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中 学 校 卒 業・3 年 3 組 卒 業 文 集 妹 卒 業 を 祝 す
2021年12月26日
思 い 出後をふりかえると、やっぱりなんといっても、修学旅行だ。あの時の楽しさは、一生涯わすれません。阿蘇の偉大さ、空いっぱいにけむりをはいて、まるで空がすい込んでいるようであった。美しくもかれんな山・・・それと、一日目の夜、ぜんぜんねむれず、大さわぎしたこと。地獄めぐり、高崎山で、たくさん猿を見たこと。3年になって、もう1年しかないと思いながらも悪いことばかりして下級生には、めいわくをかけたし、保護者にもわるかったですね。夏休みには、遊びすぎて勉強もしなかった。運動会の時は、なぜ、あんなものするのだろうか、せんでもええのにと思っていた。でもおもしろかった。今、思うといろいろありました。楽しかったこと、つらかったこと、3年間がみるみるうちに、とおりすぎていきました。勉強は、本気でやれませんでしたが、体と心は、成長してゆきました。
2021年12月25日
お い 立 ち の 記誕生昭和〇〇年〇月〇〇日、午前9時半ごろ、○○家に丈夫な男の子が誕生、長男であったため家族の全部が喜んだそうだ。当時、姉は、3歳であった。明るく育つようにと言うことと弘法大師の〇と言う字を取って「〇〇」と父が、名前をつけたそうだ。母は、本当は「〇」とつけたかったそうだ。3歳この頃の写真を見ると、牛に食べさせるという大きなかぼちゃと名古屋にいるおじさんにもらったという蒸気機関車のおもちゃを持って写っているのが、多いので、なぜかと母に尋ねたら、お化けかぼちゃの方は、この頃の僕は、変わっている物とか見たことのないめずらしい物などに興味があり、自分の体より大きなお化けかぼちゃが気にいって毎日、お化けかぼちゃと遊んでいたそうだ。蒸気機関車のおもちゃの方は、このころからもう機械に興味があったらしく、お化けかぼちゃと同様に毎日、遊んでいたそうだ。5歳この頃は、買ったおもちやより自分でおもちゃを作る方に興味があり、2代目のエジソンになるのではないかと言われるほど物を作るのに興味があったそうだ。どのような物を作ったかは、想像して見てもわかるだろう。保育園は、6歳になって入園する。小学校1年生僕が小学校へ入学した時は、まだ旧校舎であった。この旧校舎に何か月いて新校舎に変わった。この頃一番印象に残った事は、旧校舎にいる時、授業中なのに、〇〇をおいかけ回っていて、廊下に立たされたことが一番印象に残つている。小学校5年生この時の音楽の先生が怖くて、勉強中に話などする人は、いなかった。中学1年生上級生が怖くて、学校では小さくなっていた。応援練習には、声がかれるほどしぼられた。中学2年生1年生の時より上級生が怖かった。応援練習は1年の時よりしぼれれた。
2021年12月24日
中 学 校 生 活 の 思 い 出中学校生活で、一番印象に残ることは、何といっても2年生の時のことだ。2年生になった時は、何か自分たちのクラスだけ、おもしろくないような気がしていたが、だんだんとおもしろくなっていった。担任の先生の顔をクソまじめな顔をして、じっと見つめ、そしてトンボの目をまわすように、大きく手を回してみたりした。先生は、少しぬけた所があって免許の事を、〇〇〇といいまちがえ大爆笑。これを冷や汗をたらしながら必死にごまかした。クラスには、おもしろい男たちがいた。ぼくがある日、新しい上履きをはいてきた時、その男たちは、口に手をあて大きな声でぼくをひやかした。あまりにひやかすので、これはエエ恥だと思い、ボロボロの上履きを持ってきてはいた。翌朝、上履きをこうとしてぼくは驚いた。なんとボロボロの上履きがいっそう、みじめになっていたのである。これはあの男たちの仕業であった。これにはいささか、まいった。新しい上履きをはかせるためだったらしい。よくそこまで頭がまわったなと感心した。そのうち、まちにまった修学旅行がやってきた。おもしろかったのは、夜寝る時だ。懐中電灯を目の前でつけて、眠らないようにしたり、みんなでフトンをとりあったり夜中の2時にみんなで起きて、フトンをあげてみたりたいへん楽しかった。翌朝、早く起き過ぎて旅館の人に文句をいわれて、いささか気分がわるくなった。バスの中では寝不足で山並みハイウェイの景観を、見ることができなかった。別府では、地獄めぐりをした。大きなワニがいたのには驚いた。帰りのフェリーで徳山港へ入ると、海の水が急にきたなくなってきた。徳山ではこのぐらいだったのだから、都会は、もっとひどいのかと思うと心が重くなる。50年後の地球は、いったいどうなっているのだろうか。ウォー 超能力がほしい。
2021年12月24日
3 年 間 の 思 い 出3年間の思い出の中で、いちばんおもしろかったのは、2年の時だ。先生がおもしろかった。「めんきょ」という所を、〇〇〇といってみたりして、そして2年の修学旅行は、一生がい、僕の僕の脳にこびりついて、離れることはないだろう。このほかには、別に書くことがないのでこのへんで終わろう!!
