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試合の朝、起きてみると、ホテルの窓は結露でびしょりになっていました。いい天気です。今日は、晴れの神様の勝ち。競技会に出始めたころ、私たちには、「晴れるといい成績」のジンクスがありました。最近はそれほど気にしていませんが、それでもやはり晴れていると、気分がいいものです。受付が11時と、普段の試合より随分遅いので、よっぽど参加人数が少ないのかと思ってしまいましたが、そうではなく、2級戦、1級戦、D級戦のラテン、スタンダード両方の試合を先に全部やってしまい、午後からの上級の試合と分けているのでした。10時半ごろ、沼津市民体育館に到着すると、中はまるで冷蔵庫のような寒さでした。この時間でこんなに寒いんだから、朝からの試合に出ていた選手は、きっと冷凍庫のような体育館で、踊っていたに違いありません。大寒波の神様は強力で、東名高速道路の通行止めはまだ続いており、競技に申し込んでいたにもかかわらず来られなくなる、東京・神奈川方面からの選手が続出しました。私たちの出場する「しずおかグランプリ(A級戦)ラテン」も、参加組数が減って、予選がなくなり、急きょ、戦わずして準決勝からということになりました。すごいラッキーです。雪が降ってもう一つラッキーだったことは、花粉がそれほど飛ばないことです。今年のスギ花粉の飛散量は、例年の数倍と何度もテレビで脅されているので、心配になって、2週間前に血液検査をしてもらいました。すると、スギ花粉にだけアレルギー反応が出て、それから薬を飲み始めました。試合中に鼻水やくしゃみが出たらこまるので、今回は助かりました。体育館は、とても広くて、とても滑りました。私たちは10時半にここに来てから、試合開始までの間、ずっと練習していたので、体は良く動きました。特に、振り付けの大半を最近代えてもらったチャチャチャは、まだ集中していないと間違えるので、ここに来て何度も練習しました。午後の試合は、C級戦、B級戦、ミドルシニア、グランドシニア、しずおか選手権(A級戦)の5つで、先にラテンの試合が行われました。これが私たちの今年初めてのラテンの試合。私は、昨年暮れに買ったコスチュームに初めて袖を通し、静岡にちなんだわけじゃありませんが、「ミカン色」になりました。たくさんのオレンジ色のリリアンがドレープ状に巻き付いていて、踊ると揺れる超ミニのコスチュームです。ところがこのリリアンが、最初の種目サンバで男性の袖のボタンに絡み付いて、大変なことになってしまいました。二人で一生懸命絡んだ糸をほぐし、ルーチンを一周しないうちに音楽が終わってしまいました。ショックです。朝、新幹線で駆け付けて下さったY家のお母さまと、一緒に車で来たCちゃん、Mさんが、ビデオを撮ってくれて、「どうしたんだろ」「なんか、ひっかかったんじゃないの」「やっぱり、なんかひっかかったんだ」しっかり、心配してくれている様子が録画されていました。(つづく)みかんの革命児 沼津の「寿太郎」≪こばやしフルーツの24時間タイムセール≫静岡県西浦産 青島みかん 5kg
2005/02/28
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27日は、第24回静岡県ダンススポーツ選手権大会でした。当初の予定では、早起きして新幹線で行くことになっていましたが、いつも応援に来て下さるY家の方々も一緒に行くということになり、前日の26日に出発することになりました。以前「紹興酒」と「塩コショウ」のお話で登場した友達のCちゃんと、ご主人のMさん、二人の車に便乗させてもらって、1時半に東京を出発しました。<第106話> 大応援団参照Cちゃんは、「遠足で晴れたことない」くらい雨女ですが、今日も明日も天気予報は「晴れ」。ただし、大寒波がやって来るので、かなり冷えそうとのことでした。一方、ご主人のMさんの方は晴れ男で、今回のバトルはMさんの勝ちに思えました。東名高速に乗って、海老名パーキングエリアを越えた辺りから細かい雨が降りだしました。Mさんは大喜びで、「妖怪雨降らし、本領発揮だ!」なんて笑っていたのもつかの間。山を登るに連れて次第に雪に変わり、御殿場のアウトレット店の辺りに来たころは、本格的な雪になっていました。周りの家の屋根も枯れ枝も真っ白に雪化粧して、金太郎で有名な足柄では、道路にも雪が積もってみんな徐行運転を始めました。雪が苦手な私は次第に無口になっていき、Mさんはスリップしないように運転に集中。Cちゃんとうちの主人は、「スキーに行くみたい!」と大はしゃぎです。徐行していた車の流れが、ついに止まってしまいました。と、後ろで「ドン」という鈍い音が響き、みんないっせいに振り返ると、私たちの真後ろの車が、その一つ後ろの車に追突されて、駐車ランプを点滅させて路肩に寄っていきます。「うわー。危機一髪だったね。」「後ろの車が車間詰めてたら、玉突きになるとこだったよ。」物凄くラッキーだったのは、これだけではありません。私たちが何とか通過して沼津に到着して間も無く、大井松田―沼津IC間は上下線とも雪のため通行止めになってしまいました。沼津は、Cちゃんが高校3年間住んでいたところです。学校の先生だったCちゃんのおばちゃんが、ここに住んでおられるので、みんなでちょっとよりました。庭にはもう梅が咲いています。沼津にはめったに雪が降らないらしいのですが、おばちゃんによると、「Cちゃんが来るっていうから、雪が降った」そうで、実は去年の夏にも、一緒に旅行に行ったとき台風が直撃して、屋根が飛んだというので、妖怪伝説もまんざら嘘ではないのかもしれません。そのままみんなで「ヴェルサンピア沼津」という丘の上の温泉に寄って体をほぐし、駅前のビジネスホテルにチェックインしました。途中、オレンジ色に輝く夕日と、まるで町よりも上にあるような海を見ました。雲間から、光の筋が何本も降り注いで、神々の戦いの終焉を見るようでした。仲見世のアーケードを歩いていくと、Cちゃんは、高校の時によく来ていた甘味屋さんや、ペットショップを見つけて、「ああ、ここ、よくきてたんだあ。」と懐かしそうに話してくれました。大寒波のせいか、夜はとても冷えて、おしゃべりすると、息が白く凍りました。みんなで美味しいパスタをいただいて、ホテルにもどると、私たちはそのままベッドに倒れ込んで眠ってしまいました。ふと目が覚めると、まだ、夜の9時半です。明日の支度を整えて、アサヒプレミアムビール「富士山」を飲んで、もう一度眠りました。明日は、富士山が見えるといいなあ、と思いながら。(つづく) アサヒ 富士山 缶350(写真左) ふじやまビール ピルス・ヴァイツェン・デュンケル 缶3本セット 【送料無料】御殿場高原ソーセージセット
2005/02/27
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ハウステンボスはこの年、10周年でした。大きなクリスマスツリーが至る所に飾られています。夜になるとその全てに光が灯って、町全体が宝石箱のような美しさです。私たちはまず、運河をめぐるカナルクルーザーに乗って、150mのシンボルタワーにやってきました。冬なのでチューリップこそ咲いていませんでしたが、パンジーや色とりどりの花々で埋め尽くされ、ドムトールンというこの塔に登ってみると、風車や赤レンガの建物など、まるで日本じゃないみたいです。トールン橋をわたり、世界の美しいガラス工芸品を展示しているギヤマンミュージアムへ。ここの3階には、「誓いの間」という結婚式場もありました。運河に囲まれたこの一帯は、どこに行くにも橋を渡らなければなりません。アカデミー橋を渡って、「柿右衛門ギャラリー」「手回しオルガン工房」「オルゴールファンタジア」「カロヨンシンフォニカ」ここには世界の鐘が展示してあって、その驚くほどの大きな音に仰天します。彼が異常に興味を示したのが、「シーボルト出島蘭館」なにか、郷愁を感じるのだそうです。天井の低いシーボルトの家を再現してあって、当時の貴重な資料が展示されています。天星館というホロスコープを見てくれるところにもよってみました。生年月日や生まれた時間、場所によって限定される惑星の位置で人生を占うものです。悪かったら無視しようと思ってやってみると、「大変幸運に恵まれて、何をやっても上手く行くので怖ささえ覚えるでしょう」え?そんなにすごい星回りなの?「あなたの幸運は長く続きます。さらにその運はどんどん上昇していきます」きっとこれ以上の占い結果は、もう一生でないだろうと思って、それ以来、おみくじひくのもやめました。お昼は、勿論、長崎ちゃんぽんです。まだまだたくさん楽しいアトラクションがあって、とても紹介しきれません。夜になってライトアップされた教会の広場では、ゴスペルコンサート。クリスマスの特別企画です。これは、聞きごたえがありました。夜の特別企画をもう一つだけご紹介します。ハウステンボス宮殿前で行われた「光の舞踏会」です。このネーミングは期待しますよ。バーン・ザ・フロアみたいなのを想像してたわけです。白い息を吐きながら、寒い宮殿前で待っていると、18世紀のベルサイユ宮殿の舞踏会にやって来たみたいな格好した紳士淑女が馬車で登場。これって、ワルツなの??外人カップルでも、あんまり踊れない人もいるんだな、と思ってしまいました。グランプリのすごいダンスを見たあとだったので、そう感じたのかもしれません。最後の夜は、ハウステンボス内ナイトスポット「アムステルフェーン」で乾杯して、この中の豪華リゾートホテルに泊まりました。ちょうど今、チューリップ祭りが行われていて、きっときれいだろうと思います。飛行機で1-2時間で行けるオランダ。賛否両論ありますが、私は、また行ってみたいです。今度は暖かいときに。ハウステンボスの写真をこちらのページに載せてあります。ご興味のある方は、ご覧になってみてください。
2005/02/26
