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元 日 本 兵・ 横 井 庄 一 さ ん記 念 館 が 閉 館館 長 の 美 保 子 さ ん 死 去 で。終戦を知らぬまま、グアム島に28年間生活し、帰国後の第一声「 恥ずかしながら帰ってまいりました 」が当時の流行語になった元日本兵・故横井庄一さん( 1997年9月82歳で死去 )の名古屋市中川区の自宅にある記念館が9月3日、閉館した。館長を務めてきた妻美保子さんが5月94歳で死去したため、この日2人の親交のあった関係者が最後の見学に訪れ、故人をしのんだ。愛知県佐織村( 現愛西市 )生まれの横井さんは41年、満州( 現中国東北部 )に出征。44年3月にグアム島に派遣され、終戦を知らずジャングルでの生活を続け、72年2月に帰国した。知人の紹介で見合いをした美保子さんと同年11月に結婚し、「 耐乏生活評論家 」として全国で講演するなどをした。晩年は、パーキンソン病を患った。横井さんは病床で美保子さんに記念館建設の夢を託し、美保子さんは2006年6月に記念館を開館。木造2階建の自室の1階展示スペースでは竹や和紙で再現したジャングル洞穴の実物模型や横井さん手作りの機織機、横井さんが60歳から始めた陶芸の作品など70点を展示していた。美保子さんは、記念館で横井さんの暮らしぶりや平和の大切さを伝えてきたが、新型コロナウイルス禍で京都市の実家に戻った20年から休館になっていた。毎日新聞の取材に同年7月「 元気になったたらもう一度( 名古屋に )帰り、皆様に来ていただきたい 」と言っていたが、思いを果たせず亡くなった。( 以 下 省 略 )上記の記述は、2022年9月3日に掲載の毎日新聞より転記しました。
2022年09月04日
横井庄一さんの妻、美保子さん死去グアム潜伏28年間ジャングルに潜伏した元日本兵横井庄一さんの妻、横井美保子さんが2022年( 令和4 )5月27日死去した。94歳だった。1997年82歳で死去した夫の生涯を伝えようと2006年から、名古屋市にあった自宅を記念館として公開していた。
2022年05月28日
静 か に ふ ま せ た い 祖 国 の 土 28年間 ! なんと長い年月であったろう 南十字星の輝く グアム島の密林の中で 文明の光を断絶し 原始の生活を 死の恐怖と闘いつつ 戦陣訓を忠実に守り 祖国を愛し 勝利を信じた 一兵士が 生の執念と 強じんな精神力で 生きつづけた長く尊い年月を・・・ 戦争がもたらした 悲劇の主人公の クローズアップされた 顔写真を見つめて 戦争の苦悩を 身でたえぬいた世代の人は ” よく生きつづけて ” と涙涙・・・ 頬( ほお )をつたう 死の影におびえつつ ジャングルの中で水滴と化した この人の青春は 億万の宝石を積重ねても 再びとりかえす事は出来ない 戦争の悲惨な歴史を物語る この人を 慈愛の心があるならば 静かに 祖国の土をふませたい そして静かに 祖国の平和の日々を 心ゆくまでみつめさせたいと 願わずにはいられない 愛知県岡崎市 主婦( 41歳 )上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月31日、新聞( 読者の広場 )に掲載されたものです。
2022年03月25日
今 一 番 欲 し い の は 塩体 が し び れ る・・・と 友 は 死 ん だ帰 国 を 待 つ 生 残 り 元 日 本 兵熱帯の孤島のジャングルに1人で28年。元日本兵の横井庄一さん(56)=名古屋市出身=は24日夜グアム島のメモリアル病院に収容され、25日午後地元の報道関係者と記者会見。その後、現場検証のため現地の警察関係者とともに、これまでひそんでいたジャングルに向かった。関係者の話を総合すると、横井さんは「まだ夢をみているような」状態だが、いたって元気で「まず祖国に帰りたい」ともらしているという。ジャングルの中で横井さんの生活していた場所が確認され、警察関係者が炊事用具や魚とりの用具を運び降ろした。同夜9時すぎ、横井さんはグアム島第一ホテルでカルロス・カマチョ知事、シンタク日本名誉領事に付添われて再び記者会見し「まだ夢をみているような状態だが、まず祖国に帰りたい」と語った。横井さんの話をまとめると、28年間のジャングル生活はおよそ次のようなものだ。昭和18年に「満州」からグアム島に移ってきた。同19年夏に日本軍が敗退したあと、10人ばかりの同僚とともにジャングルの中に逃げ込んだ。そのうち1人死に2人死にとチリヂリバラバラになり、3人になった。米軍や島民に見つからないように穴を掘って暮した。私は1人で穴にこもり、他の2人は一緒に一つの穴にこもった。穴はたて穴を掘り、さらにその底から横穴を掘った。昼間はこの穴の中にこもり、夜、食べ物をとりに出かけた。しかしこの2人も約8年前に死んだ。栄養失調だった。死ぬまでの間2人は「からだがしびれる」といって苦しんだ。一番つらかったのは塩がなかったこと。いま一番ほしいものは何かといわれれば塩だ。横井さんをみつけたのは近くの村の住民、マニュエル・グラシアさんジーザス・ドイナスさんの2人だった。川にエビをとりにきた横井さんとばったり出会い「顔をつき合わせるほど近くで気づいたので、もう逃げられなかった」という。軍隊時代のハサミでひげ、爪を切った。魚とりの道具は割り竹で編んだ細長いかご、民芸品のように精巧なものだった。エビとりのえさは粉にしたココナツの実だった。木をすり合わせて火をおこした。両手のひらに堅いタコがまるでこぶのようになっていた。横井さんが収容されたメモリアル病院の医師の話だと、横井さんは驚くほど元気だが、やはりひどくやせていた。体重は約40キロ。穴暮しのためか年齢のためか、背骨がやや曲がり、歯はほとんど浮いてしまっているという。グアム島は、いま日本人観光客でいっぱい。飛行機が空港に着くとドッと日本人観光客がはき出される。その中でも新婚の二人連れが目立つ。戦争を知らない世代と、日本軍の亡霊のように28年ぶりに姿を見せた元日本兵と。この対象が何とも奇妙だ。横井さんは25日午後10時15分からグアム第一ホテルで日本人記者団と会見、約45分にわたってジャングルの中の逃亡生活について語った。上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月26日、新聞に掲載されたものです。
2022年03月23日
28 年 の 知 恵あ る ゎ あ る ゎ 60 数 点薬 入 れ か ら 晴 れ 着 ま で「 こんなもの日本に持帰りたくないなあ 」「 ミスター・ヨコイ、それは間違いだ。君の生きた歴史だ 」。26日午後、横井さんとグアム警察署のクインタニラ署長が真剣にやりあった。ほら穴から ” 生存の証拠品 ” として押収されてきたナタやカゴ、洋服など60数点。それは横井さんの28年の生活記録であるともに、人間の生命力の強じんさをまだまだとみせつけたもので、同じジャングルにいた皆川文蔵さんをも感嘆させた。人間社会から切り離され、ギリギリの極限状態の中で生き抜いた人間が必死に考え、つくりだした生きる道具だ。グアム警察署が横井さんを保護したさる24日午後、ほら穴に調査に出向いたところ、麻袋4袋でもはいり切れないほどの道具類があった。伊藤正さんは「 薬きょうに調味料入れみたいな穴があいていたが、いったい何に使ったのだろう 」と首をかしげていたが、同じように15年間ジャングルで生活した伊藤さんにもその使い道は見当がつかなかったらしい。ウナギの肝からつくった薬入れだったという。皆川さんも「 横井さんはずいぶん家財持ちだなあ 」と証拠品を見て感心した。皆川さんや伊藤さんは原住民に見つかるのを恐れて同じところに決して1週間以上はいなっかったが、横井さんは同じほら穴に15年もいた。皆川、伊藤さんが遊牧民とすれば、横井さんは” 農耕民族 ” だった。水筒やナタなどは皆川さんが使ったのと同じだが、皆川さんは木の実類を保存食にしたり、衣類を作ろうなどとは考えもしなかった。横井さんは何年もかけて洋服を仕立て上げたりして、人間が自然に生きる資質を元来持っていることを証明した。そのまま使っていたのは、ナタ、ハサミ、スプーン、日本ヤカン、ハンゴウ3個、水筒、鉄カブト、携帯用の鉄製の弾薬類。転用したのは、弾薬箱の鉄板に穴をあけた大根おろし、鉄板のフチを折りまげたナベ、サラ。カシの木を長さ20センチ、直径5センチぐらいに削って2本でこすり合わせて火をおこす火打ち木、ウナギのかば焼き用の竹ぐし36本。ホラ穴が竹やぶの中にあったせいか、竹細工の道具も多い。ウナギやエビとり用のモジリ( 長細い竹かごで、中にはいると逃げ出せなくなる )4個や灯油に使ったヤシ油を入れる竹製の筒を2個。ヤシ油といえば、ヤシの実をしぼって、固形のロウを2本もつくってある。横井さんが作ったツメえりの国民服の手ざわりは” ツムギ ” のようで、デザインも洋服職人だっただけに堂に入ったもの。その工程はヤシなどの木皮をたたいて繊維状にしたあと水にさらし、よりあげてまず糸を作る。それを交互にテテ糸とヨコ糸を通してヤシ生地を織り、これを裁断して針金に穴をあけた針で縫いあげた。ボタンもカシの木をみがきあげて作って縫いつけた。1着作りあげるのに2、3年はかかったそうで、なんと横井さんはそれを季節に合わせて3着も持っており、夏用は半ソデだった。食糧品もウナギやエビを干物にして台風シーズンに備えた非常食をつくっていた。ちょっと渋味が残っているが、ブルーチーズを食べたような味。道具類はみなきれいにみがきあげられて、竹製品などは黒光りしており、だれひとり見る人とていない密林の生活をいかに大切にしていたかがうかがえる。小銃の一部分は生活必需品の材料にしたらしく撃鉄が抜け落ちていたが、銃口部分は布で巻いて保護していた。またホラ穴には数10発の手投げ弾がきちんとヨコ穴の貯蔵庫の中に並んでいたが、そこだけがホコリが積もり” 平和 ” に徹した姿をみせていた。これは27日、アメリカ海軍爆薬処理班がホラ穴から運び出して処分するという。上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月27日、新聞に掲載されたものです。
2022年03月20日
