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いよいよ秋季リーグ戦が開幕した。 法政大は3回、無死一・二塁の場面で、2番・中村騎士(2年、東邦)が2球続けて送りバントを失敗するも、その後にレフトスタンドへ3点本塁打を放って先制。その後も着実に加点し、6回終了時点で7点差のリード。一方、リーグ戦初先発の山床志郎(2年、高鍋)も井上和輝(1年、駿台甲府)とバッテリーを組み、6回まで走者をひとりも出さない投球を見せるなど、法政のワンサイドゲームになるかと思われた。 しかし、その後の慶應大の反撃は凄まじかった。7回、代打・加藤右悟(1年、慶應)が走者一掃の適時打を放ち3点を返す。この時、法政のレフトの守備のもたつきもあり、余計な失点もあった。そして8回もラッキーな内野安打や、代わった法政・野崎慎裕(4年、県岐阜商)から押し出し四球を得て2点を加えた。さらに9回も審判の微妙な判定もあり、慶應が2点を加えて同点に追いついた。 ずらりと大砲をそろえたがために、小技を使って確実に加点したい時に機能しない法政打線に対し、随所で用兵術が冴えわたり引き分けに持ち込んだ慶應。解説の大久保秀昭さんは「(監督の)采配の差、勝負勘の差」と、試合を締めくくった。 引き分けに追いつかれたものの、山床を先発で使える目途が出来たことは法政の収穫。慶應は今日、機能温存した外丸東眞(4年、前橋育英)が登板するだろう。
2025.09.14
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2009年11月22日に行われた「セ、パ両リーグ誕生60周年記念試合・プロ選抜vs大学日本代表」のこと。■この3日前の11月19日に長男が誕生した読売・金刃憲人(市立尼崎高-立命館大)が登板したのは4回表。まずこの回先頭の2番・多木裕史(法政大2年、坂出高)と相対した。初球から3球ボールが続きスタンドが少しざわめいたが、カウントを1-3として後に5球目を打たせて投ゴロに仕留めた。そして続く3番・土生翔平(早稲田大2年、広陵高)と4番・若松政宏(近畿大3年、大阪桐蔭高)には小さく曲がるスライダーで、いずれも空振り三振に打ち取った。3つのアウトを取ってベンチに引き揚げる時、金刃はホッとしたような表情を浮かべ、左頬に流れる汗を右手の甲で拭っていた。■金刃憲人。市立尼崎高では甲子園に出場経験はない。高校時代、兵庫県内の主なライバルには東洋大姫路高のグエン・トラン・フォク・アン(今年1月、東芝野球部を退部)や神戸国際大附高の坂口智隆(現・オリックス)らがいた。高校卒業後、関西学生野球連盟に所属する立命館大に進学し、通算24勝を挙げた。また大学4年時(2006年)は春秋連続でリーグ最多奪三振を記録、さらに秋は最優秀投手とベストナイン(投手)にも選ばれた。ちなみに同年春、最優秀投手とベストナインに選ばれたのは、近畿大の大隣憲司(現・ホークス、京都学園高)。そして同じ時、首位打者(打率.431)になり、さらにベストナイン(外野手)にも選出されたのは、先日沖縄のホテルで転落死した近畿大の小瀬浩之(当時3年、元・オリックス、尽誠学園高)だった。■金刃といえば、大の阪神ファンである父親・朝則さんが有名。金刃が読売に入団が決まった直後(2006年11月22日)、「なぜ阪神は、ウチの息子を指名しなかったのか」と、阪神に対し怒り心頭だった。ZAKZAK(2006年11月22日)が、朝則さんのこんなコメントを掲載していた。「オレは18という番号は嫌いや。イチかバチかみたいやから。イチかバチかの勝負ならやめとけ。息子は読売という会社に就職したけど、それでも阪神ファン。この前も阪神のスカウトに、小嶋(大阪ガス)かなんか知らん投手獲るなら、なんで息子を獲らんかったんやと言ってやったんよ」小嶋とは阪神の小嶋達也(遊学館高)のこと。朝則さんにとって小嶋は阪神の投手であっても敵役なのかもしれない?さて金刃と小嶋、それぞれ読売・阪神に入団して3年余りが経つ。これまでの2人の成績を比較してみた。(金刃)36試合、8勝8敗、防御率4.25(小嶋)6試合、2勝3敗、防御率3.19朝則さんの言っていた通り、数字だけを見ると、活躍度は金刃が小嶋を上回っているようだ。 今日も1クリックお願いします
2010.02.09
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今年初の野球観戦は東大球場。対戦カードは、伝統の東大野球部 vs. 秋の明治神宮大会王者・横浜高。「センバツでも日本一を狙う高校野球の最高峰」と「国内最古の大学野球部」がぶつかる歴史的一戦とあって、球場は大盛況! 試合開始1時間前には立ち見客が続々と集まり、メディアも多数。報道ステーションの大越さんもお見掛けしました。 結果は、横浜高の圧勝。特に驚いたのは打球の速さ。金属バットであっても ホームラン2本はもはや打球が見えないほど。動きもキビキビ、大きな声も盛んに出ており、朝日放送・安部アナ風に言うなら、まさに「This is 高校野球!」でした。 一方、東大はまったく元気を感じられず…。150km超の剛腕にカウントを追い込まれると、蛇に睨まれたカエルの如くバットは空を切りました。ただし、同じ野球といっても「大学 vs. 高校」の戦いは別物。“異種格闘技戦”の様相もあって、もし横浜高が東京六大学や東都リーグに参戦したら…? と夢想するのは、早計なのかもしれません。
2025.03.08