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グランプリの予選を間近で見て、私達は圧倒されました。本当にこの人たちはアマチュアなの?正確なステップや、超高速スピン、自分たちのスピードとあまりに違います。三笠宮杯でも同じフロアで、同じようなメンバーが踊っていたはずなのですが、そのときは、遠くから見ていたので、それほど臨場感がなかったのかもしれません。ラテンC級戦は、出場組数13組。種目は、サンバ、チャチャチャ、ルンバです。グランプリに比べると、自分たちは、まるでスローモーションで踊っているような感じでした。しかし結果はなんと優勝です。「これって、来年はB級ってことかな?」年末のここにきて、逆転サヨナラホームランという感じです。2ヶ月ぶりにトロフィーを貰って、思いました。九州って、いいなあ。迎えに来てもらったタクシーに乗って、高速バス乗り場へ。タクシーの運転手さんも、「確かこの辺だと思うんだけど。」なんて、不安げ。高速道路に上がる階段が、薮の陰にありました。こんなの初めて見ました。運転手さんも、「違ってたら困るからここでちょっとまってます。」といって、エンジンをかけたまま、私達が階段を上りきるまで見ていてくれました。そこには小さな小屋があって、バス停になっているんです。目の前を車がビュンビュン通り過ぎていって、はっきりいって、怖いです。「ほんとに、バス、来るのかな。」あ、来た来た。と、思っても、バスは凄いスピードで通り過ぎて行きます。予定時間を10分くらい過ぎた頃、やっと来ました。夢の国、オランダに向かう高速バス、ハウステンボス行き。私達は大きな荷物とトロフィーを抱えて、バスに乗り込むと、終点まで乗るので一番後ろに席をとりました。高速を降りて、もう熊本とはお別れ、こんにちは、長崎県です。途中、どんどんお客さんが降りて行って、終いには私達だけになってしまいました。あたりはもうとっぷりと日が暮れて、どこがどこやらさっぱりわかりません。終点でバスを降りてみると、冷たい風がビュービュー吹きぬける広大な駐車場が目の前に広がっていました。遥か彼方に、宿泊予定のホテルの明かりが見えます。ほかに手段がないので、重い荷物を担いだまま、私達は歩き始めました。歩いても歩いても、なかなか到達しません。ようやく、ホテルがはっきりと見え、そこにキャンペーンの垂れ幕を見たとき、夢ではないかと我が目を疑いました。もしも私が天国に行けたら、その入り口には、全く同じことが書かれているはず。「地ビール飲み放題」「カニ食べ放題」「天然温泉センター、露天風呂あり」 一年の中で一番いい日が、いつだかはっきり言える年は、一生の中でそれほどないような気がするんです。この2002年に関していえば、この日が最高でした。その天国の門に着くまでは知らなかった、夢のようなご褒美。大好きなカニが食べ放題、大好きな地ビールが飲み放題、しかもダンスは優勝で昇級、あとは温泉にゆっくり入って、明日は、夢のハウステンボス。ああ、人生って素晴らしい。アイ・ラブ・九州。まさしく、喜び飽和状態でした。 【訳ありだから美味い!】ボイルたらばかに姿1、4キロ≪ミソ入り≫ 地ビール「恋のオランダ坂」左から、ピルスナー、ドゥンケル、ヴァイツェン地ビールいろいろ、こちらから 『名湯・秘湯ベスト30(DVD)』
2005/02/25
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熊本空港は曇りでした。リムジンバスに乗って、熊本駅に向かうと、途中に宿泊予定の超格安ビジネスホテルがあります。そこは、駅や、繁華街に市電で5分という魚屋町、面白い名前です。チェックインを済ませた私達は、早速、街に繰り出しました。交通センターで、長崎に向かう高速バスのチケットを予約し、その地下街に入ってみました。熊本の夜は今日だけなので、先生たちに「熊本ラーメン」のお土産を買い、外に出ると雨が降りだしていて、みんな急いで屋根のあるところへ駆け込んでいきました。熊本城がライトアップされて、きれいに浮かび上がっています。私達は小さな傘を買って、全長150メートル、日本一と言われるアーケード「下通り」に向かいました。ところが、12月の雨で、寒いわけです。もう、すっかり暗いし。それで、日本一のアーケードを目前に、その手前のサンロードというアーケードで、ラーメン屋さんに飛び込んでしまいました。「熊本ラーメン」は、店によって特徴があるようですが、私達が食べたのはトン骨スープのあっさり系で、麺は太め、炒めたニンニクがかけ放題だった気がします。すっかり暖まってお腹もいっぱいになり、もうアーケードはどうでもよくなって、市電に乗ってホテルに帰りました。ひょっとしたら、市電に乗るのはこれが初めてだったかもしれません。なんとなく、オランダのトラムを彷彿とさせる旅行気分を味わえました。ホテルは、二人で1泊6300円という嘘みたいに安いビジネスホテルでしたが、とても清潔で朝食も美味しく、比較的新しいグループホテルの一つです。折角、熊本に来たのだから、本当は水前寺公園とか熊本城とか行ったらよかったんでうが、当初の目的が「ハウステンボス」ですから、熊本観光は次の機会にゆっくりしたいと思います。一夜明けて、九州大会の日。この日はラテンのアマチュア日本一を決めるグランプリがメイン競技でしたから、それを見るのも楽しみでした。上位2組が、IDSF世界選手権に出場する日本代表資格を与えられます。北海道から沖縄まで、トップ選手たちがここ熊本に大集結です。私達が参加するのは、それではなくて、ラテンC級戦です。場所は、合志町総合センターヴィーブル体育館。タクシーで体育館に向かうと、運転手さんはとても気さくな方で、NHKの大河ドラマで来月から始まる「宮本武蔵」の関係で、熊本もにぎやかになるよ、なんて話しておられました。道の至る所に、「宮本武蔵」ののぼりが立っています。着いてみると、はっきりいって周りには何もない体育館でした。朝ご飯をたくさん食べたからいいけれど、そばにコンビニもないので、ジュースも買えません。運転手さんにお願いして、終わったらまた、迎えに来てもらうことにしました。(つづく) 【熊本県 大黒ラーメン】有名人からも支持!! 22年かけた究極の味 4人前1000円(税込) 熊本「こむらさき」ニンニクチップ九州ラーメン味くらべ(4種類・各1食入)
2005/02/24
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アムステルダムで100年の伝統を誇る五つ星ホテル、デル・ヨーロッパ。運河沿いにそびえるお城のような建物は、夜になるとライトアップされ、世界各国からの賓客を今日も優雅にもてなすのです。オランダは私が行ってみたい国の一つです。17世紀に活躍した大好きな画家たちの絵画も見たいし、フェルメールの傑作「デルフトの眺望」を、実際自分の目でも見てみたい。風車のある美しい花の公園で散歩したり、運河を船で渡ったり、多分ドイツやベルギーにも近いから、おいしいビールも飲めるはず。仕事でオランダに行ったことのある彼は、いろいろな失敗談とともに、様子を話してくれます。ホテルヨーロッパの前にレンタカーを駐車していたら、レッカー移動されたとか、道を走ってたら、後ろから来たトラム(路面電車)に激突されそうになったとか、そんな話ばっかりですが、私の行ってみたい気持ちは変わりません。現実的にはなかなか休みをまとめて取るのが難しく、私が「難病」だったら、行ったかもしれませんが、そうでないと分かると、またその話は立ち消えになってしまいました。しかし、私はあきらめません。本当のオランダに行けないなら、日本のオランダに行く!それは長崎にあります。そうです。「ハウステンボス」です。2002年11月30日、私達はついに、九州に向かって出発しました。ただ、普通じゃないのは、必ず、競技会が引っ掛けてあることです。2002日本ダンススポーツグランプリ in 熊本が、翌日の12月1日に予定されていて、そのラテンC級戦にエントリーしていました。振替休日で火曜日までお休みをとっていた私達は、久しぶりに飛行機に乗るのがうれしくてしかたありません。羽田空港で、お昼のサンドイッチを買っていると、向うから見たことある顔がやってきます。「あれ、Hさんじゃありませんか。これから試合に行かれるんですか?」Hさんは、よく競技会でお会いする茨城の選手で、大きな荷物を抱えていました。「いま、帰ってきたとこ。韓国行ってきたの。」確かに、ハングル文字が踊るお土産をたくさん持っておられます。私達が、九州大会に行くというと、「ヒャー、九州まで試合にいくの?!」と驚かれてしまいました。私は、母が博多の出身なので、九州と言っても親戚が多い所くらいなもので、何度か行ったこともあります。九州は日本だけど、韓国は外国。そっちの方が、インパクト強い気がしますけど...。飛行機が嫌いな方は、あの離陸する瞬間のふわっと来るのが嫌だと言われますが、私はそれが大好きです。耳がツーンとして身体が斜めになって、窓の外を次から次へと雲が通り過ぎて行くのがたまりません。あー、飛んでる!っていう気分です。さて、飛行機は一路、熊本空港へ。続きはまた、あした。(つづく)デルフト キス人形バースデープレート 星座タイプ メモリアル 誕生皿 お誕生祝い 記念品◆チューリップ「バレリーナ」10本
2005/02/23
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日曜日「あるある」を見ていたら、耳寄りなことをいってました。体脂肪落とすのに、ものすごく有効なサプリ。アメリカではポピュラーな、その名も「アルファー・リポ酸」。体内の何兆もある細胞一つ一つのミトコンドリアに直接働きかけて、脂肪を分解するのだそうです。正月太りから未だ立ち直れていない私たちは、身を乗り出しました。体脂肪に悩む30代以上の被験者が、1週間、たったの1週間ですよ、このサプリを取ってちょっと運動しただけで、みなさん体脂肪率が大幅に減少。20代にはいていたズボンで、最近もうきつくなっていたものが、はけるようになってしまってました。そんなにすぐに結果が出るんなら、やるしかない!早速、本日ゲットしてきました。「アルファー・リポ酸」。これは、20歳を境にドンドン減少の一途をたどり、しかも体内では生成できないので、食品としてとるしか方法がありません。新陳代謝をアップするので、若返り効果も期待できそう。すごいのは、これが含まれている食品。レバーやホウレンソウに多く含まれているそうですが、1日に必要な量100mgをレバーの焼き鳥で食べようとすると、何と、2万本も食べないといけない。ホウレンソウなら、600キロ。ちょっと現実的じゃない量ですね。さて、そのサプリを飲んで、いざ、練習へ。今日は、スタジオが空いてて、貸し切り状態です。本日風邪で仕事お休みのだった彼は、最初っからエンジン全開。ただのずる休みか?「なんか、細胞ひとつひとつでガンガン燃えてる気がするよ。」なんて、いってます。私は仕事で疲れたせいか、どうも、点火しません。最後まで何となく点火しないうちに終わった感じでした。本当に効いてるんだろうか?テレビでは、脂肪の燃焼には順番があるといってました。まず、血液中の中性脂肪が燃え、内臓脂肪が燃えてから、皮下脂肪が燃え始めるので、比較的内臓脂肪の多い男性は、早く結果が出せて、皮下脂肪型の女性は、1カ月くらいかかるとか。とにかく、今日から始めた「アルファー・リポ酸」計画。1カ月後の結果報告をお楽しみに。 TVあるある大辞典で話題のαアルファリポ酸+CoQ10配合夕亜【3月1日より順次発送いたします。】 ★楽天スーパーポイント10倍★【スーパーブロウ】■2個で送料無料■3個で代引料も無料■セルラ... αリポ酸(アルファリポ酸)
