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風はいつでもノスタルジア。犬も牛を食う。旱魃続きなもので。インド 沐浴場の階段の私チベット高原、道決裂タイ 南部へ。しがみつく私ガンジス川を泳ぐ私。目差せ対岸。上海で踊る私。浦江飯店。デリーでトイレの私。窓の無いボンベイロッジ。タイでトレッキング中の私(左)。修行なんかしちゃったりなんかして。
2005.04.30
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事象朝は、何時に起きたかよく憶えていないが、朝食を採ったのは9時半頃だったように思う。昨日の結婚式で昨日のうちにどなたが帰ってどなたが宿泊したかは定かでない。妹からの昨日のたった一つの命令は「お兄ちゃんは最後まで寝ないで残っておくこと」ということであり、本日のたったひとつの命令は「お兄ちゃんは最後まで皆さんを見送ること」ということであった。もう2度と、私には命令することはないであろう。年功序列型によりそういう謀反はあまり喜ばしいことではないのである。そういった訳で、徐々に人々はホテル&スパを後にしてゆく。背景新郎の父方もBMWの7シリーズを転がして、ノルウエー人の愛人を乗せて帰って行った。このノルウエー人、式には赤い刺繍入りのノルデック民族スタイルの服を着て現れ、腰には、大きな鍵と鏡をぶらぶらさせて歩いており、詳しい説明を30分ばかり講釈を受けたが、今覚えていることは、本当は剣もぶらさげるのだが、飛行機のセキュリティーチェックにひっかかったので持ってこれなかったということだけであった。経過全員が去っていったのは昼過ぎであった。宿の支払いに妹が、「私のカード何か使えないからお兄ちゃん代わりに払って」といわれて、キャッシディスペンサーよろしく自動的に支払った。それが妹の巧妙かつアクドイ常套手段であることに気がついたのは、カード支払い代金が20万円を突破していることに気がついてからであった。結婚式で初めて私が泣いた瞬間であった。新郎の車には荷物が乗り切らないので、一時的に母のベンツのRV車と交換して、近隣を散策するおとにした。新郎と妹、日本からかけつけてきてくれた妹の友達Yさんと、母。昨日の残りのウエディングケーキだけは乗り切らず、Yさんのひざの上にケーキを乗せて近郊に出発。ただでさえ、腹がいっぱいなのに、ケーキ臭をかいでさぞかし気分が悪くなったであろうが、まあ、そこは愛でたいという事で我慢してもらう。原因凡そ20分たらずで到着した街はストラトフォード・アボン・エイボンという小さな町で、シェークスピアゆかりの地という所である。エイボン川のほとりの桜が咲く駐車場に車を停め、前払いでお金を入れ、レシートを車の窓に貼り付ける。川沿いには遊覧船の他に細長いボートがあり、老後を船上で過ごす人々もいるといっていた。これでヨーロッパ中を巡るというが、ドーバー海峡をあれで渡る訳?と疑問に思ったが、思っただけであった。ところで、シェイクスピアの家を目差して、チューダー朝の町並みを歩く。チューダー朝といえば、ローマカトリックからフン無視してヘンリー8世がイギリス国教を打ち立てたという内輪もめの時代であったが、上流階級に砂糖が流入して虫歯が増えた時代でもあった。その建築の特徴といえば、木造で化粧梁を見せたまあいわば御伽噺のような造りである。シェークスピア博物館とその横の生家は、父母から子供達までの一生を詳しく説明したものであり、出口には土産屋になっており、ここを通らずして出口無しの血のイニシエーションの場となっていた。チューダー朝風パブで昼食を採ってから、また車に乗って10キロ程進む。対処街を出て2,3分で緑の草原になる。そして大学の街ウォーリックに着く。スーパーマーケット横の駐車場に車を停め、前払いでお金を入れ、レシートを車の窓に貼り付ける。日曜の午後は少し駐車料金が安いようである。そこから歩いてウォーリック城に向かう。TO LETとTOLETと何度も見間違える。外から見た城は廃墟のようであるが、まだ伯爵が住んでいるという噂を聞いた。妹達は先日も来たので、近くのパブかカフェで90分程待っているという。城の見学に90分もかかるだろうか危惧したが、中は歴史や調度品や当時の姿のマダムタッソー製作の人形などを再現していて、暮らしぶりが分かった。牢屋や拷問室や武器製造室などまでもが再現されておりなかなかマメであった。問題はすべての出口には土産屋になっており、ここを通らずして出口無しの血のイニシエーションの場となっていたことぐらいであった。総括そんな訳で、何故かあっという間に90分は過ぎ、雨もまばらに降り、我々は車に戻った。店は午後5時前であるがすっかり閉まっており、駐車場には車がほとんどなくなっており、歩いている人も心なしか少なくなっていた。カーナビを駆使してコベントリーの街外れの空港に向かう。カーナビの言うとおりに走っていると、郊外になり心配になってくる。彼自身も心配になり、車を停めて、もう一度セットした。どうみても裏道を通っている感じである。いくら私が人生裏街道だといってもねえ。空港に到着すると、駐車場になっており、ここからバスに乗っていくと言われ、直接空港にいくなら、この地図の通りいきなさいと守衛に渡され、また来た道を引き返した。空港建物はまさしく倉庫であり、車寄せのない空港で、急いで荷物をおろして、バイバイと慌しく別れた。ポケットに手を突っ込むと、最後に妹にくれてやろうとしていた祝い金に手があたった。仕方ないので私の祝い金にする。チェックインカウンターではパスポートを出しただけで、搭乗券発行であった。ネットでしか予約できないシステムになっており、母と私は、即席で作った倉庫の中に設置されたいい加減安そうな椅子に座ったのであった。そうして待つこと、1時間、タラップよりトムソンフライドットコムという飛行機に乗ったのであった。勿論飛行機はいきなり故障で、なかなか飛ばなかった。
2005.04.29
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90になる母方のおば~さんが、北海道のマラソンに挑戦、156キロを走破していく様子と、ゴ~ルした後、皺皺の弱った足に包帯を巻いている痛々しい姿を目撃した。そして目が覚めた。メ~ルをチェックしたら大学の一つ上の学年の先輩Kから数年ぶりにメ~ルがきていた。尼崎の心配と誕生日であるということだった。通称「○虫ケンちゃん」だ。私も髭が濃いのだが、この先輩も異常に髭が濃く、顔も黒光りしている。学生の時、洞窟の近くでキャンプをしていて、朝起きると髭がボ~ボ~に生えてて、髭をかきむしったら髭から丸虫が落ちてきたからそう呼ばれるようになったのであるが、皆脱ぎ捨てていた靴の中で、先輩の靴の中だけに夜中のうちに大量の丸虫が入り込んだというのが真相だ。この先輩は、学生の時、7月頃にネパ~ルに出かけたまま、学校が始まっても一向に帰ってこず、ゼミも必要出席日数を越え、2留年が決定したのだが、それより、生死の安否を心配していた大晦日の頃、一通の葉書が大学に届いた。「みなさ~ん。元気か~い」帰国後、食品会社経営の父母の前で正座させられ、当分軟禁状態になった。そういっても、今や某一流メ~カ~の立派なサラリ~マンである。(3男の為会社継がず)そういうことを書こうとしたのではなかった。そういえば、フランス続きであるが、この国も超学歴社会である。グランド・ゼコ~ルと呼ばれる高等大学機関を卒業したものだけがエリ~トである。パストゥ~ルもサルトルもジスカ~ルデスタン元大統領もシラク大統領もロマンロランもデュルケムもグランドゼコ~ルは3つのコ~スがあり、其の一つである理工系のエコ~ルポリテクニ~クの在学生がホ~ムステイで受け入れたことがある。彼は、男前であった。日本に着たばかりの彼を京都の学校まで迎えに行き、途中都市銀行で、フランを円に両替しようと窓口に立つと、女性行員は、隣の女性行員に「あんたフランス行ったことあるんちゃうの」といいキャ~キャ~騒ぎながら、フランス紙幣の見本を奥から取り出してきて、正しいかどうか確認していた。そういえば、エストニアの銀行で、日本円を出すと、同じように奥から1万円を出してきて、見比べていたなあ。い~や、そんなことを書こうとしていたのではなかった。何の話を書こうとしていたか忘れてしまったよ~。JRはまだ神戸線もダイヤが乱れたまま。