逃 亡 記病 気 に か か り 死 を 覚 悟 す る「 逃げつづけているうちに、いつの間にか1人になりました 」という横井庄一さん(56)から聞いた「 逃亡生活記 」も、録音テープと一緒に25日夜、日航機で羽田へ空輸されてきた。現地で横井さんの世話役として付添っているアガナ・トラベル・エージェンシーのフランシスコ・シンさんが一対一で話を聞き、横井さんの収容された病院の便せんを使い、カタカナのメモ書きにしたものだが、その最後に横井さん自身がしっかりした字体で書いたサインがそえてあった。たどたどしい日本文で読みとれない表現も多いが、穴から穴へ島民のたく野火におののいて逃げまくり、最後には一人ぼっちになったきびしい孤独の生活がにじみ出ている。内容は次の通り。20人の戦友と別れ、8人と山の岩穴にすんで、ここでイモを掘ったり、ニワトリ、野牛をとり、パンの実をつぶした。そのころいたのは7人です。シチミキオ、ナカハタサトル、ミナガワブンゾウ、ウミノテツオ、シミズシゲジ、ニヘイキゾウです。それから横井とシチ、ナカハタの3人になり、川から3キロのところに穴を掘った。1年ぐらいたって島民がカヤを燃やしに来たので、川に逃げ、木にキャンプをつくって、そこでしばらく暮した。それからあちこち歩き、最後の穴に15年住んだ。3人は別れ、一人で竹の根を掘って暮し、( ある時 )2人の友だちの住んでいる場所に行くと変なニオイがしていた。中にはいると( 2人は )故人になっていた。そのまま1人になった。病気にかかり薬もないので死ぬ覚悟をしました。時々、島民に会い、出てゆく覚悟もしたが、こわくて出られなかった。川にアミを仕掛けにいく途中、2丁の鉄砲を持った5人の島民に会い、なぐられ、ヒモで手をしばられた。車に乗せられ、島民の家に連れていかれ、そこで、ご飯とコーヒーをもらった。それから町の警察、領事館にいった。それから裁判され病院にいった。病院に着いた時、夢みたいな気持ちだった。チラチラ( ネオンのことか )ついていたのが珍しかった。足を洗ってもらい、日本語のできる現地人と朝4時まで話した。上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月26日、新聞に掲載されたものです。
2022年03月18日
密 林 の 生 活グアム島の横井さんは、実印まで持っていた。エリにステッチを入れた洋服を縫い、空カンの二重箱を作っていた。それは必要以上とも思える用意のよさだった。もし、発見されなければ、横井さんはあの穴倉でいつかは死を迎えただろう。一人ぼっちの彼にとっては、法律や規則も、見えや外聞もいらないはずだし、まして実印は不要のはず。28年間もの孤独な生活に、そうした一面を生んだものはなんだろうか。一つには生活の持続性だという。人間には、なにか満足するものがなければ生きていけない。孤独さの気をまぎらすため、日々の製作に精を出し、完成すればそれは喜びとなる。ボタンの穴かがりをつけたのも、それを一つの目的にし、その目的が生活の持続性を生んだといえる。実印を持っていたのも、物を受取るときなど印鑑が必要だった軍隊生活をそのまま持続させたのだろう。元来日本人には、生活の順応性があることも見のがせない。足が冷えるからコタツ、手が冷たいから火ばち、腹が冷えるからカイロ、と日本人特有の部分的な生活の知恵がある。横井さんが火ナワを作ったり干ものを貯蔵したのも、伝統の順応性のように思える。もう一つは、伝えられるようなそのきちょう面な性格。穴倉の部屋をいつも掃除し、日常品はいつでも使えるように備えていた。心理学的にいうとこうした生活ができるのは内向性の人だという。きちょう面で思慮深く、生活態度を変えないからだそうだ。そんな横井さんが、戦後の文明生活をどう生きていくだろうか。上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月、新聞に掲載されたものです。
2022年03月16日
手 製 の 背 広 3 着手 あ か と 汗 の 生 活 用 品グアム島のジャングルで28年間、原始人と同じような生活をしていた横井庄一さん(56)の生活用品のすべてが28日、グアム島警察本部で公開された。パゴの木の皮から編みあげた ” 外出用の背広 ”竹製のネズミとりなどジャングルの生活で身についた生活の知恵が生んだ必需品約50点。いずれも手あかや汗にまみれて黒ずんでおり、異様なにおいを放っていた。横井さんの生活必需品のおもなものは次の通り。○ 背 広 上 下 3 着 1着はサイドベンツでアウトポケット付きというスマートなもの。 元洋服屋さんだった横井さんの自慢の作品。 布はパゴの木の皮をむしって細く裂き、木の枝や 竹で作った織物機を使って織り上げた。○ 腹 巻 2 つ 長さ約1・5メートル、幅30センチ、 作り方は背広に同じ。○ 縄 6 束 ココナツの実をくり抜き、皮と実の間にある 繊維状のものをよってロープにした。○ 袋 3 個 ナンキン袋に似ており、木の実などの食糧保存用。○ ネ ズ ミ と り 大2つ、小1つ 大きい方は竹製で、長さ約40センチ、縦約25センチ、 幅約30センチで、底の部分に直径約10センチの穴が あき、中に木の葉が敷いてある。 小さい方は針金製で、大きさは20✖7✖5センチ。 中に獲物がはいると入り口がしまるように工夫 されている。○ 魚 と り か ご 5 個 竹製で長さ約50センチ、直径約15センチ、 底の部分にえさにするココナツの実を入れるための 小さなかごが差込めるようになっている。○ ヤ シ の 油 ラ ン プ 水筒または飯ごう一部を使って受けざらを作り、 ヤシの実の油を中に入れて燃やすようにしてある。○ ハ サ ミ 旧陸軍時代から使用していたもので、調髪、つめ切り、 ひげそりから洋服の裁断まであらゆることに使った。 すりへっている。○ そ の 他 水筒を半分に割ってドンブリ、フライパン、おさら、 ヤシの実をくり抜いた水入れや使い古した旧陸軍の 水筒、飯ごう、さびついたナイフ、鉄板に小さな穴を たくさんあけて作った ” おろし器 ”。 中に火起し用の火薬がはいっている薬きょう、 火起し用木の棒、きり、半分折れたスプーン などが30点近く。上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月29日、新聞に掲載されたものです。
2022年03月14日
あ の 人 が目 を 丸 め る 戦 友 の 皆 川 氏グアム島生残りの1人、皆川文蔵さん(51)東京都練馬区富士見台2の5の10、東映関東支社プリント課予告係=は25日午前3時すぎ、新聞社からの電話で横井庄一さん(56)の生存を知った。「 横井さん? あの名古屋の洋服屋をやっていた、あの横井さん? 本当か・・・ 」あまりの突然なニュースに、皆川さんは目をまるくした。驚いて次の言葉が出ない。うっそうと熱帯の木々が茂るジャングル。米軍、そして島民の目をのがれてジャングルのなかをさまよう。米軍のゴミ捨場から盗んだ布をぬい合わせてテントをつくり、ヤドカリのようにテントをかついで移動した皆川さん。「 横井さんとは1ヶ月くらい一緒に生活した 。みんな同じところに長くとどまっていると、すぐ島民に見つかってしまうのではないか、としばらく一緒に生活しては、また離れ離れになって生活した 」と皆川さん。皆川さんは20歳のとき、徴兵で軍隊にはいり、横井さんも召集で同じ隊にはいったという。「 横井 」と聞いて皆川さんは「 名古屋の人で洋服をぬう人 」と思い出した。 以 下 省 略上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月、新聞に掲載されたものです。
2022年03月12日
「 玉砕 」16年後のグアム島で、皆川文蔵さん、伊藤正さんの2人の生き残り日本兵が見つかった時「 奇跡のジャングル生活 」といわれた。そのうえ、さらに12年、しかも1人で耐え忍んだ横井庄一さんをなんと形用したらいいか。生還当時の皆川さん伊藤さんの話に「 ジャングルで、敗戦を知らせるビラや内地の新聞を何度か読んだが、新聞は略字( 当用漢字 )が多過ぎて、故国のものとは思えなかった。豆腐が10円というのも高くて信用できない。米軍の手のこんだ謀略だと受取った 」とある。グアム島は野生の食べ物が豊富で、猛獣や毒ヘビはいない。だから生残れたのだが、戦場の恐怖は続く。ほら穴で皆川1等兵と伊藤軍曹は、ひそひそ郷里の話をして慰めあった。よく相撲の話がでた。勝負ではなく力士がまく塩についてだ。「 もったいないな。土俵の砂を煮詰めたら上等の塩がとれるだろうに 」などと。2人はなぜ投降しなかったのか。「 虜囚のはずかしめを受けるな、という戦陣訓に忠実に従っただけ 」だ。また「 ジャングルの兵隊に暖かい、柔らかなことばは通じない。かえって警戒する。強い命令のほうが素直に受取れる 」とも2人は語っている。なぜなら「 命令は絶対だから 」だ。ばかばかしいと今の人は笑うかもしれない。この2人にしてみてもジャングルで毎日毎日「 みじめな戦争だ 」と16年間思い暮してきた。しかし「 戦友が全部死んだのに自分だけ帰るのは、うしろめたい 」と、救出されたあとも自殺を考えたりする。この思いは、あの戦争の愚劣さとは別のものである。12年前の新聞で読みなおした2人の話には、奇妙に生々しいものがあって、胸が痛んだ。もうひとりの生き残り日本兵が、やつれた青白い顔をしてジャングルから帰ってくる。上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月26日、新聞に掲載されたものです。
2022年03月10日
先週は、グアム島の生き残り兵士横井庄一さんに話題をさらわれた感じだった。28年間もジャングルのなかで、たった一人で生きていた。全く「 奇跡 」というほか言葉をもたない。そのたくましい精神力は超人的だが、それをささえていたものは「 生きて虜囚のはずかしめを受けず 」という戦陣訓の一語だったという。横井さんの場合は戦争中の価値観がそのまま今日もつづいている珍しい例である。「みなさんを見ても、日本の方かアメリカの方かわからない」と横井さんはいっているが、それは服装や外観だけのことではない。30年に近い歳月が日本人の価値観を全くかえてしまったが、横井さんはこれからもそれにとまどうことだろう。おそらく横井さんが変わった祖国の生活に慣れるまでには、時間もかかるだろう。1人の人間の青春を奪った戦争、横井さんは生きていたが死んでしまったたくさんの戦友、彼自身も二度とこの戦争の悲劇をくりかえしてはいけないと思っているだろう。戦争を知らぬ世代にも、横井さんは戦争悲劇のなまなましい象徴である。横井さんは天皇陛下に会いたいといっている。彼は天皇中心の価値観で教育され、そのために孤独の28年間を生き抜いてきたのである。人間天皇から一言ねぎらいの言葉があってしかるべきだろう。宮内庁も春の園遊会をその機会として考えているようだが、これはぜひ実現してほしいことだ。帰国後の横井さんについて、すでにいろいろな暖かな申出もあるようだ。戦争につながる苦しい思い出のある人々はまだ多い。そういう人々が感動し、感激するような人間ドラマの主人公であることはまちがいないが、せっかくの好意があだになるようなやり方は慎まねばならぬ。すでに孤独のジャングルの生活からメモリアル病院に移っただけで、人間社会復帰の疲れが出ているそうだ。彼のジャングル生活を聞いても、まじめで実直な人柄はよくわかる。これからは市民としての平和な余生を送ってもらいたい。時代の運命の犠牲になった1人の日本人の社会復帰を静かに暖かく迎えたいものだ。上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月、新聞に掲載されたものです。
