思議である。
2026年06月24日
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自衛官についてのある議員の発言が問題視されているが、自衛官について貧しい家庭の子弟が多いというのは差別でもなんでもないのではないか。その職業に就くために支払う学費が少なければ統計的に貧しい家庭の子弟が多いのは当然想像できることで、戦前の師範学校や士官学校も旧制中学に比べて貧しい家庭の子弟が多かったという。ただそれは裕福な家庭の子弟がいなかったという意味でもないし、その職業の地位が低かったという意味でもない。ただ、その職業について貧しい家庭の子弟が仕方なく就いて、そして苦しんでいるとなると、これは一種のステレオタイプであり、差別だと言わざるを得ない。それにしても、普段からサベツ反対を声高に唱え、外国人労働者を送還するのはサベツだ、同性婚を認めないのはサベツだ、女子が数学の成績が悪いのはサベツだ…と言っている人々が、一方でこうした職業差別を平気でやらかすのは皮肉である。もしかしたら、こうした差別意識はリベラルという人々の宿痾なのではないか。自分たちは意識が高く(アウォーク)一般大衆はそうではない、自分たちは前衛で大衆は後ろにいる。自分たちは賢く、大衆は導いてやらねばならぬ存在と考える。そういえば昔、死刑廃止論者の書いた本を読んだことがある。刑務官の苦悩にふれた内容などには共感する部分もあったのだが、刑務官という職業に対する侮蔑ともとれる記述が気になった。この本は今でも版を重ねているようなのだが、このあたりは修正されたのだろうか。死刑廃止論もまた、世論調査の結果はどうであれ、廃止すべきだといった大衆蔑視の独善がついてまわるように思える。政治的な話になると、右とか左とかといった区分が幅をきかせ、ネットでもネトウヨ対パヨクといった罵りあいがある。そして往々にしてリベラルと左翼は同一視される。しかし、左翼というのは経済的弱者、もっといえば大衆の側に立つ勢力をいうはずである。そうであるならば、大衆を蔑視し、大衆の利益に無関心なリベラルは左翼とは別物のように思う。欧米では移民の無制限な導入に反対する勢力が大衆の支持を得ている。マスコミ人士はこうした政治勢力を極右と呼び、いわゆるリベラル勢力もこうした政治勢力には批判的である。しかし、低賃金の移民流入による失業、治安悪化、社会の変容で被害を受けるのはまさに大衆である。だからリベラルを左翼と呼び、移民の無制限な流入に反対する勢力を極右と呼ぶ…そうした呼称には非常に違和感がある。
2026年06月22日
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自衛隊に入るのは貧しい家の子弟が多いという国会議員の発言が叩かれている。たしかに職業にとって裕福な家庭の子弟の比率が高いものもあれば貧しい家庭の子弟の比率が高いものもあるだろう。ただ、そんな統計はないので、推測するしかないのであるが。はっきりいえることは、その職業に就くために多額の費用がかかるものは裕福な家庭の子弟が多い。私大医学部や法科大学院の学費は高いので、そういうところを出た人は親も高所得と思われる。ただし、一方では、国公立の医学部や法科大学院以外のルートもあるので、別に裕福な家庭出身でなくても、医者や法曹になっている人々もいる。また、教育費がかかるだけでなく、その後の収入も不安定というものは、裕福な家庭の子女の比率が高いのではないか。音楽関係の学校などはそれにあたるし、アニメや声優などの夢追い型の専門学校もそうかもしれない。しかしそうした分野でも貧しさを克服して夢をかなえる人々がいないわけでもない。ネット情報でみると、芸能人の出身はなぜか超富裕層か超貧困層(いわゆる壮絶な生い立ち)に偏っているようだ。多少はネタもあるのかもしれないけど、こうした世界で活躍する人々は両極端という傾向もあるのかもしれない。逆に貧しい家庭の子弟のつく職業を考えてみる。そこに至る教育に金がかからず、就職の固い職業ということになる。公立の学校から公務員というのは、その典型であるし、統計をとってみると高卒で公務員というのは貧しい家庭出身が多いのかもしれない。ただ、もしそんな統計があったとしても、統計は全体の傾向を説明するもので、個々の事情は説明しない。大学卒業後、就職もせずに親のスネをかじっているのと、高卒で手堅く就職するのとどっちが賢いのだろうかは一目瞭然だろう。自衛官も高校を出てすぐに任官するという場合には高卒の公務員に近いものがあるのだろう。全体としては、貧しい家庭の子弟が多いと推測するにしても、そして「自衛隊員には貧しい家庭の子弟が多い」と言ってみたとしても、それは別に自衛隊員を貶めていることにはならないだろう。むしろ、それよりも同じ発言で「いっぱい苦しんでいますよ」という表現が問題なのではないかと思う。たしかに自衛隊の仕事は楽でない。けれども、それは、警察官や消防官も同じであり、安全を守る職種というものはそういうものだろう。だからといって、警察官や消防官について、苦しんでいるなんていう表現をしたら問題になる。自衛官も当然に問題になるわけである。もちろんこうした職種について、大変な仕事なので、もっと待遇を良くしようという文脈で語るのならよいのだが、苦しんでいる…というのはちょっと違うように思う。要するにかの議員の発言で一番違和感を感じるのは災害救助などでなくてはならない職業である自衛隊員について「いっぱい苦しんでいる」という表現をしていることである。※昨日ある商業施設のイベントで見た踊りと歌です。宣伝してみたくなりました。team清門 - うつくしま宝物 [2026.03.29 草加さくら祭り] - YouTube
2026年06月21日
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国旗損壊罪がどうやら成立しそうである。これについてどういう言うつもりはないのだが、これからはマラソン応援などの際、沿道で国旗を配っていたとしても、受け取るのはやめようと思う。昔は、祝日の際に国旗を掲げる家もあり、今でも物置には国旗があるかもしれないけど、そういうものもいらない。自分のものであっても、故意に棄損したら犯罪になる…なんていう面倒くさいものは持っていたくない。まさかこの法律ができたからといって、沿道で配っていた日の丸をゴミにすてた人が逮捕されるなんてことはないのだろうけど、そういうことをすることが非常に気分の悪いものになることは間違いない。今でも日本で一番売れている国旗はイタリア国旗だというのだが、そのうち日本で見る個人所有の国旗はイタリア料理やフランス料理の店の前に掲げられる旗だけになるのかもしれない。
