全31件 (31件中 1-31件目)
1
以前、大学のバル同輩やバル後輩のことを書いたことがあるが、先週の休みに先輩に会った。先輩達は、同輩や後輩に比べて性的にあまりに毒気がある極悪人たちの集まりなので、健全なこのレポートから全世界に発表するのははばかられるのみである。 某一流生命保険会社で働く先輩Mは、相変わらずの口八丁手八丁バイタリティを維持しつつ、右翼的口調で弾丸のように話し続けた。この先輩Mにはタイのコサムイ島から本土に帰るフェリーの中で偶然出会い、その後10日間程好き放題に僕にされた苦い経験を持つ。 その後もフィリピンで出会い、引き吊り回しの刑にあったという苦い経験もある。この先輩は、学生時代、急にバイクの免許を取り、オーストラリアに行き、バイクを購入し、アリススプリングス、エアーズロックまでぶっとばした経験の持ち主であり、休学してソ連や東欧で顰蹙の旅行をしてきたという困った人である。 マニラで、やっとMさんが帰国ということで、やっと解放されて、うだうだしていると、3時間後タクシーが私の泊まっている民家の前に停まり、「オイ!帰ってきたぞ、ユナイテッド航空が延期で飛ばなかったわ。一流ホテルのホテルとお小遣い2万円もらったわいやわいや!オイ!今から豪遊じゃあ」と学生なりの豪遊が始まった。何せ、ここ1ヶ月で3~4万円ぐらいしか使っていないのである。 早速、我々は、歓楽街に繰り出し、ベロベロに飲み、フラフラしていた。「オイ!アレ買ってきてくれ!」そんな無謀な要求もされた。「こんなところには売ってません」との私の反論も無視し、彼は叫んだ。 それからフィリピンプラザホテルに夕刻に行った。世界でも有数の美しい夕日の見られるマニラ湾に面するイメルダの常宿でもあるホテルである。日本のヤクザがスペイン系のタレントの卵を両脇にはべらして、なかなかむかつく所でもあった。 夜な夜な、というより、朝まで飲み歩いた・・というのは、実は昨日も一昨日もしたところだったけど(昼間は寝ている)お金の大小に関わらず、楽しいことであった。まあ、そんな話はしなかったけど。会えば、学生時代に戻るのだなあ。
2005.11.30
コメント(6)
思い返せば、実家では、私の部屋の窓からは、山が見えていた。登山口まで徒歩3分程度の場所であった。空には、山に紅葉がちらほら見えるのが当り前だった。当り前だったので、山を眺めているということは無かった。高層マンションに住んでも眺望をいつまでも楽しむ訳でもなしというのと同じかも知れない。 実家もスイートエグゼクティブなので、庭にもみじの木が1本もあり、秋には色が変わった。しかし、玄関を増築した時に、敷地が無くなって、もみじも無くなってしまった。 春になれば、山のところどころが、ピンクになる。ツツジがあちらこちらに咲くからである。暖かくなれば、異界の人と話す人がちまたに増えた。誰に話しかけているのか、ブツブツいう人を良く見かけた。 最近は見なくなったような気がする。私が外に出なくなったのか、そういう人々が、外に出してくれなくなったのか、本当に減ったのか分からない。しかし、携帯電話の普及もひとつとして考えられる。ゲラゲラ笑いながらや、ぶつぶつ呟きながら歩く人を見ても、携帯電話中であることがほとんどである。外に出ているというのに、意識は完全にインナーワールドである。こちらも驚かない。コードレスで話をしている人となれば、もう分からない。確かに異界の人と話をしている。その異界の人は、現実の世界のどこかに現実にいるのだろうけど。 ところで、最近、電源をお切り下さいという車内放送の代わりに、優先座席の近くでは電源をお切り下さいに案内が変わっていることに気がついた。 ペースメーカーと携帯電話、電磁波の因果関係がまあまあ両方の技術進歩のおかげもあり、ひっつくぐらい接近しない限りまず大丈夫だということが予想されているからであろう。今の所、携帯電話の近くでペースメーカーが誤作動して亡くなった方はおられないようである。 長期で見た場合、どのぐらいの影響を及ぼすのか実際は分からない。一時、携帯電話と脳が近づきすぎるので危ないといわれたが、携帯電話が初めて登場したのは80年代であるから、どんなに長い人でも、30年以上携帯電話を使っている人はいないのである。50年使い続けた頃からバタバタ倒れだしたりなんかしてね。そんなこと考えたら潜伏期間200年のウイルスがあったりなんかして、皆、その前にくたばるから誰も発病しないような病気があったりなんかしてね。病気もいろいろ増えているが、寿命も増えれば病気の人も増えるので、何とも因果関係というのは難しいものだ。 しかし、もう携帯電話もペースメーカーも進化したから、大丈夫ですなんて役所は言い出さないであろう。万一、想定外の事態が起これば、何を言われるか分からないから全力を以って責任回避しなければならないのである。下手すると、ペースメーカーの人を守ると見せかけておいて、ペースメーカーの人は携帯電話を持ってはいけないとでも言っているように聞こえてしまうぐらいである。ペースメーカー装着の人数は日本で40万人ぐらいいる。電車に乗れば、一人二人はおられそうである。 まあ、よく考えたら、優先座席近くではというのはおかしな話である。20センチぐらい以上距離があると大丈夫ということが言われたが、それはぎゅうぎゅうの満員電車以外にはありえない。満員電車でペースメーカーの人が優先座席に行くこと自体大変である。そうだなあ、満員電車時に電源を切りましょうと放送するほうがまだ理に叶っているよなあ。 それにしても携帯電話以外にも、送電線や電線は世の中に走りまくっているし、地中にも埋まっているし、病院自体が電子機器の嵐である。うわあ、もう外に出られないよボク・・・といいながらパソコンの画面を真近で見ている。 歌って踊ってジンギスカンしてもいいかな。
2005.11.29
コメント(8)
阪急京都線で仕事をしていて、2時間程度空時間ができたので(作ったのでとは言わないで)、待ってはくれない紅葉を襲撃に行かなければならない衝動に駆られた。 急げ!脳の奥が命令する。私の人生は誰も待っていないが、紅葉の時期は待ってくれないぞ!と。>プレーンエグゼクティブの故、急いでリキシャーマンを確保し、芸者をあげて、京都に向かう。向かった先での詳細は、コチラ。(心斎橋氏勝手に流用)多分、ここは、私が貧乏時代の京都の定宿と想像される。今と違うのは、ここの住人は今は広告代理店の部長でロイヤルジェネラルマネージャーをしているのに、私はまだプアエグゼクティブに過ぎないことぐらいだ。ボヤボヤしている訳にはいかない、急いで激務の現場に戻らなければ・・・オマケ。
2005.11.28
コメント(24)