2005.04.28
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今宵は一丁、フランスにかぶれることにする。狂犬病ワクチン、ヌーベルバーグ、BCG,カメラ、白い杖、キール、エルメス、デニム、ルイビトン、バレエ、道路名プレート、トイレットペーパー、オピネルナイフ、ベレー帽、メニュー、ゴブラン織り、カマンベール、エレガンス、ペリエ、シャンピニオン、ファックス、クセジュ文庫、ネオン、シャンソン、リュミエールの映画、レターペーパー、ドラジェ、ジャム、手巻き煙草の紙、ラコステ、ダブルベッド、マヨネーズ、シャネル、四葉のクローバー迷信、アペリチフ、マーガリン、国歌、ミシン、ホモセクシュアル、くろわっさん、ワインオプナー、印象派、バカラ、リモージュ焼き、ビデ、点字、貞操帯あー。かぶれたかぶれた・・・
2005.04.27
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ご冥福お祈りします。今の時点(2005年4月26日零時)では、時間を取り戻す焦りや居眠りや置石など複合的な原因が推測されているが、大惨事になってしまった。今考えたら、私も小学校の時、置石ではないが、置き金をよくした。レールの上に5円や10円を置くと、車輪にけちらされ、表面がツルツルになるのだ。凡そ、半分の確率でどこかにいってなくなってしまうのであるが。そんな遊びをしていたなんてぞっとする。勿論お金を変造することも法律違反である。軽はずみな気持ちであったので、もしこれが子供達の仕業であったら、他人事ではないと思った。
2005.04.26
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全然時差ぼけのつもりはなかったのであるが、昨晩は突然眠れなくなり、朝になってから眠ってしまった。おかげで昼間は朦朧とした状態だったが、朦朧としているのはいつもなので、何ともいえない。車で10分程度の所にシネマコンプレックスがあり、夜は安くなるので、時々、思い立って映画を見に行く。今日は、香港映画「インファナルアフェア3」を観に行った。なかなか良く出来たストーリーで、漢字読みで「無間地獄」なのだが、本当にくるくる回る感じである。結局3部作とも劇場で観てしまった。レオナルドデカプリオとマットディモンでハリウッドリメイク版が決まったそうであるが、何だか9.11以降の有無を言わさない言論統治のにおいがプンプンしていて、アメリカ映画もなんだかなあと思うようになった。たった一人を救う為に、たった数人を救う為に、家族愛や人類愛、お国の為に・・・それが賛美あれ、ニュースになる。一方で野蛮にも世界の取り決めを一方的に破って他国、他地域を侵攻し、何十万人を殺戮する。その事実は隠蔽されるかベタ記事。命の価値は1000分の1程度である。苛めたい地域の川に潜むウイルスに効くワクチンをストップさせてしまい、何十万人を病死させる医療テロや、土壌汚染させて作物を育てなくさせる農業テロ・・・あぁ夕食にタイカレーにヨーグルト入れたら吐きそうになった・・・あぁ朝入れたコーヒーを飲むのを忘れていた・・・あぁ泥川で泳ぐアフガン難民の子供達の笑顔
2005.04.25
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イギリスフランス写真集2前夜祭から飲み過ぎである。明日の結婚式は欠席しようかと思った。シャンゼリゼ大通を凱旋門から見る。はっきりいってオノボリサン丸出し、きっぱりいってカッペ丸出し。告白してしまうが全部俺の女ウォリック城。入城料が高い。エッフェル塔下から見ていたら朝になってきた。酔いを冷ますために外でブラブラトムソンフライドットコム。コベントリー-パリ間1時間少々、4000円。(税金3,000円)バスとユーロスターでいけば30000円はかかる。イギリスの貧乏旅行は飛行機か?合法ドラッグ。買って買ってよー
2005.04.24
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パリ、中洲シテ島シテ駅のメトロ入口は、アールデコしてますねん。ストラトフォード・アポン・エイヴォン シェイクスピアの家ネ結婚式のあったホテル&スパ。どこまで敷地やねん。新郎君はペントハウスにお住まいで天井が高いのですが、月々30万で貸せると言っていたが、鎧があって怖いので多分3万円ぐらいでしか貸せないだろう。2つほどはネットオークションで購入したとのこと。パリ、シャンゼリゼ大通。私もブランド主義者なので、ルイビトンのバッグを買ったが、飛行機に乗らず、空港に置いて来た。その没収されたシャルルドゴール空港の新しいターミナル(1999年)オールシースルー。去年落ちたらしいけど。式場では孔雀を追いかけて遊んでいた。パリの標識「手つないだらしばくぞ」
2005.04.23
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One Day昨年KLMオランダ航空とエールフランスが提携した。KLMは顧客の経費削減をニーズに答えるために余計なものをそぎ落としたものをビジネスクラスと考え、エールフランスはシャンパンなど好きなだけ飲める至れり尽くせりのサービスを理想としている。そのいいとこどりをしようとしているみたいだ。今回初めてエールフランスに乗った。そういえば夜中には、セルフバーが設置されており、勝手に飲んで良かった。しかし、健全な乗客の皆様は何故かジュースや水ばかり飲んでて、私は、シャンパン1本がぶ飲み大満足でございましたよ。One Dayバンカーバスターやクラスター爆弾やデイジーカッターといった殺戮兵器を作る米国国営企業で勤め、民主党支持者で禁煙家で良きパパで健康至上主意者で日曜なんかは教会で祈ったりなんかする。「世界中の人々が幸せでありますように」なんて。殺戮はシステマチックで、味方の人間が死ぬことは、まるで建設現場で誰かが落下したような労災事故だ。安全確認怪我0!One Day一方的に圧倒的に勝つということは、我々アジア人にとって、少し辛いものがある。棍棒を持った人間が死にかけ乞食をいたぶって何が楽しいか。創造力のかけらもない。ああ、ブッシュは大統領になるまでヨーロッパになさ行ったことがなかったな。One Day私一人では何もできない。しかし、私は各国に友達がいる(ことになっている)し、お世話にもなった。だから其の国の人達を命令されても殺すことは出来ない。攻めて来られるなら別だが、殺せと命令されるぐらいなら俺を殺せ。其の方が楽チンだ。One Day先日、フランスから帰国する時、ホテルから最寄の駅のメトロに乗った。多少混んでいたのだが、大きな荷物を持った私たちは申し訳なさそうに車内に乗った。其の瞬間、折り畳み椅子に座っていたおねえさんと会社員らしき男性が椅子をたたんで立ってくれた。スペースが出来た。そんな人々を殺せるか。今夜、夜も10時というのに、日本の列車は酔っ払いで混んでいた。ギューっと押し込んで入ると、折り畳み椅子に座っている奴らが邪魔だった。立っている全員が殺意を抱いていた。
2005.04.23
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車のナンバープレート前は白で後ろは黄色 ノッテンガムという人口20万人ぐらいの中都市では車も人通りも少なくほとんどすべての信号が押しボタン式 1500年代の最古に近いパブは洞窟の中に 新郎の父に愛人がいて結婚式にも出席していた
2005.04.22
