全31件 (31件中 1-31件目)
1
長谷川洋三氏は、森田療法、さらには森田人間学は神経質者に与えられた特典のようなものだ。これを学ぶ事は、人間としての土台を固めるようなものであると言われている。森田理論の中で、 「事実唯真」 「実践の立場」 「両面観」 「運動観」の考え方が大事であると言われている。私が集談会に通い始めた頃、 「森田6原則」という話を聞いたことがある。これによると1 、健康的な生活をする。2 、他のために尽くす。3 、事実唯真の立場に立つ。4 、実践の立場に立つ。5 、運動観6 、両面観長谷川先生の話と「森田6原則」では、同じ文言が出てくる。森田理論を学習する上に置いて、これらの言葉はとても大きな意味を持っているといえます。神経症を治すという観点から、これらの言葉を簡単に説明してみたいと思います。「事実唯真」とは、理想の立場に立って、現実や事実を否定するという考え方を改め、どんなに嫌な事実であっても、それらをあるがままに認めて、そこに自分の立ち位置を決めて、事実から視線を今一歩上に向けて生活していくという態度のことをいいます。「実践の立場」とは、、不安や恐怖はそのままにして、目の前のやるべきことに取り組むことです。まず日常茶飯事を大切にし、規則正しい生活をすることが大切です。次に 「生の欲望の発揮」に注意や意識を向けていくことが大切です。「運動観」を重視するとは、目の前の不安や恐怖をいちいち解決するという態度を改めることです。現実は、時間とともにどんどん流れて変化しているわけです。どうにもならない不安や恐怖は、持ち抱えたまま、現実の問題に対応することが大切だということです。波に逆らうのではなく、変化の波に上手に乗って生きていく事を勧めているのです。「両面観」とは、一面的なものの見方考え方は、間違いが多い。もともと人間にはある考え方が起きると、それを打ち消すような考えも同時に沸き起こってくるようになっている。このことを森田理論では、人間には精神拮抗作用が備わっているという。2つの相反する考えで早急に態度を決めかねる時は、その居心地の悪い状態のまま「待つ」という姿勢が大事です。私は神経症を克服し、人生観を獲得するためにこの4つの言葉を具体的に活用することを考えました。1、欲望と不安のバランス回復手法2、実践・実行手法3、認識・認知の修正手法4、不安・恐怖の受容手法神経症に陥ると、頭の中の大部分が自分の気になる症状一点で占められています。その比率をどんどん小さくしていけばよいのではないかと考えました。その際、一つの手法だけではなく、これら四つの手法を総合的に使う方法を考えました。具体的な方法は、明日以降紹介いたします。
2018.06.30
コメント(0)
集談会に参加していると、不登校や引きこもりの子供を抱えている方がおられる。これについて、 「森田療法で読む、社会不安障害とひきこもり」(北西憲二・中村敬編 白揚社)という本がある。参考になると思われるので、ぜひお勧めしたい。今日はこの本の中に書かれているポイントを紹介したい。不登校やひきこもりの子供の特徴は、負けず嫌い、頑固、誇り、プライド、人に認められたい、あるいは何もかも自分の思う通りにしたいという強い欲望を持っている。うぬぼれが強く、自己愛がとても強い。また白か黒か決めつけることが多く、何事も完璧でなければ気がすまないという特徴がある。森田理論で言うところの強力な「かくあるべし」の持ち主である。しかし現実は決して自分の思い通りに事は運ばない。理想と現実のギャップで葛藤を抱え苦しんでいる。それでは、不登校やひきこもりの人がどんな葛藤や苦しみを抱えているのか。ひきこもる人たちは、人間関係で過度に周囲を気にしてしまい、他者のささいな言動に傷ついてしまう人たちである。人に対し、繊細だったり拒絶されるのを恐れる傾向があり、いつもおどおどして周囲に気を遣っている。他者に受け入れられないことへの不安から、常に自分を抑えて、無理に人と合わせてしまう。そして、そのような自分に疲れはてて、またそのような自分が嫌で仕方がないのである。人との関係でつねに無条件に受け入れてもらいたいと望むがゆえに、逆に他人のささいな言動に傷ついてしまうのである。それに繊細で人前でびくびくしている自分が嫌で嫌で仕方がないのである。これをまとめてみると、ひきこもりの人は、普通の人と比べると「かくあるべし」が非常に強い。人にいつも無条件で受け入れられたい。いつも自分がその中心にいてちやほやされ、大切に扱ってもらいたい。最大限に評価され、いつも一目置かれる存在で在り続けたい。などという気持ちが強く、生きているということは、そのような人間にならなければ意味がないと考えているのである。しかし現実はその反対のことが、頻繁に繰り返されている。最初は抑うつで苦しんでいた。そのうちそのような予期不安で取り越し苦労をするようになってきた。しだいに人を避けるようになってきた。それが進行して、不登校やひきこもりに発展してきたのである。そういう意味では、ひきこもりは危険に対する1種の防衛反応とみることができる。しかし「かくあるべし」という欲望とその防衛反応のバランスが崩れている。一方的に防衛反応にばかり注意や意識が向いているので苦しいばかりである。親も「かくあるべし」が強いので、家族全体がその悪循環にはまり込んで、アリ地獄の底に落ちたようなものである。そういう意味では、不登校やひきこもりの問題は、単に子供だけの問題ではなく、家族の問題として取り上げることも必要である。家族の中で解決しようと思うわず、自助グループへの参加や専門家の協力を仰ぐことも必要である。ここで役に立つのは森田療法理論である。前提として1番大事な事は、森田では、他人の言動を過度に気にするということを、打ち消そうとしてはならないという。不安な感情を取り除いたり無くそうとするのではなく、そんな感情がわき起こった事を、是非善悪の価値批判なしに、受け入れていくことが大切である。家族が不登校やひきこもりの子供を叱咤激励してはならないのである。