遊心六中記

遊心六中記

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

茲愉有人

茲愉有人

Calendar

Comments

ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな(「アマテラスの暗号」)@ Re:探訪 [再録] 京都・大原の天台寺院を巡る -1 大原女の小径・大原陵・勝林院(10/16) ≪…「念仏により極楽往生ができるかどうか…
Jobim@ Re:観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -35 中国の龍 (6)(09/18) 中国の彫り物はさすがに手がかかっていて…

Favorite Blog

まだ登録されていません
2017.02.10
XML
カテゴリ: 探訪 [再録]
唐門    [探訪時期:2015年11月]
2015年11月、京都非公開文化財特別公開の折に、「妙法院」を訪れました。
所在地は、東山七条の東北角です。東大路通を挟み、西側は京都国立博物館。南側は豊国廟と新日吉神社に行く参道を挟んで南に智積院があります。東方向には阿弥陀ヶ峰があり、その山頂に豊国廟がある。巨大な五輪石塔が鎮座しています。


こちらが 「大門」 で、門の柱に 「妙法院門跡」 と掲げられています。 唐門は大門の南 で豊国廟への参道に近い位置で大門と同様、 東大路通に面し ています。 勅使門
天台宗延暦寺派の別院で、天台三門跡寺院の一つです。青蓮院、三千院(梶井門跡)とこの妙法院が天台三門跡と称されているのです。

大門を入ると、正面に 庫裏(国宝) が見えます。近世初期に建立された建物で、これがまず見応えのあるものです。建物の中に入って以降は建物内部も庭園もすべて撮影禁止ということで、誠に残念でした。
この庫裏の屋根裏の構造は、「うねる梁、息づく命 妙法院」として、この非公開文化財公開報道で紹介されているのを見つけました。 こちらからご覧ください。 (2015.10.28「朝日新聞DICITAL」いつかリンクが途切れるかもしれません。)

棟高は60尺近い(18m)建物だそうで、屋根は入母屋造でもとは檜皮葺(またはこけら葺)だったそうですが、防火上本瓦葺に改めたといわれています。軒下正面に唐破風の玄関が設けられています。拝観のおり、庫裏の建物にまず入りましたが、勿論通常の玄関入口は別に設けられています。

ここでご紹介するのは、建物を出てから境内伝いに拝見できた部分の写真に基づきます。

目に止まるのは私の関心事の一つである屋根の鬼瓦です。斜め側面から屋根を眺めると、楼閣風の小屋根という見事な 「煙出し」 (右)が見えます。


庫裏 屋根の鬼瓦

文禄4年(1595)頃には、既に現在地に移っていたと推定 されています。
豊臣秀吉が方広寺大仏殿を建立するに際して、大仏千僧会の執行と会場の管理に妙法院門跡を責任者としたそうです。大仏殿の完成は文禄4年で、この年に第1回 大仏千僧会 が実施され、 「千僧供養」 に伴う僧のための大量の膳部方の煮炊きはこの庫裏が使われたのだとか。一般的に庫裏は台所と僧侶の住居という機能を併せ持っています。しかし ここの庫裏は台所の機能のみに特化した構造 になっているのです。庫裡の大きさと豪壮さが頷けます。

江戸幕府は秀吉色を払拭する意図から、豊国神社破却に着手しました。時の妙法院門主はそれに協力する立場になります。結果的に、豊国社や豊国祭臨時祭の諸道具、秀吉関係の遺物の多くを妙法院が所蔵するに至ります。例えば、豊臣秀吉宛の有名な「ポルトガル国印度福王信書」(羊皮紙製)は妙法院所蔵です。1955年6月に国宝に指定されています。
(資料1,2)




庫裏の南隣りに、 「大玄関」(重文)の建物
入母屋造、こけら葺で正面左右に大小二つの唐破風屋根が付いています。



駒札に部分写真が載せられていますが、この建物内部に三室あり、狩野派により二十面の襖絵には巨大な松が金碧障壁画として描かれているそうです。 (この内部は対象外でした。)



大玄関は西面しています。大玄関前はかなり幅広い通路と築地塀沿いの庭です。南西方向に「唐門」があります。

駒札によれば、江戸中期の 桜町天皇が下賜されたもの といい、 勅使門 です。「唐門」と称されていますが、桧皮葺・切妻造・平入りの四脚門です。



大玄関の建物に近い築地塀前に 宝篋印塔 が建立されています。

 屋根の側面と獅子口には菊花紋が装飾されています。


屋根の棟を支える 大瓶束の両側の草花の透かし彫り もなかなかいいですね。





唐門の内側から門扉の上部の大瓶束の両側は側面のものとはまた違う草花の透かし彫りが施されています。蟇股の内側の右側は何か不可思議な彫り物です。




唐門の前に立つと、東方向に幅広い通路があり、東南方向に覆い屋が付けられて、数多くの石仏が安置されています。如来像の石仏群という印象をいだきます。仔細に観察はしませんでしたので、機会があれば再訪してみたいと思います。