2005/02/22
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ダンス競技会を主催する団体は実に複雑です。ここ最近だけなのかもしれませんが、私たちが競技に参加してから、随分いろいろ変わりました。以前は、アマチュアの団体であるJADA(日本アマチュアダンス協会)が主催する競技会の名前をよく耳にしました。映画「Shall we ダンス?」の中で、竹中直人が役所広司に仕組みを説明しているシーンがあり、そこにもこの名前が登場します。このほかに、プロが主催する競技会があって、JBDF(日本ボールルームダンス連盟、財団法人なので、財団とも呼ばれています)、JDC(日本ダンス議会)、JCF(日本プロフェッショナルダンス競技連盟)がありました。JADAは、JDSF(日本ダンススポーツ連盟)と名前を変えて、2002年の段階では、JDC、JCFの主催する試合にも出られて、JBDFだけは、別に独自級を持っていました。翌年、2003年からは、JCFが二つに分裂し、JDSFと互換性のあるJPBDAと、独自級を始めたJCFになります。今日のお話は、その分裂する前、2002年11月17日、東京のホテルイースト21で開催されたショーダンス選手権の様子です。普通の競技会とは違い、ショーダンスは、アイスダンスのように一組ずつがテーマを決めて踊る形式です。音楽も衣装も振り付けも、それぞれのカップル独自のもので、この日は、ショーダンス世界選手権に出場するプロダンサーの日本代表を選ぶ重要な大会でした。他に前座として、アマチュアC級戦もありましたので、見るだけよりは出場して、さらに見るほうがお得。この大会にエントリーしました。51組出場で、ラテン4種目を競うものでした。試合結果は、準決勝まででしたが、この日のお目当ては別にあったので、そそくさと着替えて、いい席に座りました。通常の競技会は、JBDF, JDC, JCFがそれぞれ不可侵の状態で、各競技団体ごとの日本一を決めますが、このショーダンス選手権は、団体の境界を越えて、本当の日本代表を選ぶので、とても見ごたえがあります。<第48話>巨大なビデオカメラでご紹介した、関西の山本組(JDC)や、関東の大村・和田組(JBDF)、市川・児玉組(JBDF)、矢部組(JCF)といった、今を時めくキラ星のようなトップ選手達が、いったいどんなストーリーを見せてくれるのか、楽しみでなりませんでした。いつも応援に来て下さるY家の方々にも、お勧めしたところ、一番いい席でご覧になっていて、まるで、どこかの有名なダンスの先生と、そのお供達みたいな構図になってしまいましたが、予想たがわず、大変見ごたえのある試合でした。優勝は、やはり「東洋の真珠」といわれる関西の山本組でした。「こんなこと普通出来ないだろう」というような技の連発で、元ボリショイバレーにいらしたパートナーが、柔軟性を十分に発揮したすばらいショーダンスでした。私も本当は、たくさんの選手がおなじフロアでごちゃごちゃ踊って競う競技より、このアイスダンスのような形式の一組ずつ踊る方をやってみたいのですが、アマチュアにはこういった競技会はいまのところありません。ショーダンス世界選手権の様子は、ケーブルテレビのスポーツチャンネルで放送することがありますので、機会がありましたら、ご覧になってみてください。
2005/02/21
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社交ダンス人口って、いったい何人ぐらいいるんだろうと、ふと考えました。ブームに左右されるにしても、数万人なのか数十何人なのか、そのオーダーすら分かりません。その中で競技をやっている人は、多分、1割、もっと少ないでしょうか。またさらにその中で、1級から6級の人の方が、A-D級の人より多いに違いありません。アルファベット級の中でも、上に行くほど人数が格段に減っていくので、そう考えると、私たちはかなり山の上の方まで登ってきているんだなと改めて感じました。現在この「社交ダンスA級への道」でご紹介している、2002年。メールで全世界に向けて発信された、あるメッセージが話題になりました。「100人の村」というものです。私はその話をテレビで知って、いつかメールで流れてこないかなと心待ちにしていました。これはチェーンメールのような形式で、友達からその友達へと転送されて世界中に広まったメッセージです。そのうち、本が出版され、私は待ちきれずに買ってしまいました。その中に、こんなフレーズがあります。「かつて一度も傷ついたことがないかのごとく、人を愛しましょう誰も見ていないかのごとく、自由に踊りましょう誰もきいていないかのごとく、のびやかに歌いましょうあたかもここが地上の天国であるかのように、生きていきましょう」世界には、素晴らしい身体能力を持ちながら、生きていくことに精一杯で、一生に一度も踊ったことがない人が、たくさんいるに違いありません。傷ついて、もう誰も愛せなくなってしまっている人も、素晴らしい声を持ちながら、歌うことの楽しさを知らない人もきっと大勢いるでしょう。私は100人の村の中で、たった一人、踊ることも歌うことも愛することも出来る恵まれた住人です。多分、日本人のほとんどが、世界を100人の村と考えたとき、安心に毎日が暮らせ、明日が来ることを信じられる、その中のたった一人にあたると思います。ご存知の方もそうでない方も、お時間がありましたら、是非、このメッセージをもう一度読んでみて下さい。「100人の村」は こちらからご覧頂けます。 【楽天ブックス】世界がもし100人の村だったら 【楽天ブックス】世界がもし100人の村だったら(2) 【楽天ブックス】世界がもし100人の村だったら(3(たべもの編)) 世界がもし100人の村だったら 〔シンコーミュージック〕ピアノソロ 世界がもし100人の村だったら
2005/02/20
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2002年9月23日から、私達は毎週、7週間連続で競技会に参加していました。最後の試合は、JBDF北関東のB級戦。年間を通じて、C級戦以上の試合で2回以上入賞の夢破れ、2003年もC級に決まっていた、この年の北関東の、最後の試合でした。野球でも、順位が決まったあとの消化試合がありますが、あんな感じで、折角申し込んだから出ようか、くらいの気合いの入らない試合。2002年11月4日、全埼玉ダンス競技大会のラテンB級戦、種目はチャチャチャとルンバでした。場所は、以前「ねぎみそ饅頭」でご紹介した、深谷ねぎで有名な埼玉県深谷市。しかし、試合が始まると、やっぱり懸命にがんばります。1次予選は80組。私達は埼玉大会が、わりと好きなんです。それは、音楽のテンポが若干他県の試合に比べて遅いからです。ルンバなど、いつもゆっくりの音楽で、動き続ける練習をしていたので、まだレベルは低いですが、ちょっと有利でした。1次予選が終わって、2次予選までの間、2階席からぼんやりフロアを眺めていると、同じ教室のHさんに肩をたたかれました。Hさんは、学生のときダンスをされていて、最近また始められたスタンダード中心の競技選手です。お住まいがこの近くということで、今日は奥様と観戦のみ、とおっしゃっていました。奥様は、「競技はもういい」ということで、別のパートナーの方と組んで、飛ぶ鳥を落とす勢いでB級になっていきました。その方が、ビデオを撮って下さるというので、2次予選もはりきって踊りました。この日は、最終予選のベスト24で敗退してしまいましたが、あとで、そのビデオを見てギョっとしました。いままで、自分たちのビデオで、遠くから定点撮影しかしていなかったので、全く気がつかなかったことです。いただいたビデオは、アップで映っています。そのまま封印してしまいたくなるような、「誰に向かって、何のために踊っているのか」全く分からない、いってみれば「ひとりよがり」の踊りです。表情も不気味。少しは笑え、と声をかけたくなるような、なにか世界に文句あるのか、みたいな顔で踊っています。上手い人の踊りは、そのまわりに大きなオーラが取り囲んでいて、その中には誰も入ってはいけないような空間が出来ます。私達の「ひとりよがり」踊りは、閉じているので、いくらでも他の競技選手に侵入されます。このいただいたアップのビデオで、自分たちが「まだまだ」ということを痛感しました。7週目にしてようやく気付いたわけです。それだけでも、この試合に行った価値はありました。しかし、7週間の間にいろいろありました。試合に靴忘れたり、難病かと悩んだり、家から閉め出されたり。毎週試合だと、心も身体も休む間もなく、ゆとりが無くなってきて、忘れ物したりいろんなことが起こるのかもしれません。こんなに連続して試合に出たのは初めてでしたが、いい経験になりました。確かに「まだまだ」でしたが、7週間前の自分たちに比べたら、随分上手くなっていた気がします(当社比)。 ソニーデジタルビデオカメラネットワークハンディカムIP220K SONY デジタルビデオウォークマン GV-D1000 [GVD1000]【3倍還元0217】
2005/02/19