親はどうしてもそのような対応になりがちであるので、事態を悪化させることになる。第三者が悲観的でネガティブな感情は自然現象であり、どうすることもできない。自分を守る自然な反応として容認する。性格的に弱い傾向がある自分を素直に認める。決してそんな自分を虐めたり否定しないようにする。その感情から逃げたり、取り除こうとするのではなく、価値批判なしに持ちこたえることが大切なのだという事を分かってもらうようにする。ここまでくればかなりの改善である。この先は目の前の日常茶飯事や自分の好きなことに徐々に注意や意識を向けていく。森田理論で言うところの、不安や恐怖を抱えたまま、目の前のなすべき事に取り組んでいくのである。しかし、あまりにも性急にそのことを助言すると、不登校やひきこもりの人は回復の道筋から脱落してしまう。親がひきこもりの回復の道筋をよく学習し、よく理解しておくことが必要である。そして実際には専門家の協力のもとに実施することが大切である。不登校やひきこもりは、すぐに改善するようなものではない。また一歩前進しても、二歩後退という事はよくあることだ。他の支援者の協力を仰ぎながら、子供に寄り添い長期戦で取り組むことが必要である。その他の様々な問題や詳しい事は、ぜひともこの本を読んで参考にしていただきたい。
2018.06.29
コメント(0)
私の机の前に1枚の色紙がある。「仕事の大部分はいつも主観的には遊びごとだ」昼間の大部分はほとんどの人は仕事をしている。しかし、その仕事を趣味の釣りのように遊びごととして楽しんで取り組んでいる人は少ない。むしろ、仕事をすることは苦痛であると思ってる人が多い。できればやりたくない。しかし、食べていくためには、年金が出るまでは仕方なく続けるしかない。なんとしても65歳までは仕事を続けていくしかない。このように仕事を消極的に捉えている人が多いのではなかろうか。なにしろ食費、住居費、衣類、教育費、自家用車、家電製品、冠婚葬祭費、交際費、厚生費、医療費、保険代、税金など毎月の出費はバカにならない。これらを積み上げていくと、軽く20万円を超える。派遣労働やパートなどの仕事が多い中で、それなりの経費をまかなうことは大変である。莫大な生活費を考えると、 「主観的には仕事は遊びだ」などと呑気な事は言っておられない。多くの人は生きる手段としての仕事に振り回されているといっても過言ではないだろう。太古の昔は、自分と家族や部族が生きていくために狩猟や農耕などの仕事をしていた。命をつないでいくために、必死になって仕事をしていた。生活と仕事が一体化していた。そこでは仕事の意義などを考える余裕も意味もなかった。ところが、イギリスで産業革命が起こり、生産性をさらに高めるために、仕事の分業化が起きた。人々はそれぞれ専門の職業に分かれて、高い生産性を上げるようになった。そこで仕事は自分たちの生活とは分断されたのだ。このことは、精神面では大きな問題となってきた。高度な文明を享受できるようになった反面、仕事に対する意欲や意味が見出されなくなってきたのだ。ストレスで精神障害を抱える人が増えてきた。自動車の組み立て工場においては、ベルトコンベヤーを流れてくる自動車のある1部分だけの仕事を来る日も来る日も続ける。ある人の仕事が遅れると、赤い回転灯がけたたましい警告音とともに回りだす。すぐにお助けマンが駆けつけて、仕事の遅れを取り戻す。その間、ベルトコンベヤーが止まることはない。 1人の人が同じ仕事を最低2年間は続けるという。しかもこのラインは24時間休みなく動いている。そのため、 1週間交代で昼間勤務と夜間勤務が繰り返される。これでは人間が機械に使われている様なものだ。従業員に聞いてみると、休みも多いし、年収も多い。仕事自体はマンネリで面白くはないが、それはどんな仕事についても同じだろうという。慣れてくるという。その話を聞いて、この仕事は私には無理だと思った。多分ストレスで精神障害を引き起こして退職を余儀なくされると思った。ここで遊びとはどういうものか考えてみたい。遊びに熱中しているときは時間忘れる。時間を忘れるほど楽しいものだ。釣りの好きな人、ゴルフの好きな人、ゲームの好きな人、カラオケの好きな人、トライアスロンの好きな人、登山の好きな人、マリンスポーツの好きな人、花や家庭菜園作りの好きな人、ものを作ることが好きな人、ペットの好きな人、家族を大事にする人等、人によって様々である。仕事と遊びの1番の違いは、遊びは他人から強制されたものではないということです。自分が積極的な気持ちを持って、やる気や意欲を持って取り組んでいるということです。そして興味や関心、気づきや発見がどんどん泉のように湧き上がり弾みがついてきます。そして夢や目標がどんどん膨らんできます。自分の身体や脳の機能を最大限に活用している状態です。森田理論でいえば「己の性」を活かしている状態です。 生きていることを心から喜び、生きがいを持って生きている状態です。これが遊びの本質だと思います。仕事は、基本的には他人から指示命令されて、やる気や意欲がない状態でも、強制的に行動することを求められます。そのような気持ちで仕事に取り組むと、自分の気持ちと解離していますので、ますますやる気や意欲が減退してきます。1日の生活の大半を占める仕事が、いつまでも嫌々仕方なしでは、精神的なストレスは大変なものになります。仕事を遊びにすることはできないものでしょうか。森田理論では、この問題について次のように教えてくれています。仕事はお使い根性ではなく、ものそのものになりきることが大切である。目の前の仕事に時々は一心不乱に取り組んでみる。我を忘れて、目の前の仕事をよく見つめて観察する。気持ちを内向きから外向きに変えていく。すると、興味や関心が湧いてくる。気づきや発見、改善点が見えてくる。そうするとしだいに行動に対する意欲やモチベーションが高まってくる。弾みがついてくると、仕事が面白くなってくる。この状態で、仕事に取り組んでいけば、仕事は苦痛ではなく、遊びと同じように楽しみそのものとなってくる。
2018.06.28
