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今回のプロジェクトXは大分の湯布院のお話です。湯布院は20年以上前に別府と一緒に訪れたことがありますが、にぎやかな別府と違いのどかで、ろくに背景も調べないで行った当時の自分にはものたりなかったような記憶があります。湯布院の自然は、ダム建設、地震被害、バブル経済と、何度もの荒波にさらされながら、地元の方の努力で守られてきました。ドイツの温泉地バーデンバーデンを師とし、人々に愛されてきました。これからも湯布院らしさを長く守ってもらいたいものです。最後のオチが特に見事でした。必見の回と思います。プロジェクトXにしては現地ロケを実行し、気合が入ってます。バブル経済に飲み込まれていたら、今頃、田んぼの中に、廃墟になったかもしれないリゾートマンションが乱立していたかと思います。本多清六博士がドイツのバーデンバーデンを模範とするように勧めたそうです。■参考リンクNHKプロジェクトX:湯布院 癒やしの里の百年戦争かつてまったく無名な農村だった大分県の湯布院町。農村の緑と静けさを守り抜きながら、日本中の人々が憧れる保養地に育て上げた人々の苦闘の物語を伝える。Wikipedia:由布院温泉由布院温泉(ゆふいんおんせん)は、大分県由布市(旧国豊後国速見郡)にある温泉。由布岳(標高1,584m)の麓に広がる温泉地である。温泉湧出量、源泉数ともに全国2位の豊富な湯量を誇る[1]。1959年5月5日に湯平温泉とともに「湯布院温泉」として国民保養温泉地に指定され、2019年10月4日には、由布市内の塚原温泉・庄内温泉・挾間温泉を含めた「湯布院温泉郷」として拡充指定された[2][3][4]。概説由布院駅前の観光用馬車かつてはひなびた温泉で団体観光客向けの大型ホテルや歓楽街は整備されていなかったが、それがプラスに転じた。昭和40年代から町ぐるみで毎年夏に映画祭や音楽祭を開催し、歓楽色を排して女性が訪れたくなるような環境整備を続けてきた。バブル期の大型開発計画には適正な規模や景観を守るため抵抗。人気の過熱が続く現在も、温泉のあり方についての模索が続いている。歴史古くは豊後国速見郡に点在する別府十湯の一つに数えられていたが、大正時代の行政区画の変更により塚原温泉とともに別府十湯から外れた。その結果、別府温泉は現在の別府八湯の形となった。大正時代由布院観光の始まりは逓信大臣・元田肇と関係を大きく築いていた南由布村豪商・小野金三郎によ る別府~由布院間の幹線道路の開通と大湯鉄道の建設により交通網の充実により湯布院温泉の礎となった。朝鮮戦争が終わって由布院には米軍基地(現在は自衛隊)があり、朝鮮戦争の頃は半島帰りの米兵がたくさん居り、また米兵相手の娼婦もたくさん居たという。それが戦争が終わり、あっという間に姿を消した。その反面、国民的観光レジャーブームとなり、別府、熱海などの温泉地はお金を数える時間もないほど大繁盛したという。ダム反対運動由布院は二つの大きな反対運動を経験した。最初の反対運動は1952年のダム建設反対運動である。この時の計画とは、由布院盆地に巨大なダムを作り、出来たダム湖畔を観光地化するという構想であった。地元には莫大な補償金も支払われる一石三鳥の構想とあって、町行政も議会も推進姿勢であった。しかし、この構想に対して町の青年団は強力な反対運動を行う。結果、翌年にダム建設計画は白紙撤回される。町を二分した議論を糧に、主体的に地域の将来を考えようという雰囲気が地域に根付いた。湯布院町へ昭和20年代後半、由布院町は深刻な財政危機にあった。そこで当時、多くの湯治客で賑わい、財政の豊かであった湯平村と、1955年(昭和30年)に昭和の大合併の一つとして合併し、湯布院町が誕生した。先の反対運動のリーダーで青年団長であった医師・岩男頴一が初代町長に当選する。岩男町長は「産業・温泉・自然の山野の三つの融合」を掲げ、健全な保養温泉地づくりへと邁進した。戦後の高度成長が始まろうとして、「観光開発」により将来の明るい夢がひらけると地方の多くの人が信じていたこの時期、温泉地の歓楽街化に反対し、由布院の自然や環境を守ろうと町をあげて取り組んだのである。岩男は20年近く町長を務めた。なお、岩男は当時農業協同組合組合長も兼務しており、中谷らの欧州研修旅行費用(後述)は農業協同組合から借りた話は有名である。人材を得る岩男の用意した舞台で育った若者が居た。中谷健太郎と溝口薫平である。中谷は東宝撮影所で映画監督となるべく研鑽を積んでいたが、昭和37年、父親の急逝により帰郷、亀の井別荘を継ぐ。当時28歳。また、溝口は博物館に勤めていたことがあり、自然に詳しく、旅館・玉の湯の経営に当たっていた。こうした個性豊かなリーダーを得たことが、由布院の現在の姿を築く上で大いなるプラスとなった。時期も恵まれていた。中谷帰郷の2年後の1964年(昭和39年)には東京オリンピックの開催、新幹線の開通、長崎までの九州横断道路(国際観光道路)ができた。ゴルフ場計画に反対二つ目の反対運動は1970年(昭和45年)に提示された大手の開発業者によるゴルフ場建設計画への反対運動である。当時、ゴルフ場建設が計画されていたのは猪の瀬戸湿原という、別府から由布院への入り口に当たり、貫重な自然の動植物の宝庫と言われていた場所である。当初、ゴルフ場建設反対運動は自然保護運動として始められた。中谷・溝口の二人は既に観光協会の中心的存在になっており、「守る会」の事務局も観光協会内に置いた。最終的には、県・町を巻き込むことに成功した。環境を切り開いて施設を作り、拡張していくのが普通の観光業者が環境を守る運動とは…と、マスコミにずいぶんと取り上げられたという。なお、猪の瀬戸は行政区域としては別府市に属し、当時、溝口が環境庁の自然公園指導員をしていた。1973年(昭和48年)にはサファリパーク進出計画があり、これも阻止。欧州でつかんだもの1971年(昭和46年)6月、「明日の由布院を考える会」の中心メンバーだった志手、溝口、中谷の三人の青年は、欧州へ50日間に及ぶ町づくり視察研修旅行に旅立つ。そして、西ドイツ(当時)の保養温泉地構想を学んだ。先に西ドイツを視察し、理想の保養温泉地を頭に描いていた岩男町長はじめ関係者の大きな期待がかかっていた。欧州でつかんだもの、それはその後の由布院のありかたを決定付けた。「守る会」から「考える会」へ反開発の思想をバックボーンとして、「反対」から「地域づくり」へと舵を切った。1971年(昭和46年)のことである。地震の危機をばねに〜アイデアの勝利1975年(昭和50年)4月に試練が訪れた。地震が由布院を急襲、被害は大きく、由布院内のみならず九州横断道をはじめとした主要道路も壊滅的な打撃を受けた。「由布院は壊滅した」とのうわさが駆け巡った。ここで「湯布院(本来は由布院と表記すべき[誰?])は健在だ」と全国にPRするため、観光協会では辻馬車の運行を決める。震災の翌月には対馬に辻馬車の馬を買い付けに行き、7月には運行開始。田園風景ともマッチし、辻馬車は大評判をとった。手作りイベントの時代〜知識人・文化人を引き付けるさらに、「手づくり」を合い言葉に「ゆふいん音楽祭」同年8月開始、「午喰い絶叫大会」10月開始、「湯布院映画祭」翌年8月開始と、イベントを立ち上げた。芸能人、知識人等都会の人間も巻き込みながら、「芸術の町」由布院の存在を全国的に知らしめることに役立った。今では由布院名物として全国に知られている主な催しの多くは、この時期に始まったものである。メディア・外部の力の活用由布院の「まちづくり」運動が実を結んだ要因として、「まちづくり」の過程そのものがメディアによく取り上げられたことも挙げられる。観光協会・旅館組合が合同で作っている湯布院(本来は由布院と表記すべき)観光総合事務所の事務局長を公募したときも、その伝説的な選抜はマスコミで紹介された。もちろん観光地情報のみならず、「まちづくり活動」そのものも映像つきでよく紹介されている。例えば、NHKの『プロジェクトX』などがそれである。1981年(昭和56年)11月、由布院温泉観光協会に平松大分県知事から「一村一品運動奨励賞」が贈られた。同年、湯布院町は環境庁の国民保健温泉地指定。「リゾート」「開発」に抗して〜成長管理1987年(昭和62年)、総合保養地域整備法(いわゆる「リゾート法」)が公布された。リゾート開発の波は由布院にも押し寄せた。農村景観を残しながら温泉保養地としての決して無理をしない由布院にとって、外部資本による用地の物色は地価の高騰を招くやっかいな問題であった。これに対抗し、湯布院町は1990年(平成2年)9月に「潤いのあるまちづくり条例」を制定。「成長の管理」や「地域ごとの展開の重視」が明記されている。成長管理を模索するしかしながら、福岡・北九州都市圏からを初めとして九州一円からの日帰り客も多く、加えて九州を代表する観光地の一つとして観光ツアーの立ち寄りも非常に多い。それを見込んだ土産物店・キャラクターグッズ店をはじめとした地元外資本も多数入り込んでいる。2004年に発生した温泉偽装問題では、源泉利用許可を取っていない旅館および源泉の無断開発を行った旅館があったと報じられた。マイカーや観光バスが押し寄せ、メインストリートの「湯の坪街道」は賑わい以上のものがある。もはや、かつての田園的な由布院の姿はないとの厳しい見方もある。真にやすらぐ温泉郷とは何か、模索は続いている。熊本地震の余波、そしてその後2016年4月16日、熊本地震が発生。それに伴い、一部で温泉が出なくなる、浴場が被災するなど被害が発生した。地震への恐怖などの風評被害もあり、旅館ならびにホテルにキャンセルが殺到[8]。大きな打撃を受ける。環境庁はこの状況に対し、助成金を創設し「九州ふっこう割」による支援を敢行。これにより現在は外国人観光客を中心に、客足が戻りつつある。現在では恒例である湯布院映画祭が行われるまで復興している。しかし、支援がなくなったときの客足については現在も大きな課題として残っている。湯布院町「湯布院温泉」から由布市「湯布院温泉郷」へ「国民保養温泉地」による「湯布院温泉」は湯布院町の由布院・湯平の各温泉で構成されてきた。また、旧湯布院町には、湯布院温泉とともに旧別府十湯を構成していた塚原温泉があり、国内有数の酸性泉として、皮膚病に効く「薬湯」として有名である[3]。また、2005年に湯布院町は庄内町・挾間町とともに対等合併し、由布市となった。その庄内町や挾間町においても温泉が湧出し、それぞれ庄内温泉・挾間温泉として知られている[3]。庄内温泉は湯あたりのよい単純泉や、飲用の炭酸泉である白水鉱泉、阿蘇野地区の飲泉文化が知られている[3]。挾間温泉は大分市の大深度地熱温泉や別府市の北浜温泉などと同系統の、別府湾・大分平野周辺でみられるモール泉であり、アルカリ性で茶褐色の泉質は美人湯として知られている[3]。2012年に「国民保養温泉地」の定義が改められ、単に温泉そのものの評価だけでなく、自然環境、まちなみ、歴史、風土、文化など将来的な地域づくりにつながる観点からも保養地として適正かどうか求めらるようになった[2]。そこで、2017年に由布市は国民保養温泉地の見直しをはじめ、塚原温泉・庄内温泉・挾間温泉を追加して市内の大部分を指定地とする国民保養温泉地「湯布院温泉郷」の計画を環境省に提出。2019年9月に「湯布院温泉郷」として拡充指定(再指定)を受けることとなった[2]。計画等では3地域5つの温泉が連携し、温泉地間の周遊と宿泊及び滞在を目指す「滞在型・循環型保養温泉地」の実現を目標としている[2][3]。由布市では拡充認定を受けて「観光基盤の整備や情報発信、人材育成を進め、質の高い保養温泉地を目指す」としている[3]。Wikipedia:バーデン=バーデンバーデン=バーデン(標準ドイツ語:Baden-Baden, アレマン語:Bade-Bade(バーデ=バーデ))は、ドイツ連邦共和国のバーデン=ヴュルテンベルク州に属する都市。人口は約5万4千人。ヨーロッパ有数の温泉地として幅広く知られる[1]。ローマ時代の浴場跡が残る。ドイツ語で、バーデン(Baden)という語自体が、「入浴(する)」を意味しており、そこからバーデンという地名がついた。1931年、多く使われていたバーデン=イン=バーデン(Baden-in-Baden)という表現が縮まって、バーデン=バーデンが街の名称となった。歴史古代から温泉地として知られていた。17世紀末、プファルツ継承戦争に際してフランス軍の侵入を受けたため一時荒廃した。長らくバーデン辺境伯領の支配下にあり、1806年よりバーデン大公国(バーデン辺境伯領が昇格)の支配下におかれた。19世紀に入り、鉄道など交通網の整備が進むと、庶民の娯楽としての旅行が普及し、多くの観光客が訪れるようになった。著名人もこの地で保養することが多く、音楽家のヨハネス・ブラームス、クララ・シューマン、ヨハン・シュトラウスらが有名である。フランスの作曲家で指揮者のピエール・ブーレーズはここが若い頃からこの地が気に入り在住している。指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラーはここで肺炎に冒されて死去、細菌学に多くの功績を残したロベルト・コッホもこの地で没している。
2023.01.31
マルモのおきて(2011)と阿部サダヲさん Marumono Okite, Marumaru Morimori, Sadao Abe 内容の追加。ナース井手さんと、オールナイトフジ(1983-1991)と、松山香織さんとか内容の追加。今を抱きしめて(「NOA」仙道敦子、吉田栄作:1993)、サイレント・イヴ(辛島美登里:1990)、恋におちて -Fall in love-(小林明子、1985)リンク切れの差替え。NHK総合・BS4K:宮藤官九郎さんの正月時代劇「いちげき」、1/3 21:00から内容の追加。
2023.01.30