2026年06月18日
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小学校の頃、勉強が大嫌いだった。特にいやだったのは国語の漢字と算数の計算だったので、成績も悪かった。計算で指を使っているとよく叱られたが、せっかく指があるのになぜそれを使ってはいけないのか、それがさっぱりわからなかった。さすがに、10以上の数がでてくると、靴下を脱いで足の指まで動員するということはしなかったが、実際に、そうした子もいたという話も聞く。社会はなぜそんなことを覚えなければならないのか意味不明だったが、理科の方は何をきいても「へえ、そうだったのか、ちっとも知らなかった」と驚くばかりで、いちいち感動して覚えたので成績はよかった。いまにして思えば、無知ゆえに感動があり、感動ゆえに成績がよかったというわけである。体育、音楽、図工の実技教科は、図工以外はさっぱりだった。特に体育の授業は苦行以外のなにものでもなく、ドッジボールはボールが怖いのでさっさと外野になってぼおっとしていた。音楽は実技はできなかったが、あの頃の歌で記憶にのこっているものがある。最近、そういうサイトをみていて久しぶりに「星の界」を聞いた。小学生には難しい歌詞だったし、究理の舟が胡瓜の舟にしかきこえなくて、なんのことかと思っていたが、当時から好きな曲で印象に残っていた。今聞いてみると、讃美歌の楽曲に科学礼賛の歌詞で、それでいて崇高なるものへの敬意も感じられるすごい歌詞だと思う。無窮の果てに進歩していく人間の英知をたたえているようなのだが、はたして人間は賢くなっているのだろうか。
2026年06月17日
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たくさん来る詐欺メールを見ていると、欲でつるもの、脅すものと、よくこんな手口が思いつくものだと驚くばかりだ。息子が逮捕されたという警察からのメール、国勢調査不回答で罰則をかけるという総務省からのメールはかなり荒唐無けいなのだが、人事部の佐藤を名乗るメールなどは引っかかる人もいるのかもしれない。あまりにもひどいので最近では迷惑メールの少ない別のアドレスをもっぱら使っている。詐欺はメールだけではない。あるサイトを開くと突然警告音が鳴って「あなたのパソコンはロックされました。すぐに下の番号に電話をかけてください」と音声で案内する。強制終了するとことなきをえるのだが、そういう詐欺の手口も最近では増えているという。そういえばこんなのがあった。パソコン画面の右下にセキュリティの案内などがときどきでるのだが、いきなり「あなたのパソコンにはウィルスが侵入していて、銀行口座などがとられるおそれがある。すぐに下記のサブスクを利用するように」という案内が出る。これは表示そのものを消したのだが、気味が悪い。さっきなどはある通販サイトのページを開くと「このサイトは危険です。すぐに離れてください」という表示がでてきた。普通に検索サイトから入ったので、アドレスは間違っているはずはないのに。これも気持ち悪いのでログアウトした。いったいこれは何だったのだろうか。自分はしょせんは昭和生まれの旧人類。ネット上で金が動くのが気持ち悪くて仕方ない。けれども今はネット上の買い物もネット配信も必需品…知り合いにはネットにつながる口座とそれ以外を分けている人もいるがそろそろそうしたものを検討した方がよいのかもしれない。
2026年06月16日
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ネットサーフィンしていたらこんな記事があった。某新聞社の人生相談の記事で、相談者は40代の女性公務員で、夫との結婚生活に幸せを感じることができないというのが相談の内容である。そして、幸せを感じないのは、夫の学歴が低く給料が安いこと、ママ友との話題で夫の学歴や仕事の話が出ると嫌なこと、周りの人は注文住宅やタワーマンションなのにわが家は小さな建売住宅であることなのだといい、周りとの格差を感じる度に、夫のせいで私の価値が下がっていると思ってしまうと言っている。人生相談の回答者はまっとうな回答をしているのだが、ネットでは相談者の女性を非難するものが多い。そりゃそうだろう。周囲の人との比較で自分の幸福を確かめたり不満を持ったりするのも、他人のマウントに振り回されて不幸だと思い込むのも実にくだらない。自分の価値が夫のせいで下がるなんて言う前に、自分は価値を高めるためにどんな努力をしているのか。こんな相談を見ると、家庭に帰っても自分を軽蔑している妻と顔つきあわせなければならない夫、軽蔑している男との間の子だと思って内心自分を見下してる母、この相談女性と暮らしている家族が本当に気の毒になった。相談者も「私の気持ちを知った夫もつらいと思います」と書いている。ただ、さらに考えてみると、いくらくだらなくても、人間が身近な人々との比較の中で幸不幸を考えるのは仕方のないことなのではないか。相対的貧困率の重要性もそんなところにある。また、これもくだらないのだが、特に女性には、自分の夫や子供の学歴や職業でマウントを撮りたがる人がいる。高スペックの夫をゲットしたことを自分の「女の価値」と思っているのかもしれないけど。そんなマウントなどはほっておけばよいのに、そんなものに振り回されるのも、また、人間の哀しさなのだろう。女性にとっての進学や就職の機会が増え、特別な人でなくともなんとか自立くらいはできるようになった、それはそれでよいことであるし、いまさら後には戻れないのだろうけど、それと同時に幸福な結婚のハードルも随分と上がってきているのではないか。内実は知らないが、こうした夫よりも妻の方が学歴(偏差値)も収入も明らかに上というカップルを何組か知っている。乏しい知見なのだが、こういうカップルは結婚をしてもその後別れる確率が非常に高いように思う。そうでなくても、妻が家庭内で学生時代の話などを避けているという例もきいたことがある。逆に夫の方が学歴も収入もはるかに上というカップルははた目にも幸福そのものという感じがする。こんなことをつらつら考えてみると、今という時代は、幸福な結婚が難しくなってきていて、これもまた、未婚化の要因になっているのかもしれない。※余談であるが、世界的に見ても少子化が急速に進んでいるのは東アジアの儒教文化圏である。儒教には男尊女卑という考えがある。これは男を尊敬しろ、男が偉いというよりも、今日では男が偉くなければならないという感覚に結び付きやすい。女性の上方婚志向は生物的本能が背景にあり、万国共通なのかもしれないが、東アジアでは特にこうした志向が強く、それが結婚を難しくしているのではないか。
2026年06月14日