コメント(0)

2018.06.27
コメント(0)
河野基樹先生のお話です。人間には自己保存欲があります。困難にであったり、苦しみに出会ったり、悩んだりしますと、まずそれから逃げようとします。苦しいことや、辛いことや、不安な事は避けたい、なんとか逃げたいという逃避欲求が人間には備わっております。逃避ということは卑怯だと言うことが、ある程度神経質者は分かっておりますので、うまいこと理由をつけて「自分は決して逃げているのではない」ということを、自分自身に納得させるために自己弁護します。あるいは、自分のせいにしないで、他罰的といいまして、周囲のせいにする場合もあります。家族のせいにしたり、そういう他人へ責任をもっていく場合もあります。それからもうひとつ、自己保存欲のために、自分が生き残るために、その苦しみや苦痛や困難、嫌なことなどを排除しよう、あるいは取り去ろうという努力をします。これが神経症に陥った初期にありがちなことです。苦しみや辛さや、こういったことをなんとか除きたい、なんとかなくなれば、と思って、医者巡りや病院巡りをしたり、薬を飲んだり、あるいは精神修養をしたり、宗教に走ったり、いろいろな治療をしたりするのは、そういう症状を取り去りたいためです。 (河野基樹講演集 16頁より引用)この話を私の場合にあてはめて考えてみました。私は対人恐怖症です。その私が卒業後選んだ仕事が訪問営業の仕事でした。本当は雑誌の記者になりたかったのですが、募集がなく仕方なしに選んだ仕事でした。最初から強い適用不安がありました。案の定訪問営業の仕事は、断りの連続でした。その断りの言葉も、家の中から虫けらを追い出すような冷たいものでした。自分のプライドや自尊心はたちまち粉々に傷ついていきました。次第に仕事をする意欲がなくなりました。予期不安が強くなり、どうせ断られるに違いないという先入観で凝り固まってしまいました。次第に喫茶店などでさぼるようになり、そこでは完璧なセールステクニックを頭の中に叩き込もうとしました。その理論をもとに、訪問営業活動をしようとしましたが、頭の中で考えているような理想的な営業活動はできませんでした。次第に営業成績が振るわなくなり、同期の人たちから差をつけられていきました。上司や同僚達から批判されるようになりました。また軽蔑されたり嫌味を言われたりするようになりました。私の最もイヤなことです。それにもかかわらず、どうしても営業活動には専念できなくなりました。予期不安でいっぱいになり、逃避欲求に従って、 一時的な心の安らぎばかりを求めていたのです。しかし、仕事をサボるということは、一時的には楽になりますが、暇をどうして埋めていくかということに悩むようになります。また、上司や同僚たちからの叱責にも耐えなくてはなりません。そんなときに、父親がまともに自分を育ててくれなかったということに腹が立って、親を憎むようになってきました。最初の安易な逃避欲求に従った行動が、観念上の悪循環、行動上の悪循環を招いて、アリ地獄の底に落ち込んでいたのです。将来の明るい展望は全く描くことができなくなったのです。こんな自分は生きていても仕方がないのではないか。人間が生きるという意味はないのではないかという気持ちでいっぱいになりました。先が見えない閉塞状況に追い込まれ、最後は惨めな形で退職を余儀なくされました。退職までの9年間は針のむしろに座らされていたようなものです。私の場合は対人恐怖症をなんとか克服したいと言うよりも、逃避欲求に従ってなんとか苦痛を回避しようとしていたのです。苦痛を回避しようとすればするほど、苦痛がどんどん大きくなってきました。そして生きる意味が持てなくなってきたのです。アメリカの精神医学会に「回避性人格障害」というのがありますが、まさにそこに書かれている内容か全て当てはまります。今考えると、逃避欲求に偏った自己保存欲求は、生きづらさを拡大させ、生きる意味を見失ってしまいます。逃避欲求はあっても構わないと思いますが、もう一方の生の欲望の発揮とバランスをとらなければならないと思います。この2つが揺れ動きながら調和を取るということが生きるという事ではないかと思います。私の場合で言えば、日常茶飯事に丁寧に取り組む。課題や問題に真剣に取り組む。夢や目標を持って生きていく。仕事の面では、上司に自分の困難な状況を説明する。そして、打開策を探る。そして、可能ならば2人1組の同行営業に切り替えてもらうなどの提案をしてみる。また、精神科医や臨床心理士に相談する。カウンセリングを受ける。神経症克服のための自助グループに参加して森田理論学習を始める。悩んでいる時の私は、このようなことが思いつかず、 1人で葛藤や苦悩に耐えていたのです。私のような状況で苦しんでいる人も少なからずおられるのではないかと推測しています。そういう人は早く自助組織に参加して森田理論学習を始めてもらいたいものです。強迫神経症の人はすぐに好転すると言うわけにはいかないかもしれないが、学習を継続していると必ず目の前のモヤモヤした霧は晴れて、視界がよくなることは間違いないと経験上そう思います。
2018.06.27
コメント(0)