2022年03月08日
か な う か 陛 下 と の 対 面単 独 ね ぎ ら い も 旧 来 の 慣 習 壁 だ が宮 内 庁 検 討「 天皇陛下にお会いしたい。陛下を信じ陛下のために生き続けたこの気持を陛下に伝えてほしい 」--元日本兵、横井庄一さん(56)の訴えは大きな反響を呼んでいるが、宮内庁は陛下のお気持やお立場も考えたうえで、横井さんの訴えが実現できるような方法があるかどうか、検討を始めた。5月に予定されている赤坂離宮で開かれる園遊会に横井さんを招待し、その席で陛下がねぎらいのお言葉をかけられることがもっとも自然なかたちではないか、という意見が宮内庁筋では強い模様だが、それ以前に単独会見のかたちで陛下が横井さんに会われることも含めて暖かい白紙の立場で検討、という微妙なニュアンスもみせてる。最終的には政府筋とも相談のうえ決定されることになろうが、陛下と民間の特定個人との単独会見は前例がないだけに、もし実現すれば昭和史を象徴する一場面として大きな反響を呼ぶことになりそうだ。横井さんの「 天皇陛下にお会いしたい 」という痛切な声が報道された27日、毎日新聞社へだけでも「 ぜひ実現して横井さんの労をねぎらってあげてほしい 」「 それがなにものにもまさる横井さんへの贈り物だ 」という電話が殺到。陛下は新聞やテレビで横井さんのことは十分ご存じで、お心にかけられているという。お立場上、積極的に私的な感想をおもらしになることは少ないが、陛下のお人柄からみて「 日本兵 」横井さんには深い関心と感慨をお持ちになっていられるはず、と側近はいう。しかし、陛下のお気持ちとは別に単独会見となると、宮内庁の厚いしきたりの壁が横たわっている。戦没者遺族代表、文化功労者や内外の記者団を引見される場合でも、特定の人にだけお言葉をかけられることは立場上ひかえられるのが厳しい慣例になっているという。園遊会でも、特定の人でなく国民各層から選ばれた代表に広くお言葉をかけられるのが建前となってる。そうしたきびしい慣習の壁がありながら、なお同庁高官筋が暖かい白紙の立場で検討したいと表現しているのは、今度の横井さんの事件が戦時中から戦後を貫く象徴的で稀有のケースであり「 天皇陛下 」のために南海の孤島で28年間も生き抜いた1人の「 兵 」との対面が、、慣例やしきたりを越えて実現する可能性が全くないわけではないことを示唆している点で注目される。上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月26日、新聞に掲載されたものです。
2022年03月06日
苦 心 し て 日 本 の 風 情竹 の 皮 、畳 代 わ り横 井 さ ん の ほ ら 穴煙 突 、ト イ レ そ ろ うグアム島の、うち続くジャングルの果ての竹林に、横井庄一さん(56)が生きのびたほら穴があった。押しつぶされそうな恐怖にとらわれながらタテ穴からはいると、竹の皮を敷いた横穴が約4メートル。木の実がすえ、息がつまる思い。だが、ちょうど一畳敷きの暗ヤミの中にカマド、炊事場、物置、ココナツやヤシの実、さらに煙突からトイレまでそろっていた。この穴ぐらに居を構えて15年を生き抜いた横井さんの、必死の思いがこもる。穴を出て見上げると、緑色の竹がスルスルと10メートルも伸び、ジャングルの太陽もここではやわらか。もしかしたら、ここは日本ではないかと、一瞬思わせるようなふんいき。横井さんのここを選んだ気持ちがわかるようだ。午前11時、グアム警察のクリス警部らの案内で出発。タロフォフォ村からジープで山中に3キロ行くと開拓地があった。そのはずれからジャングルが始まった。息がきれて立止まると、こんどは蚊の大群の襲撃。みるみるうちに、むき出しの両腕がヒぶくれのようにはれあがる。午後2時少し前、突然竹ヤブが現れた。「 ここだ 」「 ここだ 」と、とっさにどなった。長い長いジャングルの末、場面が変わった。歌舞伎舞台のどんでん返しのように激しく。一瞬、ここは日本じゃないのかと、錯覚させたのだ。薄緑色の竹がおい茂り、風でぶつかりあってカラカラと音を立てる。タロフォフォの支流の、また支流がゆっくりと流れている。その小川に向かって、傾斜した約150平方メートルの竹林の中央に、15年間住みついた横井さんの住み家があった。ふと見ると、真っ黒なガマガエルがヒクヒク動いてこちらをうかがっていた。横井さん以外の唯一の生物だ。約2,30本の密生した竹の根元に小さな穴。” 住居 ”は、竹をスダレのように編んだフタが入口にかぶさっている。手作りとは見えない。まるでデパートで売っているような製品。スダレは、雨を避け風を入れる知恵からか。穴の入口は60センチ四方。竹製のハシゴをおりる。15年もなかで火をたいたから、カマドの煙突のようにベットリと黒い。深さ2メートル、横穴は奥行き約4メートル、ひざをついて頭は天井すれすれの高さ。天井いっぱい網のように竹が組まれ、タナになっている。右側が掘込んであり、二段の竹のタナと、その下は物置。ヤシの実や多分火縄だろう、ヤシの皮をちぎって繊維にしてある。左側も同じくタナがあり、その下に鍋をおいたカマド。鍋にフェデリコの実が水につかり、毒抜き中だったらしく、臭ったような、がまんできないにおい。カマドのちょうど上あたりに、空気抜きが地上へ出ている。中で腐って、がらんどうになったヤシの実で作ったベンチレーターだ。床には、フトンがわりの白くかわいた竹の皮がいっぱい敷きつめてある。1枚々々が大学ノートくらいだ。 15年間のベッド。燃料用のヤシの実が何十個も並べてある。ハシゴの反対側はトイレ。竹を3本組合わせ、その下をタコツボにしている。すべてがきちょう面に整理されている感じだ。上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月26日、新聞に掲載されたものです。
2022年03月04日
お み ゃ あ さ ん よ く ご 無 事 でな つ か し い ” オ イ ”手 握 り し め 涙 の 対 面横井さんに会った大鹿さんは「 よくおぼえていてくれた 」と目をまっ赤にして泣いていた。「 庄一さん、おみゃあさんやーと、まめでいやーしたなも、わしがわかりやーすか 」28日朝、グアム島のメモリアル病院2階235号A室で奇跡の生還4日目を迎えた横井庄一さん(56)は肉親として初めて名古屋からきた母つるさんの孫、名鉄産業勤務 大鹿時義さん(43)と感激の対面をした。庄一さんがかわいがっていた時義さんの名古屋弁に、思わず庄一さんの目から涙があふれた。大鹿さんは27日、パンアメリカン機でグアム島に着き、この朝初対面。病室には報道陣など一切の立入りを禁じ、大鹿さんは部屋にはいるなり庄一さんの前に走り寄り、手をさしのべながら「 庄一さん 」と両手をしっかと握りあった。 互いを見つめ合う目と目。大鹿さんが「 長い間ほんとにご苦労さん。一日も早くみんなの待っている千音寺( 名古屋市中川区 )に帰ってこい。わしも初めは名古屋で待つつもりだったが、待ちきれずグアムへ来た。ただ安心して帰って来てほしいが、庄一さん、8年前、あんたの帰りを待ちつづけていたおっかさんは、あんたの名を呼びながら死んだ 」と母親、つるさんの死を横井さんに伝えた。横井さんは「 ほうか、ほうか 」とつぶやき「 わしはもう56だでなあ 」とかねてから覚悟していたような表情でじっとうつ向いた。大鹿さんが背広のポケットから白いハンカチを取出し横井さんの涙をぬぐい、自分の目も押さえていた。持ってきた写真を手渡し「 庄一さん、これがだれだかわかるかや 」とならべると横井さんは「 これは千音寺の錠太郎さんだ。こっちは越津の富五郎さんだ 」と次々に写真の名前をあてた。時義さんと庄一さんは、越津で一緒に育ち、昭和16年横井さんが出征するとき日本刀を抜いてカキの木の上に逃げた時義さんを追いかけたこと、昭和18年正月2日、元満州の奉天で最後に別れた時の思い出などしみじみと語り合った。また、「 庄一さんが死んだ知らせがはいったため、養子を迎え、家は非常にうまくいっている。自分が余計者になるのではないかと心配だろうが、そんなことは一切考えんでもよい。わしらがいるので、親族会議を開き、きちんとする。村の人もみんな待ってるで、早く帰ってちょう 」というと横井さんは「 そうけ、天皇陛下も会ってくださるそうで、きょうにも帰りたい 」とほっとした表情。帰 国 は 来 月 2 日 に厚生省は横井さんの帰国について、2月1日夜羽田空港着の日航機を予定していたが、横井さんの健康を気づかい、運輸省、日航と折衝した結果、2月2日に日航臨時便を仕立てることを、28日決めた。臨時便は2日正午( 現地時間 )グアム発、羽田着午後2時15分の日航 DC8機。また横井さんの健康状態について現地医師と相談させるため29日国立東京第一病院の小山善之副院長と同院の山田寿恵子副総看護婦長の2人を現地へ派遣する。上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月、新聞に掲載されたものです。
2022年03月02日