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教室にひょっとしたらまだ先生がいらっしゃるかもしれないから、電話してみようということになり、番号案内で教室の電話を調べて、かけてみました。しかし、出たのは留守番電話。「もう一つの○○教室にご連絡いただくか、メッセージをお願いします。ピー」やはり先生も帰られたようでした。先生の携帯の番号なんて、覚えているはずもありません。このまま野宿か?小銭しかないのでホテルにも泊まれません。ダメモトでもう一つの教室に電話してみることにしました。「はい、もしもし。○○教室です。」しばらく沈黙が続いたので、誰かが電話に出たのだと分かりました。「あれ?留守電じゃない?先生ですか?!!」同じ教室のO先生は、こんなに遅くまで練習されていました。「うわー、助かりました。命の恩人ですぅ。」「どうしたんですか?」事情を説明すると、家に帰られたT先生に連絡をとって、もう一度教室を開けてもらえるように頼んで下さるとのこと。「まだ、電車あるかな?」私たちは駅に向かって、猛然とダッシュしました。練習疲れなんてどこへやらです。最後の小銭で彼は切符を買い、私は定期で改札を抜けると、まさに下り最終電車がホームに入ったところでした。ギリギリセーフです。T先生は教室の前で私たちのかばんを持って待っていて下さいました。助かりました。先生は笑って、「楽しようなんて気、起こすからだよ。」おっしゃる通りです。私たちはシャッターの閉まった駅前からタクシーに乗り、家に帰り付きました。時計は2時を回っていました。翌日、ご迷惑をかけたお詫びに菓子折り持ってダンス教室に出かけ、私は相変わらず大きなゴロゴロかばんで二人分の荷物を持っていったのでした。ピーナツサブレ 30枚入りw・[千葉県]・鎌ヶ谷・梨ワインケーキ上野風月堂 デリシャスセット「送料無料」
2005/02/18
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マンションの入り口には昼の間は管理人さんがいます。住人はまず、その入り口にある第一関門を専用の鍵で開けて通過し、各個人の家の玄関で第2関門の鍵を開けるという仕組みになっていて、外部の人を2重にシャットアウトしています。宅配便やお客さんは、第一関門の扉の前で、インターフォンを使って住人を呼びだし、そこを開けてもらわないかぎり、建物自体に入れないのです。ふと見ると、管理人室の窓に張り紙がしてあるのに気が付きました。「ご用の方はこちらにお電話下さい。」これだ!管理人さんに電話。二人は、最近めったに使わなくなった公衆電話目掛けて、コンビニに走りました。管理人さんに電話をかけて事情を説明すると、つれない答え。「自分で鍵やさんにいって何とかしてもらってくれ」というのです。こんな夜中に鍵やさん呼んでたら、家に入るのが朝になっちゃうかもしれません。実は、以前、鍵やさんを呼んだことがあるのです。あれは、まだダンスを始める前の夏の日のこと。二人は、太平洋の荒波踊る海水浴場にでかけました。初めて行く場所で、10軒ほど並んだ海の家からは、激しい呼び込み合戦。若い二人はそれを横目で見ながら、「ビーチパラソルでいいよ」なんて、浜辺に荷物を広げました。置き引きにあうとまずいので、貴重品は全部、車のトランクの中。さんざんボディボードで遊んで、そろそろ帰ろうかという4時頃、みなさんもう、お分かりですね。海パンのポケットに入れたはずの、車の鍵がないわけです。打ち寄せる荒波、果てしなく広がる浜辺。混雑した競技会場でボタン探すなんて、目じゃありません。二人はぼう然と太平洋を眺めました。海の家に助けを求めて駆け込み、鍵やさんを呼びました。一番近い鍵やさんで、片道2時間かかるというのです。私たちはその海の家で、焼きそば食べたり、フランクフルトかじったりしながら、世間話をして鍵やさんが到着するのを待ちました。バイトのケンちゃんとはすっかり打ち解けて、それから毎週この海の家に来るようになりました。すでに夕暮時。もう浜辺には、人影もまばらで、風が冷たくなってきました。やっと到着した鍵やさんは、あっというまに車のドアを開け、合鍵を作ってくれました。「2万円です。」えー!そんな大金、海に持ってきてる訳ないじゃん。「すみません。私、こういう者でして。」名刺はなぜか持っているんです。免許証も見せて、後で必ずお金はお送りしますのでといって、やっと帰ってこれたという、苦い思い出が、ここでザーっと蘇ってきました。「また、鍵やさんか。」真夜中のコンビニの公衆電話で二人は頭をひねりました。V-bodyboards(ブイ ボディーボード)TWIN STAR (93cm)ピンクコールマン パラソルM [13570]のぼり旗「鍵・合鍵」2枚セット
2005/02/17
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朝の通勤電車は、上下線で天国と地獄に分かれています。都心に向かう上り電車は、いつも満員で、リーダー(主人)はこれに乗って通っています。一方、地方へ向かう下り電車はガラガラで、私は座って行けます。毎朝、同じ駅のホームの右と左に別れ、この天国と地獄の電車に乗っていく二人。仕事から直行してダンス教室に行くために、この満員電車でダンス用品持って行くのは大変なので、私は二人分のダンス用品を持って、いつも通勤していました。しかし、二人分となるとかなり重くて、いくら電車が空いているとはいえ、乗り換えが大変です。新しい靴を買ったときなんかは、古い靴と両方持っていくので、とてもかさ張って、一時期はキャスター付きのゴロゴロかばんで「出張ですか?」みたいな格好で仕事にいっていました。そこで、先生にお願いして、どうせ明日も使うダンスシューズや小物たちを1日だけ教室に置かせてもらうことにしたのです。2002年の11月のことです。この「ちょっと楽しよう」と思った心のすき間を、小さな悪魔は見逃しませんでした。もって帰るかばんには、着替えなどの洗濯が必要なものと貴重品。教室に置いていくかばんにはダンスシューズなどなど。二つに分けたまではよかったのですが、何をどう間違えたのか、大変なことをしでかしてしまいました。「置いてくる」方のかばんを持って帰って来てしまったのです。練習が終わって、電車に乗り、家に着くのはいつもだいたい12時過ぎ、もちろん夜中のです。マンションの入り口で、鍵を出そうとかばんを開けたら、出てきたのはダンスシューズなどなど。二人して血の気が引きました。置いてきたかばんに、お財布とか携帯とか鍵とか全部入っているのです。私たちが今持っているのは、このダンスシューズのほかに、小銭と定期しかありません。「最後にゴチャゴチャ入れ換えるからだよ。」「全部人任せにしないで、自分もやったらいいじゃない。」「こんなとこで、喧嘩してる場合じゃないよ。」「もう、もどっても教室開いてないよね。」真夜中の鍵事件、勃発です。 オッフェンバック:喜歌劇「天国と地獄」全2幕 リヨン・オペラ マルク・ミンコフスキー/リヨン... U.P. renomaボストントローリーバッグネクタイピン 鍵
2005/02/16
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探し物をしていて、懐かしいものを見つけてしまいました。16歳の頃の淡い恋心を歌った曲です。私が作詞して、曲は昔のバンドのメンバーが作ったもので、コンテストに応募して入賞し、何とNHKFMラジオで流れたんです。1回だけ。部活のために朝早いバスに乗って通学していた私は、ある日、そのバス停でこの下町にはそぐわない、フェルメールの「天文学者」みたいな高校生と出会います。整った目鼻立ちに銀縁の目がね、肌は透き通るような白さです。普通の学生服なのに、それをシャープに着こなして、まるでオートクチュールに身を包んだ貴公子のようでした。数日は、朝、そのバスに乗るのが楽しみで、だからどうするわけでもないのですが、「今日も会えた」日には一日が楽しく過ごせたものでした。「きれいな人だな」と、思ったのは私だけではなかったようで、その時間のバスが、やけに女子高生が並んで混むようになりました。しまいには、30メートルくらい並ぶようになってしまい、バスに乗れないほど混んできたので、しかたなく、もう少し早い時間のバスに切り替えました。すると、なんとそこには、別の見目麗しい高校生がいるではありませんか。この町はいったいどうなってしまったのだ。モデル事務所でも出来たのか、ジャニーズの出張所か。そして、このバスも混んでいました。あるとき、その二人が兄弟であることが判明。私はどちらかいうと、弟の方がタイプでした。テレビ映画で見たカーレースものの主人公にちょっと似ていたので、その人の名をとって「フェビアン」と心の中で呼んでいました。告白するほどの勇気はないので、フェビアンの横顔をよくノートにスケッチしていました。日記にも時々登場。学校で友達に話したら、私にもそんな奥手な一面があったのかと驚かれました。しかし冬のある日、突然の急展開を迎えます。こんなことは初めてでした。帰りのバスも一緒になったのです。外は、小雪が降り出していました。私はそのとき、「ライ麦畑でつかまえて」の文庫を読んでいたのですが、斜め前に背筋を伸ばしてまっすぐ前を見つめたまま座っている彼の横顔が気になって、同じところを何度も読んで、すっかり目が泳いでしまっていました。いよいよバス停について、一番後ろに座っていた私は、扉の方に向かおうとすると、彼が私のすぐ前に立ち上がりました。こんなに背中が近くにあるのは初めてだったので、ものすごくドキドキしたのを覚えています。フェビアンは先にバスを降りました。私は雪が降っているのに、ちょっと躊躇して、かばんから傘を出す間に、おばあさんが降りていきました。ようやく傘を取りだして、バスを降りた瞬間、その時だけ時間が止まったような気がしました。彼の笑顔を初めて見たのです。そしてその笑顔は、すぐ後ろを歩いているおばあさんに向けられていました。私は、ハッとして立ち止まり、気まずそうに何か言おうとしていた彼と目が合ったのです。彼はそのままくるっと背を向けて、信号を走ってわたっていってしまいました。それが、フェビアンを見た最後でした。彼はひょっとしたら、すぐ後ろに歩いているはずの私に何か言いたいことがあったのではないかと、あとになって後悔し、朝のバスも時間をいろいろ変えて乗りましたが、それ以来、一度も会えなくなってしまいました。それから4年後、私は偶然バイト先でフェビアンのお兄さんに再会します。ちょっとだけ話をして、彼らが短い間、私の住む下町に暮らしていたこと、その後すぐに引越してしまったことを聞きました。いつかまた、ダンスの競技会か何かで、フェビアンに偶然会えないかな、なんて、その懐かしい曲を聞いて思ったりしました。フェルメール作品カタログ真珠の耳飾りの少女【豪華プレミアム限定版】【ZMBY-1840】 =>20%OFF!《発売日:05/01/14》美の巨人たち フェルメール「牛乳を注ぐ女」/ミレー「晩鐘」≪ポニーキャニオン DVDキャンペー...