東京がまだ冷凍庫並みの寒さの中、1月28日に甲府で一緒に働いていた30年以上の友人3人で例会を開きました。今回は両国駅構内にあるちゃんこ霧島 両国江戸NOREN店です。寒いときには駅にお店が直結しているのは有りがたいです。霧島関は現役時代は、均整のとれた筋肉質の体が美しかったように思います。引退されて、両国駅前にちゃんこ屋さんを開業されて繁盛して、近年この駅の構内のお店を開業されたようです。マネージャーも、お店の店員さんもよく気が付き親切な対応でした。宴会料理は関脇コースに飲み放題をつけて7500円くらいをペイペイ30%還元で5200円くらいで済ませることができ、実質お得感がありました。味についても、建設会社の営業で接待慣れしている友人も手羽先、ちゃんことも大層気に入り大満足でした。おすすめのお店です。30年も経つと、我が出たりして、お互いの関係に波風が立ちそうになることも在りますが、せっかく続いたのだから穏便にことを運ぶために、普通の居酒屋でマンネリ化するのを避け、ひとひねりした企画で友好関係を深めようと思います。最年長者が来年古希なのでそんなにあと何十年もやれないので、1回1回を大事にしたいと思います。話に夢中で、うっかり店内と食べ物の写真を撮り忘れました。ちゃんこ霧島 両国江戸NOREN店当日は白鳳関の引退相撲で、両国駅周辺は熱気に包まれてました。友人によれば、断髪式で鋏を入れるのは結構費用がかかるとのこと。■参考リンクヤフー知恵袋:t_k********さん2016/2/10 12:312回答元幕内力士さんの、断髪式の鋏入れの御祝儀相場についての質問です。取引先の関係で息子が断髪式の鋏入れをする事になりました。私自身も応援していた関取で、その意味も込めて御祝儀の半分は負担しようと思います。無粋な質問ですが、断髪式の鋏入れの御祝儀の相場はあるのでしょうか?全く知識も無くお知恵を拝借したいと思います。経験者の方々、また大相撲にお詳しい方々のアドバイスをお願いたします。ベストアンサーこのベストアンサーは投票で選ばれましたパリの青空♪さんカテゴリマスター2016/2/12 12:47ド素人で済みません。教えてほしいというご質問に、検索してくださいが気になってしまい私自身検索してみました。琴欧州関の引退の時のスポーツ誌のネット記事がありました。招待される場所にもよるでしょう。この記事では、3~5万の方もあり、しかし相場は10万円と記述があります。https://ja-jp.facebook.com/sportsinfojapan/posts/1537198616512191断髪式・ご祝儀相場の検索結果です。この結果では、5~10万円が相場のように書かれています。https://www.google.co.jp/search?q=%E6%96%AD%E9%AB%AA%E5%BC%8F%E3%83%BB%E3%81%94%E7%A5%9D%E5%84%80%E7%9B%B8%E5%A0%B4&oq=%E6%96%AD%E9%AB%AA%E5%BC%8F%E3%83%BB%E3%81%94%E7%A5%9D%E5%84%80%E7%9B%B8%E5%A0%B4&aqs=chrome..69i57&sourceid=chrome&es_sm=93&ie=UTF-8開催場所、ご招待ということなら、初めに書かれていたような金額でよろしいのではと思います。参考にして頂ければ幸いです。その他の回答(1件)新しい順edo********さん2016/2/10 17:27・断髪式、そのやり方にもいろいろなやり方(ホテル、部屋、会費制とか)があるようです。又、力士の番付、地位も関係してくるようです。・過去質問があるので、「断髪式・ご祝儀相場」で検索すると良いですね。
2023.01.29

今回は国鉄と日立が共同開発した世界初の列車予約システムのお話です。みどりの窓口といえば、昔、係りの人が鉄板のページをめくって駅名を入力するのが不思議で面白かったです。年末の帰省のときとかに、出発の2週間前だったかに大勢の人が駅に行列して切符を買うTVニュースをよく観たものです。みどりの窓口も、最近はインターネットの進展でどんどん縮小されて来ていますが、高齢になって機械操作がおぼつかなくなってきた自分には、こういった対面の窓口は最小限は残してほしいと思います。信じられないことですが、昔は手作業で指定券の発券を行っていました。1枚発券するのに30分かかかったそうです。動画のように外国為替のディーリングルームのような席で予約帳をぐるぐる回して取り合っていたようです。高度経済成長の波に乗って電車がどんどん増発されて行き、世界初の列車予約システムの開発が国鉄と日立により始まりました。ただ、最初のころはうまく行かず、二重発券等のトラブル続きでした。一方的にいろいろと無理難題を命令する発注者の国鉄と、それをシステムに落とせない日立とか、コンピュータの能力の問題とか、様々な原因があったようです。このため、両者の関係は険悪になりました。そんな中、両者の融和を図りコンピュータ技術を学ぶため、国鉄職員30名が日立に出向しました。当初は反目した両者も、打ち解けて協力し、プロジェクトを成功に導きました。サンドウィッチマンのコント「みどりな窓口」(2009年)がそこそこ面白いです。■参考リンクプロジェクトX:100万座席への苦闘~みどりの窓口・世界初鉄道システム 鉄道大国・日本を支える巨大なシステムがある。「みどりの窓口」。全国8千の端末から列車の座席を予約。わずか3秒で発券する。かつて、指定券の受付は全て手作業。客は半日も待たされた。昭和33年、国鉄とメーカーの技術者が、当時計算機として出始めたコンピューターを使い、座席を割り当てるシステムの開発に乗り出した。二重発券やコンピューターのパンク。数々の困難を乗り越え、巨大システムを作った人々のドラマを描く。Wikipedia:みどりの窓口みどりの窓口(みどりのまどぐち)は、主にJRグループの旅客鉄道各社が設置・営業する乗車券類発売所(出札所)のうち、マルス端末が設置され、JRグループ旅客全社の鉄道線乗車券類(乗車券・特急券・指定券など)やJRバス路線、高速、ツアーバスの座席指定制路線の乗車券・指定券などを総合的に発券できる発売所である。窓口形式でない発売所も多い。以下略。
2023.01.28

