「仏教発見!」
西山 厚 2004/11 講談社新書
奈良国立博物館資料室長の書いた一冊としては、これ以上何を望むのかという、出来上がった一冊だといっていいのだろうと思う。自分の生い立ちを語り、仏教との出会い、そして日本における人間観としては、まさに出来上がってしまっている一冊といえるだろう。ゴータマ・ブッタの生涯の話など、何度聞いても面白い。基本は同じストーリーなのだが、語る人の切り口によって、またちょっとずつニュアンスが違ってくるので、ブッタの存在がさらに立体的に奥行きが深くなってくる。
聖武天皇、鑑真和上、最澄、法然、明恵、叡尊、それぞれを語る著者の語り口というものはとても優しい。これ以上なにを望むのかという真綿でくるめたような優しさがある。しかし、最後の高田好胤ときて、なるほど、と思った。この方、この高田好胤と父の代から
「縁」
があり
、若い時分には、一緒にインドの仏蹟を尋ねる旅に参加していたりする。
ひとりの迷える凡夫が仏教に出会い、次第に釈尊の慈悲に導かれていく、というストーリーなら、特に何の問題もない。しかし、それはある意味、古い極めて固定的なイメージで固められた日本的仏教の姿でしかない。この本にはウェブ社会のこともでてこないし、9.11もでてこないし、ニートやフリーターの問題もでてこない。ましてやアセンションなどということは論外だ。
しかしながら、著者自らが、読者にその「現代的日本仏教」の破綻を一端を見つけるヒントを作っている。「おわりに」でこう書く。
ダライラマ
の講演を聞いたことがある。(中略)講演が終わると、質疑応答が始まった。日本の仏教をどう思うかという質問が出た。ダライラマは「お釈迦様の教えに従う者、大乗の教えを実践する者として、衣の色は違っても、私たちは同じである」と答えたが、「戒律の修行が少ないようだ。自分の宗派の経典だけではなく、もっとさまざまな経典を読むといい」と付け加えた。
p236
著者が単に一仏教徒として高田好胤を師として、美術館の職員を続けるならなんの問題もない。しかし、このような本を書き、少なくとも、施設の人々だろうが、幼稚園児だろうが、人前で仏教というものをお話するとするなら、仏教の「伝道者」として、何かが足りないことになる。
それは、すでに鎖国をしている島国日本の時代ではないということだ。このグローバルなネット社会が発達した時代に、社会的にもさまざまな問題が噴出している日本(あるいは世界)の救済として、彼の仏教観では、あまりに狭い仏教観になってはしまいかということだ。
なにも
ダライ・ラマ
にだけ学べといっているわけではない 。
宮崎哲弥
が現代インドにおける
アンベードガル博士
の
新仏教徒運動に共感を示すように、もうすこし今の時代に目を開かなくてはならないと思う。薬師寺の仏閣が復興したなんて、時にはちょっとケチな世界にみえて来る場合だってある。
この周辺の私のクレームがじつはこのブログの主テーマである。
PR
Freepage List
Category
Comments