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■大学ラグビー全国選手権は2ndステージを迎えています。昨日(12月20日)は、法政大ー中央大の一戦がありました。同じ関東リーグ同士の戦い。9月のリーグ戦ではダブルスコアで中央が勝利しましたが、この試合も中央はその勢いのままに縦横無尽に走り、そしてトライを重ねます。前半を終わって中央28-5法政。法政はチグハグな拙攻が目立ち、これではワンサイドになるのか? なんて心配しましたが、後半が始まると、法政が突然息を吹き返したように素早い展開を見せ、終わってみればなんと中央28-36法政と、法政の大逆転勝利。アマチュアである以上、予想しないことが起きることはままあることですが、法政の前・後半の動きの違いはいったいどうしたのでしょう? その理由は、ハーフタイムの際の法政・谷崎重幸監督の言葉にあったというのです。■「前半はパスの乱れが目立った。後半は自分たちの足でボールを運び、サポートしてマイボールをキープしよう」。これが谷崎監督が選手に言った言葉でした。ちょっと分かりづらいですね。この言葉の意味を、J-SPORTSの解説者・今泉清さんが補足してくれました。「(法政は)前半はどうやって得点しようとするのか、そのイメージが共有されていませんでした。でも後半になると、2人目、3人目の寄り(サポート)が急に速くなりましたね。そして谷崎監督の言葉どおり、一回ヒットしてもすぐに倒れず前に出る、ボールをつなぐという意識が皆で共有されたようです」。「監督・コーチの言葉というのは、有益にも有害にもなります。ハーフタイム時にダメなところだけをコメントすると、選手にはそれだけがインプットされてしまう。そうではなく今はこうだけど、このプレーに集中したら良くなるね、というポジティブなイメージを持たせるとチームが変わるのです」。「前半と後半の間に法政が修正できたポイントは、谷崎監督のコメントにありました。『前に出る』『足を運ぶ』『キープを続ける』がインプットされて、それを達成するために自分がどんなプレーをすればよいかを選手個々が考えたのです。その結果が大逆転勝利につながりました。要は、監督やコーチのコメント力次第ですね」。■ま、マネジメントの教科書にはよく出てくる表現、と言っては元も子もありませんが、でもラグビーってベンチワークを含めて面白いスポーツだなぁ(^_-)-☆ (写真)法政大・谷崎重幸監督。~J-SPORTSより。(以下も同じ)(写真)解説者の今泉清さん。あの早稲田の今泉、ですね。
2015.12.21
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一週間前、イースタンリーグのヤクルトvsロッテ戦を観戦したとき、ベンチとブルペンを往復する八木沢壮六二軍投手コーチ(作新学院高)を見かけた。これまで8球団をわたり歩いた八木沢さん。ボクはもっと恰幅のいい姿を想像していたけれど、実際に見たら意外に華奢な身体つきだったので、ちょいと驚いてしまった。その八木沢さん、いま頭を悩ませているという。日刊ゲンダイが伝えている。昨日のイースタンの試合、佐藤由規(仙台育英高)は1イニングだけ投げた。キレ味の鋭いスライダーで三振を奪った一方、制球難は相変わらずで、ストレートの四球も与えてしまった。実は、八木沢さんの頭痛のタネはここにある。過去に指導した投手には、たとえば井川慶(水戸商高)がいる。由規ほどのスピードはなかったが、井川のフォームには改善すべきポイントがあり、遠慮なくその点を指導できた。だが、佐藤由規。制球が悪いということは、フォームのどこかに欠点があるはずだが、それをヘタにいじって、最大の魅力であるスピードを殺してしまってはいけないというジレンマとの戦いなのだ。もし、最悪の事態になったら「A級戦犯」ものだ。だから、八木沢さんの苦悩はまだまだ続く・・・(のかな?)----------------------------------------------------------つぎも日刊ゲンダイから。昨日行われたホークスvs西武戦。プロ入り後、初めて経験するサヨナラ適時打を放ち、一躍ヒーローになったのは8年目のホークス・仲沢忠厚(敦賀気比高)。 「チャンスで自分の打順に回ってきたから、代打を送られるかと思った。初めての経験、サイコーです」この仲沢、高校時代には苦い経験がある。1999年の明治神宮大会で準優勝した敦賀気比高、翌年(2000年)のセンバツ出場を確実なものにしていた。ところが、その敦賀気比の選手だった仲沢、バカなことをやってしまう。高校生ながら無免許で飲酒運転の上、事故まで起こしてしまいセンバツ出場を辞退するハメになったのだ。当時のチームメイトは、現・読売の内海哲也。話題が中沢のことになると、今でも内海は機嫌が悪くなるほどただ当の仲沢、今となってはまるで気にしていない様子。新人の時から平気で練習に遅刻するなど、神経のずぶとさは折り紙つきだという。ま、そのくらいの方がプロの世界で通用するのかも・・・。最後に日刊ゲンダイの見出しを借用したい。「図太い神経、武勇伝はとっくにスター級」 1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング
2008.04.14