ホテル京セラに泊まって翌朝、アネックスにある朝食会場に行く際、3Fの空中の渡り廊下を通りましたが、そこに展示してあった縄文遺跡ミュージアムのパネルの絵が生き生きとして見事でした。とくに最初の3枚が好きです。ホテルに誰が書いたのか尋ねるもわからず残念。霧島市は上野原遺跡があるので、それにちなんでこの縄文遺跡ミュージアムを作ったのでしょうか。古代のロマンにしばらく夢を馳せることができました。栃木に古代生活体験村というのがあるそうです。いつか行ってみたいです。縄文遺跡は北海道にもあったことを知りびっくり。■参考リンク縄文遺跡ミュージアム-ホテル京セラにあるユニークな博物館【霧島】上野原遺跡の紹介古代生活体験村
2023.01.27

鹿児島旅行のの宿泊は霧島にしました。名前は忘れたけど以前訪れた霧島の温泉ホテルの露天風呂の浴槽のあちこちに湯の華が積ってエネルギッシュな温泉で感動したからです。検索サイトで捜したら、ホテル京セラが見つかりました。普通温泉ホテルは2人以上の宿泊でないと割高ですが、1泊1人12,000円くらいで2食付きで夕食はステーキだったのが魅力でした。その後よくスケジュールを確認すると、空港からバスで19:20に着くと、レストランの最終入場時間の19:00に間に合わないので、夕食無しのプランに切り替えました、残念。ホテルに着くと、外観、内観の立派さにびっくり。これが30年近く経過したホテルとは思えない立派な美しいホテルでした。黒川紀章さん設計だそうです。温泉ホテルというよりもシティホテルといった感じです。スタッフの応対も親切で温かみを感じました。温泉も湯の華がちょっと積ってよかったです。鹿児島に来たらぜひまた泊まりたいホテルです。なんで京セラがホテル経営なのかとネットで検索したら、バブル前に計画された鹿児島県のテクノポリス構想の中で、この地区にホテルと商業施設を建設する計画があったそうです。それに対して市内に工場を持つ京セラが応募したとのこと。稲森和夫さんの故郷への恩返しみたいなものでしょうか。1995年ホテル完成後、バブル崩壊の影響からか、県の商業施設建設計画は中止になり、ホテル京セラの別館ができました。テクノポリス構想 17:00あたりから本館とアネックスは3Fの渡り廊下で結ばれます。たしか3Fにチャペルがあり、その上は吹き抜けです。1人1泊朝食付きで全国割を使い9000円くらい。朝食は和洋のバイキング。これとは別に和食の4つの重箱セットがあり、自由に持っていくことができ、朝から豪華なうれしいサプライズ。春節旅行なのか、レストランにはハングルが飛び交ってにぎやかでした。■参考リンクWikipedia:ホテル京セラ2022.11.1南日本新聞 訃報 >京セラ・稲盛和夫さんホテル京セラの上棟式。「社長の自室は最上階ですか?」と尋ねられた稲盛さんは否定した。「一般の客室を使うよ」京セラやKDDIを創業し、日本航空(JAL)再建に尽力した京セラ名誉会長の稲盛和夫さん=鹿児島市出身=が8月下旬、亡くなった。日本を代表する経済人になってからも鹿児島を愛し、支えた「経営の神様」。薫陶を受けた人々に、心に残る教えや思い出を聞く。■元鹿児島県商工労働部長 迫一徳さん(81) 稲盛和夫さんは鹿児島玉龍高校の1期生で、私は9期生。当時は面識がなかった。鹿児島県庁に入庁し秘書課に勤めていた時、企業誘致に注力した金丸三郎知事と稲盛さんとのトップ会談で、京セラが鹿児島に工場を造ることが決まった。この頃から、稲盛さんに親しみを抱いていた。 商工労働部にいた平成の初め、宿泊施設と商業施設を一体的に整備するテクノポリスセンター(旧隼人町)の企業公募に携わった。この時、京セラ興産からホテル事業に応募があった。 当時の土屋佳照知事は「京セラはホテル事業の経験がないと思うが大丈夫か」と懸念を示した。稲盛さんに確認すると、「世界に通用するものを造ることができる」と返事があった。「これまでの経験から、ホテルのあるべき姿、あってはならない姿をわきまえている」との自負を伝えられたのを覚えている。土屋知事は納得し、ゴーサインを出した。 知事の代理で出席した上棟式で、「社長の自室はやはり最上階ですか」と尋ねてしまった。稲盛さんは「自分が来る時は、一般の客室を使うよ」と否定。愚問を恥じるとともに、私事を優先しない人と確信した。 95年に完成した「ホテル京セラ」はグレードの高いしゃれた外観。チャペルがあり結婚式も挙げられる仕様だった。京セラの川内、国分、隼人の工場には若い社員が大勢いる。自社のホテルで従業員に挙式してもらえれば、との思いもあったのではないか。 テクノポリス構想では、ホテルの横に商業施設を造るということになったが、計画は行き詰まった。稲盛さんはホテルの落成式で酒を飲みながら、実現しなかった商業施設建設に対し、真顔で皮肉を言った。「俺は約束を守ったからな」 2001年、商業施設の建設予定地だった場所には、ホテル京セラの別館が誕生した。稲盛さんへの感謝の気持ちは生涯忘れない。(連載「故郷への置き土産 私の稲盛和夫伝」より)2022.11.5南日本新聞 訃報 >京セラ・稲盛和夫さんホテル京セラ新館ができて、うちはますます厳しくなります…震えながら稲盛さんに質問した。「その勇気があればきっとうまくいく」。優しく諭してくれたあの言葉で頑張れた京セラやKDDIを創業し、日本航空(JAL)再建に尽力した京セラ名誉会長の稲盛和夫さん=鹿児島市出身=が8月下旬、亡くなった。日本を代表する経済人になってからも鹿児島を愛し、支えた「経営の神様」。薫陶を受けた人々に、心に残る教えや思い出を聞く。■SWAN社長・諏訪園厚子さん(69) 43歳の時、建設業をしている夫が鹿児島県霧島市国分にビジネスホテルをつくり、任されることになった。ずっと専業主婦で経営のイロハも分からない。そんな時に盛和塾を紹介され、2001年1月に入塾した。半年後の例会で、稲盛和夫塾長との「経営問答」があり、登壇の機会をもらった。 ちょうど近くにホテル京セラの新館がオープンしたばかりの時期。「うちのホテルがますます厳しくなる。どうしたらいいんでしょう」と質問した。緊張で足は震えていた。 塾長は笑いながら「(私にそんな質問をする)あなたの勇気を買うわ。今のまま素直な気持ちで前向きに努力すればきっとうまくいくでしょう」と優しく諭してくださった。この言葉があったから頑張ってこれた。ホテル京セラの方々とおつきあいが始まり、いろいろ教えていただいた。 その後も全国各地の例会に足を運んだ。懇親会ではカラオケに興じたり海水浴に出かけたり。水泳は得意だったらしく、沖までぐんぐん泳ぐ姿を覚えている。 ざっくばらんな場面でよく言っておられた言葉が「ほれさせんかよ!」。社員にほれさせる経営者になってこそ、社員は一生懸命働いてくれる。この社長のためになら自分も頑張らなくちゃ、ついていきたい、と思わせなさい、と。 誰にも負けない努力で仕事をし、一生懸命、人の面倒をみる。一緒にお酒を飲んだり海辺でスイカ割りをしたり、楽しい思い出もたくさん。行動を伴わないと人の心は捉えられない、という京セラフィロソフィの一つ「率先垂範」の教えが刻まれた。 今は霧島市のほか鹿児島市天文館でもホテルを経営している。新型コロナ下だが社員も頑張ってくれて売り上げは伸びている。塾長への感謝の気持ちはずっと忘れない。(連載「故郷への置き土産 私の稲盛和夫伝」より)
2023.01.26