2021年12月24日
野 球僕が、初めて野球を知ったのは、小学2年の頃、6年生が野球をしているのを見た時、おもしろそうだなと思った時からである。それから年月がたって、5年生の時、その頃から僕は、中学校に入学したら、野球部に入ろうと思いはじめた。だから、隣りのおにいさんといっしょに、ノックやキャチボールをした。6年になると、日が暮れるまで学校の校庭で野球をしていた。時には、ひじや背の方を切ったこともあった。今になって考えてみると、あんなに毎日、毎日、野球をして、よく体がもったなあと思う。そして中学校に入学した。また念願の野球部にも入った。初めは、入部する人が少なかったが、そのうちだんだん多くなってきた。その頃、僕たちは、担当の先生の許可が出なかったので、校舎の前に坐って、毎日2・3年が練習するのをみていた。その時、僕は、練習のきびしさに驚いた。そのうち、先生の許可がでたので、練習を始めた。1ヶ月くらいたつと、初めは毎日、練習に出ていた人が、出なくなった。それでも僕は、毎日練習をした。その頃、僕は帰りのバスの中で寝る習慣がついていた。それから毎日のように、買い食いをしていた。部活動の練習の中で、一番きつかったのは、夏休みの練習である。7月いっぱいは、練習に出なくてはいけないので、出る人はたいへん少なかった。その頃から、僕は捕手をするようになった。2年になると、練習にも慣れ、1年生の時に比べると、だいぶ上達した。一番上達したのは、肩が強くなったことだ。一番うれしかったのは、打たせてもらえるようになったことだ。初めは、3年生の投げる球が恐ろしくて、バットが振れなかったが、家でバットを振っているうちに、バットにボールが当たるようになってきた。だんだんうまくなってくると先生に「 前で打て 」と言われて、それ以来、先生のことばが頭にやきついている。そして2年の夏、郡大会がせまって来た。僕は、補欠のキャッチャーとして出場した。しかし、試合には負けるし試合には一度も出られなかった。試合が終わった後、みんなで食事をとった。その後、2年の中からキャプテンを決めることになった。キャプテンには、僕がなった。その時は、あまりうれしくはなかった。今になって考えてみると、キャプテンになってよかったと思っている。そして、最上級の3年生になった。この時、初めて1・2年を指導することは、むずかしいと思った。僕たちは、対外試合に一度も勝ったことがないので、今年こそはと1・2年生を引っぱり育てていった。そして○○大会が目の前にせまって来た。○○チームは、これまでの練習の成果を出しきって、若者らしくきびきびとした態度で、力いっぱい戦った。校長先生も応援にかけつけてくれた。結果は、1・2・3回までは、接戦だったが、4回、相手のエラーやバントやヒットで一挙に引き離した。その時の気持ちは、これが〇〇中の力だというような気持ちだった。その後、4・6・7回は、9人が一つにまとまって守りぬいた。試合が決まったとたん、みんなは、手と手を取り合って飛びながら、喜びあった。この後、行われた郡大会には、残念ながら勝てなかった。しかし、この経験は将来、何かの役に立つだろう。
2021年12月24日
15 年 間 の 僕昭和〇〇年〇月頃、母の胎内にいる僕は、日をまちがえて、母の胎内から、もう少しで出るところであった。自分の体を見て、まだ成長していないことにきずき、もう一度もぐり込んだ。もう生まれる前から、みんなに心配をかけ、このころから、ワンパクぶりを発揮。〇〇年〇月〇〇日、午前11時5分、長男誕生。名を○○とする。1歳1か月になっても歩かず、母が心配し、整形外科へつれて行く。日光へもう少し当てるようにのこと。庭に柿の木があるため、日光がさえぎられるので、歩くのがおそかったらしい。1歳3か月やっと歩きはじめ、みんなを安心させた。少し右足をひきずったそうだ。昭和〇〇年〇月〇日、妹の誕生。両親が二つの名前を用意し、どちらにするか迷ったすえ、父が「 ○○にいわせてみろ。いいようにいった方にしよう 」ということで、ぼくがいったところ、「 ○○ 」の方をよくいい、「 〇〇 」に決まる。今考えると、もう一つの方が良かったようだ。このころ僕は、ワンパクぶりの本領発揮。家からぬけ出て道へ出、よく車をとめ、おこられたそうだ。7歳〇〇小学校へ入学、よろこんで走り回り、石につまずき、バッタンコ。はいていたタイツを破り、泣き泣きタイツをはきかえたことだけしか、覚えていない。今まで通り、ワンパクで先生の手をわずらわせた。成績の方は、あまり良くなかった。小学校5年理科の時間に班員3人、〇〇君、〇〇君と私語をして、〇〇先生にほっぺたをぶっさかれた。そのあと、どんなことをしたかよくわからない。覚えているのは、「 はい!! はい!!」と先生のいわれることに返事をしていただけ。今では、このことが、小学校時代の一番の思い出として残っている。小学校6年4人、ぼくと〇〇君、〇〇君、〇〇君で、リレーのチームを作り、郡大へ出場、みごと優勝して、○○○○大会へ出場、予選で全チーム通して、ベストタイムであったが、決勝で予選の時のタイムがだせず、2位で県大へは、出場できなかった。〇〇小学校体育大会で、ボール投げで53m10で優勝、大会新。昭和〇〇年、〇月、〇〇中学校へ入学。中学校2年の頃から、駅伝関係に出はじめた。かんじんのテニス部の方は、よい結果はでなかつた。中学校3年、駅伝関係の成績は、よかった。郡駅伝大会で2区を走って、大会タイで区間賞、県大会で、4区を走って区間賞、県大会は、運がよかっただけのことだけど、とてもうれしかった。そして今、あと18日たらずで中学校、つまり、9年間の義務教育に卒業。みんなと別れて、新しい人生の始まり、自信をもって自分の道を進もう!!
2021年12月23日
卓 球 の 思 い 出ぼくにとって、卓球は中学校生活の中で一番のたのしみであった。中学に入学して、すぐに卓球部に入部した。理由は、卓球部に親しい人がいたからという単純な理由からだ。1年というのは、トレーニングと球拾いのくりかえしでやめようと思った時に、新人戦に出られることになったので、本気で練習をした。最初の大会なので足はがくがくして、かんたんに負けてしまった。その時はあまりのくやしさに泣けてきてしまった。そして、2年生になり、負けたくないという一心で、練習しましたが、群大会、新人戦でも勝つことは、できませんでした。そのころは、試合にはよく負けましたが、卓球のとりこになっていました。そして3年生になり大会は、群大会だけになりました。1・2年の成績は、あまり良くないので最後の大会に全力をぶつけ、たたかいました。団体戦の時は、中学3年間で最高の試合ができました。団体は、決勝までゆき、3-0負け、個人戦も県大会出場をかけた試合で負けました。これで県大会出場は、夢でおわったわけです。大会もすべておわり、入試の準備勉強にかかったわけですが、卓球がしたくてたまりませんでした。そして、12月をむかえ進学校の決定があったわけですが、ぼくは高校で自分の卓球をためしたかったので、県でも1位・2位を競う私立のA高校を希望したが、家族のものが反対でした。理由は、高校で卓球をしてもたいしたことはないという理由からです。ぼくは、家族のものへぼくの情熱をわかって、もらうために、1月初めから入試直前まで、毎日ランニングをしました。そのかいあって、家族のものも喜んで進学をゆるしてくれました。その時は、たいへんうれしかったが、それと同時に、ほんとうに強くなれるのだろうかという不安がわいてきましたが、トレーニングをしていると不安も消えてゆきました。今では、卓球をしたくてたまりません。これからは、自分の選んだ道を、たゆむことなくまっすぐに、進んで行こうと思います。