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ある新聞のコラムにブログの終焉という記事が載ったという。いくつかのサイトでブログを終了したのがその根拠なのだそうだが、サイトの終焉など昔からあり、現に七詩も以前はライコスのブログを利用していたが、閉鎖されたため、楽天に移ってきた。したがってブログの終焉といっても実感はないのだが、ただ、ブログ内での意見交換は昔に比べて不活発になっているようで、これは少し残念である。全体にコメントがあまりなく、それで余計に書きにくくなっているという面もあるのかもしれない。また、これは考え方にもよるのだが、ブログは必ずしも市井の人が日常雑記を書いているというものばかりではない。むしろこうした媒体では人から見てどうでもよいことを書いても仕方ないのではないかと思っている。かといって政治テーマを書くとすぐに右だとか左だとかといった色分けが始まるのだが、教科書どおりのマルクス主義が支持を失った現在、従来の右とか左とかの色分けは意味をなさなくなっているようにもみえる。世界的に見ても、生活とはあまり関係のないきれいごとばかりのリベラルの主張を支持しているのは都市部のインテリで、労働者層は単純労働者の移民を排斥するいわゆる極右と呼ばれる政党を支持している現実がある。右左とかリベラルか保守化と言った枠にとらわれずもっと多くの政治的テーマについての議論がなされてもよい。ブログは、希望的観測かもしれないが、やはりすたれることはないと思う。人間にはどうも書きたいという欲求があるのではないか。そしてそれを誰かが読むことによってモチベーションがあがる。それがあるかぎりブログは廃れないと思うし、ブログサイトが消えれば、それに代わるものを必死で探すのではないか。
2026年06月12日
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ネット配信で見られるようになったのでさっそく鑑賞した。人気俳優のダブル主演のうえ、丁寧なつくりで、ストーリーのテンポもよい。ただ社会現象になるほどのヒットは、評判が評判を呼んだという面がかなりあるのではないか。将来、この映画が名画として残っていくのかどうかはわからない。主人公二人は一人は梨園の御曹司、一人は極道の家出身の養子と対照的である。実話とかモデル小説なら、こういう人もいるのかという興味関心でひきつけられるが、フィクションとなると、物語として起伏は少ないように思う。逆にこういう話だからモデルがいると思う人もいるのかもしれない。二人の主人公のうち、御曹司よりも養子の方が才能に恵まれているという話なのだが、世襲と才能は本来は両立しないものだろう。才能や能力を厳密に言い出したら世襲というものはなりたたなくなる。それでも梨園の世界に世襲がなりたっているのは、一夫一婦制が厳格ではなく、才能のある婚外子を後継にしたり、適宜、才能のある者を養子にしているからだろう。勝敗という形でもっと能力差が出る世界では世襲などまったくなりたたない。
2026年06月11日
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昭和40年代を舞台に財閥一族の人間模様と銀行合併の動きを描いた小説である。大昔というわけではないが、やはり一時代か二時代前の物語のように見える。万俵家という銀行のオーナー頭取の家庭が舞台であるが、当主の頭取は外では上品な紳士然としているが、家庭の中では妻妾同居どころか妻妾同衾の生活を送っている。妻の方はおとなしいだけの旧華族の女性なのだが、妾の方は家庭を仕切る才色兼備の女性で外面では女執事ということになっている。今なら組織の管理職やトップに女性がいても驚かないが、この時代ならこうした女性もいたのかもしれない。女子高等師範を出た後、留学し、米国人と結婚したら破綻して、帰国後に家庭教師として一家に入り込んだという設定になっている。現実にも、権力者の妾で辣腕を振るっていた女性もいたのかもしれないが、同居とか同衾は、小説の中だからだろう。政略結婚をした子供達もそれぞれ問題をかかえ、中でも長男には出生の秘密がある。こうした謎をもってきて、読者を引っ張っていく小説手法はさすがとしか思えない。ただ、閨閥結婚と言い、仕事をしていない女性達といい、核家族でもお手伝いがいることといい、こうした実態というのhどの程度あったのだろうか。ただ、思い返してみると、小学校(公立)の共働きの教師は家にお手伝いさんがいるといっていたし、東京建物園にも昭和30年代の家屋で女中部屋のあるものもあったので、ある時期までは家事使用人というのも珍しくなかったのかもしれない。
2026年06月10日
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大学の淘汰の議論が起きているという。いまさら感が半端ない。だいたい18歳人口が減少を始めた時点でも大学を増設しつづけたなど狂気の沙汰としか思えない。当時文部大臣であった田中氏が、秋田県の公立芸術系大学の増設に反対したとき、マスコミはちゃぶ台返しだの何のといって、さんざん大臣をぶったたいたのを記憶しているだろうか。当時は田中氏バッシングがトレンドで彼女に対して人格攻撃が行われ、あげくのはては性格の悪さの傍証として子弟の私事まで報じた週刊誌まであった。今にして思うと、田中氏の方がまともだったように思える。最近では私立大学の53%定員割れだという。大学生がヤンキーのような犯罪をやってもさほど驚かない時代だ。今時、学生の集まらないような大学を税金で維持する理由などはない。優秀層に税金を投入するのはよいのだが、そうでない層に、税金を投入して、4年間を無駄にさせるのは問題だろう。聞くところによると、奨学金という名の有利子ローンの利用率はどちらかというと偏差値低めの大学ほど高く、返還できない者の比率もそうした大学ほど高いという。卒業後の進学率をあげたい高校も学生あつめにやっきとなっている大学もこうした奨学金を薦めるのだが、それででてくるのは、思うような就職もできずにローンに苦しむ若者たちである。
2026年06月09日
