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其の年の9月、私は、車を購入した。ドイツ製国民の車であった。其の年の12月、私は、友達のマンションに、その車を渋く転がして向かっていた。其のマンションには、敷地内に入るにはチェーンゲートが設けられリモコンで開けなければならないが、当然私はマンションの所有者でないので、不法侵入するしかすべがなく、前の車に続いて、ゲートが降りたときに入るのである。それまで数回そうしてきたので、今回も、そうすることにしたのだが、少し前を走る車がかなり前にいることは薄々気がついていた。そして、チェーンが上がり始めたのである。冷静な判断であれば、車を止めるのであるが、何故か其の時、「ええい、面倒だ、いってしまえ」と面倒な脳が指令を発信し、アクセルを踏んだ。チェーンは車の下をくぐり、そしてひっかかった。そこで止まればいいものを、何故か、アクセル更にを踏んだ。やけに冷静であった。「とにかく、止まってくれよ、チェーンよ」と念じつつ、「後続車に迷惑かけてしまうなあ」と恥じつつ、「うわー。修理代たまらんなあ」と悔やみつつ、「友達に迷惑かけるなあ」と考えつつ、「車屋の電話番号控えてたかな」と思い出しつつ、「弁償代金たあらんな、保険使うか、100万ぐらいしたよなあ」と悲しみつつ、車は止まった。オイルが漏れ、私は、すぐさま車を降り、管理人に謝りつつも、出口車線の方から出入りしてもらえるように依頼した。すぐさま、車が数台後ろに並んでいた。私は謝ると共に、交通整理をしなければと思い、後続車の方に話をしようとした。「ひゅいまひぇん(すいません)」あれ、あれ、あれ、興奮状態にあり、痛みを感じていなかったのであるが、舌が半分千切れてだらりと垂れ、血がドボドボ噴出した。「あ、二枚舌だ!」と下らぬギャグが頭を巡った。いつ舌を切ったのだ?と考えていると、たんこぶができており、フロンとガラスにひびがいっていた。ぶつかった瞬間に、体が前にのめり込み、フロントガラスにぶつかって、そのとき舌を噛んで、またシートに戻ったようである。其の速度は時速30キロはあったであろう。一通りに作業を終え、舌をどうするものかと考えていると、神は私に慈悲を与えてくれたようである。坂の下に緊急病院が見えた。歩いていったが、頑丈に病院は閉まっており、私は、携帯電話から「あけてくれ」と病院に電話した。医者が、看護婦と何か談笑しながら、私の舌を縫っていく。「お金はまた後日でいいからね。薬は、舌なので塗れないからね。抜糸にまた来てね」と医者は言った。私は、分かりましたとお礼を言い、外に出た瞬間私は重要なことに気がついた。「飯が、食えねえ」翌朝私は人にあった。自分で何を言っているか分からなかった。昼からは、おでんパーティに出席した。もはや腹が減って仕方ない。「おでんをフードプロセッサでドロドロに溶かしてくれ」と私はいい、おでんジュースを啜った。十分に不味かった。翌日以降、数日間、私は、何でもかんでもドロドロに混ぜる計画に成功したのである。勿論、舌は痛いので、ストローを喉の奥に突っ込むのである。チューブ人間になった気分であった。ちなみにエンジンとミッションがいかれた車は廃車になった。ちなみに縫った糸は、勝手にほどけてしまった。ちなみに病院に行ってないので、思わず治療費を踏み倒してしまった。ちなみに最近のマンションのチェーンゲートのチェーンは、こういうようなことがないようにチェーンが切れるようになっている。これでは、敷地内で盗難した車は、チェーンを突っ込んで切って逃げることも可能である。
2005.01.31
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昔、短期のバイトで「スーパーマーケット徹夜改装工事」というのをよくやった。肉体的には結構しんどい仕事ではあるが、作業中、頭の中は違うことを考えられることが好きだった。その夜は、少し遠方で仕事があるということで、バイクを飛ばして、現場に向かっていた。爆音は嫌いだが、スピード感はたまらない。「ロック・アラウンド・ザ・ロック」が頭の中を流れる。そこに車が飛び出す。転がる私。「とにかく、止まってくれよ、俺の体よ」と念じつつ、「対向車線の車も止まってくれよ」と願いつつ、「うわー。修理代たまらんなあ」と悔やみつつ、私の頭の中では幼い頃からの成長過程がスローモーションで流れ、鮮明な映像として流れ、おまけにBGMとして微かに「夕焼け小焼け」が流れていた。2、3秒が何時間にも思えた。死ぬ瞬間って、凄く長い夢をみている感じになるのかなと思った。生まれてからのアルバムをめくって眺めて、長い夢だったと思って死んでいくのかと思った。パノラマ現象は終わった。対向車と私の距離が三十センチの距離を残して。正気に戻った瞬間、強烈に恥ずかしくなり、対向車に向かって「なんちゃって」ポーズをして笑顔で答え、バイクに向かって「情けねえよな」とつぶやき、面倒くさそうに余裕のふりをしてバイクを立て直し、脇道に寄せる。車に乗っていたおっさんから金を巻き上げ、バイト先を急ぐ。ミラーのないハンドルの若干歪んだバイクで。人生は実は、いや時間というものは実に主観的なもので、かなり疑わしいものではないだろうか?と再認識しながら。時間枠のなくなる夢のようなものではないだろうか?ある日、起きると、もしかして、まだ小学生だったり、もう老人だったりすることはないだろうか?長い夢も一瞬なのだ。
2005.01.30
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今日は、外で仕事をしたので、パッチを履いた。ロイヤルエグゼクティブの私には似つかわしくないアイテムではあるが、いや、持っているだけで穴があったら入りたいアイテムではあるが、以前、北極圏マイナス30度のときに数着そろえたのである。それ以来なので、探すのは必死のパッチであったが(死語)、そのパッチのゴムのところにKANSAIBOYと書かれてあった。まあ、確かにそうなんだけど、と私はつぶやき、一人、しんみり状態に入った。一人と言っても、私は、今の所、引きこもりではない。いろんな事情があるにせよ、昔は子沢山、皆貧乏なのでひきこもりは、そう多くなかったのである。豊かな贅沢病自己愛病である。私も、今、引きこもると、貯金が6万円なので、即、飢餓状態に陥る。だから引きこもることもできず、ひたすら自転車操業を展開しているのである。世の中は、贅沢になってきており、能率性経済性至上主義となっており、面倒なことはすっとばすのである。苦あれば楽ありという言葉は死語になりつつあり、苦は避けて楽だけを選択したいという言葉が生まれつつある。(残念ながら高校生からのドイモイ語録によると、楽あればさらに楽あり、苦あればさらに苦あり、というものだが、皮肉にも格差がでてきた現在、現実味を帯びてきているのである。生まれたときから頑張ってもワンランクアップというのは難しくなってきているご時世なのである)残念ながら、因果なもので、苦を消すと、楽が残るかも知れないが、その後には、もう何も欲しくないという虚無の世界が待っているのである。多分。そういえば、Eフロムはこんなようなことを言って危惧していた。世の中、楽だけが増殖して、経済性や便利性、能率だけを考えてモノが作られたり考えられたりした時に、人間の心にどのような影響を及ぼすのか全然考えずに商品化されていく、どんどん、人口環境化されていく、と。いったい試行錯誤はどこにいったのだ。
2005.01.29
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ウサギ仙人さんちで、マザーテレサのことを思い出した。この世(今はあの世)で無条件で尊敬できる人のひとりではないだろうか。マザーは茶目っ気があり、募金や食糧確保のためにいろいろアイデアを絞った。例えば、エアーインディアの機内食の残りを貰ったり、宝くじを作って1等は高級車にして、当選した方にはお願いしてその車をただで貰ってまた宝くじをするといったものだった。プアイズビューティフルといってはばからず、日本に来たときも、夜抜け出して、山谷のドヤ街を訪れたりした。私も、カルカッタで、マザーテレサの「死を待つ人の家」を訪れたことがある。不謹慎ながら、興味本位しかなかったと言われればそれまでで、冷やかしでは入れないようである。私は、許しを得て、室内に入った。清潔な室内では、路上で誰からも愛されなく見捨てられた人々が横たわっていた。死を待つといっても回復して、出て行く人もいるというが、死を待つ人々の姿がすがすがしくも見えた。本当にこの人たちは死んでいくのか?とさえ思った。死ぬ前に、初めて「人」として扱われて、その感謝の気持ちを表現している。 死を待つ人の家のすぐ近くには、破壊と殺戮のカーリー女神を祭るカーリーガートがある。生きたヤギの首をはねた血がべっとりついていた。後輩は、死を待つ人の家で、バケツに水を入れて衣類を洗濯するというただの仕事を1ヶ月間していた。彼は、ボランティアという言葉が嫌いであった。彼は、安宿で、気分がのらない日は、ボヤボヤベッドで過ごし、気分がましな日は洗濯をしに出かけ、気分がいい日には、ベッドでぼやぼやしていた。それでおまえどうやったんや、と私が訪ねても、まあまあですね、と曖昧な返事をしていた。その前に、私はムンバイ(ボンベイ)で知り合った日本人から、私と同じ大学の人がゴアで全財産取られたという話を聞いて、マヌケな奴もいるものだワハハと笑っていたのだが、帰国してそれが彼だということが判明し、更にワハハと笑った。因果応報なものだった。朝帰りした彼の部屋の異変に気がついた彼は、落ち着き払って、とりあえず、ベッドに座り、煙草をくゆらし、現実逃避したい自分と頭を整理しなければならない自分の葛藤が頭の中を駆け巡った。それでも、まだ静かであった。煙草を吸い終えた彼は「ワーッ」と叫んだ。そんな彼も、今は、カメラマンとして激写する日々である。マザーからの話題から遠く離れて。