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イギリス ウォリックウォリックのカントリーサイドにあるホテル&スパにいた。新郎と新郎の父と新郎の仲人のような男と私は同じ服を着た。白いベストにベルトのないズボン、2つ何故か持っているが今までつけたことのなかったカフスボタン、よれよれの幅広ネクタイ。勿論貸衣装で、日本から自分で鉄製メジャーで首周りや足の長さや胸回りを適当に測り、メールしておいたため、概ねサイズは気になるほどではない。少しズボンがずれる程度で、短い足が更に短くなる程度だ。12時半。午前中は、ひとりゆっくり牧草地帯を散歩した後でも、着慣れない服に緊張する。続々と人は集まり、テラスにある会場に人々は座る。父は結婚式には来なかった。本当の理由は面倒だからなのだが、参列者には飛行機恐怖症といってある。ついでに、今、船で向かっているので2週間ほど遅れて到着するはずだとも言ってある。そんな訳で、私は、ウエディング姿の妹と一緒に、テラスの後ろから歩く羽目になった。そういうことは事前に言っておいてもらわなければ困る、しっかり欠席したのに。仕方ないので、我々は10秒程度予行演習をした。右足から、アンドゥトロワ。其の甲斐あってか、20メートル近くのロードをたった2回しかドレスを踏むことなく新郎の許に持っていくことに成功した。後ろから着いてくるブライドメイド7人はドレスを踏まなかった。其の後、私はどこに行くのか聞いていなかったので、何か読み上げられ始めるまで、席を探してキョロキョロしてしまい、一番前の席が一席だけ空いているのを偶然発見し、そこに行った。そういった訳で、13時半頃に無事式のようなものは終了した。コメディアンのような写真家が外に連れ出して、二人、家族、ブライドメイド、親戚、友達、とだんだん写る人々を増やしていって時間を稼いでいた。テラスではてんわやんわで椅子を片付け、テーブルを並べていることだろう。そういえば、朝食をとっている時に、テーブルの真ん中に立ってある文字を読み上げ、「ウィグリィって何だ?」と妹に尋ねると、あきれ果て、「私はウィグリィになるの」と言っていたので、多分彼女は、ウィッグリイ家の人々になるのだと思った。80人が参加する中、食事会が催される前に、シャンパンで飲み比べのようなものが、私一人で始まった。みなさんは飲み比べはしていないが飲んでいた。何せ私は英語が話せないのでシャンペンで口を塞いで喋っているフリをするしかすることがなかったのだ。おまけに全然食事は始まらず、やっと15時を越えて、テラスに人々を一人づつ握手や頬キッスをしながら迎えることになった。生まれて初めて西洋人に「ハンサム」と言われた。其の女性は90歳であった。やはりそのぐらいの年齢にならなければ私の渋さが分からないのかも知れないと確信した。丸テーブル10個程を前にして、壇上に一列に新郎新婦にそれぞれの両親(私は父の身代わり)に日本で言う所の晩酌人の6人が全員に向かってさらし者になり、晩餐会は始まる。司会というものが存在していないので、乾杯の音頭なく、適当に食事は始まりだした。そして、食事半ばで適当に人々は席を離れあちこちで話をしはじめて、適当に立ち食い立ち飲み屋となり、新郎や新婦や私が、コース料理のメインはすっかり冷めていた。18時頃になり、ようやくたったひとつのイベントである新郎によるスピーチがあった。彼はスピーチのことで頭がいっぱいで、きっと前の日から眠れなかったに違いない、全く言葉が出ず、何も考えてきていないのが丸分かりであったが、そこは愛嬌で許すことにした。スピーチには晩酌人男性にもあり、彼は原稿を用意してきており、前の日から飲みすぎて今日の式を二日酔いで気分悪く迎え、スピーチの時間が近づくにつれて緊張しはじめて、煙草を吸いに行った。煙草を吸うといってもちっとも戻って来ず、戻ってきては私に、「おい、もうスピーチの時間は終わったかい?」と少し緊張気味に尋ねるのであった。何時頃にスピーチをしなければいけないというのが分からなかったので、彼はきっといつか大臣が署名するいつかの死刑を待つ死刑囚の気持ちであっただろう。執行されるのは明日か数年後か分からないという精神状態である。そんな彼も、来年はICUに留学するので、きっと私にいじめられに関西にも来るであろう。隈なく、彼は日本語ででもスピーチをしてくれて素晴らしかった。特に緊張をほぐすためにスピーチの途中でワインをイッキ飲みしたのが不健康でなかなか良かった。やっと、晩餐会は4時間程で終わり、皆さん、また庭やロビーでブラブラし始めた。勿論片手にはアルコールを持っている。仕方ないので、私も片手にまだアルコールを持ってすることもなくうろうろしたり、庭先にいた孔雀を追いかけたり、うろうろしたり、あるいはうろうろしたりした。20時頃からディスコタイムが始まり、決して踊らない新郎が新婦と踊りだした、ていうか強制。既に酔いが回っていたのか新郎の目が少し危なくなり、妹は会って初めて夫に恐怖を感じたと素直な感想を述べていた。その後すぐに、アニキは新婦と踊るのが習慣だと騙され妹と踊ることになった。妹の手を30年ぶりに握った。細い手であった。少年時代をふつふつと思い出す、筈はなかった。次に手を握るのは私が死んだ時であろう。そういえば、写真を撮るときも無理矢理コメディアンカメラマンにポーズを取らされこれまた30年ぶりに母の手を握った。ゴツゴツした手であった。少年時代をふつふつと思い出す、筈はなかった。次に手を握るのは私が死んだ時であろう。とにかく、テーブルでアルコールがなくなれば、気がついた人が順番に皆に酒を振舞うという伝統的方式を守った。残念ながら記憶力が素晴らしい私は、ウエイターの仕事をしたこともなかったので、注文を聞いて、バーカウンターまでいって、注文とは違う適当なものを注文し、皆に喜ばれたと思う。誰かが24本入り箱に入ったスペイン産シガーを持ってきた。既に3年近く煙草を禁煙している私であるが、シガーならいいだろうということで、一本もらい、シガールームに行った。昔、貴族では食事の後、男だけでシガールームにしけこんで、それなりの話をするという風習があった。そんな感じで、私は、男達とシガーを楽しんだ。普段は単なる精神的貴族なのであるが、このときばかりは実質的貴族になったと錯覚した。30分ぐらいかけてシガーを吸って、すっかりこのシガーはハバナ葉をカナリア諸島で栽培したという事実を学んだ。ディスコタイムは進み、夜は更けていき、だんだん人はおやすみをいいながら部屋に引き上げていく。今日、妹に言われた命令はただ一つであった。「お兄ちゃんは最後までおらなあかんで」もうディスコタイムは終わりですとDJが言ったときには、私を含め数人が踊っているだけで、テラスには誰もいなかった。そういう訳で深夜零時半にディスコ時間は終了した。後は、バーでのおしゃべりタイムだけだ。バーでは普段煙草を吸わない新郎もシガーをフカシ、新郎の父も私もシガーをフカシていた。ここは禁煙ですといっても、新郎父はにやけながら、まあ今日ぐらいいいじゃないといい、いいことになった。後は、眠気と戦うのみである。しかし、まだアルコールは続き、既に2時は越えていた。そういった訳で、結婚式は多分無事終わった筈である。
2005.04.21