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人口減少というものは一律に人口が減っていくのではなく、人口が集中しながら減っていくものらしい。だから過疎地における減少のスピードはそうでないところよりもはるかに速い。過疎化すればますます人は住めなくなる。スーパー、コンビニなど商圏に必要な人数というものがあり、店のないところでは人は暮らせない。これからの人口減少社会はなんでも一律ということではなく、選択と集中を考えた方がよい。都心にはどんどん高層マンションが建っているのに、少し郊外に出ると、さほど老朽化していないのに空き家になっている一戸建てが目立つ。さらに都市部を離れると、廃屋が目立ち、なかには自然にかえりつつあるようなものもある。都道府県単位でみると、人口100万人以下の県がいくつもあり、そうした県の一つ一つに県庁、県警、県教委、裁判所、大学等があるのも無理がある。道州制よりも前に小規模な県の統合という話がでてくるのだろう。人口減については、大変だという議論は多いが、働き手と同時に需要もまた減ってくる。需要減といえば、教育産業などその最たるもので、塾などは苦境だというし、今後は大学の淘汰も始まるだろう。少子化は対策するものというよりも、所与のものとして受け入れ、少子化、そして人口減でも社会がちゃんと回るような方策を構築した方がよい。
2026年06月08日
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死語になった言葉をいろいろと考えてみる。永久就職、三食昼寝付き、三高、寿退社一頃、女性の結婚について言われた言葉で、当時は仕事をせずに専業主婦を目指す女性が多かった。もうそんな時代でもないだろう。ただ、そんな時代に人生設計をし、自立する準備もしないまま、結婚の機会もなく年齢を重ねている女性たちもいる。いわば「女の子だから就職はあまり考えなくてよい、どうせお嫁さんになるのだから」というつもりでいたのに、梯子を外された感じの人々である。ロスジェネ世代の貧困だけでなく、こうした女性たちの貧困問題というのもあるのではないか。花嫁修業かっては家事は大変高度な作業で、なかでも裁縫は最難関であった。普段着や子供の服は家で作るのが普通で、婦人雑誌の付録は型紙、ミシンはたいていの家にあった。既製服の普及で、裁縫は必須ではなくなるとともに、花嫁修業のための洋裁学校は大学や専門学校に衣替えした。その後は花嫁修業と言えば料理教室になったのだが、料理も今では特別の技量を擁するというほどのものでもなくなってきている。生きていくうえで高度な家事が必要となくなったことも、未婚率の増加の背景にあるのではないか。大学出この言葉も最近では聞かない。大学を出たことが特別なことではなくなったというよりも、大学をでたかどうかということが、評価に影響しなくなっているのではないか。大学に行くことは家に金があることの証明ではあっても、どうでもよいことになっているのかもしれない。昨日、強盗致死で大学生だった女性に無期懲役の求刑がなされたが、この事件の報道を見る限り「大学生がこんな犯罪を」といった論調はあまりない。犯罪の内容も、ヤンキー集団がやりそうなもので、誰もこの女性が大学生としての学問を身に着けているようには思っていないだろう。こういう人でも大学に進学する時代になっているわけである。18歳人口が減少に転じてからも、どんどん大学は増えていった。そしてそれぞれの大学には膨大な補助金が給されている。どう考えてもおかしな話である。
2026年06月07日
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少子化の流れは依然として続き、ますます速度を増している感がある。ただし、夫婦の完結出生時数はさほどかわらず、むしろ三人以上の子供を持つ世帯は増えているという。こうなると、少子化というよりも、未婚化といった方が実態を表しているのではないか。既に結婚をしている人に子供を持つことを支援するのであれば、様々な支援政策が功を奏するであろう。しかし、そもそも結婚していない人を結婚に向かわせるについては、支援政策だけでは無理である。結婚という人生最大の決定は外から降ってくる金では左右できない。少子化、いや未婚化によって社会に何が起きるかを考えてみる。一つは分断である。万人にとって標準的だと考えられていらライフサイクルがなくなって、社会は結婚して家族を形成する人とそうでない人とに分けられる。独身者はいずれ結婚する人ではなく、独身を選んだ、あるいは選ばざるをえなかった人なので、両者の間の利害対立が次第に鮮明になってくるだろう。少子化だ、さあ大変だあ、子育て支援だと言えば、誰も文句をいわないという時代は過ぎつつある。子育て支援のための社会保険料の値上げが独身税だと批判されるのもその表れであるし、東京のある区で給付金を住民税非課税世帯と18歳未満の子供のいる世帯に限定したら大炎上したという話もある。そうでなくても、結婚という人生の根本のところで分断されるので、社会の一体感はますます消えていく。次には子育てが万人のものでなくなった結果、子供に対して厳しい社会になる。かつては電車の中で赤ちゃんが泣いても、公共の場で子供が騒いでも文句を言う人はいなかった。皆が子育てをしていたか、これからするかであったからである。しかし今では保育園や公園で子供の騒音が問題となっている。子供の遊戯施設の傍には、騒ぐな、大声を出すなという看板がやたらにたっているのも最近の傾向だろう。また、子育てが万人のものでなくなるということは、それだけ次の世代のことを考える人が減るということになる。国家とか民族とかといったものは、世代を超えて継承されていくものなのだが、その国家の未来を考える人が減り、自分の世代だけが逃げきれればいいと思う人が増えるだろう。そして家とか子孫といった感覚もなくなるので、お墓にこだわる人も減るし、そうした意識の変化はすでに起きているのではないか。このほか、孫の世話をする必要のない老人が増えるので、高齢労働力の供給という意味ではプラスであろうし、そこそこに資産のあるシングルシニアを狙った市場も拡大するであろう。今後は相続人なしの財産というものも増えていくので、これも、国家収入のかなりの部分をしめるようになるのかもしれない。係累のない老人が多額の国債を残してなくなれば、それももちろんチャラである。
2026年06月05日
