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[昨日からの続き](後編)第四期 再び森田の勉強を始める~現在学習塾で教えるためには教える分野をあらかじめちゃんと理解しておかなければなりません。そのために算数や数学の教科書を買い込んで勉強をはじめましたが、低学年用のやさしい算数の教科書を読んでもまたぞろ不完全理解感に苦しめられました。それをそのままにして次の行や次のページに進めばいいのですが、どうしてもそれをなくそうとするはからいをやめることができません。入会して十一年になっているのにこのありさまです。私はいよいよ焦りを感じました。「自分はこのままずっとこの先、死ぬまでこのような状態で生きていくのだろうか。」と思うと、またまた机で頭を抱え込んでしまう日々が続きました。そんなある日、一九八一年(昭和五六年)の秋でしたが、本当に久しぶりに何気なく発見誌を手に取り、体験記を読み始めました。その内容はがん恐怖をどのように乗り越えたかという主婦の方の体験でしたが、読み終えて私は非常にショックを受けたのです。それは、森田理論が素晴らしく体系化されていて、まるで偉大な建造物でも見るかのように思われたからです。私より五年も十年も遅れて入会されたかたが、森田理論学習と実践によって私よりも早く立ち直っていくのを目の当たりにしたからでもありました。自分に対して非常に情けなさを感じると同時にこのままではだめだと競争意識も湧いてきました。「かかとを踏んで迫ってくる後進」ということばがありますが、かかとを踏まれるどころか、自分をはるかに追い越して先方を走る後進の姿が見えました。それ以来、私は何とか立ち直らなければいけない、森田の勉強と実践によって立ち直ることができるかもしれないと思いました。発見誌は毎月一ページも欠かさず、すみからすみまで読み通すようにしました。その半年後、一九八二年(昭和五十七年)の二月から岐阜集談会に出席し始め、一年間無欠席で通しました。十年間のブランクのあとにようやくまた新しいときがやってきたわけです。それからも、なるべく発見会活動に参加しようとして東海地区一泊学習会・三ヶ月基準型学習会・足柄寮での四泊五日合宿学習会などに参加し、自分の心のありさまをかなり客観的に見ることができるようになりました。その間も学習塾を開くために数学や英語の勉強は続けました。苦しみながらも少しずつページは進んでいきました。毎日小さな恐怖突入を繰り返していったような気がします。特に強迫観念の人は行動が湿りがちですから毎日少しずつでも恐怖突入を繰り返すことが肝腎ではないでしょうか。継続は力なり、です。こうして、さまざまな行事に参加して相当心が軽快になり、自信もついてきましたので思い切ってとある学習塾へ転職しました。一九八三年(昭和五八年)の冬のことでした。この学習塾では塾の経営の仕方を含めていろいろ勉強することができてありがたかったのですが、何せ土曜日曜に授業をするという塾でしたのでどこの集談会にも出席できなくなってしまいました。しかし一九八八年(昭和六十三年)一月、S理事(当時)のご努力で名古屋水曜集談会(最初の数年間は懇談会)が発足し、また集談会に出席できるようになり、それから十五年間、名古屋水曜集談会とともに歩んで現在に至っています。なお、一九八九年(平成元年)三月、独立して学習塾を始めました。欲望と不安ところで、岐阜集談会に出席し始めて四、五回目のころだったと思いますが、休憩時間のときに隣に座っていたOさん(家庭の主婦、不潔恐怖)が、「Water2046さんは、強迫観念になる前は勉強が好きだったんでしょう?」と話しかけてくれました。(Water2046、驚いて)「ど、どうして分かるんですか?」(Oさん)「私も不潔恐怖になる前は洗濯が好きで好きでたまらなかったから。」お聞きすると、Oさんは、とても洗濯好き、家族の衣類が洗濯によって白く輝くのを見るのがたまらないほど好きだったそうです。ところがあるとき、干してあった洗濯物を取り込もうとしてそのうちの一枚をうっかり床か地面に落としてしまいました。あわてて拾い上げましたが、それがすっかり汚れてしまったような気がして、もう一度洗いなおすことにしたのですが、その後、洗ったものがすべて不完全に思えて同じ洗濯物を納得するまで一日に何度も何度も洗い直すという強迫行為を繰り返すようになってしまい、そのために洗濯機が一年で壊れてしまって、ご夫君にしかられてしまったとのこと。