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2017.02.10
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カテゴリ: 探訪 [再録]

                              [探訪時期:2015年11月]
2015年11月初旬、秋の寺社特別公開の期間が終わるぎりぎりに、 「平等寺」 を訪れました。平等寺というよりも 「因幡堂」の通称の方でよく知られている と思います。私自身も因幡堂で覚えていましたので、平等寺という正式名称を聞いたとき、ピンときませんでした。今回はこの平等寺をご紹介します。なぜ、因幡堂? それは後ほど・・・。

鴨川に架かる五条大橋から一つ上流側(北)に松原橋が架かっています。この松原通を西に進むと、烏丸通に出る一つ手前の南北の通りが不明門通です。松原通と不明門通の交差する北西角付近に、冒頭左の写真の石標があります。不明門通を北に上ると、突き当たりが平等寺(因幡堂)なのです。南門前の左側の石灯籠に今回の特別公開案内板が立て掛けてありました。以下、呼び慣れている通称で表記します。

不明門 を何と読むのか?  「あけず」 と読ませているのです。それは源平争乱の時代のことですが、因幡堂のすぐ南に高倉天皇の住まいである「東五条院」があったので、御所に遠慮して南門を開けなかったそうです。そのため、真南の通りが不明門 (あけず) と称されるようになったのだとか。
(たちばなのゆきひら) の屋敷があったところです。行平が長保5年(1003)に屋敷を改造してお堂を作り、「因幡堂」と名づけたのです。承安元年(1171)に、高倉天皇により「平等寺」と命名され、勅額を贈られたと言います。 (駒札、資料1)
現在は、真言宗智山派の寺院で、山号は「福聚山」です。








本堂


本堂の正面、向拝の鰐口の上部には、阿弥陀像の付けられた扁額が奉納されています。

木鼻 の象も彫りが深いものです。金網で覆ってあるのが少し残念なところ。




当日、本堂内を拝観した後で購入したのがこの 図録
因幡堂と行平が命名した由来が、 「因幡堂縁起」 として残されているのです。現在その縁起は 2つの系統 のものがあり、 一つは東京国立博物館が所蔵する『因幡堂薬師縁起絵巻』 で、 もう一つがこの因幡堂が所蔵されるもので、因幡堂縁起三巻 だそうです。因幡堂のものは、東寺の観智院が詞書だけの縁起として所蔵するものと同系統になると言います。両系統の記述内容には少し差異があるそうです。

(資料2)
「伝記に曰く、この本尊、天竺祇園精舎四十九院の内、東北の角、療病院の本尊、等身、栴檀木の像にして、釈尊みづから刻み給ふ聖容なり。かの伽藍破壊に及ばんとする時、東方さして飛び去り給ふ。しかるに一条院の御宇長徳三年、因幡国賀露津の海面に夜々光あり。国司橘行平卿漁人に命じて網をおろさしめ海底を潜しむるに、光明赫奕 (かくやく) たる薬師仏を引上げ奉る。その後七年を経て長保五年四月七日に、行平卿の居館烏丸高辻に忽然として飛来し給へり。則ち館を仏閣に造りて安置し給ふ。今の因幡堂これなり。」

上掲図録に載る縁起絵巻の説明には、天徳3年(959)に橘行平が神拝を目的に因幡一宮に赴くことになり、参拝を無事済ませた後、病に倒れたと記されています。その折り行平の夢に僧が現れ、賀露津に浮かぶ木を引き上げよと告げたと言います。賀露津で安大夫という90歳の老人から、海底に40年間光り続ける物があるということを聞くのです。そして、それを引きあげると、薬師如来像だったという次第です。
因幡一宮は現在の「宇倍神社」です。

現在、本尊は本堂の南東方向に設けられた収蔵庫に安置されています。

上掲図録から引用したものですが、 本尊薬師如来 です。日本三如来の一つと称されています。
三如来とは「阿弥陀・釈迦・薬師の三つの如来。特に三国伝来とされる長野善光寺の阿弥陀如来、嵯峨清涼寺の釈迦如来、京都因幡堂の薬師如来をいう」 (『大辞林』三省堂) とのことです。
鎌倉時代の作である釈迦如来立像(1213年作、重文)も収蔵庫に安置されています。 普段は非公開 です。