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ニーダム・クエスチョンというものがある。「紙」「印刷術」「火薬」「羅針盤」といった人類の歴史を動かすような技術は最初に中国で発明され、15世紀くらいまでは、中国文明が西欧文明を凌駕していた。それなのに、なぜ近代以降になると、中国文明は西洋文明に圧倒されるようになったのか…という問いである。これはかつては中国文明の停滞と言われ、中国はこのまま半永久的に停滞するかのような見方がなされていたが、ニーダムの見方はそうではなく、西洋文明が興隆したのはいくつかの偶然の要因があったのではないかというものである。それではその要因はなんなのか。中国には豊富な人的資源があり機械による省力化の必要がなかった、欧州のようにいくつもの国が切磋琢磨する状況がなかった、英国のようにすぐに利用できる場所に石炭がなかった…などいろいろなことがいわれる。科挙制度が強固で、自然科学系に優秀人材がいかなかったという指摘もある。要因は何であれ、西洋文明の中国文明に対する優位は絶対的なものではないということであるし、このニーダム・クエスチョンが注目されてきたことも、中国の興隆といったことがあるのではないか。もうずっと以前になるが、中国に行く機会があり、本屋にも行ってみた。外国に行くと、その国の本屋に行くのは非常に面白い。そもそも本屋がどのくらいあるのか、そしてそこにはどういう本を売っているのかでその国がわかるような気がする。中国の本屋に行ったとき、上の方に科学史の年表がかかげられており、著名な西洋の科学者もあったが半分以上が中国史の人物であった。5世紀に円周率の近似値を求めた学者が16世紀に本草綱目を編纂した学者なども入っていたがそれでもすこし「もっている」という印象があった。しかし、ああいった年表を見て育った人の中から、今の科学技術をリードしている人材がでているのだろう。近代の科学技術文明を築いてきたのは西洋であり、西洋の優位はゆるがない…ということは、必ずしも絶対ではない。
2026年06月04日
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不安定な中東情勢と石油資源への懸念、食料品の値上げなどの生活不安と今の状況は課題山積みである。それなのになぜ、緊急の課題とも思えないことを国会で論議しているのか不思議でならない。国旗損壊を規制する法の制定と皇室典範の改正である。国旗損壊については、要件が曖昧なことはさておき、こうした法規が新設されると、かえって日の丸は面倒なものといった感覚が広がるのではないか。マラソンの沿道応援で日の丸が配られることがあるが、ああいったものも捨てる際の面倒を考えると受け取る気にはならなくなる。結果的に国民から国旗を遠ざけるのではないか。もっとわからないのは、皇室典範の改正である。女性皇族の結婚後の身分保持については皇族数の減少による公務の負担が問題だというのだが、現行の公務のほとんどは法律上の根拠のあるものではなく、行事に箔をつけるだけのものや、展覧会の鑑賞や観劇のようなものが多い。こうした公務なら減らして支障があるとも思えないし、そもそも、今の女性皇族の全員が全員について、それほど過重な公務が問題になっているのだろうか。旧皇族の養子についても、日本語の「養子」には、幼いうちに子供として受け入れる養子と、婿養子との二つの意味がある。婿養子という意味であれば、女性皇族の婚姻の自由を奪うわけにはいかないし、子供として迎えるというのであれば、少子化時代にそんな子供がいるのだろうか。そしてまた、もしいたとしても、本人がそうした養子縁組に同意するのだろうか。
2026年06月03日
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AIが数学者が60年かけても解けなかった難問を解いたという記事を見た。いずれ、数学の未解決問題もAIが解くという時代が来るのだろうか。数学だけではなく、自然科学系の発明や発見もAIが行うということも普通になるのかもしれない。自然科学というとわかりにくいのだが、もっと身近な分野で見てみる。YouTubeにはAIで作った歌や映像がいくつも出てくる。実写化した人物が様々な背景で歌を歌ったり歩いたりするものなのだが、人物はAI画像で、「不気味の谷」などとっくに超えて普通の人物と変わらない。歌手や俳優もそのうちAInいとって代わられるのではないか。歌の作詞作曲もAIであるが、これも、最近の印象に残らない人間の作った曲よりもよほど耳について親しみやすい。ロック調、演歌調と様々なのだが、いずれも、どこかで聞いたような、よくあるような曲なので覚えやすいのだろうか。特に気に入っているのは歴史シリーズと古典シリーズである。歴史シリーズでは竹崎季長の歌う「元寇」や中野竹子の歌う「散華」などがある。いずれも日本史の一コマなのだが、こういう映像を見ると、元寇や戊辰戦争が生き生きと想像でき、歴史好きがふえると思う。古典シリーズでは鴨長明の歌う「方丈記」、紀貫之の歌う「土佐日記」などだが、いずれも、冒頭の有名な文章を音楽にのせて歌にし、背景に文学世界の映像を入れる。これを聞いて方丈記を読みたくなり、実際に読んだくらいである。これなら有名な古典の文章を無理なく記憶できるだろう。特におすすめは平家一門の歌う「平家物語」であり、これは以前の日記にも書いた。平徳子が場末の歌手風でイメージと違う以外はとてもよくできていると思う。数学の未解決問題をAIが解くというのもすごいのだが、感動的な小説や映画、音楽、そうしたものもやがてはAIが作るという時代になるのだろうか。
2026年06月02日
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旭川の神居古潭殺人事件について書く。旭川と言えば、中学生の陰惨極まる性犯罪が「わるふざけのいじめ」とされたり、真面目そうな動物園職員が妻を殺害して、遺体を動物園の焼却炉に入れたりと事件の多いところである。たった31万人の町なのに信じられない。神居古潭殺人事件についても、主犯格の裁判が始まったのだが、殺人事件については主犯と舎弟と称する従犯で証言が対立している。主犯は殺人については「殺すつもりはなかった」として、全裸にした被害者を橋の欄干に座らせたまま、立ち去ったらしばらくして落ちる音がしたとしている。そこにいたる暴行等にについては、動画等があるので争えないが、実際に落とすところはやってはいないとするのだろうか。舎弟の女は主犯が肩甲骨のあたりを両手で押したとしている。さて、どちらの証言がとられるのだろうか。ところで、執拗な暴力を加え、全裸で橋の欄干に座らせれば、そのまま立ち去ったとしても、衰弱して混乱した被害者が橋から落ちること、あるいは立ち去ったようでも被害者が更なる酷い暴力に怯えて川にとびこむことはありそうなことである。こういう場合でも、最後の一押しがないと殺人にならないのだろうか。死ね死ねと言っているのは確認されているし、被害者は犯人の身元も知っている。「殺すつもりがなかった」とするためには、被害者をひきずって安全なところに置き、衣服も一緒に置かなければならないのではないか…と素人は思う。最後に両手で肩甲骨のあたりを推したのかどうかであるが、こうした墜落死の場合には物証が遺らない。刃物と違って手の跡が残るわけではないし、あのあたりには監視カメラもない。こうした知識は推理小説などをよく読んでいると想像つくのだが、警察関係に親しい人がいて耳学問で仕入れることもあったのかもしれない。もし、警官に親しい人がいれば、殺人事件はどんな方法で捜査するのか、逆に言えば、どんな方法でやれば証拠が残らないかくらいのことは聞いてみたくなるものである。この事件によく似た事件として千葉の生き埋め殺人がある。この犯人は19歳の女性であり、裁判では10年くらい服役してネイルサロンをやりたいといっていたらしいのだが、無期懲役刑が確定した。少年犯罪に対しては何度かの少年法の改正で厳罰化はすすみ、神居古潭殺人事件でも舎弟の19歳の少女にも23年の刑が確定している。