1枚の絵葉書のみ、インド人チンピラリキシャマンの作品が出てきた。 その上に映しているのは、フランスのニースの空港で買った湯飲みである。買い物は不得意部門のひとつであるが、飛行機待ちをしていたとき、ふと売店を通り過ぎたら、このプロバンス色の湯飲みが「買って、買って」と呟いた。振り向きざまに、値段のみを確認し、購入した。このように、ほんのたまにであるが、商品が私を呼ぶ。喜ばしいことに、呼んでくれた商品は、3,000円以内なので、大いに家計を助けてくれている。経済的なお呼びである。 経済・・・とは何だろう。私は、経済学部出身なので、経済学的なことは、詳しくは分からないのであるが、生産、交換、投資、流通、分配、などの言葉が思いつくが、これらの言葉をまとめて簡単にいうと、ぐるぐる回るということであろう。勿論、私の頭の中も大抵グルグル回っているのだが、これは閉じられた空間で回っているだけなので、きっと経済とは言えない。経済とは、経世済民の略である。多分、大学1年の経済学の一番最初の講義の時に教えられたのかも知れないが、よく聞いてなかったので、経済学1を3年繰り返してしまうという悪態をつくはめに陥った。勿論、経済学甲、経済学乙、英語経済学講読、経済原論など、全て3年連続ないし2年連続講義を受けたということは、多分、私はとっても経済学好きだったのかも知れない。時代遅れの○経は、1回も講義に出なかったが1回で無事試験をパスした。多分、時代遅れだったので、受講者が極端に少なかったのであろう。勿論、1回も講義に出てないが故、受講者の数は、当日試験を受けている数人以外に確認するすべはなかったのであるが・・・ さて、本題である、と思ったのであるが、本題を忘れてしまった。忘れたので、何となく最近、一人で勝手に気になるネタ。カルムイキア共和国というのが、旧ソ連の中にある。カスピ海に面する北部にある人口30万人程度の小国家である。国際社会に出てこないのは、この地が、資源や水源に乏しく、列強国からあまり目をつけられていないからかも知れない。産業は順調のようであるが。 この国の面白いところは、ラマ教徒が多数おり、ヨーロッパ唯一の仏教国を自認していることである。若きアジア系大統領は世界有数の金持ちで、日本語も堪能とのことである。最近、よく残虐な事件が増えているが、「通院歴」があるなんか報道されると、「ああそうか仕方ないね」と妙に納得したり、匿名報道に変わってしまったりするけれども、通院といえば、勿論精神科のほうになるのだが、町には心療内科やメンタルクリニックもたくさんあり、気軽に行けるものであり、もはや自分の行動が何をやっているか何か分からない心身喪失状態である患者などごくごく一部に過ぎない。危険だというのも安易だし、報道規制するのも安易だ。そもそも、殺人なんかした瞬間など、殺し屋請負の人でもない限り、全員、まともな精神状態ではない筈なのだから。 何とか、とめてくれー。
2005.11.27
コメント(18)
何を隠そう、離宮購入検討の後は、すぐ空港に向かう予定ではあったが、実は銀ブラもした。銀ブラという言葉は人生で初めて使ったが、確実に死語である。銀ブラとは若人に日本語で説明すると、「銀座でブラブラ」の略である。だから、といってhなんだが、私の場合、本当は「銀フラ」であった。銀座でフラフラしていたに過ぎない。 その前に、汐留後再開発地域にいってきてシュプレヒコールしたかったのであるが、どうやら禁止されているようで、何となく意気消沈。これが本当のカプセルホテル。かつてロッテルダムで見たキューブハウスを思いさせるものがあった。何となく遮断機海上に信号機。船は急に止まれない。多分、黄色は5分ぐらいあるのであろう。ついでに港区フラフラ。こんな喫煙場所至る所にございます。国は思い切り土地収用しておった。
2005.11.26
コメント(16)
何を隠そう、すぐさま東京を去る予定であったが、折角早起きして、まだ午前中のまま東京を後にするのも何だかなあという気になって、財布を開けたら、1,000円札が1枚入っているのみであった。勿論、硬貨は300円ぐらいはあった。勿論、銀行に行けば、潤沢な資金が入っているはずだ。多分数百円。給与所得者の給料日前は大変厳しい。生き抜くだけで厳しいのである。 しかしながら、やせ我慢して、そろそろ、私も離宮購入を検討してもいい年頃になってきたので、参考までに浜離宮に見学することにした。勿論、お金が無いので、自家用ジェットで行かず、歩いて行ったのである。 簡単に紹介すると、昔から、徳川将軍家の鷹狩場で、一面の芦原であった。その後、六代将軍の時代に、この屋敷は将軍家のものとなり、名称も浜御殿と改められた。 以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成したとうことである。 明治維新ののちは皇室の離宮となり、名前も浜離宮と呼ばれるようになった。その後、関東大震災や戦災によって、御茶屋など数々の建造物や樹木が損傷し、往時の面影はなくなったが、戦後すぐ、東京都に移転し、整備のうえ有料公開されるようになった。看板には「60歳からも有料になりました」と老後の財政を圧迫するようなことも書かれていた。150円だけどね。それに何故か、外国人彼氏を連れた若い日本人女の子が多く、わびさびを伝授しているのを目にする。 私は、離宮を買う前に、宮殿を先に買わなければならないと痛感した、というより、まずは寝泊りできる自分の家を買わなければならないのかも、なんてエグゼクティブにも考えてしまった。 公園の向こうには、ビル群がそびえ、なかなかその対照が愉快である。NYセントラルパークの方が、その対照は面白いのだけど。向こうの巨大なビルは電通本社、そりゃ儲かってウハウハを体現したビルである。モウボク、耐えられないよ・・・ ところで、東京タワーは歩いても上ることができる。歩いて上れば、料金が、なんと!同じ・・・一応、ノートもらえるよ。入口では、寒空の中、一人学生のようなアルバイト君が受付を行い、商品を渡している。上まで歩けば、完走記念品までくれるオマケ付だが、別にいらないよ・・・鉄骨階段はどこまでも続くーよ。真下から見たらこんな感じ。階段を上る決意に武者震いする。ばっちり、看板写しました。子供は怖いもの知らずだ。世間を知って怖いものを知って、大きくなるんだなあ。私もラビット人生で何とかここまでくることができたよ。バッドデザイン賞
2005.11.25
コメント(10)
昨晩の夜中のことである。ニュースを検索していると、ギネスワールドミュージアムというしょぼそうな催しが開かれていることを知った。 何を隠そう、小学校から大学にわたり、何度もギネスブックを購入し、母にアホかと1度だけ言われたりなんかしたのだけれども、世界一への望郷が私の胸を捉えて放さなかったことを思い出した。 昔、バンコクの日本人会館(今は移動済み)に時々、日本食を食べに行き、そこで、ゴルゴ13全巻を読んだり、ギネスブックを熟読したものであった。(つまり、暇だったので、朝から晩まで日本人会館の食堂に入り浸っていたということなんだけれども) そんなことを懐かしく思ったのであった。 本日、思わず早起きしてしまったので、即決して空港に向かった。モノレールの終着駅である浜松町から歩くこと15分であった。東京タワー3階にある、ミュージアムは順調にガラガラであった。というか、わざわざミュージアムにするほどなんだろうかという疑問を呈しつつ、東京を去ったのであった。
2005.11.24
コメント(14)