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神宮球場を本拠地にする両校の決勝。優勝は亜細亜大。さすが「戦国東都」を勝ち抜いたチームだ。《明治神宮大会》大学の部 決勝戦■亜細亜大 5-2 早稲田大■亜大 031 100 000 =5 早大 110 000 000 =2 早大・宮本賢(来季から日本ハム・4年・関西高)、亜大・糸数敬作(4年・中部商高)。両先発投手ともに、出足はよくなかった。そんな時、ゲームの流れを決めたのは2回表に3点本塁打を放った三澤慶幸(4年・日本航空高)。この流れを、糸数が完投で最後まで守り続けた。三澤慶幸。高校は山梨県の日本航空高。日本ハムの八木智哉(創価大)の一学年後輩。01年夏と02年夏の2回、甲子園に出場している。01年は八木とともに一塁手として出場。1回戦は鳴門工高を、2回戦は宜野座高をそれぞれ破り3回戦に出場したが、3回戦はこの大会で優勝した日大三高に1-7で敗れた。そして02年。好投手・西村健太朗(現・読売)と白濱裕太(現・広島)のバッテリーを擁する広陵高に1回戦、2-3で惜敗した。三澤は三塁手として出場していたようだ。話は変わるけど、亜大の3番・中田亮二(1年・明徳義塾高)は面白いキャラクターを持った選手だ。171cm、115kg。体格からして足が遅くて動きも緩慢そうだが、50m走は6秒5で見た目ほど遅くないし動きも俊敏。西武のおかわり君こと中村剛也(大阪桐蔭高)に雰囲気が似ている。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.11.15
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2か月ぶりで見た富士見高・太田弾(3年)投手、その時よりもだいぶ大きく見えて、風格さえ漂って見えた。いい意味で、相手チームを見おろす感じがあった。大宮県営球場で行われた埼玉大会の4回戦、富士見高-秩父農工科学高。富士見 310 302 0 =9秩父農 000 000 0 =0(7回コールド)富士見高の太田。先発して6回まで投げ、秩父打線を無安打無失点に抑えた。先日の関東大会、対銚子商高戦で見た時はコースを丹念につくピッチングと書いたが、今日見てそれは違っているように思った。変則的に横から右腕が出てくるため、打者からは球が見ずらい。なおかつ、緩急をつけた配球は絶妙。打者にとっては相当に打ちずらいだろうなと、そんな印象を受けた。太田投手、今日の成績は完璧だった。6イニング、打者数18、被安打0、奪三振7、与四球1、失点0。7回も投げれば、参考記録ながらノーヒットノーランになるな!そう思って試合を見ていたが、残念ながら7回には背番号「10」をつけた内田綾祐(2年)投手が登板。野手の好守もあり、難なく1イニングを投げ抜き、ベスト16入りを決めた。 いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.07.21
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今日(10月4日)は、早稲田大ー法政大2回戦が行われた。昨日敗れた法政にとってはどうしても勝ちたい試合だったが、途中リードするも終盤に追いつかれて引き分けに終わった。見どころは、昨日投げ合ったばかりの早稲田・早川隆久(4年、木更津総合)と法政・鈴木昭汰(4年、常総学院)がリリーフで登板したこと。 それは8回。この2人の対決は、またも早川に軍配が上がった。法大 040 000 200 =6早大 202 000 020 =6 7回に大柿廉太郎(2年、健大高崎)の適時打で2点をリードした法政は8回、2つの四球と安打で一死満塁の好機を迎える。打者はチーム内で一番安定感ある中村迅(4年、常総学院)。すると、ここで早稲田は5番手投手に、昨日112球を投げ完封勝利した早川をマウンドに送る。中村は8球粘り早川攻略を試みたが、9球目、内角へ直球をズバッと投げ込まれ、手も足も出ず見逃し三振。続く宮崎秀太(2年、天理)も差し込まれて三邪飛に終わり、法政の好機は潰えた。早川は雄叫びを上げた。(写真)法政大・大柿廉太郎。(写真)早稲田大・早川隆久。 そして直後の8回裏。早稲田は、この回から登板した法政の2番手・尾崎完太(1年、滋賀学園)の代わり端を捕らえる。二死二塁の好機を作ると、熊田任洋(1年、東邦)が右中間に三塁打を放ち、まず1点を返した。すると法政ベンチは、昨日先発し138球を投げた鈴木をマウンドへ。しかし早稲田の勢いを止められない。続く鈴木萌斗(3年、作新学院)がレフト超えの二塁打を放ち、同点に追いついた。昨日に続き、鈴木昭にとっては痛恨の投球となった。(写真)早稲田大・熊田任洋。(写真)法政大・鈴木昭汰。 この試合は、結局スコア6-6のまま引き分けに終わった。解せないのは、8回の法政の采配。前述のとおり左腕・尾崎が登板したが、この厳しい場面は1年生投手に少々荷が重いように思えた。この回、早稲田の先頭打者は当たっている左打者の丸山壮史(3年、広陵)だったため、ワンポイントかと思い納得していた。が、しかし丸山に四球を与えた後、次々打者の熊田に適時打を浴びるまで計3人と対戦が続いた。そして、その直後に、法政は鈴木昭をマウンドに送った。 この場面で鈴木昭を出せるのならば、なぜこの回の頭から出さなかったのか。その理由が判らない。ともあれ、法政は勝たなければならない試合に引き分けてしまった。※写真は10月3日、早稲田大ー法政大1回戦のもの。
2020.10.04