斎藤茂太先生の本から、歳をとっても精神的に老け込まないことを考えてみたい。斎藤先生は次の13項目をあげておられます。1 、何事にも前向きで、過去にくよくよとこだわらない。2 、好奇心が旺盛で、新しいことに関心を示す。3 、気持ちの切り替えが上手い。4 、自立心が強い。5 、年寄りより、若い人と付き合っている方が楽しいと思う。6 、自分で出来る事は、人に指図する前に自分でやる。7 、理想や夢はいくつになってもある。8 、異性に関心がある。9 、常識や習慣にとらわれず、ときには冒険もする。10 、服装や身の回りのこと日常に関心がある。11、社会問題にいつも関心を持っている。12 、孤独や病気や死について、あまり考え込まない。13 、会合に出席することを嫌がらない。反対に、ボケやすい人は次のような特徴がある。1 、人の言い分を聞かず、自己中心的にしか物事を考えない人。2 、すぐに腹を立てて怒ったり、イライラする「短気」な人。3 、仕事一本に打ち込んできて、楽しみを持てなかった。 「無趣味」な人。4 、人と和せない、人の輪に入れない「友達」のない人。5 、人を信じられず、物しか頼れない人。6 、笑わない人。(内向的性格はこんなに得する 斎藤茂太 文化創造出版 180ページより引用)これらを参考にして、私が森田理論で学んだことと合わせて考えてみよう。不安や不快なことがあっても、そのことばかりにとらわれるのではなく、目の前の日常茶飯事に丁寧に取り組むということ。私の座右の銘「凡事徹底」で生活していく事。自分の身の回りの事は自分でやるという態度で生活する。安易に他人任せにはしない。経済的に許せる範囲で、興味や関心のあることは何でも試しに手をつけてみること。趣味や一人一芸を持つということ。生活の中で小さな楽しみをいっぱい見つけること。そこから弾みがついて将来夢や目標を見つけることができるようになるとよい。若い人や異性に限らず、様々な人と広く浅く付き合っていくこと。人間関係をどんどん広げていくこと。人間関係はあまりのめりこまないで不即不離を心がけること。特に集談会に参加することは継続していくこと。良質な人間関係作りの宝庫である。森田理論学習は、人間学習、生涯学習として継続すること。森田理論を使って社会の様々な出来事を考えてみるようにする。「かくあるべし」を少なくして、事実に重きを置いた生活態度を身につけること。事実唯真の立場です。運動や健康管理に気を配っていくこと。川柳やユーモア小話づくりを心がけて笑のある生活を目指す。欲望は野放しに追い求めるのではなく、適度に抑制していくこと。ないものを求めるのではなく、自分の持っている物の価値を見つけて活かすことを考える。ここに述べたことは私自身の指針です。絶対的なものではありません。みなさんもこれらを参考にして、豊かな老後を送るために自分の指針を作ってみてはいかがでしょうか。
2018.06.26
コメント(0)
今年の3月27日、大阪府堺市で姉が弟を殺したのではないかという事件が起きた。弟で、建設会社社長の足立聖光さん(40歳)が、実家のトイレ内で、練炭を使った一酸化炭素中毒で死亡した。ドアの隙間は接着剤で埋められていた。遺書もあり、大阪府警は当初、自殺の可能性が高いとして、現場検証は行わなかった。足立さんの妻は、納得ができないとして司法解剖を要求した。結局、事件性はないとして司法解剖は行われなかったが、内臓の一部分を医師が保管していた。その後、納得ができない妻の強い要求により、保存していた内臓が調べられた。すると、なんと胃の中から姉の朱美容疑者が常時服用していた睡眠薬が検出された。弟の聖光さんはこれまでまったく睡眠薬は服用していなかったという。この事実が分かった時点で、朱美容疑者はかなり動揺したはずだ。大阪府警は、一転してこれは自殺ではなく、殺人事件に切り替えて調査に乗り出した。殺人事件として捜査を始めると、改めてさまざまな不思議な事実が明らかになった。練炭自殺をしたのに、トイレの中にライターなどの着火剤がない。自殺をほのめかした遺書には、姉に対する日頃の懺悔の気持ちが書かれていた。この文章はパソコンで作成されていたが、普段聖光氏は、パソコンは使わない人だった。これは、朱美容疑者のパソコンで作成されたものということがわかった。また朱美容疑者は、練炭自殺について、スマホでキーワード検索していたことが分かった。さらに、近所に聖光さんの関係者やフリーライターの名前で書かれた怪文書がバラ撒かれた。この文章は、兄弟仲がよかったことをうたい、朱美容疑者が犯人ではないということを、ことさら強調する内容であった。しかし、この怪文書も朱美容疑者の実家で作成されていた。さらに怪文書が撒かれていた時間帯の防犯カメラに朱美容疑者の車が写っていた。また、聖光さんが自殺されたとされる時間帯に、実の母親は朱美容疑者が飲ませたと言われる抹茶オレを飲んだ後、意識不明になっている。その他分かった事は、朱美容疑者が父親の後を継いで実家の水道工事会社の社長に収まった。聖光さんは別の建設会社を設立して社長になった。 2つの会社は同業種で競合関係にあった。ところが、最近は弟の会社が盛況になり、父の後を継いだ朱美容疑者のほうは仕事が減り、弟に仕事を回してもらうような状況になっていた。これらの事件の経過を追ってみると、一時はうまくごまかせるかに見えたが、結局は 朱美容疑者の思惑に反して、弟の死亡事件がすんなりと自殺として処理されなかった。これは姉にしてみればゆゆしきことである。このままでは自分が殺人犯にされてしまう。容疑をかけられた朱美さんは、推移を見守ることができず、自分を正当化するような手を次々と繰り出してきた。しかしそれらは事実をねじ曲げるものばかりであった。すぐにほころびが露呈した。嘘や言い訳はいつかどこかでつじつまが合わなくなってくるのだ。すると、それをごまかすために。またその場限りの嘘をついたり言い訳をせざるをえなくなる。それらは全く自分を擁護してくれるものではなく、自分への疑いを益々深める結果となるのだ。考えと事実がまるで反対になるのだ。森田では、このことを「思想の矛盾」という。逮捕された今となっては、マスコミの前に顔をさらして、自分を正当化した発言は何だったのか。事実を認めないで、事実を捏造する。事実をねじ曲げることがどんなに自分を苦しめ、世間の疑惑を招き、いかに好奇の目で見られるのかがよく分かる。私たちはこれを反面教師にして、どんなに隠したいことがあっても、絶対に事実には服従するという態度を貫きたいものだと思う。
2018.06.25
コメント(0)