何が欲しいか求められたなら 小さな幸せが欲しいとでも答えておくわ だって幸せ過ぎたなら 昔の辛い時期が懐かしくなっちゃうから「愛の嵐」を観た。上半身裸にあのナチスの制服を着たシーンが有名な映画だ。退廃美といえば「ベニスに死す」の方が上か・・・ 学生の頃、お歳暮シーズンに、百貨店の歳暮包装バイトというのをしたことがある。閉店した後、売り場に出てみたら、明日から配置転換模様替えなのか、表方に出てくる美人店員も裏方でウジウジしている美人でない店員も、ネクタイ姿の管理職も、作業着姿のおじさんも、若いのも年よりもごった煮になって荷物運搬商品陳列移動に次ぐ移動移設で売り場はカオス状態になっており、商品と棚と人間で隙間も無いほどにパニック寸前になっており、面白く、かなりハッピーな気分になった。 先週、飲んで歌い暴れて、手のひらを深く切って、それが、今や魚の目のようなカサブタになっていて、それが小さな河豚の膨れた口のように見えて、或いは、希望を無くしたただ生きているだけの人間の目に見えて、何となくほほえましい。 街を歩いていて、ツバを吐くことはない。ツバを吐くと自分を吐いているような錯覚に陥る。自分の意識を放棄したような気分になるので、公共性や他人への迷惑というより、美意識というかちょと嫌なナルシシズムなのである。でも、そのナルシシズムは必要かなと思う。 煙草を止め、酒をあまり飲まなくなってから、結構、ご飯をいっぱい食べるようになったような気がする。何か食べるようになって、結構、まずいなら食べなくてもいいやという気もなくなってきて自然体になったような気もする。 20代の頃、ホテルでの結婚式の料理はほとんど食べなかった。ふたを開けてはしめるといった失礼な奴であった。今は、結構、何でも、腹が減ってるので食べてしまう。飽食の時代にすみません。
2005.11.23
コメント(13)
私は基本的に禁煙に入ってから既に3年ぐらい入っているが、別に健康のためという訳ではないのだが、最近は禁煙運動真っ盛りであるが、本来は単なるマナーの問題に過ぎないのに何をここまでヒステリックに嫌煙権運動になっているのかと思っていた。 副流煙は主流煙より体に悪く、同居している人が先に肺がんで死んでしまうということがよく言われるが、少し考えれば分かるが、本人は副流煙に加え主流煙を吸っているのだから、もっと先に死ぬに決まっているのであるのにどうしてそんなことが言えるのだろうか不思議であった。 統計学というのは曖昧なものである。どうやらこれはたった一人の博士が発表した本から何故かここまでいいように使われていたようで、データがどうも曖昧である。というか都合のよいデータを抽出していると言われても仕方ないことなのだ。博士は基になったデータを発表していないし、他の要因や環境や年齢やストレスやをすべて無視している結構いい加減な調査だったようである。別に目くじらたてないけど、平均寿命延びたら肺がんで死ぬ人も増えるに決まっているし、肺がんになったのか他のガンから移転してきたのかもごちゃまぜ。肺の奥の方にできる肺がんは、煙草との関係が薄いといわれるが、9割の人はそちらのガンに罹るらしいことも、ごちゃまぜ。まあいいけどね。 煙草の煙より排気ガスの方が体に悪いような気がするし、車で年間8000人死んでいるし、酒で死ぬ人もいっぱいいるのに、何か何かのスケープゴートにされているのだろうなあと思っていた。捕鯨反対運動がベトナムの枯葉剤責任追及をかわすためのスケープゴートにされたように。まあ、車や酒は煙草に比べてマスコミの大切なクライアントだし。本を読んでいたら、面白い説に出会った。何のスケープゴートにされたかというと、遺伝子読み取りいわゆるヒトゲノムではないかというのである。DNAを読み込んでいき、2003年に終了した。勿論全部解明したからといって、人間には心があるから人間を解明することはできないが、医学やテクノロジーに今後大きく寄与するであろう。ガンも治るかもしれない。が、その前にガンの遺伝子どころか、いろんな将来的に発病する可能性のある遺伝子を持っていることが事前に分かってくるようになってくるのである。(生命保険会社はいつか人によってかなりの保険料の差をつけてくるだろう) どうあがいても、死ぬ時は死ぬのであるということが分かってしまったとすると、各方面でいろいろ困るのである。奇しくも2003年、知らない間に健康増進法 という変な法律が施行されていた。第一章 総則(国民の責務)第二条 国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない。→ほっとけやなあ。何で国にそんなこといわれなあかんのやろ。 まあ、煙草はマナーさえ守っていればいいのである。多分、バカバカ吸っても吸わなくても寿命にそう大きな差はないと私は思っている。しかし、年間5~10万円も煙草に費やすのが馬鹿馬鹿しくなっただけである。無駄使いされている税金を吸っているようなもので腹立たしいだけなのである。カーッ!それから、健康のために歩いているわけじゃないよ。
2005.11.22
コメント(16)
昔、インドに行ったときにガンジス川ほとりでサドゥ(修行僧)を見ながら、このうち一人でも日本に連れてくることができればぶっ飛びだなあと思っていた。 金銭的なものだけでなく、そのあたりにいるインド人を招待するというのは、大変ムツカシイ。講演会の推薦文下書きがでてきたが、採用されたか忘れた。「芸術は、一種の屈折や窪みや凹みが怒涛の如く溢れる感情を表現したものであったりするが、普段は気のいい世話好きの愛すべきチンピラリキシャマンであるアカイも、案外そんな面を持ち合わせているのかも知れない。いや、考えてみれば、自然と一体に生きている中で、そこにたまたま与えられた絵を描く道具が与えられ、たまたま表現したに過ぎず、芸術に重要とされる自然への感性が、生活に密着していたに過ぎなかったのか。感情のまま喧嘩し、人を容赦なくいびり、人知れず弱き老人や子供を助け、食べるものがなければ落ち込み、仕事が辛くて酒に逃げるといった人間的なものを包み隠さず体現されている。絵を搾り出すというより、自然かつ必然に具現化させている感じである。彼の絵は。 ところでベンガル地方、シャンティニケタンでの展覧会では、作品だけでなく、飾り付けもスコブル良かったらしい。更に良かったのは、西洋人でアレ学生であれ子供でアレ、アカイは同じ態度で接していたということであった。また彼の義弟がひっきりなしに訪れる見学者のために一日中お茶を沸かし続けたということも良かった(張り切りすぎて展覧会終了後寝込んだことはここでは秘密とする) またまた更に良かったのは、ここに来る子供たちの言動であったようだ。子供といって馬鹿にはできない。好きな作品や色、評論までいっぱしにやってのけていたという。そういう土壌がある土地柄であるようだ。さすがにノーベル文学賞を受けたタゴールを生んだ土地である。 アカイの得意とする日本語は「ムツカシイ」だ。「分からない」「理解できない」「困った」「できない」といった様々な意味を複合するものであり、純化するものでもある。彼の表情から、その「ムツカシイ」から何を意味するのか判断するのは非常に簡単である。考えてみれば、私は日本語を駆使しながら言葉遊び、誤魔化したり、惑わせたり、煙に巻いたりしている。覚えたての語彙の少ないアカイの日本語は直接、私の心に響いてくる。彼の絵と同じである。よく味わえば、その響きは交差しながら深くやってくる。アカイのトモダチより追記 アカイとの交流や会話の裏には、日本語堪能なモロイの功労がある。彼はシャンティニケタンに住んでいるが、どこをどう学ぶのか日本に来たこともなく、普段日本人と話す機会もないというのに、日本の情報もやすやすとないはずなのに流暢な日本語を話す。語学の天才なのだろう。 彼のカーストはバラモンである。リベラルなバラモンである。彼を見ていてカーストの複雑さを感じずにはおれない。カースト制度というもの、出生差別として単純によろしくないということはできるが、2,000年以上も機能しているということは何かうまく働いているところもあるのであろう。喧嘩もめごとの仲裁、アイデンティティの確立、生まれながらの特権を私利私欲に使ってはならない、田畑を良心的に貸し出す、など彼は自分に使命と立場をわきまえて、人々と幅広くつきあっている。そういった人は珍しいのかもしれない。カーストの中で職業的な区別をジャーティというが、リキシャマンのアカイはイスラム教徒であるので、ヒンズーからみればアウトカーストなのだが、2人は仲がいい。架け橋となった彼に感謝します。