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1980年、大学入学の直後、初めて神宮へ行くと法政大の4番は私と同じ1年生の小早川(PL学園)だったのには驚きました。1年生で4番とは??? この時、3番は西田(のちに広島)、5番は木戸(のちに阪神)とPL学園トリオがクリーンアップを構成する強力打線。たしか武藤一(秋田商、のちにロッテ)がライトを守っていました。 先日の始球式の一コマだけで、様々なことが昨日のことのように思い起こされました。でも…、彼が右利きだったことはすっかり忘れていたなぁ(笑)
2025.09.28
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インブリ―事件が起きた1890(明治23)年頃の野球界の中心は、今とは少し顔ぶれが違っていた。学習院、東京英和学校(のちの青山学院)、そして明治学院などだった。 その明治学院の初代主将を務めたのは、後に白洲次郎の父となる白洲文平だった。歴史の端々には、思わぬつながりが潜んでいる。※「インブリ―事件」が残した功績。インブリー事件を機に、一高は野球を「校技」とし、名誉挽回のため猛練習を開始。エリート意識を強め、「精神野球」の原点となった。明治23年には白金、溜池を破り、翌年には連合軍にも勝利。一高精神野球は無敵となった。
2025.02.08
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■NHK『ヒーローたちの名勝負-代打男優勝弾』を見た。(写真も同番組より)2001年9月26日、北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁本塁打で近鉄バファローズがリーグ優勝を決めた試合を、北川の視点から振り返った番組だ。上の写真は、北川が生還する場面。正面でタフィ・ローズが迎えている。右端、大泣きしているのは大塚晶文。少し左側に目を移すと大村直之が見える。さらに左には吉岡雄二、礒部公一、山村宏樹、水口栄二、中村紀洋がいる。この時、ボクはもちろん嬉しかったが、2,3日後のロッテ-近鉄戦(千葉)のチケットを持っていたから、「今日決めなくなくてもよかったのになぁ」なんて不遜なことも考えていた。また、相手オリックスの監督が仰木彬さんだったことも、ボクの気持ちを複雑にさせた。 ■そして同番組には、たまたま故・小林繁投手コーチも映っていた(写真左)。小林さんと番組の趣旨は特に関係ないけれど、ボクは先日、日刊ゲンダイで読んだ小林さんについての一文を思い出した。その一文は、若菜嘉晴氏が連載している『サスライ野球道』(10月18日付)にあった。「(江川卓の交換相手になり、阪神へ移籍後)小林さんは絶大な人気に加え、巨人戦では大きなプレッシャーを背負った。心に鬱積した感情を酒で洗い流しているようだった」と書かれていて、ボクにはとても印象深いものだった。さらに若菜氏は続ける。「小林さんとは一時、毎日のように朝まで飲んだ。小林さんはブランデーを一気に流し込む。決して酒は強くないのに強いフリをして、ボトルはすぐに空になった。・・・2人で飲んでいると、巨人への未練が垣間見えた。それがグチになる。巨人を愛し、戦ってきた。それなのに江川との交換相手になった。『なんでオレなのか・・・』まるで、愛する女性を失ったような・・・」。そしてまた、小林さんは若菜氏相手にグチを肴にして、心に鬱積した感情を酒で洗い流していた、のだ。■この時期はおそらく江川卓が引き起こした、いわゆる「江川事件」後、小林さんが阪神へ移籍した1年目、1979年頃だと思う。ただ夜は浴びるように酒を飲んでいたものの、肝心の仕事は順調だった。巨人と当たるようなローテーションを監督に直訴し、対巨人戦8連勝を飾った。そして、通期は22勝を挙げて沢村賞、ベストナインを獲得した。その後も毎年二けた勝利を挙げ、1983年に現役を引退。スポーツニュースのキャスターなどの活動をして、いかにも小林さんらしく派手な、そして、順風満帆な人生を送っているように見えた。■驚いたのは1997年、近鉄の一軍投手コーチに就任した時だ。少なくとも小林さんは、コーチとかいった指導者に向いていないと思えた。一匹狼でテレビの世界などで活躍するタイプに見えた。なぜ、小林さんはコーチをやっているのだろう? ボクにはとても不思議な出来事だった。2001年、冒頭に書いた北川の本塁打で優勝を決めた後、近鉄の監督・コーチ・選手たちはチャンピオンフラッグをもってグラウンドを一周した。みんなが歓喜し、はしゃぎまわって歩く中、ひとりだけ浮かない表情で歩く人がいた。それが小林コーチだった。この時の小林さんの表情をボクははっきり憶えている。優勝したものの投手成績は最悪、この年を最後に辞任が決まっていたが、それだけが理由だったろうか。江川事件をきっかけに、それまで小林さんが考えていた人生設計とのギャップが広がり、その溝が埋まらないことに、ただただ一人でもがいていたようにも思える。■若菜氏は最後にこう書いて、コラムを締めくくった。「苦労をひとりで背負い、なんでも自分の力でやろうとした小林さん。・・・江川は孤独だったという人がいる。でも本当に孤独だったのは小林さんだったんじゃないか。私はそう思っている」。You Tube 「黄桜」CM (by博報堂)
2013.11.09