  北東方向に「宸殿」が見えます。


  宸殿の西側から
宸殿は南面しています。南東位置から北西~西方向を眺めて。
宸殿の正面
檜皮葺の建物ですが、現在の建物は明治30年(1897)般舟三昧院より移建されたものだそうです。本尊は阿弥陀像、そして中世よりの歴代の天皇、皇后、中宮の位牌が安置されているようです。








正面の階段前には、柵がありますが、そこに 「七卿落」事件の経緯年表 が掲げられています。

文久3年(1863)8月に「8月18日の変」と呼ばれる政変が公武合体派により引き起こされました。その結果、ここ妙法院の宸殿に尊攘派の三条実美ら七卿と長州藩士とが集結し、密議をしたのです。そして七卿は西国・長州藩に落ちのびて行くことになります。
なお、七卿落ちの際に使用された宸殿の建物は明治5年(1872)に京都府療病院(京都における最初の公立病院)に提供されたといいます。 (資料1)

この年表の末尾には、当時の門跡が幼少でここには在住せず、妙法院は土佐藩が根拠地として利用していたそうです。18日の夕刻に使者が寺侍に七卿の来院を知らせ、「妙法院大評定は長州藩、十津川藩及び志士ら二千六百人に守られて始められたが長州落ちが決定千人の兵に守られ十九日早朝雨の中を出発した」と記されています。
「七卿落ち」は京都の三大祭の一つ、10月22日の「時代祭」の中で、歴史の一コマとして行列に登場しています。時代祭はブログ記事として先般ご紹介しています。
 宸殿の南西方向にたつ「七卿落ち」の記念碑
その時幼少だった門跡の「有栖川宮威仁親王の篆額を得て、大正1(1912)年9月に建立されたものです。」 (駒札より)
この記念碑の西隣(右方向)に上掲の石仏群が安置されています。

                宸殿の正面前から勅使門を眺めた景色


       駒札に掲載の宸殿にある仏殿を部分拡大したもの

宸殿の前方左側に、「普賢堂」(本堂)があります。
方三間の禅宗様重層宝形造のお堂で、江戸寛政期(1790年代)の建立だとか。

内部を拝見すると、 堂中央に本尊普賢菩薩像が安置されています。 平安後期に造像された仏像だそうです。

大門のところに置かれていた特別公開の 案内板の上部に載せられていた写真 の借用です。 本尊後方に来迎壁があり、「清淨蓮華」が描かれています。石踊達也画伯の奉納されたもの だとか。宸殿や書院でも同画伯の障壁画が拝見できました。
堂内部は土間床で、本尊の後壇に元三大師、五大明王像が配され、鏡天井には龍図が描かれています。



特別公開としては、庫裏→大書院・大書院庭園→護摩堂→竜華蔵→宸殿→庫裏という順路でした。廊下伝いに、建物内部の数多くの障壁画や、大書院南面にあり周囲を建物で囲まれた約30坪の池泉鑑賞式の大書院庭園を拝見しました。
5119,5116
建物内部で展示品を拝見後、外から眺めて撮った 「龍華蔵」 です。宸殿の東側にある白壁土蔵造の 宝物陳列館 です。絹本「後白河法皇像」一幅はじめ、歴代天皇に他に関連した宸翰・古文書・仏画などの遺品、上掲の豊臣家ゆかりの品々などが数多く陳列保管されています。

龍華蔵と本堂との間、庭の一隅に祀られた小祠です。 「白龍弁財天」 と墨書された赤い提灯が吊されています。

妙法院の沿革について、後で学んだことについて少し触れておきたいと思います。自分のための覚書でもあります。
妙法院の創建は、諸説があり、これだとは判断しかねます。そこで、手許の本と調べた範囲でのご紹介です。
天台座主快修の甥で、藤原忠成の子の昌雲僧正が比叡山西塔にある本覚院に住していたと言います。本覚院を妙法院とも称したとか。後白河法皇が永暦元年(1160)に法住寺殿造営の折、東北の鬼門に新日吉社を勧請し昌雲僧正を別当に任じたそうです。この昌雲僧正が歴史上「妙法院主」と記録される最初の人のようです。
そして、昌雲の甥実全が建仁2年(1202)天台座主となったとき、祇園の南に妙法院と号する住坊(里坊)を設けたと言います。妙法院が京都市内に進出してきた起源だとか。
第18代門跡となる尊性法親王も妙法院を住房とし、妙法院から出た天台座主となります(資料1)。それ以来、代々の門跡寺院として位置づけられて行きます。
本覚院と妙法院が同一かどうかには諸説があるようです (資料2)