少し、脇道に踏み込みますが・・・・。
絵巻には、この薬師如来像を引き上げた行平が、その近くにこの薬師如来像を祀るお堂を建て、末子をその管理に残したと記されています。7年後にこの薬師如来が京の都に飛び去ったことになります。上記『都名所図会』には、「後光・台座は因州に止れば座光寺と号して今にあり」 (資料2) と付記しています。一方、上掲図録の縁起絵巻の説明文に、「光背と台座の残された寺は『座光院』と改称し、山の上に移された。」「座光院では、残された台座に新たに作った仏像を置いたところ、仏像は釈迦自作の台座に立つことを遠慮し、台座から飛び降りた」という内容が詞書に記されています。

縁起絵巻には、「寛弘元年(1004)、行平は薬師如来像のご利益で因幡守になることができた」とあるのです。東京国立博物館所蔵の『因幡堂薬師縁起絵巻』の解説では、「行平は寛弘2年(1005)、因幡国司となり」と説明しています。
一方、上記図会の説明を言葉通りに読むと長徳3年(992)に橘行平が「国守」として因幡にいるという意味になります。駒札の説明文も、長徳3年(997)は国守橘行平の帰任の年とあります。
とすると、縁起絵巻にある「神拝のため因幡一宮に赴く→因幡堂建立→ご利益として寛弘元年(1004)国司に」という経緯は、駒札の説明と史実を合わせた「国司から帰任→因幡堂建立→寛弘2年(1005)因幡守に」という経緯との間に差異があることになります。史実の行平は、寛弘2年(1005)に因幡守に任ぜられ、前任者の不正を摘発するということを行っています (上掲図録より) 。探究課題が残りました。

「座光寺」は今も存在するのか?
ネットで調べてみると、鳥取県に「因幡薬師霊場会」の第28番札所として「菖蒲山 座光寺」というお寺があります。天徳年間(957~61)に創建され、薬師寺と称されていたお寺であり「およそ四十六年間、安置していた薬師仏を、因幡国司に赴いた橘行平が京都に持ち帰り、自家を改築して因幡堂と称した・・・・一方、因幡の薬師寺では、残った台座と光背をもって座光寺と改称」 (資料4) と説明されています。この説明の「因幡国司に赴いた橘行平が京都に持ち帰り」という方が現実的な気がします。

尚、「像容が994年頃に制作された真如堂(京都)本尊の阿弥陀如来像と酷似することから、京都の仏師によって10世紀末から11世紀初め頃に制作されたものと考えられる。体の奥行が薄く、背面に三つの節があるなど、仏像制作には不適な財が用いられており、これらの特徴と縁起の内容から、賀露の海に漂着した材で制作されたのではないかとの推測もある」 (図録) そうです。

脇道にそれましたが、色々な意味で興味深い仏像です。是非因幡堂にてご拝観ください。
もう一つ興味深いのは、この 厨子の背面にコロと呼ばれる車輪が取り付けられている のです。火事に遭遇すれば、厨子ごと尊像を避難させようという工夫がなされいるのです。収蔵庫内で厨子の背後のこのコロを部分的に見ることができます。この点も当時の人々の信仰心と防火対策としてのリスク管理が彷彿としてきます。一見の価値があると思います。そのこともあってなのでしょうが、薬師如来は頭に緩衝用の頭巾を被っておられるという珍しい姿で立っておられるということなのです。この薬師如来立像の作者は不明です。「一説には平安中期から後期にかけて仏師康尚によって作られたとも言われています。」 (因幡堂ホームページより)

本堂には「善光寺阿弥陀如来」が祀られ、外陣(右脇)には「弘法大師:「地蔵菩薩」、外陣(左脇)には「弁財天」「毘沙門天」「忿怒形三面六臂大黒天」が安置されています。木像橘行平坐像も安置されています