2026年06月01日
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子供の頃、友人と空き地で遊んでいると夕焼け空の向こうに山が見えているのを指さして「あれは富士山じゃない」とある子供が行った。たしかに富士山だと思った。その後、まもなく、住宅や建物がどんどん建っていき、その空き地もなくなった。あれは夢だったのだろうか、本当の記憶だったのだろうか。家の近所で富士山を見ることはなくなったが、高層ビルの展望に行くと、東京からも富士山が見える。丹沢の稜線上に見える富士は上の方の曲線だけが見えていて他の山とは全く違う。まして雪を戴いたときはなおさらだ。富士山は横浜からだともっと大きく見えるが、その分裾野の方もよくみえる。裾野にはいくつもの小火口がみえるので、なにか幾何学的な曲線の美が損なわれているように思う。全くの主観なのだが、富士山はやはり山々の稜線の上に真っ白い頂を見せて、特別の山なんだと主張している感じなのがよいのではないか。以前静岡に行き、店で食事をしたときに、富士山を描いた敷き紙があり、そこには端にちょんと宝永山が描かれていた。静岡の人にとっては宝永山も富士の一部なのだろう。宝永山がない方がよいのではないかと言う意見については、宝永山も富士のアクセントだという答えがかえってくるという。おそらく、富士山については自分の見慣れた姿が一番よいと、多くの人が思っているのかもしれない。富士山には表富士と裏富士という言い方があり、江戸時代には東海道側の富士を表富士といっていたらしい。これについては、山梨側では富士山には裏も表もないといっているそうだ。浮世絵の富岳三十六景には、様々な富士の絵が描かれている。国立西洋美術館で富岳三十六景の展示が行われているが、空気が澄み、高い建物もない江戸時代には生活のどこからも富士が見えた。空き地から富士が見える光景など当たり前だったのだろう。
2026年05月31日
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上手い小説だと思った。新選組隊士吉村貫一郎について、新選組の同輩、出身の南部藩の武士などの関係者が語る形式となっている。そして聞き手はおそらく若い記者か小説家だが、その正体は最後まで明かされず、これはあくまでも読者の代わりに聞くという設定なのだろう。聞いている時代は第一次大戦のあたりなので、新選組が歴史となった頃だ。したがって、吉村寛一郎が藩校で学問や剣術を教えていた上級武士の子は実業家や医師になっているし、新選組の生残りは酒屋に転身したり、名を変えて官吏になったりしている。彼らが彼らの立場や視点から、吉村貫一郎という南部藩を脱藩して新選組隊士となった人間の一生について語るわけである。貫一郎の脱藩も新選組入隊も尊王攘夷のためでもなければ幕府への忠誠のためでもない。ひたすら「妻子を食わせる」というそれだけのためだ。ただその「妻子を食わせる」という一事の中に本当の義というものがあるのではないか。妻子を食わせる…というのが、ジェンダー平等の今に会わないというのであれば、自分や身の回りの人を食わせると言い換えてもよい。そういう人が増えれば増えるほど多くの人が食えるようになるのだから。そしてその多くの人を食わせるという理想はネタバレになるが、最後の語り手により多少は果たされる。小説の最後は、貫一郎の南部藩にいた時の上司である上級武士が朝敵として処刑される前に書いたという書簡になっているが、ここでは、妻子を食わせるために新選組に入った吉村貫一郎を誠の義士であるとし、食わせるという具体的な個人を活かすことを飛び越えて、抽象的な忠義だの奉公だのが飛び交うようになると、国が危なくなるとしている。滅私奉公だの欲しがりません勝つまではの先に何があったかを思うとそういう考えもあるのだろう。歴史の見方にはいろいろあって、英雄的な人物が天下のため、日本のために動いたという見方もあれば、もっと等身大の人物の行動の集積で歴史が作られるという見方もある。考えてみると、現実の歴史というものはこ後者に近いのかもしれない。日本の将来を思って政治家を志すというよりも、毎日鮭缶を食べる境遇になりたいから成功を目指し、その先に政治家があったという方が現実味がある。小説で描かれる新選組の多くの隊員もにわか武士や食い詰めた足軽で、幕府への忠誠心とか尊王攘夷とかとは関係ない。また、多摩地域には剣術自慢の農民の子弟がいて、彼らにしてみれば、武士の時代はほぼ永久的に続くであろうし、これを機会に武士になろうという者もいたのだろう。ただし、当時の実際の武士も相当数いた。それが、実際に京都で斬りあいをするとなると、にわか武士を募るしかなかった。それだけ江戸時代の武士というものが形骸化していたのかもしれない。
2026年05月29日
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最近、甲山事件について冤罪被害者の方がいろいろと発言している。誰も好き好んで被害者になるわけではないので、静謐な生活を乱すような報道は控えるべきであるが、被害者の方が発言をするのであれば、社会は耳を傾けるべきであろう。甲山事件についてはリアルタイムで報道を見てきたが、当時から疑問がいっぱいであった。ただ当時はネットなどはなかったので、変だと思っても変だと言えなかっただけである。二人の園児が浄化槽に落ちて死亡した事件であるが、マスコミは当初から密室殺人と書き立てた。そして園の職員を一人一人調べた結果、一番立場の弱く、園児とも接触する機会の多い若い職員が犯人とされた。もちろん園は密室でもなんでもない。外部からの侵入も可能である。そしてまた、浄化槽の蓋は冤罪被害者の20代の女性の力でも持ち上げることができたが、蓋はもちろん10代後半の少年少女の力でも持ち上げることができる。つまり当初から様々な可能性があったのに、最初から園の職員の中に犯人がいると目され、消去法で犯人を捜すという方法がとられたわけである。ところが冤罪被害者の女性職員には動機もないし、これといった証拠もない。