2005/02/15
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昨日、2月13日は今年2度目の競技会。「彩の国ダンスフェスティバル2005」のC級スタンダード競技会に参加してきました。場所は、埼玉県の東武動物公園のそばにある進修館です。JDC主催の競技会で、他に、D級、ノービス級、2級、3級の競技があり、私たちが到着したときには、もう午前中のラテン競技の方々で選手控室は満杯状態でした。階段のくぼみのようなところに場所をとって、会場を見に行くと、3年ちょっと前に、ラテンのノービス級をここに受けに来たときのことを思い出しました。(詳しくは <第104話> 選択の自由参照)フロアはそれほど広くなく、ほぼ正方形です。C級スタンダードは、前回よりも参加者が多く、155組もエントリーしていました。この中でB級昇級への片道切符がもらえるのは6組だけ。相変わらず厳しい戦いです。1次予選は、12組ずつ踊りました。種目はワルツ、タンゴ、スローフォックストロットです。私たちがスタンダードで一番困るのは、距離感が分からないことです。ゴルフでも、下手なうちは、自分がどのくらいの力で打てばどのくらい飛ぶかが分からず、とりあえずフルスウィングするようなものです。最初のワルツで、いつも通り踊ったら、まだルーチンの半分しか踊っていないのに、もう角がすぐそこに来てしまっていました。ワルツを踊り終わって、脇に引っ込むと、リーダーがしきりに襟の辺りをさわっています。襟とシャツをとめている小さなボタンが飛んだ、というのです。「そんなボタンなくても踊れるでしょう」と思いましたが、それがないと、襟が上がってきてダメだというので、次のタンゴまでの間に、「落ち穂拾い」みたいな格好で二人して必死に探しました。足の踏み場もないほどの混雑した会場で、そんな小さなボタンがもし見つかったとしたら、奇跡としか言い様がありません。すっかり心が競技モードから外れてしまった二人は、タンゴも弱点が露呈しました。とっさにルーチンを代えられないのです。私たちの進路に、止まってポーズをいろいろ決めている人がいると、それをよけられないので、待っているしかありません。そういうときに限って、だれかが背番号を呼んでくれたりして、よけい気分は焦ります。「これで終わりだったら、動物公園でも見て帰るか。」踊り終わってトイレによってから、陣地の階段下にもどると、リーダーは早々とシャツを脱いでいました。「やっぱり、もう負け?」「シャツ脱いだら、ボタン出てきた」なーんだ、そういうことか。二次予選のワルツは、相談して、途中で向きを変えてみようということになりました。どうやって小さく踊ったらいいのか分からないので、それしかないと思ったわけです。タンゴも、進路を塞がれたらファイブステッップで逃げようということになりました。当然ぶっつけ本番ですが、ワルツの肝心な所で他の選手と接触し、私は踵を踏まれて靴が半分脱げてしまいました。サンダル状態で二、三歩進み、踵をねじ込んで何とかそのまま踊り続けることが出来ましたが、ステップはグチャグチャです。ワルツの方向を代える作戦はうまくないので、思いきって、ルーチンを半分カットすることにしました。相変わらず本番で試行錯誤している私たちですが、なんとか最終予選まではこぎつけました。ベスト24です。残念ながら今回は、準決勝には進めませんでした。三次予選のあたりで、リーダーが「Y家のお母さんが応援に来てくれてる」のを発見したというので、ご挨拶にうかがおうと思ったところ、もう、姿がありませんでした。忙しい時間の合間をぬって、わざわざ遠いところ応援に来ていただいて、本当にいつもありがとうございます。今月の27日に日本武道館で開催されるウリナリの社会人ダンス選手権大会限定64組に、まだ余裕があるので、ノービス級以下の方でご希望の方はJDC事務局の方にお問い合わせ下さいという放送が、競技の途中にありました。1級以下か、競技会に出たことのないかた、未登録の方、テレビに出るチャンスですよ。今回、ノービス級に、素晴らしく上手な若いカップルが出場していて、最初のナチュラルターンをしただけで、会場からどよめきと拍手が起こりました。ノービス級ですから当然ベーシックルーチンだけなのですが、一つ一つの動きが、お手本を見ているようで、あのままC級戦に出ても優勝しちゃうんじゃないかというほどの美しいダンスでした。きっと、学連で鍛えてしばらくブランクがあり、また競技に復帰したカップルでしょう。あっというまに選手権の常連になるに違いありません。私たちも、早くあんな風に踊れるようになりたいものだと話ながら、すっかり暗くなった動物公園を背に、駅への道を歩いて行きました。 カフスセット(白蝶貝) 社交ダンス用 燕尾服
2005/02/14
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三笠宮杯も終わり、ついに私は意を決して、精密検査のために市民病院に行くことにしました。健康診断の通知を受け取ってから、いろいろなことを考えました。たとえば、あと半年で視力が失われるとしたら、それまでの間に私は何を見たいだろうか、ということです。19歳の時に神戸の骨董屋さんで見つけた一枚の絵に、私は強く引き付けられるのもを感じました。誰の作品なのか、誰を描いた物なのかも分からずに、その絵を買いました。少年の肖像画です。もちろん、模写ですから、高いものではありません。それから図書館に行って、片っ端から画集をひもとき、その作品を探しましたが見つかりません。図書館に画集があるような、有名な画家ではないのかもしれませんし、その謎は長い間そのままになっていました。しかし、それから美術鑑賞が好きになり、美術館の特別展にはよくでかけるようになりました。いつか、偶然その少年に出会えるのではないかという期待も、心の片隅にあったのです。大きなヒントが見つかったのは、これも偶然ですが「いまを生きる」という映画を見たときです。その映画の最後のほうに、なんとその絵が登場したのです。私が持っているのは、ほおづえを付いた顔だけでしたが、映画に登場したのは全身像でした。もし、目が見えなくなるのなら、その前に、その少年の絵を見たいと思いました。朝一番で病院に行くと、もうすでにたくさんの患者さんが待っていました。みんな、見るからに重症のような患者さんばかり。私はその中で、誰かのお見舞いに来たのかと勘違いされるほど、場違いな健常者でした。待ち時間は3時間を越え、持っていった本も読み終わったころ、ようやく名前が呼ばれました。健康診断の結果を見せて検査をお願いすると、久しぶりに視力検査のイスに座らされました。そのあと、乱視の検査や、視野の検査をして、瞳孔を開く目薬を注され、またそれから待合室にもどりました。診察室から聞こえてくる患者さんの声は、どれも深刻なもので、私の難病でさえ大したことではないように思えてきました。そして私は、そのとき気付いたのです。実際の目は見えていても、私は何も見ていなかった。こんなにたくさんの苦しんでいる人がいることに全く目を向けず、自分のことばかり考えていた自分が恥ずかしくなりました。私は、暗闇の中で、自分だけのために踊るダンサーでした。子供の頃、毎晩のように「目がよくなりますように」と祈っていた私。大きくなったら、目が悪い人たちを助けるお医者さんになろうと思っていた私。それがいつのまにか、そんな人たちがいることすら忘れてしまって、心の目が閉じていた私。今から眼医者になるのは現実的ではないにしても、なにか私にも出来ることがあるはずだと思いました。ようやく名前が呼ばれて、薄暗い診察室に入ると、先生は、若い女性でした。私がそのイスに座って患者さんの話を聞いてる姿を一瞬想像しました。大きなレンズ越しに先生は私の眼球をのぞき込みました。何が見えるんだろう。心の中が見えてしまう気さえしました。「網膜色素変成症ではありませんね。水晶体の中のたんぱく質の小さな塊の影が、網膜写真に写り混んだだけです。問題ありません。」目薬で瞳孔が開いて、世界中がかすんでいましたが、その中で先生が微笑んでいるのが見えました。私も小さく微笑んで、つぶやきました。「そうですか。よかった。」病院を出たのは、お昼を大きく過ぎたころでした。自分のからだが軽くなっているように感じました。空が明るく、世界が私の幸せに共鳴しているようです。目が見えるという幸せ、何という素晴らしい幸せ。遠い昔に忘れていた、この奇跡のような、「あたりまえの幸せ」に心から感謝したのでした。いまを生きる(期間限定) ◆20%OFF!<DVD> [VWDS-4000]
2005/02/13
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ウリナリ軍団が出場した1級戦ラテンの1次予選のすぐ後が、選手権シニア・ラテンの1次予選でした。出場組数24組。この中の半分が落とされて、のこりが準決勝へとこまを進めることが出来ます。午前8時半に開始された試合、スタンダードの1次予選が10時40分から始まるので、続々とやって来る選手達が陣地取りシートをどこに敷こうかと右往左往し、通路は人一人がようやく通れるスペースを残してビッシリと埋め尽くされました。予選はジャイブをぬかした4種目。サンバ、ルンバ、チャチャチャ、パソドブレです。Y家の応援団の方々が、お昼過ぎからやって来ることになっていましたので、ここで負けたら、お見せするところがなくなってしまいます。何としてでも予選だけは通過しなくては、私たちは、最初から全力投球で踊りました。結果は、3個所くらいに張り出されるようになっていました。みんなどっと押し寄せて、我先に結果を見ようと、掲示板の前は黒山の人だかり。芸能人社交ダンス部には特別な控室が用意されていて、試合の合間に仮眠が取れるようになっています。テレビ撮影の混乱を避けるためか、貼りだされる紙も、別にもう一枚用意されていたようです。私たちは無事、予選を通過しました。三笠宮杯は、さすがスポンサーがたくさん付くのかプログラムも立派です。A4のコピーを綴じただけの、手作り感あふれる通常の試合でのプログラムに対し、三笠宮杯は、きちんと製本された光沢紙の、映画のプログラムのような本でした。タイムスケジジュールを見ると、ラテン、スタンダードともに、全ての試合の予選が先に行われて、準決勝は4時頃からになっています。いまは、まだ朝の9時。これから7時間も、何してればいいんだろう、通路のこの狭い場所で寝るわけにもいかないし、練習する場所もない。しばらくは、スタンダードの予選を観たりウロウロして過ごしましたが、さすがに飽きて、服に着替えてお昼御飯を食べに行くことにしました。ちょっと歩けば原宿で、そこに行けば、顔黒で化粧の濃いの女子高生もいっぱいいるし、コスプレの人たちもたむろしているので、この競技会用の「宝塚風」メイクもそれほど目立ちません。食事の後、店を回ったりして、完全に試合の緊張感が溶けてなくなってしまった私たちは、2時頃会場に戻りました。まだスタンダードの予選をやっています。もどってみて驚いたのは、3千席といわれるこの代々木体育館の観客席が満杯になっていたことです。ウリナリ効果でしょうか?私たちも三笠宮に出場するのはこれが初めてなので、いつもの三笠宮がどんな様子なのか比べようがありませんでした。私たちのすぐ隣に陣地を取っていたのは、ジュニアの選手達でした。富山大会のライジングスター戦で一緒に戦った北海道のちびっ子達も出場していました。(詳しくは <第128話> (続)グランプリ in 富山参照) 付添は気合の入ったお母さん達で、きれいに髪をセットし直したり、お化粧を直したり、みんな楽しそうで、お人形遊びをする大きな子供のようでした。準決勝がようやくコールされ、5種目踊り終わると、4時半から開会式です。ここからが本番。準決勝までに残った全ての選手がパレードで入場し、フロアに整列します。来賓や主催者の挨拶があって、解散すると、ラテンの選手はステージに続く通路で待機します。結構寒いその場所で、ジュニアと1級の決勝が行われている間、出番を待っていました。ようやく呼ばれて扉を抜けると、そこは、超満員の観客席が一望できるステージの上でした。決勝進出者が一組ずつ呼ばれて、ステージからフロアへと降りていきます。私たちは決勝には残れませんでした。しかし、初出場にしては上出来です。ウリナリ軍団は、1級戦で、南原・杉本ペアが4位、ゴルゴ・小池ペアが2位に入りました。優勝は静岡のお母さんと息子さんのペア。この様子は、2003年1月3日のお正月特番で放映されて、ひょっとしたら私たちも映ってるんじゃないかと楽しみに録画しました。そしたら、映ってましたよ!「会場は超満員」といって、カメラが右から左に振ったとき、フロアではわたしたちが踊っていました。「あっ!!出た出た!」たった2秒ですが、これが私たちのテレビデビューでした。 KDE-P50HVX SHARP AQUOS LC-13K10