収蔵庫の前に展示されていたのがこの 飾り瓦 です。ケースの前に、「本堂大屋根の巴蓋として明治十九年よりお堂を守ってくれた『贔屓』」という説明が付されています。
これを見て、初めて、「巴蓋 (ともえぶた) 」という用語を私は知ったのです。
調べてみて、巴蓋とは軒先の隅巴瓦の分岐部分の隙間の上に雨漏り除けとして被せられた瓦を意味することを知りました。後に魔除けのための像などを乗せた装飾瓦へと展開されていくようになります。因幡堂で知りたかった専門用語を一つ学ぶことができました。
調べていて副産物として、軒丸瓦には巴紋が施されていることが多いことから、 「巴瓦」 とも呼ばれること (『大辞林』三省堂) も知りました。

「贔屓」 (ひいき) は、中国の伝説に出てくるもので、「龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子のひとつで、その姿は亀に似ている」 (資料5) というものです。

一度この因幡堂は史跡探訪の講座で訪れていますので、本尊はその時に拝見したのですが、今回は本堂の背後で発見されたものが特別公開されるということが再訪の動機でした。堂内では撮影禁止でしたので、 案内板の上部に掲載されている写真 をここに切り出して再掲します。

本堂の背面に、後から本堂内に入る扉が設けられてあり、その両側に描かれている仁王像が特別公開の対象となったものです。 鈴木松年筆「仁王像」 です。
鈴木松年は明治から大正にかけて活動した日本画家であり、「豪放な作風と狷介な性格で『曾我蕭白の再来』と評され、今蕭白とあだ名された」 (資料6) そうです。上村松園の最初の師としても知られるといいます。 (資料6,7)

また、本堂内の一室には、 「毛髪織込光明真言」、「伝小督局愛用のお琴 」、「伝小督局愛用の蒔絵硯 」など も展示されています。 (資料8)

本堂内部と「仁王像」他を拝見し、収蔵庫の本尊を拝見した後、境内を探訪しました。

門を入り、正面の本堂に向かって左側、南西方向に 「観音堂」 があります。堂内には本尊として二体の十一面観音菩薩像が祀られています。「元、北野天満宮に祀られた観音様で、東寺の観智院を経て当山に来られ、観音堂本尊として安置され」たという由緒があるようです。 (資料9)
因幡堂は、洛陽三十三観音の第二十七番霊場 でもあります。
右の写真は、観音堂の右脇に接合されたように建つ形のお堂です。ここには 「大聖歓喜天(聖天)」 が祀られているお堂です。

観音堂の北側、本堂の西側の境内に、3つのお堂が並んでいます。一番手前が上掲の歓喜天を祀るお堂です。その北隣が 地蔵堂 、そして 十九所権現(十九社明神) のお堂です。


十九所権現には、説明文を入れた額が掛けてあります。
その説明では、因幡堂の信仰が篤かった後白河院が当寺の鎮守が因幡国の一宮の祭神である竹内宿禰と聞き、如来の擁護としては力不足と判断して、院宣にて十八所の神々を勧請されたのだそうです。その後、ある人に西の宮夷の御嫡子・一童御前を加えよとの夢告があり、後白河院が許可されたのだとか。そこで、十九社明神となったのだそうです。


正面の開かれた扉の前から見ると、覆屋の中に横長に連なった社殿が見えます。
十九社 は次の通りです。天照大神、八幡、春日、賀茂、祇園、愛宕権現、松尾、熊野、北野、山王、住吉、摩利支天、妙音、辨天、白鬚、多賀、平野、御霊、蛭子(一童御前)。 畿内の著名な神社がまさに網羅されています。 「十九はいくに通ず(心願成就)」と末尾に付記されています。この語呂合わせ的なところも、言霊に通じるということでしょうか。


 この十九社権現の北側に神木があります。
この神木の一部だったものなのかもしれませんが、覆屋の扉の左右に、「阿樹 女」「吽樹 男」として神木が見え、触って元気をいただいてくださいと表示札が出ています。ここにも 「樹は気に通ず」 と。

北隣りには「閻摩天(焔魔天)」が鎮座しています。
その傍に説明板があります。「人々の生前中の行為を見て賞罰を与える。密教では除病・息災・延寿を祈ります。御本尊薬師如来とともに、健康と長寿を司られます。正面で膝を屈め、下から拝まれますと御利益をいただけます。」と説明されています。閻魔について、第2・3文のような説明を読むのは初めてでした。おもしろい。