男はつらいよと渥美清さんに関する貴重な動画を観つけました。TV版の最終回で寅さんがハブにかまれて亡くなるシーンや、その後映画版で寅さんが復活するまでの経緯、山田洋次監督が男はつらいよを作るまでの経緯のインタビュー、浅草時代に一緒に仕事をされた井上ひさし先生のインタビューとかがおもしろいです。国谷裕子さんが若いです。削除される前にソッコーで保存しておきました。1996年に渥美さんが亡くなってもう27年、偉大な喜劇役者さんでした。2023.2.26リンク切れにより一部変更・追加。■参考リンクWikipedia:渥美清渥美 清(あつみ きよし、1928年〈昭和3年〉3月10日 - 1996年〈平成8年〉8月4日)は、日本のコメディアン、俳優、歌手。本名:田所 康雄(たどころ やすお)。代表作『男はつらいよ』シリーズで、柴又育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車 寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。没後に国民栄誉賞を受賞している[1]。生涯幼少期1928年3月、東京府東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)で、地方新聞の新聞記者をしていた父・友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母・タツとの間に次男として生まれる[2]。兄に健一郎がいる。1934年11月、板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居し、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であり、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎[3]、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。そのため学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。1940年に板橋城山高等小学校[注釈 1]に入学。第二次世界大戦中の1942年に旧制私立巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出され軍用機のラジエーターを造(ママ)っていたとされる[4]。堀切直人は、巣鴨中学校には進学しておらず志村坂上の東京管楽器の町工場に就職したとしている[5]。旧制1945年に同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた[6](親友の谷幹一に、かつて自分は桝屋一家[注釈 2]に身を寄せていた、と語ったことがある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。永六輔によれば、戦後焼け跡の金属を換金し、秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループに永も参加していたが、そのグループのリーダーが渥美清であったとのこと。役者稼業進学についても異説があり(下記「人物・経歴についての異説」参照)、10代のころは船乗りを志しその中でも司厨員志望で大日本船舶運営会へ願書まで出したが[8][9]、母親に猛反対されたため断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。芸名については諸説あり、当初の芸名は小説の主人公からとった「渥美悦郎」であったが、川崎で小さな劇団の「パンツの臭いを嗅ぐ男」というバラエティショーに出たとき司会者が「渥美清の方が名前が通りやすい」と変えてしまったという[10]。また「清く美しくあっ(渥)たかくあれ」という意味で名づけられたという説もある[11]。1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館の下働きを経て[3]、『阿部定一代記』[注釈 3]でのチョイ役で舞台初出演[13]。1951年、東京浅草六区のストリップ劇場「百万弗劇場」(建物疎開した観音劇場の跡)の専属コメディアンとなる[10]。2年後の1953年には、フランス座へ移籍[14]。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。またこの頃、浅草の銭湯で、のちにシナリオライターとなる早坂暁(当時は大学生)と知り合い、親しくなる。(後述参照)。1954年、肺結核で右肺を切除し埼玉のサナトリウムで約2年間の療養生活を送る[15][16]。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われ、右肺を無くしたことでそれまでのドタバタ喜劇ができなくなった[17]。退院後の1956年の秋、今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に三か月入院する[18]。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた[19][20]。1956年に日本テレビ連続ドラマ「すいれん夫人とバラ娘」で主役の朝丘雪路のダメ助手役でテレビ初出演[3][21][22]。1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一・関敬六とスリーポケッツを結成[3]。しかし、数ヵ月後には脱退している。1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。7年後に寅さん一家を組むことになる倍賞千恵子、森川信との共演である。同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、丹波哲郎、三國連太郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる[注釈 4]。特に好きだったのはタンザニアのホテルから見るキリマンジャロで一日中眺めていることもあったという[23]。1969年3月17日(月曜日)、正子夫人と島根県出雲大社で結婚式を内々だけで挙げる[24][25][26]。披露宴はホテルニューオータニで仲の良かったスター、友人、映画記者番や雑誌記者を招いて行った[25][27]。41歳の時だった。当初は、松竹より東映の方が渥美喜劇の売り出しに熱心で[28][29]、東映で"喜劇路線"を敷こうとした[29][30]岡田茂プロデューサー(のち、東映社長)に引き抜かれ[29][31][32]、岡田が登用した瀬川昌治監督の『喜劇急行列車』(1967年)他「列車シリーズ」などに主演した[29][31][33][34]。岡田茂は「渥美清は、実は私が東映東京撮影所の所長をしていた昭和37年(1962年)に一年間面倒をみたことがあるんです。それで『喜劇急行列車』など何本か撮ったんですが、どうしても東映では喜劇は伸びない。それで『渥美君、俺は君で5本やったが駄目だった。作品がよくてこれでは君にも悪いから、ひとつ松竹へ行け』と。ちょうど松竹から是非にという話があり『松竹に行った方が君にはプラスだ』ということで向こうに行ったんですが、結局は良かった。『男はつらいよ』なんて10年に一編出るか出ないかですよ。ああいう幸運なのは。一つのシリーズで48本(1996年当時)もやったというのは有り得ないことです」などと述べている[29]。東映とは水が合わなかったが[28]、東映での出演作としては股旅映画の最高傑作ともいわれる[35]『沓掛時次郎 遊侠一匹』(加藤泰監督、1966年)の身延の朝吉役は名演として知られる[28][36]。この時期の主演作品としては他に、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)などがある。最後に舞台へ上がったのは1966年の5月に新宿コマ劇場で行われた翻訳ミュージカル「南太平洋」のルーサー・ビリス役でそれ以降二度と舞台を踏むことはなかったが[37]、1991年の常盤座の閉幕の時行われた「関敬六劇団」さよなら公演の千秋楽フィナーレで俳優全員が舞台挨拶を行った時突然舞台に上がって「ご苦労さん」と関とあいさつをし、観客に手を振った[38][注釈 5]。以下略。
2023.01.25

まだ日本が第二次世界大戦の敗戦で米軍の占領下にあった1952年の航空機事故です。日本航空のもく星号が大島三原山に墜落して乗客乗員全員37名が亡くなりました。占領下ということもあり、事故原因には不明な点が多く、松本清張先生が風の息という小説にされています。ドラマ化されているので一部をご紹介します。根津甚八さん、栗原小巻さん、関根恵子さんがなつかしいです。単なる航空機事故の一つと思いこんでましたが、闇は深そうです。帝銀事件と言い、戦後まもなくは不可解な事件、事故が多くありました。今更事実は解明できないおでしょうが、松本清張先生の日本の黒い霧を読んでみたくなります。■参考リンクWikipedia:もく星号墜落事故もく星号墜落事故(もくせいごうついらくじこ)は、1952年(昭和27年)4月9日に日本航空(アメリカのノースウエスト・オリエント航空からのウエットリース)のマーチン2-0-2型機が伊豆大島に墜落した航空事故である。事件原因にさまざまな憶測があり不可解な事故である。事故の経過1952年(昭和27年)4月9日、大阪を経由し福岡に向かう[2]予定の「もく星号」は、羽田飛行場を日本航空301便[4]として午前7時42分に離陸した。アメリカ当局が日本政府に提出した交信記録(タイプ)によれば、羽田飛行場の管制官は、ジョンソン基地(現在の入間基地)にある航空管制センターの指示に基づいて[4]、アメリカ軍機が10機飛行していたことから「大阪までの飛行高度は6000フィート。羽田から館山(房総半島南部)上空まで2000フィートを計器飛行、館山南方10分間飛行高度を2000フィートにて保持、次いで(巡航高度の)6000フィートに上昇」との指示を出発前に与えていた[4]。この指示に対し機長と運行主任は館山から大島まで約7分の距離である上、規定高度も4000フィートであると抗議した[4]。これは航空路に標高2474フィート(754 メートル)の三原山があり[5]、2000フィートでは三原山を越せないのは確実であった。そのため、航空管制官は航空管制センターの指示は誤りであるとして、「館山ではなく羽田出発後10分間は高度2000フィートを維持、その後6000フィート」と訂正した[4]。午前7時57分に「もく星号」から「館山通過、高度6000フィートで雲中飛行、8時7分大島上空予定」と報告した[4]。だが直後の午前7時59分ごろ伊豆大島上空で消息を絶った[2]。当時は暴風雨と濃霧という気象だった。直ちに大規模な捜索が行われたが、翌10日の8時25分に捜索活動を行っていた同僚機の「てんおう星号」(ダグラス DC-4)によって、伊豆大島の三原山噴火口の東側1kmの御神火茶屋付近[4]の山腹に墜落しているのが発見され[3]、乗客・乗務員37名全員死亡が確認された[6]。遺体は10日の10時50分時点で27体が収容され[6]、同日の夕方には33体の収容が完了した[7]。誤報、捏造報道消息を絶ってから墜落地点が見つかるまでは警察やマスコミは情報をほとんど得られず、多くの未確認情報が錯綜し[2]、「舞阪沖海上に不時着」、「アメリカ軍機が生存者を発見」、「乗客全員無事」などの誤報が次々に打たれた。朝日新聞はもく星号は海上に不時着し、乗員乗客全員が救助されたと当日の新聞で報じたが、翌10日の新聞では搭乗者の生存は絶望的とした[12][13]。特に長崎県の地方紙『長崎民友新聞』は事故の翌日の紙面で「危うく助かった大辻司郎氏」という写真付きの記事を掲載。「漫談材料がふえたよ--かえつて張り切る大辻司郎氏」という見出しで大辻の談話を載せた[14]。これは、上記の「乗客全員無事」という「ニュース」を知った大辻のマネージャーが、同新聞に連絡する際に気を利かせすぎて捏造した話だった(実際には前述の通り大辻だけでなく全員が死亡)[15]。なお大辻は長崎民友新聞が開催する「長崎平和復興博覧会」の会場内の劇場で漫談を披露する予定だった。Wikipedia:風の息 松本清張『風の息』(かぜのいき)は、松本清張の長編推理小説。日本における航空がすべてアメリカ空軍によって管制されていた、連合国軍占領下の1952年4月に起こったもく星号墜落事故をもとに、フィクションの形で推理を展開した長編小説である。『赤旗』に連載され(1972年2月15日付 - 1973年4月13日付、連載中の挿絵は杉全直)、1974年2月に朝日新聞社より刊行された。1982年にテレビドラマ化されている。「もく星」号の謎 ――白鳩号遭難事件を回顧して――中谷宇吉郎:青空文庫日本の黒い霧 上 (文春文庫) [ 松本 清張 ]
2023.01.24

鹿児島旅行の2日目、霧島神宮にいってきました。公共交通で行くと、コロナの関係で運休が多く不便でしたが、タクシーで国分山形屋前まで行き、そこからバスで行ってきました。ホテル京セラの近くの鹿児島神宮でもよかったですが、なんとなく霧島神宮のほうがパワーがありそうで、行ってきました。やはり山の上の神社らしくて、いってよかったです。 停留所を降りて、急な石段を上ると、なだらかな坂が続きます。両脇を杉の木がうっそうと茂って神秘的です。苔むした石の上に大きな石が積まれて面白いです。本殿の参拝は10分待ちくらいでした。おみくじをひいたら末吉でした。人に優しい言葉をかけなさいと書いてあります。年末のお寺の掲示板大賞でも同じような言葉が入賞していて、今年はこの言葉の実践を心がけようと思います。酒造メーカーのポスターは何を表しているのか?お酒を奉納したということか。坂本龍馬が新婚旅行で訪れた土地だそうです。本殿の飾り、動物がユニークです。象のようなものがいるということは南方系か?御神木。40m近くあります。800年前のものだそうです。源頼朝のころからあったんでしょうか。次に生まれてくるとしたら、木とかも地味ですがのんびりしてよさそうです。
2023.01.23
チェリッシュ:ひまわの小径(1972)、避暑地の恋(1973) キャンディーズ:避暑地の恋(1973) リンク切れの修正。NHKみんなのうた かくれんぼ(1980):作詞:村田さち子、作曲:寺内タケシ、歌:川島和子と東京放送児童合唱団 リンク切れの修正。高田みづえ:そんなヒロシに騙されて(1983)、硝子坂(1977)、私はピアノ(1980)、だけど・・・(1977)、私はピアノ:原由子リンク切れの修正。3年B組金八先生:腐ったミカンの方程式(1980)リンク切れの修正。
2023.01.22

1月21日、JALのどここかにマイルを使って鹿児島にいってきました。羽田発16:00と、観光に行くにしては中途半端な時間にがっかりしてましたが、空いている座席をゆったり使えた上に、鹿児島湾上空で桜島らしきものと夕焼けの美しい景色が観られてラッキーでした。ちょっと前まで桜島はてっきり屋久島とかの島と一緒に鹿児島の南の方に並んでいるのかと思ってましたが鹿児島湾の中にあると知りびっくり、しかも地続きで。東京湾の中に火山島があるような感じでしょうか、ちょっと怖いです。ただ鹿児島の方からしたら、地震が多く、海抜0m以下の東京下町に住む方が怖いかもしれません。どこに住むにしても、地域に応じた対策を日頃から準備しておくのが大事と思います。YouTubeを観ると、死者を多数出した大正大噴火と同じくらいのエネルギーはすでに充填されているそうで、科学技術を利用して被害の軽減に努めていただきたいです。>Wikipedia:桜島
2023.01.21