2005/02/12
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空気がひんやりと澄んだ、素晴らしい秋晴れでした。東京代々木の国立代々木第2体育館前には、朝早くからたくさんの競技選手が詰め掛け、長い列を作って開場を待っていました。2002年10月27日、第22回三笠宮杯全日本ダンススポーツ選手権大会、日本のアマチュアの頂点を決める大会です。私は濃いサングラスをかけていました。よく競技会でお会いするカップルには、軽く会釈して挨拶を交わします。ちょっとずつ身体を動かしながら開場を待っていると、後ろの方で大きな声が聞こえてきました。ウリナリの芸能人社交ダンス部が到着したようです。「さすがに芸能人は、朝からテンション高いね。」待っている選手達はそれほど興味を示さず、誰も列から離れて見に行こうという人はいませんでした。以前聞いた話によると、南ちゃんは学連出身(大学の社交ダンス部)とか。どうりで、ウっちゃんに比べて随分上手いはずです。二つ森司&みどり先生の特訓を受けたウリナリ軍団は、1級選手権ラテンに出場する予定でした。受付を済ませて会場に入ると、きれいなフロアの正面に、ステージが作られていて、「めざせ オリンピック!」と書かれてありました。早速着替えて試合前の練習のためにフロアに降りると、「あ、ゴルゴだ。」真っ赤なコスチュームに身を包んだゴルゴ・小池ペアが、真剣そのもので練習しています。さすが「命」とか、やってるだけあって、足腰がしっかりしていて、重心も安定しています。ふと目を移すと、南原・杉本ペア。「二人とも、ほっそーい。」この時、南ちゃんは腰を痛めていたそうで、そういえば、すこしかばっているような動きでした。テレビで見ると、このほかに、勝俣・有森ペアと大竹・山川ペアが出場していて、ウっちゃんはジニーと組むはずだったのに、仕事の都合がつかなかったのか棄権でした。最初の試合は、1級選手権ラテン。ウリナリ軍団を含めた、日本を代表する80組の1級以下の選手が、サンバ、ルンバ、パソドブレで競います。テレビではウリナリが出ているこの1級戦しか映っていませんが、この日の試合はこのほかに「三笠宮杯」「全日本ジュニア」「全日本シニア」という3大メイン競技があって、それぞれの日本代表を決定するいわばA級戦。主なのはこちらの競技で、1級戦はどちらかというと前座のような試合でした。練習風景を見ているウドか誰かが、「さすが、みんな1級だけあって、動きがキレてるな。」なんて、とんでもないことをいっていますが、映っているのはA級選手達ですから、キレてるのは当然です。私も以前そうでしたが、1級が一番上だと思っている人が結構たくさんいます。このブログを読まれているかたは、その上に、D、C、B、A級があることをもうご存知ですよね。この日のメイン競技は、その名の通り「三笠宮杯全日本選手権」で、日本のトップ選手たちが「日本一」を目指して戦うものです。ラテン54組、スタンダード131組。招待選手が各2組いて、ラテンは大阪の瀬古組と東京の菅野・常磐組、スタンダードは東京の菅谷・尾崎組と渡辺組でした。ラテンの瀬古組はお姉さんと弟のカップルで、リーダーはこの時まだ高校生、菅野・常磐組は、先週のキャロル先生のレッスンに来られていた学連時代から連戦連勝の日本代表カップルです。このときD級だった私たちは、この日本一の戦いに出ても1次予選敗退確実。さすがにこれにはエントリーしませんでした。「全日本ジュニア」は16歳未満ですから、これにも出られません。そして、D級なので、ウリナリと同じ1級選手権にも出られないわけです。自分の持ち級より下の試合には出てはいけないことになっています。残る競技は一つ。私たちはこの年初めて「全日本シニア」にエントリーし、日本代表にチャレンジしたのでした。ダンスのシニアは34歳以上です。日本代表として世界戦に出場できるのは、トップ2組。さて、試合はどうだったのでしょうか。つづきは、また、明日。 運命のファイナルステージ ウリナリ祭り 完全版 ウッチャンナンチャンのウリナリ!! ◆20%OFF!... ウリナリー
2005/02/11
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三笠宮杯を次の週末に控え、私たちはいつものように練習に励んでいました。今度の大会にはウリナリの芸能人社交ダンス部も参加するとあって、とても楽しみ。ひょっとしたら、テレビに映っちゃうかも、なんて教室でもみんなに話していました。そこへ、随分前に受けた健康診断の結果が送られてきたのです。ちょっと高めだったコレステロール値も問題ない、特に何もなしか、と思って下の方に目をやると、手書きの「要検査」の文字が目に飛び込んできました。そこには、見たこともない病名が書かれてあったのです。「網膜色素変成症」なんだろうこれ。ちょっと気になりましたが、三笠宮の方が最重点課題だったので、そのまま、ほったらかして練習に行きました。帰ってきてインターネットで、この病名を調べてみて、私は心臓が凍り付くようなショックを受けました。「1997年4月に、厚生省の難病に指定。現在、有効な治療法はなく、次第に視野・視力が失われて、失明に至る。原因は不明。現在日本に約2万人の患者がいる。」息が苦しくなって、目を閉じました。自分の歩いてきた道が突然無くなって、崖っぷちに立たされたような気分です。どうしたらいいんだろう。目が見えなくなるまで、あとどのくらいの時間が残されているんだろう。そういえば、以前から、暗いところではよく見えなかった。子供の頃、何年も眼科に通って仮性近視の治療をしたのがいけなかったんだろうか。(詳しくは <第109話> 夢が叶うまでの時間参照)まだ、そうだと決まったわけじゃないんだから、とにかく精密検査を受けに行かなくては。調べてみると、この難病を取り扱うことの出来る病院は限られていて、近所の市民病院はその一つに指定されていました。「強い光を避けたほうがいい」と書いてあったので、その日から、濃いサングラスをかけ、極端に光に対して神経質になりました。病院に行って、「すぐ入院」なんてことはないとは思いましたが、行くのは三笠宮杯が終わってからにしようと決めました。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」という映画をご覧になったことがありますか?アテネオリンピックの閉会式で、歌声を披露したビョークが主演するミュージカルです。遺伝病で次第に視力を失っていく中で、息子には手術を受けさせて、失明から救おうとします。恋人に、「君は目が見えなくなっても平気なのか。」と聞かれて、彼女は、歌います。「私は、見たいものを全て見てきた。これ以上、何を見ろというの。もう、私は見たいものは全て見たの。」とても、そんな気持ちにはなれませんでした。私は、まだまだ見たいものがたくさんある。イタリアやオランダに行って名画を見たい、ワーグナーのオペラも見たい、素晴らしいダンスも見たい。もっともっと本も読みたいし、映画も見たい。目が見えなくなるなんてひどすぎる。子供の頃、あんなに頑張って、やっと見えるようになったのに。考えれば考えるほど、胸が張り裂ける思いでした。「ねえ、もしさ、目が見えなくなっても、一緒に踊ってくれる?」何かの間違いだろうと、心の中で一生懸命打ち消しながらも、どうしても不安で、私は彼に尋ねました。「もちろんだよ。」彼はすっと立って、私の右手をとり、ルンバを踊り始めたのでした。ダンサー・イン・ザ・ダーク ジーニアス:ア・ナイト・フォー・レイ・チャールズ<音楽DVD/洋楽>
2005/02/10
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2002年のJBDF北関東のC級戦は全て終わり、年度末にB級に昇級するには、後2つ残ったB級戦で2つとも決勝に残るしかないところまできていました。B級に昇級するためには、年に4回ある県大会のC級戦で2回以上決勝に残るか、同じく年4回のB級戦と合わせて各1回ずつ決勝に残るか、どちらかを満たさなければなりません。決勝とは6位以内ということで、私たちの最後のC級戦は、靴を忘れて7位だった茨城大会です。10月20日のB級戦は、あらゆる意味で有利でした。まず、会場が歩いていけるところにあるので、「5時起き」して来られる遠方の方達に比べて遥かに体力を温存できます。しかも、試合は午後からなので、午前中ゆっくり寝られて、しっかりお昼御飯を食べてから、試合に臨めるのです。この日記を読んでお気づきの方もおられると思いますが、この年の9月、10月は、毎週試合に出ていました。これで5週目です。さすがに毎週試合をしていると、慣れてきて、あがり性の彼も、少し余裕が出てきました。大会の日は、雨。全千葉ダンス競技大会、場所は松戸市運動公園体育館です。ラテンC級戦、参加組数55組。種目はサンバとパソドブレ。心強い応援団のY家の方が、駆け付けて下さいました。しかも、まえから見たかった2002ワールドスーパースターズのビデオを持ってきてくだいました。一次予選、二次予選、三次予選と元気に勝ち残り、B級戦では初めて準決勝まで進みました。やはり、近場の試合は楽です。たくさん寝て、たくさん食べている分、スタミナが違います。応援に来て下さったY家のお母さまは、周りに座っている方々を応援の輪に巻き込んで、とても元気なチアリーダーぶりを発揮。しかし、スタミナだけでは決勝までは進めませんでした。結果九位。この日は、合気道の年に一度の発表会とかぶっていましたが、競技ダンスを始めてからは、ほとんど発表会には出られなくなってしまいました。雨のあがった体育館からの道を、応援に来て下さったY家のお母さまと一緒に駅まで歩いて帰りました。髪型の話なんかをしながら、途中、大きな市民病院の角を曲がって、あとは駅への一本道です。この時は、まだ、この市民病院に自分が来ることになるなど、思ってもみなかったのでした。 ■世界ダンス大賞2002(ラテンアメリカン)(ダンスビデオ) ■世界ダンス大賞2002(スタンダード)(ダンスビデオ)
2005/02/09