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イギリスのコベントリーからの飛行機の中で、やっとパリのガイドブックをチェックし、おかんに行きたい所を聞いて、(といってもエッフェル塔、凱旋門、ルーブルだけであったが)しっかり、座席ポケットにガイドブックを入れたまま忘れて来た。おのぼりさんツアー敢行のための指南書がなくなり、JCBカードデスクでもらった1枚もののパリの地図が残るに過ぎなかったが、まあ、いいか。 4月18日のパリの朝は、朝食抜きで始まった。まずは、ホテルに近いエッフェル塔に行く。勿論、私は、上ったことはなかったが、ついに今回上ることになった。9時30分開園であるが、9時5分に到着し、セーヌ川からぼんやりエッフェル塔を眺める。2012年のパリオリンピックの看板が塔の1階部分に掲げられ、景観を阻害してくれている。自慢ではないが、おのぼりさんである。列を作って9時30分を待っていたが、実際開いたのは9時40分頃で、大変適当振りを垣間見たが、別に文句はなかった。パリの街が一望でき、日本人ツアーの後ろについて(実際は、ガイドさんの横に勝手について)おばはん達の一味に紛れて、何がドコにあるか俯瞰したのであった。1500円ぐらい。これでパリの概要は凡そつかめた。完璧だ。ん、おかんはよく分かっていない。次は、地上から何がドコにあるか俯瞰するため、セーヌ川下りに参戦した。エッフェル塔横のセーヌ川沿いから観光船が出ていたので、早速購入したが、全然客がいないと少し不安になりながら船着場でボーっとしてたら市内の幼稚園児の遠足及び郊外の高校生の遠足軍団がやってきて船はいっぱいになった。電話機のようなもので聞き、日本語も対応してもらうようにセットしてもらったので、橋や川沿いのコンコルド広場、ルーブル、オルセー、アラブ研究所、ノートルダム寺院等を見た。2000円ぐらい。これでパリの概要は凡そつかめた。完璧だ。ん、おかんはよく分かっていない。「あんた、おなかすいたがな。豪華なフランス料理食べさせろ」という母のリクエストに答え、3秒で店「とぅーみゅー」を決め、渋く店に入っていく。インディアンとかタイとか書いていない店は全部フランス料理に違いない。「ボンジュール」私はしなやかに挨拶し、それで、私の知っているフランス語は半分終わった。あと半分は「メルシ(ありがと)」だ。これは帰りに使う予定だ。メニューを見て、決死の覚悟でフランス語を読むが、さすがに飲み物しか分からない。創造力は知識と知識との組み合わせである、詰め込み教育が必要だと実感する。夢は具体であり、知識だ、知らないものからは何も生まれないと実感しながらメニューを見るが分からないので、英語で説明してもらう。8000円ぐらい。その後、スーパーマーケットに行って買い物をしたあと、メトロに乗って凱旋門に行く。メトロは180円ぐらい。乗り方はスコブル簡単である。勿論、私は凱旋門には上ったことはなかったが、ついに今回上ることになった。らせん状の階段を上ると大変疲れるのである。見よ、あれがシャンゼリーゼ大通りだ、とおかんに説明して終わり。1500円ぐらい。これで更にパリの概要は凡そつかめた。完璧だ。ん、おかんはよく分かっていない。その後、シャンゼリーゼ大通りを歩き、エリゼ宮を抜け、コンコルド広場を抜け、マドレーヌ寺院に行き、オペラ座まで歩いた。既に凱旋門から3時間は歩いているので、散歩が本業の私は、これでも稼げないのだなあと嘆くが、その間におかんは絵を描きとめ、これまた売るつもりやなあと思い、稼いでいるなと感心する。これでパリの7区8区9区の概要は凡そつかめた。完璧だ。ん、おかんはよく分かっていない。そして、疲れたのでメトロに乗り、シテ島で降り、ノートルダム寺院を見学する。勿論、私は寺院のてっぺんには上ったことはなかったが、まだおかんは上りたがったが、もういいやんと私は言っておいて1階の内部のみ見学した。無料。そこからセーヌ川を渡り、学生街であるカルチェラタン、サンジェルマンデプレ方面に突入。もうこの頃になると随分適当になり、ただ歩き続けるのボレロになり、60を越えたおかんに既に朝から8時間は歩いている状態になり、思考力はなくなっており、メトロに乗って、ホテル近くで降り、カフェに入り、ビールを飲み、ついでに飯まで食ってしまう。時計を持っていなかったので、時間を聞くと、20時半になっっていた。が、まだ外は明るく気がつかなかったが、急いで、スーパーでビール(650CCハイネケンが200円)と水(500CCで50円)を買い、おかんをホテルに押し込んで、これからトイモイ、マイタイムといい、パリの夜の街に消えていくのであった(わしも元気やなあ)夜歩いてたらエッフェル見えたそれで00分になったらエッフェル塔が10分間チカチカ光出した。
2005.04.20
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でも遠くなので、サクラかどうか分からんな。でも遠くなので、ウエディングドレスかKKKか分からんな。
2005.04.20
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飛行機で12時間、バスで4時間、今、イギリスののってんがむというところにきてます。詩人バイロンをうんだまちです。バイロンのことは、中学生の時、ジェームスディーンのみどるねーむがバイロンなので、そこからとったことをしりました。茶田令夫人のdhロレンスで矢ロビンフッドの発祥でもまあまあ有名デッス。しかしそんなことより座りすぎでお尻が割れてます。眠い。
2005.04.15
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飛行機の中で縛睡する為に、敢徹に限りなく近いイエロー状態です。でも少しだけ寝ました。最近、滅法、金縛りにあう機会が減りました。それにしても中学校の時、はじめて金縛りにあったときは、それはそれは恐怖であり、天井が見えているのに、体が動かず、思わず、解けて、起きてから、中学生のくせに、母親を呼びました。「助けてくれー」ゆううたの聞こえたか?」大学の時は、よく雑魚寝を誰かの家ででもよくしたものだが、隣に寝ている人が、どうやら金縛りにあっているようであった。「おまえ、先に一人で寝るからじゃ。今、金縛りにあってるやろー」と耳元で囁いてあげた。苦痛に歪む顔に、ウーウーという苦し紛れの声。 何とか起きたその人は「何で助けてくれんかったんや~」とマジ切れしておった。その後、金縛りにあうのが、だんだん慣れてきて、夢の中で金縛りになりそうなときは「またですか」と思うようになった。耳鳴りがして、動かなくなる。一点(手の先や足の先)に神経を集中して、そこから何とか動かすようにして、解き方をマスターしていったのである。時々は、解けずに、また夢に戻ってしまうこともあったが、目が醒めたら金縛りにあったままの体の体勢が何とも不思議であった。脳が起きて体が寝ている状態というのは理屈では分からないでもないが。一度は、恥ずかしい話であるが、エミールすると、金縛りに合い、やっと呪縛から解けたと思ったら、寝ていたベッドの横に見知らぬhadakaの女性がいた。其の時点ではまた夢に戻ったとは気がついていなかった。夢に戻っても、金縛りに合った体の体勢で目覚める(夢に戻る)のは不思議なものだが、その女性のほうが、もっと不思議で、何とin毛が2メートルぐらいあり、ブンブンそれを振り回し、その毛が首に巻きついてきて、「たじけてくれえ」という恐怖体験をしたものであった。 いやいや、そんな話をしている場合ではなかった。パッキングは終えた。あと30分で出かける所存でございます。ご機嫌よう。
2005.04.14
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中国内陸の都市、西寧。駅の裏に見える山が洋子山である。二時間並んで、留学生と偽ってやっと手にした列車の切符。人のいないところに行きたいぞ、と呟く。上を向くと山があった。よし、この禿山にでも登ってみるか、と安易で幼稚な考えを実行に移すことにした。食料と飲み物だけは買い込んで、岩剥き出しの山に登り始める。賛同者はいない。三十分で山頂予定であったが、単なる騙しの峰。更に奥へと山は続いている。羊の放牧をしている少年を一度見掛けたが、誰もいない。というよりも確かな道がない。登りやすい所を見つけては登り続ける。しばらくして、岩肌が不意にも窪み、日陰になっている所に一人の青年が休息の様なものをとっていた。彼はニヤリと笑って敵意のないことを示した。私も敵意がないことを示し、住所氏名年齢の筆談を行う為、ノートとペンを差し出した。筆談の結果、彼の名前は李逢月、年齢二十一。住所は洋子山西寧と判明。住所は山の名前だけなのかと聞くと、彼は静かに頷く。彼は、深山にひっそりと住む仙人的存在なのだろうか。ちょっと渋いのではないかい、と私は思った。