私はこの話を聞いて、「不安は欲望の半面であり、欲望が強ければ不安も強い。」という森田の教えを目の前で見たような気になりました。私流の言い方をすると、「(強迫観念に陥る場合、)欲望の一番強いところに最初の不安が現われる。」ということになります。自分のことはなかなか目には見えません。人から聞いてよくわかりました。そうか、「勉強好きの勉強嫌い」のからくりはこういうことだったのかという感動は大きいものがありました。このとき、私は生涯、集談会に出席しつづけようと決心した次第です。「~好きの~嫌い」の~のところにご自分のとらわれを当てはめてみると欲望と不安の関係がよく分かるのではないでしょうか。強迫観念が「生涯の友」へ私の数学恐怖はその後どうなったかということをお話しておきましょう。前述のとおり、森田の学習と実践によって、強迫観念のほとんどは治りました。数学恐怖も相当の軽快感を得ることができました。しかしどうもまだスキーの板を履いて街中を歩いているようなもどかしさといいますか「もたもた感」を常に感じていました。そこで、あるとき名古屋水曜集談会の理論学習の最後に行われるミニ総括のコーナーのときに、思い切って「実は今まで一度も口に出したことはありませんが、まだこういうことに悩んでいます。」と、数学恐怖のことを話してみました。そうしたら意外にもすんなりメンバーから受け入れられたのです。そのことでさらに一層心が軽くなるのを感じました。そののち、塾の授業のときにこんなことがありました。小学生に算数を教えていて、ふっと思いました。「この子らに微積分の教科書を渡したらどうだろう、理解できるだろうか。」もちろん普通の子どもでは理解できません。「いくらその意志があっても理解には段階が必要だよなあ」と思ったとき、待てよ、このことば、どこかで聞いたぞ。そうです。行動の原則第十番「理想は高く、実行目標はこきざみに。小さな成功を積み重ねること。」、でした。この中で「理想は高く」に改めて注目してみました。これまで私はこの部分を否定しようとしてきたのです。しかし否定しないでもいいのではないか、むしろ理想は高いまま、理解の段階をこきざみに設定してその段階ごとの理解をめざせばいいのだということにようやく気づいたのです。このように勉強恐怖・数学恐怖の人間が子供たちに勉強を教えるというのは毎日がまさに恐怖突入であったのですが、教えるということを通してずいぶん多くのことを教えられました。立ち直っていけたのは子供たちのおかげでもあると思っています。授業は第二の集談会でもあったようです。数学に対する不完全理解感はこれからもなくならないでしょう。それでよいのです。しかし、生涯の友になりつつあります。それはつまり、適度な不安という友、転ばぬ先の杖という友です。森田ではよく言われることですね。結び今年で会員歴三十三年になりますが、私はこれからも生活の発見会のメンバーとして集談会に出席していきたいと思っています。このことしか私が受けた恩恵をお返しすることができませんので。最後に、故水谷先生、故長谷川先生をはじめとして多くの先生方にはたいへんお世話になり、またご指導を受けました。この場をお借りして深くお礼を申し上げます。また、この社会を不器用に、四角く、わがままに生きてきた私を受け入れてくれた妻と三人の子供たちにありがとうと一言言って拙稿を閉じさせていただきます。どうもありがとうございました。以上になります。お読みになっていくらかでもお役に立てば幸いです。
2015年10月04日
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ハンドルネーム Water2046 の森田神経質の体験談を再掲載します。これは2003年12月号の発見誌に掲載されたものですので年齢は56歳時点(12年前)になります。いわゆる神経症・神経質症は、そのままの表現になっていますが、森田神経質と言われるものと同じです。======ここから========================================勉強恐怖を乗り越えて学習塾経営へ(前編)強迫観念との長いつき合い私の強迫観念はちょっと一風変わっておりまして、読書恐怖あるいは勉強恐怖の一種で、数学(他に英語や理科でもそうですが)に対する不完全理解恐怖とでも言うべきもので、不完全恐怖のひとつとも言えるでしょう。