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毎年多数の出場者で賑わうことで知られる、千葉県ダンススポーツ競技大会の第24回大会が、2002年10月14日、体育の日に、天台スポーツゼンターで開催されました。バーン・ザ・フロアを見た翌日でしたので、イメージ・トレーニングはバッチリです。私達が出場した競技は、JDSFのC級戦。他に、1級から4級と、D級の試合が用意されていました。延べ890組のエントリーがあったこの大会で、ラテンC級戦は13組のみ。サンバ、チャチャチャ、ルンバ、パソドブレの4種目とあって、敬遠されたんでしょうか。フロアを保護するために、真白のプレートを敷き詰めてあって、まるでスケートリンクのようでした。私は、アイスダンスに憧れて、大学では、フィギュアスケート部に入りました。実際は、バンドの方に熱が入って、あまりまじめに練習しませんでしたので、ジャンプも出来ないし、スピンも勢いをなくしたコマみたいに全然ダメですが、レオタードの腰の当たりにヒラヒラがついたコスチュームで、毎週近くのスケートリンクで練習していました。まぶしく白いこのフロアを見たとき、一瞬、そのときのことを思い出しました。予選は13組全員通過で、準決勝。この日は久しぶりに、私は赤のドレス、リーダーは黒のタートルネックに黒のベストで出場しました。同じ競技に、同じ教室に通うSさんご夫妻もエントリーされていて、二組とも決勝に進出することが出来ました。Sさんご夫妻も、火曜日と金曜日のラテン練習会の常連で、教室の紅白戦では、いつも対戦相手で、同じチームになったことはありません。数年前、私たちが初めて自主練習に行ったスタジオにいらして、プロじゃないかと思ったカップルです。(詳しくは<第40話>参照)練習会の余興で、男性陣の腕立て伏せ競争をしたとき、真っ先にギブアップしたうちのリーダーに対し、最後まで続けていたのがSさんでした。パートナーのSさんも長身でスリムで、松坂慶子さんみたいな美人ですから、ルックスでも完全に負けてます。私の通う職場の近くにご自宅があって、一度お邪魔させていただいたことがあります。通りから見ると、マンションかと思うような大きなお家で、時々、庭でなったザクロやギンナンをいただいて、とにかくお世話になっている方達です。結果は、Sさん6位、私たちが4位でした。ダンス雑誌に載ったこの時の写真は、私のお気に入りで、年賀状にも載せてしまいました。彼が、下唇をプリっと出して、「いかりや長介」の顔で踊っているのが笑えます。本当は、かっこいいんですよ。私の目から見れば、ですが。ワールド・フィギュアスケート(14) ( 著者: ダンスマガジン編集部 | 出版社: 新書館 )アイス・キャッスルフィギュアスケート・FC
2005/02/08
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キャロル先生はイギリス人で、私たちのラテンの先生のメインコーチです。2002年、私たちがまだD級だったころから、日本に来られるたびに私たちもレッスンしていただいていました。元世界ラテンファイナリストで、現在ブラックプールなどの世界の主要な競技会で審判されているほか、ロシア、フィンランド、スロベニア、イタリア、アメリカ、世界中を回って指導されている元気な女性の先生です。レッスン料はビックリするくらい高いんですが、イギリスに行く旅費に比べたら遥かに安いし、内容が濃くてどんな質問にも的確に答えてくれるので、十分もとを取っていると思います。2月2日(水)にチャチャチャの個人レッスンを受けました。「まず、踊りを見せて」といわれて、一通り踊ると、「ここは、こうしましょう」という具合に、どんどん振り付けが変わっていって、とうとう7割くらい大幅に変わってしまいました。これによって、ただのスポンジケーキが、きれいなクリスマスケーキに変貌し、以前、Arabesquさんのコメントで、「アライメントを意識したルーチンが望ましい」といっていただいていたように、あらゆる方向の審判にもお客さんにもアピールできるようなルーチンに変わりました。今回の来日では、初めての試みとして競技選手を対象としたグループレッスンが企画されました。2月4日(金)がサンバ、2月6日(日)がルンバの、それぞれ一時間ずつのベーシックレッスンです。これならたくさんの人が割り勘でレッスン料を負担できてお得だし、きちんとベーシックも習いたかったので、願ったり叶ったりでした。サンバのレッスンには8組の競技選手が集まりました。「世界中のいろんな国でグループレッスンをやってきましたが、これが、日本での最初のグループレッスンです。」そういって始まったレッスンは、サンバの基本ステップのリズムの違いとボディの使い方をメインに進んでいきました。たとえば、サンバホイスクは、(3/4、1/4、4/4)というリズムで、この1/4をはっきり表現すること、最後の4/4の前半はダウン、後半はアップのバウンスアクションをきちんと行ってから次の足を出すこと、などです。いつも(1、2、3)と数えているカウンターランも、実は(3/4、2/4、3/4)のリズムであること、先生はこのほかに、サンバウォーク、ボルタ、ボタフォゴなどのサンバの基本ステップを組み合わせて、初めはゆっくり、しだいにスピードを上げて、最後には音楽でみんなが踊れるように持っていってくれました。私は、通訳を仰せ付かっていて、風邪で頭ボケボケでしたが、ベストを尽くしたつもりでした。後からうちのリーダーに、「先生と同じほうじゃなくて、みんなの方をむいて話さないとよく聞こえないよ。」とか「左足前とか、自分では当たり前と思っていることでも、全部訳さないと、分からない人もいると思うよ。」と、いわれて、なるほど、と思ったので、次のルンバの講習では、機関銃のようにしゃべりまくる先生にときどきストップをかけて、出来るだけ細かく説明するようにしました。グループレッスンはとても好評で、遠くから来られていた元アマ全日本チャンピオン達も、「久しぶりに細かい筋肉を全部使った気がする」と、喜んでおられました。今度お会いする時に、嬉しい報告が出来るように、大幅に変わったチャチャチャを躍り込まなければ...。キャロル先生が帰られると、いつもそこには、大量の宿題が残されているのです。CAROL ROSE GARDEN FLOWER
2005/02/07
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夜空のステージにワルツが流れています。淑女達のドレスに埋め込まれた電球が星たちと輝きを競い、天上の舞踏会が始まりました。このシーンは、私に、とてつもなく壮大なインスピレーションを与えてくれたのです。「地球はワルツのリズムで回っている」全世界を熱狂させたステージがついに日本に上陸しました。2002年10月13日、待ちに待ったこのショーを見に、私たちも有楽町にやって来ました。ショーの名は「バーン・ザ・フロア」何が凄いかというと、世界最高の技術を持った競技ダンサー達によるエンターテイメントであることです。競い合うのではなく、エネルギーをぶつけあって作り上げられるパフォーマンスは、観客を圧倒し、感動を与えてくれます。そもそものきっかけは、エルトン・ジョンの50歳の誕生日パーティで行われたボールルームダンサー達によるパフォーマンスだとか。彼の長年の友人であるハーレー・メドカフ氏がこれをプロデユースし、「これなら世界に通用するエンターテイメントになる」と直感したようです。ステージは天上の舞踏会から一転、金属的な近未来音楽が流れ出し、サイバーパンク集団のチャチャチャからサンバへと変わっていきます。世界トップレベルの選手達の寸分狂いのないスピーディなフォーメーションは、見ごたえがあります。次の場面は1930年代のダンスホール。グレン・ミラーのスイングジャズに合わせて、水兵たちが裾の広がった色とりどりのスカートの女の子達と踊ります。ジャイブです。凄い身長差のあるカップルが登場して、強風に回る風車のようなスピンを見せてくれます。アマチュア世界選手権で3連覇を果たし、プロに転向した英国のスター、マシュー&ニコル・カトラー組です。時代はハリウッド・ミュージカル黄金時代へ。一人の仕立屋の青年が、銀幕のスター女優に恋をします。白と黒のダンサー達がスローフォクストロット~クイックステップ~タンゴそしてワルツと美しいフォーメーションを見せてくれます。マネキンと踊っていた片思いの青年の恋がかなって、「Heaven, I'm in heaven.」二人は踊りながら夢の世界へと消えていきます。場面はスペインの闘牛場。一人の美しいフラメンコ・ダンサーをめぐって、二人の闘牛士が、火花を散らします。事態は深刻です。パソドブレ、そしてルンバ。いったいどちらの男性が彼女をものにするのか。フィナーレは全員白い衣装に身を包んで、ステージ狭しと、それぞれのカップルが凄い技を見せてくれます。まさに、「バーン・ザ・フロア」床に火がつきそう。1999年7月の初演から、世界14カ国85都市で上演されたこのショーは、2002年の東京、大阪公演で、さらにファンを増やしたことでしょう。さすがに東京では踊りだす人はいませんでしたが、海外の公演の様子をみると、通路でみんな一緒に踊っています。皆さんも機会がありましたら、是非一度ご覧になってみて下さい。「社交ダンスって、こんなに楽しいものなんだ」と、ちょっとイメージが変わるかもしれません。 バーン・ザ・フロア ◆20%OFF!<DVD> [UUSD-70090]
2005/02/06
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「試合にダンスシューズ忘れました」事件から一週間、2002年10月6日、第14回八王子ダンススポーツ大会に参加しました。この日のメイン競技は、「読売新聞杯」、JDSFのD級以下の選手が参加できるチャンピオン戦です。横に長い東京を東から西へ横断し、初めて西八王子の駅に下り立ちました。八王子市民体育大会の行事として行われたこのダンス競技会には、市民だけが参加できる「桑都杯」や「連盟会長杯」が用意されていて、オープン戦としては、3級戦、4級戦、ミドルシニアC級戦、そして、私たちが出場した「読売新聞杯」がありました。場所は八王子市民体育館です。お天気にも恵まれ、何の忘れ物もなく、体調も万全。参加組数約200組のうち、「読売新聞杯」ラテンに参加する選手は15組でした。種目はサンバ、ルンバ、パソドブレ。第一次予選は、15組全員で踊りました。最初の種目サンバで、ウィッグ(付け毛)が吹っ飛んだ選手がいて、フロアにうずくまるススムシみたいにしばらくそこにありましたが、近くのお客さんが機転を利かせて取って下さったので、踏ん付けて転ぶ人がいなくて済みました。誰も知り合いのいないアウェーの試合でしたが、一階アリーナの一番前で観戦しておられた、3人の女性達が、私たちに大きな拍手と声援を送って下さって、とても心強かったのを覚えています。多分、地元八王子の方達だと思います。12組がアップして、準決勝。役者が「役になりきる」ように、踊りでもキャラクターになりきります。サンバならカーニバルで楽しく踊る男女、ルンバなら愛を語る男女、そして、パソドブレは闘牛の風景です。今回ちょっと失敗だったのは、パソドブレで、私たちの間に別のカップルが進入してきて、私が一瞬「素にもどって」しまったことです。