2005.01.28
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何を隠そう、私はエグセクティブなので、クレジットカードを3枚くらい持っている。年会費を払ってなくて、1回も使っていないカードは数知れずだが、多分、それは無効になっているだろう。もしかしたら私の許可なく知らないうちにブラックリストにのっているかも知れない。 まあ、そんな話はどうでもいいのだが、先月も今月もアメリカで食事をしていることになって請求がきていた。勿論頭脳明晰な私は、怒り狂ってを持ってクレジット会社に電話した。 「すみません、見覚えのないところから請求書が来ています」奇しくも、今年アメリカから帰ってきた日を見据えたかの如く、帰国日の翌日に使ったことになっている。私は、さらに激昂して、怒りのやり場のない怒りを電話対応に出たクレジット会社の女性にぶちまけた。「あのー、これ、返金してくれますよねえ」おまけに、こんなカードは信用できないので、すっぱりちょんぎってやろうと思った。「カードナンバー代えてもらえませんか」そんな訳で私は、1週間カードは使えないが、それは他人には関係ないことだ。英国BBCも視聴料で成り立っているが、イギリスの政治家にとってBBCは鬱陶しい存在である。私は貧乏なのでNHK受信料を払ったことがない。お菓子を家まで持ってきて、さあ金払え、というのと同じ論理なので、NHKは遠慮なく見ている。ちゃんと見てますが払いませんという。しかし、私は心優しいので、徴収に来る人は同情して執拗に無視している。 スローフードが流行ってるんだってね。夜、ゆっくりイタリアンでも食べるときはゆっくり食べるじゃん。安全なものを食べる?今になって虫やウンコのついたものを食べるのですか?ラーメンが伸びちゃうよ。え、そーゆーことじゃないの? スローライフでっか。文明裕福いそがし病に罹っている我々にはなかなか難しいことやん。手帳を埋め尽くすことに奔走し、携帯電話を身肌離さず、テレビや本やネットで情報の渦に溺れてるのに無理やん。 知人にあげた前の車の自動車税を延滞料金含めて払わなければならないところまできて立腹している。知人、どこいった、車検も受けてないみたいで。事故あったら私も責任免れない、どこいった知人、電話に出ろ! 気分よくするために、ニューヨークのロイヤルトンホテルのカフェでよく読書したなあと思い出しながら・・・
2005.01.27
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私は水曜日に生まれた。タイで中国系のおっさんのほくろから毛がにょろにょろ出てきているのをよく目撃した。縁起が良いそうである。日本でも最近夜道を歩くのは怖いが、その感覚で北京の胡同近くの什刹海エリアの真っ暗な道を夜中にトボトボ歩いていた。什刹海は飲み屋街の三里屯や朝陽公園よりも、歴史ある皇城の雰囲気が強く感じられる。「まず什刹海があり、そして北京城(紫禁城)がある」とよく言われるらしい。什刹海は北京城発祥の地で歴史が古い。明清時代から「都市の自然風景」と呼ばれ、昔から北京の人々の憩いの場として親しまれてきた場所である。この什刹海は現在内城で最大のバー・エリア(50店舗程度ある)であり、「北京でもっとも魅力的な場所」と言われている。この辺りの湖、橋、緑、四合院、胡同、どれも古都北京の息づかいや、自然の趣が感じられる。お酒やバー、バーのある生活、そしてバーの窓際で向き合う恋人達はどれも現代生活の一場面にすぎないが、ここに来れば数百年の都市の歴史を感じることもできる。そういう理由で什刹海のバーは、趣ある高級な場所として支持されるようになった。何となく垢抜けないのは致し方ないか。この湖沿いに並ぶバーを越えると通りは急に真っ暗になる。前から数人の男達が歩いてくるのを見ると、思わず身構えてしまう。疑うことを知ってしまったのか。 それでも私は、何かを取り戻したいという気分で散歩を続けたのであった。
2005.01.26
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村で、泊めさせてもらった家の子供に、2本だけ持参した線香花火をした。「次もしよう」と笑顔で話しかけてみるのだが、子供たちは花火をしまってしまう。「明日の夜、他の友達のためにとっておく」といった。電気のない村での花火の炎。村で、泊めさせてもらった家のじいさんに、日本軍との壮絶な戦いをした湖のほとりに連れていってもらった。「俺と君の間には悲惨な過去があった。でも今は友達だ。握手しよう」と厳しい目をしたまま手を差し伸べられたので、私は手を出す。「この村にまでやってきたんですね。あなたがたは、直接、敵を見てきたんですね」といった。「敵国破れて、湖有り」と波のない静かな池。殴られたほうは、孫の代まで伝え、殴ったほうは、教科書に一行。ウノソボという町。夜、全寮制の身体障害者の学校へ招待され、のこのこ出掛ける。比較的軽度の子供たちが卓球をしている。「かかってこい」私はラケットを握る。あまり容赦しない私、大人、外国人、という三要素が彼らの闘争心に火をつけたようだ。子供たち列を成す。私は変化球なしで、徹底的に彼らを叩きのめした。負けるのは失礼だから。真剣な彼らの眼差しに敬意を示し、スマシュ、はい次、スマッシュ、はい次。中国人の家に泊めてもらっていたのだが、その前の道で万屋を営むマレー人がいた。幅二メートル奥行き一メートル程度の小屋には洗剤やらガムなどがぎっしり詰っていた。ある夜、小屋を隙間から覗くと、そのマレー人主がキョウツケの姿勢のまま眠っていた。中国人によると、彼の家はこれで、トイレはその中国人の家を拝借しているそうだ。そのあとで、「中国人が店を開くと(但し漢字は御法度)その前にすぐマレー人が屋台を開くのさ」と付け加えた。 海抜二千メートルのディエン高原に散歩に出掛けた。ボロブドゥールより古いチャンディ(寺院)が点在。空を見ながら歩いていると泥沼に足をつっこみ、抜くのに苦労する。泣かない女はいない、ボブマーリィを何故かかけながら、ビマテンプルや、温泉を巡った。
2005.01.25
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1990年1月23日、妹最後の10代の誕生日に。 2日間、部屋でじっと棲息しているのみで、頭も体も腐っている。 2日間で、25万2000字余りの文字を読んでいると、暇になってくる。部屋の温度が0度や1度では、吐く息が白い状態で、手がかじかんでいる。私自身がクリアな状態を保つ為に、わざと室内温度を下げていると言い訳しているが、もう駄目だ、温かい布団が欲しい。ぬるま湯的惰性状態にはいりつつある。 目標とか目的とか結果を決めるとか、そういうものが本来必要だが、若さにかまけて怠惰にしている。 午前4時になり、外気温はマイナス6度になった。寒さが音を吸収して、静寂の中、からっぽの空には星ずくし。 眠り過ぎで、ついに眠れなくなり、室内温度もマイナス1度。寒さが惨めな気分にさせてくれ、何かの予感がして、宛先人の決まっていない手紙を書き始めた。「あたたかいものが欲しい最近です・・・」から始まったその手紙ができた頃には朝であった。 でも最近、その言葉は私には死語です。 先週、私は数年ぶりに数回目のスキーに行ってきた。そこはそんなに寒くはなかった筈。中高を通して馬鹿みたいに運動した訳で、この体力はあと数年持つと考えられる。今は何も運動していないが、あの頃の自信だけが残っており、体力自慢の傲慢な考え方の亡霊だけがこびりついている。オヤジになって、運動会でこけるパターンであろう。「こんなはずじゃなかった」って。頭の中に残っている経験からくる傲慢と、体力の低下の乖離。 ・ ・・「髪結いの亭主」「仕立て屋の恋」で知られるルコント監督の「列車に乗った男」を先日、DVDで見た。台詞がいいなあと思った。「ばか」はいわゆる女性風にいうと「ばかあああん」といって心配してくれてて許してくれそうなんだが、「馬鹿」は致命的だ。「バカ」はその中間か、ユーモアがある感じ。 阪神淡路大震災は、中規模の局地的な地震であるのに、「未曾有だ」だの「前代未聞」だのという言葉を連発して、政府の対応や、火事や死者数や建築物耐震性に対して言い訳を与えてしまったと思う。震災地でよく聞かれた言葉のひとつに「戦前の建物は残った」というのがあった。私の自宅近くの地下のオムライスのうまい御影公会堂や、小学校でも例えば2棟のうち古い建物のほうが崩れなかったりした。昔は、職人気質も残っており、基準の2倍3倍のものを作るという余裕もあったのだろう。この地震では、補修すれば十分使える建物もじゃんじゃん壊して建て直したので(解体には国からの援助があり、補修には援助金がでなかったため)71年以降の新耐震設計がどの程度効力があったのか、結局確かめられずに10年が過ぎたのである。なんかやっぱり誤魔化されているよなあ。 今日、「震災10年神戸からの発信」という復興事業のパンフレットと「神戸空港工事を中止させよう」というパンフレットを別々の人たちが、同じところで配っていた。
2005.01.24
