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小 野 田 少 尉 殿 へ小野田少尉君は山犬のごとく野をかけ川を渡り雨や風にうたれようとなんらおくすることなく禅僧のような雰囲気で命の火をもやしルバングの鬼神として生きてきたのか横井軍曹と比べれば君は鉄人のようだ眼光といい体躯といい君は軍人の鏡のようだしかし人間としての凡人としての判断にかけたようだジャングル深く君は1人淋しくなりても命令という金科玉条の鎖によって飼いつながれた獣のような気がするのだ小野田少尉 君は何も語るまい その方が君はすばらしく見えるテレビに映りし君の姿は武人のごとく気高く畏怖の念を抱かせた私の心はゆれどうすべきもない慟哭の瞬時であった小野田少尉 君が夢中で生きた30年の日々には苦しさはあったが悲しさはつきまとわない君の生き方に判断の誤りがあったにせよ 君は真剣に生きた私はそれでよかったと思うのだとにかく君は鉄人だ 凡人には割れない鋼鉄のごとしだたとえて言うなら横井軍曹が錆びついた悲しく折れそうな鉄であるなら君は尖ったはがねのような気がする小野田少尉 君は横井軍曹に比べれば気高い青年のようだあの刺激的な出会いの瞬間ほど感こぼれる逢瀬を私は知らない一人の若者( 鈴木紀夫氏 )の力がなければ君はルバングの蛮族として死んでいただろうか?それを思うなら奇跡であったと言わねばならない軍人の鏡たりし君がこれからの生活を全く平凡に柔らかく折れ風になびく柳のように無名戦士としてどこかで暮らしていけるよう・・・肩の力をぬいて弱々しく生きるよう・・・日本に失望せず余生をまっとうするよう小野田少尉 君は帰還したがあまり語らぬよう聡明な君が語れば語るほど私は胸が締め付けられるのだ小野田少尉のこれからの人生に幸あれ!!
2023年01月24日
戦 後 29 年 フ ィ リ ピ ン ・ ル バ ン グ 島 に 潜 伏元 陸 軍 少 尉・小 野 田 寛 郎 さ ん 死 去91 歳 心 不 全1945年の太平洋戦争終結後、29年間にわたってフィリピン・ルバング島に潜伏していた元陸軍少尉の小野田寛郎( ひろお )さんが2014年1月16日午後、心不全のため死去していたことが17日、明らかになった。91歳だった。1974年の帰還後、ブラジルで牧場を経営したり自然教室を開くなど精力的に活動。90歳まで腹筋運動による筋力トレーニングに励んでいた。帰 還 後 牧 場 経 営小野田さんが主宰する教室「 小野田自然塾 」の関係者によると小野田さんは今月に入ってから微熱を出し、自宅のある東京都中央区の病院に6日から入院。16日午後4時49分、帰らぬ人となった。小野田さんの妻・町枝さん(76)と3人で暮らしていた町枝さんの妹・小貫和子さん(69)によると、16日に容態が悪化した後も周囲の呼び掛けに「 うん、うん 」と答えていた。親族のみで密葬を行い、後日、お別れの会を開く予定だ。1922年、和歌山県亀川村(現・海南市)生まれ。42年に応召し、陸軍中野学校二俣分校でゲリラ戦の特殊訓練を受け、44年にルバング島に派遣された。任 務 解 除 命 令 受 け ず 密 林 生 活翌年、敗戦。ところが小野田さんは終戦を信じず、任務解除命令を受けなかったとして、部下3人とともに密林生活を続けた。バナナなどを主食とし、敵機に発見されないようにと山中深くに身を隠した。島民の生活を脅かすことも多く恐れられたが、逃亡や銃撃で部下を次々失った。74 年 冒 険 家 ・ 鈴 木 さ ん 発 見74年2月、冒険家の故・鈴木紀夫氏( 当時24歳 )に発見されると、現地に赴いた元上官の命令を受けて翌3月、約30年ぶりに帰国した。第一声は「 長い間ご迷惑をかけました 」だった。90 歳 ま で 筋 ト レ翌75年、兄がいたブラジルに移住。中西部カンポグランデ郊外の原野を開拓し「 小野田牧場 」を設立した。84年に帰国すると、福島県塙町に「 小野田自然塾 」を開き、野外キャンプ教室を毎年開催。昨夏のキャンプでも元気な姿を見せ「 ルバング島では針一本がありがたかった 」と思い出話も披露。12月にはブラジルの牧場を視察したばかりだった。幼少期から肺が弱く、最近では酸素ボンベを使用していた時期もあったが、体を鍛えることでボンベなしの生活に復帰した。腹筋運動による筋力トレーニングは90歳になっても欠かさなかった。晩年は、講演活動で全国を回り、青少年らに自らの経験を語った。「 90分間ずっと立っていられなくなったら私も終わりだ 」と語っていたが、背筋をピンと張り、直立不動で語り掛けるスタイルは最後まで変わらなかった。一 部 島 民 複 雑 な 思 い も 副 町 長 「 寄 付 忘 れ な い 」ルバング島潜伏中の小野田さんは部下とともにフィリピン軍と銃撃戦を繰り返し、10人以上の死傷者が出たとされる。96年の再訪の際は、住民50人余りが抗議活動をした。現地住民から体験談を聞いた邦字紙マニラ新聞の記者は「 島民の一部には今も複雑な思いが交錯している 」と話した。一方、ルバング町のビリヤス副町長は「 地元に被害を与えたのは事実 。小野田さんにとって戦時中だったので、やむを得なかったと思うが、本人は悔やんでいた。帰国後にピアノや学用品を寄付してくれた心遣いが忘れられない 」と哀悼の言葉を述べた。1 昨 年 取 材 で 語 る「 日 本 で 死 に た い 」小野田さんはⅠ昨年2月、ブラジルの牧場で共同通信の取材に応じ「 人に迷惑をかけず、家族の手を握って死ぬのが理想。幼なじみに最期に会えるから日本で死にたい 」と語っていた。ブラジルの生活について「 密林暮らしが長かったので暑い方が好き 」とし、サンパウロでの講演では「 人は1人では生きていけない 」と訴えていた。上記、記述は、2014年( 平成26年 )1月18日、報知スポーツ新聞に掲載されたものです。
2022年03月03日
バナナや牛で飢えをしのぎ…30年間も密林に留まり続けた”日本軍情報将校"の戦闘力 - 記事詳細|Infoseekニュース旧日本軍の将校だった小野田寛郎さんは、1945年に太平洋戦争が終結してから30年近くの間、日本の敗戦を信じずフィリピンで戦闘を続けていた。日本の捜索隊が100人以上訪れたにもかかわらず、なぜ小野田さんは戦争をやめなかったのか。自身の手記『たった一人の30年戦争』(東京新聞)より一部を紹介する――。■…【全文を読む】
2021年10月20日
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