一 銭 五 厘 で つ ぶ さ れ た 半 生兵 士 の 傷 跡 う つ し 出 す庶 民 今 も ふ み つ け憤 る 花 森 さ ん「 暮しの手帖 」編集長、花森安治さんの詩に「 見よ ぼくら一銭五輪の旗 」という詩がある。一銭五厘は召集令状を印刷したはがき代だった。花森さんは書いている。兵隊は一銭五厘の葉書でいくらでも召集できるという意味だった・・・貴様らの代りは一銭五厘で来るぞとどなられながら一銭五厘は戦場をくたくたになって歩いた。へとへとになって眠ったーと。28年間、孤絶のジャングルにひそんでいた横井庄一軍曹も、「 一銭五厘 」で召集された兵士であった。おそらく、人間としての限界を生きたであろうその四半世紀余の営みは「 一銭r五厘 」で表される戦争のきびしさとむごさを、あらためて私たちにつきつけた。花森安治さんは、敗戦のとき、34歳の上等兵だった。花森氏によれば< 一銭五厘 >は< 草莽( そうもう )の臣 >であり、< 陛下の赤子 >であり、< 醜( しこ )の御楯( みたて ) >であり、< 庶民 >だった。花森さんの胸に迫るのは、横井軍曹が、兵士として、30歳で召集された、という事実である。「 兵隊であることと、将校であったことは、軍隊では決定的に違った。そして30歳のオトッチャン兵士と20歳の現役兵でもまったく違った。生活に責任を持たなければならなかった、いわば老兵が、戦後もずっと戦争を生き続けなければならなかったこと。その重さがジーンとくる。<一銭五厘>の時代のことさえ、まだ処理されていないじゃないか、とギョッとする 」「 感情的にならざるをえない 」と花森さんは、涙声だった。戦死した多くの兵士たち。かたわになった兵士たち。生きて帰っても、戦争のツメ跡で、人間らしく生きられなかった兵士たち。その人たちの「 象徴 」として、横井軍曹の姿が、こころが迫ってくるーーというのである。「 だから」と花森さんはいう。「 横井さんの登場に、わたしは、まだ、生きている戦争の姿を突きつけられた思いです。横井さんが生きた孤絶のグアム島のドラマは< 草莽の臣 >ひとりひとりの傷跡を、あざやかに写し出しているように思えるのです 」同時に、「 憤り 」もこみ上げくる、という。「 横井さん以前に発見された伊藤さんたちに、厚生省の役人は帰ってこられただけでしあわせだ。君たちだけじゃないといったそうですが、これはいったいなんですか。なぜ。ご苦労さんでしたーーと頭を下げることができないのです。これはやはり< 一銭五厘 >へのセリフです。横井さんの出迎えには、佐藤首相が羽田まで出向くべきです。そのことを歴史の記憶にとどめるべきです 。< 一銭五厘 >の庶民はいつまで踏みつけにされていいのかーというのである。「 なかには、無縁仏の墓守としてひっそり生きてるような旧軍隊の偉い人もいる。しかし、偉い軍人のほとんどは、また踏みつけにする側に回っている 」長田玉枝さん(71)。ニューギニア・サラワティ島で野戦気象隊員として戦った長男堅憲さんが、死んだとは思えず、厚生省の戦死という認定を拒んで戦友の家を歩き続けてきた。母親の一心で、34年インドネシアのジャワまで、去年は遺骨収集団について、念願の島まで行った。しかし、泣く思いで叫ぶ声にはヤシの葉のそよぎしか返らなかった。長田さんは横井さん発見の前日も上京して厚生省を訪れ、わが子の行方を確認するよう頼み込んでいたという。上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月、新聞に掲載されたものです。
2022年02月27日
生 き 抜 い た !!決 め 手 は 精 神 力猛 獣 、熱 病 の な い 自 然 だ が一体、人間はジャングルの中で28年間も生き続けられるのだろうか。グアム島での横井庄一さん(56)の超奇跡の生還は、生命力の強さを改めて感じさせた。それにしても、グアム島のジャングルが熱帯の孤島とはいえ、人間が自然に生きる条件を備えていたことは注目される。それに孤独と戦った強じんな精神が生存の条件をささえたともいえよう。グアム島の北部は軽井沢を思わせる高台の平地だが、南部は標高3、400メートルの山岳ジャングル地帯。観光地として親しまれるアガナを中心とする北部は、米軍飛行場やアプラ港などの海軍基地がある。北部山岳地帯の中には ” 水爆貯蔵基地 ” がと地元ではささやかれる程度で、いまなお未開発の地。グアムのジャングルは背の低いネムの樹林だ。猛毒の野獣はいない。1メートル余りもある大トカゲとまっ黒の野豚、野牛、ヘビも青大将ぐらいのもので、カタツムリだけがやたらと木の根っこにへばりついて多く見られる。ジャングルには蚊の大群ががいるものの、マラリア蚊ではなく刺されても高熱を出すテング熱程度。それに四季を通じて樹林に実るヤシの実、タロイモ、小さなバナナ、パパイアといった木の実も豊富。海辺に出れば魚も貝も・・・。海水だってバケツにくんで35度の太陽に干せばたちまち塩に代わる。こうした自然の条件に加えて、ジャングルのあちこちには米軍のゴミ捨場がある。金属類から衣類、かん詰の食べ残り・・・・日常生活に必要な ” 物資 ” もそろっている。8年前の旧日本兵調査当時、グアム島の米海軍病院で風土病の研究をしてた和歌山大医学部の教授は、ジャングルでの人間の生存条件について語った。「 私の推定では20年間は自然のまま生存できる。この島のジャングルには猛獣もいないし、これといった熱病もない。木の実はあるし、スコールで水には不自由しない。ただ、人間の孤独との戦い、精神力だけが残された問題です 」35年5月、奇跡の生還をした皆川、伊藤両氏の場合も、このジャングルの恵まれた条件を存分にいかしていた。昼はジャングルで寝て夜間、食べ物を求めて動く。ジャングル内で拾った針金で、小さな枯木の枝を黙々とこすり、綿状にほぐした繊維の着物に点火すれば、野牛のビフテキもできたーーと当時、皆川さんは話したことがある。大トカゲだって夜間1人寝のジャングルの友。顔や足をなめにくるだけで危害は加えないし、逆に殺して食糧にもできる。タンパク質とデンプンと塩とーー原始生活の栄養は最低限そろっているのがグアム島のジャングル、という現地人さえいる。しかし、こうした天与の条件にもまして横井さんを支えたのは何か。「 日本兵最後の1人 」という強じんな精神力だったに違いない。39年の日本兵調査( 広石調査団長 )当時、グアム警察も捜索に協力したが、島内の消息不明者は90人といわれ、そのほとんどは現地人だった。テニヤン、サイパンからの流れ者もいたようだが、現地人は「 日本兵 」とそれらの浮浪者を本能的にかぎわけていた。39年の秋の調査のときも、ジャングルの洞くつに木の枝などを敷いた真新しい ” 寝床 ” を発見したし、ジャングルのあちこちに足跡らしいものも残されていた。「 日本兵は用心深い。現地人が近づくと頭髪につけたポマードのにおいでかぎわけた 」( 皆川さんの話 )というほど自衛本能は強い。だから日本の調査団がいくら呼びかけても、旧日本兵は姿を見せなかったのだ。それに39年当時の調査は北部に集中され、南部のタロフォフォ川付近まで足をのばしたが、けわしい山岳にはばまれて十分な調査はしていなかった。そればかりか「 日本兵はいないのでないか 」という否定的な見方で終始したいきさつさえあった。40年12月、米ガードマンが日本兵らしい男を発見、威嚇発射した事件もあったが、日本政府は一笑にふしている。その日本兵がやはり生きていたのだ。原始の中で強い心をもってーー。上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月、新聞に掲載されたものです。
2022年02月26日
わ か る ぞ お や じ の 顔 だ義 弟 ら と 抱 合 う横 井 さ ん「 嫁 さ ん 、あ る か な 」横井庄一さんが保護されて1週間。30日午前9時すぎ、横井さんの子供のころからの遊び友だちで、またいとこの坂井錠太郎さん(66)=名古屋市中川区富田町大字千音寺3885=と、庄一さんのいない横井家を継ぎ、戸籍上は弟になっている横井修さん(42)=同町3887の2人が庄一さんを見舞った。メモリアル病院の2階の病室に2人がはいっていくと、庄一さんは、ベッドに起上がって横を向いていた。人の気配に入口に向き直った庄一さんは、錠太郎さんの顔をまじまじと見つめた。「 わかるか 」と錠太郎さんがかけ寄ると「 錠太郎さ、錠太郎さ 」と両手を広げてだきついてきた。錠太郎さんが修さんをさして「 だれかわかるか 」とたずねると「 おやじによう似とるが 」( 修さんの父親は、庄一さんの母親といとこ )といった。2人は持ってきた故郷の写真集を庄一さんに見せようとした。庄一さんは「 そんなものはあとでよい 」と見向きもしない。3人の間で会話が続いた。「 よくもまあ、あんな所で生きとったなあ。ものすごい精神力 」( 錠太郎さん )「 精神力じゃない。信仰の力だ。わしのおふくろが言うとったじゃろう。わしは御嶽山のさずかり子だよ 」( 庄一さん )「 なんの心配もいらん。帰ってきたら、いっしょに住もうな 」( 修さん )「 わしも年寄りだから、これからはみんなの世話にならにゃならん 」( 庄一さん )「 嫁さんも捜さなあ、いかんな 」( 錠太郎 )「 こんな年寄りにあるかいのう 」( 横井さん )錠太郎さんが1枚の写真をとり出した。陸軍将校の礼服を着た庄一さんが写っている。この服は23歳のとき、洋服職人として一本立ちした横井さんが初めての注文で仕上げたもの。「 これがワシじゃほんもののワシじゃ 」と庄一さんは大喜び。ふるさとの村のこと、家族のことなど、話が続く。「 テレビを知っているか 」( 錠太郎さん )「浜松の無線学校で研究しているというのは聞いていたが、こんなに小さいものとは知らなんだ 」( 庄一さんはマイクを、テレビと間違えたようだ )。上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月31日新聞に掲載されたものです。
2022年02月22日
あ る 兵 士 を 支 え た も の 戦 陣 訓 と 生 へ の 執 着 横 井 庄 一 さ ん の 兵 歴 ( 愛 知 県 援 護 調 べ ) 昭和10年12月31日 第一補充兵役ニ編入 昭和13年5月5日 臨時召集ニヨリ輜重兵第3聠隊補充隊ニ応召 同9月14日 野戦重砲兵第一旅団輺重隊転属 同9月28日 宇品港出港 同10月3日 ( 中国 )太沽上陸 同10月6日 着隊 同10月8日 第2中隊編入 昭和14年1月18日 復員下命 同3月1日 復員完結、輺重隊第3聠隊補充隊ニ転属 同3月25日 召集解除 昭和15年5月15日 一等兵( に昇進 ) 昭和16年8月5日 臨時召集ノタメ輺重兵第3聠隊補充隊ニ応召 同8月28日 名古屋出発 同8月30日 大阪港出港 同9月3日 大連港上陸 同9月5日 奉天省遼陽到着 同地警備 昭和17年9月1日 上等兵( に昇進 ) 昭和18年3月1日 兵長( に昇進 ) 昭和19年2月10日 第29師団編成改正下命 同2月19日 歩兵第38聠隊ニ転属 同2月20日 中部太平洋方面派遣ノタメ遼陽出発 同2月24日 釜山港出発 同3月4日 大宮島( グアム島 )上陸 同9月1日 伍長( に昇進 ) 同9月30日 軍曹( に昇進 ) 大宮島ニ於テ戦死 そ の 2 に つ づ く