精神科医の神谷美恵子さんは「生きがい」について次のように述べている。生きがいというものは、人間がいきいきと生きていくために、空気と同じようになくてはならないものである。しかし、私たちの生きがいは損なわれやすく、奪い去られやすい。人間の生存の根底そのものに、生きがいをおびやかすものが、まつわりついているためであろう。(生きがいについて 神谷美恵子 みすず書房 94ページより引用)私も「生きがい」というのは神谷美恵子さんが言われるように、人間にとってなくてはならないものであると思う。では「生きがい」はどのように見つけて行ったらよいのだろうか。私の体験を話してみたい。神経症に陥ってしまうと、普通の人は神経症を治すことに専念するようになる。神経症に陥ることによって、自分の課題や問題点がはっきりすることはよいことだ。それが神経症治すという生きがいにつながるからだ。神経症の克服に向かって、薬物療法、カウンセリング、様々な精神療法に取り組むことになる。その手段の1つとして森田療法と森田理論学習がある。私の場合は、薬物療法、内観療法、そして最後に森田療法に行き着いた。弾みがついて今では人生観の確立を求めて森田理論学習を精力を傾けている。学習すればするほど味わい深いものがある。運命の糸が私を森田に導いてくれたのである。そしてその小さな生きがいがどんどん膨らんできた。こうしてみると、私は対人恐怖症になったことが、生きがいを見つけることにとても大きな影響を与えてくれた。対人恐怖症があったおかげで、それを克服したいという意欲がとても強かった。継続したおかげで、やがて森田理論の学習と実践が生きがいになった。その克服の過程で、神経症の成り立ち、神経質性格の特徴、感情の法則、行動の原則、不安と欲望の関係、生の欲望の発揮の仕方、 「かくあるべし」を自覚して、事実本位に生きる生き方などを学習した。その後、神経質性格者としての生きる指針のようなもの獲得した。副産物として、貴重な多くの学習仲間と知り合いになることができた。私の財産となった。考えてみれば、神経症でアリ地獄中に落ち込んでいる時は苦しくてやり切れなかった。八方塞がりで脱出の手がかりは見つからなかった。たまたま本屋で長谷川洋三氏の「森田式精神健康法」に出会った。その本と巻末に書いてあった生活の発見会の紹介が私に幸運にも呼び寄せた。その出会いはなかったならば、薬物療法で急場をしのぐだけで終わっていたかもしれない。対人恐怖症という生きづらさを抱えて一生を終えたに違いないと思う。幸運だったのだ。現在は、その体験を踏まえて、このブログで森田療法理論について投稿している。本も3冊書いた。また地元の集談会に毎回参加して仲間との交流を続けている。生きがいを見つけると言う事は、人とのつながりの中で発見できるし、その交流の中で大きく膨らんでいくものではないかと感じている。
2018.06.24
コメント(0)
生きがい療法ではイメージトレーニングを行っておられます。リラックスして、目の前に良いイメージを約15分間静かに思い浮かびます。「白い砂浜に座って広い海を眺めている。目の前の海は体の中にも広がっていく。体の中の海に無数の熱帯魚が泳ぎ回って、ガンや病気のもとを見つけだしては全部食いつぶして逃げていく・ ・ ・ 」というイメージを展開していく。これだけでの単純な方法です。それを1週間に1回、イメージの写生をしてもらう。画用紙にクレヨンで写生する週一回写生をしていると、だんだん魚の方が強くなりガンが食い潰されていくというイメージが強くなっていきます。ボランティア10名で、イメージをする前とした後のNK細胞の変化を見ると、イメージする前にNK細胞が弱かった方は、イメージした後、全員強くなっています。もともとやや強かった人もさらに強くなっています。イメージトレーニングはいくつかのバージョン、熱帯魚のイメージ、孫悟空のイメージ、小川のせせらぎのイメージなどがあります。このガイドテープに従って15分間イメージをします。(生きがい療法と精神腫瘍学 伊丹仁朗)これは瞑想の一種だと思います。瞑想といえばマインドフルネスがあります。瞑想によって自律神経が整えられると思われます。私はマインドフルネスに詳しい臨床心理士の先生から、マインドフルネスのCDを買い求めて、それを聞きながら瞑想を行っています。鳥の声が聞こえてきます。アルファー波が盛んに出ているのではないかと思っています。ヨガや気功も同じような効果があるといわれています。現代人は過度なストレスに囲まれて、とかく自律神経が乱れがちです。1日の中でわずかな時間瞑想することによって自律神経のバランスを整えていくことが大切になります。
2018.06.23
コメント(0)
伊丹仁朗医師は、生きがい療法とホスピスは、死を肯定するという意味ではよく似ていますが、根本的な考え方は全く違うと言われています。ホスピスは死を前提にして、死ぬまでの期間を一日一日を楽に過ごしながら、その残された最後の期間を、人生の総括をしながら、死に備えて過ごすというものです。ガンになると痛みが出てきます。その痛みを軽減しながら、テレビなどを見ながら死の瞬間が訪れるのを静かに待つという考えです。一方、生きがい療法の基本方針は、死を前提にして考えるのではなく、人間はいつか死ぬのだから、 いつ死ぬにしても今日一日は普通に生きよう、一日一日を普通に生きて、明日は死ぬとしても、それは仕方がない、今日一日しっかりと生きればいいのではないかという考え方です。生きがい療法は、人間的レベルを高めることで、死が恐ろしくない強い人間になろうというのではありません。また、死を心安らかに受け入れることを目指しているわけてもありません。修養して強くなったり、死を無理に受容したりしなくても、危機管理の対応能力の技術を訓練することで、死をめぐる問題に上手に対処していこうという方法です。(ガンを退治するキラー細胞の秘密 伊丹仁朗 講談社 190頁より要旨引用)この話を聞くと、森田先生がよく引き合いに出されていた正岡子規の事を思い出す。正岡子規は重い脊椎カリエスにかかり、痛みで七転八倒されていた。最後には体を反転させることもできなくなった。天井から吊るした紐を体に巻き付けて、その紐を引っ張って体を反転しておられたという。そのような過酷な状態にも関わらず、最後まで創作活動を続けられた。「神経症の時代」に紹介されているガンに侵された岩井寛先生の生き方も同様であった。重い病気になって、なげやりになり、自暴自棄で死を迎えるのも1つの方法である。残された体の機能を使って、最後まで自分の出来る事に挑戦する生き方も1つの方法である。森田理論では、失われた機能を見つけて嘆くのではなく、今現在の状況の中で残された身体の機能を活用して、積極的に対応していくことを目指している。最後に脳細胞にガンが転移してしまうとどうすることもできなくなるだろう。それまでは、やろうと思えばまだまだ出来る事はある。死が訪れるいまはの時まで、不安や恐怖を抱えながらも、生の欲望にのっとりながら生きていくのが森田理論の考え方である。私はこの考えを支持している。