2021年12月23日
バ レ ー 部 の 思 い 出ぼくにとってバレーとは、中学に入っての一番の楽しみでした。ぼくは、バレー部で2年の頃はバレー部の中で、一番へたでした。しかし、入った以上、2年間やりとおしました。部の中には、こわい人もいたけれど、ほんとは良い人ばかりでした。先生は、2年の時は、〇〇先生でした。〇〇先生は、バレーを大変いっしょうけんめい教えてくれた。ぼくたちも、先生にまけまいといっしょうけんめいやってきました。今、部内の事をいろいろあげましたが、何といってもぼくの心にのこっていることは、初めての大会出場の時と2年の時の新人戦です。初めての大会出場の時は、なにをしたらよいかわからず、ドキドキでした。結果は、さんざんな負けでした。その後、すこしどきょうがついたように思われます。つぎに3年の時の郡大会の時ですが、自分では勝てると思っていたが、負けてしまったのが、残念に思いました。
2021年12月22日
3 年 間 の 思 い 出3年間というのは長いようだが、僕の中学時代の3年間はあっという間に過ぎてしまいました。この3年間に特に思い出に残ってると思うのは、運動会や修学旅行です。また、寮生活のことも良い思い出となっています。1年生の運動会の時は、ただ無我夢中で3年生の言ったとおりにやりました。特に応援合戦では、のどがいたくなるまで、歌わされました。2年時には、リーダーをやったのだが、あまり良い成績でなかったのでおもしろくありませんでした。3年の時は、いろんな面で自由にやれたので成績は悪かったが、楽しい運動会でした。2年の時の修学旅行では、とくに、あその広大な火山が印象に残っています。また、旅館での友達との話し合いも楽しかったことの一つですしかし、何んといっても、学級の全員が仲よく楽しくやれたということが何よりも良かったと思います。僕は、季節生で、1・2年の時は、11月から、3年の時は、1月から入寮していました。1年の時は、3年生に、こき使われて、あまりおもしろくない毎日でしたが、2・3年なってからは、そんなこともなく楽しい毎日でした。寮生活の良いところは、友達同士が協力し、助け合って生活することだということを寮生活をしながら感じました。このことは、これからの僕の人生に大いにプラスになると思っています。今、僕は新しい世界へとび出そうとしています。これからは、もっと何事にも勇気をもって進んでいこうと思います。
2021年12月22日
3 年 間 の 思 い 出3年というものは、あっという間にすぎてしまいました。3年間の中で一番といってはウソですが、運動会が強い思い出になっています。リーダーもやって応援もやった。練習もしたけど、負けちゃった。 でも楽しかった運動会。次は、何があったかな?沢山あって思い出せないよ。テニス部に入っていたのですが、よくまけたものでした。練習や試合のことを思い出すと、なつかしい。長いようで短かった3年間、友達の顔が一人一人、うかんでくる。忘れられない中学生時代。これから、みんな別々の道に進んでいくけど、またあう時もあるだろう。そのときは、気楽に話そうや。たまには、僕んちへこいや。勉強も苦しくなるでしょう。中学校の方がいいと思うかもしれない。でも負けずにがんばろうや。しあわせは、歩いてこないだから 歩いていくんだね。この通りです。しあわせは、かってに僕たちの所へ来るものではない。こっちから、求めていくものである。苦労するほど、しあわせも倍になるのです。努力するほど喜びは、大きくなって僕たちへ返ってくる。みんな元気でな。good byグッドバイ バイバイ
2021年12月20日
僕 の 思 い 出3年間で、一番思い出の多かった年は、3年の時である。楽しいこと苦しいこと、そして良いこと悪いこと、いろいろな思い出がある。そんな思い出は、もう返らない。楽しかったことは、遠足や皆と楽しく遊んだこと。苦しかったことは、運動会である。僕のきびしい練習に耐え皆なよくついてきてくれた。負けはしたものの悔いのない試合ができた。良かったことは、3年間の決意でもあったそうじを本気でするということが、だいたいよく守られたので良かった。悪かったことは、学校で起こした問題で、あれでは、皆に大変めいわくをかけた。・・・いろんなことがあった3年間。すぎてみれば短いもの、もう少し長ければ、いい3年間!!
2021年12月20日
短 く 長 い 思 い 出あれは今から15年前の昭和〇〇年〇月〇〇日それは祭りの夜だった。そのにぎやかな声で僕こと○○○〇がこの日〇〇のという都会の肩すみで誕生したのであった。そして第一声をあげたときから僕の長い人生がはじまろうとしていたのであった。僕の誕生を父も母も、はじめての男の子でとてもよろこんだそうだ。生まれた時はにぎやかだったにもかかわらず、僕の性質は反対にとてもおとなしかった。しかし生まれた以上は、日本の星となって育っていけばと心にも思い、両親は、それを願ったそうだ。そんなことを思われて保育園に入り、そして小学校に入り、そして今は中学生。それもあと2週間たらずで卒業しようとしているのだ。あー思えば楽しい日々・・・そう、あれは保育園ころだった。ぼくととても気のあうH君とよくいたずらをして遊んだものだ。このH君は、顔は悪いわりに気のいい奴でまあ、最高の友達だったのだ!!そのH君と保育園時代をすごしたといってもいいくらいだろう。まあ、保育園時代は、このH君との思い出ぐらいだろう。小学校時代は、あまりにも強く印象残った思い出がなく思いだしても思いだすことないのですが・・・まあ、しいていえば、6年間もあったなら、高学年のころ、下級生と遊んだことだろうと思う。高学年からみれば、下級生というのは、とてもかわいいとてもむじゃきに見えたものだ。その他で楽しいことは、小学生時代にあったのでしょうが思い出せないのだ。まあ だからこれくらいでしょう。小学生のころの印象は、のこっていることといえば?これからは、大事な中学生時代。15年間のうちで一番楽しく一番心にのこるころでしょう。あれは、昭和〇〇年の4月ごろだった。まだとてもおさなかった僕がこの中学校に入学したのだった。まだ何もわからない僕がみんなの後について学ぼうとしているころだった。僕が勉強の次に好きだったのがバレーです。やっていくと、とても楽しくなってきました。それに高学生のみんながとてもおもしろくてつきあってくれたのもうれしかった。僕は部活動にでることが楽しみのひとつになりました。それとひごとに、うまくなりました。( じょうだん )3年になったころも、まあ試合にはまけましたが、放課後、みんなと汗を流してやると楽しくていれなかったものです。部活動の思い出が一番よく楽しいものでしょう。その他には、秋の運動会と2年の時の修学旅行。これは友達と二晩もとまれるというので、胸をわくわくさせて、いったものです。まあ予想通り、おもしろかったです。こんなところが僕の思い出です。一口に思い出といいますが、それは思い出というものは、ことばにあらわしたほうがいいでしょう?ことばにあらわせない思い出は、またに・・・悲しい思い出はすてて、楽しかった思い出をもって、これからの人生を歩んでいきたいものです。これからは高校という第二の人生がはじまろうとしています。第二の人生をきりひらくため、僕たちは高校入試といった大きな壁に向かって進もうとしています。もうみんなともお別れですね。これからは、みんな自分の道をきめてあゆんでいってください。楽しかった思い出よ。さようなら。さいなら・・・・さいなら・・・・goodーby bY