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■東都大学野球■第5週 5月4日(木)駒沢大 3-1 立正大駒澤大 000 300 000 =3 立正大 000 000 100 =1 まだ勝ち点を挙げていないチームどうしの対戦だった。立正大は5月5日のゲームも落とすようなことがあると、残すカードは亜細亜大だけとなり、入れ替え戦にまわる公算大。初戦の青学大戦で互角の戦いができたのだから、なんとかならないものかな?元駒大監督・太田誠氏が著した『球心いまだ掴めず』(日刊スポーツ出版社)に書かれていたが、東都でなにがつらいかって「入れ替え戦が一番ツライ。入れ替え戦を逃れただけで正直ホッとした時期もあった」と記述があり、大監督でさえ相当にプレッシャーがかかるもののようだ。《このゲームに登場した埼玉出身の選手》立正大松川良太(4年・埼玉栄)5番・三塁手で先発出場※ただいま打撃十傑、第6位 駒澤大金井雄一郎(4年・埼玉栄)2番・左翼手で先発出場※高校時代のチームメイトが敵味方に分かれ戦った。ほかに埼玉栄高時代のチームメイト本田裕貴(立教大・4年)東京6大学リーグ猪狩清徳(大東文化大・4年)首都大学リーグ2部 いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.05.04
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鶴岡一人さんの選手を見る眼力には定評がありました。他球団の新米スカウトには、鶴岡さんが訪ねた選手宅をあとから軒並み訪ね歩いたという逸話もあるほど。しかし、選別眼だけで選手を獲得できるほどプロ野球の世界は甘くない。昭和40年にドラフト制度が始まる以前は、現代よりさらに魑魅魍魎の世界であって、さすがの鶴岡さんでさえも、その競争に巻き込まれることが度々でした。■まず穴吹義雄の獲得。壮絶なスカウト合戦の様子を小説、映画化した『あなた買います』のモデルにして、のちに南海監督に上り詰める穴吹を最初に見出したのは、実は鶴岡さんでした。もともと東京農大の円子投手(後に南海入り)を見る用で神宮に行ったところ、そこで目についたのが中央大のサード穴吹。当時はまだ3年生でしたが、すぐに会う手はずを整え、以後も頻繁に接触を繰り返し、見事獲得に成功しました。この成功事例に、鶴岡さんは鼻高々に(笑)こう言いきります。「スカウト合戦の決め手として、その選手の進路決定に一番影響力をもつ人を探し当てるということがある。幸いわれわれは穴吹君の高松高、中大を通じて先輩の名を聞き出した。その人が大阪に住んでいたのもラッキーだった。私と富永マネージャーが頻繁に会って、いち早く入団を決めた。穴吹君が4年生になると、表面的には争奪戦が激化した形となり、各球団関係者が高松の親もとへ集まった。巨人は郷土の先輩の水原監督が出馬した。私もゼスチャーで高松へ乗り込んだが、実際は大阪で勝負がついていた」。■でも、良いことばかりではありません。次に、立教大・長嶋茂雄獲得にまつわる失敗談を。昭和30年秋、鶴岡さんは、大阪球場で行われた東京、関西六大学対抗戦で初めて長嶋を見ました。この時ももともと長嶋目的ではなく、立教大の2年先輩・大沢外野手がお目当てでしたが、長嶋の守備に惚れ、まだ2年生だったにもかかわらず、正式に南海入りを勧めるほどのスピード交渉でした。そして長嶋が4年生になると、長嶋からは「南海にお世話になります」という返事もあり、契約金の準備も済ませてこれで準備万端、と思ったのが大きな間違い。秋になると状況が一変。突然、長嶋の兄が「弟は南海へ行かないかもしれません」と言いだし、鶴岡さんは慌てて東京へ飛びました。「会ってみると、長嶋君は『すみません、すみません』と繰り返すばかりだった。なおも聞くと、長嶋君は涙を浮かべて『兄弟げんかはするな。二人でよく話し合えと、母が・・・』と言った。巨人が千葉の有力者や立大OBを動かして、長嶋家を揺さぶったらしいのだ。お父さんがいない家庭で、兄弟二人。その一人の身体が弱いとなれば、遠くに行くなということになるだろう。やむを得ないとあきらめた」。■そして、これも失敗談。早稲田大の広岡達朗。長嶋の獲得失敗に先立つ昭和28年のこと。鶴岡さんにとって広岡は、広島・呉の二河小学校の後輩にあたり(つまり出身地がご近所)、父君に挨拶に行くと海軍士官だった実直な人柄で、息子のことは本人まかせなので、どうぞよろしくと返事をいただいた。その勢いで東京に遠征に行くたびに会い、南海への入団を勧めました。本人の反応も良く、入団の内諾も得ました。ところが、これも途中から雲行きが怪しくなりました。広岡の婚約者が大阪行きを渋ったことが原因とか。『東京で育った女性は、どうして大阪へ行くのを嫌がるのだろうか』。鶴岡さん、巨人の攻勢が裏にあったことも匂わせましたが嘆くことしきり。これを痛恨の失敗だったと書きました。■最後に、別府緑ヶ丘高の稲尾和久のこと。「無名だった稲尾君を西鉄が発掘して育てたというのが定説になっている。しかし、本当は最初に目をつけたのは南海だった。当時、南海は肩や肘を痛めた投手を別府へ湯治に行かせていた。その一人が、いい捕手がいると知らせてきた。それが投手になる前の稲尾君だった」。鶴岡さん、急いで別府へ駆けつけ、神社の境内で稲尾のピッチングをテストしました。稀にみるほどの投手だったため、すぐに契約を試みるも、ここでも邪魔が入ります。「後援会と称する人たちがやってきて、暗に金を要求した。『あなたたちに差し上げるぐらいなら、稲尾君に上積みしてやる』とキッパリ断った。結局、そのあたりから情報が洩れ、稲尾君は西鉄入りした」。そして、鶴岡さんは、こう言います。「とかく批判のあるドラフト制だが、同制度実施以前には、この種の人間が群がって、我々を悩ませたものだった」。(写真)立教大時代の長嶋茂雄。~『永遠のミスター 長嶋茂雄の世界』(報知新聞社)より~
2016.02.02
