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【新解釈・三國志】新型コロナの影響もあり、今年のお正月は在宅の方が多いのではないでしょうか?初詣ぐらいはと思う方々もおられると思いますが、一般的な風邪のようなものでさえ、たいていは大混雑で密になった状況下で感染するものなので、ここは一つ自重が必要なのです。デパートでの初売りも毎年楽しみにしておられる方々にとっては、今年は思案のしどころだったでしょうね。福袋は私も大好きですから、こんなときこそネット通販を利用するのも英断なのではと。(もちろん、福袋以外の買い物についても)まだまだアナログの私は「買い物たるは実際に手に取って目で見て確認してから」と言う考えに固執して来ました。ところが人間なんて愚かな生きものですよ。amazonで気軽に注文して自宅まで配送してもらえる行程を知ってからというもの、この合理的な手段で買い物を済ませることが圧倒的に増えたのです。(お急ぎ便なら遅くても翌日到着ですよ!)そこには人との触れ合いや会話のキャッチボールもない代わりに、未知の病原菌から遠いところにいられるのです。万事あれもこれもと言うわけにはいきません。一方を追求するとき、他方を削ぎ落としていくーーそれが合理性と言うものなのかもしれません。昨年末、私は久しぶりにシネコンに足を運びました。私にとって人生を懸けた愛読書である『三国志』が公開されたからです。と言ってもこの作品は完全なるオリジナルで、そのタイトルも『新解釈・三國志』とな。一体どんな内容なのかとワクワク感を隠しようもなく、一番乗りで席に着きました。トイレに立つのがおっくうなので、飲み物は購入せずポップコーンのみ。(こんなときにも合理的な私です)空腹を満たすには充分のボリュームでした。上映時間が近付くにつれ、場内はワサワサと人が増えて活気に包まれました。みんな〝笑い〟とか〝楽しさ〟を求めて来ているのでしょうね。閉塞感を打ち破りたい同朋が私の周囲を埋め尽くしていきました。『新解釈・三國志』についてはいまだ公開中のため、ネタバレを避けるためにも詳細は割愛します。カテゴリは【歴史】に分類してみたものの、イマイチしっくりときません。ジョン・ウー監督の『レッド・クリフ』と同列に並べるべきものではないし、かと言ってコメディとも違い、今回ばかりはカテゴリ分けに悩みました。注目すべきはそのキャラクターの濃さ(?)でしょうか。義理人情の篤いはずの劉備は、こちらの作品においてはすっかり腰抜けの臆病者に成り下がっているし、一騎当千の豪傑であるはずの趙雲がイケメンであるがゆえのナルシストになっているし、何より、大天才軍師・諸葛孔明など女房の尻に敷かれたダメ亭主という残念なキャラクター設定。「えーっ!それはないでしょう〜⁈」と突っ込みどころ満載でした。始終、上映中はクスクスと笑い声の絶えなかった作品は今回が初めてではないでしょうか?私も驚愕のあまり思わず椅子からズリ落ちそうになってしまったシーンがあるのですが、それは三国志において、絶世の美女と謳われた貂蝉の登場シーン。一体どちらの女優さんが抜擢されたのだろうかと心をときめかせていたところ、「えーっ⁈」と会場からどよめきが!な、なんと、ぽっちゃりキャラの渡辺直美が貂蝉役とな?!まぁ、確かに1800年もの昔はふくよかな女性が美人とされていたには違いないとは思いますが・・・世の中、合理性ばかりが追求されて本当に大切なものがかすんでしまうような状況です。バカバカしいことでもふざけた内容でも大切なのはひと時の娯楽です。史実から逸脱し、一ミリの感動も提供されず、合理的であることなんかムシして、心の底から笑いたくなる、そんな作品でした。本年も吟遊映人を何とぞよろしくお願い致します。2020年12月公開【監督】福田雄一【出演】大泉洋、ムロツヨシ、小栗旬、渡辺直美
2021.01.03
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【ザ・ウォーク】「見ろよ! 僕らは世界に証明したんだ。何事もやってやれないことはないんだと」「タワーが違って見えるな」「うん、たしかに。君があの上を渡ったからだよ」「今やNY市民はみんなタワーのファンだよ」私は高い所がそれほど好きではない。しっかりとした建物の最上階から下界を眺めたりするのは問題ないけれど、一歩間違えたら崖の下へ真っ逆さまみたいな場所はご免被る。『ザ・ウォーク』は、そんな私にとってDVDで見るぐらいがちょうど良かった。他の人のレビューでよく見かけたのが、「劇場でしかも3Dで見た方が良い」との意見だが、そんなリアルを味わったら気持ち悪くなりそうだ。(DVDで見ているだけでも度々めまいに襲われ、ヘトヘトになってしまったぐらいだし。) 『ザ・ウォーク』はフランスの大道芸人フィリップ・プティの実話に基づいた作品である。1970年代、ニューヨークに建造されようとしていたワールド・トレード・センターの北棟と南棟にワイヤーを張り、綱渡りのチャレンジをしたフランス人の物語だ。冷静に見たら、そんな無謀で非合法な挑戦を芸術とか美学などととても言えたものじゃない。だが見ているうちに段々とマヒして来るのか、時間を追うごとに、そんな無茶な綱渡りに成功して欲しいと願うようになるのだから不思議だ。 ストーリーは次のとおり。フランスの大道芸人フィリップ・プティは、小さいころからサーカスの綱渡りショーを見るのが大好きで、自分も実際にやってみたくなり、よくマネをして遊んでいた。ろくに勉強もせず、サーカスのマネゴトばかりしていたせいで十代の半ばに父親から勘当され、それからはフランスじゅうを放浪しながら芸を磨いた。あるとき、新聞でニューヨークに建造されようとしていた2棟のワールド・トレード・センタービルを見てひらめいた。このマンハッタンにそびえ立つ2棟の高層ビルにワイヤーを張って、命綱なしで渡ってみたいと。フィリップはそのためにすぐさま協力してくれる仲間集めを始めた。時間は限られている。ワールド・トレード・センターが完成する前に決行しなくてはならない。念入りに計画を立てねば、1ミリのミスも許されない。1974年、いよいよフィリップは渡米するのだった。 主人公フィリップ・プティに扮したのはジョセフ・ゴードン=レヴィットだが、正に熱演だった。フランス人らしくちょっぴり生意気でスマートな身のこなしは、実在のフィリップ以上にフィリップらしく感じさせるものがある。メガホンを取ったのはロバート・ゼメキス監督で、代表作に『フォレスト・ガンプ』や『キャスト・アウェイ』『コンタクト』などがある。この監督が手掛ける作品に共通するのは、とにかく「時間との闘い」である。限りある時間を最大限のところまで有効活用し、目的に向かってひたすら突っ走る。後戻りはできない人生を映像の世界で表現しているような気さえする。今はすでに跡形もないワールド・トレード・センタービルだが、この作品を見ると、ゼメキス監督が得意とする過去と現在と未来の往来を果たしたような錯覚に陥る。カテゴリとしては【伝記】に分類したが、【SF】にも通じる世界観を垣間見るのである。 2015年(米)、2016年(日)公開【監督】ロバート・ゼメキス【出演】ジョゼフ・ゴードン=レヴィット
2017.08.06
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【カポーティ】「たとえて言うなら・・・ペリーと僕は一緒に育ったけれど、ある日、彼は家の裏口から出て行き、僕は表口から出た・・・と言うことだよ」前回見た『アニー・ホール』に、トルーマン・カポーティのそっくりさん役としてご本人トルーマン・カポーティが出演していた。それを見たらなんだか無性に『カポーティ』を見たくなってしまった。カポーティと言えば映画『ティファニーで朝食を』の原作者でもあり、アメリカではたいへんな人気作家であった。とはいえ、その独特な風貌と喋り方などから注目を浴び、何かとメディアの標的になったようだ。カポーティのスゴさは、何と言っても同業者である作家たちの中にもたくさんファンがいるということだ。たとえば村上春樹はカポーティを敬愛し、『ティファニーで朝食を』を翻訳もしている。あるいは松本清張などは『ミステリーの系譜』において、カポーティの『冷血』から風景描写を引用し、その表現力を「劇的(ドラマチック)」と評価している。さらにはカポーティが来日した際、三島由紀夫とも面会しているのだ。そんなカポーティ晩年の代表作ともなった『冷血』の完成までのプロセスを描いた作品が、映画『カポーティ』なのである。 それまで人気作家としての地位を築き上げて来たカポーティではあるけれど、晩年はなかなかヒット作を書けずにいた。そんな中、1959年カンザス州の田舎町で一家4人惨殺事件が起き、カポーティはこれを取材し、その詳細を本にしようと思ったのだ。 ストーリーはこうだ。1959年11月15日、カンザス州の田舎町で一家4人が惨殺されるという凶悪事件が発生する。ニューヨーク・タイムズ新聞でこの記事を読んだカポーティは、がぜん興味を持ち、すぐさま現地へと取材に向かう。同行者である幼なじみのネルと一緒に事件現場や関係者を訪ねて回るさなか、二人の容疑者が逮捕される。いよいよカポーティはこの事件をノンフィクション・ノベルとして世間に発表したいと思い立ち、二人の容疑者らへの取材を申し込む。カポーティは、犯人の一人であるペリー・スミスと何度か面会を重ねるうちに、妙な友情めいたものを感じ始める。それは、自分と同様に家族から愛情を得られず、見捨てられた過去を持つ犯人に対する共鳴のようなものだった。だが一方でカポーティは、いずれ死刑を執行される犯罪者の最後の最後までを残酷なまでにリアルに書いて、世間からの評価を我が物にしたいという欲望もあった。カポーティは、これまでにない不思議な創作意欲に駆られるのだった。主人公トルーマン・カポーティに扮するのはフィリップ・シーモア・ホフマンである。いやびっくりした。ほとんどご本人そのものである。声の出し方や喋り方なんか、どうやって研究したのだろうか?これからもさらに独特なキャラを演じて、たくさんの映画に出演してもらいたかったが、すでにお亡くなりになられた。とても残念。(この『カポーティ』においてフィリップ・シーモア・ホフマンは、アカデミー賞主演男優賞を受賞している。) 『カポーティ』を見ていると、作家というものがいかに業の深い職業であるかを思い知らされる。いろんな捉え方があるのだろうが、私はシンプルに、ピークを過ぎた作家の邪悪な側面がクローズ・アップされた作品だな、と捉えた。とはいえ、人間なんてみんな五十歩百歩なので、カポーティを偽善者だと批難はできまい『カポーティ』は伝記ドラマとしてとても見ごたえのある良質な作品で、一見の価値はある。 2005年(米)、2006年(日)公開【監督】ベネット・ミラー【出演】フィリップ・シーモア・ホフマン、クリフトン・コリンズ・Jr
2017.06.11