ビッグ・フィッシュとは、誰も信じないホラ話だそうで、日本語の逃した魚は大きいと同じような感じでしょうか。ティム・バートン監督は結構好きなほうで、シザースや、アリスインワンダーランドとか、観ました。レンタルビデオ屋で昔、これのパッケージを観たとき、けばけばしくて借りなかったことを覚えています。先日ウォールストリートジャーナルの記事を読んだとき、この映画の一場面の写真が添えられており、きれいだったので、急に観たくなって借りました。映画は死期の近い父親の生涯を回想する形式で、映像がカラフルでとても美しく、どの回想にも深い意味が込められていて、とても印象的でした。作品的には、きみに読む物語が好きな方には気に入る作品だと思います。主人公は社交性が服を着て歩いているといわれるくらいの人で、人を愛し優しくして、また人からも優しくされる生涯を送ります。こんな人生を送れたらなとうらやましく思いました。かなりおすすめの作品です。ことしは掲示板大賞のことばで、人に優しいい言葉をかけなさいと言われたり、霧島神宮のおみくじで同様な言葉が書いてあったり、この映画でも同じことが示唆されていて、不思議な縁を感じます。とりあえずこっちの方向で今年は行きたいと思います。■参考リンクWikipedia:ビッグ・フィッシュ『ビッグ・フィッシュ』(原題: Big Fish)はティム・バートン監督による2003年作のファンタジー映画。ダニエル・ウォレス(Daniel Wallace)のベストセラー『ビッグフィッシュ - 父と息子のものがたり』を原作にジョン・オーガストが脚色した。劇場公開翌年の2004年には第76回アカデミー賞作曲賞にノミネートされた。概要前年に父を亡くし、子供を授かったティム・バートンの自身の物語とも取れる作品。次作の『チャーリーとチョコレート工場』と同様に、父と子の和解というテーマが根底にあり、この作品で新境地を開いた。老エドワードの語る、若き日のおとぎ話のような回想シーンと、彼が病で死にゆく現実のシーンとが交互に描かれる。回想シーンは非常に華やかな色調で、バートンの常の手法であるファンタジー性が押し出されている一方、現実シーンは落ち着いたトーンで作られた対比構造が顕著である。常のように奇矯な人物は数多く登場するが、現実世界をそのまま舞台として描いた作品は実質初となる。タイトルである『ビッグ・フィッシュ』は、誰も信じないホラ話という意味合いの言葉でもあるが、クライマックスでそれが効果的に演出されている[2]。あらすじ身重の妻ジョセフィーンと暮らすジャーナリストのウィル・ブルーム。彼の父エドワード・ブルームは自らの人生を巧みに語って、聞く人を魅了するのが得意だ。ウィル自身も幼い頃は父の奇想天外な話が好きだったが、年を取るにつれそれが作り話であることに気づき、いつしか父の話を素直に聞けなくなっていた。3年前の自分の結婚式にエドワードが息子ウィルの生まれた日に巨大な魚を釣った話で招待客を楽しませた時、不満が爆発する形でウィルは父に今夜の主役は自分であると訴え、父は自慢の息子の結婚式を盛り上げるためだったが裏目に出てしまい、ウィルは一方的に父と疎遠になる。以下略。2023.1.2WSJ:あなたも「人生の物語」を書こうNicholas Charles Sparks:きみに読む物語
2023.01.20

二宮和也さんの坊っちゃんを観ました。中村雅俊さんのを借りたついでに借りて、それほど期待してなかったのですがとてもよかったです。それほど大がかりではないですが、コンピュータグラフィックスを使って当時を再現しようとした点は評価できます。ストーリーも、新春ドラマスペシャルらしく、登場人物を現代風にアレンジして観終わった後、爽快感があります。おすすめの作品です。古田新太さんのやまあらしの硬派ぶりは、さっそうとしてあまちゃんの荒巻 太一を思い出せます。坊っちゃん(2016:フジテレビ新春ドラマスペシャル松下奈緒さんが演じたマドンナとうらなりを演じた山本耕史さんは、設定、考え方ともに斬新でした。及川光博さん演じた赤シャツは、及川さんの人柄の良さが、腹黒い赤シャツのイメージを変えた気がします。ストーリーを通じたシンプルなメッセージが二宮さんを通じて伝わり心に残ります。宮本信子さんももうキヨを演じる歳になられたのかとびっくり。キヨにしてはちょっといろっぽすぎやしないかと思いますが、華のある女優さんですきです。当時流行った川上音二郎の舞台が観られてよかったです。
2023.01.19

毎日結構な寒さが続いています。1週間ぶりに屋上に上がったら水仙が咲いていました。咲きそうでなかかな咲きませんでしたが、良かったです。コスモスがまだ咲いています。つぼみを見ると春まで咲きそうな感じです。梅のつぼみも大きくなり、そろそろ咲きそうです。種まきした時期が遅かったせいか、アブラナの育ちがイマイチですが、2月に期待!木酢液のおかげで、ヤグルマギクは順調です。ヒヤシンスは早くもつぼみができてきました。
2023.01.18

桂離宮は教科書等で学生時代からよく写真で見ましたが地味で質素な感じであまり見学に行きたいとは思いませんでした。今回のプロジェクトXは、昭和51年に始まった、老朽化した建物を解体してリニューアルする工事を描いています。ビル建築しかやったことのない大林組の現場監督は、当初職人たちとコミュニケーションがうまくとれず、一晩で髪がすべて白髪になるほど苦労しますが、近代建築技術を伝統建築に生かすことで問題を克服し、職人の信頼を勝ち得て、成功するまでがシンプルでわかりやすいです。桂離宮を建てた八条宮智仁親王と豊臣秀吉の関係を紹介したウチヤマチクサさんのYouTubeの動画がおもしろいです。いつか桂離宮を訪れてみたいです。桂離宮施設案内ビデオ:宮内庁■参考リンクWikipedia:桂離宮桂離宮(かつらりきゅう)は、京都市西京区桂にある皇室関連施設[2]。江戸時代の17世紀に皇族の八条宮の別邸として創設された建築群と庭園からなる。総面積は付属地を含め約6万9千平方メートルで、うち庭園部分は約5万8千平方メートルである[3]。離宮とは皇居とは別に設けた宮殿の意であるが、「桂離宮」と称するのは明治16年(1883年)に宮内省所管となってからで、それ以前は「桂別業」などと呼ばれていた[4]。江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を遺しており、当時の朝廷文化の粋を今に伝えている。回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされる。また、建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れている。庭園には茶屋が配されている。現在は宮内庁京都事務所により管理されている。創建以来火災に遭うこともなく、ほぼ完全に創建当時の姿を今日に伝えている。昭和39年(1964年)に農地7千平方メートルを買い上げ景観保持の備えにも万全を期している。京都発大龍堂:通巻1777号プロジェクトX 挑戦者たち(第123回)「桂離宮 職人魂ここにあり」~空前の修復作戦~Wikipedia:八条宮智仁親王経歴すぐ上の兄である邦慶親王(後の興意法親王)が織田信長の猶子であったのに倣い、智仁王も天正14年(1586年)、今出川晴季の斡旋によって豊臣秀吉の猶子となり、将来の関白職を約束されていた。しかし天正17年(1589年)、秀吉に実子の鶴松が生まれたために解約となり、同年12月に秀吉の奏請によって八条宮家を創設した。Wikipedia:桂宮天正創立の桂宮(天正桂宮)安土桃山時代の天正17年(1589年)に創設され、明治時代に断絶した。主な所領が平安京近郊の桂周辺にあった。石高3000石余は宮家中最大。八条宮→常磐井宮→京極宮の流れをくむ。八条宮正親町天皇の第一皇子の誠仁親王の第六王子の智仁親王を祖とする。智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、秀吉に実子が生まれたため豊臣家を離れてあらたに秀吉から邸宅と知行地を献じられ、一家を立てた。智仁親王が作った別邸が桂離宮である。本邸跡は今も今出川通に面してあるが、その別邸である桂離宮が京都八条通の沿線上にあったことから八条宮(はちじょうのみや)と呼ばれた。Wikipedia:桂離宮桂離宮(かつらりきゅう)は、京都市西京区桂にある皇室関連施設[2]。江戸時代の17世紀に皇族の八条宮の別邸として創設された建築群と庭園からなる。総面積は付属地を含め約6万9千平方メートルで、うち庭園部分は約5万8千平方メートルである[3]。離宮とは皇居とは別に設けた宮殿の意であるが、「桂離宮」と称するのは明治16年(1883年)に宮内省所管となってからで、それ以前は「桂別業」などと呼ばれていた[4]。江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を遺しており、当時の朝廷文化の粋を今に伝えている。回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされる。また、建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れている。庭園には茶屋が配されている。現在は宮内庁京都事務所により管理されている。創建以来火災に遭うこともなく、ほぼ完全に創建当時の姿を今日に伝えている。昭和39年(1964年)に農地7千平方メートルを買い上げ景観保持の備えにも万全を期している。
2023.01.17

今回のプロジェクトXは1970年大阪万博の警備を取り上げています。当初3500万人だった入場予想が最終的には6400万人を超えるなど大盛況を博したイベントの警備の大変さを取り上げています。あの5つのわっかのマークが懐かしいです。記念切手は今でも押入れの奥のどこかにあると思います。当時はペナントを集めるのが流行ってました。写真の人の笑顔がいいです。大阪万博2025は果たしてどうなるのか?万博中央口から入場ゲートを入って月の石のあるアメリカ館までがいちばん混雑したそうです。残念ながら私は月の石は見られませんでした。国立科学博物館で現在見られるそうです。警察を辞めた方が万博協会警備隊のリーダーになり、1000人以上の警備員を採用しました。開門と同時に観客が殺到、転倒するバッファロー事故の防止策、動く歩道での転倒事故への対応策等、すべては試行錯誤から生まれました。会場で財布を落とした観客20人に帰りの電車賃を警備員が個人的に貸してあげて、その返却率にびっくり。閉幕直前の土曜の大混雑で、終電に乗れず会場に野宿した観客への対応を今になってはじめて知りました。YouTube動画は、万博にまつわる事件、太陽の塔のハイジャックとかとりあげて面白かったです。当時見られなかったパビリオンも観られて、今でも観てみたいと思いました。■参考リンクNHKプロジェクトX 挑戦者たち 大阪万博 史上最大の警備作戦【収録内容】昭和45年に大阪で開かれた「日本万国博覧会」。高度成長期を象徴する史上最大のイベントを支え、その後のイベント警備の原点を形づくった人々の知られざる奮闘を描く。「月の石」の常設展再公開について2023.7.23リンク切れの修正、内容の追加。
2023.01.16