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別に外国と比較するまでもなく、自分の常識的だったこともちょっと場所を変えれば特殊だったこともある訳だなあと実家に寄ってみて思った。 私の実家は最寄り駅から徒歩25分であり、駅まで原付で5分、自転車で5分である。自転車はひとこぎもせず駅まで行ける。つまり坂だらけである。ちなみに世界中、上り坂と下り坂とどちらが多いかというと、同じだけある。駅から家までは原付で5分、自転車で15分である。故に、私の家族は4人だったが故、原付が4台あった。 駅までの道のりでは、前も後ろも原付だらけとなり、サイゴンのようになる。或いは、20年前の上海状態になる。勿論、雨の日も雪の日も酔っ払いの日も原付を駆使する。 私の家では、私が焼き飯が好きなので、朝食から焼き飯やラーメンということがしばしばあった。また、母は、中華料理は好きでよく作ったが、パスタは1回もつくられたことはない。 家から最寄の高速道路のインターチェンジに入る所にラブホテルがあり、当時、ホテルは旅行で泊るものと認識していた私は、自分の住んでいるところが観光地だと思っていた。しかしどこを観光するのだろうかと甚だ疑問であった。 家から小学校は20分、中学校は40分、高校は電車と地下鉄を乗り継ぎ1時間、これが標準かと思っていた。ちなみに高校は、ぐるっと電車で回っていくだけであり、歩いても1時間で行けた。 結婚していたときは、米を買うのが重かったので、1年間、米を炊かなかったこともあるが、それは全然、平気であった。また、肉料理も家ですることはなかったが、全然問題なかった。 時代と地域性もあったが、冬は特に、風呂は2日に1回であった。風呂の度に髪の毛は洗っていたが、中学生のときとなりの女の子は、それを聞いて、「風呂はいるごとに髪の毛まで洗うの?」と不思議な顔をされた。靴も当然、穴が開いても平気であった。 そういえば、インドに行った時、ウダイプルからバスで4時間の観光地(チットルガル)で遠足に来ている小学生の先生に記念写真を撮ってくれと言われ取ったが、綺麗な服を着た子から裸足の子まで様々であったなあ。 「僕の秘密をドイモイ君だけに教えてあげるよ・・・ハナクソ食べ」そういった3軒隣に住んでいたS君は東京大学に行った。
2005.01.23
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「駆け込み乗車は大変危険ですのでお止め下さい。あなたが怪我をする原因になります」と車内で3回も放送された。 車掌はイラついており、誰の耳にも「おまえのせいで電車遅れてしまうやんけ、安全確認怠慢で俺のせいになったらどないすんねん」と聞こえたに違いない。 自己責任自己責任と最近、イラクの問題でも大騒ぎになったが、要するに、「お上のお墨付きもないのに、勝手な行動とりやがって。おまえのせいで世間(=世間の代表の我々)を騒がせやがって、我々(お上)に責任問題がふりかかってきたら鬱陶しいやないか」ということだと思う。興味本位ででも、或いはお墨付きなしでとった行動の方が褒められたものだ。お上は、そもそもの責任を回避しようと躍起になる。そもそもの原因は自衛隊を派遣したことにあるのだから。 ああ、情けない・・・ああ、酔っ払って帰ってきて頭が回らないので今日は終わり。
2005.01.22
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バスステーションの端で洗濯をした後、バスを乗り継いだ。運転手の許可を得て、洗濯物を運転手の横で干させてもらった。うとうとして、通路に落ちて転がった。八月十七日独立記念日が近づき、旗が至る所で見受けられる。ここ数日、何度も「俺は日本を許しているよ」といわれた。戦争責任。戸惑う。もし、責任者としての申し子ならば片腕を切り落とさなければならない。例えば、インドネシアで何をしたのか、何も教えてもらったことはない。どんな時代だったのか、自分で本等を読むまで知らなかった。知らないことに対して、「そんなこといわれてもねえ」と思ってしまうのは正直なところなのだが、無知は罪である、ということは何となく分かってきた。もうひとつ。例えばどの国でも「チノー」とか「チニー」とかいって中国人と間違えられて、馬鹿にされる。はじめ、「ノー、ジャパン」「ジャパニ」なんていちいち反論していた。それって、私自身、そう思っているから言い返していたに違いない。次第に何といわれてもいいや、って感覚に陥ってゆく。具体的被害にあいそうなら別かも知れないが、何人でもいいではないかという諦めに似た境地が訪れ始めた。素晴らしい奴はどこにだっているし、下らない奴もどこにだっていることを理解するには結構実感がいると思うし、できた奴や下らない奴がいるからこそ、面白いってことはなかなか分からないことではないだろうか。夕暮れのドライブイン。賑やかであった。私はその中に静かに座り、人々の表情や情景を見ながらゆっくり飯を食っていた。ついつい出発時間を聞くのを忘れていた。バスが目の前を通りすぎた。私はまだ静かなままだった。今日から荷物のなくなる現実を受け入れなければならないのか?夕暮れの道は寂しい。少なくとも、私は運転手横、最前列に座っていた。バスは軍艦マーチのテーマと共に、ライトをアップにして戻って来た。車掌は身を乗り出して、私を見つけると、「オー、コリアー」と叫んだ。午前二時。ジャワの中部の主要都市マゲラン。バスの終点と知ったのは乗客が全員降りていった後だった。こうなったらジャワ島を抜けてバリまでいってやる、何て更にやけくそな気分になっていた。そこで登場したのが、自称天文学者ボビー。中年太りのインテリにしてホモセクシュアル。インドネシア各地を毛布と十数冊の書物と共に流浪している。国の奨学金で旧宗主国オランダにまで留学していたこともあるという。おまけに、ほぼ文無し。「宇宙が二つあるという説の話はこれくらいにして、疲れただろうから、僕の肩を枕にして眠るといいよ」と優しく揺れるバスの中でいった。そう、興味深々で彼にしばらく同行することに急遽決定したのであった。そして、どうやら枕にされたのは私の肩のようであった。ジャワの中部、スカンでバスを降り、夜が明けるまで彼の朝の講義をコーヒー一杯で聞いた後、彼の導きで山に入ってゆく。彼は太っているからか、徐々に遅れ始めた。宇宙を駆け巡る思想を持ちながら息を切らして歩いている男を何故か寂しく思った。インテリに完璧を求めるのも変なことだが、痩せ我慢して歩いて欲しいと思ってしまった。インテリは、穴があるからこそ突出している部分がある天才とは違い、完璧性が欲しかった。人は見栄だけでも結構やっていける筈だ。いい訳はよして、歩け。恥ずかながら命令口調で思ってしまった。せめて、優雅に歩いて欲しい。インテリなら。村人が迎えてくれた。天文学者と村人との関係は分からなかったが知り合いのようであった。私は納屋で一週間ぶりに動かぬ大地の上で、巨木の香油の下、昼寝をした。天文学者は隣で持参の毛布で寝ていて危険ではあるが、生理的欲求を優先せざる得ない。熟睡は夢をもみせてくれることはなかった。村。コルト。タンガー。バス。町
2005.01.21
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今日は、一日中座って仕事をしていたので、尻が割れそうになった。私は、自慢ではないが、面の皮は薄々なのだが、尻の皮も厚くない。 そういった訳で、例え数時間といえどもバスに乗るのは結構苦痛ではある。(今回のバンクーバーとシアトル間の3時間半は尻が痛くならなかったが) 時々、悪夢のようにスマトラの厳しいバスの旅を思い出す。スマトラ中部のパダンからバスでスマトラ島を南下し、ジャワ島に入ることにした。道は年々良くなっているのだろうが、相変わらずスマトラバスは世界有数の厳しいバスだぞ、と聞いていた。バス会社は多くあちらこちらで客引きをしている。世界六番目の島(七番目が本州)というのが、何となく親近感が持ててしまうのだが、赤道直下のジャングルの島で、山がインド洋まで迫っているという瑞穂の日本とは趣をかなり異にする。瑞穂っていうのも恥ずかしいものだ。ジャングルというのも木材や鉱山乱伐で恥ずかしいものだ。もともとプランテーションや木材を運ぶための道路を改造したに過ぎない道路は雨季乾季の繰返しで凹凸し、ジャングルのせいでカーブばかり。遠方を見渡せるという景色はなく、ただバスは一晩中カーブを続け、ひたすら頭をぶつけながら何かを考えるしかない。初め少なかった乗客も、徐々に増え、通路に人が無理矢理座っている。私の足元には私の足を枕に子供が寝ている。足の組み替えさえできない私の足には、お漏らしでべたべたになり、おまけに通路に座っている母親はそれに気づきながらも、「私達も耐えているのだから、あなたも耐えなさい」という目で訴えてきた。道はいつまでもくねっているが、私の体力は続かず、不快のまま、カーブの度に体をフラフラ動かしながら自分が眠っているのが分かる。右に頭が寄る度に、隣の母の手によって頭をポーンと押し戻されているのは分かっているのだが、体は寝てしまっていて、自由にならない。左に頭が寄る度に窓枠に頭をぶつけているようだが、割れないことをひたすら祈っている。窓ガラスは片面しかなく前後の客で数分ごとに罵詈雑言と共に引っ張り合いをしているようで、数分間風は入らず熱く、あとの数分間は砂埃が入ってくる。旅行者として一番バス慣れしている私でもこの状態である。