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【ビッグ・アイズ】「君に一つ質問があるんだ。なぜこんなに目だけがバカでかいの?」「人は何でも目を通して見るでしょ? 目は心の窓なのよ」昨年の春、水森亜土の原画展に行って来た。四十代、五十代の女性にとって、水森亜土の描くメルヘンチックでポップなイラストは、思わず自分が「女子」であることを思い出させる魅力があるものなのだ。もちろん会場は大盛況。幼いころ、水森亜土のイラストが入った文房具を、女の子ならだれもが持っていた。とにかく人気だったのだ。私は『ビッグ・アイズ』を見たとき、すぐに水森亜土のことを思い浮かべた。水森亜土の作品は一目で彼女が描いたものだとわかる。芸術的価値はさておき、それほど個性的で魅力のある画風だからだ。『ビッグ・アイズ』では、瞳の大きな女の子が特徴的な画風で世間の注目を集めたイラストレーターの伝記を描いている。メガホンを取ったのはティム・バートン監督で、彼自身も『ビッグ・アイズ』をめぐる事件の真相に驚いた一人であり、「映画化を熱望した仰天の実話」とのこと。 ストーリーはこうだ。舞台は北カリフォルニア。マーガレットは幼い娘の手を引き、逃げるようにして家を出た。夫と別居することにしたのだ。マーガレットは食べていくために家具屋の絵付けをしたり、似顔絵を描くなどして生計を立てていた。あるとき、サンフランシスコのノースビーチ野外展示会において、一人の男と出会う。ウォルター・キーンと言い、明るく陽気で話し好きの男だった。マーガレットはウォルターの明るさと話術にずいぶんと癒され、心を許し、やがて結婚する。そんな中、ウォルターはマーガレットの描いた「ビッグ・アイズ」に目を留めた客に、自分が作者であるとウソをつく。だがウォルターの巧みなビジネス交渉で、思いがけずマーガレットの絵が売れ始める。マーガレットは、自分が実際の作者であるにもかかわらず、黙して語らず、絵の製作をすすめていく。とはいえ、愛する娘をも欺き、アトリエには決して入らないようにさせ、徹底して夫が描いているように見せかけるのには限界を感じた。マーガレットは、徐々に夫の横暴なやり方に不満を募らせてゆくのだった。 この作品を見て感じたのは、だれかに依存して生きるというのは、ある種、危険なことではないかと。というのも、「ビッグ・アイズ」の本当の作者であるマーガレットは、精神的にも経済的にも男性に依存し過ぎたのではなかろうかと思ったのだ。もちろん、1950年代当時のことなので、今のように女性が生き生きと社会に出て働くことが叶わなかったのは事実である。また、キリスト教圏であることから、宗教的教義もあって、「家計も家庭のルールもすべて夫に従う」のが当たり前だったのだ。だがそんな状況のマーガレットも、自分を取り巻く環境の変化や、夫ウォルターの身勝手な態度やふるまいに耐えきれず、別居を決意。ハワイに移住する。そこで出会うのが「※エホバの証人」というキリスト教系新宗教の伝道者だった。(※カトリック・プロテスタントからは異端とされる。フランスなどではカルト教団と指定されている。参照:ウィキペディア)マーガレットは良くも悪くもその宗教との出合いにより、夫からの呪縛から解かれていくのだ。夫への依存から宗教への依存へと移行していく様子は作品には描かれていない。だが、そういう状況は容易に想像できるから不思議だ。 『ビッグ・アイズ』は、現在80代後半になる実在のイラストレーターの半生を描くものだが、働く現代女性へのエールにも思える。しがない家庭の主婦が夫との別居から始まり、一人娘を育てていくために、得意の絵で生計を立てていく。再婚しても波乱の人生からは逃れられず、やがて夫と法廷闘争へともつれ込むという結末は、あまりにドラマチックである。(だからこそ映画化されたのだが)とはいえ、どんなに苦しく過酷な状況でもなんとかなる、どうにかなるのだと、ちょっぴりの楽観性と励ましをもたらしてくれる。 口下手で内気なマーガレット役に扮するエイミー・アダムスと、自分勝手で虚言癖のあるウォルター役のクリストフ・ヴァルツ。2人の演技も見ものである。 2014年(米)、2015年(日)公開【監督】ティム・バートン【出演】エイミー・アダムス、クリストフ・ヴァルツ
2017.03.26
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【ザ・ダイバー】「だらしないぞ、12歩も歩けんのか?! ネイビー・ダイバーは救助のプロだ。水中を捜索し、沈んだ物を引き上げ、障害物を取り除くんだ。若くして海で死ぬしか英雄にはなれん! なりたがる奴の気が知れん!」この春フレッシュマンとして社会にはばたく若者たちにお勧めできる作品がないものかと、あれやこれやと物色してみた。すでに15年も前の作品だが、『ザ・ダイバー』は誇り高きアメリカ海軍潜水士の伝記である。これはフレッシュマンに勇気と希望の光を射し込んでくれるものだと思う。実在の人物、アフリカ系黒人として初めて“マスターダイバー”の称号を得た潜水士、カール・ブラシア(1931~2006年)半生を描いた作品なのだ。(ウィキペディア参照) 簡単なあらすじをご紹介しよう。1943年、ケンタッキー州ソノラにおいて、黒人少年カールは小作人の子として育っていた。父は広大な農地を来る日も来る日も耕し続けるが、あくまで雇われの身なので、自分の土地は持っていない。貧しい我が身の二の舞を息子にはさせたくないと、息子カールには村を出るよう激励する。カールは父の、「二度と(貧しい)村へは戻るな」のことばを胸に刻み、海軍へ入隊することにした。ところが海軍でカールを待ち受けていたのは、それほど生易しいものではなかった。黒人兵士に許されるのは、食事を作るコック係だけ、という差別だった。カールは得意の水泳を活かしたダイバーを希望していただけに、厳しい現実に直面した。だがカールは逆境をバネに、ダイバーになろうと必死に努力し、上司へアピールを続けるのだった。 この作品の見どころは、やはり主人公カールが、どんなに辛いめに合ってもめげない強さであろう。人種差別が公然と行われていた時代のことであるから、今ではちょっと想像もできないような過酷な環境だったと思う。そんな中、「なにくそ!」とか「負けるもんか!」という、それこそ歯を食いしばって艱難辛苦を乗り越え、勝ち得たものだったに違いない。作品の後半では、勤務中の不慮の事故により足に大ケガを負ってしまう。さらには、その足を切断し、リハビリによってダイバーの仕事に復職するまでのプロセスが描かれているのだが、それはもう血の滲むような努力であった。私には決してマネのできないチャレンジ精神にあふれていて、その生き様は常に前向きだ。 それを見事に表現したのは、キューバ・グッディング・jr である。養成所での鬼教官役にロバート・デ・ニーロだが、この役者さんも言わずもがなの演技力。さらにその鬼教官の妻役としてシャーリーズ・セロンが扮しているのだが、これまたスゴイ。南ア出身の女優さんで、父親がアル中という背景を持っているせいか、ロバート・デ・ニーロ扮するサンデー教官がアル中で癇癪持ちで家庭を顧みない夫に、どうしようもない絶望感とあきらめを抱く妻、という役柄を見事に演じ切っていた。(演技というよりリアリティに近いものがあった。) 作品の内容には関係のないことだが、邦題である『ザ・ダイバー』というタイトルはどうにかならないのだろうか?原題は『Men of Honor』なのだが、もっとドラマチックなタイトルはなかったのだろうか?『風とともに去りぬ』とか『バルカン超特急』のように、インパクトのある邦題をつけて欲しかった、、、 それはさておき、立ちはだかる難題にもめげず、努力と勇気を持って困難を克服していく姿は感動的だ。アメリカ海軍初の黒人ダイバーの半生を、じっくりと堪能していただきたい。お勧めの逸作である。 2000年(米)、2001年(日)公開【監督】ジョージ・ティルマン・ジュニア【出演】ロバート・デ・ニーロ、キューバ・グッディング・ジュニア
2016.03.31
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【永遠の0】「信念のために命を捨てるって思想の根本部分の話。いいか、外国人から見たら、特攻と自爆テロは一緒だろ? 狂信的愛国者にすぎないんだって」「いやいや、だからさ、、、」「俺、特攻隊の遺書とか読んだことあるんだけどさ、国のために命を捨てることを誇りに思ってるわけだよ。まぁ、一種のヒロイズムだな、あれは」「いやいやいや、申し訳ないけどそれは全然わかってない!」保守派の論客として知られる百田尚樹は、例の軽はずみな言動によってだいぶ好感度を落とした。とはいえ、『永遠の0』はデビュー作ながら販売部数300万部越えを果たし、映画化もされて大ヒットを記録した。戦後70年という節目の年ということもあり、私も期待を込めて鑑賞してみた。封切られたのは2年も前だが、遅ればせながらやっと見る機会を得た。 『永遠の0』は確かに大ヒットするだけの作品ではある。ハリウッドにはとうてい追いつくものではないけれど、ゼロ戦の飛行音だとか墜落シーンなど、通常ならウソっぽくなってしまいがちな特撮(CG)は見事だった。ハリウッド・アクションに慣らされた視聴者にとっても、充分耐えられる臨場感に溢れたものだったと思う。ただ、内容として受け入れられるかと言えば、そうでもない。戦争映画はあくまで史実を伝えるものであり、ロマンスであってはならないと思う。(これは私の持論であるが) ストーリーはこうだ。司法試験に落ちてぶらぶらしている26歳の佐伯健太郎は、祖母・松乃の法事の際、姉の慶子から祖父の賢一郎が実祖父ではないことを聞かされる。実の祖父は特攻で戦死した海軍航空兵だったのだ。祖母の松乃は終戦後、一人娘である清子をつれて賢一郎と再婚したのであった。出版社に勤務する慶子の勧めもあり、健太郎は特攻隊員である実の祖父について調べてみることにした。実祖父である宮部久蔵については、何人かの関係者が存命であり、話を聞く機会を得た。ところが久蔵について語る内容と言えば、「海軍航空隊一の臆病者」「何よりも命を惜しむ男だった」などの辛辣なことばかりだった。しかし、中には「奥さんと娘さんのことをとても大切に思っていた」などの愛情あふれる一面も聴くことができ、ますます実祖父の真実を知りたいと思うようになるのだった。 とにかく内容に感情移入ができないというのはツラい。戦時中の危機的状況とか、切迫した空気とか、もっとある種独特の狂信的暗さを出せないのだろうか?海面に浮かぶ肉の破片、血に染まった海、うじ虫のわく死体など、もっと残酷で悲惨で絶望的でなければならない。それこそがリアリティーというものではないのか? 私は平和を死守したい。戦争なんてご免こうむる。一人息子を戦地になんて送りたくない。きっと皆も同じ気持ちに違いない。それには表現の力を借りて、本物の戦争の闇をあぶり出さなくては意味がない。ロマンスは必要ない。 安全保障法制をめぐり、リアルタイムで議論が進められている。私はごくごく一般的な庶民で、とくに政治に明るいわけでもない。だが、そんな私でも最近の中国には脅威を感じるし、アメリカがちゃんと日本を守ってくれるのかどうか不安だ。そんな中、日本の防衛抑止力の強化は当然のように思える。むやみやたらに法案に反対する人々は、どのような国防意識を持っているのか知りたい。敵の侵略を良しとして、その時は無条件で降参するという考え方なのか?今の自衛隊は、いわば、警察に毛の生えたような立場なのだ。敵が領域を侵して来ても、こちらからは手も足も出せない。「日本が侵略される?! そんなことありえない!」絶対ありえないだろうか?本当にそう言い切れるのだろうか? 今こそ、今こそきちんと戦争というものがどれほど惨たらしく狂信的な行為であるかを知る必要がある。それには『永遠の0』はあまりにキレイすぎる。平和の背景に“防衛”という行為が、切っても切れないものであることを、現実として受け入れねばならない。 2013年公開【監督】山崎貴【出演】岡田准一、三浦春馬、夏八木勲
2015.08.15