小さな日記は小学校3,4年生のころ、流行った曲ですが、地味でそれほど好きではありませんでした。50年以上の歳月を経て歌うフォー・セインツの歌は、通常この年代になれば普通なかなか声がかすれて出なくなるのに全然そんなころはなく、年輪がほどよくブレンドされており、若いころの歌よりも心にしみます。貫禄があるのでしらべたら、お二人とも社長さんでした。2023.3.21内容の追加。この歌はダ・カーポの声に合っていると思います。■参考リンクWikipedia:フォー・セインツ概要1960年代後半に一世を風靡したカレッジ・フォーク・グループの草分け的存在。成蹊高等学校の文化祭で結成された。ラジオ番組『フォーク・ビレッジ』で実力派として注目され、1968年のデビュー・シングル「小さな日記」が20万枚[1]または80万枚[2]の大ヒット。しかし直後に加賀一兄が脱退。後に、レコード会社の移籍に伴い、フォー・クローバースと改名するが、1973年に解散。のちにメンバーであった荒木生徳は、荒木しげるとして俳優に転身した。2006年、NHK BS-2「BSまるごと日本のフォーク&ロック大全集」にて33年ぶりにメンバーが集まり、「小さな日記」「希望」を披露。翌年11月にはデビュー40周年を迎えたことをきっかけに、東京・六本木のライブハウスでコンサートを開催。そして2008年には新曲「この街で」をリリースし、本格的に再結成を果たす。2010年1月には、ミニアルバム・「共に見し夢を 〜『仰げば尊し〜』より」をリリースした。
2023.01.15

ひで&たまさんのリンク修正をするついでにこれまで紹介したことのない曲を探しました。聴きなれない曲も増えてきましたが、この中でささやかなこの人生のバイオリンの演奏が良かったです。楽しそうに演奏している雰囲気が伝わってきました。遠い世界にを聴くと、遠い50年前に帰れそうです。12:45あたりから
2023.01.14
いまに哲夫の歌謡パレードニッポン(1976-1993):いまに哲夫、西村知江子内容の追加。ひで&たま:恋、あの日に帰りたい、中央フリーウェイ、愛はかげろう、さよならの夏リンク切れにより削除、差し替え、内容の追加。ひで&たま:なごり雪、卒業写真、北山修メドレー、雨の物語、22歳の別れ、虹と雪のバラード、花嫁リンク切れにより差し替え。ニッポン放送ショウアップナイターのアナウンサーたち:深澤弘、高嶋ひでたけ、枇杷阪明、宮田統樹、胡口和雄 リンク切れにより差し替え。
2023.01.13

仏教伝道協会の輝け!お寺の掲示板大賞2022が年末に発表になりました。2021も含めて、気になった言葉を紹介します。この中で「もっとも優しい言葉はその人の名を呼ぶことである」が、心に残りました。また「一人じゃさみしい 二人はわずらわしい」の解説が面白かったです。■参考リンク輝け!お寺の掲示板大賞2022 - 仏教伝道協会かんしゃくのくの字をすてて 日をくらす受賞者la source de vie @1947_2016撮影寺院徳源院(臨済宗妙心寺派・東京都文京区)[講評]小学生低学年にも伝わるシンプルなメッセージ。でも大人になるとこれができにくい。かんしゃく(怒り)は欲から起きる。欲を抑えて今あることに感謝したい。伝道句集『風水泉』からの引用だが、句集も注目される。(仏教タイムスホームページ http://www.bukkyo-times.co.jp/)輝け!お寺の掲示板大賞2021 - 仏教伝道協会仏の顔は何度でも受賞者 林鶯山 憶西院 超覺寺@chokakuji撮影寺院 超覚寺(真宗大谷派・広島県広島市)[講評]「仏の顔も三度まで」ということわざが世間に完全に定着していますが、仏様はその程度で腹を立てるような方ではありません。阿弥陀仏は無限の慈悲を備えていらっしゃいます。「仏の顔も三度まで」というより「仏の顔は何度でも」のほうが仏様の表現としては正確であることを知ってもらいたいということで今回大賞に選ばれました。本当のものがわからないと本当でないものを本当にする受賞者✨パードレ✨ @hiro5936撮影寺院万福寺(浄土真宗本願寺派・福岡県行橋市)[講評]安田理深師のことば。安田師にとっての「本当のもの」とは「仏様の智慧」です。現在様々なフェイクニュースが溢れ、多くの人々がそれらに振り回されています。このような時代だからこそ、仏教の教えを通して物事を判断し、自分自身の姿を見つめることが大切ではないでしょうか。一人じゃさみしい二人はわずらわしい受賞者✨パードレ✨ @hiro5936撮影寺院正行寺(真宗大谷派・大分県中津市)[講評]寂しいは人間の欲求のスタートではないかと思う。寂しいから求め、手に入るも思うようにならず、煩わしい。仏教の全てが詰まった言葉。ただ、この言葉を見て連想するのは熟年離婚。一人で寂しい夫と二人が煩わしい妻(苦笑)。(フリースタイルな僧侶たちホームページ https://freemonk.net/)もっとも優しい言葉はその人の名を呼ぶことである受賞者まぜるてとて|関さんぽ@mazerutetote撮影寺院明淳寺(浄土真宗本願寺派・岐阜県関市)[講評]オンラインが隆盛となり、名前を呼ばれることが少なくなったこの一年。リアルコミュニケーションが少なくなったことで失われたものの一つが、名前を呼ばれるということではないでしょうか。「名前を呼んでもらうこと」は、自分の尊厳を端的に表す象徴。仏教的には阿弥陀仏の名前を呼ぶことによってもたらされる優しさだと思いますが、身近な実生活においては「人の名を呼ぶこと」が、今求められ、誰にでもできる優しさのように思います。(まいてらホームページ https://mytera.jp/)
2023.01.12

3,500,000アクセス達成ありがとうございました。新年早々、残念なお知らせがありました。二階堂ドットコムさんとともに、2009年のサイト開設以来ブログ作成の手本にしていて、たまに紹介させていただいたネットゲリラさんがWikipediaによれば1/5頃に亡くなったそうです。自分のサイトで、歌やCM、写真をトピックとして取り上げたり掲示板のコメントを引用したり、YouTubeをサイトに取り込むスタイルはネットゲリラさんを真似て始めました。ここまで続けられたのもネットゲリラさんのおかげと思ってます。直接の交流はありませんでしたが、たまに豆州楽市で買い物してました。勝手な思い込みかもしれませんが、ネットゲリラさんも私のサイトにたまに来訪されていたような気がします。ユニークユーザーがいつまで経っても40人くらいなので、アクセス解析を見るとどこから来たユーザーがどのページを訪れたか簡単にわかります。静岡のあるプロバイダのユーザーがたまにあるページを集中的にアクセスして、その後しばらくしてネットゲリラさんのサイトで、私が取り上げたそのページのトピックを深く掘り下げてアップされているのを何回かみて、このユーザーはネットゲリラさんだったのかと思いました。これも勝手な思い込みですが、母が亡くなったときはサイトで励ましていただいたこともありました。私のサイトは、YouTubeを張り付けてWikipediaを参考リンクに貼って、4,5行書いて出来上がりという安直なパターンですが、ネットゲリラさんは総合的に分析されていて、さすがだと思いました。奥さまは魔女がいい例です。ネットゲリラさんのサイトでは引っ越しを良くされていたので奥さまは魔女の回は見つかりませんでしたが、妄想的陰謀論さんのサイトで引用されていたのでご紹介します。昨年暮れから更新が無かったのでおかしいなとは思っていましたが、1/4に二階堂ドットコムさんがご指摘されていたのアクセス解析でしらべてみました。先週末に調べたところでは、その静岡のユーザーは12月中旬以降12/15,16,26,31,1/1,1/6に私のサイトにアクセスがありました。このため、先週の後半時点ではネットゲリラさんはご存命だが、サイトの更新がたまたまできない状態なのかと安心していましたが、今週に入りお別れ会の告知がされていることを知り、ビックリしました。心から深くお悔やみ申し上げます。ただ、敵の多い方でしたから、何かのほとぼりが冷めるまで、東南アジアの国の山奥でひっそり暮らし、何年かしてひょっこり出てきてくれることにちょっとだけ期待しています。テレサテン伝説みたいですが。ひそかにそのプロバイダーのユーザーからのアクセスがまたあればよいと思ってます、1/12現在はありません。■参考リンク奥さまは魔女 (1964-1972):エリザベス・モンゴメリー、 ディック・ヨークと、ロッテマザービスケットCM妄想的陰謀論全く見てなかったから気づかなかったけど
2023.01.11
2022年マリリン・モンローカレンダーをプレゼント(三和HD)と、モンローの地下鉄通気口のシーン リンク切れの修正。ぴったし カン・カン(TBS:1975.10-1986.3):久米宏 萩本欽一 坂上二郎ほか リンク切れの修正。帝銀事件 死刑囚(1964):監督 熊井啓 出演 信欽三, 内藤武敏, 笹森礼子、山本陽子と、柳川慶子と、「毒の伝説・帝銀事件46年目の真実」ほか内容の差替え。奥さまは魔女 (1964-1972):エリザベス・モンゴメリー、 ディック・ヨークと、ロッテマザービスケットCM内容の追加。
2023.01.10