2005.11.21
コメント(10)
16時から1時半まで飲んでました。あっ、死にましたから。 太陽の当神戸一望 ビーチ
2005.11.20
コメント(10)
一昨日、80日間世界一周の話を年甲斐もなく書いてしまったが、先月の知人の話である。知人夫妻はロマンチストなので、ドイツロマンチスト街道にドイツまで行ったのであるが、あまりにロマンチックな雰囲気に圧倒され、帰りのフランクフルト空港で、帰りの便に乗れなかったとのことであった。しかし、旦那は仕事があるということで、帰りの他者便を見たが無く、すぐ次に出るシカゴ便に乗り、シカゴで乗り継ぎの良かったロサンゼルス行きに乗った。そこから日本に向かおうとしたが、またしても乗れず、結局その後の香港便に乗り、そこから日本に帰ってきたのであった。 120年前とは隔世の感がある。何とか、2日でドイツから帰ってきたというものの、3日かからず予定外の世界一周をしてきたことになったのであった。 感想を求めると、ただただ「疲れました」とノタマッテいた。竹亭さんに触発されて一人ローイクラトン。ちょっとチャオプラヤ川が近くにないので、シンハの海に泳がせてあげた訳。それにしても、水の神様に水を汚してごめんなさいといいながら、メコン川に灯篭を流して、更に何となく水を汚しているような気がするのは気のせいでしょうか。きっと気のせいだ。
2005.11.19
コメント(8)
顔をコピー機に。散り神交換優雅なコレクションインドのパン尻をコピー機に
2005.11.18
コメント(18)
自慢である。といっても私が自慢しているのではない。大阪天神橋筋商店街が自慢なのである。日本一長い商店街である。約2600メートルである。約600店である。 自慢である。といっても私の自慢である。商店街を端から端まで踏査した者は日本人多しとはいえ100万人はいないであろう。ましてや数往復した人間ともなれば10万人は下らないであろう。 安くて旨くて回っていなくていつも混んでいる寿司屋以外にも、何かとうまい店が密かにあったりなんかする。勿論、少し歩くだけなら、普通の商店街でただ長いだけでもある。勿論今日は100メートルくらいしか歩いていない。 元来仕事人間なので、今日はメリハリをつけたつもりで早く帰ってきたので、少し長く古い映画を見た。「80日世界一周」1950年代あの時代に、どんな世界の映像が偏見に満ちて描かれているか興味があったのだ。内容はあまりなかったが、さすがに当時にしてもすごいお金をかけただけはあるといった作品であった。インドでは旦那が死んで嫁が一緒に生きたまま殺されるのを助けるシーンがあるが、これは今も習慣として残っているサーティではないかと思った。横浜では召使がお辞儀ばかりしており、サーカスに入っていた。 少年の頃、そう多く本を読んでいないが、ベルヌのこの本は読んでいて、上記2つの事象を始め、いくつかのエピソードを思い出した。凄い記憶力だなと思った。もしかしたら、こんな記憶の断片が、その後の人生に幾許かの影響を及ぼしているのではないかとフト思った。この物語のヨーロッパとアメリカのシーンは何も覚えていないのだが、インドと横浜だけはよく憶えていた。(横浜といっても鎌倉がでてきたけど)インドでは、まだまだ山賊はいるし、映画ではカーリーという言葉も出てきたし、サーティのことも出てきた。 それにしても当時では仕方ないことかも知れないがベルヌもなかなか偏見に満ち満ちている。そんなシーンを映画の中では何度となく見受けられた。 子供の時にベルヌの作品で「15少年漂流記」を夢中で読んだような気がするが、それは、勤勉、勇気、思慮、熱心といったことを訴えたいのだろうが、実は、無人島に漂流といっても、船にビスケットやつり道具や銃やマッチや食器や暖かい衣類などの文明のものが何でもそろっていたり(そしていろんな本まで揃っていた)、一人だけ召使(黒人)が乗っていて彼にずっと料理や雑用をさせたり、この遭難したおぼっちゃまたちが選挙でリーダーを決めようとしても召使には投票権がなかったり、何とも優雅なバカンスのような作品である。 それにしても、子供の時、この本を読んだ後、カバーをめくって、背を見ると「海底2万マイリ」と間違えて印刷されていて、珍しくて、少し嬉しくなった覚えがある。 そういえば、同じ漂流記でもロビンソンクルーソーも有名だが、第2部があって、こちらはアフリカからインド中国へと渡る冒険記なのだが、異教徒は野蛮だと罵倒しながら進む駄作だそうである。作者のデフォーが悪いのではなく当時のヨーロッパ人の一般宗教観なんだろうなあ。 送電線、片道通行にて電線終了。答え。ここから地下に潜ってました。
2005.11.17
コメント(8)
体育の時間になると、決まって彼女はいなくなる。あんなことのあった後だから、先生もクラスのみんなも、彼女のことは黙認していた。 もっとも、僕等の世界では、他人の行動にいちいち干渉することなんてほとんどなかったけど。もちろん、それは無関心からじゃなくって、分別のある子供の行動を、きちんとして個人の自由として認めていたからだったし、他人の世界に土足で踏み込むような、かっこう悪いまねはごめんだと思っていたから。 たまに、時代遅れの青春ドラマのシナリオをおしつけてくるような救い難い奴もいなくはなかったけれどもね。 その日は、僕はもう3日も徹夜状態で、睡眠不足も限界に達していた。こんな日に一時間目から体育なんて、優等生の特権を使って少し抜け駆けさせてもらおう。勿論、先生公認ということで。・ ・・・いつ私がこんな恥ずかしい文章を長々と書き続けたというのだ。その時の精神状態が思い出せない。そう考えたら、随分、大人になったものだと思う。 ながーい中略 彼女が、彼女の母親と同じように自らこの世を去ったと聞かされたのは、病的な週明けの朝礼の時だった。僕は発作的にその場にいることができなくなり、走り、校門を抜け、道路を横切り、堀のまわりに張り巡らされている柵にぶつかっていった。息を切らせながら見た堀の水は生理的嫌悪感をもよおすほど暗くにごっていた。 チャンチャン。人を殺しちゃいけないよ、イージーな終わり方だよ・・・・
2005.11.16
コメント(10)