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【J.エドガー】「ニクソンのような相手は初めてだ。私がこれまで盗聴した連中は、心にやましいことを抱えているから脅されたと感じて、私の言いなりになった」「そんなことはどうでも、、、」「じゃ、何だ? 何が言いたいんだ?」「我々もそろそろ引退の潮時だよ」歴史上の人物について興味を持った時、現代ならさしあたりネットで検索したりして、おおよその輪郭は掴むことができる。勤勉な方なら、本を読んで調べるという手間も惜しまないだろう。だが、なかなかフツーはそこまではしない。めんどうくさいというのがホンネだ。そこで私がオススメしたいのは、なるべくドラマ化、映画化された作品を視聴してみることだ。もちろん、脚色されているだろうが、人物の生い立ちとか功績などは、概ね捉えることができるに違いない。『J・エドガー』も実在の人物である。FBI初代長官で、大物政治家たちを震え上がらせた影の支配者なのだ。この人物について興味を持った方は、『J・エドガー』をご覧いただきたい。 ストーリーはこうだ。FBIのジョン・エドガー・フーバー長官は、老いていよいよ半生を振り返ろうと思った。部下に命じ、口述タイプさせた。それは、自らの過去の記録であり、苦悩でもあった。1919年、アメリカは共産主義や運動家の過激派によるテロが活発化していた。24歳のフーバーが、特別捜査チームの責任者に抜擢される。彼はまず、国会図書館の蔵書をインデックス化し、検索時間を大幅にカットすることに成功。また、アメリカ全土から大卒の優秀な人材を採用することで、FBIのレベルを向上させた。(しかし有色人種はほとんど起用しなかった。)さらには、FBIの記録とは別に、政治家たちの情報をファイリングすることで、自らの権力を揺るぎないものとした。一方で、フーバーは生涯、独身を貫いた。彼のアシスタントであり、40年以上の付き合いがあったクライド・トルソンとは、毎日、ランチかディナーを共にする間柄だった。トルソンもまた、生涯独身だった。(*フーバー自身のファイリングが残されていないので、確証はないが、あるいは同性愛者だったかもしれない。)フーバーは、常に黒い疑惑やスキャンダラスな噂がつきまとったが、それもこれも、国家を守るという絶対的な信念によるものだった。 監督はクリント・イーストウッドだが、欲を言えば、もう少し盛り上がりがあっても良かったような気もする。始終、主役のレオナルド・ディカプリオのナレーションで淡々と進んでいくので、クライマックス的なシーンがぼやけているように思えた。とはいえ、50年近くも政府機関の長を務め、世界で最も恐れられた男をディカプリオが好演。圧倒的な存在感で視聴者を魅了する。まずまずの作品だと思った。 2011年(米)、2012年(日)公開【監督】クリント・イーストウッド【出演】レオナルド・ディカプリオ、ナオミ・ワッツ、アーミー・ハマー
2015.06.02
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【ノア 約束の舟】「辛いことだが、、、殺らねばならない。これが、、、正義なのだ」「正義、、、? どこが? 一体どこが正義なの? 生まれてくる赤ん坊を殺すことが? もしあなたがそう言って、、、正義のために手を下すのなら、、、あなたは息子たちとイラを失い、、、私を失うことになるのよ、、、!」タイトルだけを見ると、宗教色の強そうな作品に思える。だが決してそんなことはない。神話としての物語を、何やら壮大なヒューマン・ドラマに完成させている。学生時代、機会があって聖書を読むことが度々あったのだが、“ノアの箱舟”は選ばれし人間の、真の救済のドラマとして捉えていた。この大洪水によって、ノアの家族と一つがいずつの動物たちのみ生き残り、あとの人類は神の怒りをかい、呑み込まれてしまう、、、というのがオリジナル。しかし、『ノア 約束の舟』においてはSFチックにも、泥でできた“ウォッチャーズ”と呼ばれる巨人が登場したり、実はそれらが神の楽園から追放された堕天使であり、さらに、ノアには心を許して箱舟づくりを手伝うという脚色がされている。よくよく考えてみると、この作品におけるテーマは、「ノアの信仰心」なんかではない。「ノアの神への絶対的信頼」でもない。聖書解釈は、既存のものではないことだけは確かである。 あらすじはこうだ。ノアがまだ少年だったころ、カインの末裔であり人間の王を名乗るトバル・カインは、ノアの目の前で父親を殺害した。ノアはその場から必死になって逃げた。成人したノアには、妻と3人の男の子に恵まれた。ある晩、眠っていたノアは、恐ろしい夢をみる。それは、神が堕落した人間を一掃するために、地上が大洪水に見舞われるというものだった。ノアは、その夢を神のお告げであると信じ、箱舟をつくり始める。そんな中、大地は枯れ、食料はなくなり、人間たちは争って肉を欲した。女は犯され、子は口減らしに捨てられた。宿敵トバル・カインは仲間を引き連れ、ノアのもとへやって来てその計画を知る。そこで、ノアのつくった箱舟を我が物にしようとしたところ、泥の塊でできた“ウォッチャーズ”と呼ばれる巨人たちが立ちふさがるのだった。 ユダヤ教の選民思想を理解するのは、ちょっと難しい。たとえば、大洪水が襲っているさなか、箱舟の外では多くの人々が阿鼻叫喚の世界である。動物を助けていながら、どうして幼い子どもぐらいは助けてやらないのかと、常識人ならそう考えるだろう。というのも、この時ノアは、一切の人間を救わなかったのだ。つまり、唯一絶対の神のお告げは、いかなる例外も許されない。神の意志は尊きものであり、絶対的であり、罪深き人間の命など、大した価値はないのである。このへんを踏まえて鑑賞しないと、ユダヤ教に対する理解に苦しむ。 さて、監督のダーレン・アロノフスキーは、ご存じ『ブラック・スワン』や『レスラー』を手掛けた巨匠である。どの作品の主人公も、憑りつかれたように前のめりになっていく姿が、狂信的に描かれている。『ノア 約束の舟』においても同様、神とのあまりにも密な関係が、果ては、冷酷非情な決断を迫られるシーンへと突入し、この作品のピークとなっている。 私は意外にも楽しむことができたが、人によっては嫌悪感をもよおす場合もあるかもしれない。聖書物語の入門編としておすすめしたい。 2014年公開【監督】ダーレン・アロノフスキー【出演】ラッセル・クロウ、ジェニファー・コネリー、エマ・ワトソン
2015.03.21
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【アポカリプト 】「あの連中を見てお前は何を感じた?」「分からない。」「恐怖だ。心をむしばむ恐怖。連中はそれに冒されていた。・・・感じたか? 恐怖は病(やまい)だ。魂の中に入り込む。お前の心の平安をすでにむしばみ始めている。」無名の俳優を起用し、英語ではなく全編マヤ語を使用しての本格的な演出。むせかえるようなジャングルの密林地帯を舞台に、未開の現地人がおそらくやっていたであろう狩猟や、部族間争い、人身売買、生贄の儀式。それらはあまりに残虐性が強いため、アメリカではR指定を受けた映画なのだ。しかし、そこまでして作り手がこだわったもの、提示しているものとは何なのかを考えてもらいたい。それをきちんと、真正面から見据えることでストーリーの裏側に隠された本当のテーマが、自ずと浮かび上がって来るのだ。時代はマヤ文明の後期。ジャングルの密林地帯の一角に居住するジャガーたちは、部族の仲間たちと平穏な日々を送っていた。ある日、ジャガーは狩りのためにバクを追っていた。見事仕留めて仲間たちと、肉と内臓を分け合っていると、突然、恐怖におののく他の部族がジャガーたちの前に現れる。見れば、皆傷を負い、無惨な姿をした者たちばかりだった。ジャガーは自分たちのテリトリーである森を通り抜けることを許可するものの、一体その部族に何が起こったのか胸騒ぎを覚える。その予兆通り、ある朝ジャガーが目を覚ますと村がマヤ帝国の傭兵に焼き討ちをされてしまう。そして、必死の抵抗も虚しく、ジャガーの父は彼の目の前で首を切られ、絶命する。マヤ帝国についての詳細はいまだ不明で、学者たちの間で研究の進んでいる史学なのだ。 だが一つの文明が滅びる時、それは様々な要因が重なってのことであると同時に、淘汰されるべくして淘汰されたのだとも考えられる。作中、ジャガーの妻が傭兵から身を隠していた窪みの中で、どしゃ降りの雨に浸かりながらの壮絶な出産シーンにはがく然とした。目を背けたくなるだけでなく、吐き気すらもよおした。さらに、ジャガーが必死で死体の山を踏みつけながら逃げ去るシーンは、目蓋の内側に焼きついて離れない。だが、それもこれも最後のワン・カットでストンと腑に落ちた。ジャガーがどうにか浜辺まで逃げ切った際、停泊していた西洋の船にキリスト教の宣教師たちが乗っているのだ。「なるほど」と思った。キリスト教国家の支配により、この野蛮な文明は幕を閉じたと言うことなのか。これをキリストの「救い」と捉えるのか「言い訳」と捉えるのか、いずれにしてもこの後マヤ文明が滅亡したことだけは事実だ。【アポカリプト】・・・ギリシャ語が語源で、「ものごとを新しくする」という動詞。 【アポカリプス】・・・同じくギリシャ語が語源でアポカリプトの名詞形。「啓示」の意。(聖書の黙示録をあらわす。)2006年(米)、2007年(日)公開【監督】メル・ギブソン【出演】ルディ・ヤングブラッド
2014.03.13
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【宮廷画家ゴヤは見た】「“修道士”ロレンゾ、わかってほしい。君への恨みはない。公平に裁きを下す。君は・・・邪悪で汚れた思想の化身となった。“人間は神より偉大だ”などと公言し、“福音書はデタラメで有害だ”とも言った。二度と再び同じ罪を繰り返してはならない。よって教会は君を有罪と認め、罰として死刑を言い渡す。しかしもしも君が悔い改めるなら、教会は慈悲を持って命を助けよう」この作品について語る前に、少しだけゴヤのお勉強。ゴヤは18世紀スペインの画家で、ロココ風の装飾的画風で人気を得た。また宮廷画家として多くの肖像画を残している。しかしその一方で、混沌とした時代を生きたゴヤは、戦争によって無惨に殺戮された民衆や、犬・猫のように犯された女性たちなど、人間の残忍性を赤裸々に表現した版画も残した。その流れは、現代画家(ニュー・ウェーヴ)によって度々引用されている。さて、本作ではこのゴヤを取り巻く歴史的事柄を、重厚な演技とムダのないストーリーで、我々にじわじわと歴史の重みを語ってくれる。時代は18世紀、スペインのマドリード。当時のカトリック教会は失墜しかけている権力を取り戻すために躍起になっていた。その一つに、ユダヤ教徒などの異教徒をムリヤリ探し出しては異端審問にかけ、拷問を繰り返していた。ある日、裕福な商人ビルバトゥア家の令嬢イネスが、兄弟とともに居酒屋で豚肉を食べなかったと言うだけで異端の疑いをかけられる。ビルバトゥアは何とかして娘を助けたいと、スペイン王室の宮廷画家ゴヤに、修道士ロレンゾとの面会を依頼するのだった。一方、獄中のイネスは、裸のまま鎖に繋がれ、ロレンゾの慰み者になっていた。「ノーカントリー」でもおなじみのスペイン人俳優のハビエル・バルデムは、やっぱり天才だ!この独特なインパクトのある容姿も手伝ってか、この役者さんが登場するだけで何かよからぬ企み、あるいは陰鬱なものを感じさせるから不思議だ。何と言っても彼の存在感は、他の追随を許さない不思議な魅力の持ち主なのだ。さらに、ナタリー・ポートマンも役柄に合わせてげっそりとやせ細り、貧相な体つきで正気を失ったしぐさなど、もはや演技の枠を越えていた。久しぶりの歴史ヒューマンドラマを鑑賞後は、思わず現代を生きる自分を、つくづく幸せに感じた。おすすめの秀作である。2006年(西)、2008年(日)公開【監督】ミロス・フォアマン【出演】ハビエル・バルデム、ナタリー・ポートマン、ステラン・スカルスガルド
2014.02.18
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【壬生義士伝】「貫一郎・・・食え、食え・・・南部の米だ。北上川の水で育った盛岡の米だ。・・・食え! のう、貫一・・・おめぇのお陰で、しづも子供たちも腹いっぱいだ。んだば今度はおめぇが食え! 南部の米・・・夢に見たべ。食ってけろ、貫一・・・うめぇぞ。貫一・・・貫一!(号泣)」幕末の日本が大きく波打って、揺れに揺れていたことは今さら言うまでもない。 日本の各地で一揆や強奪など、目に余る暴徒が横行し、治安は悪化する一方だった。そんな中、幕末の京都の治安を取り締まるために、会津藩が京都守護職の任に就いた。その預り浪士隊として活躍したのが「新撰組」である。 今ふうに言えば、会津藩という“企業”から委託を受けた「新撰組」という“派遣会社”が警察の仕事を引き受けたという図式になる。この「新撰組」の印象と言えば、昭和初期まではずい分と野蛮で冷酷非情な人斬り集団というイメージが強かったのだ。それは幕府側に立つ、言わば第一党であったせいで、改革を訴える知識人や思想家を徹底的に弾圧したからだ。しかしそれも、後世の史学者や歴史作家である司馬遼太郎の登場により、「新撰組」のイメージは大きく変わった。 明治初期、一人の老人が風邪をひいたと思われる孫を背負い、小さな診療所を訪れる。 すでに診察時間を過ぎていたが、町医者は嫌な顔一つせず、快く診察に応じる。 待合室は、近日引越しのため荷物が無造作に積まれ、雑然としていた。 老人は孫の診察を待つ間、ふと、古びた一枚の写真に目を見張る。 その写真に写った武士は、老人のよく知る男、吉村貫一郎その人であった。物語はここから回想シーンとして展開してゆく。幕末の京都、新撰組に一人の男が入隊して来た。盛岡南部藩出身の吉村貫一郎である。風采のあがらない、野暮ったさの目立つ田舎者である反面、その剣術は並々ならぬ腕前を持っていたため、隊士らは皆一目置いていた。だがその一方で、吉村は何かにつけ給金を要求し、タダ働きを好しとしなかったため、“守銭奴”と陰口をたたく者もいた。 この映画の原作は、世紀のストーリーテラー浅田次郎である。そのため史実とはかけ離れており、司馬文学のような格調高さは望めない。だが、現代を生きる我々にわかり易い方法で「義とは何か」「家族を想う心」などのテーマを、直球で教えてくれるのだ。吉村貫一郎という一人の隊士が、権力や名誉などに捉われることなく、ただただ愚直なまでに家族を愛する気持ち、真の武士として純粋に生き抜こうとする姿に、思わず涙を誘われる。 また、チョイ役だが、大野次郎右衛門(三宅裕司)の草履番として働く佐助役を、山田辰夫が好演。さらに、沖田総司役を堺雅人が史実に近く、のらりくらりと捉えどころのない前髪の美剣士として演じていることに注目。 難を言えば、終盤、ストーリーが流されぎみでピークを逸してしまったかに思えた。鳥羽・伏見の戦いのシーンにおいて、錦の御旗に立ち向かって行く吉村貫一郎をラストにしたらどうであろうか?その後の追記をナレーションかあるいはテロップにして幕府の終焉と明治の始まりを謳ったらどうであろうか?素人の勝手な世迷言なので、あしからず。ちなみに、原作は言わずと知れた浅田次郎、この映画が面白くないはずはない。浅田次郎原作の『鉄道員(ぽっぽや)』はコチラ(^^)v2003年公開【監督】滝田洋二郎【出演】中井貴一、佐藤浩市
2014.01.10
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「お願い、(イングランドに)罪を認め、忠誠を誓ってちょうだい。慈悲を与えられるわ」「スコットランドへの慈悲は?」「なぶり殺しに遭わず幽閉ですむかも。助かる望みが生まれます・・・死なないで!」 「(イングランドに)忠誠を誓うことは、今あるおれが死ぬことだ」本作「ブレイブハート」は、アカデミー賞作品賞ほか5部門を受賞した歴史大作である。 脚本はもちろん、映像も音楽も役者陣も、どれを取っても甲乙つけ難い素晴らしい作品なのだ。この作品がどれだけ史実に基づいたストーリー展開であるかということは、あまり問題ではなく、メガホンを取ったメル・ギブソンの徹底したキリスト教思想が根底に流れているのが興味深い。メル・ギブソンは、業界でも知らない人はいないほどの敬虔なカトリック教徒である。 そのせいか、主人公ウィリアム・ウォレスが処刑されるシーンは、正にイエス・キリストの受難のシーンにも似て、その残酷極まりない拷問は目を覆いたくなる。だが、このシーンには重要な意味があるのだ。ウィリアム・ウォレスがスコットランドを愛するが故に、その身を捧げ、甘んじて処刑を受け入れるという発想は、イエス・キリストが罪深き人々の身代わりとなり、あがないのために十字架に磔となる、いわば生け贄思想を彷彿とさせるのだ。その証拠に、ウィリアム・ウォレスの死によって、彼の遺志を継いだ者が決起して、スコットランドの自由と平和を勝ち取ったという件になっているからだ。(あくまで「ブレイブハート」の中でのストーリーにおいて)そこで気付かされる本作のテーマは、非常に過激ではあるが、自由や平和を手に入れるためには多くの血が流されて当然であり、またそれだけの崇高な信念と犠牲がなければ真実の解放はありえない、というものである。よって、イエス・キリストの死は正当のものであり、本作のウィリアム・ウォレスの死も重大な意味を持つものなのだ、と訴えている。13世紀末のスコットランドが舞台。イングランドとの戦争で父と兄を失ったウィリアム・ウォレスは、幼くして叔父の下に預けられる。成人してから懐かしい故郷に帰り、美しく成長したミューロンと再会し、恋に落ちる。 ある時、イングランド兵にからまれたミューロンをウィリアムが助けたものの、再びミューロンが捕まり、殺害される。復讐を誓うウィリアムは、スコットランドの自由と平和を掲げ、抵抗軍を立ち上げるのだった。世界史の好きな方は既に知っておられると思うが、もともとアイルランドとスコットランドはカトリック、イングランドはプロテスタントで、同じキリスト教圏でも派閥が違う。このことによって、同じ島国でも何度となく互いの信念を通して宗教戦争が繰り返されて来た。「ブレイブハート」は、メル・ギブソンがキリストの名のもとに“死を恐れることなかれ、信仰は永遠のものなり”と、映画を通して大絶叫しているようにも感じられる。それほどに揺るぎない神への忠誠と、祖国への愛と、そして孤高な精神を見せ付けられた気がするのだ。歴史好きの方、必見の一作である。1995年公開【監督】メル・ギブソン【出演】メル・ギブソン、ソフィー・マルソーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.07.26
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「金は戻って来た時に(渡す)。約束する。」「約束? 戻らなかったら?」「たまには信用しろ。」(中略)「そう、あんたは約束を守る男だよ、将軍。名誉を尊び・・・ローマのため、先祖のために死ぬ。だがこのおれは・・・興行師だ。」日本の戦国時代に興味を抱いた監督なのか、合戦の場面で斬首するシーンが多く出て来た。さらに、目上の人に恭しく頭を下げる礼儀などは、正に日本流だった。大将が全軍を指揮してその采配を揮う場面や、陣形を守りつつ攻撃をしかけて行く様など、日本の武将たちが練った戦術・兵法を彷彿とさせた。主役を演じたラッセル・クロウは、この作品においてオスカーを獲得し、大ブレイクを果たした。役どころは荒い気性とあたたかみのある人物像が同居した孤高の将軍役。合戦ではバッサバッサと敵を倒していく勇猛果敢な武将でありながら、一たび鎧を脱ぐと、故郷に残して来た妻子を思い出しこよなく家族を愛おしむ一人の男性なのだ。耳の下からアゴにかけて粗野に生える髭は、大地の香りを残した男の生き様のようで、ラッセル・クロウにとてもよく似合っていた。思わずその感触を確かめ、痛みを伴う、程好い心地良さに心酔してみたくなってしまった。ローマ帝国軍の将軍であるマキシマスは、ゲルマニア遠征にあってゲルマン民族と攻防をくり広げていた。これ以上の戦いは無益と感じ、使者を通じて降伏を勧告するも、斬首された使者の胴体を乗せた馬が空しく戻って来た。ゲルマン人に降伏の意思なしと捉えたマキシマスは、全軍に総攻撃の命令を下す。そしてローマ帝国軍は、見事な勝利をおさめるのであった。アウレリウス帝を亡き者にしたその息子コンモドゥス皇子役を演じた、ホアキン・フェニックスは実に良かった。彼は、若くして亡くなったリバー・フェニックスの実弟であるが、兄の名に恥じない、いやそれ以上の名俳優だ。芝居には何が必要で、観客から何を求められるのかを十二分に心得た人物である。徹底的に憎まれ役として、それでいて哀愁を帯びたこの役どころを見事に演じきっていたホアキン・フェニックスは、名脇役でもある。このような役者陣を惜しみなく揃え、無駄のないストーリー展開と広大で悠久の歴史を感じさせる映像美は、実にすばらしかった。最初から最後まで夢中になって堪能できる、歴史大作なのだ。2000年公開【監督】リドリー・スコット【出演】ラッセル・クロウ、ホアキン・フェニックスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2012.06.14
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わが燃えたぎる黄金の弓をもて欲望の矢を、槍をもて雲よ散れわが炎の戦車をもて(『ミルトン』より ウィリアム・ブレイク)この作品は、内容よりむしろ挿入曲として使われている音楽の方が有名で、誰もが一度は耳にしたことがあるのではなかろうか。もちろん、アカデミー賞では作品賞のみならず、作曲賞も受賞しているので、そのインパクトたるや並々ならぬものがある。脚本も実在の人物や、実際に起こった出来事に基づいて書かれているため、説得力のある展開となっている。注目すべきは、イギリス映画としての格調高さ、そして英国人気質の特性であろうか。 選手がオリンピックに出場するまでの様々な葛藤や苦悩が、見事に表現されていて、全編を通して飽きさせない。舞台もイギリスのケンブリッジ大学だったり、フランスのパリだったり、視覚的にも優雅で上品な仕上がりとなっている。1919年、イギリスはケンブリッジ大学に入学したばかりのハロルド・エイブラハムズは、ユダヤ人ということもあり、小さいころから差別意識を持っていた。本当の意味での英国人になりたいと、陸上競技に全力を注ぐことで、内面の鬱屈を晴らしていた。一方、スコットランドのエリック・リデルは、やはり俊足の持ち主だったが、宣教師としての仕事もあり、陸上競技と両立してやっていくのが難しい状況にあった。また、エリックの妹ジェニーは、兄がますます競技に熱中し、伝道活動がおろそかになることに批判的だった。そんな中、選手たちはパリ五輪に向けて必死のトレーニングを積むのだった。世界のどこにも差別問題はある話だが、ユダヤ人に対する差別も特に根が深い。また、徹底したキリスト主義者にとって、信仰とか布教のための伝道活動は、絶対的なもののようだ。こういう文化・伝統の違いを知るのに相応しい教材であるのと同時に、いかにイギリスという国家が権威主義的であるかが垣間見られる。とはいえ、古き良き時代のオリンピック選手らが陸上競技に情熱を燃やし、様々な葛藤や苦悩に苛まれながらも、栄光を勝ち取る姿が清々しく描かれている、すばらしい作品だった。1981年(英)、1982年(日)公開【監督】ヒュー・ハドソン【出演】ベン・クロス、イアン・チャールソン
2012.03.12
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「クリスマス放送なんてできない」「お父上がしたような演説を?」「そうだ」「だが、父上はもういない」映画というものは、一つの側面として、歴史の記録でもあるので、史実をもとにした作品というのは、やはり見ごたえがある。本作に関して言えば、ジョージ6世(ヨーク公)が幼いころより吃音症に悩み、王太子という立場にありながら、人前で話すことに異常な緊張感と不安感に苛まれていた、というものだ。ただそれだけの内容なのだが、そんな中、ライオネル・ローグとの出会いによって、見違えるように変化していく。この吃音症から解放され、やがて聴衆の前での演説を見事に成功させるまでのプロセスに感動する。ライオネル・ローグという人物は、オーストラリア人であり、何か特権階級でもなかったが、階級の差を越えた友情は、ヨーク公と生涯に渡る絆を結ぶことになるのだ。ヨーク公アルバート王子は、吃音症のため、聴衆の前でのスピーチはいつも惨めなものに終わった。見かねたエリザベス妃は、言語聴覚士であるオーストラリア出身のライオネル・ローグを訪ねる。効果については半ばあきらめかけていたが、藁をもすがる思いでヨーク公を連れて行くと、さっそくローグの提案する治療法を実践してみた。だが、どんな名医もさじを投げた吃音症なだけに、ヨーク公は投げやりな気持ちになり、ついには反発してしまう。怒って帰りかけたヨーク公に、ローグは録音したレコードを持って帰らせるのだった。 エリザベス妃に扮するのは、ヘレナ・ボナム=カーターで、代表作に『眺めのいい部屋』などがある。この女優さん、若かりし頃は貴族的な役柄が多く、その上流階級的ムードがそこかしこから漂っている。ご本人は、そういう決まり切った固定キャラに嫌気がさしたらしく、ここのところ奇抜な役ばかり引き受けていたが、40歳を過ぎて気付いたのであろう。やっぱりこういう上品な役柄に回帰した。大正解だ。ジョージ6世に扮した主役のコリン・ファースも、役柄としてはピッタリだ。代表作に『ブリジット・ジョーンズの日記』などがあり、その真面目で紳士然としたキャラは、申し分なく演技に反映されていた。人生の友(師)との出会いにより、内在する優れた資質の開花というサクセス・ストーリーは、西欧人に限らず、日本人にとっても大好きなテーマである。必見の価値ありと言っても過言ではないだろう。2010年(米)、2011年(日)(英)公開【監督】トム・フーパー 【出演】コリン・ファース、ジェフリー・ラッシュ、ヘレナ・ボナム=カーターまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.09.13
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「俺たちは運に恵まれている。(彼との)約束を守りたい」「何のことだ?」「剣に彫られた言葉に覚えがある。俺の幻想かもしれないが・・・剣を持ち主に届け、子息の遺志を叶えたい」「ロビン・フッド」という物語はあまりにも有名で、今さらという気がしないでもないが、これは中世イングランドの伝説である。実際にあった出来事に尾ひれはひれが付いて、吟遊詩人によって諸国に広められたというわけだ。舞台がイングランドということもあってかどうか、監督はイギリス人であるリドリー・スコットで、代表作に「エイリアン」や「グラディエーター」などがあり、闘いをロマンに変化させることに定評がある。90年代にもケヴィン・コスナーの演じる「ロビン・フッド」が製作されたが、興行的にはどうだったであろうか?吟遊映人は、ケヴィン・コスナーの「ロビン・フッド」を劇場で観たが、悪役のアラン・リックマンのインパクトが強すぎて、完全にケヴィン・コスナーが食われてしまっている記憶が残る。さて、今回はラッセル・クロウが演じたわけだが、なかなかどうして素朴で厭味がなく、実に好感の持てるロビン・フッド像に迫っていた。本人もこういう役柄を好しとする傾向があるのではなかろうか。12世紀末。十字軍の兵士として戦っていたロビンは、雲行きの怪しい戦いに、早くも見切りをつけていた。そんな中、イングランドの兵士たちが待ち伏せを受け、殺害される現場に差し掛かってしまう。まだ息のあるイングランドの騎士、ロバート・ロクスリーの傍に行くと、ロビンはあることを頼まれる。それは、ノッティンガムへ行き、ロバートの父であるサー・ウォルターに形見の剣を届けて欲しいという願いだった。マリアン役のケイト・ブランシェットはすばらしかった。代表作に「エリザベス」や「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズなどがあるが、演技派として中堅女優では、この女優さんを置いて他にはいない。正しく、“ポスト・メリル・ストリープ”であろう。吟遊映人は、エマ・トンプソンかケイト・ブランシェットかというぐらい、この女優さんが大好きだ。余談になるが、ジョン王がやっとゴドフリーの裏切りに気付いた時、ゴドフリーのことを“ユダ”と呼ぶ。これは聖書的な表現で、イエス・キリストを裏切った十二人の弟子の一人であるユダを指している。つまりユダとは、裏切り者の代名詞というわけだ。「ロビン・フッド」という物語が何度となく映画化され、愛されるのは、自由と正義のために戦う勇ましい義賊を英雄視する、アングロ・サクソン民族の血が騒ぐのかもしれない。2010年公開【監督】リドリー・スコット【出演】ラッセル・クロウ、ケイト・ブランシェットまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2011.05.24
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『五虎将軍は劉備のため決死の覚悟で戦ったが、時勢は蜀に味方せず、一人また一人と倒れた。最初に討たれたのは勇猛なる関羽。次は張飛。・・・関羽の仇を討とうとして散った。五虎将軍で最後に一人残ったのが・・・常山の趙子龍だった』近年公開されて、世界的大成功を収めたジョン・ウー監督の「レッド・クリフ」前・後編の2作は、まだ記憶に新しい。その原作となった「三国志」は、日本においてもマンガやゲーム、あるいは小説などで幅広い層から支持されている。一体なぜ2000年も前の歴史がこれだけ話題を呼ぶのかと言えば、まずは登場するキャラクターの、それはそれは魅力的な、あるいは悪役然としてアクの強い、とにかく多彩な顔ぶれで彩られていることであろう。さらに、貧しい片田舎の、それこそ名もない若者が志しを持って天下統一のために命懸けで闘う勇壮な物語であることなどが、庶民の絶大な人気を誇る所以かもしれない。吟遊映人の愛読書でもある「三国志」は、一言では語れないほど雄大で、鮮烈で、そして重厚な旋律に奏でられている。もしも未読であれば、ぜひとも一読をおすすめしたい歴史小説である。とは言っても、その概略すら知らない方々には、まず登場人物のめくるめく多さに混乱されるに違いない。そのため、子ども騙しじゃないかとお叱りを受けそうだが、岩波少年文庫から出ている「三国志 上・中・下」の全3巻を読むのをおすすめしたい。小・中学生向きの平易に書かれていて、しかも大筋はしっかりと掴める。読むのはどうも苦手だという方々、ご安心あれ。横山光輝氏の描いたマンガは、実に伸び伸びとしていて、見事な歴史ドラマに仕上がっている。DVD化もされているので、そちらもおすすめしたい。だが何と言っても王道は、日本人にとっての「三国志」と言えば、誰もが口を揃えるに違いないが、吉川英治氏の著書である。長編で読むのに時間はかかるが、それだけに読みごたえがあり、読了後の感動と言ったらチューブを描く爽快な波に、全身を奪われてしまうほどなのだ。という具合で、下手な読書案内になってしまったが、ほんの少しでも参考になれば幸いだ。余談が長くなってしまったが、本作「三国志」は、五虎将軍の一人である趙雲にスポットを当てたストーリー展開となっている。趙雲と言えば、日本では孔明に次いで人気の高いキャラクターではなかろうか。勇敢で男気があって、何よりずば抜けた強さに誰もが魅了される。貧しい農村出身の趙雲は、志しを抱いて軍人になるための面接を受ける。たまたま面接官であった平安とは同郷で、兄弟の契りを結ぶ。人徳のある劉備軍の前線で一兵卒として戦ったところ、見事な戦いぶりを披露し、軍の重要なポジションを任されることになる。その後、劉備軍は曹操軍10万の大軍に攻め込まれ、散り散りとなってしまう。一方、劉備の夫人とその子(阿斗)の護衛に当たっていた平安は、敵の追跡から逃れる途中、夫人たちを見失ってしまう。その失態に激怒した関羽と張飛は、平安を処刑しようとするが、趙雲は許しを請い、代わりに夫人らの救出に向かうことを進言するのだった。出演者の中にサモ・ハン・キンポーがいたことには驚いた。サモ・ハンと言えば、かつての盟友であるジャッキー・チェンとともにカンフー・アクション・ブームの担い手となったキーマンなのだ。しかしながら、90年代に入ってブームも去り、サモ・ハンは専らアクション・シーンのないドラマ性の高いものに出演するようになった。(ウィキペディア参照)そんな中、嬉しいことに日本ではサントリーの黒烏龍茶のCMに出たりして、その健在ぶりを披露してくれた。趙雲役を演じたアンディ・ラウとも息のピッタリと合った演技で、なかなかの存在感をかもし出している。久しぶりに見応えのある、颯爽とした歴史映画であった。2008年(中)、2009年(日)公開【監督】ダニエル・リー出演】アンディ・ラウ、サモ・ハン・キンポーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.09.29
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「人の全生涯は神の恵みだ」「創ったくせに人を知らんな。人は人のために生き、戦い、死ぬ。神々のためじゃない」 ギリシャ神話は、日本で言うところの『日本書紀』や『古事記』に相当するものだが、いずれも人間の起源に関するストーリーとなっていて、宗教的にも、あるいは思想的にも興味深い文献である。吟遊映人は、幼いころ絵本で親しんだ経験があるが、グリム童話などと同様に子ども向けに大幅に内容が改ざんされていたことを最近知った。やはり岩波文庫などに入っているちゃんとした翻訳物を読まなければ、本来のオリジナリティーを堪能したことにはならないのかもしれない。そんな中、ギリシャ神話中のほんの一部の場面とは言え、この「タイタンの戦い」は万人が楽しめる内容となっている。アクションもさることながら、ストーリー性も、また役者陣の巧妙な演技力も申し分ないものだ。メガホンを取ったのは、フランスの映画監督であるルイ・レテリエ監督だ。代表作に、「トランスポーター」シリーズがあり、鮮やかで華麗なアクションを得意とする。ペルセウスは、実は神々の王ゼウスと人間ダナエーとの間に生まれた半神であるが、訳あって漁師の子として育てられる。ある時、人間が神々に対して不服を唱え、反乱を起こす。激怒したゼウスは、ハデスに人類を懲らしめるように命令する。半神であるペルセウスは、何とかして人類を守ろうと思い、立ち上がる。主人公のペルセウスに扮したのはサム・ワーシントンだが、この役者さんも実は数年前までは無名の俳優だったのだ。「アバター」のメガホンを取ったキャメロン監督との出会いにより主役に抜擢、一躍有名となった経緯は周知のとおりである。また、ゼウス役のリーアム・ニーソンは、年を経てますます味のある演技をしてくれるようになった。飄々とした存在感と、物怖じしない眼力は圧巻。見事なまでの歴史スペクタクルに完成されていた。さらに、本作は脚本家の手により若干オリジナルに脚色を加えている。(無論この作業は当たり前のことで、そうすることでより一層完成度の高い作品が生まれるのだ)参考までに本来のタイタンの戦いのラストを紹介すると、主人公ペルセウスは生け贄にされた王女アンドロメダを救出し、その後、結婚。結果としてペルセウスはアルゴスの王となるのだ。だが、映画の中でのペルセウスは、正に愛に生きる男としてラストを飾っている。格調高く、ロマン溢れる大作なのだ。2010年公開【監督】ルイ・レテリエ【出演】サム・ワーシントン、リーアム・ニーソンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2010.09.05
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「この世を司る力は人間を超えているのです。たとえ女王でもその力を従わせることはできません。・・・(しかし)一つだけ言えます。嵐に襲われた時、人が取る行動はそれぞれ異なります。ある者は恐怖で凍りつき、ある者は逃げ、ある者は隠れ、ある者は・・・鷲のように翼を広げ風に乗って舞い上がります」本作の主人公エリザベス一世の役に扮するのは、ケイト・ブランシェットである。ケイト・ブランシェットをポストメリル・ストリープと表現して良いかどうか迷うところだが、とにかく演技派として名高い。モデル上がりのにわか女優とは違って、出身地でもあるオーストラリアで地道に演技を学んで来た人物なのだ。その甲斐あって本作におけるエリザベスは、まるで現代にその魂が甦ったかのような、重厚で品のある人物像に完成されていた。とにかく素晴らしい、見事な役作りである。イングランド女王として即位したエリザベスのもとへ、新大陸や世界の海を冒険して来たウォルター・ローリーという男が現れる。お世辞やおべっかに辟易していたエリザベスにとって、歯に衣着せぬ物言いをするウォルターは新鮮でしだいに惹かれてゆく。一方、幽閉中のメアリー女王がエリザベスの暗殺を狙っていた。スコットランド女王であるメアリー・スチュアートは、イングランド王家の血統であり、エリザベスを敵視していたのだ。しかし、メアリー女王の陰謀は露見され、斬首刑にされる。その後、スペイン国王のフェリペ二世がイングランド制圧に乗り出して来るのだった。 この作品は、歴史のあらましを知るための良き教材としてもオススメである。高校の世界史の授業では、主な登場人物と戦争の名前を丸暗記する程度で終わってしまうようなことでも、こうして物語として鑑賞するとかなりスムースに整理できるのだ。本作「エリザベス」の見どころは、やはりなんと言ってもスペインの無敵艦隊をイングランド海軍が撃破する場面であろう。この海戦の勝敗によりスペインは没落、一方イギリスは右肩上がりの“ゴールデン・エイジ”を迎えるのだ。受験生必見の歴史大作なのだ。2007年(英)、2008年(日)公開 【監督】シェカール・カプール【出演】ケイト・ブランシェット、クライヴ・オーウェンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。 See you next time !(^^)
2010.02.05
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「道元様、天童山にお戻りください」「天童山に?」「そこに正師がおられます」「正師が?」「亡き無際禅師の後、勅請に応じ如浄禅師様が住持になられました」「如浄様とは・・・どのようなお方なのですか?」平安時代に唐から帰国した最澄と空海がそれぞれ開いた仏教は、戦乱・天災・疫病で乱れた世に一筋の光を射し込んだ。しかしこの平安仏教は、国家や貴族中心に開花したため、万民の救済には及ばなかった。 その後、鎌倉時代になると、広く民衆救済のための実践的仏教が成立する。それは例えば、念仏の浄土宗であったり、禅の臨済宗、題目の日蓮宗などの出現である。 本作「禅~ZEN~」は、宋から帰国した道元の、時の権力に媚びずただひたすら坐禅をし、本来人間の誰もが仏性を持っているという悟りの境地に至るまでをストーリー化したものである。道元はもともと比叡山で天台教学を学んでいたが、その後宋に渡り、曹洞宗の天童如浄に師事した。日本に帰国してからは、福井県の永平寺を拠点に独自の禅風を興したことは周知の通りである。仏道を極めるため24歳にして宋に渡った道元は、天童山にて如浄禅師と出会う。そこで悟りを得た道元は帰国後、只管打坐の教えを打ち立てる。そんな中、比叡山の僧兵から度重なる弾圧を受けた道元は、門徒たちを連れ越前へ移り、永平寺を建立するのであった。作品のあらすじはざっとこんな感じだ。すでにお気付きの方もおられようが、親鸞や日蓮、あるいは空海のようなドラマチックな展開はない。その分、地味で淡々としたイメージは拭えない。だがそれだけに崇高で清廉な道元の一生を時系列に追うことができる。出演者も錚々たる顔ぶれである。歌舞伎界のサラブレットである中村勘太郎が主人公の道元を演じ、生活のために体を張って稼ぐ遊女おりんを内田有紀が体当たりの演技で挑んでいる。悟りとは、禅とは、自分とは何ぞや・・・そんな疑問をちらりとでも抱いた時におすすめしたい一作なのだ。2009年公開【監督】高橋伴明【出演】中村勘太郎、内田有紀また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.10.01
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「風のごとく疾く、林のごとく徐かに。火のごとく侵し、山のごとく動かず」「戦の嫌いなお前が兵法を?」「あなたを理解したくて“孫子”を読んだのです」Part2で重要な鍵となるのが、やはり何と言っても影で支える女性の力であろう。 驚愕したのは、孫権の妹・尚香の活躍である。いくらじゃじゃ馬で世に知られた姫君とは言え、敵陣である曹操軍の一兵士として潜入し、間者の役割を果たすのだ。一方、絶世の美女と称された周瑜の妻小喬は、身重の体でありながら無益な戦をやめさせるべく単身で曹操のもとに行く。この2人の女性の、男顔負けの勇ましさたるやどうだ!乱世に身を投じ、誰よりも正々堂々とした生き様を見せつけるのだ。本作「レッドクリフ」は、言わずと知れた中国の歴史書である「三国志」をモチーフとしている。中でも“赤壁の戦い”のくだりがベースとなっているのだが、周瑜と孔明の知恵比べというよりは、一人一人ができ得る限りの力で戦いの一端を担った、というのがテーマとなっているようだ。ストーリーに関しては、孫権軍と劉備軍の弱小同盟軍が、大軍を率いる曹操をいかにして討伐するのか、そのプロセスを描いている。吟遊映人が個人的に気に入っているシーンがいくつかあるものの、特にここは注目して欲しいと思うところがある。それはやはり、砂塵の舞う中、騎馬隊が押し寄せそれに応戦し、長槍を自在に操り、躍動感に溢れた戦闘をくり広げる場面である。乾いた大地に血しぶきが上がり、国をかけて闘う兵士たちの呻き声、怒り、鮮やかな騎馬戦に、もはや演技であることを忘れてしまうほどなのだ。そしてさらにクライマックス、2000隻の船が激しい炎に包まれ、長江の泡と消えてゆくシーン。それはもう敵も味方もなく、凄惨な死闘なのであるが、ある意味潔さを思わせるほどの気高い魂を感じるのだ。我々が「レッドクリフ」を観る時、雄大な歴史の重さを感じるのと同時に、一人一人が小さな力を併せ持った時の強大さ、その絆に気付かなければならない。2009年公開【監督】ジョン・ウー【出演】トニー・レオン、金城武また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.08.09
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「王子の謀反はいかなる処罰が適当か?」「車裂きの刑です」「傑、朕は・・・お前を罰せずともよいのだ。・・・だが、条件が一つ。これからは毎日、お前が母上に(トリカブトの毒の入った)薬を飲ませて差し上げろ」「・・・母上、力及ばぬ息子をお赦しください(自害し、絶命する)」何だかんだ言っても、中国を舞台にした歴史大作というのは、まるでスケールが違う。 ちまちましたセットではないし、身に着けるもののゴージャスなこと、大掛かりなエキストラの起用など、とにかく圧巻の一言。次から次へと息を呑むような場面の展開、目の覚めるような絢爛豪華な宮廷、それはそれは圧倒的な迫力のもとに視聴者を釘付けにする。なにぶん、内容的には歴史の哀切極まりない悲劇がクローズアップされており、決して後味の良いものではないかもしれない。親と子の悲哀、歪んだ愛情、そして夫婦間の憎悪。この治まりどころのない感情が噴き出したような、そういうストーリーに仕上がっている。舞台は中国、五代十国時代。菊の節句の祭日を前に、王妃は原因の今一はっきりしない拒寒症に悩まされていた。一見、病気がちな王妃をことさら気遣っているような王であったが、その実、トリカブトの毒を混ぜた薬を数時間置きに王妃に飲ませているのが原因であった。王妃が、先妻の子である第一王子と継子でありながら不義をはたらいていることが王の逆鱗に触れたのだ。だが、真相はもっと根強く、深い闇の底にあった。ストーリーがあまりにも“痛い”作品であった。単なる嘆きとか恐れの域を越えた、心に痛みを伴うシナリオというのは、そうそうお目にかかれない。鑑賞中の2時間は、何度画面から目を背けたことか数知れない。それほどのショッキングなストーリーというわけだ。(決してグロテスクなシーンではない)自分では抱えきれないような重苦しい感情と、倒錯した人間模様に、さすがに疲れ果ててしまった。舞台セットや衣装、演技力、それにカメラワークなど、どれも一級品なのでぜひともおすすめの大作なのだが、この作品と真正面から対峙する時の精神状態、健康面においては、万全の体調で鑑賞することを希望する。一見の価値あり。2006年(中)、2008年(日)公開【監督】チャン・イーモウ【出演】チョウ・ユンファ、コン・リーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.03.30
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孔明は、すがすがしい顔をして、魯粛に導かれて入ってきた。そして居並ぶ人々へ、いちいち名を問い、いろいろ礼をほどこしてから、「いただきます」と、静かに客位の席へついた。その挙止は縹渺、その眸は晃々、雲をしのぐ山とも見え、山にかくされた月とも思われる。(「三国志」吉川英治・著より)上記は、孔明が秘策を持って、江東の孫権のもとへ訪れた場面である。この辺りの表現からも分かるように、孔明は決して華やかな存在感のある人物ではなく、むしろ常に物静かで地味を好しとしていた。いにしえより“能ある鷹は爪を隠す”にもあるように、孔明は己が才を決してひけらかすことはなかった。孔明と言えば、千年に一人の大天才、名軍師の名を欲しいままにした逸材である。彼の実像は、「諸葛亮伝」にもあるように、正に伝統的な孫子の兵法を継承し、高い倫理性を備えた兵法家であった。だがむしろ、孔明の得意としたところは、蜀の内政を充実させるという意味で、政治家としての面にあったようだ。日本と違い、多種多様の民族がひしめき合う中国大陸にあって、蜀という非土着、あるいは西方の諸蛮族から成り立った集団を統括するのは、並大抵の努力ではなかった。その中で、寝食惜しんで政務を全うし、集団を結束させたのが孔明その人である。集団の統率者として、劉備が蜀帝に在位している時は順調だった。しかし、劉備亡き後その子、劉禅が後主として在位に就くと、国家運営の責は孔明一人の肩にのしかかる。哀しい哉、後主劉禅は凡庸で、政務、外交において才が乏しかったのだ。そんな劉禅に対して孔明が上奏した記述、それがかの有名な「出師の表」である。吟遊映人は、この憂国の精神に溢れた作品の一部をご紹介したい。安子順の言葉にもあるように、この記述を「読んで涙をおとさない者は必ずや不忠者である」と称されるほどの、最高作である。先帝、業を創むることいまだ半ばならずして中道に崩そ(※「そ」の字は楽天の日本語変換システムに対応していません。)す。いま天下三分し、益州、疲弊す。これ誠に危急存亡の秋なり。然るに侍衛の臣、内におこたらず、忠志の士、身を外に忘るるは、けだし先帝の殊遇を追い、これを陛下に報いんと欲するなり。誠によろしく聖聴を開張し、もって先帝の遺徳を光やかし、志士の気を恢弘すべし。よろしく妄りにみずから菲薄して、喩を引き義を失い、もって忠諫の路を塞ぐべからざるなり。(「出師表」より抜粋)後世、孔明が圧倒的な支持を受けたのは、ひとえに、この精神に他ならない。集団の統率者となった時でも決して私利私欲に走らず、モラルをわきまえた、ダンディズムの最前線をゆくものであったからだ。その清廉なる精神と、潔癖なまでの生活態度。それは正に、格調高いまでの清貧に生きることの高潔さを物語っている。吟遊映人は、そんな諸葛孔明の生き様を、愛してやまないのだ。【参考文献】「諸葛孔明」立間祥介・著、「諸葛孔明の兵法」守屋洋・著また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.03.21
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「レッドクリフ」においては、全編周瑜が主人公として描かれている。それもそのはず、この戦乱の世にあって、彼ほど軍事と芸術を分け隔てなく愛した人物はいないからだ。さらに、主人公にふさわしく“紅顔の将軍”とも噂され、軍中では“美周郎”と持て囃されていた。現代風に言えば、“イケメン”というやつだ。また、周瑜の名を世間に知らしめたのは、彼の奥方にも理由がある。それは、絶世の美女と謳われた小喬を妻として迎えたことでも、呉では知らぬ者はいない美男美女のカップルであったのだ。さて、この周瑜。「レッドクリフ」では、勇猛果敢で友情に厚い男として描かれている。また、曹操軍と対峙するため、弱小劉備軍と手に手を取って同盟を結び、赤壁での決戦に挑もうとする勇ましいストーリー展開となっている。だが実際、周瑜は開戦には大反対の一人であった。三代に渡る主家孫一門の安泰を計り、民百姓の生活を守ることが何よりの最善策であると考えていたからだ。では、何が彼を主戦派に変えたのか?それは、名軍師孔明の一言である。「星の数ほどある呉国の女のうち、わずか二名を曹操へ貢物として差し出すがよろしいかと。」「しからばその二名とは?」「絶世の美女、大喬と小喬の姉妹です。」孔明は説く。大軍を動かさずとも、その秘策を持ってすれば必ずや曹操は骨抜きになると。これを聞いて周瑜はみるみるうちに顔色を変えたのだ。孔明はこの時、よもや小喬が周瑜の奥方であるなどとはつゆ知らず、後で平謝りするのだが、おそらくは全て計算付くであったと思われる。男の嫉妬ほど怖いものはないことを、孔明は知っていた。周瑜はこの一件で、曹操軍と兵を交えることを決意する。「レッドクリフ」でもこのエピソードの片鱗を思わせるシーンが出て来る。曹操が、小喬の似顔絵を貼り付け、それを愛でながらちびちび酒を飲むあたりなど、実に見事な描写だ。プライドの高い周瑜は、曹操ごとき北方の野蛮人に己が愛妻を寝取られてたまるか、という嫉妬に駆られる。それにつけても、その周瑜の弱点に逸早く気付いた孔明という人物。この人もスゴイ。この名軍師孔明については、次回触れる。「レッドクリフ」をお楽しみの皆さんは、高潔なる周瑜の生き様と、妻を死守し愛を囁く男として活躍する姿をご覧あれ。また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.03.19
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「レッドクリフ」Part2の公開が近づいた今、少しだけ三国志のおさらいをしようと思う。我々がいわゆる「三国志」として親しんでいる現代のそれは、14世紀後半に羅貫中によって記された「三国志通俗演義」がベースになっている。それこそが、広い中国大陸を舞台にした三つの国の物語であり、英雄豪傑たちが覇を競う歴史ドラマなのである。三国志中、何にも増して鮮烈でしかも雄々しく描かれているのは、武器を取り、戦塵に舞う猛将の姿であろう。中でも、弱小劉備軍の傘下に名を連ねる五虎大将は、数多の敵軍を震撼させた。その面々を紹介しよう。【関羽】・・・劉備と義兄弟の契りを結ぶ。人情厚く、義理堅い。長さ二尺もの顎ひげを携え、重さ八十二斤の大薙刀を自在に操る。【張飛】・・・関羽と同様、劉備と義兄弟の契りを結ぶ。直情型で気は短いが、涙もろい。長さ一丈八尺の矛を振り回す豪傑。【趙雲】・・・元は公孫さん(王に賛の字、楽天の対応せず)に仕える。主人の死後、劉備の人徳に絆され、以来傘下に入る。この上もなく忠義の人。【黄忠】・・・老将だが、弓の名手。元は韓玄に仕えていたが、後に劉備に帰順。【馬超】・・・西涼の馬騰の子。父を曹操に殺され、その仇を討つため劉備に帰順。美男子として名を馳せる。「レッドクリフ」Part1では趙雲が敵中へ取って返し、奥方と幼主阿斗(赤ん坊)を救出するシーンがクローズアップされる。実はこのくだり、吟遊映人が情熱を持ってお伝えしたい名場面なのだ。曹操軍100万の大軍の中を、赤子を抱えたまま次から次へと押し寄せる敵兵をバッサバッサと斬り倒し、戦塵に舞う猛将趙雲の勇ましさ。この辺りの表現は、吉川英治による三国志の記述は名文である。『趙雲の大叱咤に思わず気もすくんだらしく、あっとたじろぐ刹那、槍は一閃に晏明を突き殺して、飛電のごとく駆け去っていた。しかし行く先々、彼の姿は煙の如く起っては散る兵団に囲まれた。馬蹄のあとには、無数の死骸が捨てられ、悍馬絶叫、血は河をなした。』(「三国志」吉川英治・著より)この見事な名文に心が躍りはしまいか?趙雲の神業とも思える超人的な武勇が、劉備の愛息子を救うのである。この幼主阿斗こそが、後の劉禅なのだ。「レッドクリフ」でも忠義の人、趙雲の活躍は充分に観て取れる。どうか、この「武神の剣が修羅の中にひいて見せた愛の虹」をご堪能いただきたい!また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.03.16
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「将来への不安も生まれました。我々が敵味方になるかも(しれません)。」「そうなったら・・・私もあなたもそれぞれの主君に尽くすことに(しましょう)。」 「私があなたと兵を交える? 想像できません。」「あなたが・・・曹操に仕えなくて幸いだった。」公開初日、シネコンまで足を運んだのは、この作品が初めてである。「レッドクリフ」そのものに思い入れがあるわけではなく、この作品のベースになっている「三国志」に対する溢れんばかりの気持ちがそうさせたのだ。この壮大な歴史スペクタルを、何の予備知識もなしに、ただ漫然と鑑賞するのは難しいかもしれない。だが、奇才ジョン・ウー監督によって「レッドクリフ」という愛と勇気の物語として姿を変え、満を持してスクリーンに登場した。その完成度の高さたるや目を見張るものがあり、ファンを魅了してやまないのだ。手前味噌だが、吟遊映人が「三国志」初心者の方々にあえてポイントをご紹介させていただくなら、次の点を踏まえて鑑賞されるのがベターではないかと。1.地獄絵図のような戦場で、主君の奥方とその若君を救出すべく、敵軍の中をただ一騎駆け抜ける趙雲の活躍。2.軍師孔明が単身で江東を訪れ、並居る老臣らを前に、孫権と劉備の同盟を申し入れたくだり。3.軍師孔明が考案したとされる九官八卦の陣(またの名を奇門遁甲の術とも言う)の映像化。かなり大まかではあるが、以上の3点は「レッドクリフ」のパート1において主な要となっている。およそ1800年もの昔、漢王朝の勢力が衰えて来ると、虎視眈々と王座を狙う者たちが壮絶な戦いをくり広げた。その後、事実上、力を失った帝を手中にし、勢力拡大を続けていた魏の曹操は、弱小劉備軍と江東に根を張る孫権を攻めるため80万の大軍を持って討伐に当たる。一方、劉備は呉の孫権と同盟を結び、強敵曹操と対峙することになる。「三国志」については、単なる映画の感想として記事にするには余りある。あるいは“赤壁の戦い”について、もっと詳細なことを記事にして、一人でも多くの人たちがこの歴史書に興味を持っていただけたらと思ったのだが、肝心なことを忘れていた。そう、映画はあくまで娯楽。こちらサイドの思い入れを強要してはいけない。作品に触れる各人がそれぞれの感性で、様々な意見・感想があって良いと思う。“十人十色”という言葉もあるように、一つの作品をどう捉えるかは視聴者しだい。そんなわけで、吟遊映人は切に願う。「レッドクリフ」という歴史ドラマを、ありとあらゆる五感を使って多いに楽しんでいただきたい。そして、少しでも興味を持ったら来月公開予定のパート2も、ぜひとも鑑賞していただきたい。現代を生きる我々は、時空を超えて、歴史の生まれる瞬間を体感することができるのだ!2008年公開【監督】ジョン・ウー【出演】トニー・レオン、金城武また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.03.15
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「朕の望みは日本国の統一だ。強力にして独立を誇る近代国家を確立したい。我々は鉄道や大砲や西欧の衣服は手に入れた。しかし・・・日本人たることを忘れてはならぬ・・・この国の歴史と伝統を・・・!」この映画の公開時にはかなり話題にもなったので、ぜひとも観てみたいと切望していた。 なにしろハリウッド俳優であるトム・クルーズと日本の渡辺謙が肩を並べるというのだから!トム・クルーズという役者さんは、人間としての生き様を見つめ直す、あるいは自己分析を果たすキャラクターを演じることが多いようだ。そういう意味で、「ラスト・サムライ」では願ったりのキャスティングを与えられたに違いない。望むと望まざるに関わらず、一たび戦場にかり出された兵士は敵を殺戮していくのが仕事。一人でも多くを殺した者が英雄になるのだから。トム・クルーズの役柄はアメリカの軍人で、南北戦争においてはインディアンらを殺戮した過去を持つ兵士として登場する。その異国人が、日本の伝統、武士道と出あった時、果たして何を感じ何を考えるのか? この作品のテーマは、おそらくその辺りがポイントになっているかと思われる。南北戦争時代のアメリカ。北軍の大尉として参軍したオールグレンは、アメリカ先住民族であるインディアンらと戦う。だが、インディアンの子どもや婦女子に至るまで無益な血を流すことに疑問を持ち、良心の呵責に苛まれる。一方、日本では明治維新の樹立とともに、近代国家建設のため西欧諸国から様々な文化、技術が取り入れられていた。それに伴い、アメリカから軍隊の指揮官を招くことになった。そこで、日本の実業家からオールグレンに対し、多額の授業料と引き換えに軍隊の調教を依頼される。何が泣けるかって、とにかく音楽が煽る煽る!「泣いてくれ」と言わんばかりの効果的なメロディーであった。桜のシーンは今一つで、生意気を言わせてもらえば、はらはらと散りぎわのシーンを撮影していただけたら申し分なかったであろう。あるいは平家絵巻などを部分的に挿入し、“忠度都落ち”のくだりなどをテロップを入れて紹介するのも一興だったかもしれない。たとえば、“さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな”~薩摩守忠度・句~などと吉野山の一面の山桜を背景にテロップを出すのだ。・・・余談恐縮。何はともあれ、親日的なサムライ映画で違和感なく楽しめる作品であった。2003年公開【監督】エドワード・ズウィック【出演】トム・クルーズ、渡辺謙また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2009.01.27
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「フランス野郎ども! 貴様らの“天使”はどうなった? フランスのクソ野郎ども! 俺が教えてやろう。あの売女は地獄へ送り返してやった! 悪魔とヤッてりゃいいのさ! 貴様らこれからどうする気だ? さっさとかかってこい、戦ったらどうだ! 聞えるか!?」「聞えるとも! 私は生きている! 主よ、冒涜を許したまえ・・・でも私は許さない・・・決して!」歴史大作は、どんなにお金をかけて壮大なスケールのもとに製作されていたとしても、興味がなければ“ブタに真珠”“猫に小判”で片付けられてしまう。グローバル化が唱えられて久しいが、今一度自国の歴史に目を向けて、先人たちの偉業に心から敬意を表し、感謝すべきではなかろうか。そして日本史を学ぶ傍らで、世界史にも興味を持つことがあれば、その時こそ英仏百年戦争の長きに渡る歴史をひも解くことをお勧めする。だが、活字離れで本は億劫だと感じる方、そんな方にこそ「ジャンヌ・ダルク」を観ていただきたい。人間ジャンヌ・ダルクの波瀾の生涯をダイジェストに描写し、神との在り方、宗教の在り方について問うている。時は15世紀、イギリスとフランスが長きに渡って争う百年戦争下のフランス片田舎。 神の使者として使わされたと、ジャンヌ・ダルクはシャルル王太子の許しを得て、祖国フランスのために鎧を身に着け、剣を振りかざす。ジャンヌ率いる仏軍は激戦の末、難攻不落のオルレアンを陥落し、見事英国軍を撃破した。これにより、シャルル7世としてフランス国王に即位。一方、ジャンヌを妬む一派が彼女の人気を危惧し、しだいにジャンヌは孤立していくのであった。それにつけても衝撃的なのは、ジャンヌの目の前で姉のカトリーヌが敵兵に刺し殺され、○○されるシーンだ。いくら教養のない末端の兵士でも、これほど残虐非道な行為が横行していたとなれば、復讐が復讐を呼び、戦争は苛烈して当然であろう。さらに、ジャンヌが純潔の処女であることを証明するために、何百人もの目にさらされる中、産婆によって性器に手を入れられ調べられるシーン。これもあまりに退廃的で、目を覆いたくなってしまった。しかし、マリー・アントワネットも皇太子を出産の際、やはり多くの人々の目にさらされての出産だったとあるので、当時のフランスではそういう気風があったのかもしれない。1431年、ルーアンにおいて19歳という若さで火刑に処せられたジャンヌ・ダルクの、太く短い生涯をこの作品からじっくりと味わっていただきたい。※○○は漢字二文字ですが、楽天の「わいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています」というご指導ご鞭撻により○○といたしました。1999年公開【監督】リュック・ベッソン【出演】ミラ・ジョボヴィッチ、ジョン・マルコヴィッチまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.11.21