2018.06.22
コメント(0)
水谷啓二先生のお話です。ある貿易会社の社長は長いこと不眠症に苦しんでいた。一見したところでは精悍なビジネスマンで、そんな悩みなど、ありそうもない人である。しかし、裏から見れば、やはり人間らしい人間であって、いろいろの苦悩もあるのである。医師に相談したところ、 「日本橋のような、騒音の激しいところに住んでいるのがいけない。事務所からかなり離れたところに住宅を作り、そこから通勤することにすれば、夜も眠れるだろう」という。なるほどと思って、大磯の松林の中に、 1,000坪くらいの宅地を買い入れ、そこに家を建てたのである。都会の窓から遠く離れた場所であるから、今度はぐっすり安眠できるだろうと思った。ところが、夜になると、松風の音がして、やっぱり眠れないのである。しゃくにさわって邸内の松の木を全部伐り倒してしまったが、邸外の松林は他人の所有物であるから、伐るわけにも行かない。船に乗ると、夜は安眠できるという話を聞いて、船を一艘買い求め、日曜日には必ずそれに乗ることにした。雨の降る日は傘をさして乗った。しかし、やっぱり眠れない。風呂に入ると血液の循環が良くなり、適度に疲れるから安眠できると聞いて、いつも風呂を沸き放しにしておいて、時々風呂に入るのだけれども、やっぱり眠れないのである。しまいには万策尽き果ててしまって、 「安眠のために身体が衰弱して、そのために死ぬようなことがあったも仕方がない」と観念したら治ってしまったとのことである。このように不眠は、なくそうとすればするほど、かえって強くなるのが、不安というものの、本来性である。だからわれわれは、それが起こる時は起こるががままにありながら、当面のやるべきことをやってゆくほかはない。そうするといつのまにか不安を意識しなくなるものである。 (あるがままに生きる 水谷啓二 白揚社 123ページより引用)不眠について森田先生は次のような実験をされている。不眠の人に、夜寝るとき、「今夜、自分で最も気持ちよく寝られる姿勢はどんなものであるか、臥位、足の位置、腕の置き所、枕と頭部との関係などを詳細に考えて、最も安楽に寝る工夫をしてみなさい 」と云いつけて実行させたところが、その夜は苦しくて全く安眠はできなかった。次に、その翌晩は、今度は、 「今夜は、はじめ、寝たままに、どんなに窮屈な気持ちの悪い寝方でも、そのまま忍耐して決して良い姿勢を選ぶことをしないで、夜通し眠らないでいる修業をしてみなさい」と云いつけてやらせた。翌朝、患者は喜びに満ちた顔つきで私のところに来て、昨夜は思わずぐっすりと眠って、初めてその気持ちが分かったと言って喜んだのである。つまり、患者の予期し思想することと、事実、すなわち、その主観的心境とは全く反対であるということがわかる。 (神経質の本態と療法 森田正馬 白揚社 141ページより引用)森田先生は、嫌な不快な感情を取り除こうとするのではなく、観念して不快な感情を持ちこたえ、不安との格闘を止めることが、神経症に陥らない方法であると述べられているのである。神経症は取り除こうとする限り100年経っても治らないが、不安を受け入れるという態度になればその日からたちまち治るのであるといわれている。不眠についても同じことである。
2018.06.21
コメント(0)
神谷美恵子さんはらい病で長島愛生園に隔離されていた人に次のように質問した。「病気になる前と比べて現在はどんな心境ですか」すると、次のような返答があった。「よりよく人生を肯定しうるようになった」「心豊かになった。安らかになった」「心が高められ、人の愛、生命の尊さを悟った」「事業欲、出世欲が消失し、潔白になった」「人生の目的を知り、人生を咀嚼する歯が丈夫になり、生きる意味を感じる」「考え深くなり、あらゆる角度からものを考えるようになった」高橋幸彦さんも同様の調査を行った。その結果は次のようなものだった。1 、人生というものをじっくり考えるようになった。 (37.3%)2 、かえって心豊かになった。 (13%)3 、信仰を得た。(13%)4 、何も得られなかった。 (8.7%)5 、性格が良い意味にも悪い意味にも変わった。(20%)6 、回答なし。 ( 8% )これを見ると、不治の病に侵されても、少なくとも過半数の人は精神的に成長したと考えているようだ。(生きがいについて 、神谷美恵子 みすず書房 263ページより引用)らい病にかかると、目が見えなくなる、体の自由が利かなくなる。また顔かたちが異様に変形する。このような運命に翻弄されると、ほとんどの人は夢や希望を失い、人生に失望してしまうと思いがちだが、実際にはそれは違う。そういう人もいる半面で、その過酷な状況を受け入れて、そこを出発点として人生を組み立てていけるようになった人は、むしろ病気となったことがプラスに作用しているのである。心豊かな精神状態になり、人生の楽しみを見出しているのである。これは神経症に陥った人もとても参考になることである。神経症になってやぶれかぶれになり、無為の人生を送る人もいる。どうして自分だけが神経症で苦しまなければならないのか。神経症で苦しむことがなかったならば、どんなにか素晴らしい人生になったことだろう。人生は理不尽だ、不平等だと考える。その半面で、神経症になっために、森田療法理論に出会った事を心の底から喜ぶ人もいる。もし神経症にならなかったらそういう出会いはなかった。