2021年12月20日
思 い 出 の 3 年 間昭和〇〇年、中学校に入学、〇〇町の奧の方から出て来た僕は、ろいろな顔ぶれがそろっているのにたまげた。やがて、中学校生活にも慣れ、楽しい毎日だった。中学校2年、始業式の朝、組わけの表が、はってあった。僕は、だれといっしょかと目をみはって見た。そして、修学旅行。あの偉大な阿蘇を見て僕も、あんな偉大な人間になりたいなと思った。中学校3年になって、勉強のことが気になりだした。夏休み本気でやろうと計画をたてたものの、遊びに夢中になり手につかなかった。それから秋になり、僕は部活動を本気でやり、試合に出たいと思った。それがかなったけれど成績は良くなかった。冬になり、僕は寮にはいり高校の受験勉強にはげもうとしているうちに高校もきまり、もう卒業まじかになってきた。この3年間を思うと、先生たちにおこられ、友達とけんかをしたことを思いだしながら、わかれていくと思うとさみしい気持になりそうだ。最後に、先生がた、この3年間どうもありがとうございました。友 よ。さ ら ば。
2021年12月19日
今 年 1 年 の 僕僕は今年はいろんなことをしてきた。まずスポーツ面では、部の野球を郡大会まで一度しか休まずがんばった。しかし試合では負けたが、僕はくいはなかったと思う。でも一つ心のこりは、人のエラーで自分がかえられたことにある。次に学習からは、これはいわなくてもわかるはずだ。これは僕のような生活をしていればすぐわかる。というのは、ぜんぜんだめなので高校入試には不安がものすごくある。次に生活面では、これほど思い出に残ることはない。というのもあの〇月〇〇日の〇〇のことである。あれは今でもはっきりと覚えている。でもそこへ行くにもいろんなこともふくんでいる。それは、まず日ごろの態度最初は勉強たいど、生活たいどなどのことは、まるで愛と誠(映画)のようなものであった。しかし、その対策として先生は、特別教室というものをつくった。それは、2時間別の教室で先生と二人で話をして、反省をさせるのである。もう何度も僕はその教室に行った。一人でそして〇〇や〇〇などといった。もうひとつ僕の思い出の中には、1時間ギターをひいて勉強時間をつぶしてしまった。今思うとなぜあんなことをしたのかわからなかった。こんな僕だったが今では、だいぶなおりまじめにがんばっているのです。( まじめェ~~ )ところであとのこるというと、そう友人のことである。僕は、今、〇〇と〇〇といっしょにたのしくすごしている。どんなことでもいえる人たちだ。そしていっしょに考えてやれなんだ。これと勉強をおしえてもらうというような友人もいた。でも僕は二人には、今とても感しゃしているのである。それはある時は、スポーツなどで争い、そしておしえあい考えあいやってゆく僕は、こういうことがとても今の僕のプラ面と思っている。でも今は、こんなことから、わかれなくてはならない。でも、この友人や生活的できごとは、一生わすれないであろう。「 別れ行く友、楽しかった日々、それもこれも今、みんなすぎさっていく思い出、でもこの思い出とともにいっしょにあるこう マイフレンズ 」ククク 泣けるなァ
2021年12月19日
3 年 間 の 思 い 出 と 別 れ中1の時、家庭の事情で、この学校に転校してきました。慣れない環境だったので、そのころは不安な毎日ばかり・・・だけど、時がたつにつれて、友もでき、学校にくるのが、楽しいぐらいでした。このころの思い出といえば、あの人カッコイイーすてきィ~ なんてよくわめいている人のよこでそうかな? あの人の方がいいよ”” なんてよくいったものです。担任の先生は、〇〇のゴリラ先生でした。バナナが大好物というあの先生はアフリカ生まれのアフリカ育ち””といってもいいすぎではないと思います。そういうこの私も、アフリカ生まれになるのでしょうか?そのころからだと思います。テスト前になると、勉強を、そっちのけにしてバナナばかり食べていたのは・・・( ナンテ )中2のころの思い出といえば、やはり修学旅行だったといいたいのだけれどそれほど心に強く残っていないのです。そして、毎月おこなわれる校内マラソンがつらくなったのは、このころだったでしょうか?「 苦しくてもうダメ 」そんな苦しさをがまんして、2Kmを走りぬくことが、満足感に変わっていったのだと思います。また3年生のこわさをしらされた時期でもありました。会釈しないと、ニラマレ・・・・3年生っていばっていられるものだなあとこの時から思ったのです。そう思いながらものんびり過ごした中2の生活でした。後、1年あるから、頑張らなくちゃ~そんな気持ちを、大きな胸にいだき(?)クラス発表の紙をながめたのが、3年生のはじまりでした。月日がたつのもはやいものです。体が大きいだけのこの私も、卒業を目前にしている。もう少し、りっぱになって卒業したかった。中学生活を一言でいうと「 楽しかった 」としか、いいようがありません。しかし、その中には、泣いたことも、苦しかったことも、さけんだこともありました。そんな中を私は、誰と歩んできたのか ?そう 友がいたから・・・友と一緒だったから・・・悲しみも苦しみも、一緒だった友に別れを告げるのは、悲しい。だけど、人それぞれ、進む道がある。その道を前進力で進むことが、大きな壁を破ることになるかもしれない。だから友よ、これからも くじけずがんばろう!!泣いたって苦しくたって・・・( 最後に二言 )3年3組のみなさん さようならそして、先生ありがとう!!
2021年12月17日
か な し み の シ ー ズ ン「 中学生活 」それは私にとって、考えさせられ悩まされたものでした。毎日毎日の時間が早く感じられ、あっという間に、3年になり卒業の時期がきてしまったのです。この長いようで短かった3年間の日々に部活動のバレーで心を動かしました。2年のころはよくなまけて、しかられたことが、ちょいちょいありました。本当に毎日の生活が楽しくあり、ときには、不愉快の出来事などチームのみんなと語り合い気をほぐらしてくれたものでした。しかし、このチームができるまでには、長い月日がかかりました。バレーにとって、大切なものを失いかけたことがありました。新人戦でそれがはじめてわかったのでした。これではいけないという気がしたのか翌日の練習ぶりがみちがえるように変わったのでした。ライダー変身 < ニギヤカ変身 >そして3年になり、1年からの夢であった県体出場を決める郡体がありました。なにしろ第一試合でもうびっくり、しかし負けちゃった。でも私にとってもチームにとっても手でつかめない大きな何かを得たのでした。けっしてこの実感を忘れません。ヒデキ 感激! って感じ「〇〇コ」「マッチ」「レコ」「ヒロ」「サナ」「〇〇ちゃん」「ノンペー」「〇〇ちゃん」そして、チームにとっての重要人物。とにかくおしゃべりで、顔には、ちっちゃいホクロがチャームポイントとという私こと「 にぎやかちゃん 」ヨーよく、みんなで反抗して、いじめて困らせた先生<〇〇>、ありがとうございました。バレーに賭けた青春!!