1日目 19時30分 参加者3人。西宮171号線→京都→滋賀県草津 王将で閉店間際だったので、入場拒否される。仕方なく吉野家に入る。弁当を買いに来たお客に対し、店のおばちゃんがお茶を出し、お座りになってお待ち下さいというが、客座らず。もう一度おばちゃんが、お座りになってお待ち下さいというが、客座らず。むかついたおばちゃんが再度お座りになってお待ち下さいというが、むかついた客、尚、座らず。 岐阜県各務原市の先輩の家を約10キロ通り過ぎ、木曽川日本ラインまで行ってしまう。 先輩宅で宴会。超A級対応を受ける。2日目 二日酔いで我々3人が目覚めた時には、先輩はテニスの試合の付き添いという用事でおらず。というか誰もおらず。車のフロントに握り飯あり。ライトに「母より」と貼り紙あり。貼り紙はがさず出発。 丸山ダムを経て、田舎道を行く。途中、畑仕事の女性に道を聞くと、その人は鼻を垂らしていた。生まれて初めてマトモな大人で鼻を毅然と垂らしている人を見た。 林道を越えて、中津川。そこから順調に走り、茅野に22時着。 1本道で23時には甲府に降り、その後、富士山を見ながら(というか真っ暗で見えず)、2時30分、平塚。 車通りのない道脇で仮眠開始。3日目 京都出身のおっさんにフロントガラスを叩かれ起こされる。「ナンバープレートが懐かしくてなあ」と言って声をかけてくれたのだが、わしらは神戸ナンバーやけん。しかし、道は大渋滞中になっていてびびる。 藤沢の知り合いの所に行くと、不在。そのまま東京へ。 六本木、渋谷、首相官邸、国会議事堂、皇居を抜け、埼玉、戸田へ。銭湯に行き、荒川で車を停め、昼寝。夜になり、池袋に行き、新宿に行き、そのまま中野の知り合いに連絡が取れ、泊めて貰う。偶然にも中野の知り合いの家には、とてもいいものがあり、ありがたかったが、連れて行った後輩がこぼしたので、リンチに処する。 4日目北上する。秩父で殺人事件現場に遭遇する。舗装されていない道に入り込み、その後、御巣鷹山脇を抜け、松本着21時。 5日目 夜中の1時にサウナを出て、日本海、糸魚川まで。そのまま、富山、金沢に行き、福井永平寺へ。 その後、武生市の公園で3時間熟睡。 敦賀、美浜原発を越え、2時間舗装されていない道を峠越えし、琵琶湖北部比良山に出て、仮眠。21時亀岡市の王将に入り、23時15分には西宮に到着。 シアトルデンジャーゾーン
2005.11.15
コメント(14)
命を磨り減らして仕事をしている姿を目のあたりにする乗り物。リキシャ。太陽に照りつかれても、雨に打たれても、この尊大なる乗り物は、走るほど速くなく、歩くほど遅くなく、ヨタヨタという感じで進む。 浅黒く細い足は汗で光り、何度となく座席を降り、ガムチャ(万能布)でサドルを拭き、そのまま顔を拭って、汗をふき取る。ルンギー(腰巻)を締め直す。 「チョロー(どけ)」といいながら道中、人をかき分ける。しかし、大抵は歩行者に無視され、道を空けてくれようとはしない。 目的地に着くと、また値段交渉のやり直しもしばし。乗客との喧嘩が始まる。 かつて、リキシャマンと交渉して、1日リキシャマンをしてみた。勿論、客を取るのではなく、そのリキシャマンに座ってもらって、私が適当に漕ぐのだが、ペダルは重く、少しでも上りの傾斜になると、立ち漕ぎしないと進むことが出来ない。汗が涙の如く噴き出て、髪の毛が火傷する程に熱くなる。体全体を重しにして、私はいつもここでは客、あなたはいつも漕ぎ手という構図に少しやるせなさを感じながら、また明日からは、私は客になることができるのだな、金持ちの感傷に過ぎないなと思う。 インド、ベンガル地方の郊外の村。夜に、鉄格子の入った窓を開けて寝ていると、寝ている間に、鉄格子の隙間から棒のようなもので引っ掛けて、物を盗んでいく泥棒がいるから気をつけろ、と元泥棒に聞かされていたので、そのことが気になっていたこと、蚊取り線香が切れて、蚊の猛攻に曝されていた頃、けたたましい程に鳥が鳴き出した朝方、私の名を小声で呼んでいるような気がした。 ボルプール最後の朝、もう一度、ベンガル語で私の名を呼んでくれていたのは、元泥棒、現リキシャマンのアカイであった。 情けないことであるが、下痢にやられてしまったため、普段の身の回りのことは、頼んでもないのに、彼が何でもしてくれて、どこかに案内してくれても手際よすぎてよく憶えていないが、マッサージをしてくれたことは憶えている。彼らは、恒常的に薬を買ったり医者に診せる資金もないし、第一、周りに病気の人が多すぎるのだ。栄養からくるものだと思うが。そのため病人の扱いには手馴れたものであり、距離の置き方が絶妙に感じた。彼らのできることは、祈ることだけだ。 彼がマッサージしてくれることにより、プラシーボ効果か、どこか安心できた。しかし、アカイの厚い手と私の熱いおでこが摩擦して、垢がでると恥ずかしいなと思いながら。 1年後。彼らを日本に招いた。 大阪に安治川川底トンネルというエレベーターで昇降するという少し珍しいトンネルがある。昔は軍事目的に車まで運べたようである。
2005.11.14
コメント(8)
その年の夏、私は、声をかけられた。一言も話した事のない取引先の受付をしているアルバイトさんにだ。 「あのー」 「何ですか」 「今年の2月に、ミラノの空港にいませんでしたか?あなたに凄く似た人を見ました。でも普段仕事ですものね」確かに、ゴルゴ13ばりに、壁にもたれて飛行機を待っていたのは私であった。長年ためたお金で、彼女は所長に頼んで1週間の休暇を貰い、イタリア旅行をしていたというのである。不思議なこともあるものだ。 前にも書いたが、私の人生7不思議のナンバー1は、少年の頃、台風になると、海に泳ぎに行くのが趣味で、その台風の日も海に泳ぎに行き、凄い波の中、水中眼鏡をつけて海に入った瞬間に、波に吹き飛ばされ、水中眼鏡が吹っ飛んで、私もアップアップとなり、手をもがいたら、偶然にも、水中眼鏡を手に再びつかんだ。 しかし、その水中眼鏡は自分のものではなかった。他に誰も泳いでいない。青い少年の私には大きい水中眼鏡をみて、一帯誰のだ!と叫んだ訳である。 気持ち悪かったが、その後、数年使った記憶がある。ラッフルズ特集
2005.11.13
コメント(10)
高校の時、隣の駅の近くに、新たにレコード店がオープンした。そこは店が粘土の臭いがしてるし、レコードもキツキツに入れているので、あまりいい店ではなかったのであるが、店長が何とも憎めない人で、「今、ロックですっごくいいのあるかなあ」と相談すると、「こんなバンドが結成されたんだよ」といって「エイジア」(のファーストアルバム)を出してきた。高校生なので、今よりちょっとだけお小遣いが少なかったのであるが、アルバムはやはり高く、毎月1枚か2枚か買ってしまえば、その月のお小遣いは終了なので、厳選に厳選を重ね吟味に吟味を重ね、検討に次ぐ検討をしなければならなかった。 エイジアを買ってみた私であるが、近くに「クイーン」のベストアルバムが2000円であるのも発見し、思わず購入した。友達にもテープでコピーしては、ギターも弾けないのに、放課後、ホウキでギターのマネをして、楽器音もアカペラでクイーンの合唱をした。地獄へ道連れ、プレイザゲーム、愛という名の欲望、ウイウイルロックユー、伝説のチャンピオン、アンダープレッシャー・・・止まらなくなってきた。でもそうやって踊る我々を、踊らない同級生は冷ややかな目で見ていたのは間違いない。踊る阿呆に見る阿呆同じアホでも損得関係ナシナシ。 エイジアはその後ヒットしたし、クイーンは相変わらず格好いいままであった。その後、運動場で、フレディのまねをして、体操服の首の部分を手で引っ張って伸ばして、胸を見せて喜んでいたが、体操服もそれで伸びきってしまったほろ苦い青春時代であった。勿論、まだ胸毛も生えてなかったし。 その後、大学に入り、アジアのコピー商品で1本50円や100円でテープを買いまくり、荷物の半分をテープが占めるという事態になったこともあり、金がなくなってウオークマンを売るという事態にもなった訳なのだなあ。