カーブの連続によって半数の人々は既に嘔吐し、バスに積まれている鶏と穀物とガラムの臭いと交じって、いよいよ終末感を醸し出していった。私の目は、既に魚の目。一方、運転手は二人、車掌は三人、車掌の一人は休憩。二人はバス昇降口前後に身を乗り出し、カーブする度にバスの側面を叩き、奇声をあげて安全を確認する。運転手は一人は睡眠、一人は目を血走らせねがら、大音響で夜中の三時であろうがテープをかける。それに応え、車掌達はバスの側面を叩いてリズムをとったり奇声をあげる。つまり安全確認なのかノリノリなのかは不明だ。不快な夢の入口で音の割れたインドネシアンポップスが流れている。眠れないのに起きられない状態を続け、カーブで頭を打ち、目を開けると運転手もハンドルを切りながら、ハンドルを叩いてリズムをとっている。食事時間だけが休憩時間で、交代する二人の運転手の疲労度の都合で停車する。一日三食。朝食は朝の四時だったり、夕食が昼食の三時間後であったりする。夜中の三時。暗い食事以外に止ったのは、スマトラ島ジャワ島間スンダ海峡のフェリーと、バスのすれ違いどきにお互いの後部がぶつかって運転手同士の喧嘩が長引いた時だけであった。第一次欲求というのは強い。どんなに不快でも眠気には勝てない。常に振動があって頭を打ったり座席から尻が浮いたところで、脂汗をかきながら眠ってしまう。そんな中だからこそ、自分が眠っていると強く意識する。自分の不快そうに眠っている姿も容易に想像できる。起きることができない状態から起きる理由がないという状態に変っていく。七十時間後、朝のラッシュに少しだけ巻き込まれた末に、バスはジャカルタ。私の頭の中は、多少、ネジが狂い始めていたのかも知れない。あんなに厳しかったバスの移動も終点に近づけば、少し残念な気になってきた。赤道を超え、さらにかせいでいく旅。私はそのまま、今度は、ジャワ島中部スラバヤ行きのバスチケットを購入しのであった。
2005.01.20
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脳はえらく身勝手である。それに数パーセントも使っていないといいながら、余計なことばかり考えたり心配したり妄想したりしている。そういうことを考えながらも、体の調子が悪くなっても原因は分からぬし、内蔵であれば、どこの臓器が痛いのかも分からない程鈍感である。また今日もパクリ* 映画「ストレンジャー・ザン・パラダイス」の前半は、ジャームッシュがヴェンダースからもらった余りフィルムで撮られた。これがジャームッシュの出世作。* 沖縄県には、銭湯が那覇市内だけで二件。* 本当の英国紳士は、喋るとき上唇を動かさない。(グラハム・カー)英国紳士を表す「ジェントルマン」は「gently」から来ているが、もともとジェントリーとは「牧羊で儲けた成金野郎」を指していたらしい。* 「原子説」で有名なドルトンは、色盲の発見者でもある。ちなみに彼自身も色盲であった。つまり彼は、世界で始めて自分が色盲であることを知った色盲患者であった。ちなみに、私は色弱である。就職試験には困った。こんな質問をされたことがある。「きみは色弱となっていますが、いままで人生で困ったことがありますか」「はい。就職試験で」と私は答えた。* 一人っ子だと思われていたスネ夫には実は「何年も前にニューヨークのおじさん養子にもらわれていった」弟がいる。名前は「スネツグ」。* オバQのドロンパには妹がいる。金髪ポニーテール。O次郎と同じく幼児語「ペケポコ」しか話せない。* 「ムーミン」の『ニョロニョロ』は原作では『ハティフナット』、『スナフキン』は『スヌスムムリク』という。ちなみに『ニョロニョロ』は電気の精。* その昔、「夜のヒットスタジオ」にロンドンから衛星中継で出演したカルチャークラブのボーイ・ジョージは司会の古館伊知郎から「ボーイ・ジョージさん、痩せましたねぇ」と言われた翌週に麻薬で逮捕された。* エンピツのシッポにケシゴムを付ける発明をした人は、一生それで喰っていける。* 砂糖は湿り気が少ないところに置くと固まってしまう。塩は湿り気が多いところに置くと固まってしまう。さとうとしお。佐藤B作の本名。* こいくちしょうゆとうすくちしょうゆ。濃い、薄いは透明度の話で、塩分はうすくちの方が多い。* ボーイング機は通称ジャンボジェットと呼ばれるが、この「ジャンボ」はイギリスの動物園にいたバカでっかい象の名に由来する。当然アフリカ象だったので、「ジャンボ」自体がスワヒリ語の挨拶から来ている* スペイン人が中米に上陸した時、現地の人達に「ここはどこか」と尋ねたところ返ってきた答えは「ユカタン」。よってこの場所は「ユカタン半島」と命名されたが、現地の言葉で「ユカタン」は「何が欲しいのか?」の意。* 侵略者の白人”ここはどこですか?”気の良い現地人”ここはわしらの村(カナダ)だよ”侵略者の白人”あーカナダってとこなのね”アイヌの意味は“人”。ジプシーのことを最近では“ロマ”とも呼ぶが、これの意味も“人”。アボリジニの意味は“先住民”。(単なる英語か)(確かガンジス河やナイル河の意味は河、サハラ沙漠の意味は沙漠。)* サニーレタスの「サニー」はサニーレタスを作った人が車好きで当時流行っていた車「日産サニー」からとられた。(魔法使いサリーちゃんはたしか初めはサニーちゃんだったような)* ピタゴラスはかなりの霊が死後、“豆”になると信じていた。(ピタゴラスの定理は小学六年のときに知り、綺麗だなあと思った。なかなか美的感覚あるでしょ)* 奄美大島及び一部のアジア地方に「オンナダケヤモリ」というのがいる。もちろん、オスもいる。(一次世間を騒がせたセアカゴケグモって背赤後家蜘蛛って書くんだよね)* NHKでは『オマーン湖』を「おまーんみずうみ」と言わなければならないらしい。* コンクリートが固まる原理については、まだ、よくわかっていない。スキー板が滑る仕組みも、科学的に解明されていない。指がポキポキと鳴る仕組みも解明されていない。接着剤がなぜ着くのかもよく判っていない。一般的に出来る口内炎(アフタ性口内炎)も、なぜ出来るか詳しく解っていない。くすぐられると何故笑ってしまうのかも、よく判っていない。(私は、自分で自分をくすぐっても全然おかしくないのが分からない)* 皇居の清掃奉仕をしたら下賜される恩賜のタバコにはニコチンが入っていない。恩賜のたばこに入っている菊の紋章はたばこの「先端」に描かれている。根元に描かれていると吸い殻を消すときに踏まれてしまうおそれがあるため。* ゾウリムシは分裂で殖えるが、個体そのものが老衰すると、二つの個体が接合して核内の互いの遺伝子を交換して若返る。(なんかええ話やなあ)* カルピスウォーターついてですが缶入りのカルピスが発売されなかった原因は単純にカルピスを水で割った場合、時間がたつとカルピスと水に再分離してしまうからであった。この壁を乗り越えるのに十数年もかかり、あと一歩で完成というところで業績不振からカルピスはAGFに買収された。その直後に発売されたカルピスウォーターが大ヒットとは皮肉。(昔二日酔いのアイテムでした)* ロンゲの奴がよく、手で髪をを生え際から頭頂にかきあげる仕草をするが、これは毎日続けると高血圧の予防に効果があるらしい。(しかし見ていると私は腹が立つ)* バスチーユ監獄建設を命じたパリ市長は後に異端者として告発され、パスチーユ監獄入獄者第1号になってしまった。* 『マイルドセブン』はもともと『セブンスターマイルド』だった。トヨタの「マーク2」はもともと「コロナマーク2」だった。吉田拓郎の初期の曲「マーク2」の歌詞にはまったく「マーク2」は関係していない。喫茶店で詩を考えている時に、店の前をマーク2が走っていたのを見て、そのままつけた。* もっとも早いフレーズを弾ける楽器は、ハンガリーやジプシーの打弦楽器「チンバロン」* 学生時代(デビュー前)の渡辺徹が部屋に一枚だけポスターを貼っていた女性アイドルは、榊原郁恵だった。* アントニオ猪木は、自分のアゴについて医者に相談したことがあるらしい。* ブータンはかつて夏と冬とで首都となる都市を変えていた。* 世界の人口は60億人を越えたことになっています。淡路島の面積は600平方キロ弱ですので6000000000平方メートルとして計算すると600000000 ÷ 6000000000 = 0.1(平方メートル/人)となり1平方メートルに10人が立つと淡路島に世界全員が集結できます。四国なら面積は1万8千平方キロ強なので上の計算で、3(平方メートル/人)。ひとり一坪弱というところでしょうか。病的なデブでなければ大丈夫。* 年老いた母の為に、ジョン万次郎は、咸臨丸での訪米の時にミシンを持ち帰った。(ええ話やのう)* 青函トンネルは新幹線が走行可能な規格で作られている。(夢、夢のあとやのう)* 本四架連絡橋のうち児島~坂出ルートは新幹線対応の鉄道設備がある。鉄道部分が複々線に作られているのだが、現在は真ん中の2線だけ使っている。* 航空機のブラックボックスは、オレンジ色にペイントされている。海底等で発見しやすいように。* モンゴルには馬の毛色を表現する名称が約270あるが、モンゴル人であれば誰でも使い分けられるらしい。* 日本の飲食店で「ジンギスカン」といえば羊料理だが、トルコでは中華レストランの屋号。* 愛媛県南宇和郡には、鱸(すずき)さん・平目さん・鯛さん・浜地さん・鰯さん・海老さん・蛸さんと言う海に関した苗字の人がまとまって住んでいる。それに対抗してお隣の内海村には、大根さん・蕪(かぶ)さん・茄子さん・稗(ひえ)さんと言う野菜に関係した苗字の人がまとまって住んでいる。* キティちゃんで有名な株式会社サンリオの名前の由来は社長が山梨出身のため。* 接着剤の大手メーカー「セメダイン」は当時のライバルであるメンダイン社を追撃する目的で付けられた名前である。攻め+メンダイン=セメダイン(キョーダインという漫画があったなあ)今日はコノヘンで勘弁しといたる。