事件から三年後の入所児童の証言が重要証拠になったのだが、このときに、知的障碍児の証言は作話能力がないので、一般人以上の証拠能力があるという鑑定がでたのだが、はてさてこの鑑定意見はその後学会の定説になったのだろうか。施設の中での知的障碍者の被害の訴えが黙殺されているような事件を見るととてもそうは思えない。動機についても、当時の人気作家が下劣な妄想で小説にしたものがあったが、人気作家だからといって、ああいうのは許されるのだろうか。それだけではない。別の民事訴訟であるが、冤罪被害者のアリバイについて有利な証言をした園関係者は偽証罪で逮捕されている。冤罪被害者の一個人にしてみれば、国家権力、マスコミ、学会、様々なものがどっと自分い襲い掛かってくるような恐怖を感じたのではないか。はかりしれない恐怖である。裁判では一度も有罪判決がでることはなかったが、検察側からの引き延ばし引き延ばしで無罪確定まで25年の歳月がかかった。いったい何を守りたかったのだろうか。国家のメンツというよりも、検察官のキャリだったのではないか。25年もたてば、事件に関与した検事は無事に退官し、勲章でも貰い、中には決して非難も批判もされないところに逃げていった人もいることだろう。ある検察関係者は無罪が確定したときに、「検察審査会が余計な決定をしなければ…」と言ったという。もちろん、選抜した素人で構成される検察審査会の決定には拘束力はないので、そんな非難はお門違いである。これからは冤罪事件が起きると「裁判員が余計な意見を言わなければ」という司法関係者がでるのだろうか。裁判員制度については、この点でも疑問を持つ。冤罪の責任を片手間の素人(実際に責任を負うわけではないが)に負わせる裁判員制度はやはりおかしい。今議論している再審法改正でも検察の抗告権が論争になっているという。検察の抗告権なるものは時間稼ぎ以上のどんな意味があるのだろうか。有罪を確信するのであれば、再審の土俵で堂々と有罪の証明をすればよいだけのことだろう。
2026年05月28日
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プロ野球監督辞任騒動はどう考えてもおかしい。兄弟げんかをしたところ、自分だけが叱られ、悔しくてたまらない。こんな経験が兄弟のいる人なら誰にでもあるだろう。昔なら友人に語るか日記に書くか…とにかく語るか書くかすれば鬱憤も多少解消する。そんなものだ。ところが今ではスマホのAI機能があり、匿名で相談できる児童相談所を紹介した。そこで、電話をかけ、誇張も交えて不満を語ったら多少すっきりとした。そんなところではないのだろうか。ところがAIに相談しても、ときどき間違えることもある。匿名というのは匿名ではなかった。児童相談所は警察に連絡し、警察はすぐにやってきて父親を逮捕し、それはすぐにマスコミに知られることになって父は職を辞した。児童相談所から警察、警察から逮捕、マスコミ報道と父親の辞職。この間はあまりにも早く、肝心の「被害者」である長女の意向が確認された形跡がない。警官がやってきて驚いたのは長女だったというのは現代の怪談である。スマホのAIを使ったのが問題とは思わない。また、児童相談所が警察に連絡をしたのも、万一の場合、怠慢を非難されないために当然の措置だったのかもしれない。しかし、警察の逮捕、そして逮捕情報のマスコミ流通というのは問題がなかったのだろうか。そこで長女から事情をどの程度聞いたのか、他の家族の反応はどうだったのか、そのあたりが気になるところである。有名な野球監督ということで警察の過剰な勇み足はなかったのだろうか。
2026年05月27日
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兵庫の母娘殺人事件の容疑者が指名手配された。42歳の無職の男性で、かつて殺害された母娘の隣家に住んでいたという。眼鏡をかけた気弱で真面目そうな風貌をみて、多くの人が身近に似た顔がいると思ったのではないか。そのくらい平凡な雰囲気だ。この間の栃木強盗殺人事件の指示役の男のようないかにもふてぶてしい悪の雰囲気ではない。小学生殺人の養父のように結婚就職と人生をひととおり経験しつくしているわけでもない。報道は少ないのだが、父親の家業を手伝っていたが、父親の死亡後は家を出て、実家は空き家になっていたという。ただ、事件発覚の前に警官に呼び止められ、その実家まで送ってもらったというので、確固たる居場所もなかったのだろう。とても、自殺するような人には見えないし、いずれ発見されるだろうけど、祖父の死亡後、どのようにくらしていたのか、なぜ母娘を襲ったのか知りたいものだと思う。42歳といえばロスジェネ世代の終わり頃にあたる。もちろんこの世代をひとくくりにはできないが、幼少期は日本の繁栄が永久に続くような豊かな環境で育ち、兄妹も少ない中で大切に育てられ。自立をしない大人子供のまま年を重ねた人も多いのではないか。そうした人々の中には、人生の先が見える年齢になり、守ってくれる上の世代もいなくなって自棄的な犯罪に走るような者もでてくるのではないか。ヤンキーというのでもなく、悪のプロというわけでもない。そういえば、トクリュウの末端の強盗犯人の中にも、こうした覇気のないおとなし気な人間がときおりいるようである。※プロ野球の監督が18歳の娘を殴ったといって逮捕されたという。ただ、娘は別に警察に通報したのでもなく、通報は児童相談所であって、けがもしていないので即釈放となったらしい。警察はこういう時には被害者の事情を聴き、被害者が別に問題にしていなければ、逮捕などそもそもしないのではないか。昭和の感覚では親が子を殴るのは普通のことだ。警察の過剰対応、そしてそれがマスコミに漏れてマスコミの過剰対応になっただけで、本質は事件でもなんでもなかったように思う。渦中の長女はこれで、わがまま娘のように見られて気の毒でならない。まったく有名人の子弟というのも大変である。子は親を選べないのに…。
2026年05月26日
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平安末期、死がごく身近にあった時代の随筆である。時期的に平家物語と重なるが、福原遷都の混乱の記述があるだけで、合戦については特に書いていない。かわりにあるのは災害の記述である。平清盛が太政大臣になったのは1167年、その死が1181年、壇之浦合戦が1185年なので、平家の栄華と没落の時代にあたる。1177年には平安京の大火があり、都の三分の一が灰になったという。1180年には辻風が起き、多くの家が壊れた。1181年からは飢饉が起き、さらに翌年には疫病も蔓延して、放置された遺体があふれたという。また、大地震(史実では1185年)もあり、家にいると家が崩れ、外に出ると地が割れたという。「恐れのなかに恐るべかりけるはただ地震なりけりとこそ覚え侍りしか」とあるが、それは今も変わらない。政治体制の変化と天変地異は関係があるのかもしれない。鴨長明はこうした天変地異や都の政治的混乱を避け、断捨離生活の中に精神的安寧を見出す。昔読んだときにはもっと長かったように思ったが、読み返してみると本当に短く、あっという間に読める。乱世の中で平穏を求めた生き方として今読んでも面白い。