2021年12月17日
お い 立 ち の 記誕生昭和〇〇年〇月〇〇日・・・お昼どき・・・目元パッチリとしたかわいい女の子誕生。( 現実そのもの )・・・4歳そのころの私は、クレヨン、鉛筆、マジック等で手あたりしだいにいたずら書きをしていた。そのころ近所の子と、げたばこにマジックで絵を書いていたら、父にみつかって泣きながら、必しで消したことを覚えている。今でもまだあとが、残っている。( なーにちょっとしたミスさ )5歳近所の子とよくけんかをした。水をかけたり、ひっかいたり、そのたびにいつも泣き泣き家に帰った。小学校1年生このころの私は、クラスでも身長が一ばん高かった。ところが入学式の写真を見るといすにすわって写っていたが、なぜか私だけが、足が床についていないのである。・・・?( ショボン )小学校4年生4月の時の担任の先生の名前は〇〇先生といってとってもふとっている女の先生だった。その先生は、すごくおっかなかった。その当時、いたずらっ子の私達はいつもおこられていたものだ。でも、今思うと、やっぱりいい先生だったんだあ~と思う。小学校6年生小さい時からの腰痛が、慢性の盲腸という結果になった。手術室の中で、「 死ぬ~、まだ死にたくない~お母ちゃ~ん 」っと大声で叫んだのを覚えてる。( なんと・・・はずかしい・・・ )修学旅行で広島の平和公園に行き、原爆のおそろしさが、身にしみた。中学校1年生最初、友達が出きるか心配だったが、そのうち、友達もでき、親友もできた。とってもうれしかった。中学校生活、いちばん最初の試験、中間テストが行われたが・・・成績がすごく悪かったのにはびっくりした。やはり、小学校とちがって、自分自身計画を立てて、しっかりしなければいけないと思った。中学校2年生この1年間は、一日一日がとっても早く感じた。あまりのんびりしすぎたようにも思った。もう高校のことを考えなければいけないと思いながら・・・1年が過ぎていってしまった。そして、今楽しい思い出も、あっという間・・・過去をふりかえってみるといろいろなことがありました。今までのことがあったからこそ私は、ここまで育ったのだと思います。そして、今、私は、このいろいろな思い出を胸にひめ、自分の希望へとつき進もうと思っています。 卒 業 卒業って聞くと、なんとなく悲しい 本当は、いい言葉なのよね とっても短かった3年間 せっかく知り合えた友達とも わかれわかれになってしまう・・・ また、いつかめぐり合う日がくるよね だから・・・その日まで・・・ さようなら
2021年12月16日
バ レ ー ボ ー ル に青 春 の せ て はるかなる光と風の中 コートにかけた私の青春 汗と涙の輝く中 ボールにかけた私の青春 忘れたくない 忘れない 6人の仲間とコーチ あの感激のホイッスル 私は忘れたくない 忘れない 6人の仲間で流した涙の色を 私は忘れたくない 忘れない 6人の仲間できずきあげた 友情を・・・ち ょ っ と し あ わ せ私がこの3年間をふりかえって、たのしかったいや、うれしかったことがある。あの感激は、いまでもおぼえている。私が2年のときの思い出で今年ある予選会のことである。私たちは3年とあたり。勝ちめはないと思っていた、でも全力を出してぶっかっていったせいか、うんよくかってしまった。私たちは一歩進み、またこの調子でがんばろうと。とてもうれしかった。3年生には、きのどくに思えた。でもそれはしかたがない。こんどあたる相手は同じ3年でもとてもおそろしかった。試合がはじまると、試合中にやじをとばしてはいけないことになっていた。私たちはけっきょく負けてしまった。がもしやじをとばさず、せいせいどうどうと戦っていたら、お互いの気持ちもよいし、もしかして私たちがかったかもしれなかった。 くやしい!!だけど、私たちがいちばんうれしかったのは、いつもはたよりない男子だったのに、とてもいいことを黒板に書いていてくれた。くやしさとまけて泣いていた私たち。この黒板を見るなり私たちは、くやしさの涙がいつのまにか喜びの涙にかわっていた。私にとって、この思い出が、記憶に残り、又は忘れられない。ちょっとまじめに書いたかしら。みんなも自分の思い出を大切にネ!!
2021年12月15日
お い た ち の 記誕生ー〇月〇〇日、家の2階で「 オギャー オギャー 」と生まれてきたのが、可愛い私である。私の名前は、近所にいたおぼうさんにつけてもらった。1か月ー〇月〇日、私のすぐ上の姉( 5歳 )が病気で亡くなった。病名は、〇〇〇〇だった。3歳ーこのころは、3輪車が好きで、一日じゅう近所の友だちとのりまわしていた。5歳ー幼稚園へいきだしたのは、このころでもあった。園児の中には、とても意地悪な友だちがいて、幼稚園の帰りにいつも泣かされて帰ったもんだ。小学校1年ー入学式が待ち遠しくて、いつもランドセルをせおっては遊んでいた。夏休み中に自転車の練習と水泳の練習をした。自転車の練習は、何回もおっこちて足が傷だらけになったことをよく覚えている。水泳の練習も、何回もおぼれかけていたことも覚えている。小学4年ードッチボール大会の練習を見学にいって、がけから落ちて手首の骨を折ったらしく、自転車をおして帰った。すぐ病院に行き、レントゲンをとった。やっぱり骨が折れていたので、ギプスをして帰った。次の日、学校へいくのがとてもはずかしかった。大型トラックの角で頭をうち、血をながしたこともあった。この年は、おてんばの度がすぎたので、けがばかりしていたのかもしれない。小学校6年ー1年年下の男の子とけんかをして、泣かされて帰った。小学校を卒業するのと同時に、仲の良かった友だちが〇〇へ引っこしていった。とても寂しかった。中学校1年ー真新しいセーラー服を着て、入学式にいくのが、少しはずかしくて、てれながら入学式にいった。知らない友だちが多くて、中学生活になれるので、せいいっぱいだった。中学校2年ー修学旅行は、とても楽しかった。この頃が一番楽しかったので、もう一度2年生にもどってみたいという気がある。そして今ー後数週間で、中学3か年を終わろうとしている。そして、また一歩おとなへの世界に入ろうとしている。しかし、おとなになっていく自分を見ながら、私も多くのおとなと同じように、子供の頃の思い出を忘れたおとなになっていくと思うと、不安やさびしさを感じる。 goodーby
2021年12月14日
卒 業この3年間は、今思えばとても早く過ぎたように思います。でも長く感じたイヤな日もたくさんありました。悲しかったことやつらかったこと、苦しかったことなどいろいろありましたが、今は、それもよい思い出となっています。1年生のころは、何もかもがめずらしく新しく感じた時でした。1年生の時の国語の教科書に、何もかも見慣れてしまってはおしまいだ いつまでも新鮮な心を持ち続けようというようなことがかいてあったように記憶しています。やっぱりいつになっても新鮮な心を失わないということは、とてもよいことだと今、つくづく思います。もうすぐ卒業、なんだかぜんぜん信じられないといったカンジ。まだまだ勉強することがたくさん残っていると思っているせいかもしれない。私は今、後悔していることがたくさんあります。一つは、2年生の時のことです。毎日をのんびりすごしていた私は、成績の下がったのも気にせず、何がおころうが平然としていました。この時の、のんびりムードが3年になってつらい思いをすることになったのです。2年の時、本気でやらなかったから、ワカルワケナイノダ。今思っても遅いのだけれど、2年の時もっとまじめにやっておけばと反省しています。みんなも、卒業してから、後悔などすることがないように、若さを力いっぱいぶっつけて、すばらしい青春を人生を歩んでいこう!! 青春のひざしを うけながら 今 卒業していく私たち すばらしい青春の 一コマをおくった私たち なつかしい思い出と 経験を心に秘め 今はばたこうと している。 サヨウナラ E N D
2021年12月14日