2005.11.12
コメント(10)
ボヘミアンラプソディ熱唱してきて死んだ
2005.11.11
コメント(10)
コンイチハ。最近、自爆テロが横行していている。米ソのパワーバランスの崩壊に加えて、ボーダレス化というのもあるのだろう。アフガニスタンで精製されたヘロインが48時間でロンドンに届くといった物理的密輸に加え、インターネットの発達は、ロシアマフィアとコロンビアカルテルの意思疎通連絡交渉を一瞬にして可能にした。誰がどこにいるというのが関係なくなった。もともと、インターネット自体軍事が生んだ賜物である。おまけに、テロ対策でも、貧乏になった政府や国が予算を割けないという悲しい事情もあるのだろう。特にここ10年でスザマジい勢いで伸びているのがマネーロンダリングだ。何せネット社会の発達で通信コストと所要時間が大幅に削減されたのだから。歌舞伎見に行きたいなあ。 私がインターネットを家に導入してから10年近くが経過した。初めてインターネットの凄さを感じたのは、フィンランドに行く時であった。オランダ経由KLMオランダ航空がヘルシンキに着くのが、12時前、そして国内線が出発するのが12時20分。それに乗り継げるのかどうか分からなかったが、KLMとヘルシンキ国際空港にメールで問い合わせたのだった。 そしてフィンランドに住むアメリカ人に、どうしたらいいかメールで質問したら、「税関を抜けてロビーに出たら、左に曲がれ。そして建物の一番端の出口に行き、空港のキャリアーに荷物を積んだまま、外に出て、道なりに、兎に角走れ!隣の建物が国内線だ。外にいる時間は5分だ!そして、どこの窓口でもいいからチェックインするんだ、そして、・・・」とことこまかく指示してくれた。 「日本からフィンランド国内の切符を買うと高い。私が買ってEMSメールで送るから、それを使え。お金は会ってからでいい。そうだ、前に日本に行った時に買い忘れたものがる。関空でチェックインを終えて、パスポートコントロールを抜けて普通の免税店を抜けて、モノレールに乗って、エスカレータを下りたところから3つ目の店に浴衣が売っている。それを買ってきてくれ」といった按配であった。 なんだ、長崎までチャンポン食いにいかなくてもよかったかなと一瞬思ったが、パチンコ屋であった。
2005.11.11
コメント(18)
マル秘・感動・涙・特集・謎・衝撃・爆笑・激白・・・まあそんなチープなところがテレビのお馴染みの謳い文句である。下手にテレビをつけると、その辺のものを押し付けられるから気をつけな。 今日は、仕事の激務をぬって朝から夕方まで人権セミナーに出席した。個人情報保護法や就職差別に加え、車椅子の方のゲストがあった。その人はダンスをしているが、病院の一時的車椅子が1~5万円。通常の生活の車椅子が30万円。運動用が50万円、マラソンになると100万円、電動式は150万円となり、スポーツも経済力がないとそこそこできないということであった。 その人は、生活に不自由はないということだった。30代にして人生の半分を車椅子生活していると、例えば階段も昇降できないのが当り前なので、不自由でないという。いわば健常人が2メートルの壁をまたげないからといって悩んだり不自由に感じたりしないのと同じだといっていた。 学生の頃、よく出入りする寮に、車椅子の学生がいた。彼は、障害者の学生運動を展開しており、何かと学校当局と衝突しており、いつも強い自分を演出していた。しかし、寮での彼の本棚の片隅には、「障害者のためのセックス」とかのソレ関連の本が並んでおり、熱心に読んでいるんだよ、と笑いながら言っていた。勿論、障害者にも性欲があって、時々バクハツして暴れる者もいるという。そういえば、ホーキング青山著作の本にも、そういうエピソードが書いてあった。障害者クラスで、いつも大人しい生徒が時々暴れだすことがあり、その度に男の先生がトイレに彼をトイレに連れていくという。ある日、こっそり後を付けていくと、その先生は性処理をしてあげていたという。そうして生徒は大人しくなるという。想像してください、といわれてもリアリティがない。明日、身障者になるかも知れないと言われてもリアリティがない。でも世の中はどこまでも深いものである。
2005.11.10
コメント(6)
残念ながら、私は、仕事人間で、仕事にしか興味がないので、今日は7社と打ち合わせをした。勿論、最終的には、机の上に書類が山盛りのまま、エスケープしてきた。 ポトフも食った。フランス家庭料理のひとつ。 ソーセージなどのの肉類と、適当に大きくきったキャベツやニンジンやタマネギを、長時間かけてじっくり煮込んだ料理でスープに塩や胡椒やマスタードで味付けする料理である。 かつて、パリのノード駅にいた。ロンドン行きユーロスターに乗るまで時間がかなりあった。早い便に乗りたかったが、テロ対策が何かえらく厳しい時期で、多くの乗客が待っており、満席とのことで、ノード駅前の飯屋で、ビールとポトフを食った。何となく、一番奥まった外の見えない席に行くと、他の客も見えなくなった。 飲んで、少し酔ってくると、何だか日本の寂れた居酒屋にいるような気がした。多分、今はもうないだろうが、神戸のサン地下にあった居酒屋「どん底」にいるような気がしてきた。その店には学生の頃よくいったのだが、壊滅的に客がおらず、気分はどん底になって、なかなか良かったところであった。 そういえば、かつて、ネパールのカトマンドゥで結構暇で、中華料理を食った。客は誰もおらず、普段旅行中は高くて我慢していたビールを飲んだ。久し振りに飲んだので酔ってきた時にフト気がついた。何だか、日本の山荘風居酒屋にいるような侘しい気分になってきたのである。その日は、誰とも話をしていない気がしたし、宿泊した部屋が、壁もカーテンもシーツもドアも真っ白で、少しおかしくなりそうになっていたので、部屋に寄り付かなかったという事情もあったのだろうか。ところで、レクサスの展示場が近所にできた。勿論、私は富豪の一味なので、店ごと買っても良いのだが、そこは後に続く人のためにぐっと我慢して、通り過ぎるだけにした。レクサスというのは、お金持ちをターゲットにしており、昔ながらの「カローラからいつかはクラウン」みたいな庶民の高度成長時代に合わせたものではなくなった。そういえば、トヨタもCで始まる車名を辞めてしまった。 そういう時代になってきたのだなと感じる最近。 ところで、タイミャンマーラオスの国境付近はゴールデントライアングルといってアヘンやヘロインで有名であるが、アフガニスタンイランパキスタンの国境一帯も、黄金の三日月地帯として有名である。こちらのほうが凄く、世界の流通アヘンの供給の8割がここから産出されているという。アフガニスタンとは世界最貧国のひとつであるにも関わらず、何故タリバンがあそこまで武器を調達できたかというと、この莫大な地下経済からの収入があったから他ならない。タリバンの最高指導者オマル師が2000年にいきなり政策転換し、ケシ(アヘンのもと)の栽培を全面的に禁止してからアヘンの生産量は激減した。翌年には20分の1ぐらいまでに落ち込んだのであった。 これに不都合を感じたのはアメリカではないかと邪推する私である。翌年の911以降、スケープゴートにされたタリバン、オマル師は行方不明になったが、それからしっかり、アヘンの生産量はちゃんと以前の生産量に戻っていったのである。ところで、実写だけど、雲行きが怪しくCGに見えるのだ。