2005.01.19
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片腕の不自由だったひょうきんな先輩が死んで10年。走って、靴が脱げて、宙を舞った姿が滑稽でした。 人気たこ焼きやで1日3時間で売り切れ閉店になる親父が死んで10年。酔ってガハハハと笑っていた真っ赤な顔をいつもしてました。 2階に住んでいた友達の家は崩れ去り、荷物の掘り出しを手伝いに行った。最後に彼は力なく「サヨナラ、ははは」と寂しく笑った。1階に住んでいた方は亡くなった。古い60年代のレコードをまだまだ運び出そうとして、彼の奥さんは、「もう危険だからやめて」と少し半狂乱に言った。 学校の体育館に見舞いに行ったのに、逆に、リンゴや握り飯をもらってしまった。三ノ宮センター街のある店が燃えていて、ぼさっと眺めていると、大阪から自転車で来た店主がやってきて、自転車から転がり、「おおお、やっと開店した俺の店が~」と叫んで、店に入ろうとして止めた。 一緒に来た奥さんが「明日火災保険の手続き予定だったのに」とつぶやいた。助け出した猫が、ふと、遠くのどこでもない方向を見たら、暫くして余震があった。私は、数日で、会社勤めの為、ホテル住まいするため、神戸を離れた。逃げるような気がして、とても悪いことをしているようで申し訳なかった。震災で、家族も地域も一体となり、にわか震災ユートピアになった。少し郊外のコンビニに行ったら、おにぎりがパンパンに詰まっていた。行きつけのバーもなくなったが、割れなかった数十本を取り出してきて、路上で営業していた。震えながらビールを飲んだ。そうそう、やたら飲みにいった。金を落としたかった。煙草が切れても、大阪で買わず、我慢して神戸に帰ってきてから買った。大学の同級生の友達の家もスペイン料理の店もなくなった。数日前、私はスペインから帰ってきて、帰りに店により、ハム置きと生ハム数種類を置いてきたばかりだったが、当然、それも埋まった。2日目に、三ノ宮を歩いていたら、前に、同級生の旦那であるマスターが呆然とたっていた。「生きてんですか、無事でしたか」と私は叫んだが、彼は、私の顔を見て自分のことはどうでもいいという感じで心配してくれた。私は本棚が落ちてきて顔面内出血していて目の周りがパンダになっていたから。前にも書いたが、長田区に会った母の店は賃料値上げで、撤退した。その後すぐ地震が来て、開店準備中の中華料理屋が壊滅した。店に置いていた仏壇1000万円分助かった。自宅の瓦礫になった前で受験生が勉強していた。不思議なことに、戦前に建てられた建物が案外無事だった。それは経済効率ばかり求める時代ではなく、余裕設計していたからだろう。政府は、補修費用は補助せず、解体費用だけを補助した。ゼネコンはこれとばかり補修費の見積もりは無茶苦茶高く見積もった。壊す必要のないマンションまで壊されることになった。 今、震災10年を迎えて、見事、神戸は、つまらない他の街と変わらない街になった。今、10年を迎えて、いまだ建て替えでもめているマンションが2、3棟ある。家の近くにも有名なマンションがある。建て替え決議は住民の4/5の決議があれば無条件で建て替えすることができる。後ろに山、海の見える少し不便なところにあるそのマンションは今、数件だけの住民が住んでおり、裁判中で、当時のままである。通るたびに心苦しくなる。
2005.01.18
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阪神大震災の翌日、私は、ひとつの依頼を受けた。私が、原付を持っていたからである。まだ友達の安否も分からない頃でもあったのだが、倒壊した部屋に猫を飼っていたのだが、助け出して欲しいと。私はボストンバッグを持って原付を出した。交通は無茶苦茶で反対方向に走ったり、原付も二人乗りは当り前。警察が道を封鎖していても、原付は無視して走る。まっすぐ建っている建物がなく、三半規管がおかしくなり平衡感覚が危うくなる。 皆は、人を救助しているのに、何を猫の救助に向かっているのだと変な感覚に陥る。何をしているのか分からないが、渋滞の脇をぬって私以外にもバイクが走る。唯一開いていたガソリンスタンドに長蛇の列。倒壊する家屋。 着いて、部屋を破って中に入った。部屋の中は無茶苦茶で、猫はいなかった。と思ったら、押入れの奥にいた。「おいで」をすると、人になつくことのなさそうな猫が、そろそろ出て来て、私の足元に顔をなすりつけて、怯えている。いや、安堵している。私は、すまないと思いながらも、嫌がる猫をボストンバッグに積め、他の荷物は無視して、また部屋を出た。煙がくすぶる街の中、バイクは走り、足元のボストンバッグはもぞもぞしていた。震災3日後、私は運転手をしていた。オーストリアのTVクルーの運転手をしていた。渋滞と交通ルール無視の中、私は運転をした。そのときにふと気がついた。後部座席に座るオーストリア人は私をどういった目で感じているのか、ただの運転手なんだなと、アジア人なんだなと。そしてもしかして私もタイ等に行った時、運転手のことをどう思っているか思った。その後、学校に避難している人に、火事で燃える家の前で呆然とする人に、倒壊した瓦礫を片付ける人に、インタビュアーの質問は決まってこうだった。「これからどうしますか」そして人々の返事は決まってこうだった。「先のことはどうしていいか分かりません」私はそんな考える余裕もないわと多少憤慨もしたが、かくも西洋人っちゅうのは前向きというか、起こったことは仕方ないから対処どうするか考えるものなのだなあ、とも思った。それはそのインタビュアーの考え方だったのかも知れないが。人間は弱いものだよ。ほとんどの人が、お上を当てにしている様に感じた。仕方ないことだけれども。1月17日だけは毎年同じ日記を書いている。(再掲)前の日、神戸市兵庫区の友達の家で数人が集まり飲んでいた。木造アパートの2階だった。そこの住人の実家は私の家の近所であった。大抵は酔って面倒なので泊めてもらうのだが、その日は何となく家に帰ることにした。そこの住人もそれじゃあ、方向同じなので私と一緒に実家に帰ることになった。来ていた数人も住人が帰るので解散となった。私は、厳しくなると予想される二日酔いの中で眠りに着いた。そしてその時刻がやってきた。揺れは止まらない。地響きがすごい。世の中が終わったと思った。少なくとも関東地方は終わったと思った。止まる事を祈ったが、箪笥や本棚の下敷きになった私は、恐怖の中でも少し冷静であったように思う。パノラマ現象か、あまりに長い揺れであった。水は止まると判断した私は、フロに水を張ったりして、今出る水を確保。ラジオをつける。死者一人、、、、だれやその一人。近所の人々が、あわてて外にでてきた。「うっわわあ、あっ、おはようございます。すごかったですね~」日常があった。友達宅は全壊となった。その日帰った友達の家は2階が1階になった。阪神大震災から10年目。未だに、私は、風呂の残り湯を流してしまうことに抵抗があります。汚いから捨てなさいといわれるのですが、もし非常時に水があればたすかるじゃんって、思うのですもの。あの日、断水になるのは確実だったので、地震直後、風呂に水を張ったのは正解でした。1994年1月17日午前4時35分、ロサンゼルス大地震。死者約60名。第一報がクリントン大統領に入ったのが発生15分後。1時間後には、州兵1万人が出動、その7分後に消火活動開始。消防ヘリコプター、陸海空軍、ドクターとにかく何でもかんでも許可云々関係なく総動員された。テレビや映画でも見たことがあると思うが、トリアージドクターというのが、死んだ人、軽症の人、ヤバイ人にそれぞれシールを貼り、ほっとけ、病院行くな、最優先で病院に運べ、を判断していき、後からくる救済活動を敏速化させた。負傷者は多かったが死傷者は少なかった。しかしながら、黒人や韓国人の間で発砲事件を始とする暴動があった。1995年1月17日午前5時17分、阪神大震災。死者約6400人。第一報が村山首相に入ったのが発生110分後。行政経験もなく、それを知ってもなすすべがなかった。会議を開き、最高責任者は国土庁長官になった。自衛隊のへりは社会党は自衛隊反対の見地から出動がすぐできず、航空法で民間のヘリも着地できない。世界で3番目にヘリを保有しているというのにヘリでの救出は20人に満たない。病院は怪我の重度でなく、到着が早い者順の治療となった。圧死、窒息死。そういえば、外国からの救助犬も検疫か何かにひっかかってたっけ。総理は、当日「新春文化人懇談会」に出席して時間オーバーするほどに歓談していた。しかしながら世界が感心したのは、人々の落ち着き振りであった。火事場泥棒の少なさ、暴動どころか、助け合い、コミュニティが自然発生的にできあがっていった。当時の日本銀行神戸支店長は英断した。どうせ義捐金が入ってくるからと、金庫にあった現金を全部持ち出し、一番被害のすくなかった銀行に持ち込み、彼の責任において支店を開き、お金は十分にあることを伝えた。お金は、通帳がなくても払い戻し可能、ハンコなくても母音OK、定期の解約は即OK,焼けた金は即交換など、パニックを回避したのであった。確かにそうであった。私も、心理的に、安心感を覚えた記憶がある。これは関東大震災の教訓だという。このすべて反対のことをした関東大震災ではこれも要因のひとつとなり暴動や略奪が起こった。また400万円分の小銭を用意して、自動販売機等で使ってくださいと無償でばらまいたにもかかわらず、半数近くの人々が、紙幣を差し出して両替対応したという。