神経症で苦しい一時期を過ごしたが、それも今となっては懐かしい思い出だ。結局神経症で苦しんだ事は、自分にとってはこの上ない幸運・恩恵を与えてくれた。そういう人は、森田理論によって神経症を克服するだけではなく、神経質性格の持ち主として人生観をも確立しているのである。こういう人は自分に与えられた過酷な運命を、自分が解決すべき人生の課題として捉えて、四苦八苦するうちに、森田理論に出会えたのである。解決の糸口を見つけられたのである。森田理論の研究と実践が自分の生きがいになっているのである。水谷啓二先生は次のように言われている。現代においては苦しむことを嫌がり、安楽を求める傾向が強いけれども、私どもは人間的に脱皮し成長するためには、さんざん苦しむと言うこともまた、極めて大切であり、避けられない事でもある。だから私は、 「苦しくてたまらない」と訴える人に対して、 「苦しみぬいてこそ、この世の安楽仏国に生まれることができるのだ」 と教えている。特に、まだ年が若くて苦労の経験が足りない人が、何やかと苦痛を訴えてくるのに対しては、 「もっと苦しみなさい」と叱るように言うこともあるが、それは本人をその自己中心的な暗い世界から、お互いに心の通い合う光明の世界に導き入れるためである。 (あるがままに生きる 水谷啓二 白揚社 27ページより引用)
2018.06.20
コメント(0)
将棋の名人、木村義雄氏は、次のようなことを語っている。「自分は古今の棋譜読んで、どんな定跡でも、みな頭にはいっている。だから相手と将棋をやっていると、どんなのでも、ここはこうだ、あそこはこうだと棋譜が頭にでる。ところが、それをやっても、どうしても勝てない。 名人になれない。そこでよく考えたら、 1つの角度を落としていた。それは自分が向こうにすわり直して、向こうの立場で考えることだ」今までは、自分はこっちにすわっていて、相手の出方ばかりを、あらゆる角度から研究し、検討して考えていたけれども、自分が向こうにすわり直してこっちを見て考える、というその立場を忘れていたのである。これでは、どうしても、一面的なものの見方、考え方にとどまることになる。ものを見るのに、単に肉眼だけで見たのでは、一面だけしか見えないから、どうしても一面観に陥ることになる。それは例えば、満月を表面から眺めるようなもので、その表面は肉眼で見えるときには、他の半面は肉眼では見えない裏側に隠れているのである。このように、物を見るときには、一面は常に自分の立場とは反対側に隠れているのであるから、肉眼による観察の足りないところを心眼の働きを持って補わなければならない。裏と表の両面から見て初めて正しい認識に達することができるのである。 (あるがままに生きる 水谷啓二 白揚社 186頁より引用)これは森田理論で言うところの「両面観」の説明である。将棋で言えば、勝ちたいと思って攻めることばかり考えていては、守りがおろそかになり、相手に簡単に攻め込まれてしまう。プロ野球で言えば、得点を取ることばかり考えて、ピッチャーを含めた守備の練習を怠れば、相手にそれ以上の点をとられて負けてしまう。勝負事で言えば、攻撃と守備がバランスを失ってしまえば簡単に負けてしまうということだ。これと同じように、私たちは神経症に陥った時は、一面的な考え方をとってしまう。たとえばミスや失敗などをしたすぐに「自分の人生はもう終わったも同然だ」などと悲観的に大袈裟に考えてしまう。ミスや失敗を積み重ねると、少しずつ成功に近づき、最終的には目的を達成することができるという風には考えることができない。また自分に1つでも欠点があると、自分は全てがダメで、生きている価値や資格がないと考えてしまう。人間は誰にでも弱みや欠点を持っている。その半面、多くの人間は強みや長所も持っている。10の欠点や弱みがあるのなら、10の長所や強みを持ってバランスがとれているのが事実である。弱みや欠点だけにとらわれるのではなく、自分の持っている強みや長所を活かしていこうという風には考えが及ばない。このような一面的な考え方しか出来ない人は、精神的にどんどん追い込まれていってしまう。悲観的、ネガティブに物事を捉えてしまい、自己嫌悪、自己否定に陥ってしまう。ですから、物事を見る場合は、両面観で見ることができる能力を獲得することが大切になる。神経質性格についても、マイナスの面もあれば、プラスの面もある。細かいこと気にしていろいろ気をもんで苦しいという面もあるが、それは裏から見れば感受性が豊かで鋭いということでもある。神経症に陥ると心配性という性格をネガティブに捉えてしまう。これは一面的な見方である。森田理論学習を続けていると、感受性が豊かで鋭いという事は大変な能力であるということがよくわかるようになる。音楽や絵画、ミュージカルや映画など、より深く味わうことができるのは、この能力のおかげである。また、人の心の動きも手に取るようによくわかり、人の役にたつ行動も取れるようになる。また分析力も優れており、プロ野球の解説や本の書評などではその能力は大変に役立つ。神経症が治ると言うことは、一面的なものの見方、考え方が修正されて両面観、多面観で考えて検討することができる様になるということである。この能力を獲得するには、森田理論学習をする必要がある。また、ひとりで学習していてもなかなか身につくものではない。実例を挙げながら、仲間と共に検討して行く中で獲得できる能力である。この能力を獲得できると、先入観や決め付けですぐに結論を出して右往左往することがなくなる。バランスのとれた中庸の考え方で生きていくことができるようになる。この生き方を自分のものにすることが大切である。
2018.06.19
コメント(0)