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さらに、北隣には 「大日如来」を祀る小祠 があり、一歩下がった形でその左右に 金剛夜叉明王像 毘沙門天像の石像 が配置されています。 

金剛夜叉明王 は「仏教の五大明王の一つ。北方を守護し、悪魔を降伏する。五眼三面六臂の忿怒相で表される。」 (『日本語大辞典』講談社) 「金剛杵 (こんごうしょ) の威力を持つ夜叉 (やしゃ) 」という意味を示すサンスクリット語の名を持つ明王です。真言宗系の五大明王の一つです。如来の使者という位置づけになり、もともとはバラモン教やヒンドゥー教の神ですが、密教が成立する過程で取り入れられて生まれた仏であり、明王は如来、菩薩に次ぐ仏格に位置づけられるそうです。「明王の『明』は、神秘的な力をもつ言葉や呪文(真言)のことを意味します。・・・・如来の教えに従わない救いがたい人間や生き物を調伏、救済するために、如来の命を受けて怒りの形相(忿怒相)になって現れた仏とされます。」 (資料10)
天部の仏像である四天王のうち、北方を護る 多聞天が単独で祀られる時には毘沙門天 と称されます。毘沙門天もまた北を護る護国・戦勝神です。

現在では小さな境内になっていますが、数多くの神々や諸仏が集合されているお寺です。



本堂の屋根を西側から眺めて


屋根の獅子口 には、菊を橘が囲む形の紋が陽刻されています。本堂前の提灯の紋と同じです。これが寺紋なのでしょう。

入母屋造の屋根の合掌部にある懸魚は三ツ花懸漁のデザインです。
その下の部分の蟇股に鳳凰が彫刻されているようです。

手前の地蔵堂の屋根の軒丸瓦には、波がデザインされているのが目に止まりました。
これもまた、因幡堂縁起との関係から選ばれた意匠なのかもしれません。

築地塀の外側に 「がん封じ」の赤い奉納幟 が数多く立てられていました。
今では比較的小規模な寺域に、拝見できるものが数多く凝縮されたお寺です。

京都十二薬師霊場の第1番札所 であり、 京都十三佛霊場の第7番札所 でもあります。

ご一読ありがとうございます。

参照資料
1) 因幡堂 平等寺の歴史  :「因幡堂(平等寺)」
2) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注  角川文庫  p151-152
3) 因幡堂薬師縁起絵巻  東京国立博物館所蔵 :「e国寶」
4) 菖蒲山 座光寺
5) 贔屓 :ウィキペディア
6) 鈴木松年   :ウィキペディア
7) 鈴木松年   :「コトバンク」
8) 仁王画の叫び、復活の光 因幡堂で初公開 フォトギャラリー :「朝日新聞DIGITAL」
9) 十一面観音   巡拝案内 :「因幡堂(平等寺)」
10) 『仏像の見方ハンドブック』 石井亜矢子著 池田書店 p70,p80

【 付記 】 
「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。

補遺
因幡堂(平等寺)  ホームページ
平等寺(京都市下京区)   :ウィキペディア
因幡堂縁起と因幡薬師   中野玄三氏 論文
橘行平   :「コトバンク」
巴蓋(Tomoebuta)
巴蓋(ともえぶた)   :「淡路瓦」
隅巴蓋   :「タツミ」
隅留蓋(すみとめぶた)  :「MIHARA」
巴蓋(ともえぶた)   :「美濃邉鬼瓦工房」
隅巴蓋(すみともえぶた)の取り付け方。   :「お洒落な屋根 山田瓦店 参巻」
三人の師   上村松園  :「青空文庫」
東寺塔頭 観智院   :「東寺」
因幡国一の宮 宇倍神社  ホームページ
宇倍神社   :ウィキペディア

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!


その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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   この第1回からゴールの五条大橋、河原院跡までを4回シリーズでご紹介しています。





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Last updated  2017.02.10 10:15:04
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