彼に付いていくことに急遽決定。彼の隠遁生活の神秘のベールをちょいっと覗かせてもらおうと、無言で二人は山を登り始めた。一時間後。盆地が広がった。黄色い花が一面に狂い咲きしていた。綺麗で退屈そうな天国だった。彼は、花の中に入って行き、私の方を向いて手招きする。「食えよ」それはエンドウ豆であった。生で食べるのはいまいちであるな、と思ったが、これも仙人食その一かと思い、また彼の好意を無駄には出来ぬと思い、彼の名誉と私の登竜門として、パカパカ口に放り込む。彼は、洗礼と受け取った様子もなく、私の決意を感じ取った様子もなく、更にエンドウ豆を摘み、更に私に与えてくれる。なだらかな傾斜を更に登って行くと頂上に大きなパラボラアンテナを備えた工場らしきものがあった。その工場以外に工作物は一切なく、中国弁公室、国防情報局の牙城の様な雰囲気である。私も内閣調査室のスパイの様な気がしてきて、ちょっとヤバイな、と思ったが、草履のスパイなんていないか、と笑い飛ばそうとしたが、現地に溶け込む諜報員スリーパーと間違われては拿捕されて拷問受ければたまらないと思い、さっと緊張した。更に、彼の後を追って平坦になった道を歩き続ける。登り始めてから四時間後、忽然と村が出現した。泥の池を中心に二十件程の土で出来た家と家畜と防空壕。三千メートル程の高度、乾ききった家の土壁の色と泥池の色と地面の色がほとんど同じ色彩。彼は、精一杯の好意からパンと水を出してくれた。パンは歯が砕けそうな程カチカチで、水は泥池の水を一度沸騰させただけと思われた。彼の名誉と好意の為、私は口に入れる。仙人の道程はまっすぐではない。日が暮れるまでに帰ることにする。途中まで彼は送ってくれ、そこに木があった。私はナイフを取り出し、私の住所国籍氏名年齢を彫った。彼は、その横に自分の名前を彫って、最後に「友」という字を彫った。
2005.04.13
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今、とある商品についての市場調査の一環として「グループインタビュー」というのを数日に渡ってやっていて、今日も一日クライアント様と一緒に調査会場に詰めていた。グループインタビュー(通称:グルイン)というのは、ある商品やサービスの想定ターゲットを「20代未婚女性」とか「30代の働く主婦」などに幾つかグルーピングし、1グループにつき5~6人の対象者(集められた調査モニター )に対して、プロのインタビュアーが座談会形式であれこれ質問しながら意見を引き出し、商品やサービスに対する評価をみる、というものである。という訳で、不肖ワタクシメもこれに参加することになった。勿論広告代理店にもクライアントにもモニターにもなったのではなく、傍観者としての参加であった。ターゲットのお一人は足元の悪い中遅刻したので、我々もなかなかピーピングルームにいれてもらうことができなかった。かちあうとまずいので。あんたをグルインしてやるその会場になるのが「インタビュールーム」というもので、たいていはオフィス街や繁華街に近いビルの中にあり、市場調査会社やマーケティング会社、あるいは大手のメーカーの社内に併設されているケースもある。部屋のつくりは、どこもよく似た構造になっていて、比較的ゆったりした部屋の中央に8人掛けぐらいの大きめの丸テーブルがひとつ、少し離れた場所に記録係の机がひとつ。その横には商品のCMや参考映像などを見てもらうビデオとテレビがあり、壁際にはサンプル商品などを準備しておくクローゼットがある。そして一番のポイント、なぜかインタビュアーの背後に広がる一面「鏡張り」の壁面。 やっとのことで入った鏡張りの裏側は暗くてとても怪しいことをしている気分になるのに3秒程度の時間がかかり、早速反吐本でなくヘッドホンをして30代の主婦を眺めるのであった。でもお話だけで当然ショーではないので、私の顔は神妙そのものだ。 そう、マジックミラーである。よく刑事ドラマなんかで、取調べ室で尋問中の犯人の姿を裏で見せながら、「奥さん、アノ男ですか?」「ええ、確かにあの男です、間違いないわ」なぁんてやってるのと同じものだ。このマジックミラーの裏側はどうなっているかというと、大人7~8人が入れるぐらいの小部屋があり、このマジックミラーの裏側から我々代理店の人間やクライアントの担当者などが、息を潜めて対象者の様子を見ているのである。 「で、「奥さん、アノ男ですか?」「ええ、確かにあの男です、間違いないわ」と頭の中で妄想を描きつつ、一人の人がやたら屈伸運動をしたり携帯メールを受送信したりして忙しいのを見逃すようなやわな私ではなかった。しかし、観察者の一人が2回も携帯電話を床にガシャンと落としたのは、さすがに沈着冷静で通っている私も危うくソワソワするところであった。集まった主婦の方々などが、商品を手に「この化粧水のパッケージ、ダッサイわね~。作ったヒトのセンス疑っちゃうわ~」とか、女子高生の皆様が「見てコレ、何このケータイ。イマドキこのデザイン、マジ終わってない?」なんて好き放題言ってるそのすぐ後ろの鏡の裏で、その「マジ終わってるデザイン」を本気で開発した担当者が拳を握り締めて座っているとは、知る由もないだろう。 本音バクハツかと思いきや、結構ありきたりの意見で緊張しているとしても、サクラではないか、もしかしてこちらが騙されているのではないかという気分になってきた。 このミラーの裏のモニタールーム(観察室)の中では、いくつかのルールがある。当然ながら、まず「大声で喋らない」。自社の商品を目の前で思い切りけなされたりすると、担当者の方も思わず立ち上がり「オイ!ちょっとまて、誰だエート、名札は、田中さんか、おいタナカ!失礼だぞうちの商品に対して!」とか叫んだりするヒトもいるらしいが、鏡が喋ってはいけない。個性の時代かといわれるのかも知れないが、やっぱり安心は、ヒットするのは皆さんと同じということなんだろうなあと何か思い出すように思った。無茶苦茶売れているかぽしゃるか。売れている理由は売れているから。そうだ、音楽なんか正にそうである。90年代からのミリオンセラーはすごいものだ。80年代までは年間2,3本あればいいところだったが、今や月2、3本である。そのくせ、我々はその曲をあまり知らなかったりする。メガヒット「泳げタイヤキ君」「クロネコのタンゴ」「UFO」なんかはあらゆる世代の人が知っているが、今は10代や20代しか知らない。音楽性ではない。それを証拠に、発売前(聞く前から)から予約殺到なのである。みなといっしょじゃなきゃいやーん、なんだろう。 そして、もうひとつ大事なのが「灯りをつけない」。基本的に、モニタールームの中は電気を消した暗い状態である。明るいと、外から内部の様子が見えてしまう。以前、グルインの最中にこの中でついうっかりタバコに火を点けてしまったヒトがいて、その瞬間、何もないはずのミラーの中に「ぼわっ」と人間の顔が浮かび上がり、それに気付いた調査モニターのひとりが亡霊が出たと思って大パニックになったことがあるそうだ。そらビックリするわな。あかりをつけましょバクダンに、お花をあげましょ毒の花、五人囃子に捨てられて~ てなわけで奥さん、アナタも、もし今後何かの縁でグルインのモニターとして召集されることがあったら、ミラーの奥に向かってさりげなく手を振りつつ、目の前の商品には、遠慮することなく愛のある毒舌をぶちかましていただきたいものである。ということである。詳細を知りたければコチラ
2005.04.12