この祇園の南にあった場所が、江戸時代に出版された『花洛名勝図会』には「妙法院??地?蛭ヶ池址」として記載され、「安井門前通下河原西民家の裏にあり」と記しています。ています。現在の東大路通に「東山安井」という交差点があります。安井北門通が東西に、東大路通の東にはほぼ平行して下河原通がありますので、この付近に所在したのでしょう。
「此地は妙法院御門跡尊性法親王性恵法親王の住せ給ひし御室の旧跡なり」と記し、妙法院を小坂殿とも称し、四条の南なので綾小路殿とも称されたと併記しています (資料3) 。つまり、綾小路小坂の地とも言われたようです。
この妙法院が暦応3年(1340)あの婆娑羅大名・佐々木道誉の軍勢三百余騎により焼討ちに遭い堂宇を焼失するという事件が『太平記』巻21に記されているそうです。事の発端は道誉の若党が妙法院境内の紅葉の枝を無断で折りとったことで争い事になったことに起因するとか。 (資料1,3) この後、再建、再焼失、再建などと変遷をしているようです。
そして、上記したように、「豊国社創建の時」頃に現在地に移転したのです。『花洛名勝図会』には、「妙法院宮」という見出しで説明しています。「方広寺の東馬町の南側にあり」とその場所を記しています。同書書では「延暦寺恵亮僧正開基以来御代々山門座主法務宮御門跡御相続し給ふ。元祇園の南にあり。小坂殿また綾小路宮と号す」としていて、恵亮僧正の開基となっています。 (資料4)
昌雲僧正が住した本覚院の創建に遡ると恵亮僧正に至るということでしょう。

最後に樹間から宸殿の側面を眺めつつ、通路を戻って妙法院を出ました。

ご一読ありがとうございます。

参照資料
1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂
2) 妙法院  :ウィキペディア
3) 妙法院旧地  花洛名勝図会データベース :「国際日本文化研究センター」
4) 妙法院宮  花洛名勝図会データベース :「国際日本文化研究センター」

【 付記 】 
「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。

補遺
門跡寺院   :「京都通(京都観光・京都検定)百科事典」
門跡   :「コトバンク」
天台座主   :ウィキペディア
(72)安徳天皇 :「平家物語のあらすじと登場人物(平家物語完全現代語訳)」
   民部少輔藤原忠成の子「昌雲僧正」が、御験者の一人として出てきます。
恵亮   :「コトバンク」
三十三間堂  ホームページ
「石踊達哉」作家略歴
石踊達哉の画像

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!


その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


観照 京都・東山七条あたりの鬼たち へ
スポット探訪&観照 京都・三十三間堂 -1 本堂拝観、通し矢見物と回想 へ
スポット探訪 京都・三十三間堂 -2 東側境内(夜泣地蔵、法然塔、夜泣泉、池泉、鐘楼ほか) へ
スポット探訪 京都・東山 法住寺 -後白河上皇ゆかりの地- へ
スポット探訪 京都・東山  後白河天皇陵 へ
スポット探訪 京都・東山 養源院 へ
スポット探訪 京都・東山 京都国立博物館  -1  トラりんと雪景色&庭散策 へ
スポット探訪 京都・東山 京都国立博物館  -2 明治古都館の外観細見 へ
スポット探訪 京都・東山 京都国立博物館  -3 西の庭 野外展示細見 へ
スポット探訪 [再録] 京都・東山   新熊野神社 へ
スポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 即成院と戒光寺 へ
スポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 雲龍院 -1 本堂(龍華殿)・霊明殿の石灯籠 へ
スポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 雲龍院 -2 境内庭園・蓮華の間・悟りの窓・走り大黒天 へ
スポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺周辺の散策 御陵群・善能寺・来迎院 へ
スポット探訪 [探訪] 京都・東山 今熊野観音寺 へ
スポット探訪 [再録] 京都・東山 今熊野観音寺 -今熊野西国霊場 へ







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2017.02.15 21:55:08
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: