《櫻井ジャーナル》

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2010.08.08
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 広島に続き、長崎に原爆が投下されたのは65年前の8月9日だった。アメリカが2カ所で原爆を使いたかった理由のひとつは、言うまでもなく、2種類の原爆が存在したからである。広島に落とされた原爆がウラニウム235で作られていたのに対し、長崎の場合はプルトニウム239で、その威力はTNT火薬に換算して21キロトンに相当すると言われている。

 原爆を投下するまでもなく、日本の降服が時間の問題だということは、日本側の動きを見ていれば明らかなことで、アメリカ政府もその辺は十分に理解していたはずだ。日本国内でも1945年の初めには「平和関連株」、平和な時代に儲かる会社の株式が買い集められていたと兜町の古老から聞いたことがある。降服のハードルは「国体護持」、要するに天皇制を存続させられるかどうかという点だけだった。

 フランクリン・ルーズベルト大統領が4月12日に急死したことも原爆投下の決定に影響した可能性がある。5月8日には、原爆の使用に反対していた科学者レオ・シラードとの会談が予定されていたのだが、実現しなかった。

 大統領の急死は政府の基本政策も大きく変化させた。1933年以来、ホワイトハウスはルーズベルトを中心とする「ニューディーラー」が主導権を握り、ファシズムや植民地に反対する姿勢を明確にしていたのだが、そうした雰囲気をルーズベルトの死は一新させたのである。

 実は、1944年の大統領選挙でルーズベルトの死を見越し、副大統領候補がヘンリー・ウォーレスから無名の上院議員だったハリー・トルーマンにすげ替えられている。ウォーレスは筋金入りの反ファシスト/親ソ連派と見られ、副大統領の時代からFBIに監視されていた。そして、ルーズベルト大統領が執務中に急死した。

 その結果、ホワイトハウスでは、親ファシスト/反ソ連の勢力が主導権を握ることになり、アメリカ政府はナチスの元幹部や協力者の逃走を助け、保護し、雇用することになった。日本でも「右旋回」を主導することになる。

 勿論、ルーズベルトが生きていても原爆が投下された可能性はあるが、回避された可能性も十分にあった。原爆後の核戦略、つまりソ連を核攻撃するプランが練られることは困難になり、「冷戦」を演出することも難しくなっただろう。ソ連への攻撃プランに関しては、後にジョン・F・ケネディ大統領とも衝突することになる。

 大戦が終わった直後、クレムリンが何を望んでいたかは別にして、軍事面でも経済面でも、ソ連に西側諸国を攻撃する能力はなかった。ドイツとの死闘で疲弊し、戦争どころではなかったのが実態だ。だからこそ、アメリカの内部には「チャンス」だと考えた勢力が存在した。そうした中で、最も攻撃的な主張をしていたのが「焦土化作戦」で悪名高いカーチス・ルメイである。ケネディ大統領とも激しく対立した。

 好戦的な雰囲気の中、喜ばれたのがドイツ軍の伝説的な情報将校、ラインハルト・ゲーレンの「ソ連脅威論」である。彼がソ連関連の資料を携えてアメリカのCIC(陸軍対敵諜報部隊)に投降したのは1945年5月だが、親衛隊は1942年の冬からアメリカ側に接触していた。1945年の初めには、ナチ親衛隊の高官だったカール・ウルフに隠れ家を提供して降服の手順などが話し合われている。






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最終更新日  2010.08.08 15:54:33


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