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(北埼玉大会・決勝)■本庄第一高 4-3 上尾高■本庄 002 020 000 = 4 上尾 001 000 101X= 3本庄一は先発のうち7人が1、2年生。小柄な選手が多く、準決勝までのチーム打率も2割台と打てないから、「つなぎ」を徹底した。3回にエンドランを絡めて先制すると、5回は1安打ながら3犠打飛を絡め2点。「機動力はある。2死になってでも、走者を二塁に置けば何かある」と須長監督。1年生4番・田村が放った2本の適時打はいずれも逆方向への打撃。田村は「大きいのは狙わず、次につなぐ意識で打った」。 優勝決定後、胴上げされた須永監督は「氏原も!」と叫んだ。「決勝で出場しなかったが、チームを支えてきたあいつは、僕よりも胴上げにふさわしい」。「甲子園でもチームで泥臭く戦いたい」。氏原重雄主将(3年)は幾度も笑顔で宙を舞った。(朝日新聞)------------------------------------------------------------------------優勝した本庄一高、3年前はベスト8、2年前はベスト4。そして昨年は準優勝だった。まさに「ホップ・ステップ・ジャンプ」を地で行った格好だ。監督は須永三郎氏。ボクは詳しく知らなかったが、アマチュア野球界というか、埼玉高校野球の世界ではかなり有名なご仁らしい。 出身高は埼玉にある川越工高。1973年夏、背番号「7」をつけて甲子園に出場した。初戦の前原高を皮切りに、次々に全国の有力高を撃破。準決勝まで勝ち進んだが、名門・広島商高に敗退した。この大会で優勝した広島商高、メンバーが凄かった。エースは佃正樹(故人)、捕手は元・広島監督の達川光男、主将は現・法政大監督の金光興二だった。そして須永さん、大学は早稲田大学に進学。1973年秋のリーグ戦では早大の優勝に貢献。一塁手としてベスト9にも選出された。チームメイトに岡田彰布(現・阪神監督、北陽高)らがいた。社会人野球はプリンスホテル。ここで3年間過ごした後、地元埼玉県内の高校野球指導者として新たなスタートを切った。秀明高を皮切りに、埼玉工大深谷高、東京農大三高などの新興野球部を強豪に育て現職に。ちなみに秀明高監督時代の1985年春、チームを甲子園初出場に導いた経験がある。ただ残念ながら蔦文雄監督率いる池田高に初戦敗退した。 1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング
2008.07.26
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13日、悪性腫瘍(しゅよう)のため死去した西鉄ライオンズ黄金期のエース・稲尾和久氏。今日の新聞、稲尾さんに関する多くの記事が目についた。でも、新聞記者の多くは稲尾さんをリアルタイムで見たことはたぶんないだろう。西鉄の黄金期を知っているのは、団塊世代(60歳前後)より年齢が上の人たちゆえ。だから、今さら「神様、仏様、稲尾様」なんて常套句の記事を読まされても興醒めなだけだ。もちろん、ボクも稲尾さんの現役時代なんて知らない。知っているのは、解説者としていつも温和な表情を浮かべていたことくらい。稲尾さんのことをもっと知りたくなって、Number Video『西鉄ライオンズ 銘々伝』を久方ぶりに見た。スリークオーター気味で、ゆったりとしたフォーム。持っている球種は少なく、直球、スライダー、シュート。稲尾さんの武器は、緻密な制球と巧みなコンビネーションだった。ビデオを見ていて、こんなエピソードを知った。稲尾さん、しょっちゅうマウンドで女房役・和田捕手とケンカをしていたらしい。例えば、こんな話がある。稲尾さん、自分ではカーブに「根拠のない」自信をもっていた。だから、ピンチでカーブを要求しない和田捕手のサインに不満を募らせていた。マウンドに呼びつけて「ここはカーブを投げされろ」という。でも、和田捕手の返事はにべもない。「お前のカーブはダメだ。絶対に打たれる」「打たれない!」「打たれる!」・・・・・そう言い争っている二人を見て、ショート・豊田泰光さんが慌ててマウンドに駆けつける。すかさず和田捕手が豊田さんに言う。「カーブを投げるっていうんだけど、ダメだと言ってやってくれ」「稲尾、お前の投げるカーブは曲がらないぞ」(豊田)「ちゃんと曲がるんだよ」(稲尾)「いつも曲がらずに打たれているじゃないか。いつから曲がるようになったんだい?」(豊田)「今朝から曲がるようになった・・・」(稲尾)「??? もう勝手にしろ!」(豊田+和田)落語の中途半端なオチみたいだけど、稲尾さんにはそんな茶目っ気もあったらしい。いや、本人は大マジメだったかもしれないが。知将・三原脩監督のもと「個性派」「野武士」と呼ばれる選手が集った西鉄ライオンズ。昨日、豊田さんが言っていたとおり「稲尾が死んで、西鉄ライオンズが完全に消滅した・・・」のかもしれない。合掌<資料>西鉄ライオンズ、黄金時代のスタメンは下記の通り。1番から8番まで、ほぼ不動だった。1番・高倉照幸(熊本商高) 俊足強肩の「切り込み隊長」2番・豊田泰光(水戸商高) 本当は4番を打ちたかった・・・不動の2番打者3番・中西 太(高松一高) コミカルだけど、打てば豪打、守っても堅守のサード4番・大下 弘(明大中退) 二日酔いながら7打席連続安打の記録を作った「青バット」5番・関口清治(台北工業) 右中間への長打が特徴、巨人からの移籍組6番・河野昭修(早大中退) どんな送球もさばくファースト、「ハエ取り紙」の異名をもつ7番・仰木 彬(東筑高) 守備の要であり、伝説の「10・19」の立役者8番・和田博実(臼杵高) 稲尾投手と長くバッテリーを組んだ強肩・俊足の捕手1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.11.14