他の神経質症はほぼすべてクリヤーできた後もこれだけはなかなか良くなりませんでした。頭の中ではどうすればいいのかはよく分かっているつもりでしたが、実際には数学の教科書や参考書などを読むとどうしても不完全理解感が起こってくるのでそれをなくそうなくそうとはからってしまうのでした。また、私のとらわれがちょっとマイナーなものに思われて、他の人に「実はこのようなことに悩んでいます。」ということをなかなか言い出すこともできませんでした。話しても理解してもらえないんではないだろうか、こんな悩みは自分ひとりではないんだろうか、などマイナス思考が頭の中を渦巻くのでした。しかしこのたび、投稿の機会を与えられ、もう五十台の後半、自分を振り返るいいチャンスではないかと、思い切ってこれまでのことを四つの時期に分けて書いてみることにしました。第一期 神経質症に苦しんで森田を知るようになるまで第二期 森田を知り、就職するまで第三期 生活の発見会の会員でありながら何の活動もしなかった十年間第四期 森田の勉強を再開してから集談会に積極的に参加して現在に至るまでただし、紙数の関係で第一期から第三期までは簡単な記述にとどめることとし、主に第四期についてお話していきます。ところで、あらかじめお願いしておきたいことがあります。これから主に勉強恐怖や「数学に対する不完全理解感」に関する強迫観念(長いので『数学恐怖』と略称します)についてお話するのですが、勉強とか数学とかはちょっと重苦しいテーマです。そこで、勉強とか数学のところを「対人」とか「閉所」「乗り物」など、ご自分のとらわれに置き換えてお読みいただきたいのです。そうすれば、重苦しさも幾分は軽減されるのではないかと考えています。なるべく置き換えても話が通じるように努力して書いてみましょう。第一期 神経質症に苦しむ私は岐阜県在住、五六歳、小さな学習塾を経営、五人家族です。一九四六年(昭和二十一年)十一月、九州は福岡県飯塚市で長男として生まれました。子どものころから執着性が強く心配性、さらに完全欲が強いといった神経質性格を持っていたようです。強迫観念のきっかけは一九六三年(昭和三十八年)、高校一年の冬に数学の勉強をしていたある日のことです。そのとき、たった今勉強して理解したと思っていたところをどうも完全には理解していないのではないかという観念にとらわれました。それまではそういうことは全くなかったので非常に不安になりました。これはいけないというわけで,そこのところをもう一度勉強して次へ進もうとしたのですが、するとまた先ほどの観念が起こってきてどうもまだ理解していないのじゃないかという気持ちになるのです。次第に心が苦しくてたまらなくなるので何とか分かったという気になろうとして、同じ所を何回も何回も堂堂巡りをするようになりました。そのうちに、英語だとか物理にもとらわれるようになりましたが、特に数学の本を読むときにひどく、一晩かかっても一ページはおろか一行も先に進めないということがよくありました。これらは実は私の好きな科目でしたので、当時はどうして好きな科目に不完全理解感が噴き出してとらわれてしまうのか分かりませんでした。分かったのは、後年、森田を勉強してからのことです。こうして、とらわれはだんだんひどく、しかもいろんな方向に広がっていきました。勉強恐怖・読書恐怖のほかに、詮索癖・不完全恐怖(戸締りやガス栓など)・雑念恐怖・祈念恐怖(むしろ祈念癖とでも言ったほうがいいでしょうか)・不潔恐怖・疾病恐怖・精神病恐怖などの強迫観念にとらわれ、そのために生活がひどく後退し、集中力が極端に低下、身体的にも慢性的な便秘、食欲不振、不眠などに悩まされてきました。生活の後退とともに、学校の成績もどんどん下がっていきましたが、さすがにこれは何とかしなくてはいけないという気持ちも起こってきました。そしてご多分にもれず、誤った行動に走ってしまうわけですが、具体的に一、二、申し上げますと、不完全理解感が起こるのは言葉の勉強が足りないせいだと考え、日本語に関する本とか哲学の本をせっせと買い込んできては学校の勉強そっちのけで読みふけってしまいました。ところが結果は頭を混乱させるだけで何の役にも立ちませんでした。こういう毎日でしたが、他の人たちの体験にあるように、いろんな療法や健康法を試すとか医者に通うとか薬を服用するということは一切ありませんでした。これはいまだに不思議な気がするのですが、自分のことだから絶対自分で解決するんだという執着性のためだったのでしょう。