2022年02月21日
あ る 兵 士 を 支 え た も の戦 陣 訓 と 生 へ の 執 着28年間も島のジャングルの中に、たった一人で暮した人間の存在は、世界人類の文明記録ができて以来初めての出現である。約12年前に同じグアム島から日本兵の皆川文蔵さんと伊藤正さんとが発見されたとき、熱帯密林の中に16年間も生き抜いていたことで驚嘆させたが、今度の横井庄一さんの場合はそれよりも12年間長く住んでいたのだから、その超人ぶりに世間が興奮するのは無理はない。意志薄弱なわたしなどは、ただ頭を垂れるのみである。横井さんが密林から外に出られなかった主な理由は二つあったようだ。一つは旧日本軍隊の精神教育、一つは生命の危険である。軍 の ゆ る み に 訓 戒前者は「 戦陣訓 」に具体化されている。「 常に郷党家門の面目を思ひ・生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず 」が重要な項目の一つになっている。この二つの句は倒置されて兵の降伏を拘束する。捕虜になれば、その不名誉のためお前たちの親兄弟、妻子親族がどんなに故国で肩身のせまい思いをするかしれないぞ、という威嚇である。戦地で、ひとしお肉親のことを思う兵士の心理につけこんだともいえる。ここで降伏を栄誉の一種とする西欧の観念と、それを汚辱とする日本の封建的な「 武士道 」の相違をいっても仕方がないが、それでなくとも虜囚の恥じたることは江戸時代からの講談その他で国民はさんざん「 徳目教育 」をうけてきていた。「 戦陣訓 」が出されたのは昭和15年である。「 軍人勅諭 」の抽象的な五つの徳目ではあきたらず、日中戦争の末期( 太平洋戦争の前夜 )にこれが出されたのは日本軍隊の「 変質 」に対応するものとして意味深い。すなわち、この期になると中国において目をおおうような日本軍隊の暴行・略奪などの「 非違犯行 」が行われ、降伏・逃亡が続出していたのである。太平洋戦争をひかえ、これではならじと軍首脳部が明治の軍人勅諭よりはもっと具体的に「 訓戒 」したのが「 戦陣訓 」で、教育総監部の草案に島崎藤村が頼まれて文章に手を入れた。横井さんは昭和13年に臨時召集され半年間華北で教育をうけている。戦場と隣合わせた衛戍( えいじゅ )地での初年兵教育においてどのように精神教育が重点的になされたかは経験者の知るところである。かくて一たん召集解除、帰郷したが、一年もたたないうちに再召集、16年9月から2年半ほど満州にいて南方行部隊の編成に入ってグアム島に上陸した。満州では対ソ作戦含みで、これも兵に「 戦陣訓 」的な精神教育はきびしかったにちがいない。しかも横井さんは在満中に兵長になっていた。下士官よりは、もっと兵に即物的な精神教育をする立場にある。 そ の 3 に つ づ く上記、記述は、1972年( 昭和47 )Ⅰ月、新聞に掲載されたものです。
2022年02月21日
内 向 型 の 性 格 が 幸 い孤 独 に 耐 え 生 活 を 維 持命 令 が あ れ ば 降 伏グアム島に米軍が上陸して、日本軍は約900人の将士と軍属とが降伏した( 厚生省調査 )。「 私たちに最後の一兵まで戦えと教えこんでいた上官までがノメノメと捕虜になるなんて、はじめはとても信じられなかった 」と前に密林から出た直後の皆川さんはいっている( 朝日新聞 )この降伏は、多分、いくつかの集団によって秩序的になされたのであろう。「 戦陣訓 」をたたき込まれた兵士も、集団の力や秩序によって降伏し、捕虜になったと思われる。だが、集団の群れからはぐれた者、分散逃走した小さな群れには、降伏の命令者がいない。かくて、皆川さん、伊藤さん、横井さん、志知さん、中島さんをはじめとする逃亡者の悲惨な生活がはじまる。孤独な人数になればなるほど、虜囚の辱が精神に強くなってくる。 そ の 4 に つ づ く上記、記述は、1972年( 昭和47 )Ⅰ月、新聞に掲載されたものです。
2022年02月21日
内 向 型 の 性 格 が 幸 い孤 独 に 耐 え 生 活 を 維 持イ ン テ リ は 弱 いだが、日時が経てば、その軍隊精神よりも生へのすさまじい執着力となってあらわれる。密林から出られなかったのは、はじめは敵のアメリカ兵による射殺の恐れだったが、のちには原住民の銃撃による生命の危険からだった。たとえ降伏の意志を表わそうにも、その手段の途中で、殺されるという恐怖が強かったにちがいない。米軍は「鬼畜」だと教えこまれていた。中国での日本兵の虐殺行為が逆にその証明になっていたであろう。原住民は密林にひとかげをみると、盲めっぽうに射撃してきた。げんにそれで殺された逃亡兵の死体の多くを生残りは見ているのである。終戦を知り、ついに近距離に土地の人の家が見えても歩いては行けなかった。こうして、出る機会を失ったかなしい兵隊の長い長い孤独な密林生活がはじまった。横井さんは28年間、皆川さん、伊藤さんは16年間である。普通の者だと、自殺するか、気が狂うかしたであろう。ここに性格が問題となってくる。体格のほか強靭な意志と生活手段に実行力のある者でないと残れない。よけいな瞑想やセンチメンタルは孤独を耐えるのに邪魔になるだけでなく、挫折させるだけである。一般的にいえるのはインテリ兵では駄目だろうということである。横井さんは、おどろくべき自給生活品の生産者だった。その「 洋服 」はだれでもが驚嘆する。わたしも手先の器用な兵隊を見ているが、横井さんのような兵は1万人にⅠ人あるかないかだろう。この技術が、横井さんをして、仲間とはなれてたったⅠ人でその「 住居 」に暮らさせる自信となった原因である。前にいっしょにいた仲間2人と別れてタロホホ川を隔てて互いに住み、「 たまにしか会わなかった 」というのは象徴的な話である。 そ の 5 に つ づ く上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月、新聞に掲載されたものです。
2022年02月21日
あ る 兵 士 を 支 え た も の戦 陣 訓 と 生 へ の 執 着頼 ら れ て は 危 険軍隊では、器用な兵に、そうでない他の兵たちが何かと依存しがちである。平時はそれでもよいが、食糧や生活具を自ら生産せねば自分が生きてゆけない状況の場合は、そうした他の依存者は負担になるだけである。戦友愛とか同志愛とかいう通常観念ではこの場合を批評できない。拾った針金で縫針ををつくるような辛苦の物品などを分け与えることは、自己の生命を分与するようなものである。孤絶した密林の中でも、人間が2人以上いる限り、極限的な人間ドラマは生じる。前の皆川さんの談話にも梅野さんという人と3人で住んでいたとき、仲間割れが起り、伊藤さんが1人で離れて住むようになった、と述べている。新聞が伝える今度の横井さんの話にもそれらしい「 葛藤 」がうがえる。( ロビンソン・クルーソーの場合は、従者だったから、作者は2人の間に面倒をひき起させる必要はなかった )だが、これを通常の意味の「 エゴ 」にとっていっては決してならない。木の実一つ、川エビ一つ採るのにも命がけで、その貯蔵には文字通り生命がかかっている。他に分与する行為は自分の生命を短縮することなのだ。横井さんは内向型の性格のようだが、この「 頑固 」な性格が生命の持続につながっていたと思われる。家 族 制 度 の 暗 さ もまた、横井さんが密林から出て行くのをためらった気持の一つには、実家に「 厄介もの 」視されるという気おくれもどこかにあったのではなかろうか。親族の録音テープに答える横井さんの言葉にそれが感じられる。戦前の家族制度のきびしさは、現在の核家族状態からは想像されない。実印を肌身はなさず持っていたという横井さんの内向的な性格には旧(ふる)い家族制度との関連をみるような気がする。老後の横井さんに十分な安楽を享けてもらうことが、28年間の超人的な苦労に対するいちばんの慰めであろう。マスコミが、もの珍しさを主に扱うのは忍びないことである。 お わ り上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月、新聞に掲載されたものです。
2022年02月21日
生 存 ケ タ は ず れ の ま じ め さ でス シ 、酒 も 手 つ け ず守 り と お し た 生 活 の 節 度28年間のジャングル生活。そして15年間もこもりつづけたタロフォフォ川ほとりの竹ヤブのなかの隠れ家。グアム島の横井庄一さん(56)はこの地下の隠れ家( 縦2メートル、横4メートル )に孤独の生活用具をびっしりたくわえていた。強じんな精神と真面目一徹な人柄が、道具の一つ一つにしみこんでいる。ジャングルの28年をささえたのはこの一途なまでの真面目さにあったのだ。24日夜、ジャングルから出てきた横井さんは、新宅名誉領事に「 すしを食べたい 」とひとこと。だが、すぐに「 おなかをこわすといけませんからから 」と手をつけようとしなかった。25日夜「 お酒でもどうですか 」と誘う同領事に「 飲みたいですねぇ。でも、からだをこわすといけませんから・・・ 」と、やわらかくことわった。自分のからだを実に大切にしているのだ。こうしたまじめさは、彼がひそんでいた隠れ家の家具にも見受けられる。懐中電灯のレンズやヤシの実と棒切れをこすって作った火、やっと手にした火を保存するため、横井さんはヤシの皮をあんで火ナワを作った。 ナワは直径5ミリくらい。太さも一定していて、市販の保存用ロープのようにぐるぐる巻きにしてある。カン詰の空カンにしてもきれいにみがきあげ、二重に重ねてオセチ料理を詰める重箱のように作られてある。水筒をタテに2つに割ったナベにも柄をつけ、切口を石でこすってなめらかにしてある。しかし、何よりもみんなが驚いたのは洋服。木の皮を糸のようにほぐして織った服には、キチンと穴かがりもしてあったし、エリにはステッチもはいっていた。本職が洋服屋さんであったにせよ、律義なまでの仕上げだ。これまで、はだか同然のボロ着をまとって出てきた人たちにくらべれば大変な違い。彼の日常は、こうした必要上のもの作ることで明け暮れた。それが孤独をまぎらわせ、自分自身の性根を失わないためにも必要な作業だと信じていたのだ。ささやかな生活の張り、節度が横井さんをして奇跡の生存者にさせたともいえる。しかし、横井さんがまじめであればあるほど、心に残された傷跡は深い。「 あなたたちは日本の方かアメリカの方かわからない 」と先ず日本人記者団に質問を投げかけ、26日の朝には日本の新聞を見せられて「 みなさんの好意はうれしいが、記者会見するたびに不安がつのる。私の心境は自分で日本国民のみなさんへ直接伝えたい 」とも言った。上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月27日、新聞に掲載されたものです。