選手同士の交錯はよくあることなので、大したことはありませんが、今だったらあれはしないだろうな、という「トコトコ歩き」で、リーダーを追い掛けてしまいました。決勝に残った6組に、私たちも入っていました。広い体育館を十分に使えるので、踊りに集中できます。一番前で応援して下さっている即席応援団の方々も、大変喜んで下さって、ますます声援に力が入ります。そして、「読売新聞杯」を手にしたのは、何と私たちでした。優勝です!しかも、初めて、「オナーダンス」を踊りました。これは、チャンピオン戦で優勝したカップルが、もう一度観客の前で一組で踊るという、大変名誉なことです。いつか、これをやってみたくて仕方ありませんでした。私たちはルンバを選びました。そして、ずっと、声援を送って下さっていた、即席応援団の方々の正面で、感謝をこめて踊りました。「オナーダンスってすごい」と思ったのは、踊り終わって席に帰るまでの間、すれ違った全ての方に「おめでとう」と言っていただいたことです。やっぱり1組で踊ると、覚えていただけるんだな、と感動しました。その日、東京を西から東に横断して、帰りに私の実家に寄り、「今度は優勝したよ」といって、カップを置いてきました。実家には「東京新聞杯準優勝」と「読売新聞杯優勝」の二つのカップが、父のゴルフのカップに紛れて飾ってあります。いつも応援に来て下さるY家の方々に「オナーダンス」の報告をすると、来られなかったのを大変残念がって下さって、翌月ダンス雑誌に載った私たちの写真を、大きく引き伸ばして立派な額に入れて贈って下さいました。その写真は、これから何十年も私たちに勇気を与えてくれるでしょう。初めてオナーダンスの栄誉を与えられた、輝ける一瞬です。 蔵元直送生ビール多摩の恵3種6本セット 東京都 新住宅地図 [八王子市 南-1]【B4】
2005/02/05
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うちの斜向いは「書道教室」でした。私もご近所付き合いの一環として、小学校に上がる前からその書道教室に通い始めました。そこは子供の社交場。いってみれば、遊びに行く前の、待ち合わせ場所みたいなもんでした。小学生になると、冬休みの宿題に「書き初め」というのが入ってきます。父も一緒に書き初めをしますが、何年経っても、書道教室に行っているはずの私の方が下手くそでした。父は、母との結婚のお許しを得るために、毛筆の手紙を書いて母の郷里に送ったそうで、そのレトロさに圧倒されて、結婚を許されたとか言う話を聞いたことがあります。要するに、達筆なのです。中学に入る前に、書道教室が引越してしまったため、もう通わなくてもよかったのですが、母が、どこからか「いい先生」を探しだしてきて、そっちに通うことになりました。新しい先生は、大きな自宅の一室を教室にしている、82歳のおじいさんでした。教室はしーんとして、誰一人ふざけあう子供もなく、私はいままでとあまりに勝手が違うので、かなり腰が引けていました。白髪混じりの太い眉の下には、キリっとした光を放つ目がこちらをじっと見つめていて、私のいい加減な気持ちを見透かされるようでした。実際の先生はとてもやさしくて、真面目に取り組めば熱心に指導して下さいました。単なる近所付き合いで始まった書道も、中学生になるころにはかなり上達し、まだまだ父には及びませんでしたが、特待生候補にまで到達しました。これが、どのくらい凄いかといっても、今となってはどっちでも言い話ですが、高校から大人クラスに変わるとき、スライドして準五段になれるのです。そのあとは、たしか、五段、準師範、師範となっていくんだったと思います。プロゴルファーがだめなら書道家か?親の目論見はよく分かりませんが、何せ、高校1年まで書道を続けて、五段になりました。今となっては、パソコン全盛ですから、年賀状も筆では書きませんし、役に立つのはご祝儀袋に名前書く時くらいです。うちには硯も筆もなく、あるのは筆ペんだけ。そして未だに、父にはかなわないのです。毎年、立春を迎えると、父は色紙に「立春大吉」と筆で書き、それをみんなが一番集まるダイニングの壁に東向きに貼ります。それに、どんな意味があるのか、実は分からないのですが、なんとなく縁起がいいし、結婚してからは2枚ずつ書いてもらって、一枚うちに貼っています。去年の分も、捨てるのももったいないので、うちではとっておいてあります。今日は立春。きっと今ごろ、「今年はどんな字にしようか」そう考えながら、父は机に向かって頭をひねっていることでしょう。 ”義理人情” 書道家が書く漢字Tシャツ 書道作品を引き立てる上品な台紙色紙掛 扇面
2005/02/04
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真夜中の大音響は、隣の2階の床が抜けた音だったんだそうです。お隣は、ご夫婦で学校の先生だったので、2階にも本がたくさん積んであって、その重みに耐え兼ねて床が抜けたと言う話です。その事件があって、次の日曜日はどの家でも、2階の重い荷物を下に下ろす作業でおおわらわ。勿論うちもそうでした。本棚は全部一階に下ろし、私も本を運んで階段を何往復もしました。節分の夜。この人情味あふれる下町の家々から、子供たちの声が響きます。「ふくはーうち、おにはーそと」お隣の学校の先生の家は控えめです。「福はうち。ホホホ。鬼は?外。ホホホ」変な照れ笑いが入るので、よけいおかしく感じられました。私の家では、父と私が大声を競っていました。母が、「恥ずかしいから今年はちょっと小さめに」なんていうので、ますます面白がって大声で叫びました。「ふくはーあ!うちっ!!」こんなに叫んだら、福だってびっくりして寄り付かないんじゃないかというような大声です。ふと、下を見ると、近所のおじさんやおばさんが集まってきてます。「お、ギャラリーが来たよ。」父と私はますます張り切って、声を上げました。絶好調です。すると、母が出ていって、ペコペコ挨拶してます。何やってんだろうね。あれ?こっち指さしてるよ。「どうしたの?」私が叫ぶと、近所のおじさんが、下から叫びました。「喧嘩してんのかと思って、見に来たんだよ。豆まいてんのか。ハハハ」父と私は大笑いしました。母はかんかんに怒って、2階に上がってきました。父と私の「豆まき大声競争」は、このあとも懲りることなく、ずっと続きました。中学2年まで住んでいたこの家は、今ではすっかりリフォームされて、バレー教室になっています。【2005年 節分大バザール】つくだに屋さん厳選・節分記念福袋福は内!福袋(5000円)
2005/02/03
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私が4歳から14歳までの10年間住んでいた家は、同じような作りの家が立ち並ぶ、東京下町の住宅街。小さな子供のいる若い夫婦が次々と移り住んできて、町内会の行事も活発でした。近所で夫婦げんかがあると、みんなで仲裁に入り、旅行に行ったら、向こう三軒両隣には必ずお土産を買ってくる、そんな人情味あふれる所でした。子供たちも同じような年代なので、遊び相手には不自由しません。近くのアパートで火事があったときは、今どき信じられないような話ですが、消防車が来るまでバケツリレーをしました。「青空アパート」という名のアパートの2階でガス爆発が起こって、大きな火の手が上がり、夜中過ぎにもかかわらず次々とご近所さんが大集合。幸いアパートの住人はみんな避難して、火元の人も飛び降りてねんざした程度の怪我ですみました。翌日、焦げた匂いのたちこめたアパートの近くで、子供たちはこわいもの見たさに集まって、ガラクタ集めをして遊びました。見上げると、2階の屋根が吹き飛んで、その名の通りの「青空アパート」。みんなこのダジャレが大いに気に入って、家に帰って親達に自慢したものです。「ねえねえ、おかあさん。あのアパート、ほんとの青空アパートになってたよ。」この事件は、私が小学校の4年くらいの時に起こって、それからしばらく、眠るのが怖くなった記憶があります。寝ている間に、火事になったらどうしよう、という不安からです。こんなこともありました。町中が寝静まったある夜、空気を揺るがす大音響が響き渡りました。「ドッカーン!!」眠っていた家々に、次々と明かりが灯り、パジャマ姿のまま、一人、また一人と家から出てきました。私は「出ちゃだめ」といわれたので、2階の高窓から、目だけ出して覗いていました。「トラックがどっかに突っ込んだような音だったな。」「飛行機が落ちたんじゃないの?」「ガソリンスタンドが爆発したのか。」みんな口々にいろんなことを言っています。外に出ている人はますます増えて、子供たちも出てきました。私も、出たくてウズウズしてきました。隣のおばさんが玄関に現れ、何か話してしきりに頭を下げています。それを聞いた人たちが、次々に帰っていくではありませんか。なになに?私も一生懸命聞こうとしますが、おばさんの声は小さすぎて聞こえませんでした。(つづく)消火用布バケツ消火布ファイアーストップ
2005/02/02
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大寒から節分までの、一年で一番寒いこの時期、寒稽古や寒中水泳など、各地でいろいろな行事が行われています。寒さ、つらさに打ち勝つことによって、自信を芽生えさせ、肉体だけでなく精神も鍛えようという主旨ではないかと思います。合気道では、大寒呼吸行(たいかんこきゅうのぎょう)を行います。通常2時間のお稽古を前半に集約して、後半は呼吸法の修業です。普段は、週一回とか二回とか稽古日が決まっていますが、この期間中は、毎日参加することも出来て、皆勤すると、館長直筆の「氣」と書いた色紙がいただけることになっています。私は、ダンスの練習があるので、いままで一度も皆勤したことがなく、残念ながら、その達成感を味わったことがありません。呼吸法は、昇級検定の項目にもあるほど、合気道では重要な手法です。ちょっとヨガの呼吸に似たところもありますが、違いは、「息を止めない」ことにあります。細く長く鼻から吸って、細く長く口から吐く。これだけのことですが、皆さんもちょっと時間を計って、15秒間、ゆっくり鼻から吸って見て下さい。結構大変でしょう。級が進むに連れて、だんだん時間が長くなっていきます。定刻になると、道場の暖房と電気は消され、全ての窓が開け放されます。氷点下の空気が、畳を這うようにドッと流れ込んできて、体中に鳥肌が立つのが分かります。男子は上半身はだか、女子はTシャツ一枚になって、冷気の押し寄せる畳に正座し、そっと目を閉じます。先生の拍子木の音に合わせて、呼吸の行が始まります。「出(い)づる息は天地よろず世に及び、入る息は腹内の寸分のうちにおさまる。」呼吸法の心得には、これをずっと行うことによって、天地と一体となる至妙境(しみょうきょう)に至るとありますが、この「何とも言えない心地よい状態」に至ったことは、まだ一度もありません。ただ呼吸するだけの30分間は、足のしびれと雑念の嵐とともに、限りなく長く感じられます。修業が終わって、再び電気がつけられても、みんなしばらく立てません。いたずら好きの人は、しびれてビンビンの友達の足に触って「うわー!」と叫ぶのを喜んだりします。暖かいお茶とお菓子が振る舞われ、参加者名簿に名前を書いて、一日の行が終わります。いつか至妙境に至る日が来るのか、ちょっと分かりませんが、今年の大寒呼吸行も無事終了しました。
2005/02/01
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