中学1年生のころの映画です。当時先生が勧められていましたがあまり興味が無く観ませんでした。昨年クリスチャン新聞 福音版11月号 聖書をいつも生活にで紹介されていて、思い出してレンタルしてみました。主題歌はフォーク歌手のドノヴァンが歌って当時よく耳にしました。好きな曲でした。イタリアの地方の豊かな商人の子アッシジのフランチェスコが戦争を経てキリスト教にめざめ、既存の強大な教会勢力と対立しながらも仲間たちと共同社会を作っていくところに共感を覚えました。全体的に興味深い内容ですが、親の私財を勝手に貧しい人に分け与えたことを肯定的に描いたシーンは、自分の財産ならまだしもと、ちょっと違和感を覚えました。アマゾンのレビューのガンちゃんさんの投稿をみると、もしある宗教がブラザー・サン シスター・ムーンのビデオを信者候補者に観させて、財産を教会に寄付させるのに利用するなら、恐ろしいことだなとおもいました。■参考リンクWikipedia:ブラザー・サン シスター・ムーン『ブラザー・サン シスター・ムーン』(英語:Brother Sun Sister Moon, 伊語:Fratello sole, sorella luna)は、1972年のイタリア・イギリスの合作映画。概要フランコ・ゼフィレッリの監督による、アッシジのフランチェスコの半生を描いた映画。宗教的題材を借りた青春映画であり、この映画のために、歌手のドノヴァンが主題歌と挿入曲を書き下ろしている。また女流映画監督のリナ・ウェルトミューラーも脚本で参加している。宗教映画的説教臭さを薄め、万人にも見やすい内容に仕上がっている。Wikipedia:アッシジのフランチェスコクリスチャン新聞 月刊 福音版11月号 聖書をいつも生活に(43116)ブラザー・サン シスター・ムーン(吹替版)カスタマーレビュー5つ星のうち4.4ガンちゃん5つ星のうち3.0 利用された映画2022年9月19日に日本でレビュー済み木村友祐氏の『幼な子の聖戦』(2019年芥川賞候補作) で、この映画を知りました。主人公が大学生だった1990年代に統一教会のビデオセンターでこの映画を見たこと、草花の美しさに胸打たれ、信仰心が芽生えかける様子が描かれます(主人公は信者にはなりませんでした)この映画を見て、富を捨てることは美しい、正しいことだと信じて、財産を失った人がどれだけいるのだろう…と苦しい気持ちになりました。1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
2023.01.09

いちげきをNHKプラスの見逃し配信で観ました。初めて観る役者さんが多かったですが、どなたも真剣で緊張感のある演技で好感持てました。いだてんが不人気の原因は、ナレーションの活舌の悪さ、場面転換が激しくてついていけない、主役の華の問題が指摘されているのを見たことがありますが、このドラマはいずれもクリアしていると思います。神田伯山さんのナレーションは迫力があり、かつ分かりやすかったです。思わず講談を聞きに行きたくなりました。ストーリーが込み入っていないので当然シンプルな展開です。主役の染谷将太さんにはドラマをひっぱっていくカリスマ性がありました。映画剣岳以来のファンの松田龍平さんは存在感があり、ドラマを引き締めていました。宮藤官九郎さんのリベンジ成功と思いました。続編が観たくなるおすすめの作品です。2023.3.11リンク切れにより差し替え。伊藤沙莉 (いとうさいり)さんはほかの出演作を観たいと思いました、『14ヶ月〜妻が子供に還っていく〜』とか。■参考リンクNHK総合・BS4K:宮藤官九郎さんの正月時代劇「いちげき」、1/3 21:00から2023.3.11内容の追加。NHK:正月時代劇 いちげきこの"百姓"たち、あなどれないっ!
2023.01.08

新田次郎さん原作の作品です。現地ロケがあったためかVTRでなくフィルム撮影で、作品はすべて現存しているとのこと。内容的には舞台設定のわりにちょっと地味な感じがします。女教師役の菊容子さんが綺麗でした。でっかい青春で女子高校生役を演じたり、観てはいませんが、好き! すき!! 魔女先生で主役を演じたり、活躍されていた女優さんです。残念な亡くなり方をされてお気の毒です。教師役の似合いそうな品のある女性でした。生きていれば72歳、第一線で活躍されていたように思います。■参考リンクつぶやき岩の秘密(NHK少年ドラマシリーズ:1973)三浦半島の海岸近くに住む少年・紫郎は2歳の時、海の事故で両親を亡くし、祖母に育てられていた。紫郎は『あそこに行って岩に耳をつけると、お母さんの泣き声が聞こえる』と言う。紫郎は学校が終わると必ず海へ行き、船で洞穴へ入るのだった。そんなある日、紫郎は人が登れそうもない断崖の上に不気味な老人の姿を見た。そして“亡者が出ると死者が出るという祖父の予言どおり、翌朝海に死人があがった。紫郎はある殺人事件をきっかけに旧日本軍の地下要塞に興味を持つようになり、紫郎にも身の危険がせまる。軍隊、欲望、殺人と、少年とは無縁だったものが、少年の周囲に繰り広げられ、やがて少年の心そのものだった海が欲望の海へと変わってゆく…。【出演】佐瀬陽一(三浦紫郎)/巌金四郎(三浦源造)/西口紀代子(三浦ぬい)美川陽一郎(白髯さん)/菊容子(小林恵子)/吉岡いずみ(山下志津子)原作:新田次郎脚本:鎌田敏夫音楽:樋口康雄テーマソング:「遠い海の記憶」石川セリ演出:佐藤和哉Wikipedia:つぶやき岩の秘密小説三浦半島に戦争中に作られた旧日本軍の地下要塞に隠されたという、金塊の噂をめぐるサスペンスである。新田によれば、長男と長女にそれぞれ息子ができたのを機に、「これはおじいちゃんが書いた少年小説だと自慢できるようなものを残したいという気持」で執筆した、「一種の冒険探偵小説のようなもの」だという[1]。舞台となる「富浜」のモデルは、三浦市の三戸浜海岸(新潮社の保養所があり、新田はここで『八甲田山死の彷徨』を執筆した)。また「白髯さんの別荘」のモデルは三浦朱門・曽野綾子夫妻の別荘である[2][3]。テレビドラマ版NHK少年ドラマシリーズの中の一作である。原作者は新田次郎。1973年7月9日、7月10日、7月11日、7月16日、7月18日、7月19日の、18時05分から18時29分30秒まで放映され、1974年3月11日から3月16日の、同時間に再放映された。全編ロケによるフィルム制作だったこともあり、大部分の映像が残っていない少年ドラマシリーズとしては珍しく、全話がNHKに保存されており、2001年にはDVDが発売された。Wikipedia:菊容子菊 容子(きく ようこ、1950年9月26日[1][2][3] - 1975年4月29日[1][4])は、日本の女優。本名、菊池 洋子[4][5][2][6][7][3]。神奈川県横浜市出身[1][2][5][6][7][3][8]。聖和学院高等学校卒業[6][7]。東京俳優生活協同組合に所属していた[2][4]。来歴2歳の時に富士フイルムのモデル[9]、6歳の頃から少女雑誌『少女クラブ』(講談社)の表紙モデルで芸能キャリアをスタート[1][5][10]。1959年の映画『城ヶ島の雨』で子役デビュー[2][3][11]。中学に進学した時に一時芸能活動を止めるが、中学3年生の秋にNHK主催の新人オーディションで2位合格となり[9]、後に女優業に転向する[2][6][7][3]。この時、本名の菊池洋子ではさんずいが並ぶため「水に流れる」という意味で縁起が悪いという意見があり、菊 容子の芸名に決まる[2]。6歳の時から若柳流の舞踊を習い、15歳でその名取となった[9][6]。1968年、竜雷太主演『でっかい青春』第26話より、女生徒・丸山しぐれ役でレギュラー出演[2]。当時の紹介記事では「この番組に出演したおかげでクラスメイトがたくさんできた感じです。学生生活の楽しさをドラマで味わいたい」と述べている[2]。1971年、朝日放送(当時TBS系)で放映したドラマ『好き! すき!! 魔女先生』のヒロイン・月ひかる役を務め、その他ドラマ・映画・舞台を中心に活躍した[6][7][1]。『魔女先生』の原作者である石ノ森章太郎とはそれ以前より面識があった[12]。1972年より、NHKのクイズ番組『連想ゲーム』の回答者としてレギュラー出演[4][7]。2024.10.15リンク切れの差し替え。マヤの暦・人生の自由研究@syowa40stvdramaさん
2023.01.07
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以前から関心のあったJALどこかにマイルを申し込んで鹿児島便が当たりました。6000マイル引き落としと引き換えに4つの候補地(1日数十回シャッフルできる)のグループを選び、数日後に行き先が決まる、行き先はJALにお任せの航空券です。私はできれば暖かいところがいいと思い、沖縄(那覇)・大分・帯広・鹿児島のグループを選び、鹿児島が当選しました。普通だと15000マイルかかるので得ですが、去年屋久島に行った時、経由したり、霧島に行ったこともあるので、まあまあかなと思います。そんなに行き先にこだわらずとりあえず旅行したいなら結構良いと思います。出発時間の指定をしなかったら、行きは16:00台、帰りは14:00台でした、まあこんなところでしょう。鹿児島での行き先は、以前温泉が良かったのでまた霧島に行こうと思います。指宿温泉の砂風呂もよさそうでしたが、空港から遠そうなので止めました。どこも温泉のあるホテルは、1人宿泊では割高ですが、ホテル京セラはヤフートラベルだと2食付きで12000円台と安かったので予約してみました。まだ全国割の受付が鹿児島は始まっていなかったので、始まったら再予約するつもりです。自分の行きたいところへ行く裏技なるものもあるそうなので、これからいろいろ研究したいと思います。【ふるさと納税】ホテル京セラ リゾートホテル宿泊券1名様チケット(シングルルーム1泊朝食付き・要予約)【ホテル京セラ】 ■参考リンクJALどこかにマイル「どこかにマイル」を徹底解説!新しい旅のかたちをJALマイルで満喫しようJALマイル2022-07-27専門家: 伊藤亮太さん イーデス【2022年】どこかにマイル/どこかへマイルの攻略法・裏技で予約2022年11月11日金持ちマイラー貧乏マイラー:ほったらかしでマイルを貯める
2023.01.06