2022年02月18日
あれから27年。平和と繁栄という言葉に酔いしれたニッポンと日本人。焼い弾の業火に追われた記憶も、食物を求めてさまよったことも、いまのわれわれには、はるか昔のいまわしい思い出になった。”戦争” も ”遠い国” の出来事でしかなく、戦争を知らない若者が大手をふって町を行く。そのニッポンのはるか南。日本人観光客でにぎわいをみせるグアム島のジャングルの中で” 大日本帝国 ” が生きていた。” 非国民 ”と呼ばれるのを恐れ、密林の中にたった一人暮らしてきた56歳の孤独な元陸軍軍曹の心の中に。この事実はあらためてわれわれに問いかける。戦 争 と は 何 かーー 日 本 と は 何 かーー作家・大岡 昇平氏【 レイテ島で捕虜になったことを理由にさきごろ芸術院会員を辞退したばかり。死んでいった戦友への追悼文ともいうべき「 レイテ戦記 」を出版した 】生きて虜囚のはずかしめををうけずーという戦陣訓が生きているんですね。この戦陣訓のおかげで死ななくてもいい兵隊がたくさん死んでいった。つかまれば殺されるという恐怖心と、軍人としてたたき込まれた”非国民” を恥じる心が、ジャングルでの孤独な暮らしをしいたのだろう。お気の毒だとしかいいようがない。この事件で、たくさんの遺族が”もしかしたらという” 希望 ” を持つだろうが、それがかえって痛ましい。こうしたことがないよう、国は徹底的に調査すべきなのだが・・・。東京教育大学教授・家永 三郎氏【 戦時中、新潟高校、東京高師、=現東京教育大=の教授。教え子を戦場に送り出した心の痛みはいまも残る。終戦は学徒動員の監督として、飛行機工場で迎えた 】もはや ”戦争ではない” といわれているが、太平洋戦争はちっとも終わっていないということだ。見せかけの繁栄の下に、いやされることのない傷跡は、日本のいたるところにあり、横井さんのケースはその極限として現れたものにすぎない。戦争の残酷さ、痛ましさを痛感する。非国民と言われることを恐れ、山中深く隠れていたわけだが、戦前の教育がそれほど深く心の中にしみ込んで ”凍結” されていたわけだ。だが ”非国民” という一度死んだ言葉が最近復活している。教科書裁判の際、私に向かって投げられたのもそれだった。そうした言葉を復活させる時代にしてはならない。 ( そ の 2 に つ づ く )上記、記述は、1972年’( 昭和47 )1月、新聞に掲載されたものです。
2022年02月16日
ウシオ電機社長・牛尾 治郎氏【 終戦時は中学3年生で戦争体験はない 】横井さんの言葉を聞いて私をふくめてすべての日本人が、ともすれば忘れかけていた平和とか自由のありがたさをしみじみ感じた。人間というものは一つの体制にあてはめられるとこれほどまでにひたむきに一つの言葉にしばられるのだろうか。” 非国民 ”、何といういやな言葉だろう。こんどのことを国家、社会の指導的立場に立つ人たちはキモに銘じてもらいたいものだ。マンガ家・東海林 さだお氏【 昭和20年はまだ小学校2年で、山梨県にいた。戦争経験はB29をながめたくらい。非国民という言葉は知っているがピンとこない 】まったく無関係だ。それよりも私は横井さんがウラヤマしい。イイナーと思う。いま脱〇〇というのが流行していますね。その典型みたいなものじゃないですか。本人としては、むしろ発見されなかった方がよかったんじゃないかな。それに、あれほど日本のヤングたちが、ウジャウジャ行っているグアム島で、まるで20数年前の亡霊みたいなのが見つかったことが、なんともいえないコントラストの妙だ。森下仁丹社長・森下 泰氏【 50歳。終戦時は海軍主計大尉。剣道の達人。戦中派精神のカタマリみたいな人で「 戦後の日本を再建したのはオレたちだ 」という 】横井さんはりっぱだ。 まじめな人だと思う。非国民扱いされるのを心配したというが、この気持ちを、いま一度国民全体が再検討してみる必要があるのではないか。いつの時代でも、国を大事にしなければならないからだ。 その3につづく上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月、新聞に掲載されたものです。
2022年02月14日
評論家・佐藤 忠男氏【 終戦時は14歳で予科練 】横井さんの戦時中は20代の後半だったわけだ。当時、旧制高校以上でリベラルな教育をかじったものはもっと柔軟に気持ちを切替えただろうと思う。それに、私も含め10代は「 われわれは子供だ。負けたのは大人だ 」と考え、多少は気楽だった。ところが小、中学校で軍国主義だけをたたき込まれた20代はそうはいかない。戦争中、捕虜になった兵隊の家庭は公表されなかったが、ウワサでわかり村八分になった例も多い。「 非国民 」という言葉だけでたちまち生活が狂ってしまう。横井さんもそれがたまらなかったのだろう。よくわかるような気がする。作家・田辺 聖子さん【 大阪市福島区の家が空襲をうけてから2ヶ月で終戦。勤労動員で飛飛機の部品をつくる工場で働いたり、軍服を縫っていた 】戦争というもののはたいへんなものだということを改めて知らされた。戦争がなければ横井さんも奧さんをもらい、こどもたちに囲まれた生活を送っていたはず。1人の人の生涯の多くの部分をを奪い、空費させてしまった。こんどの事件は ”戦争は終わっていない” 象徴みたいなもの。私自身、戦争によって人生観が大きく変わってしまい、自分で考えたこと以外は信じなくなってしまった。参議院議員・上田 哲氏【 終戦時は17歳で旧制高校1年生。激しい窮乏感のなかで勤労動員の弾丸作りに追われていた。海兵、予科練に志願した友人多数。レジャーのシンボルのような島に、戦争の深い傷口があったことに、いいようのない悲しみを感じる 】びっくりしたな。28年間、よくぞ生きてくれたということのほかにこのことが、われわれにきびしく問いかけているものを認識すべきだーーと痛感した。横井さんの経歴をみるといかにもあの時代の真面目で、平和に暮らしたいというもっとも典型的な庶民ーー日本人だった。それだけに「 非国民といわれるのがこわくて 」と密林にひそんでいたのは日本軍国主義による一番の犠牲者だったわけでグアム島はまさにその象徴を生残したといえよう。それだけに現在の事態を見るとき、再びこれと同じような社会心理構造への誘導が行われているのではないか。厖大な四次防、増強される軍事力はそうではないのか。京大教授・会田 雄次氏【 戦争で捕虜になり、所属連隊でただ一人生きて帰った持ち主だけにショックはまったく感じない 】横井さんの心境を推察してみるのだが、どうもわからない。旧軍人精神が28年間も彼をささえてきたとはとうてい考えられないし、たとえその影響が強く、捕虜になるのを恥じたたとしても、本人は終戦を知っていたのだから、その時点で姿を出してもよかったはず。結局、出そびれたのがズルズル続いたーーひょんなことで縁遠くなった人がいつまでも独身でいるようなものだ。これを軍人魂とか、戦争の重みとか受けとるのはアメリカ的な解釈であって、単なる偶然の結果とみた方がいいのではないか。 お わ り上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月、新聞に掲載されたものです。
2022年02月12日
今 浦 島 の 横 井 さ ん見 る も の す べ て 珍 し くグ ア ム 島 か ら 声 の 便 り帰 国 し た ら 山 の お 寺 で戦 友 の 霊 を 慰 め た い「 長い夢を見ているようで何が何だかわからない 」ー4半世紀余、密林の中で日本軍人としての孤絶を生きた横井庄一さん(56)の肉声が、25日夜、本人より一足先に日本へ帰って来た。同日午前11時半から約Ⅰ時間半、グアム島アガナ・ハイツの知事公邸で地元新聞記者らと記者会見した録音テープが、同夜7時すぎ羽田着のパンアメリカン航空機に乗った東急航空本社海外旅行部甲斐哲夫さんの手で、運ばれて来た。「 日本へ帰れたら山のお寺に行き、戦死者の霊をなぐさめたい 」「 年が年なので・・・・ 」かみしめるようなたどたどしい日本語は、戦後を知らない日本兵士の素顔を赤裸々に伝えていた。そして、横井さんが現地の日系人と語ったカナ書きの「 聞き書き記録 」も、同夜、明らかになった。その聞き書きには、ひとり、ジャングルで生き抜いたすさまじいほどの生命力もほとばしっていた。死をいつも覚悟していた生活だった、という。横井さんの第一声は次の通り。問 ジャングルの中に隠れ住んでいた時、捜索にきたアメリカ軍のジェット機を見たか。答見ました。ずいぶん昔とは変った飛行機だと思った。( 1回笑う )。問皆川さんと伊藤さんが帰国したあと、もう一度、島にきて飛行機で生残りの人を捜したのだが、気がつきませんでしたか。答昼間はいつも穴ぐらの中にはいっていたので気がつかなかった。敗戦のあくる年に海軍の隊長さんなど、先に帰順した人が高い山の上から投降を呼びかけ、伊那の勘太郎さんを歌っていたのを聞いた。それが日本語を聞いた最後だ。アメリカ軍が上陸してきたあと降伏した人もいるし、どんどん仲間が減ってしまった。問あの辺にタロホホの滝があるのはよく知っているでしょう。答あっちの方向にもよく行っていた。確か2段ぐらいの滝だったはず。問20数年間、軍隊にいたわけだから、帰国したら、たまっていた給料がどっさり手にはいるはずだが、そのカネでどうするつもりですか。答木曽福島にある御岳さんに登り、お寺にお参りしたりして、部隊長など、日本人の霊を慰めたいと思っています。あすこへはこどものころ、母親に連れられて、よくお参りしたところです。( 一瞬、ことばにつかえたあと、急に話しはじめ )みなさんの好意によって働かせてくれることもあるでしょうが、年も年なので、どうですか・・・・。穴 に ハ シ ゴ で 出 入 り問軍隊にいたときの給料はいくらでしたか。答25円でした。問いまの気持は。答長い夢を見ているようで、何が何だかわからない。だけど、とっても喜んでいるんです。すべて見るもの珍しいものばかりで・・・( また、言葉が切れる )問何に一番おどろいたか。答見るもの見るもの全部が珍しい。アメリカでいろんなものが出来るのに驚いた。問これ知っていますか。( 記者がテレビを示して )答テレビジョンでしょう。私が内地にいたとき、そんなものが出来たという話を聞いたことがある。歌 う の も こ っ そ り問( テープレコーダーを示して )これはレコードになるんですよ。みんな日本製です。ところで原子爆弾は知ってますか。広島に投下されたんですが。答原子爆弾は知りませんが、東京が爆撃されて、その翌年に広島がやられたことは戦時中に知りました。問困ったものは何ですか。答火と衣類です。火は砲弾の破片で石をたたいておこしました。問日本茶でも飲みませんか。答塩気のものがほしい。問膚はきれいだが、フロにははいったのか。答川でときどき水浴びをした。問どんなところに住んでいたのか。答地面に背たけの2倍ほどの深さに穴を掘り住んでいた。ハシゴで出入りした。問故郷に帰りたいか。答グアム島にいても、もう見込みはない。帰れるものなら帰って部下の霊をなぐさめたい。日本には降伏しても内心アメリカをうらんでいる者もいるだろうから私がグアムでアメリカの人たちにどんなによくしてもらったかを話してやりたい。( ここで横井さんから逆に記者団に質問 )いまのアメリカの大統領は昔と同じですか。記者団からあわてて、「 イヤ、ルーズベルトは終戦直前に死にました 」と答える。問日本語がうまいがよく1人でしゃべったのか。答ことばはそりゃあ忘れない。人に聞こえないように歌ったりした。上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月26日、新聞に掲載されたものです。