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0歳。トイモイ生まれる。2歳。安徳天皇、即位する。6歳。千姫、豊臣秀頼に嫁ぐ。6歳。トイモイ小学校に入学する。7歳。後の津田塾大学創立者、津田梅子、日本人女性初の海外留学をする。8歳。勝海舟キンタマを犬に齧られる。10歳。土方歳三、呉服屋に丁稚奉公に出る。後に女性問題で追い出される。12歳。森鴎外、2歳さばをよんで東大医学部予科に入学。14歳。ジョン万太郎、漂流して米国へ。天草四郎、島原の乱の総大将になる。15歳。トイモイ無事高校入学。16歳。上杉鷹山、米沢藩主になり赤字の藩の財政建て直しに着手。(34歳で隠居)18歳。山下清放浪生活に入るんだな。18歳。トイモイ大学に入るんだな。30歳。空海、唐に留学(難破して漂着する)31歳。阿部定事件。40歳。井原西鶴「好色一代男」で流行作家になる。40歳。天命を受け、中山ミホでなく、中山みき天理教を開く。44歳。昭和天皇、玉砕放送。51歳。クラーク「少年よ大志を抱け」と言い残し帰国。鉱山開発失敗不遇の晩年。57歳。横井庄一、終戦、グアムから帰還。59歳。ペリー、浦賀に立ち寄る。山本五十六ブーゲンビリア島で戦死。63歳。小林一茶3人目の妻。(64歳死去)65歳。鑑真来日。(6度目にして来日成功)71歳。世阿弥、佐渡に流される。73歳。北斎「富獄三十六景」を刊行。75歳。滝沢馬琴、28年かけて「南総里見八犬伝」完成。(106冊)79歳。タイ、パッポン氏死去。82歳。杉田玄白「蘭学事始」刊行。86歳。トイモイ死去。93歳。尾崎行雄連続25回衆議院当選。1996年10月4日、未開発だったファミリー所有の土地で西洋的商業手腕をふるい、世界的に有名な歓楽街を育て上げたパッポン氏はバンコク・ゼネラル病院で死去した。死因は心不全。享年79歳。 両親は中国海南省からの移民。初等教育を受けた後、イギリスに留学。経済学を学ぶ。その後、一時、バンコクに滞在後、米国ミネソタ大学に再度留学。第二次世界大戦勃発直前に経営学学位を取得。戦時中は連合軍側タイ自由化運動にかかわる。同時にアメリカ陸軍とCIAの前身である戦略局で訓練を受けた。その後タイで諜報活動中、終戦を迎えた。その後スリウォン通りと運河(後のシローム通り)を結ぶ道路を建設、その後の発展は見ての通りである。
2005.04.11
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「もう足良くなりましたか?もしよくなったらと全快祝いということでトイモイさんの支払いでサウナでも行って鋭気を更に高めませんか」というビール会社勤務の後輩より連絡があり、のこのこと挑発に乗ることにした。取り合えず、サウナにチェックインし、サウナに直行する。ハンガリアンバス・露天風呂・メイン普通のサウナ・フィンランドサウナ・塩サウナ・ハマーム・ジャグジーバス・水風呂と適当に巡った。ハマームとはアラブの蒸し風呂で、多分サウナの一種で、大理石の底から熱が上がってきて、なかなかキムチいい。塩サウナは珍しいのではないか。やはり配管等の設備が錆びるからかも知れない。サウナに入り体中に塩を塗る。出ると肌がスベスベズベ公になる。体にいいというが、ミネラルで唯一取りすぎの塩分、本当に体にいいのか一抹の不安は感じる。その他世界にはいろいろ風呂があるものだ。 その後、上階に上がり、レストルームへ。どこか違和感を感じたのであるが、取り合えず、一杯だけなら許されるであろうとビールを注文した。それから3分後である。突然、座っていた人々が一斉に立ち上がり、列を作ったのである。一瞬何が起こったか分からなかったが、その先頭は、ビールのサーバであった。そして、テレビは、まさに阪神タイガースが勝った瞬間であった。すかさず、張り紙を見ると、「阪神が勝った日は、勝った時間から30分間無料飲み放題」と書かれていた。 そのとき、我々は9回に阪神が勝っていてもう終わりに近かったということに気がつき、あと3分飲むのを待てば無料であったことに気がついたのである。違和感の謎が解けた。誰も飲み物を頼んでいなかったのである。誰も我々にもう少し待つよう助言はしてくれなかったし、ましてや、バイトの店員の女の子(多分18歳くらい)も、もう少し待つよう的確なアドバイスをくれなかった。テーブルに乗っているジョッキが恥ずかしかった。すかさず列に並んだ。何故かは分からない。その席にいるのが恥ずかしくなったのと、金持ち症が出てただなら貰おうという植民地奴隷主義根性が出たまでであろう。 ところで、ビール会社の後輩君に第3のビールってどやねん、というと「ああありゃ亜流ですわ」といい放ち愛社精神を発揮していた。「最近ビールも値上げしたので、ジョッキがちょとづつ分からないように小さくなっていってますねん」とニヤリと笑っていた。そして「うちの会社も痛風だらけですわ。まあ、これからはトイモイさんもショウチューがいいですよ」と会社より私の健康を心配してくれた。 その後、さらに上階に上がり、マッサージを受けることにした。マッサージは何時間受けても飽きることがないので、一生マッサージしてもらっていたいというのが夢である。日本語での夢は、叶わぬ空想妄想、眠っている間にみるものという意味である。ドリームとは実現させるという意味ではない。 近年、サウナも経営困難か競争が激しいのか、サービス合戦の一環なのか、マッサージ師の年齢層が心なしか下がっているように思える。そんなの嬉しいのだろうか。目的は体をほぐすことだから、年齢よりも上手い方が嬉しいんだけどなあ。 「中澤と申します。よろしくお願いします」と丁寧な言葉から始まり、丁寧にマッサージしてくれた。勿論、私は、「お客さん、終わりましたよ、起きてください」といつものように起こされたのであるが。 そういえば、昔、タイで180分マッサージコースを選択して長すぎるかなと思ったが、これまたすぐに終わってしまった。何時間やっても同じである。 また下階に降り、椅子に足を投げて、飯を食った。何となくぼーっとして意味なく大型テレビを眺めては、私が来週行くイギリスフランスの話、彼が来週行くカンボジアの話、それからお互いの業界の下らぬ裏話、テレビ批評をして壮行会でなく全快祝い会は終了したのであった。 昔、サウナに行って、風呂上りのグルーミング部屋で、使い放題の整髪料を手一杯につけてガチガチに固めてパンク野郎にしてしまったことを謝りながら・・・
2005.04.10
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運転しながら撮るポイントを定めるぼーっとしてたら夜になる昔は(といっても10年ぐらい前まで)よく花見に出かけて暴れた。其の年の春も某西宮市夙川で花見をしていたら、隣の若いグループがえらく盛り上がっていた。(企業名は秘密であるが、ビッグサークルという某百貨店の集まりだった)そいつらは女性がいるというのに、調子に乗って素っ裸になって満開の桜の木に登り始め、コケッコッコーと奇声を上げては馬鹿になっていた。私にも僅かな理性が残っていたので、下に脱ぎ捨ててあったパンツや服を川に投げた。衣服はスススーっと静かに止まっているかのように流れていった。優しい眼差しでその光景を見ていた。そして、私も静かにその場を去り、花見は無事終了したのであった。あの人たち、風邪引いてなかったらいいんだけどなあ・・・
2005.04.09
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世の中にはいるんな法律がある。イスラム法では異教徒とのセックスは鞭打ち、ひどければ死刑である。サウジアラビアではバレンタインデーとポケモンは禁止。女性器にピアスをしては2~20年の懲罰刑のあるアメリカジョージア州(自己申告しかないじゃん)テキサス州では同性との性交は違法、しかし動物との性交は合法である。中国では食品衛生法により女体盛は違法であり昨年雲南省日本料理店で刺身などを女性の体に乗せる女体盛サービスをしようとした馬鹿者日本人が摘発された。で、その魚の活き造りはオーストラリアのある州では虐待行為(すぐに死なないように殺す又は苦痛を与えながら殺す)なので罰金か懲役である。イギリスでは動物虐待保護を名目に、郵便局員は犬にガンを飛ばすと違法である(ちなみにイギリスは憲法はなく、習慣法であるが)ドイツだってまけちゃいない、飼い犬は1日2時間つきあわなければならない。勿論例外はある。数匹で飼っている場合は犬同士で遊ぶので30分でよい。シンガポールではガムを捨てたら罰金なのは有名だが、蚊が沸いたらいけないということでバケツに水を張ったまま放置するのも罰金である。