2005.11.09
コメント(8)
マイクロミストサウナというのを体感してきた。その後、某瓦斯会社と飯を食ったのであるが、5年ほど前の話になった。その時は、大阪の一流どころのホテルでの料理を食べていて、出てきたワインリストをついつい「凄く美味しいのをみつくろってくれ」と、頼んで1本10数万円のワインを頼んでしまいましたよと、そこの社用族社員が言っていた。確かあの時のワインはなかなか美味しかった(ような)気がする。 そんな訳で、生を受けて以来、一番高いワインを飲んだ記録が知らない間に樹立されていることが、5年ぶりに判明し、少しがっかりきた。 がっかりしたのも10秒程度であったが、帰りの電車の中でドンペリのことを思い出していた。数年前、某先輩の結婚式に出席したが、夜も遅くなり、大阪の一流ところのホテルの部屋をとってくれた。1室。私(当時既婚者現離婚者)は、同級生の女性(元Z日航当時既婚者現尚既婚者)と共に部屋に入って、すぐさま同級生及び後輩6人を部屋に引き入れ、8人で飲んで静かに騒いだ。 そして、ルームサービスを頼んだ「ドンペリ3本頼む」と。サービスのボーイがやってきてベルが鳴った。急いで、バスルームに後輩ども6人を詰め込み、寿司詰め状態にして、扉を開け、サインをして、急いで、ふたを開け、ドボドボ飲みだした。 まだですか、と耐え切れなくなった後輩がバスルームから出てきた。「あ!飲んでいるんですか!汚いですよ」と叫ばれたが、すでに半分はなくなっていた。支払いの請求はまだ来ない。翌朝、仕事で、ロビーに出たが、エレベータに乗ると、ぐるぐる回り、一階のトイレで1万円程度吐いた。 無理はしてもいいけど、無茶はしてはいけないよ、そういう教訓を得た。ところで6人の後輩をバスルームでなく、冷蔵庫に入れてしまう3段階の方法を伝授しよう。 1、冷蔵庫の扉を開ける。2、6人を冷蔵庫に入れる。3、冷蔵庫の扉を閉める。以上。
2005.11.08
コメント(8)
物持ちが良すぎるのだが、22年前の修学旅行のスケジュールが出てきましたが、天主堂とグラバー園には40分しかいなかったことが判明しました。こんなことでいいのでしょうか。趣味は道草です。陸上部でしたが、草履を履いているときは絶対走りません。物持ちが良すぎるのですが、大学の卒業旅行は、ジャングルでありました。まさしくジャングルマンになっていたと判明しました。卒業式の日は、ボルネオ島にいました。卒業できたかどうかは、分かりませんでした。分からないなりに、かつての首刈族のイヴァン族と遊んでいました。物持ちが良すぎるのですが、マンガ入り正しい検便方法です。、はやく提出しなければ期限が切れてしまいます。でもいやです。でも富豪なので検査料500円払っているのです。物持ちが良すぎるのですが、江戸時代からずっと溜め込んでいるお金は、今やおそらく1置く円の価値があると推測されます。500円札の岩倉具視は、実際「岩倉死すとも自由は死さズ」なんか言わなかったみたいです。その言葉通り、格好付けであったそうです。
2005.11.07
コメント(16)
日本のチャイナタウンは小さいものだ。横浜のチッチャイ版が神戸で、神戸のちっちゃい版が長崎という印象を受けた。この3箇所が日本の3大中華街である。日本のチャイナタウンの特徴は、世界中のチャイナタウンが現地の中国人のためにあり、ほとんどが中国人が運営しているのに対し、日本では日本人向けのチャイナタウンになっているというところか。中国人はよく4つ足では椅子、飛ぶものでは飛行機以外は何でも食うといわれるが、基本的に世界のドコに行っても中華料理しか食わない人が多いようだからか。 ところで、横浜神戸はほとんど広東系だが、長崎は福建系の料理のようである。歩いただけだが。 左側は長崎カステーラではあるが、右側は旧香港上海銀行長崎支店である。もともと、中国において、欧米の商社が貿易取引拡大に伴い、資金を安全に輸送するために、作られた銀行である。勿論、資金を順調にイギリス本国に戻す目的ではあるが、主要商品は当然、阿片であった。日本での支店は、横浜に続き、神戸と大阪、長崎、そして東京)にも開設された。 昔、大阪花博があって、ネパール館前の池のお金を、閉幕後、ネパールが持って帰ろうとして、えらく日本側ともめていたというニュースがあったなあ。 日本唯一の孔子廟とのことだが、何だか中国にいったらいっぱーいある感じがして、フフフーンという感じを感じてしまうのは何故なのか。 「ねえねえ、あとどこ行く?」と迷える観光客。グラバー園の中に、民家発見。郵便ポストもあった。全世界に発表するが、この家は小林さん宅である。 グラバー園の横に、ヘンな色の家発見。毎日、多くの観光客にその醜態をさらしている。塗りなおしたら? 目の不自由な妻に対して、観光ガイドを買って出る献身的な夫。このような老夫婦になりたいものだと、思う。その前に夫婦にならなければならないと思う。 全然話は関係ないが、アメリカ太平洋軍の重要拠点は西海岸、ハワイ、グアム、日本などがあるが、ディエゴガルシアというところもある。30年ぐらい前に、アメリカ軍が住民をモーリシャスに強制移動させて、無人の中東を抑える軍事拠点にしたのである。イギリス領で、アメリカに50年間の賃貸契約を結んでいる。むかついた住人が裁判を起こして勝訴しているが、島に戻ることはまだ実現されていない。もともとここの住人は奴隷としてアフリカから強制移動させられてきた子孫が住んでいたのであった。その人々は、ほとんどが、モーリシャスのスラム街に住んでいるといわれている。国籍は、勿論、イギリスである。
2005.11.06
コメント(8)
ケリーさんのマネをして、四海樓にちゃんぽんを食ってきた。ちゃんぽんの老舗ということだが、ちゃんぽんというもの、今までムチャ旨いというものやムチャまずいというものに遭遇したことがない。概ね、まあまあ、うまいであろうと予測されるまあまあ安心できる食べ物のひとつである。長崎方式なのか、この店のシステムかは分からないが、人を待たせて、食欲をそそらせるという様式を採用しており、決して相席させず、入口で15分ぐらい待たせて、ゆったり座らせるという多少、関西人からみると姑息な手段を取っているのが、3パーセントぐらい苛々する。大きなガラスの向こうに造船所が見える。長崎は、どうやらボーリングを日本で始めて取り入れたところであり、洋食が初めて取り入れられたところである、というのが多少の自慢のようである。自慢するのは、勝手だが、長崎市民を優遇するのは、多少むかつく。確か、母の高校の修学旅行の写真を見たのは小学校の頃だっただろうか。その頃、母は30歳ぐらいであった。白黒の写真に長崎のグラバー園や平和記念公園が写っていた。当時は、まだ新幹線もなかったので、在来線の時刻表がアルバムの一番最初に写されており、旅情溢れるものであった。それから数年後、私は、中学の修学旅行で長崎も訪れた。ここが20年ぐらい前に母が訪れた所であるのだなあと感慨深いものがあったが、それからさらに20年、いや、23年ぶりに訪ねたグラバー園は、写真の中の思い出しかなく、写真以外の場所はすべて忘れていた。キッチュである。出島。鎖国時代、唯一の海外の門戸であったが、なんだがキッチュ。空港には、まるでアメリカ映画で出てくる監獄での面会シーンのような電話が置かれている。泣く彼女をなだめる大阪か東京で働く背広姿の彼氏。なかなかいいシーンである。辛い遠距離恋愛悲話シーンを見て、極悪にも微笑んでしまう。