2005.01.17
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私は、もう時効なので告白するが、身体を縫ったことが齢30代にして2回ある。2回目は、舌。1回目は小学校5年生のときの右足内弁慶であった。中学校に勝手に忍び込み、野球をしていたときに、鉄板の隙間に穴が開いていた溝にはまったのである。 骨が見えた。興奮しているので、そのときは痛くない。友達の家まで血をダボダボ流しながら、その家のお母さんに背負われてタクシーに乗った。子供心に、他人のそれも小さなお母様に背負われてとても恥ずかしい、ということと、記憶にある中で初めてタクシーに乗ったなあということを思っていた。 今もまだ傷は消えない。幸いに、心の傷は消えたなあというか、心の傷はなかった。もうすぐ心の傷の消えない1月17日だなあ。盗作役に立たない嫌がらせ* 芥川龍之介の好物はブリの照り焼き*スチュワーデスの語源は「豚小屋の番人」*北京ダックはもともと南京料理*蟻のフライは同量の牛肉や卵より栄養価が高い*スターリンの趣味は狼の頭の絵の落書き*ダチョウの卵をゆで卵にするのには40分以上かかる*タイプライターの一番上の列でTYPEWRITERと打てた!*ハンバーガーの語源は当然ハンブルグ市である。しかしチーズバーガーの語源はチーズブルグ市(実在する)とは何の関係もない*ウクレレとはハワイ語でノミの意味*富士の名はアイヌ語の「フンチ」からきた*タイには886人の子供を産ませた王様がいた*紅白歌合戦、韓国では青白歌合戦(反共のため紅の文字が使えぬ)*人生70年も生きると23年寝ている。6年も食べている。8ヶ月もトイレに行っている。*アンポンタンはフランス語のアポンタン(性交不能)からきている*郵便ポストの正式名称は「郵便差出箱」*母を尋ねて3千里の原題は「アペンニー山脈からアンデス山脈へ」*イルカも溺れることがある*「民」という字は針で目を潰された人の象形*トイモイは中学3年のとき数ヶ月間毎日洗面顔付けをしてタイムを計った。最高タイムは3分14秒であった。そのかいあってかなかってか高校の時にはプールで潜水50メートルできた。* バッハもヘンデルも晩年、目の手術に失敗して失明しているが、執刀した医師は同一人物。* アメリカに移住したストラヴィンスキーは、アメリカ国歌の新編曲「星条旗」を発表。しかし演奏会当日に楽譜押収。国歌の編曲を禁止するマサチューセッツ州法(当時)のため。(新天地へのラブコールのつもりだったろうに、むごい)ちなみにストラヴィンスキーは自分のヌード写真を撮る趣味があり知人に送りつけたりしていた。* 有名な話だが、ストーンズの絶唱「悲しみのアンジー」はデイヴィッド・ボウイの前妻アンジェラのことを歌ったもの。ボウイとの結婚生活のある朝アンジェラが夫婦の寝室に行くと、そこにはボウイとミック・ジャガーが寝ていた。「それで、どうしたんですか?」とのインタビューアー氏の質問にアンジェラが答えていわく「朝食を作ったわ」。* アインシュタインが、最期の瞬間に発した言葉は、ドイツ語の呟きであった。しかし、それを耳にした看護婦は、英語しかわからなかった。* 死に際に「もっと光を」と言ったのはゲーテの有名な言葉。しかし、その前に「鎧戸を開けてくれ」とも言っていた。単に部屋が暗かったらしい。* ゲームソフト「ポケットモンスター」がアメリカでリリースする際「Pokemon」と改名されたのは有名だが、これはよくあること。ちなみに「Pokemon」の場合、「ポケットモンスター」とは、スラングで「男性器」という意味があるため。* 「閑けさや 岩にしみ入る 蝉の声」この句に詠まれている蝉の種類は「ニイニイゼミ」である。* モグラは、2時間以上何も喰わないと死んでしまう。ラッコも、同じ。* ショーペンハウエルの家を訪れたゲーテが、ショーペンハウエルの母親に「お宅の息子さんは天才ですね」と言ったところ、激怒した母親はショーペンハウエルを階段から蹴落とした。母親は、自分の方が天才だと思っていたのだ。* 「金鳥渦巻き型蚊取り線香」の線香を直線に伸ばすと、普通サイズの場合は75cmになる。* クラウンライターの親会社は廣済堂出版ミスタードーナツの親会社は「100番・100番」のダスキン。ファーストキッチンの親会社はサントリー。ケンタッキーフライドチキンの親会社は三菱商事。牛丼の「なか卯」の親会社はモスバーガー。コーヒーの「スターバックス」の親会社は服とカバンの agnis b.(アニエスベー)。居酒屋の「村さ来」の親会社は食品会社の加ト吉。* 『スターウォーズ』のダースベイダーは三船敏郎が演じるはずだったが断られた。* キューブリックは手塚治虫に2001年宇宙の旅の美術監督を打診したが断られた。* ブルースリーの間接的な死因は筋肉増強剤の副作用とされている。直接の死因は腹上死。しかも愛人宅で。ブルース・リーの香港の自宅がラブホテルになっている。* 飯島直子の母親の名前は飯島愛である。永遠にあるので、今日はコノヘンで勘弁されときます。
2005.01.16
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厚生年金というもの、そもそも第二次世界大戦のさなか、軍事資金調達のために成立したようなものであった。どうせこいつら早々に死ぬのだから先のこと考えても仕方ないし、ということで。厚生年金は当然企業も負担するので企業は渋ったが、軍部にものをいわせて、どさくさに紛れて成立させてしまったというイカサマの歴史がある。体力のない企業には、退職金の積立を止めさせて、厚生年金に回すよう搾取したのであった。 戦後もこの制度は残り、うまくサラリーマン税制というのがシブトク作られ、うまく経済発展もしたおかげで、一部の人間にうまく制度を享受することができる時代が続いていたが、もう駄目だ。ちゃんと破綻する。 そんなことをいいながら、スマトラ沖地震、津波を始め、北欧の強風、北米の土砂崩れ、日本も地震に台風と、世界中が不吉な異常気象や天災の災害の中、何故か、毎日、変わらず働いているのが、毎日同じような仕事をしているのが、ふと、満員電車の中で不思議なものだなあ、違和感のあるものだなあ、不感症だなあと思う。
2005.01.15
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気持ちええのう、とつぶやいたが、洗い場でじっとしているのは暇である。今日は、体感コーナーというところで、無理矢理ミストサウナに押し込まれた。10分でコストが54円ぐらいだそうである。自宅で缶コーヒー一缶分20分で楽しめまっせという営業マンの怪しい誘いに乗ってしまい、ついついのぼせて、ついつい頭まで洗ってしまった。 サウナの故郷、フィンランドでは、割と各家庭にサウナがついているし、ホテルにも地下や最上階にサウナがあったりした。泊めて頂いた一般家庭にも綺麗なサウナがあり、石にお湯をかけて立ち昇る熱気「ロウリュ」に包まれて汗を流した。季節が違ったのでビフィタという白樺の葉で体をビシバシしばきあげることはできなかったが、サウナでは瞑想インスピレーションの場になったというのは嘘で、ただ単純に気持ちよかった。 サウナの発祥地はフィンランドで、約2千年もの昔から人々の日常生活の一部となっていたようです。かって、1日の畑や森の仕事の後、サウナで汗を流し、疲れた身体を癒す唯一の場所でした。開拓者が森を開いて先ず最初に建てるのが、住居を兼ねたサウナであったと云う話しも伝わっています。 サウナについて説明しておくと、サウナという言葉自体、フィンランド語であり、もともと「入浴する」ということと、そのための「建物」という意味がある。それは日本の温泉のように民間医療に重要な役割を果たす場所であり、赤ん坊を産む場所でもあった。また、娘が結婚式の前夜、身を清める場所であり、人が死んだ時も冥土へ旅立つ前に遺体を清めるためにサウナが使われてたという。神聖な場所であった訳だ。 2000年も前から、サウナはもともと魚や肉の燻製を作ったり、穀物を乾燥する目的で建てられ、作業の後,かまどの余熱を利用して、スモークサウナとして活用してきており、現在、熱気浴そのものを目的とした石加熱方法のサウナに変わり、かまど(ストーブ)の熱源も薪や石炭の他に,広く電気が用いられるようになってきている訳だ。 そんな訳ではあるが、まだまだ我が家での家庭用サウナの日は遠そうである。
2005.01.14
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日本製紙100万円、TOTO1000万円、野村ホールディングス2000万円、サンドラブロック1億円、アイシンが現地法人も含め4200万円、豊田織機3000万円、スティーブンスピルバーグ1億6000万円、いすず自動車4100万円、東京海上日動火災保険グループ全体で5000万円、ボーダフォン1億9000万円、ブリヂストン1億円、ヤンキース松井5000万円、ヨン様3000万円、日本ラグビー協会78万円、米国大リーグ協会1億500万円、ニトリ2億円、バイアグラのファイザー製薬36億円、日興コーディアル証券2000万円、デンソー8000万円、豊田通商3000万円、ブラザー工業3000万円、トヨタ車体1300万円、ヤマハ発動機3670万円及び被災したオートバイや船外機などの無償修理(6000万円相当)、新日本石油1億円、ブッシュ大統領100万円、ビルゲイツ3億5000万円、トヨタ自動車3億8000万円、 日産自動車1億円、ホンダ1億円、NEC1000万円、王子製紙100万円、オムロン1億円、愛知県と名古屋市800万円だがインドは辞退、宗教大本6000万円、創価学会1000万円、トイモイ10万円。