3 年 間 を ふ り か え っ てすぎてみれば、3年間なんて本当に短いものだとつくづく感じました。でも、その3年間というものは、本当にかけがえのないものだったと思います。中学校に、入学した頃は、まだまだと思っていた受験なのに、ほど遠い別世界のでき事のように思っていたのに、あと1週間くらいに迫ってきました。なんだかあの頃から、今まで、いっきに飛び越えたような気さえしてこないでもありません。でも、思い出してみれば、いろいろとなつかしいなあと思うことがたくさんあります。あの頃に、もう一度帰ることができるなら・・・・と思うことがしばしばあります。1年生の最初の期末テストのために友達と昼食の時間もおしんで猛勉強をしてみました。2年生では、ますます英語の授業がおもしろくなって、英語が一日中あればいいなあ、なんて思ってもみました。それから月に1・2回のレクレーション。なんだか、急にみんなと親しくなれるような気がして幸福感をかみしめたこともありました。3年生になって、本当に自己というものをみつめ直したような気がします。本当に学校生活が楽しく感じられたのは、友達がいたからこそです。だから思い出も友達との思い出が多いのです。友達というもののありがたさといったものも、わかったような気がします。そんな友達ともあと数日で別れます。旧友は旧友として友達でありたい。そして新しい生活の中でまた新しい友達を持ちたいと思います。そして3年間の中学校生活で3学期の今が、一番充実しているような気がします。
2021年12月13日
思 い 出3年間もあっというまにすぎてしまいました。この3年間の間、いろいろなことがありました。中学校に入学してきたときはおそろしくていやな気持でしたが、日がたつにつれて中学校生活にもなれ楽しいひとときでした。2年生になって私は、こんなことを思いました。中学校に入学した時にはおそろしい気持ちだったが、だんだん年がたっていくうちに楽しい気持ちになりました。2年には大きな行事があった。それは修学旅行だった。あの時は楽しい旅行だったと思う。それは、第Ⅰ日めの旅館だった。班でざぜんをくんだり、いろいろな話しをした時です。あの日は、とても楽しくて、いま思い出すともう一度、みんなとあの旅館にいってみたいなあと思う時がありました。いま、中学校生活もおわろうとしています。この3年間、いろいろなできごとがあったと思いました。私はかなしい時、くるしい時もあったけど、たえてきたと思います。なにか、かなしいことやくるしいことがあってもくじけないで、がんばりたいと思いました。このことをわすれないでがんばりたいと思います。
2021年12月12日
青 春 色 の ポ エ ジ ー 心のとびらひらくとき そこにひろがる 青春の味 私の宝石箱をプレゼント 青春 その1 ミルク色 幼なじみ 幼なじみ ころんで どろんこ 戦争ごっこ となりの となりの 男の子 青春 その2 初恋色 彼 ちっちゃな初恋 彼 白いマフラー 彼 ブラウンの瞳 長いまつげ 彼 ちっちゃな初恋 あなたのためなら たとえ火の中 水の中 どんな苦労もいといませぬ!! ( ちょっとしたあいきょーサ ) 青春 その3 おもいで色 ゆめいっぱいの 顔・顔・顔 すてきな すてきな ゆめをおって おもいで おもいで 春の日の おもいで おもいで 青春の一ページ 青春の一ページ 青春・・・・・
2021年12月12日
卒 業今年も、もうねこやなぎが芽を出す季節となった。長いようで短かったこの3年間をふり返ってみて、私自身やるべきことができていなかったように思う。あれもしたい、これもしたと思いながらも、何ひとつ満足にできず、ただなんとなく終わってしまったように思う。しかし何かしら、大きなものを学び得たような気がしないでもない。おい立ち and 思い出昭和〇〇年〇月〇〇日、元気な〇〇ちゃん誕生。かわいらしさは、ぽちゃぽちゃとしてキューピー顔負け。写真を見れば皆も納得するだろう。2才 この年から〇〇ちゃん、梅焼酎の味を覚える。だれも留守の間、一人でこっそり、戸棚から梅焼酎の入っいる瓶の中の梅を、ぱくぱく口の中にほうりこんだ。父母が帰ってびっくり。〇〇ちゃん真っ赤な顔をしてニターとぶきみな笑い。( なあに愛きょうさ )こんなこともあったなあ中学1年、 不安と希望がいりまじった、ちょっと複雑な気持ちと共に入学。入りだちは、なんとなくいごこちが悪く、奇妙な感じだった。1ヶ月、2ヶ月たつうちに、自然となれてきた。小学校時代、中学は、おそろしいというイメージが強かったため、なれてくるにつれて、内心ほっとした。いちばんおそろしかったことといえば、応援練習だった。中学2年、 なんといっても、修学旅行の思い出が、いちばん心に残っている。偉大な阿蘇山は、今でも忘れることができない。中学3年、いよいよ、中学校生活もあと1年を残すばかりである。この1年間で最初の人生が決まる。努力しだいである。そう思っているうちに、早くも3学期となった。 そして卒業。これから私達は人生の第一歩を歩んで行く。力いっぱい、そして、確実に。私達の青春はこれからはじまる。悔いのないよう、何事も、着実に生きていこう。努力、そして努力。”” 努力こそ栄光の近道である ””
2021年12月12日
3 年 間 の 想 い 出「 ねぇ、いつごろ行けばいいの? 」「 今ごろ行ったら間に合う? 」なんて、そわそわどきどきしていたのは、入学式の朝、もうあれから3年になるんですね。今思うと、なんてはやい3年間だったのだろうと思うのです。そこで3年間を思い出すことにしました。まず1年中学校にはいったばかりで、なんだかみんなとなじめなかったけど、日がたつにつれて、だんだんなじめるようになりました。1年で一番いやな想い出が、「 勉強 」だったんです。いつも、なまけてばかりいたので成績は、あまり良い方ではなかったんです。今思えば、とてもくやしくそして残念でなりません。良かったこととして、最初の運動会で優勝できたということなんです。とってもうれしかったんです。だって、優勝できるとは思ってなかったんですもの、けれど、みんなが協力したから勝てたんですネ。きっと””次に2年一番最初にでてくることは、やはり「 修学旅行 」ですネ。ことばに表すと「 すばらしい 」「 楽しい」という二言なんです。 みんなはどう思いましたか?とにかく、本当に楽しい二泊三日の旅行でした。他に勉強の成果が上がってきたんです。どうしてかはわからないんです。でも本当にどうしてなんでしょうネ。そして「 予せん会 」、私たちは、良いところまでいったんですが、負けてしまいました。それでだいたいの人が、くやしくて泣いたんです。その上、男子の思いやりにまた、泣いてしまったんです。きっと、うれしかったんですネ!私にとって2年というものは、「 飛躍 」そして「 感激 」だったようでした。そして、今は3年、なんと長く短かかった3年間だったのだろうと思うのです。その3年も、あと少しで終わりなんて、ちょっとさびしく、思いませんか?あと残り少ない数日間を中学生活の締めくくりとして、立派に過ごしていきたいし、卒業後も、立派に過ごしていきたいと思っているんです。みなさんも、がんばってくださいネ。
2021年12月11日
想 い 出昭和〇〇年男の子かなあっと思ったら可愛い女の子( Me )が誕生、七五三の時、あめをしゃぶって顔を見あわせながら映っている写真が2枚、あの頃は可愛いかったな~~~小学校に上がってみんなとよく勉強し?よく遊んだものだ。中学校この3年間、長いようで短かかった。悲しいこと苦しいこと楽しいこと、いろいろ悩んだこともありました。しかし、今ではそんなこともなつかしい思い出、入学でおじとぶかぶかの制服、ホワイトネクタイしめて教室へ、みんな知らない顔が勢ぞろい、誰がどんな性格さえわからなかった。日々はすぎ、何人かの人と交友関係を持つことができるようになった。中学校になってはじめての運動会、みんな一生懸命がんばりくいのない1日でした。でも中学校生活での一番の思い出は、2年の時の修学旅行、夜おそくまで大騒ぎをした事、あの時のすばらしさは一生心に残る事でしょう。それから新人戦、練習が不十分のためか成果は・・・試合前には足がガタガタ胸がドキドキ、でも一生懸命やりました。3年からはやっぱり入試の事が気になりました。日1日1日が近づいていき気はあせるばかりです。今思えば計画を立ててしていればと、くやむばかりです。そして現在入試も終わりあとは卒業をまつばかりとなりました。少し不安もあるけれど学生生活のこのよき思い出を大切にしていこうと思います。そして誰からも愛される人間へ真心を大切に、最後に一言!! 3年間の日々よ さようなら みなさんさようなら ♡ め ぐ り あ い ♡ めぐりあい それは別れのテーマ!! 別れ それはめぐりあいのテーマ!! いずれ別れゆく友 いずれめぐりあう友 そしてまた そこで確かめあう心と心 ふれあい 感動・感激 友と出会いと別れの中で 真実を確かめあおう めぐりあい それは別れのテーマ!! 別れ それはめぐりあいのテーマ!!