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いまプロ野球界は、野球賭博の話題で持ち切りであります。が、しかし、当ブログはそれをスルーさせていただき、【大和球士著『野球百年』を後ろから読む】シリーズを続け、どんどん時代を遡っていきたいと思います。前回が1961年でしたので、今回は1960年(昭和35)のことです。■この当時、世の中では「安保(反対)闘争」が吹き荒れました。東大生の樺美智子さんが警察隊と衝突して亡くなったのもこの年です。時の岸信介首相はデモを矮小化するため「野球場や映画館は満員」(つまり、国民の大多数はデモ隊とは関係なしに野球等に興じている)と発言、さらにNHKに対して「偏向報道」と警告して物議を醸しました。なんだか昨今の権力者の言動と酷似していますね。また、朝日訴訟について東京地裁による違憲判決があったのもこの年ですし、カラーテレビの本放送が開始され、歌謡界では西田佐知子の『アカシアの雨がやむ時』がヒットしました。♬アカシアの 雨に打たれて このまま 死んでしまいたい~♪ 西田佐知子はなぜ死にたかったのか、その歌詞までは覚えていませんが。■そんな混沌とした様相は、プロ野球界においても同様でした。昨年まで西鉄ライオンズを率いて数々の実績を作った三原脩が、万年最下位だった大洋の監督に就任するや、いきなりリーグ優勝、日本一を果たし、それまであった球界の序列をたった一年で覆してしまったのですから。大和球士さんは、尊敬の念を込めて三原さんを「教祖」と呼びます。そして、日本一に導いた勝因として2つの点を挙げます。ひとつは、実績十分の三原に対して選手たちは無条件心服であったこと。二つ目は、三原はその選手心理を利用して、教祖的な態度を貫いたこと。たとえば、大和さんは、こんな例を挙げています。以下、『野球百年』(時事通信社)より引用。「監督就任直後のキャンプの第一声は、『・・・こんなに優秀な選手が多くいるチームとはキャンプインまで知りませんでした。優勝する実力のあるチームです』。前年度までビリ専門だったチームを知っている記者たちは、当然疑問を抱く。ところが、三原教祖のご託宣はこう続く。『優勝チーム・・・と私が言うと諸君(記者)は疑うが、疑うほうがどうかしている。形は違うが秋山は稲尾級の勝星を挙げられる投手だし、近藤和、桑田の打力は豊田、中西に匹敵します。捕手土井に至っては西鉄に見当たらぬ好捕手ですよ・・・』。三原監督時代の西鉄捕手は和田博だったと思いますが、彼はこの発言をどう聞いたのでしょう?(笑)ま、それはさておき、活字になった三原談は、選手たちの長年の劣等感を吹き飛ばし、自信を植え付ける。マスコミを利用する技術では三原は抜群である。と同時に、三原は選手に催眠術をかけたのだ。 ■まさに三原魔術とでも言いましょうか。でも、大和さんの挙げる上記2点だけで日本一になれるはずもありません。大洋の改革には、まだまだ他の要素も、あちこちに散りばめられていました。球団常務という肩書をつけて大洋に乗り込み、まず三原の野球観を土井淳捕手を利用して他選手に徹底的に教え込んだことが挙げられます。そしてマスコミの関心を集める目的で、意図的に春季キャンプをどのチームよりも早く開始したこと(つまり、記者にとってネタ枯れの時期ゆえ、皆、大洋のキャンプを訪れる!)や、成績が伴わずに腐っていた投手を再生させる(権藤正利)、他球団で燻ぶっている選手を引き抜く(近鉄・鈴木武)などの戦術も見逃せません。ちなみに、優勝した昭和35年のベストオーダーは、下記のとおりです。1(8)渡辺清2(7)岩本堯3(3)近藤和彦4(5)桑田武5(9)黒木基康6(4)近藤昭仁7(6)鈴木武8(2)土井淳そしエースは、もちろん秋山登でした。(写真)日本一のチャンピオンフラッグを背に、三原脩監督(右)と中部謙吉オーナー。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より。
2016.03.10
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■NHK「ヒーローたちの名勝負 江川攻略、銚子商執念の9か月」を見た。昭和48年夏の甲子園、銚子商高対作新学院高戦を、当時ボクはテレビで見ていた。そして延長12回裏、江川は雨で手が滑り、満塁の場面で押し出し四球を出したシーンを憶えている。生来「天の邪鬼」なものだから、大スター・江川卓を好きになれず、銚子商を応援して勝利の瞬間には小躍りして喜んだものだった。最後の一球は、雨が江川の手を滑らせた、雨が銚子商を勝たせてくれたとボクは信じていた。しかし番組を見て、江川のこの一球に至るまでの(いや、至らせた)プロセスを初めて知ることができた。スポーツにはすべて「流れ」がある。野球も同様で、銚子商が「流れ」を呼び込んだ理由は、凄まじい執念があったからだった。(昭和48年、夏の甲子園2回戦)作新 000 000 000 000 =0銚子 000 000 000 001X =1(作)●江川、(銚)○土屋■全国制覇を目指す銚子商にとって、江川攻略は絶対条件だった。江川から点を奪わない限り、その先はない。なにせ「ストライクと思ってバットを振りだすと、急にホップして高めのボールになる」速球。「こめかみにぶつかりそうなってのけ反ると、アウトローに大きく曲がる」カーブを自在に操る江川である。