2005.01.13
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2002年にバンクーバーのイエールタウンにオープンしたオーパスホテルという外観ガラス張りのデザイナーズホテルがある。空港から予約しようとしたが、2泊以上が条件と言われて、既に違うホテル「ウエッジウッド」もとっていたので、諦めたが、一応見に行った。 何と、真ん中の部屋が、洗面室バスルームが丸見えなのだ。胸の谷間の見えてしまう若い女性二人が化粧をしているのが通りから丸見え。都市劇場である。 そういえば、会社の事務所が2年ほど前移転したのであるが、前の事務所ではビルの窓から前のガラス張りのビルでビル劇場を見ることができた。エアロビクスをする人々の下の階では、会社員がコピーをとっていたり、その下ではブチックで人々が買い物していたり。 インドやネパールでは50円以下のホテルがあり、最低限の設備しかなくても、心地良く過ごすことができたが、チベットのバスで泊った軍の駐屯地のホテルは最低だった。その夜は、食堂でも、軍人以外の飯はない、食いたければこれだけよこせと、法外な値段をふっかけられ、夕食は抜きになり、案内された部屋には星が見えた。穴が開いているぐらい寒空でも大丈夫だと思ったが、布団が、ぬめっと湿っていて許せなかった。「この宿代でこの布団か、許せん!」と叫んでみたものの、虚しく寝袋に包まって眠ったのであった。
2005.01.12
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「もう席はエグジットロウ(緊急避難口)しかないのだがいいかね。もし、一大事の時は窓を開けて乗客を避難誘導してくれ」と地上係員は言った。 そうやって、シアトルを離陸した横3列縦10列の30人乗りプロペラ機は、大きな音を立てたまま、揺れ、雲の中を飛ぶ。 つまらなさそうな若い男のフライトアテンダントが、水を飲み、一通りの救命の説明をし、海に墜落したときは、座席が浮き輪になるから引っ剥がせと言う。その後、その男の仕事は終わりかと思いきや、広告の裏をメモ用紙にして、ドリンクの注文を承り始めた。 熱いコーヒーをこぼしそうになりながら、私は、外を見る。雲の隙間から時折見える地上は海になったり、陸になったりしながらも、爆音のまま。やがて、40分でバンクーバー空港が見える。海沿い中州にある空港の端の海岸線は土がむき出しのままで、数十メートル陸内から舗装が始まっており、勢いよく滑走路を舐める。 ああ気持ちよかった。
2005.01.11
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成人式というのも、私の場合は数年前に終了した気がするが、当時成人式の日には、成人式の隣のホテル29階でアルバイトをしていたことは、もう2回ぐらい書いたような気がする。(自慢だが、社員旅行で泊ったこともある) 会場の建物を見ながら、来年は行こうと決意したが、まだ、その願いは叶っていない。背広を買いに街に出たものの、着物姿はそう見受けられなかったがどうしてだろうか。販売員の口車に乗って、コートまで買ってしまった。何とか、シャツとネクタイは買わずに済んだ。クリーニングに出した背広のポケットに入れていた裸の1万円札はなくなっていたので、1万円高い背広を買ったと代償機制を働かせている。心では泣いている。 ノロウイルスが猛威を奮っているようだが、生牡蠣を食べ過ぎた私は大丈夫だろうか。 バンクーバーのロブソン通りともうひとつのメインストリートであるグランビル通りは、割と、いかがわしい通りで歩いていて楽しい。バー、ディスコ、シガーショップ、トップレスバー、寒空で並ぶ若者達、その横から無視して入場していくプチセレブ。 私は全然、怪しくないので、そのひとつのデリみたいな所に入ったが、酒販売の許可がないとビールも販売禁止のようで、買うものがなくモジモジする。すると、レジのところに、3センチ角のチャック付きビニル袋が売っていて、見本を貼り付けている。よくみると、2センチ角や長方形やら、いったい何を入れるのか不明のビニル袋が怪しげに売っている。思わず、コレ下さいと指差すと、また店員はにやりと笑い、レジの下をごそごそして、品物をくれた。コレ下さいといいながら、コレ何ですかというのは恥ずかしくなり、とりあえずお土産に持って帰ってきたが、何か写真にとるとヤバイ感じなので良い子は真似しないようにしましょう。
2005.01.10
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私の父はニヒリストである。虚無主義者である。もう少し正確にいうと、面倒臭がり屋である。世の中のすべてのことをやり過ごしたいと考えているようである。 今年、イギリスに住む妹がイギリスで結婚するのであるが、飛行機に乗るのが面倒なので、早々に参列拒否している。これから、私も虚しい説得をするつもりであるが、多分、無駄な努力で終わるであろう。 数年前に、私は、1500人程度の前で短いスピーチをする機会があった。そのときも、せっかくだから見に来てくれと頼んだが、面倒なのでと拒否された。 私の一回目の結婚式のときも、最後に新郎父の挨拶も拒否されたが、「本当にひとことでいいのだな」と言われて渋々承諾し、本当に「よろしくお願いします」と一言だけ言って参列の方々を凍りつかせた。凍りつかせたことを察知して父は、付け加えて言った「短いですけど」と。 そうもいいながらも、部活動の大会には、こそっと見に来ていたり、私の幼馴染がプロ野球の選手になって、その試合(阪急)を見ては贅に入っていた。数年前も、その子の父親が亡くなり、葬式に出席して帰ってきて「清原も来とったでえ」と何か満足気であった。 まあ、そういう父であるがボケないで長生きして欲しいものである(父の誕生日にて)
2005.01.09
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「生牡蠣ィー」と心の中で叫ぶ。バンクーバーでは、バス、スカイトレイン、シー・バス(渡しフェリー)の3つの交通機関はTrans Link社が運営しているため、共通のチケットで利用でき、90分以内なら3つの機関を乗り継ぎ自由というサービスがある。あるには、あるが、改札やチェックがあまりないので、勝手に乗っても分からないかも知れない。私は常識人なので、とりあえずチケットは買う。 腰も痛いので、歩くのは止めて、「街の迷子君」になることにして、とりあえず、行き先未定のチケットを購入し、シーバスで対岸の街に行ってみる。 バンクーバーの摩天楼(というほどでもないけど)と公園が見える。少し香港チック。陽が沈んでいく。 対岸にほんの10分少々で着いたが、いきなりすることがなかった。裏にマーケットがあったので、寄って見ると、ある市場でロブスターやら牡蛎やらムール貝やらが売られていて、正月用にか、大繁盛していた。ここで食べられるのか分からなかったが、とりあえず生牡蠣を何種類か選んで、貝の扉を開いてもらった。(つづく) 今日は、30数十年ぶりに、っていうか初めてウナギさんに会った。2ヶ月ぶりぐらいに心斎橋さんにも会った。鰻坂さんは明日、ロンドンに帰るという忙しい中、時間をとってもらったのだが、私の印象の中では、尖った靴を履いて走っているイメージだったのだが、恰幅の良い中年紳士のように見えた。(中年は失礼か) ベトナムビール333(バーバーバー)で乾杯し、ドイモイ政策について議論せず、3Dアニメ第三世代携帯の講義を受け、4月にロンドン在住の妹が結婚するときに、多分、再会することを確認して家路に向かったのであった。
2005.01.08
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駅の階段で邪魔になる箇所にぺたっと座って携帯電話をいじっているぼんやり目の若い男がいて、迷惑をかけていた。腰が痛くなくても蹴り上げないが、腰が痛いので、蹴り上げることもなく、少しストレスを感じた。 怠け者の私でも、さすがに、旅行中は不思議と「起きるのイヤイヤ病」が完治し、颯爽と朝食を採りに出かけたりなんかする。 シアトルの朝、マーケットの3階部分で、海を見ながら朝ごはん。アメリカに入って本当に肥満人間ばかり見かける。朝からこの量をみたらさすがに、そうなるだろう。生まれたときから栄養の偏りと過多によってブロイラー鶏のようになっていく。いつもアメリカで思うことは、量と値段を半分にして欲しいということだ。 朝、散歩してたら約2割の人々が、シアトルコーヒーを片手に歩いていた。私も好きは好きだが、こうも甘いモカやラテを飲んでばかりいたら体に偏重をきたしそうなので、日常のブラックアメリカンコーヒーを啜る。 海の向こうにはオリンピック連山が見え、ぼんやり眺めていると、カモメが餌をくれとばかりに窓際にへばりつく。きっと餌をやる人がいるのだろう。ぼんやりしているが、ぼんやりの中にも、神戸の姉妹都市なんだなあと思ったり、スターバックスっていち早く従業員にストックオプションを与えたり、パートにも保険を適用したりと働きやすい企業なんだなあと思ったり、マイクロソフトやアマゾンドットコム、古くはボーイングを生んだ所なんだなあ、とやっぱりぼんやり考えていた。 そだそだ、ジミヘンやニルヴァーナもだ。いかん、いかん、シアトル観光案内をしてしまった・・・てな訳で朝食は終了。