2021年12月10日
詩 別れが来たら 私どんな顔をすればいいの? 涙流すかしら、それとも笑うかしら できるならばあなたの前で 涙みせずにほほえみうかべて 「 さよなら 」っていってみたいな私は〇月〇日になったばかりに生れたそうだ。その夜は大雨がふっていたそうです。名前はとなりのおじさんやおばさんたちがいっぱい名前を考えてくれたんですって、その結果、「 〇〇 」という名前になったのです。となりのお姉ちゃんたちとかくれんぼしたり、おにごっこしていたのが5歳のころだったよ私はネ 男の子と良く遊んだっていつも母さんがいってた。小学校一年生入学式、むねをはずませていい服きてたの良くおぼえているよ。小学5年私の大の仲良しが〇〇の小学校に転向しちゃってさとってもさみしかったんだよ。小学校6年サッカーやソフトボール、卓球やバスケットしても遊びに熱中、こんな私でも卒業式に涙がちょっぴり出ちゃた。おどろきでしょ。中学1年生不安と希望をいだいて入学した。私の通った学校からは1人だったので友達を作るのに時間がかかってしまいました。いちばん最初はMさん友達になりました。その人とは何でも話せる友達でした。中学3年生こうしてみると長いようで短かったぎむ教育9年間、ちょぴりさみしいな。高校に入ったら同じ高校をえらぶ人もいるがたい半のものはちがう高校へと進学していくのであるが、みんながんばって楽しい高校生活を送っていくように努力していこう。 青春に力いっぱい アタックしてみよう 青春のひとこまを大切に!! goodーby 海 つらいとき くるしいとき 海に行けば さざなみがそっと見まもってくれる さみしいとき かなしいとき 空をあおげば太陽の光が やさしくささやいてくれる もう涙なんか出さないよ 明日というすばらしいものが あるから ネ !!
2021年12月10日
青 春 の 第 一 歩中学生活の特に印象に残っていることそれはバレー部入部、それにつき少々。近所の先輩にさそわれて入部希望。現実は厳しく練習をさぼったり、病気のため参加できな日もあった。1年がすぎ私たちも晴れのコートでプレーする日が訪れた。私はAさんとともにセッターに抜擢された。ネットぎわでアタッカーにトスを確実にあげる。目立たないないが重要な役目だということはいうまでもない。やるからにはAさんにひけをとらないようにしたい。そう思い、くる日もうる日も( アタックをうちたいでも・・・ )トスをあげる練習にあけくれた。自信もある程度持てるようになった。そんななかで、バレーの仲間はとてもいいライバルであり、友であった。試合には恵まれない私たちだったがチームワークはバッチリだった。試合で知り合った他校の生徒とも親しくなり、よき話し相手なれた。同じコートでプレーするそれだけで心が通い合い楽しく会話できる。そんな時バレーしをしていて良かったとしみじみ感じる。また部員のみんなと会話し、笑い、泣き・・・・そんなことが私にはチームメイトを持たない人たち対する心ひそかな自慢だった。今私は高校進学を前にして猛勉強中(?)だから高校でバレーをするかは考えていない。どっちにしろバレーして味わった、口ではいえない何か、チームプレーのすばらしさ、私は青春の一歩をバレーというスポーツで踏み出した。そしていつの日になるかスポーツでおわらせたい。だから高校生活も第二にスポーツに若い体をぶつけたい。バレーによって得たすべて、思い出を私は決して忘れない。ありがとう。私にスポーツのすばらしさをおしえてくれたバレーボール。部員のみんな さようなら。 私の好きなことは Going My way 生きていること 喜怒哀楽 いつの時でもどんな時にも 私の好きなことは Going My Way 別 れ 別れ それは限りなく 来る日も 別れ それは果てしなく 広く 別れ それは美しく 涙あり 笑いあり 別れ それはすばらしく青春の序曲 私たちは今別れゆく それぞれちがつた 大きな道へ別れゆく まためぐり遭える日を その日を楽しみに 明るく一言!! さようなら・・・
2021年12月08日
ポ エ ム 赤 ち ゃ ん 赤ちゃんていいな 天使みたい キャベツ畑から生まれるって ほんとかな? 神さまの贈りもの 赤ちゃんて可愛いな 天使みたい コウノトリが運んでくるって ほんとかな? 神さまの贈り物 赤ちゃんていいな 天使みたい と な り の い じ め となりのケンちゃんは いじめっこ かけっこも木登りも 一番だけど いじめっこ お菓子も風船も いつもとりあげてた いじめっこ 白い雲が ポッカリ浮いた日 宝物くれて どこかへ 引っ越していっちゃった お 留 守 番 お留守番の昼さがり お嫁さんになりたくて 赤い着物を着てみたのです ナフタリンの匂いがして なんだか泣きたくなったのです おしろいつけて口紅つけて 髪にリボンも飾ったのです 赤い鼻緒のポックリ 廊下をそっと歩いたのです ポックリの鈴がおいかけてきて こわくてお部屋にかけこんだのです だあれもいない家の中 時計がカチカチと泣いていたのです お留守番の昼下がり 障子の影がのびてたのです 愛 の 花 覚えているかしら 去年もこんなふうに 淡い光を まとって咲いていた この人群れの すみれたちを 覚えているかしら すみれたちは 去年もこうして 通りすがりに 声をかけたことを 願わくば私たちも 野の花のように 季節とともに よみがえり かわらぬ 愛の花を咲かせたい
2021年12月07日
今 思 う こ とこの3年間、ふり返ってみて本当にアッという間でした。入学式の記念写真を見てみるとマァなんと男子諸君が、今では見違えるほど大きくなったこと!ブカブカの制服でカメラの前に立っていた彼らが・・・いろいろな思い出が私の頭の中にあふれてきます。その中でも特に、色濃く残っていることといえば・・・そう、やはりつらかった部活動のことです。なで陸上部を選んだのでしょうか?気がつくとどういうわけか陸上部にいました。モンタ、タツコ、アーちゃん、4人そろってよく練習をサボリました。先生にどなられたこと、リレーで負け、くやしくて大声で泣いたことなど次々とよみがえってきます。こうしてあげていくと、楽しかったことより、つらいことの方がはっきりと記憶にあるのに気づきました。人は、こんなふうに苦しいことのつみ重ねで人間性豊かになっていくのでしょう。暖かい毛布にくるまっていたのでは決して強くはなりません。私の生活にもそういうところが多分にあります。こんなふうに考えてくと今では、あの苦しかったことが、とてもなつかしく、もう一度倒れるまでやってみたいような気さえします。前は、イヤでイヤでたまらなかった練習ですが、どういう心境の変化でしょうか。高校になれば、もう運動を思いきりやるというようなことはないでしよう。そこで私は、他のことに、そのきびしいものを求めます。それが何になるかわかりませんが、とにかくやってみるつもり・・・いえ、絶対にやろうと思います。最後に私の大好きな〇〇〇サマのイラストと歌の一節でおわります。 ☆ 走 れ あ し た へ ☆ 走れ! 走れ! 何もおそれずに はるかに続く道の果てまで たとえ今が嵐の毎日だって いつかまぶしい空が ほほ笑むその日が 来ることを信じて 走れ! 走れ! 君だけのあすへ 生きてるその印を探しに THE END