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「戦は決してこの世からなくならない。俺はいずれ・・・戦場で死ぬ。できれば自分の望む戦で。だがこの戦が最後となるなら頼みがある。わびしい墓場には埋めずに、火葬にして灰は東風に乗せて撒いてくれ。」当管理人の小学生時代、夢中になって読んだ児童文学がニ作ある。一つは中国の「三国志」、そしてもう一つがイギリスの「アーサー王と円卓の騎士」である。このニ作品からは本当に多くのことを学ばせてもらったが、前者では“清貧”であることの孤高の精神、後者では“優雅で格調高い”生き様を教えられた。映画におけるアーサーと円卓の騎士たちは、原作とは全く違った設定になっていて、拍子抜けされた視聴者の方もおられるに違いない。しかし、タイトルの「キング・アーサー」にもあるように、この作品はあくまで“アーサー王”になるまでの武勇伝なのだ。短い上映時間の中で、凝縮された歴史の、過酷な戦乱の舞台を味わって欲しい。アーサーと円卓の騎士たちは、15年間の兵役を終え、晴れて自由の身となるはずであった。しかし司教は、退役の前にもう一つの難題を押し付けて来た。その任務とは、ブリテンに住むローマ人貴族を救出せよと言うものだった。だがブリテン地方は先住民のウォード(ケルト民族)や、新たな侵略者であるサクソン人らの交わる危険地帯であった。アーサーと円卓の騎士たちは、ローマ教皇の権威を振りかざす司教に怒りを覚えながらも、自由を求めて最後の任地へ赴くのだった。一騎当千の豪の者として名を馳せた、サー・ランスロットの活躍は、作中ではあまり描写されてはいなかった。原作ではランスロットは、アーサー王の妃であるグィネヴィアと恋仲に落ち、その許されざる禁断の愛に苦悩する。その片鱗を感じさせたのは、雌雄を決するサクソン人らとの戦いにおいて、敵の刃にかかろうとしていたグィネヴィアを助けるべくランスロットが駆けつけるシーンだ。映画上ストーリーの流れからして、本来ならアーサーがグィネヴィアを救うはずが、あえてランスロットを登場させるとは。ニクイ(笑)。ここは、原作を読んだことのある者にとって、胸の高揚を抑えることはできまい。愛する者を救うために我が身を犠牲にするのだ。「キング・アーサー」は、愛と友情とそして自由を謳歌する物語なのだ。2004年公開【監督】アントワーン・フークア【出演】クライヴ・オーウェン、ヨアン・グリフィズまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.09.18
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「イスラエルよ、災いあれ! お前らは神の前に大罪を犯した。この十戒を授かる資格はない!」たくさんの映画に触れていると、時々、妙な感覚に襲われる。それは、作品がまるでその役者のためにあつらえられた脚本なのではと、錯覚してしまうことだ。もちろん数ある映画の中には、脚本に先行して役者の方が決定していて、そのイメージに合うためのストーリー作りという方法もあるかもしれない。だが、ほとんどは脚本あっての役者選びになるので、たまにミス・キャストに遭遇するとがっかりしてしまう場合もある。そういう意味で「十戒」のキャスティングはすばらしいメンツを揃え、しかもそのキャラが役者と同一人に重なり、見事なまでの役作りに成功している。と言うより、まるでその役者のために存在するキャラなのではとさえ思ってしまうほどなのだ。 たとえば、ユル・ブリンナー。この役者はエキゾチックな魅力を武器に、強烈な個性で圧倒的な存在感をかもし出していた。作中では“悪役”になるのだが、なぜか、高貴な印象とプリンスたる格調高さにチャールトン・ヘストンが押されぎみにすら感じてしまった。また、晩年肺ガンで亡くなる直前に撮影されたタバコの有害を警告するCMが、没後に放送され話題となる。「自分が肺ガンになったのは、喫煙のせい」と告白する内容であった。【参照:ウィキペディア】やっとの思いでエジプトを脱出したモーゼとイスラエルの民は、シナイ山の麓を目指した。モーゼ一人がシナイ山に登り、神から十戒の石版を授与されるまで40日間を要した。この間、麓に残されたイスラエルの民は忍耐力を失い、快楽を貪ってしまった。一方、モーゼはシナイ山にて神から十戒を授かる。1.わたしのほかに神があってはならない。(唯一神)2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。4.あなたの父母を敬え。5.殺してはならない。6.姦淫してはならない。7.盗んではならない。8.隣人に関して偽証してはならない。9.隣人の妻を欲してはならない。10.隣人の財産を欲してはならない。その後、イスラエルの民の傍若無人ぶりを神から知らされたモーゼは、慌てて下山。そこで目にしたのは、金の子牛(偶像)を祀り、大騒ぎして酒宴に興じるイスラエルの民の姿であった。エジプトの王女役として出演するアン・バクスターも、その妖艶な美しさで視聴者を魅了する。ハリウッド映画スターの中でもトップスターであった彼女も、晩年は映画界の苦境を受けてTV界へ転向。1973年に放映された「刑事コロンボ」シリーズにおいて、“偶像のレクイエム”に犯人役として出演。「十戒」における妖艶で官能的な印象は、さらに光沢の輝きを増していた。円熟した演技に安定感と落ち着きを感じ、彼女の知性に改めて脱帽した。以上のように、「十戒」という作品は昨今の映画ではまず在りえない、そうそうたる顔ぶれの集結した大作中の大作なのだ。1956年(米)、1958年(日)公開【監督】セシル・B・デミル【出演】チャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.06.11
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「主の御業を見よ!」「海が割れた!」「神が吹き分けられたのだ。」我々日本人の持つ宗教観をメジャーなものとして捉えていると、そこには落とし穴がある。なにしろお正月になると神社に初詣に出かけてかしわ手を打ち、クリスマスはにわかクリスチャンに変身しキリスト誕生を祝って(?)ケーキをつつき、誰かに不幸があれば仏教徒になる民族なのだから。正に、「信じる者は救われる」という宗教観に生きている。日本人が宗教として捉えている神道を、ユダヤ教と同じ立場の宗教と捉えるのは誤りである。例えば、日本人になる絶対的要素に、改宗手続きや運動などはない。だがユダヤ教には一つの定義が存在する。ユダヤ教に改宗することは、すなわち「ユダヤ人になること」なのだ。にわか仕込みの改宗は在り得ず、非常に長き時間を要する手続きと運動なのだ。それはいわば、内面的な信仰に頼らず、行動、生活や民族を重視し、唯一神を尊ぶのだ。 この感覚は、多民族のせめぎあうことのない島国ではとうてい理解できないものである。 だがそうは言っても、つくづく日本人で良かったと思う。我々はいつだって信仰の自由が認められているのだから。日本語という母国語に守られ、日本という国家が存在する。何とありがたい環境であることか。成人してからのモーゼは、エジプトの王ファラオからその実子であるラメセス以上に寵愛されるものの、ラメセスにモーゼの出生の秘密を知られ、エジプトから追放される。その後、モーゼは羊飼いの娘セフォラと婚姻。ささやかな幸せを手に入れる。そんな折、エジプトから脱出して来たヨシュアが訪ねて来る。モーゼを救世主だと思い込み、ユダヤ人の救出を懇願する。シナイ山に登ったモーゼは、神からの啓示を受け、ユダヤ人をエジプトから連れ出すことを決意する。急遽モーゼはエジプトへと戻り、ラメセスと接見し、ユダヤ人の解放を交渉した。だが、ラメセスは拒絶。あくまで奴隷であるユダヤ人を解放しようとはしなかった。当時の技術で海が真二つに割れるシーンを撮影したのは、奇跡に近かったかもしれない。 あまりにも有名すぎて、あえてここで言及する必要もないが、聖書の記述通りの展開に仕上がっているため、携わったスタッフたちがいかに聖書に忠実であろうとしたかが窺える。あるいは製作者の中に、敬虔なユダヤ教徒の方もおられたかもしれない。映画に対する情熱と、宗教に対する信仰心が、見事にコラボした瞬間を見たような気がした。1956年(米)、1958年(日)公開【監督】セシル・B・デミル【出演】チャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.06.10
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「主よ、エジプトで苦しむ子孫の声を、なぜお聞きになりませぬ?」「エジプトにいる私の民の悩みを見た。追い使われて叫ぶのを聞いた。彼らの苦しみのゆえに・・・お前をファラオの所に遣わして、私の民をエジプトから導き出させよう。」この作品を今さらのように観てしまった。だが、アナログだというのにこれほどの完成度の高さ、緻密さ、それは時代を越えた悠久の歴史スペクタルなのだ。反戦映画などに度々登場するキーワード。それが、宗教問題であり民族問題である。これを島国民族である我々が、しかもキリスト教圏ではない日本人が、頭の片隅でちょこちょこっと思考したぐらいではとうてい理解できない問題を、この作品を鑑賞することで多少の知識としてなら認識の手助けになるかもしれない。この「十戒」の主人公であるモーゼはユダヤ人であるが、ユダヤ人というのはこれまでの歴史で多大な迫害を受けて来た民族なのだ。幸いにも民族の絶滅は免れたものの、迫害の原因は根が深く、信仰の自由を許さなかったことや、イエス・キリストを殺害した民族であり、さらには国家を持たない流浪の民という曰くも重なり、後世、その子孫はホロコーストなどの悲劇に見舞われる。そう言った知識を踏まえて「十戒」を鑑賞すると、一段と作品を理解し易くなるのではなかろうか。舞台はエジプト。聖書中の『出エジプト記』をもとに製作されている。それはモーゼが虐げられていたユダヤ人(ヘブライ人)を率いてエジプトを脱出する物語なのだ。ユダヤ人の嘆きを聞き取った神が、エジプト人の奴隷となっていたユダヤ人を解放するため、救世主として一人の男児を誕生させる。その者こそモーゼであった。エジプト人の王ファラオは、救世主の誕生を恐れ、ユダヤ人の男児を全て殺すよう命令。 モーゼの母は難を逃れるために赤子のモーゼを籠に入れナイル川へと流す。その籠は沐浴中のエジプトの王女に拾われ、モーゼはエジプトの王子として成長する。 とにかくものすごい人数のエキストラを起用しての“都市建設”シーンは圧巻。いかに当時のエジプトの王に絶大な権力があったかを象徴している。また、ギリシャ彫刻のような端正な顔立ちと長身を誇るチャールトン・ヘストンと、演技派ユル・ブリンナーの掛け合いは、芝居を越えた迫力と神話を覆すほどのリアルな重厚感をもたらしている。製作から半世紀もの経過を全く感じさせない、色褪せることのない輝きを放つ名作なのだ。1956年(米)、1958年(日)公開【監督】セシル・B・デミル【出演】チャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.06.08
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