蚊を発生させる奴は危険人物なのである。更にシンガポールでは自分の家の木を勝手に植えたり切ったりすると罰金である。とはいえ、マンション住まいが多いけどね。ちなみにシンガポールでは事故死したら臓器提供である。自動的に。勿論、トイレで水を流さなければ罰金である。息がタマネギ臭い子供は学校に来てはいけないというアメリカウエストバージニア、聖なる牛を見ながら大小便をしてはいけないインドのヒンドゥー、犯罪を犯した奴が防弾チョッキを着ていたら更に罪が重くなるアメリカニュージャージー、キリスト原理主義者の多いカンザス州では進化論を教えてはいけない。もう少ししたらフランスに行くが、「e-mail」という言葉は禁止されている。「Courriel」である。フランスでは一応運転中に運転以外のことをするのも違法である。ラジオのチャンネルを変えたりセックスしたり。フランス系の多いカナダのケベック州では英語より小さな文字のフランス語の看板は禁止されている。インターネットも注意だ。英語だけでは罰せられたりすることもある。自由の象徴であるオランダも犬は飼い主が代わって納税する義務がある。イタリアだって領収証を出さなかったり請求しなかったら脱税行為である。ちなみにイタリアでは美しくない女がビキニになるのは禁止されているそうだが嘘っぽい。法律とは国や州によっていろいろあるものだ。インドのラジャスタン州は一部特定エリアを除いて酒が禁止されていた。でも密造酒を飲む輩はいる。知り合ったおっさんも、「おい、いいのをやらないか」と凄く怪しげに内ポケットをまさぐるのであった。「なんだガンジャかい?」と聞くと、「そんなちっぽけなものではない。ガンジャ欲しいならやるよ。それよりコレコレ」といってラベルの貼っていない透明の液体の入ったラベルのないのウイスキー瓶を周りを気にするようにこそっと見せてくれるのであった。目が潰れると困るので飲まなかったが。
2005.04.08
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何を隠そう、私はあと一週間でスチュワーデスないしパイロットになるので少しブーブー文句を言って凡庸にもカタルシスさせて頂きます。成田空港と横田基地を丸々交換せよ。そしたら米軍も日本の領土をそう横切らずにいけるし、横田が民間空港になれば乗客は便利になるわ、空域は広がるしでいいことづくめに近いのである。明日から交換して欲しい。もとより羽田沖にどんどん滑走路作ればそれで良かったのに。関西空港は無事沈みつつある。早く沈んでしまえばよい。あそこの漁業権を持っていた人が1件保証費1億円出たとヨロコンデいたと、あの辺に住んでいる知人が言っていた。関西空港は空域が狭く、何度も旋回させられて、燃料の無駄使いも甚だしい。大阪上域は五月蝿いからと紀伊半島を回らされたり岡山まで行ったりしている。おまけに我がアホな都市である神戸市も沖合いに空港を来年完成させる。こんな狭い地域に伊丹を合わせて3つも作って、事故が起こるのはもう目に見えている。こんなのだから税金払いたくないなあと思うのである。是非、脱税させて欲しい。納税の権利にして欲しい。ノータリンのサラリーマンを馬鹿にするな!だいたい関空の離発着は今せっせと作っている神戸空港の真上を飛んでいるぞ!どうするアイフル?何を隠そう、私はあと一週間でスチュワーデスないしパイロットになって来週ヒースロー空港に降り立つのであるが、この空港の規模は成田や羽田と同じであるが、年間発着回数が40万回弱である。羽田は12万回、成田が14万回である。だいたい国際便と国内便が別々に出ている空港なんか他の国で聞いたことがないぞ。そりゃロンドンやニューヨークでも空港は1つではないが、その空港で乗り継ぎができるのだ。この違いはなんやねん。空港使用税も問題になっているよな。ジャンボ1機ロンドンで約8万円、ニューヨークで約40万円、成田や関空は約90万円である。それにしても何とも心配なのが、年末年始のシアトルはファーストクラスだったのに、今回は奴隷船クラスだ。繊細な私の不機嫌な体は大丈夫だろうか。心配で今日も8時間ぐらいしか眠れなさそうにない。
2005.04.07
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秘密にしているわけではないが、関西は関東に比べまだ高層ビルが多い訳ではない。今日は西日本4番目に高いビルの頂上40階に行ってきた。一番高いのはワールドトレードセンターで次がオーク、三井アーバンホテル(泊ったことあり)があり、3番目にはまあ関空対岸のスカイゲートタワーホテル(泊ったことあり)があり、今回竣工したのが今の所4番目に大きいビルとなっている。この1,2,4番目の建物は一直線上にあり、エジプトのギザのピラミッドが直線上にあるのと同様、2000年後には神秘の世界で語り継がれていくことであろう。説明によると、もっと高いビルを建てたかったというのだが、200メートル以上は、伊丹空港に向かう飛行機の邪魔になるのでダメエといわれたとのことである。費用はいくらだったかな170億円ぐらいで、1坪あたり110万円ぐらいだったとのこと。そういった他の説明もいろいろあったが、4階に入っているリーガロイヤルホテルの出店のレストランでパクパク食べていたのでよく憶えていない。オフィスはどうなっているかというと、最近よく聞くのだが、営業には自分の机がなく(フリーアドレス)自分のロッカーから荷物を出してきて適当に座るらしい。電話は携帯電話でパソコンは自分のカードを差し込まないと開かない仕組み。オフィスに入るまでカードを5回ぐらいかざさないといけなく、未だトイレに行って、誰かが出てくるまで戻れなくなるらしい。そんなんゆうてもだいたい机決まってるんでしょ。というと、はい決まってますねといっていた。電話しても、いるかいないか分からないしねえ。会議室のある一角に立ち入り禁止のおどろおどろしいプレスルームを兼ねたところがあった。美浜原発 の対策ルーム。それにしてもまだまだ高層ビル を建てるつもりらしい。
2005.04.06
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あ、もしもし、ヨボセヨ。ごめん、すべてのことが面倒臭いんだ。思わず、タダの惰眠でまた駅を降り過ごした。久し振りにアルコールを体内に注入したよ。その代償がいつ野間にかの田舎の駅だよ。アルコールやその他法律的には「よろしくないとされているのもので数々の問題を起こしてきたかも知れませんが、まあソレは仕方ないとしても、凄いことにいつの日かここ3年ぐらい情けないことに帰巣本能というのが芽生えてしまったのである。これは経済を無視していて不思議なことである。10年くらい前までは根無し草で、夜の9時ぐらいになってしまうともう家に帰るのが面倒になり、すぐにカプセルホテルとかに泊っていたが、何故だか、年をとったのかとりあえず何時になってもタクシーででも家に帰るようになった。寝過ごして遠い駅に着いても、タクシーで帰るようになった。えらいなあ。
2005.04.05
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(だから)(そして)(いまや)(都合のいいことに)(勝手に)(そして)(さらに)(自己防衛するなともいいたいが)(ゴマスリ)(それから)(でも)(勝手だが) (自己正当化して)(ジェラシーという感覚があったか)(もっと)(それから)(手紙くれないから悪いんだ)(無視するからだ)(愛情の反対は無関心か)(たった1通でしかないが) (忙しかっただって?)(あなたスタイルか)(嘘つきで)(少なくとも私は嘘つきで)(とうとう嘘ついて)(恥ずかしい)(調子いいですね) (嘘)(他の男に抱かれるからだ)(生活)(仕方ない)(シャンプー買ってあげた)(悩ましく)(オックオック)(コックローチは英語だけど油虫は日本語)(土着的考え) (見たけど)(1グラム)(女の号泣とバイク音の協和音)(チカチカ)(パリッ)(チョコ)