2005.01.07
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先日お伝えしたように陽炎のマハラジャクラスにはちゃんと、どんでん返しがついている。正月をおめおめとバンクーバーで過ごし、さめざめと目覚めると、既にシアトル行きの離陸時間が迫っていた。概ね30秒で荷物をまとめ、怪しい陶器メーカーとは関係ないと思われるホテルをチェックアウト、大急ぎでタクシーに乗り空港に向かう。 チェックインカウンターに向かうがもう間に合わないと言われるが、とにかく、行って見るといって、荷物預け無しでずんずん進む、が、ああ無情にも飛行機は既に飛んで行ってしまった。30人乗りプロペラ機よ、何故、私を見捨てた。 私は、とぼとぼ、再びカナダに入国、乗ってきた飛行機は無しなので入国カードに記入できない。理由を話すと、にこりともせずに審査官はいとも簡単に入国を許可してくれた。そして、3時間半程度のバスで、陸路で、アメリカに入るはめに陥ったのであった。無事、シアトルでは直接ホテルに乗り込んで、密かに疲れたのであった。 しかしながら今回の旅行はぎっくり腰が完治しないままの旅行となり、恒例の1日12時間ウォーキングはなく、ホテル内での静養という感じになってしまったので、ホテルはちょっと奮発していい所に泊ってしまったのであった。バンクーバーの歩行用信号機は概ね2種類あって、ひとつは、大またで歩いていて手首が切れているの、もうひとつは腰に手をやって腰痛で歩いているようなもの。信号機をみるたびに哀れになってしまった。 しかしながら正月には、多くの老若男女問わず、歩く私にはっと気がついて、ハッピーニューイヤーと笑いながら声をかけてくれた。私も、嬉しくなって応答しているのだが、気がつけば、頭に大きな変なハッピーニューイヤーと書かれた三角ダンボール帽子をかぶっているのを忘れていたことに気がついた。 みなさん、ハッピーニューイヤー。
2005.01.06
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朝、何度も携帯に電話が鳴ったようだ。まだ熟睡していた私には、携帯の意味するところが不鮮明であった。 今日から仕事始めであることを、今日知った。そこから家路を出るまでの私の行動は約5分である。勿論、靴下も履いた。 仕事始めは、私だけが概ね昼からであり、こっぴどく齢30代にして高校生並に叱られた。私の頭の中では、まだ日付変更線の向こうから戻ってきてなかったのである。 これを世間ではオオボケというが、私もそう思う。思ったより寒いと感じる日本のガラ空きの電車の中で、風邪をひいてはなるめえと思いながら、風邪をひいた人のことを思った。製薬会社とは、凄いお金をかけて研究開発し、世に薬を生み出す。しかし、誰かが風邪をひかなければその薬は必要ない。アスピリンや抗生物質等、副作用のほとんどないものや人類を救っていく薬を開発しながらも、需要がないと会社も困ってしまうというのは、因果なものだなあと思う。そして多重人格とか、新しい病名が生み出された瞬間に、その病名の患者が増える、そしてまた薬が開発されるという医者製薬会社のマッチポンプ的な世界も大変なものだなあ。 歯もコーティングすれば虫歯にならないし、半永久的な電球も技術的にできるというのに、そういったことは、自分の商売の首を絞めることになるのでしないというのも、まあ仕方ないことなんだろうか。 そういえば、薬ついでに書くが、先日行ったバンクーバーであるが、ここはオランダは別にして、なかなかの自由都市であった。バンクーバーのチャイナタウンにコマーシャル通りというのがあるが、そこには、ついにマリファナ販売で現在注目を浴びている「ダ・カインカフェ」というのがある。バンクーバー市警が市側に同店に営業免許を与えないよう要請してていたが、市当局側は同店に営業免許を与えている。この店は警察により、大規模な手入れが行われ、オーナーが逮捕されたが、翌日には営業を再開している。確か、市長は、個人で楽しむなら煙草より害のないこんなもの許可したらいいじゃん、という考え方の様である。他人の迷惑がかからないようであれば、個人の健康や自由まで国が管理するのはなんだかなあという観点から私は賛同するなあ。
2005.01.05
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簡単な説明を施しておくと、離陸時には、通常シートが直っていることと、シートベルトしていることだけをチェックしているが、ここでは、前のデスクや足元が折りたたまれているかとかマッサージ機能になっていないかとか座席横のラッゲジボックスが閉まっているとか、更なるチェックが必要で、全部チェックするのは面倒なので、座席の横に小さな緑のランプがあり、それが点灯していればOK。 座席に座るや否や、取り合えずシャンペンや水の飲み物サービスがあり、流石に離陸前なのでプラスチック容器に飲み物は入ってくる。離陸してグラグラ揺れなくなりシートベルトサインが消えると、ちゃんとグラスに変更となる。 その後は、アペタイザー、サラダ、4種類からのメインコース、デザート(チーズ・アイスクリーム・クルスプ・フルーツ)と続くのであるが、私の聖なる胃袋にはそこまでの許容量がしれているので、メインコースの途中で、食事は終了。ワインは10種類くらいから選ぶのであるが、ワイン通の私は、意味なく年式の一番古いワインを選ぶ。 ところで客層はというと、正規で乗ってる人やマイルアップグレードで乗っている人がいるが(間違えて乗っているのは私だけの模様)、正規料金は多分100万円ぐらいである。そこでつくづく思うのはアメリカ人の正装はジーンズなんかなあということであった。さすがにお金持ちそうな老人は別として、若きコンピューターヤッピーのような人は、帽子にジーンズでずっと本を読んでいたりパソコンを叩いている(ノートパソコン用電源・データ転送ポート有)。私も本と雑誌は3冊持参したが、機能で遊んでいる田舎者なので、そう易々と本も読めず、個人ビデオ映写機をいじったりした後に、遅ればせながら、ジコチューに「セカチュー」ビデオを借りて、セットして、見たりなんかしていた。(そういえば、学生時代ハイチュー工場でバイトしてたなあ) 主人公の女性側を病気で殺してしまうという「ある愛の詩」的短絡的ストーリーには、感動しないと怒られるので、単純に感動した。(が、3日後、どこのシーンで、或いは、何故感動したか思い出すことができなかった。その程度の現実感のない一時的感動であった)おまけに、映画のシュチュエーションが私と同世代というのが、私の悲しき感傷ラインをなぞっている。 シンプルライフはいいものだ。難しいことを分かりやすく説明することはいいことだ。しかし、どうも最近、「分かりやすい」ということがキーワードになりすぎているような気がしてならない。分かりやすいことはいいことに違いないが、相手に考えさせない分かりやすさって何だろう。勧善懲悪、予定調和しすぎてないかと思う。そうこういううちにシートを180度にしてフルフラットにした。シートは2メートルになり、私のような身長170センチに満たない大男でも十分に眠れるスペースが確保されている。そんな訳で、途中の焼きたてクッキー(実は暖めただけ)タイムも、その次の朝食も、寝ていたので無視してもらった。 しかし、離陸直前にはさすがに起こされ、目を開けると、フライトアテンダントの顔が私の顔10センチのところにあり、「飲み物はオレンジジュース、アップルジュースとかあるけど、どうなさいますか」と話しかけてくれていた。ただし、ファーストクラス担当の美人のフライトアテンダントは、おそらくオーバー65歳であったと思う。(食事の選択の注文を聞いて、紙に書きとめる時でも、ボックスに腰掛けていた。大変なんだろう。でも辞められないだろうなあと思う。計算の結果、ファーストは10人に2人のフライトアテンダント、エコノミーは200人に4人のフライトアテンダントであることが判明。) 人間とは、(私とはかも)ただのラッキーであろうとも、特権的なことがあれば、つまらない優越感がでてきてしまいます。エコノミーまで歩くと、本当に皆、劣悪な環境に座らされている奴隷ガレー船に見えてくるから不思議なものである。皆、頑張って下さい、地上上陸まであと5時間、私もいつもそちら側にいます!応援しますっ!と祈らざる得なかった。私も酷い人間だ。 そういって、飛行機が着陸し、沖止めで、タラップで下りる。するとファースト専用のバスが来て、数人だけを乗せて出発。その後で、ビジネス(エグゼクティブ)クラスとエコノミーのバスが来て大切な乗客を鮨詰めにする。「スマン、すまん、私が悪いのではないんだ」と何故か言い訳しながら、ラクチンのフライトは終了。
2005.01.04
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おめでとうございます。普段の行動が正しすぎるので、神は手違いとご褒美を与えてくれたようである。ファーストクラスはフルフラット仕様。
2005.01.03
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