高校時代は公式戦だけでも完全試合2、ノーヒットノーランを10試合も達成したほど。ひとは江川を「怪物」と呼んだ。斉藤一之監督はじめ銚子商ナインは江川対策に知恵を絞った。甲子園で対戦する9か月前からである。再三にわたり作新学院に練習試合を申込み、江川の球を選手の目に焼き付けた。そして得た結論は「バットをコンパクトに振る」「高めの球に手を出さない」。また江川の一球一球に目を凝らし、投球の癖も発見した。そして江川から最少得点の1点を奪うイメージを掴むため、5点差で負けている試合でもスクイズを敢行した。■そして昭和48年、夏の甲子園2回戦で、ついに対戦が実現した。銚子商のエース・土屋正勝は江川に負けじとばかり「生涯最高のピッチング」(本人)を披露。試合は0-0のまま延長12回裏を迎えた。すると、この場面で雨が一層強く降り出した。ふつう集中力が途切れがちになるが、銚子商ナインは逆に気持ちを強くした。なぜなら「江川は、晴れの日はバテやすい。曇りの日は絶好調でノーヒットノーランが生まれやすい。雨の日は苦手」というデータを持っていたから。「この試合は勝てるぞ!」その自信が影響したのか、1本の安打と2つの四球で一死満塁のチャンスをつかむ。ここで打席に入ったのが長谷川泰之。カウントは2-3のフルカウントになると、斉藤監督からのサインは、これまでの「打て!」から一転、「スクイズ」に変わった。一死満塁、フルカウントの場面でスクイズは常識的に考えにくい。いかにチームで一番バントのうまい長谷川であってもだ。まるでこの瞬間のために、練習試合でスクイズを敢行したと思えるほど。そして江川が投じた球は大きく高めに外れ、長谷川はしっかりと見逃して押し出しの四球となった。そしてそれは江川の高校最後の一球になった。■最後にスクイズのサインが出ていたことを、ボクはまるで知らなかった。あらためて画像を見ると、江川が振りかぶった瞬間、長谷川の両手が少し離れているように見えた。銚子商勝利のウラ側には、こうした江川攻略に賭けた執念があったのだ。高校野球はめまぐるしく「流れ」が変わるのが常。それは技術の未熟さや相手チームの研究不足、そして強行日程などが微妙に絡む。しかし攻略すべき対象が明確な場合は別だ。事前に手を打ち「流れ」を呼び込むことが可能になる。同じ年のセンバツでは、やはり江川攻略に向けて「(江川を)打たなくても得点する野球」を目指した広島商が、機動力を使って作新学院に勝利したこともあった。弱者が強者を倒す。それを見るのがボクの野球を見る楽しみである。※あ、そうそう、現・国際武道大の岩井美樹監督が当時の銚子商の選手だったことを、ボクは知りませんでした・・・。■最後に、youtubeで見つけた江川の高校時代の投球。対銚子商戦は見つからなかったので、対広島商戦をアップしておきました。 今日も1クリックお願いします
2013.07.02
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一週間ぶりの再開です。しばらくお休みする予定でしたが、ブログを書けるときは「断続的」に書くことで再開したいと思います。やはり、このブログを書くことが生活のリズムになっています。もうそろそろ丸二年にもなるし。また少しずつやっていきますので、再びよろしくお願いします。----------------------------最近「組織活性化」やら「マネジメント」に関する、いわゆるビジネス書を読んでいる。実に久しぶりのことで、10数年ぶり。そんな時、頭に浮かんだのは元近鉄監督の西本幸雄氏のこと。西本幸雄。和歌山中-立教大-八幡製鉄-別府星野組-毎日-阪急-近鉄。若いヒトには馴染みの薄い名前かも知れないけれど、パ・リーグのお荷物と、その昔呼ばれていた阪急や近鉄をリーグ制覇できるまでに育てた「鉄拳」の監督。TV「プロ野球ニュース」に出演していた白髪オジサンといえばわかりやすいかもしれない。この西本さん。阪急の監督時代に、低迷を続けるチームを立て直すため(いや、嫌気がさし?)選手を集めて、「監督を自分(西本氏)が続けていいと思えば○、ダメだと思えば×を紙に書いて投票しろ」と指示をした。そして「もし×が一票でもあれば、オレは監督を降りる」と付け加えた。有名な「監督信任投票事件」である。そして、その結果は...○が32票、×は11票、そして白紙は4票。結果を尊重し、西本さんは前言のとおり、監督を辞した(その後、結果としてフロントの積極的な慰留により、辞意を撤回することになるが)。西本さん、なんとわかりやすい「マネジメント手法」だろうか。いや、マネジメントなどという米国流のソフトな言葉は似合わない。選手に「魂と魂のぶつかりあい」を求めているかのよう。「×が一票でもあれば辞める」なんてセリフは、あまりに潔い。というか潔すぎる。当時選手だった米田哲也氏。「本当に辞めると思っていなかったし、とにかく厳格な監督さんだから、二日酔いの選手は試合に出してくれなかった」と、後日語っていたようだ。管理野球全盛の昨今、二日酔いで試合に出るほうがどうかしていると思うけど、昭和41年当時は、そんな選手は当たり前にいたようだ。とまれ西本さん、究極の管掌術で偉大な実績を作った。たんにビジネス書の類のマニュアルを読むのではなく、その精神も少しは学びたいものだ。※詳しくは、こちら。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.23
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