頭の中はまるで戦争状態でした。大学入学後は名古屋に下宿しましたが、下宿生活の気ままさのせいもあり、生活はさらにいっそう後退し、ついには昼夜逆転の生活が続くようになり、下宿に引きこもる日々が多くなりました。自分の不勉強が人にわかるのではないかと思うようになって人の目が怖くなったり、学友がどんどん勉強を進めていく姿を見るのがつらくなったりしたからです。そして実際に本を読んでいくという努力もしないで、自分はこんなに理解ができないのに他の人はどうしてああもやすやすと理解できるのだろうと嫉妬したり、こんなことも理解できないとは自分が情けないと思って机で頭をかかえる日々でした。このような状態が高校一年の終わりごろから大学四年の終わりごろまで六年間続きました。第二期 森田を知り就職できた一九六九年(昭和四十四年)の三月、本来なら大学を卒業する月ですが、留年することにして社会に出て行くことを一年先延ばしにしてしまいました。このような状態ではとても社会人になる自信がなかったのです。そんなある日、下宿近くの本屋さんで全く偶然に森田療法の本に出会ったわけです。最初に手にとったのは「自覚と悟りへの道」(ノイローゼに悩む人々のために)でした。勉強の本はちっとも進みませんでしたが森田の本は一晩で何冊も読めました。こうして森田に出会って非常に心が軽快になり、一時期勉強もはかどるようになりましたが、そこは独学の悲しさ、またまた以前の状態に引きずり戻されるようになってしまいました。その後、意を決して著者である水谷啓二先生に手紙を書き、さらにその一年後、啓心会日曜集談会に出席させていただきました。一九七〇年(昭和四五年)九月のことです。会は東京都練馬区の水谷先生のご自宅で開催されました。しかしこのときには残念ながら水谷先生はすでに亡くなっておられました。啓心会日曜集談会には四回出席させていただきましたが、集談会との最初の出会いであり、さまざまな助言・激励を受け大変心が軽快になることができたこの会での様子のことはいずれまた別の形で投稿できたらと考えています。このように啓心会日曜集談会から元気をいただいたおかげで、ようやく社会に出て行く自信を得ることができるようになりました。第三期 森田について不活動の十年間かろうじて大学を卒業、長野県の精密機器製造会社に就職しました。とらわれはありましたけれども数学とか物理とか英語といったような私を苦しめた対象がなくなって、学生の頃に比べればかなり気持は楽でした。というのは、自分の専攻(理学部物理学科)と全く異なる職場に配属されたからです。ほっとしたというのが正直なところです。ちょっと情けないですが。しかし、就職してからの十年間は森田についてはまったくの不活動の時期でした。恐怖の対象がなくなってしまったため発見誌も読まず、あれだけ一生懸命通った啓心会日曜集談会にも出席せず、集談会のなかった山梨県に集談会を作ろうということも思いつきませんでした。(一時期、長野県から山梨県に転勤していました。)また、妻にも森田と発見会のことは十分に説明しておらず、そのために会に出席できにくかったという記憶もあります。私の経験から言いますと、家族にはなるべく早く話すほうがよい結果をもたらすようです。たしかにこの十年間は森田に対して不活動で、私はよく第二のトンネルと言っていました。しかしよくよく振り返ってみるとこの十年間に、結婚し、三人の子どもを授かり、引越し五回、転職を含む転勤六回と、まさにそれまででいちばんの激動の時期であったことがわかり、今では自分もよくがんばってきたなあと、自分を認める気持ちになっています。一九七九年(昭和五十四年)に長野県の会社を退職して、三重県桑名市の小さな会社に再就職しました。ところが、前とは全く異なる職場環境のために、強い適応不安を起こし、人間関係の上でも内外で衝突や摩擦を起こしました。仕事は思いのほかきつく、いつも帰宅が午後九時十時となってしまうのです。私は将来に不安を感じ、郷里で学習塾を開こうとひそかに考えるようになりました。======ここまで======================================以下、10月4日の日記の続きます。作成日: 2015年10月4日(日)
2015年10月03日
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