2005.04.04
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神戸らん展 の内覧会があったので 一人で行くことにした。(といってもおかんが蘭の絵を描いた油絵を出展されていないが) この日は私は仕事がなかったので 洗濯とクリーニング出しを終えてから行くことにしたんだけど、何せ洗濯が終わったのが13時 らん展には16時30分までに着かないといけない。久しぶりに走りまくっろうかと思ったが、30分で着けるので焦らないことにした。家を出た時は、愛車をボイブイ言わせてサクッと渋く見て帰ろうかとは思ったが、久し振りにポートラーナー に乗るのも悪くないなと環境問題至上主義者に急遽変更し、電車に乗った。 無事、人工島ポートアイランドに辿り着き、(その間にポートアイランドに実家がある高校の友達のマンションの一室も確認)駅に降りて、早速、蘭展の首謀者又はその一味である心斎橋タロウさん(既婚子約1人嫁約1人) をメールで外まで出てきてもらい、VIPチケットを貰った。 欄展会場に潜入(あ、隠れることないか)したが、予想通り年齢層はなかなか高く、飾られた蘭の写真を神妙に撮りまくっていた。私の後ろには五月蝿そうなオバハン2人組が「配列は去年のが良かったわあ」を連発していてやはり五月蝿かった。 20代前半と思われるカップルを発見、すると、彼女のカバンが蘭型の花が飛び散っており、蘭フェテシズムかとちょとだけ納得した。 それにしてもいろんな色が咲き乱れているのだ。ちょっと元気がなくなっているので、やはり開催期間は5日が限度なのだろう。 はじめは真面目にゲージツ的目で鑑賞していたつもりであったが、だんだん、出鱈目な色の花を適当に刺しマクっているだけのように見えてきた。 暫くシテ、この蘭展の首謀者又はその一味である心斎橋タロウさん(既婚子約1人嫁約1人) からメールで「2階でワインを飲みまくりサモサを食い、マッサージを受けるとよい」という天命を受け、早速2階に行き、ワイン試飲コーナーでわざと呼び止められ、ワインを試飲する。他のテーブルを見ていると1本か2本置いてあるが、何故か私のテーブルは8本目である。飲んでは値段をいわれ、他の客は2本で退散するか、買って出て行く。私は、気が小さいので4本目ぐらいから、どうしていいか分からなくなり、1本出すごとに「当社しか直輸入してませんから。これは3400円です」と値段を言って上目遣いに「買って買って」光線を出す。ついに9本目を出そうと躍起になっている瞬間、「帰りに寄ります」と嘘をついてブースを出る。そのあと、出し物コーナーにインドコーナーがあり、サモサとシシカバブーをどつく。そこに目にしたのが、インドのマンゴージュース 「MAAZA」を発見し、飲むと、頭の中がインドっぽくなった。今朝、変な夢をみた。放浪の達人さんがバンコク市内からの買い付けを終えて、ドンムアン空港に行く中、カナダ在住の郡山ハルジ氏 と水パイプを廻しながら馬車で行くという構図。とりあえず、起きて絵に描いておいた。 左から謎のインド人、放浪さんの奥さん何故か旅行カバンの上に座っている、放浪さん、私、ハルジさん。足元は買い付けた靴下でいっぱい、2頭の馬が引くのは、車のタイヤがいっぱいついた天蓋テントに荷物がいっぱい。
2005.04.03
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本業である散歩をしてきた。(まだ本業で1銭も儲けたことはないが)最近、人工的な色ばかり見てきた。しかし、春の訪れとともに狂い咲きを始めた花々の色に勝ることは不可能だ。 先日ライス国務長官が、牛海綿状脳症(BSE)発生に伴い日本が禁止している米国産牛肉の輸入再開問題押し付けの為に来日していた。前任のパウエル同様、彼女も天才の部類である(IQ200)。アメリカ初の女性かつ黒人大統領を目差している筈だ。 経歴を見ると凄い。黒人差別がまだまだ盛んだった南部のアラバマ州出身で、コロラド州へ移ってから飛び級により15歳でコロラド州立大学に入学する。その当時はピアニストを志向して音楽専攻コースに登録していたが(ピアノはプロ級らしい)、コーベル氏の授業を選択して運命が変わる。コーベル氏は旧ソ連・東欧が専門の政治学者で、彼に影響を受けて国際政治に専攻を変えたのである。このコーベル氏とはクリントン政権下で初の女性国務長官となったマドレーン・オルブライトの父である。確かオルブライトはプラハ生まれだった筈だ。19歳でコロラド州立大学を優等で卒業した後、修士号、博士号を取得し、僅か26歳で名門スタンフォード大学の教員になっている。その後、41代ブッシュ政権の国家安全保障会議に参画、1998年に大統領を目指すブッシュ・テキサス州知事(現大統領)の外交問題指南役になっている。国際問題に疎いとされるブッシュ氏の家庭教師というところで、その関係がブッシュ政権になっても続いたとみられる。 アメリカはヨーロッパ程の階級社会ではないため、日本以上の学歴社会である。蛇足をいうなら私から去っていった1回目の結婚相手は、アメリカに住むために一流大学院のMBAに行ってしまったが、エリート人生の出発点は名門大学卒業からだ。そこではハードな勉強もさることながら、そこで培った人脈がモノをいうという。 しかしながら、数字がどこかにいってしまったのであるが、いくら名門大学を卒業したからといって、成功したり、出世したり将来が約束された訳ではない。そうなった人とそうならなかった人と比較すれば、私はこうなりたいという明確な目標と期限があった人のみ成功しているのであった。と偉そうに私がいっても仕方ないわ。 日本の子供達の夢は、野球選手や鉄道員、社長等、職業であるが、アメリカの子供に夢を書かせたら、どんな生活をしているかとかどんな人生を送っているか書くという。職業はその手段に過ぎないのである。 告白すれば、私は、小学校○年生のときに、文集の最後に将来の夢「チャンピオン」と書いて失笑を買った。恥ずかしい限りである。
2005.04.02
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「ビールがあれば国家は不要」と言わしめた私であるが、ここ3週間はビールを摂取していない厳粛な状態に置かれている。酩酊感を呼び起こす飲み物といえば「まっこり」ぐらいなものだ。朝鮮のドブロクである。米や麦を乳酸菌発酵させた白い飲み物であり、口当たりも良い。勿論、一気飲みも可能である。たったの6パーセント程度のアルコール度数である。 かつて、私が韓国で数日間泊めてもらった家は、お菓子屋さんを営んでいたが、どうやら何かと裕福な感じで何か別に違う商売をしていたのかも知れない。 韓国人気質なのか、絶対に、私に一銭も金を出させてくれない彼であった。お金のない割りに一銭も出させまいと、「一緒にアンパン食べましょう」といって、パンで夕食にした健気な人もいたが、彼は、金回りがよく、数日間毎晩飲みに出かけては、2件目、3軒目と飲み屋を渡り歩き、最後にマッコリを数本購入して、道端で飲むといった飲み明かしを謳歌させてもらった。道端に座って飲むのも変なので、勝手に軽トラックの荷台に駆け上り、そこで韓日友好のたわいもない話を夜な夜なしたものであった。 まあ、そういったことを思い出しながら、マッコリを飲んでいる。 先ほど、私は、飛行機の座席をネット予約をしたのだが、その飛行機会社を私は知らなかった。イギリスのコンベントリーからパリまで20ポンド である。1ポンド200円でも4000円である。しかも驚くことに税金が14.5ポンドである。1ポンド200円でも2900円である。更に驚くべきことにネット予約しかできない仕組みのくせにクレジットカード使用料が4ポンドである。1ポンド200円でも800円である。すなわち、私の暗算が正しければ合計7700円である。 トムソンフライはヨーロッパの格安飛行機らしい。
2005.04.01
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