2009年11月22日に行われた 「セ、パ両リーグ誕生60周年記念試合・プロ選抜vs
大学日本代表」
のこと。
■5回裏、二塁打コースの打球を左中間に放ちながら一塁にストップしていた 中田翔
(日本ハム、大阪桐蔭高)。次打者・ 銀仁朗
(西武、平安高)の右前安打で二塁をまわ
り、(なぜか)一旦ストップした後に三塁へ走ったものの、ベース直前でタッチアウト・・・。
ライトを守る 越前一樹
(立正大3年、横浜高)の好返球は見事だったが、中田の走塁
はあまりに恥ずかしいプレーだった。というか、哀れでさえあった。この中田にアウトを
宣告したのは、東京六大学リーグ所属の審判員・ 林清一
さん(早稲田実-早稲田大)。
この試合では4人の審判員が出場した。NPBが2名、アマが2名。林さんはアマ選出
の審判員として三塁塁審を務めていた。
■神宮でよく聞く審判名なので、ボクも名前だけは知っていたが、林さんの肩書は東京
六大学リーグ審判員だけにとどまらない。
他にも建設会社社長、日本野球連盟国際審判員、日本高校野球連盟審判員、全日本
リトル野球協会・リトルシニア委員会関東連盟理事などの肩書がズラッと並ぶ。そして
アテネオリンピックの際には、日本からただ一人派遣された野球競技審判員でもある。
アマチュア野球界の「大御所」的な存在と呼べば当たっているだろうか?
甲子園(高校野球)でも審判を務めているから、林さんは今日の試合に出場した多くの
選手たちの高校時代のプレーをジャッジしてきた。成長したプロ選手のプレーを直接
見ることも楽しみだったに違いないが、中田のプレーには愕然としたのではないか。
「アウト!」を宣告した直後、林さんの表情は怒りに満ちたものにボクには見えた。
■林さんの甲子園での過去のジャッジには、審判員としての厳格さを示すエピソードが
ある。それは1988年8月16日に行われた2回戦・豊田大谷高vs宇部商高戦。
この試合で 「甲子園史上初のサヨナラボーク」
といわれる高校野球史にページを刻む
事件が起きた。
(延長15回)
宇部 000 011 000 000 000 =2
豊田 000 001 001 000 00 1
X=3
その内容は---。以下、wikipediaから一部を引用。
スコア2-2で迎えた延長15回裏、豊田大谷高は左中間安打とセカンドエラー、そして
敬遠もあって、無死満塁のサヨナラ勝利のチャンスを作った。そして次打者は7番・
持田泰樹。
カウント2-1から宇部商高の先発・ 藤田修平
が211球目を投げようとセットポジション
に入って腕を少し前に出した時、捕手・上本達之が示した2度目のサインに驚き、
投手・藤田は無意識に投球動作を中断し腕を後ろに戻してしまった
。
この行為を見逃さなかった 林清一
球審が、宇部商にとっては無情の「ボーク」を宣告
した。
(以上、wikipedia)
◇このシーンはニコニコ動画で見ることができます → こちら
へ。
■以上が「甲子園史上初のサヨナラボーク」のあらまし。以前、「KY」という言葉が流行
したことがある。もしこの時、林さんが観客やテレビで観戦するファンの空気を読んで
いたら、ボークを見逃して藤田投手に打者と勝負をさせる方法もあった。だが林さん
はルールに厳格に従ってボークを宣告した。
後日、この試合を振り返って林さんは 「忘れることのできない試合です」
(※1)と話して
いた。そして藤田修平投手も後にこんなコメントを残している。
「あの炎天下の中で、ボークを宣告した林さんはすごいと思う。あの状況で冷静な判断
が出来ることがどれだけ難しいか。いろいろ言って下さる方もいましたが、結果的にミス
をしてしまったのは自分ですから。出来れば林さんとお話してみたい」
(※2)
そして、
「あの場面で判定を下す審判の方も勇気がいったでしょう、それが分かった時からいい
思い出になりました」
(※3)
(※1)と(※3)はブログ 『行くぞ メディック 離れるな!』
より引用。
(※2)はwikipediaより。
■林さんの毅然としたジャッジをたまたまテレビで見て、それがきっかけになって審判の
道に進んだ人がいる。それは記念試合で林さんと一緒に二塁塁審を務めた 秋村謙宏
さん。
【東都2024秋入替戦(1部2部)】第1戦は、… 2024.11.17
【東都入替戦2024春】東農大・長谷川優也… 2024.06.30
【東都入替戦2024春】東農大が31年ぶりに1… 2024.06.28
PR
Keyword Search
Calendar
Comments