2005.11.05
コメント(12)
サイだねえ。焼肉をご馳走意なってきた。私から焼肉を誘ったことは人生上一度もない。サイではなく、かばである。かばがさかさになったらやっぱりかばだ。ひぽぽたますである。かばはななかな惨めな動物である。大きな口は単なるこけおどしである。ニュースでよくあるようにすぐに虫歯になるのである。おまけに陸を歩くのが苦手であるが、草を食べる為に一晩中陸を歩いたりなんかして、赤い汗を流すのである。おまけに、どこを歩いているか分からなくなるので、元来た道の目印のために運子をしながら歩くのである。ガンバレミスターヒポポタマス。谷川俊太郎の詩は最高である。 そうやって、酔っ払って呟いて眠るのである。アディオス。
2005.11.04
コメント(6)
私は、嬉しがりでは、決してないつもりだが、2階建て号の下階に乗ると、プラットフォームぎりぎりで、ミニスカートの女性などが歩いてくると、何となく敵意の目でこちらのことを恨んでいるような悪い気分になり、何故、こんな車両作りやがったのだと、某京阪電車を恨む。 京都に行ってきた。毎年恒例の京大前の古本市に行った。昔、京阪沿線に住んでいた頃は、よく京都まで本を探しに出掛けた。というより、行き過ぎたため、はっきり言って、「あなたの行く所は古本屋しかないの!」と同居人(=元妻)に罵られたこともある。 帰りは、重くて帰れない程であったが、何とか御池、三条、先斗町などを歩いた。 かつて半年程、京都で働いていたこともあるし、大学の頃は、学校が終わって西宮から京都にお茶を飲みに夕方から出かけたり、京都に下宿している友人達の家にしょちゅう泊まりに出掛けたものであるが、よく考えれば、今日の京都は5年ぶりぐらいのような気がした。 インドで出会った京都の仏教系大学に通っていた友達がいて、ナツメグカレーパーティしようぜと、彼の下宿先に行ったことがある。ちゃんと部屋もインド風になっており、我々2人でカレーを食った。 当時、何でも吸って見よう!チャレンジ期間だったので、バナナの内側の皮、レタスの中心部、紅茶のプリンスオブウェールズ、を銀紙に包み、少しだけトースターで乾燥させて、煙草にして吸った馬鹿な時代であった。れに加え、私が近くの御宅の庭から拝借してきた時計草(パッションフラワー)も摘んできていたので、それもテスティングした。新鮮なトケイソウの葉や茎を採取してぱりぱりになるまで乾燥させる。トケイソウとカノコソウを併せたものは不眠症やイライラを沈める働きがあるといわれている。パッションフラワーのサプリメントもあるぐらいだ。煎じて飲めば、鎮痛、沈静効果がある。 結果的には、何も起こらない、それが世の常である。 函館景色
2005.11.03
コメント(18)
連続3夜、関西の列車特集である。もう飽きそうなので多分、3夜で取り敢えず終わりの予定である。終点が面白い駅としては、南海高野線が上げられるだろう。 終点は高野山ではない。高野山は深山にある。その麓の電車が行ける勾配のぎりぎりまで行った所が極楽駅である。極楽駅には、まわりに民家がない。改札口もあるかなあというところで、100パーセントの乗客が、駅にへばりついたケーブルカーに乗る。 高野山は、ご存知、空海が約1200年前に開いた、真言密教の修行道場であり、全国に広がる高野山真言宗の総本山である。 山の上の盆地に、壇上伽藍と称する聖地があり、そこには、さまざまなお堂や塔が立ち並び、 仏像や曼陀羅が参拝者を迎える。杉が鬱蒼と立ちそびえ、太陽を遮る程の参道まで続く、奥の院まで、太閤秀吉から太平洋戦争の英霊まで、さまざまな人々のお墓が立ち並んでいて、歩いているだけで霊的なものを何となく感じる気がした。 昨年、世界遺産に登録されたが、私が訪れたのはもう15年程前のことである。帰りは、極楽橋まで歩いて下りた記憶があるが、さすがに誰とも出会うことはなかった。 東京では、高尾山口まで行き、高尾山に登ったことがあるが、かなり赴きが違ったように思う。まあ、俗物は飯をくうのみである。 ピザああ かにいい はっぴはろいーんん えっじぃぃ
2005.11.02
コメント(12)
何を隠そう、私は、30年来の阪神ファンである。阪神ファンの中では珍しいかも知れないが、監督を筆頭に一人の選手の名前も知らない稀有な存在でもある。 子供の頃は、同級生のロッテオリオンズファンや太平洋クラブライオンズや難解ホークスファンを滅多斬りにした程度に過ぎない。 勿論、生粋の阪神ファンを見に甲子園に行ったこともある。新庄選手が活躍していた頃だ。そもそも、私が子供の時から阪神が好きなのは、黄色が好きだからということ他ならない。最近では、楽天マネーで何故かニュースが減ったが、村上ファンド株買占め問題があるが、この阪神電車というもの実はなかなかシブイ電車なのである。 関西圏以外の人から、芦屋に住んでいるとしっただけで、ホエーっと感心されるのかも知れないが、神戸人は、すぐに「何沿線?」と聞いてからホエーと感心したり、ホエホエと頷いたりする。勿論、山の手の方からの阪急電車が何故か一番偉く、JR、阪神という具合にいつの頃からか誰かが決めた。大阪-神戸間はこの3本の電車が平行して走っている。阪神と阪急の値段とこの間の所要時間は同じで、お互い切磋琢磨している。JRは値段は高いが、他の2線より7,8分早く走るが、80円程度高い設定となっている。 阪急電車は京都や宝塚方面にも路線を伸ばしているが、阪神電車は大阪-神戸元町の僅か30キロ少々の営業距離に過ぎない。そこには、直行特急から、普通の特急、区間特急、快速急行、急行、準急、普通と何と7種類もの電車を走らせており、驚愕することに、同じ特急や急行でも時間帯や休日によって停まる駅が変化したり、上りは停まっても下りは停まらない。更に驚愕するに、この7種類の列車がすべて停まる駅は、終点と始発と三ノ宮駅しかないのである。つまりばらばらに走っているのである。調べてみると、普通電車しか停まらない駅は、33駅中5駅しかないのである。 その普通電車は、なかなか陰毛並に悲しい。平日の昼間に梅田発の電車は18本もあるが、そのうち普通電車は6本に過ぎず、特急が元町まで31分で到着できるというのに、普通電車は、抜かれに抜かれまくり、1時間16分もかかっているのである。 このことから考察できるのは、阪神電車は正に、阪神電車沿線沿いに住む人のための電車であり、よそ者には、ちょっと分からない電車なのである。実際に元町以西に住む人が大阪に行くには、たいてい、JRか阪急なのである(私が、実践した勝手な推測。被験者1人) タクラカマン砂漠を走る列車 ところで、列車というものは、走っているということ自体に於いて、何となく人々を安心させるものなのかも知れない。終戦日、あれだけ無茶苦茶に焦土化した東京も大阪も、区間は限られていたが、意地で列車はダイヤは多少狂っても動いていた。その光景をみて、どれだけの人々が安心安堵したことだろうか。希望を持ったことだろうか。そして、平和な日常、何かで列車が止まっただけで、どれだけ苛々することか。 閉じ込められた自分を感じてしまうのだろうか。列車が動いているとは、精神的にすごくいいことなのだ。終点、極楽駅。
2005.11.01
コメント(6)
全31件 (31件中 1-31件目)
1