看護婦姿のチャーミングな写真のナース井手さんをふと思い出して、オールナイトフジ等の動画を探すも残念ながら見つかりませんでした。オールナイトフジでは水着姿の鈴木京香さんや、ダチョウ倶楽部、高田 純次さん、時任三郎さんの若々しい姿も見られました。番組からはバブル真っ盛りの日本がにじみ出ています。一番の収穫は松山香織さんの女子大生時代の動画が観られたことです。2022年5月20日 更新:ミドルエッジ下ネタを医学用語で解説し「オールナイトフジ」等でも活躍した『ナース井手』!!2023.1.28内容の追加。2023.8.13リンク切れの削除、内容の追加。松山香織さん、9:34あたりから■参考リンクWikipedia:オールナイトフジオールナイトフジ(1983年 - 1991年)概要1983年4月2日に放送開始。基本的に生放送。初代司会は秋本奈緒美と鳥越マリ。主な出演者には、デビューしたばかりのとんねるずや片岡鶴太郎をはじめ、レコードも出した「おかわりシスターズ」(山崎美貴、松尾羽純、深谷智子の女子大生トリオ)、のちにアナウンサーになった松山香織[注 1] や佐野美和[注 2] らがいる。出演している女子大生たちは“オールナイターズ”と称された[注 3]。この番組はいわゆる「女子大生ブーム」の火付け役となった[1]。また、この番組は後にお笑い第三世代の代表格となるとんねるずのフジテレビにおける初めてのレギュラー番組であり、その後30年以上も「とんねるず班」と言われる、石田弘(現エグゼクティブプロデューサー)、港浩一(現フジテレビ社長)との人脈が築かれた。以下略。Wikipedia:ナース井手来歴・人物出身地は諸説あり、井手えり名義での活動時は兵庫県神戸市としていた[3]が、ナース井手名義での活動時は神奈川県とするプロフィールもあった[2]。1986年に結婚後上京[2]。フジテレビ系の深夜番組『オールナイトフジ』の司会で人気を博した。芸名を命名したのは同番組の司会者だった片岡鶴太郎で[2]、由来は准看護師の資格を持っているため。1980年代末からはテレビレポーター、ラジオパーソナリティとして活動、特に『夜はキラキラ寺チャンネル』(文化放送)では関西弁を交えたマシンガントークで人気を博した。その後離婚に伴い、名前を井手 えりと変えて活動していたが、再婚に伴い芸能界を引退した
2023.01.05

お正月3日の深夜(4日未明)、しぶんぎ座流星群を観ようとしましたが、見つけられず、ピクセルのタイムプラスにも映っておらず残念。当日はまだ日本全体の活動が始まっていないせいか、空はきれいに澄み渡っており、ふだん肉眼で見えない星がたくさんきらきら輝いていました。斜めに3つの星が輝いていたので、星座アプリで調べるとオリオン座の三つ星のようです。フラッシュなしのふつうモードで撮ると、青白く幻想的に撮れていました。天体撮影モードで撮ると、オリオンの左腕のぴらぴらみたいな布切れも撮れてちょっとうれしいです。月の上の星も調べてメモしましたが無くしてしまいました。今度は北斗七星を撮ろうと思います。■参考リンク星座図鑑:オリオン座石垣島の星空をPixel「天体タイムラプス」で撮影したら語彙力なくした「グーグルのピクセル」の「タイムプラス機能」の使い方Pixel 4aの天体撮影モード利用レポート:スマホでここまで撮れる感動Google Pixel で動画を撮影する流星群の写真の撮り方! スマホやiphone・アプリで星空の写真を綺麗に撮るには?
2023.01.04

2009年に49歳で始めたブログも、最近は毎日の更新がきつくなってまとめて更新することが多くなってきました。今回のWSJを読むと、ブログで日々の出来事を残しておくのはそれがそのまま「人生の物語」になるので大事なことだと思いました。「あなたが何をしたかだけでなく、その理由と経過を記すのが最善のやり方」についても留意して続けたいと思います。■参考リンクあなたも「人生の物語」を書こうWSJ訃報専門記者が自分のライフストーリーを書き記す効用を説くBy James R. Hagerty2023 年 1 月 2 日 05:43 JST ウォール・ストリート・ジャーナル――ジェームズ・R・ハガティーは、ウォール・ストリート・ジャーナルの記者。このエッセーは彼の新刊「Yours Truly:An Obituary Writer’s Guide to Telling Your Story(敬白:訃報専門記者が教えるあなたのストーリーの語り方)」に基づいている。*** 「死はすべてを奪っていく。私たち自身のストーリーを除いては」と詩人のジム・ハリソンは書いた。注意していなければ、死はストーリーさえも奪う。 私たちの多くは、自身の死後の金銭と不動産の扱いについて細心の注意を払う。同じような関心を自分たちの物語にも向けてはどうだろうか。一度失ってしまえば二度と戻ってこないものなのだから。 あなたがパートナーや両親から繰り返し聞いてきた話のことを考えてみよう。こうした物語はかけがえのないものだ。人が死ぬとき、私たちはこうした話を必要とする。あいまいでうろ覚えではなく、伝聞でもなく、一番元のバージョンで、話の展開やニュアンス、個人的な話し方の癖も含めた形でだ。あなた自身の言葉や洞察は、他の人が送る追悼や賛辞よりも生き生きとしたものだから。 記憶が鮮明な今のうちに、自分の物語を記録しておくべきだ。あなたが何をしたかだけでなく、その理由と経過を記すのが最善のやり方だ。手始めにあなたが仕事に就いた経緯を書いてみよう。自分の人生で何をしようとしているのか。どの段階まで達しているのか。最大の勝利と失敗は。そしてそこから何を学んだのか。さらに試してみる価値のあるのは、自身に起きた一番奇妙なこと、一番面白いこと、一番素晴らしいこと、一番ひどいことについて書いてみることだ。以下略
2023.01.03

ユタとふしぎな仲間たちの再編集版を観ました。東京から東北地方に転校した小学生が、座敷童との遭遇をきっかけにして、地元の子供たちとうちとけていく様子を描いたドラマです。最初ユタと聞いて、沖縄の方の民間霊媒師(シャーマン)のことかと思いましたが、主人公のあだ名でした。短いドラマですが、東北地方の歴史的背景や環境に起因する問題をコンパクトに取り入れています。なぞの転校生といい、このシリーズの特徴でしょうか。1時間で観られます。考えさせられる作品です。2022年12月9日に亡くなった佐藤蛾次郎さんが座敷童を好演されています。ご冥福をお祈りします。赤ん坊をおんぶして小学校に通っていた女の子がいました。いくらなんでも、昭和40年代後半にそれはないだろうと思いましたが、その小夜子役を演じていた女の子宇田川悦子さんが印象的でした。ユタとふしぎな仲間たち(1974:NHK少年ドラマシリーズ)■参考リンクWikipedia:ユタとふしぎな仲間たち『ユタとふしぎな仲間たち』(ユタとふしぎななかまたち)は三浦哲郎による小説。1971年に児童図書である新潮少年文庫の書き下ろし長編童話として出版された[1]。1974年、テレビドラマ(NHK)が放送されたほか、1977年には劇団四季の脚色・演出によるオリジナル・ミュージカルが日本で初めて上演された。テレビドラマあらすじ小学生六年生の勇太(ユタ)は、母親の生まれ故郷である東北の山間にある温泉村の湯の花村にある分教場に転校してきたが、村の子供たちに馴染めず退屈で孤独な日々を過ごしていた。ある日、温泉宿の銀林荘で働く寅吉じいさんから座敷わらしの伝説を教えられ、興味を抱いたユタは、満月の晩、座敷わらしが出るといわれる宿の離れに一人で泊まることに。座敷わらしと出会い、仲間として交友を深めるうちにユタは明るく元気に成長していく。NHK『少年ドラマシリーズ』の1つとして、1974年5月6日 - 5月8日に放送された。1話25分・全3話。フィルム作品。全編を1時間に再編集したものが昭和49年度芸術祭に出品され、テレビ部門ドラマの部優秀賞を受賞している。この再編集版は出品時と受賞時に再放送された。なお現存する映像はこの再編集版のみ。2001年11月18日にはNHKアーカイブスで再放送された。舞台は番組中に固有名詞は登場しないものの、岩手県北部の金田一温泉。この山村にも開発の波が押し寄せ、座敷わらしが去っていく。「東京と青森を結ぶ大きな道路を造ってる」のセリフがあり、八戸自動車道の工事が始まった時期でもある。放送ライブラリーでは再編集版が公開[4]。Wikipedia:佐藤蛾次郎放送番組に出演された宇田川悦子様をさがしています:aRmaユタと不思議な仲間たち
2023.01.02

新年明けましておめでとうございます。旧年中はいろいろとありがとうございました。本年もお世話になりますがよろしくお願い申し上げます。毎月の築地本願寺の掲示板の言葉ですが、いつも参考にしている参拝カードが、去年と同様1月は掲示板の言葉でなく新年の書に代っているため、中旬に築地に行くまではわかりませんのでお待ちください。ことしの新年の書は「慶」です。昨年は、ロシアのウクライナ侵攻、インフレの激化等、暗い話題が多かったですが、気持ちを切り替えてポジティブな1年となるように心がけて生きたいものです。1年経って、気づいたら自分の身の回りに「慶」があふれていたらうれしいです。2023年1月 今月の参拝カード:築地本願寺2023.1.14追記1/12に築地本願寺の掲示板を確認したところでは、12月の掲示板の言葉から変わっていませんでした。■参考リンク2022/1築地本願寺の掲示板:新年の書 覚と、「眠れない夜をなげくものは多いが目覚めた朝に感謝するものは少ない」【名づけ】力強く喜びにあふれる「慶」を使った名前をご紹介!抜粋「慶」の成り立ちと由来まずは、「慶」の成り立ちと由来から解説していきます。「慶」の成り立ちと由来「慶」は鹿の一部「廌」と「心」から成る漢字です。その由来には諸説あり、古来、お祝いごとに鹿の皮を贈ったことがはじまりであるとも、古代の裁判で用いられた神獣「廌(たい)」がもとになっているとも言われています。これらのことから、「慶」は喜びをあらわす漢字として使われるようになりました。「けい」「きょう」「ちか」「のり」「やすし」などさまざまな読みがある漢字です。「慶」の意味「慶」の意味は祝いごとにまつわるポジティブなものばかりです。「慶事」「慶祝」といった言葉が代表するように、豊かさ、祝福といった意味をはじめ幸運、幸福、優しさ、思いやりといった意味も持ちます。古来よりめでたい場面で使われてきた「慶」は、縁起の良い漢字として名付けでも好まれてきました。
2023.01.01
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