2021年12月06日
青 春 を 賭 け るあっという間に過ぎ去った3年間であったが、楽しく忘れられない思い出をつくってくれたのが、テニスであった。昭和〇〇年4月、「 エースをねらえ! 」の影響か何の影響だかいまだもって不明だが、テニス部に入部し、球拾いをへて、やっと5月に、グランドストロークを教えてもらったのでうれしく、早く「岡ひろみみたいにじょうずになりたいと」思って、いつもラケットを持って行ったり帰ったりの毎日であった。( これはほんのほんの冗談。 あ、ところで、かの有名な岡ひろみ嬢が、登場しますので、盛大な拍手を ! )そして6月、〇〇中にて郡庭球大会がおこなわれた。その時、meは、meと同年のテニスをしている人は、みんなじょうずだろうなあ~」と、疑問に思い、また、絶望感を感じたが、その日からは、ボールにおいつこうとして、ひっしになっておいまくった。7月になって、バックストロークやボレーなどを教えてもらった。そのころ、自分でも上達したなあ~と実感がわいたが、岡ひろみのようには、ほどとおいだろうなあ ーーーーー ( ウン )10月、新人戦がまたここで、おこなわれた。meも選手として参加したが、これが最初で最後の大会となるかもしれないと思うと、ドキドキして、日ごろの実力が発揮できなくて、全然だめであった。( ほんとうに、実力あったの ? )( さあ ~ )「 昭和〇〇年 元旦 」明けましておめでとうはん本年もよろしゅう6月20日、〇〇中にて郡庭球大会が、おこなわれたのである。新人戦の時より、まだむごい負けかたであったが、今思うと、あさはかな感じがする。これからも、テニスによって思い出をつくりたいし、藤堂さんみたいな人をみつけるために、高校へ進学してもテニスを続けたいなあ~
2021年12月03日
15 年 間 を ふ り か え っ て私が生まれたのは昭和〇〇年〇月〇日のいつかわからないけど体重?正常で元気に生まれました。生まれだちのころは女の子か男の子かわからないぐらい見られない顔であったらしい。でも今は美しくポチャポチャとしてかわいらしいのであります。これはいいとして、そうして私は保育園へ通うことになった。小学校へ行くまで3年間もいった。もう初めはいくのがいやでだだこねて泣いたこともあったのを覚えてる。でもいっているうちに友達もできて自分から進んでいくようになった。そうして保育園を卒業して小学校へと向かった。小学校をどういう所かをしらなかったころは毎日が楽しくてたまらなかった。学校へいっているうちに勉強することを覚え、勉強するのがたいぎっていうように思い出した。運動はわりとできた方で運動会ではずいぶんと活躍した。小さい時から運動神経はバツグンの方だった。頭の方ももっと発達すればいいのに勉強の方ハダメ!学校から帰ったらすぐ近所の友達、男の子たちとチャンバラなど男の子がするようなことばかりしていた。そのせいかやることなすことが男の子みたいにらんぼうでざつだった。今もそれがなおらない。これじゃあお嫁にいけないなーーこまっちゃう。でもじつは決めた人がいるの、その人は沢田研二 ウフフ…冗談。今前のことを思い出してさぐってみるといろなことがあったんだな~アみな私の記憶に残っている。それがつい最近のことのように思える。そして私は一歩一歩とおとなへの道へ前進していった。S〇〇年、新しい気持ちで胸をはずませ中学校へ入学していった。他の小学校の人たちともすぐに友達になり楽しくすごせるようになった。なんだか3年生がこわくてびくびくしておびえているようだったけど、そのうちに私が最上級生となってしまった。3年生という年はいちばん忙しくてたいへんな年である。いちばんいやなのが入試、そして卒業、でもこの1年、いやなことも何度かあったけれど楽しいこともたくさんあった。最後の運動会だけあってすごく迫力があぅた。でも私たちはがんばったけれど負けてしまった。私はこの3年間一度も勝ったことがない。まあいいや、これも一生の思い出として残るだろう。そして遠足もなんともいえない3年のいい思い出でありマァ~ス。球技大会で女子はバレー男子はサッカーだった。バレー私たちは決勝戦までいったが、おしくも1年生に負けてしまった。はずかしいな~胸からボンボンってくるからマイッチャウよン予餞会ではヒップでボンボンっておかえしを・・・あとは卒業をまつだけとなってしまったけれど、この15年間、いろいろな出来事があった。そして今日S 〇年3月2日中央で野口五郎ショーがあり私は見にいった。これもいい思い出デース。15年間にいろんなことを勉強しえた。私は小学校で中学校でいろいろな友達としりあって信頼・友情を深めあった。これからもこれ以上に関係を深めて大きく飛びたちマース。私の友達へ一言、今までどうもありがとう。これからも広くいつまでも交際していこうネ。いつまでも絶えることなく友達でいよう。今日の日を夢みて希望の道へ空を飛ぶ鳥のように自由に生きよう今日の日はさようなら またあう日まで信じあう喜びを大切にしよう今日の日はさようなら またあう日まで今日の日はさようなら またあう日まで
2021年12月01日
青 春 の ひ と こ ま私は、今この中学校をさろうとしている。思えば3年前、胸ふくらませながら入学してきた。入学してまがない私はやることなすこと楽しかった。友達もたくさんできた。そして友達とあこがれのバレー部へ入部した。私はバレーができるということだけでうれしかったので、夏休みなども本気ででた。しかし、冬のトレーニングになるとよくなまけたものだ。2年のとき、〇大に補欠でいったとき、のどがつぶれるかと思ったくらい大声をあげた。2学期になると、2年主体の練習なのでみんな毎日出るようになった。そして、新人戦、私はセッターにレコをまわされた。私はほんとはアタッカーなりたかった。あまりよくない結果だったので、〇大こそはと思った。それから私はバレーの練習をしっかりした、チームワークができたと思った。そして3年、〇大も近づいてくると少しの時間でもおしいと思った。3年になっても私はアタッカーにはなれなかった。こんどもセッターになった。〇大が目の前にせまったとき、私はチームワークには自信はあったが、勝てるかというのは不安があった。〇大の結果もおもわしくなかった。そのときは、みんなでワンワン泣いたっけ。3年の2学期、バレーができなくなり、私は、なにかものさびしい気がした。だから、私は放課後、2年が練習しているところを見にいったこともある。私はも一度バレーがしたいなあと思った。みんなもそう思っていたただろう。私は高校へ行ってもバレー部へ入部するつもりである。これからはみんなちがう道へいくが、私はみんなとともに泣いたり、わらったりしたことをわすれない。高校へいっても、どこへいっても、わすれない。いつまでも・・・
2021年11月29日
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