2022年02月09日
グ ア ム の 横 井 さ んよ み が え っ た ” 英 霊 ”は っ き り 日 本 語 で新 聞 雑 誌 む さ ぼ り 読 む28年間の孤独なジャングル生活から抜け出た男血圧は10代と同じ。日本の新聞と雑誌を見て喜び、はっきりとした日本語で両親のことを語る。すこぶる健康。24日、グアム島で見つかった ” 帰ってきた日本兵” 横井庄一さん(56)はボロボロの麻布に身を包んでいたが、収容された現地病院にいるのが場違いのように元気である。横井さんにとっては生き抜いた28年間よりも28年後に訪れた” 現在 ” にとまどいながらも満喫しているようだ。パンアメリカン航空グアム支店の旅客課長、ディック・松本氏から25日朝、同航空日本支社にはいった連絡によると、横井さんは24日午後6時グアム島の南部タロフォフォ川のほとりでエビを取っていたのを現地の人が見つけた。現地警察の手で、ただちにアガナ市の郊外のサウポン岬にある同島で最も大きいグアム・メモリアル病院に運ばれたが、医者の話では、当人は大変元気。 血圧は10代と変わらないくらいだという。通訳に当たったディック・松本さんが、日本の新聞と雑誌を見せたら、喜んで食入るように読み、日本語を上手に書いたり読んだりした。横井さんは「 私の階級は上等兵だ。最初は満州に行き、1943年にグアムにきた。 戦争が終わったことは、アメリカ軍から落とされた宣伝ビラで知っていた。それでも仲間2人と3人でジャングルにひそんでいた。2人の仲間は8年前に死んだ。父や母が生きているとすれば、2人とも80歳ぐらいだ 」と話していたという。自分の体験や記憶ははっきりしているが、どうやら自分が「 戦死した兵隊 」として「 軍曹 」に昇進していることだけは知らない様子だ。名古屋市中川区区役所富田支所に横井さんの戸籍簿があるが、横井さんの項には「 昭和19年9月卅日午後4時卅分マリアナ島方面ニテ戦死 」と書いて赤い ✖ がはいっている。本当か? よかった家 族 ら 涙 あ ふ れわ き か え る 静 か な 集 落紺碧の海にポッカリ浮かんだサンゴ礁の島、グアムー太平洋戦争で約2万の日本軍が玉砕したこの島で、戦後27年間も終戦を知らずに暮らしていた元日本兵、横井庄一さん(56)が見つかった。ベトナム戦争へ出撃するB52の基地と新婚旅行のメッカと化した島の姿に帝国陸軍の ” 栄光 ” だけをたよりに生き続けてきた横井さん。ともかく ” 生きていた英霊 ” の報に名古屋の留守宅は ” よかった、よかった ” とわき返った。庄一さんの留守宅の富田町千音寺一帯は、古くからある農業を中心とした集落。いまは新興住宅地として畑や田がどんどんつぶされ家が立並んでいるが、古い地付きの家には横井姓が多い。庄一さんの家もその一つ。父親の栄次郎さん= 昭和24年12月死亡 = 洋服店を営んでいたが、一人っ子の庄一さんが ” 戦死 ” して迎えた養子の修さん(42)が留守をあずかつている。この日、朝早くから「 庄一さんが生きていた 」の知らせで、修さん宅は急に騒がしくなった。修さんの家族は妻の花子さん(40)と子供2人の4人暮らし。修さんは「 信じられません。戦死の公報がはいってから26年余もたっており、生きているとはとても思っていませんでした。熱帯のジャングルのなかで生き抜いてきたと思うと涙が出てなりません。暖かく迎えてやりたい 」と涙を浮かべていた。庄一さんが生まれた千音寺地区はほとんどが横井姓で年配の人はだれもが庄一さんの名前を知っている。太平洋戦争直前に召集された庄一さんを「 国防婦人会 」のたすきをかけて見送ったおばあさん、のら着姿で手を振ったおじいさんもみんな修さんの家に駆けつけた。だれもが自分の肉親が生きていたような喜びよう。カメラフラッシュやテレビのフットライトを浴びながら、報道陣の質問に庄一さんの思い出話や喜びをしゃべりまくり、町中が興奮に包まれた。近くに住む角田強さん(63)は「 庄一さんが小学校のとき私の家に呼んでよく算術などを教えた 」といい「 勉強はきらいだったが、とてもかわいい子だった。わたしによくなついて息子同様に思っていた。応召のとき、” 征ってくるぜ ”。 頼みます ” と一言いい残して出て行きました。戦死の公報がはいって、てっきり死んだものと思っていた。いたずらっ子だった庄一さんの顔が目に浮かんで泣けて泣けてしょうがありません。また近所の主婦は「 庄一さんはひとりっ子のため父親の栄次郎さんも母親のつるさんも大変なかわいがりようだった。特につるさんは栄次郎さんに死なれたあと、会う人ごとに” 庄一が・・・庄一が ” と思い出話ばかりしていました。生きていてうれしいニュースを聞かせてやりたかった 」と話していた。上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月、新聞に掲載されたものです。
2022年02月08日
ジ ャ ン グ ル 生 活 2 8 年 の 秘 密シ ュ ロ の 皮 で ” 火 ナ ワ ”シ カ の 肉 を ベ ー コ ン に横井さんのジャングル生活は ”生活の知恵” に満ちていた。それも洗たく機でジャガイモの皮をむいたなどというふざけたものではない。どうしたら人間らしく生きられるかという突きつめたものだ。生活の知恵を増すごとに、横井さんは生きがいを感じ、だから孤独の生活にも耐え抜けた。「 自分の体力からいって、あと30年は生きられたと思う 」ーー横井さんの自信はそこから生まれた。住はじめは懐中電灯のレンズでココナツヤシの繊維( 皮と果肉の間にある )をほぐしたものに太陽の光で点火、小学校の理科の実験でやるあの方法である。そのレンズを落として破損したため使用不能。そこで思いついたのが原始社会と同じ方法。木にあけた穴に別のかたい棒をこすり合わせて発火させる。しかし必要のたびにこれをやっていたのでは時間がかかってたまらない。雨の日など火がつかないことも多い。そこで火を保存するために火縄を開発。火縄はシュロの皮で作った。それも作るとなると何Ⅰ0メートルもいっぺんに作り、20センチくらいのボール状にしてある。とっさに火が必要なときには拾ってきた小銃、機関銃の火薬をサラの上にこぼし、火縄でボーッと燃え上がらせることも考えついた。技術革新はさらに進み、ヤシの実から油をとり、火縄を使って夜の灯火を燃やすことも思いつき、ナベのカケラを使ってランプザラを作った。火が保存できても逃亡者にとって煙を出すことはタブー。竹であんだカゴに木の皮や繊維をつめ、料理をするカマドの上に乗せ煙が一度に立ちのぼるのを防いだ。このカゴは大小二つあり、二つとも煙のすすで真っ黒になっている。横井さんはこれをオーブンがわりに使い、肉などのくんせいも作ったという。食パンの木の実、ヤシによく似たフェデリコの実などが主食。フェデリコの木の実は毒性があるが、水につけておいて毒抜きをしてから乾燥し、おろしガネで粉末にし、水でこねて焼いて食べた。副食は川でとれるエビ、魚、カタツムリ、野ネズミなど、なんでも。魚をとるために竹でヤナ( 太さ20センチ、長さ70センチ )を4つ作り、いつもそのうちの3つをナワで作った袋に入れ、川へ持って行き、別別のところに仕掛けておく。エサは食べ残したものやココナツの実。まるで民芸品のように丈夫で、精巧に作られている。エビのほかウナギもときどきとれた。ネズミをとるため、針金でネズミ取り器も作った。しかし、これにかかったのはたったⅠ回だけ。そのときの野ネズミの肝臓のうまさはこたえられなかったという。動物性タンパク質をとるため、落とし穴もつくった。これも28年間に2度だけ成功。一度はシカ、もう一度は野ブタ、この野ブタ料理法が悪くて猛烈な食中毒を起こした。シカは煙抜きのカゴでベーコンにもした。水は竹筒で雨水をとるほか近くの川の水をわかして飲んでいた。衣洋服に使った繊維は縄なんかと違ってパゴという木の繊維。これを糸状に切りさいて干しておく。洋服を作るには布が必要。そのために木の枝を弓状にしならせて、びっしり横糸を張り、それにこんどは縦糸を通して織物ができ上るという仕組み。全部で3着縫い上げたというが、スタイルはそれぞれ変えてあり、上着のボタンは2つ、3つ、6つとバラエティーに富んでいる。上記、記述は、1972年( 昭和47 )Ⅰ月、新聞に掲載されたものです。
2022年02月04日