2026年05月25日
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「この世界の片隅に」という映画を見たが、二つの場面が印象に残っている。玉音放送を聞いた人々が思わず「ああ、終わった、終わった」とほっとした様子でいたことと、戦後、焼け野原の中で人々が米軍から支給された食材をおいしそうに食べていることである。この時代を知っている人もいるので、まんざら嘘を描いているわけではなく、こういうことが実際にあったのだろう。もし、当時を知らない人が、まったくの歴史的事件として想像すると、敗戦の時には皆が悲しみ、原爆投下の後では皆が米軍に反感をもっていたというように思っただろう。歴史的事件としては、一定のイメージをもって語られることであっても、現実にはそんなものではなかったというものは多いのではないか。新選組もそうしたものの一つかもしれない。本書は無名の義士を主人公にして、等身大の新選組にせまったものとして面白い。そもそも、あの英雄的な新選組のイメージというのはどういう経緯で生まれたのだろうか。敗者の側に悲劇的英雄像を見出す判官びいき的心情もあるかもしれないし、沖田総司や土方歳三のイケメンイメージや浅葱色の制服のかっこよさもあるのかもしれない。実際にはにわか武士やくいつめた侍の寄せ集めで、新選組の死者は内部での粛清によるものの方が多かったという。そして、大政奉還、鳥羽伏見の戦いと時代が急転する中で新選組の位置も曖昧になってゆく。武士に憧れた剣術自慢の農民の青年もいた。藩でも処遇に不満でやってきた武士もいた。本書の主人公のように貧苦にあえぎ、妻子を養うために新選組に入ったという人もいたとしても不思議ではない。本書は、主人公について様々な語り手が物語るという手法で描かれている小説だが、非常にうまい小説である。
2026年05月24日
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いつも不思議に思うことがある。里親や特別養子縁組についての報道というのは、なぜ、こんなに美談仕立てのものばかりなのだろうか。可愛い子供がやってきてよかった、今ではこんなに素敵な親子になっているというものがほとんどである。現実には里親による虐待もあるはずなのだが、こうしたものについての報道は少ない。「里親家庭を家とよばないで」というサイトがあるが、そこでは、実際に里子を経験した子供の立場から里親制度に疑問をなげかけている。里親の多くは善意で里親をやっているはずなのになんてひねくれた見方をするのだろうかと最初は思った。しかしよく考えるとこうした見方にも一理あるように思う。里親というのは期間は不定期で、数か月の場合もあれば、数年の場合もある。これを子供の側から見れば、家庭に近い環境ではあるが、いつまでいられるかわからない「家」である。子供にとっての家というのは、何があっても絶対にそこにいることができるから家であり、家庭なのではないか。施設の子供に家庭というものを体験させるといっても、いつ消えてなくなるかもしれない居場所であれば、そこは家庭とは言えない。もしも、子供が家庭のつもりで生活して、突然施設に戻れ、ここから出て行けと言われるのであれば、それは最初からずっと施設にいるよりもかえって残酷である。自治体の窓口には里子推進のパンフレットやポスターが置いてあり、施設に育つよりも里子として育つ方が子供にとっても幸せであるかのように記載してある。本当にそうなのだろうか。また、養子や特別養子についても、美談仕立ての報道ばかりがなされるが、これも実親子同様にいろいろな場合があるのではないか。今の時代、子育ては本当に大変である。実子だからそんな苦労ができるのであって、他人の子はとても無理と正直思う。そしてまた、日本では親の責任が極端に大きく、成人した息子娘の不祥事で公職についている親が職を辞すのは珍しくないが、欧米では考えられないことだという。こういう社会で、養子や特別養子が今後増えるというのもありそうにない。さらにいうと、こうした養子や特別養子の事例で紹介されるのは、不妊治療をあきらめた結果、養子という選択をしたという例が多いのだが、不妊治療と養子は別問題ではないのだろうか。言ってしまえば、養親は実親の代わりにはならないし、養子も実子の代わりにはならない。
2026年05月22日
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週刊誌はあまり読まないのだが、ある週刊誌にとても面白いコラムがあった。歴史観や国民性をからめた評論で、だいたいが欧米とか中韓について、こうした国の民度がどうとか国民性がどうとかといった悪口である。べつにこれがこのとおりとも思わないし、世の中にはこういうことをいう人もいるのかと面白く読んでいた。それがどっかからクレームがついて連載が打ち切りになり、それ以来、ますます週刊誌を読まなくなった。書き言葉も話し言葉も同じだが、人が情報をうけとる姿勢は様々である。小学生が先生の言葉を聞き、教科書を読む場合と、大人が数ある本や番組の中から自分で選んで聞いたり読んだりする場合とでは、情報の受取方が違う。そのまま素直に受け取る場合もあれば、こんな変なことを言ってやがると批判的に娯楽として情報を消費する場合もある。批判力のある大人であれば、後者の場合がほとんどだろう。何を読んでも優等生的な建前論ばかりではつまらないものである。ところが世の中にはそうは思わない人々もいる。自分が変だと思う発言はすぐに問題視し、自分が変だと思う政治家や政党の発言は騒音で妨害し、講演をやめさせようとする。こういう人々は、自分だけが正しいとこりかたまり、自分が批判する言論についてはひたすら耳をふさぎ、なぜこういう言論がそれなりの支持を得ているのかについては全く考えようとしないのではないか。自分以外はウマシカであるので、こんな言論が広がれば聴衆はすぐに影響されるとばかりに言論を妨害する。批判もまた言論を聞く楽しみであることが、こうした人々にはどうもわからないようである。
2026年05月20日
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