横 井 さ ん 襲 う 異 常 な 興 奮「 戦 友 の 亡 霊 が 」 突 然 の ” 文 明 に シ ョ ッ ク ”?「 死んだ戦友を残して行くのは気が狂いそうだ 」「Ⅰ日も早く帰りたい 」「 天皇陛下がかわいそうだ 」と28日は、4度の記者会見に現れた横井さんの感情は激しく揺れ動いた。28年あとで人間社会に投げ込まれたショックに襲われているかのように。付添いの大鹿時義さんとの短いやりとりが終わったあと、記者団に向かって両手をみせ「 このとおり元気になりました。あしたでも帰れますよ。見てちょうだい、この腕を 」とニコニコする横井さん。ところがそのあと顔をこわばらせ「 ゆうべちょっと気違いになりました 」どうしたのですかという質問に両手を頭の上でぐるぐる回しながら「 頭がこんなになりました。亡霊にやられました 」と顔をっ真っ青にする。どうしたのだろうか。横井さんの説明によると「 興奮したせいか眠れずにいると戦友のことが次々と頭に浮かんだ。そばに置いてあった日本の新聞を何気なく見ると、その新聞の字が全部死んでいった戦友の亡霊にみえて、踊り狂っているのだ。私は日本に帰るべきか、それとも死んだこの戦友たちを残して日本に帰るべきでないか、あるいはここに踏みとどまるべきか、どうしていいのかわからなくなってしまった 」という。新聞の字が ”なぜお前はおれを置いて帰るのだ” と呼びかける戦友の顔にみえてくるのだという。しばらく間を置いた横井さんは、じっと考え込むように「 ですから、自分の病室のマクラ元に英霊をこしらえました 」という。仏壇がわりの何かをつくったという意味らしい。病院での食事について横井さんはなんでもおいしく、全部食べるという。一番おいしかったのは、オモチのぞうにとミソ汁だったという。この二つはいずれもグアム政庁観光局次長のエドワード・筒井さんが差し入れたもの。横井さんは記者会見の席でぞうにのことがすぐに思い浮かばず、そばにいた中村厚生省援護局長に「 あれはなんというのでしたか 」とたずねたほど。もっとも日本的な料理を横井さんはどわすれしていた訳だ。記者団から「 天皇陛下とお会いになれるそうですが、どうですか 」とたずねると「 ハイ、その話は聞きました。びっくりしています 」と。最後に「 日本に帰ったら、だれに会いたいか 」という質問には「 まず靖国神社に行き英霊に会いたいと思います 」と堅い表情に変わった。2.3日前の答えと大部ニュアンスが変わってきた。ちょっと間をおいて「 そりゃ、父や母に会いたかった。けど、死んじゃ・・・・・ 」と涙ぐむ。この日の記者会見は4度目になるが、会うたびに横井さんの感情の起伏は激しくなるばかり。28年間文明社会と断絶していた横井さんの心は、悲しみと喜びの間を激しく行き来しているようだ。上記・記述は、1972年( 昭和47 )1月29日、新聞に掲載されたものです。
2022年01月31日
グ ア ム 島 に 日 本 兵28年 密 林 で 生 き て い た川 で 魚 取 り 中 発 見元 気、記 憶 も は っ き りグアム島で元日本兵一人が1月24日発見された。「名古屋市出身、ヨコイ・ショーイチ」と名乗ったが、毎日新聞の調べなどで名古屋市中川区富田町千音寺3983、横井庄一さん(56)とわかった。ジャングルの中で現地人漁民にみつかったもので、魚や木の実を食べ「終戦は知っていたが、こわくてジャングルから出られなかった」という。グアム島の生存日本兵は35年に皆川文蔵さんと伊藤正さん(共に東京在住)が発見されたことがある。その後、39年に厚生省が現地で40日間にわたって生存日本兵捜しをしたが、発見できなかった。グアム島といえば太平洋上の巨大な米軍基地だが、いまやレジャーの地としても有名。そこにタイムトンネルをくぐり抜けて現れた4半世紀前の旧日本兵。戦争ー平和という激動の28年を鮮烈に描いた文字どおりのドラマである。横井さんは24日グアム島の漁民2人に発見され、逃げようとしたが、捕えられた。ミクロネシア旅行中に同夜、横井さんと対面し、25日朝、TWA機で那覇に帰った太田斎(ひとし)さん(28)によると、横井さんは上下半身ともカーキ色の毛布をまとい、ハダシ。ヒゲもじゃもじゃで、やせてはいたが、足どりはしっかりしていた。ジェームス・新宅日本名誉総領事も付添い、横井さんは、しっかりとした日本語で話していた。住所氏名や大正4年3月31日生まれという生年月日の記憶も鮮明で、8年前までは3人で生きていたが、2人が病死した後、観光地からほど遠いタロフォフォ村の滝の近くのどうくつで川エビや魚、野生のブタなどを捕えて生きてきた。火を起こすのが一番苦労だった、という。横井さんが漁民たちに発見されたところは、グアム島の首都アガナから内陸に16キロはいった地点にあるタロフォフォという小さな村から約6.4キロのタロフォフォ川。漁民ジーザス・ドエナスさん(48)とマヌエル・ガーシアさんが(36)の2人が、網を調べに行こうとして網を仕掛けている横井さんを発見した。初めは家を逃げ出した子供だと思ったが、近づくと魚を落とし、飛びかかってきたという。しかし2人がかりで取押え、村へ連れて来た。横井さんは、警官などに守られながら救急車でアガナのグアム・メモリアル病院に収容されたが、医師の話では血圧が少し低いほかは、至って元気。上記、記述は1972年(昭和47)1月発見当時の新聞掲載より。
2022年01月30日
そ の 1大 戦 の 悪 夢 晩 年 ま で元 日 本 兵・横 井 庄 一 さ ん 発 見 50 年「恥ずかしながら生きて帰ってまいりました」先の大戦の激戦地グアム島で終戦を知らされないまま潜伏生活を続けていた元日本兵の故横井庄一さんが昭和47年に発見されてから、2022年1月24日で50年。帰国時の「 恥ずかしながら生きて帰ってまいりました 」の第一声は当時大流行語になった。密林でのサバイバル生活が注目される一方、自身の戦争体験は多くを語らず平成9年に亡くなった横井さんの思いや発見時の様子を、妻や関係者が振り返った。妻 「 戦 争 続 い て い た 」公の場で戦争体験を語ることはほとんどなかった一方、晩年までグアムの悪夢にうなされていた。「 横井の中で戦争は続いていた 」。横井庄一さんの妻、美保子さんが(94)が取材に応じ、横井さんの思いや帰国後の暮らしぶりを振り返った。横井さんは昭和47年1月24日夕に地元住民に発見、保護され、同2月に帰国した。 56歳だった。直後に「 グアム島敗戦の状況をつぶさに知っていただきたい 」と述べ、2年後に出版した回顧録で米軍の猛攻撃の中を逃げ回った様子を「 軍隊とは名ばかりの敗残の群れ 」と表現。「 軍指導者の無責任、人命軽視に、いうにいわれぬ憤りを覚えた 」と記した。しかし、社会の関心は密林でのサバイバル生活に集中。進んで戦争の悲惨さを語ることはなくなり、帰国後にお見合い結婚した美保子さんには「 日本は皆、戦争のことを忘れたような顔をして暮らしている。だから自分もそれに合わせる 」と打ち明けた。美保子さんは「( 戦争のことを )話しても、もう仕方ないと思って心を閉じた 」と思いやる。その後は生活評論家として質素な暮らしやサバイバルに関する講演で各地を巡り、49年には無所属で参院選に出馬し落選した。50年代からは幼なじみの陶芸家の勧めで陶芸に打ち込んだ。平成に入ってからは病気がちになり自宅で過ごすことが増えたが、夜中に「 グアムの現地の人に追われる夢を見た 」と突然起きることがあった。潜伏を共にする中で死亡した2人の戦友のことは、自身が平成9年9月に82歳で亡くなる直前まで「 3人で生きて日本に帰りたかった 」と話していたという。美保子さんは「 かけがえのない命が無残に失われた。生きて戻ったとしても、横井のように多くのことが犠牲になった人もいる 」と強調。「 戦争は防がなければならない 」と訴えた。グ ア ム 潜 伏 日 本 語 で 返 答横井庄一さんはグアム島南部のタロホホ川でエビや魚といった食料確保に向かうところ地元住民に発見、保護された。「 日本語を話す男が見つかった。病院に収容するが、日本人かどうか確認してほしい 」当時グァムで旅行会社の駐在所長だった京免(きょうめん)宣昭さん(79)は夜になってグアム政府観光局幹部から電話で連絡を受けた。グアムは昭和40年代後半に入り、日本からのハネムーン先として人気で年間10万人が訪れる観光地に。一方で35年には残留日本兵が見つかっており、京免さんは「 まさかと思った 」。駐在員仲間と駆け付けた病院で、警官に囲まれた、汚れた半袖ズボン姿の男性に「 ご苦労さまです 」と声を掛けると「 どうも、どうも・・・ 」と弱々しい日本語が返ってきた。長いひげ、ピョンピョンと跳ねるような歩き方。「 鋭い視線が印象的だった 」と振り返る。京免さんによると、病院のカルテには「 Shoichi Yokoi 」住所は「 Aichi-ken 」と記され、地元の警察署長が「 彼は元日本兵だ 」と明かしたため、急いで日本の本社に国際電話で連絡。当時グアムにはまだ日本の総領事館などはなく、これが日本への「 横井さん発見 」の一報になった。横井さんが潜伏していた穴は深さ約2.5メートルで、それが約3メートルの横穴に続く構造。かまどやトイレを備え、パゴ( ハイビスカス )の繊維で織った布を手縫いした服や、竹で編んだ籠、ココナツの実をくりぬいたおわんなどを自作していた。多くは日本に持ち帰られ、現在は名古屋市博物館が所蔵している。妻、美保子さんは平成18年、名古屋市の自宅を改装し、潜伏した穴の再現模型や横井さんの出版物などを展示した記念館を開いた。親族は一部資料のデジタル保存も考えている。上記記述は、産経新聞、令和4年(2022年)1月22日に掲載されたものです。( その2につづく )。
2022年01月27日
そ の 2横 井 庄 一 さ ん大正4年3月、愛知県生まれ。県内で洋服仕立て業を営んでいたが、昭和16年に旧満州( 現中国東北部 )へ出征し、19年に歩兵第38連隊としてグアム島へ転戦。同7月の米軍上陸後に戦死したとされたが、終戦後も密林に潜み、47年1月に発見された。同2月に帰国した際の第一声「 恥ずかしながら生きて帰ってまいりました 」は流行語になった。同11月に美保子さんと結婚。「 耐乏生活評論家 」としての講演や、陶芸に力を入れ、平成9年9月に82歳で死去した。横 井 庄 一 さ ん を め ぐ る 経 過昭和16年 8月 招集され、中国大陸に上陸 12月 太平洋戦争開戦。 日本軍がグアム島占領 19年3月 歩兵第38連隊としてグアムに移動 7月 米軍がグアム島上陸。 米軍の奪還後、残存日本兵はゲリラ戦に移行。 横井さんは戦死扱いに 20年8月 終戦 35年 グアム島で元日本兵2人が発見され帰国 39年 厚生省(当時)がグアム島へ元日本兵調査団派遣 47年 1月24日 横井さん発見、保護 2月 2日 帰国 11月 美保子さんと結婚 49年 参院選に出馬、落選平成 3年5月 春の園遊会に出席 9年9月 死去 18年6月 名古屋市の自宅を改装し記念館 として開放上記は、令和4 年( 2022年 )1月22日、産 経 新 聞 に掲 載されたものです。
2022年01月27日
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