生きがい療法の活動は、私たちと同じように森田療法理論をベースにしているにもかかわらず、活動内容はずいぶん違う。生きがい療法の対象者はガンや難病に侵されて苦しんでいる人である。大変な身体疾患を抱えている人たちである。それゆえに常に死の恐怖が襲ってくる。我々で言えば、社会的不安や恐怖で頭がいっぱいになった状態である。そういった人たちに対して、生きがい療法では、死の恐怖に振り回されるのではなく、日常生活や目の前の夢や目標に向かって前向きに生きていく事を具体的に提示している。そうすると、次第に免疫力が回復して、自然治癒力が高まってくるという。ガンになり、外科手術、放射線治療、抗がん剤治療で一時的にがん細胞をやっつけたとしても、免疫力が回復して、自然治癒力が高まってこないと、再びがん細胞が勢力を取り戻して再発や転移は免れないといわれている。具体的にはどんなことに取り組まれているのか。・今日一日の目標をしっかりと立てて、目標に向かって頑張る。・小さなことで人のために役に立つことを見つけ出して実行していく。・もしもの事に備えて、出来る事は前もって準備しておく。・笑いのある生活をしていく。落語を聞いたり、吉本新喜劇を見て大いに笑う。漫才やコントもよい。活動の中では、あらかじめ作っておいたユーモア小話を皆さんの前で披露する。・がん細胞を撃退するイメージトレーニングをする。・気功の研修会を開いて、気功の技術を習得する。・富士登山やモンブラン登山などを実施した。ちなみに伊丹仁朗先生は、マッターホルンやキリマンジャロ登山を経験されている。それ以外には、北極圏でのオーロラ鑑賞ツアーも実施されたことがある。前向きに生きていくための具体的な提案がなされて、実際に生きがい療法の集いの中で実施されているのである。そういう意味では、森田療法理論を消化され、血肉化されて、具体的な行動・実践に力を入れられているのである。実践なくして、森田理論は宝の持ち腐れとなる。私は、生きがい療法に学び、集談会の活動の中に、「生活森田・応用森田」は必須プログラムとして定着させる必要があると感じている。今思いつく内容としては、次の8項目である。1 、趣味や習い事、音楽やスポーツに取り組んでいる人はそれを実際に披露する。2 .料理の話。園芸などの取り組み。自給野菜や加工食品作りの話。3 .集談会の中で、絵を描く体験、歌を歌う体験、川柳やユーモア小話を作る体験。4 .健康、特技、旅行、お得な情報、映画やテレビドラマの紹介。5 .自分、他人、持ち物、お金など最大限に活かす工夫例の紹介。6 .人のために役立つ行動の実践例。7 .ペットとの付き合い方、介護の工夫例。子育ての工夫例。8 .楽しい人間関係の作り方の実践例。いずれにしろ集談会の活動内容が森田理論学習ばかりでは、マンネリになり、参加することに苦痛を感じるときもある。そういうとき、森田理論の活用例のプログラムの導入は活力剤になる。森田理論学習と「生活森田・応用森田」は車の両輪と考えて、学習内容を見直すことを提案したい。
2018.06.18
コメント(0)
アインシュタインの相対性理論の業績は計り知れないものがあります。 その彼が「神はいると思いますか」と聞かれて、こう答えています。 「この世の中をつぶさに見て、これほどの調和が、なにか計り知れない偉大な存在なしに実現しているとは思えない」と答えているそうです。彼ら物理学者たちはsomething greatと言っているそうです。まだ解明されてはいないが、なにか目には見えない大きな力が働いているに違いないと直観しているのです。アインシュタインは生と死の織りなす世界に自然の驚異を隠せなかったのかもしれません。どんなに大変なことが起きても、神の見えざる手が働いているようだとみていたのです。 雪の結晶がどうして全部六角形になっているのか。地球の自転軸はなぜ一定になっているのか。超新星爆発という巨大な星の死から、新しい星が次々と生まれる。ブラックホールはどうなっているのか。この自然界にはまだまだ分からないことだらけです。 でも自然界は、宇宙のいとなみにしろ、私たちの体の仕組みにしろ、2つの相対立するものが互いに影響を与えあって存在している。そしてそれらはすべて調和を志向している。さらなる調和を求めて絶えず変化流動しているようです。これが自然界の偽らざる節理だということは間違いないようです。これだけははっきりと分かっています。 これは私たちが森田理論学習で学んでいる精神世界も同じだと思います。不安や恐怖はむやみやたらに沸き起こっているのではありません。その裏には欲望があり、2つのせめぎ合いの中で流動変化しているのです。不安や恐怖は、調和、バランスのゆがみを知らせてくれているサインなのです。 そう考えると、どんなにつらいことが立ちはだかってきても、いつかは揺り戻しが起きて、最終的にはバランスがとれてくるというのが自然の法則でしょう。そう考えると、不安や恐怖を取り除いたり、すぐに逃げ出したりするのはいかにも芸がありません。また欲望の暴走を許すことは、自己と世界の破滅を招きます。不安や恐怖にかかわりすぎることなく、生の欲望に注意や意識を向けて、常に調和の回復を図ることこそが私たちの進むべき道ではないでしょうか。このことを森田理論では、精神拮抗作用ということで説明しています。人間の頭には相対立する考えが同時に沸き起こるようになっている。これは自然の摂理です。性急にどちらかに態度を決めて行動すると、たちまちバランスが崩れて前進することはできなくなってしまう。2つの相対立する考えの中で、うやむやのままにやり過ごしていくという選択肢もあるということを忘れてはなりません。ここでは恐怖や不安を持ちこたえたまま、次の段階に進むことが大切です。このキーワードの学習は大変役に立つもので外すことはできません。
2018.06.17
コメント(0)
先日参加した集談会で、上司との人間関係で悩んでいる人がいた。今度上司と2人だけで三日間一緒に仕事をしなければならない。考えれば考えるほど憂鬱になってくる。その上司はいつも高圧的で、自分に色々命令をしてくる。自分のことを端から毛嫌いしている。同僚たちの前で、自分のことをからかう、無視する、軽蔑する。他の同僚達と上司の関係はそうでもない。どうしたら、上司との人間関係がよくなるでしょうかという質問だった。私は、上司との人間関係が気まずくなった原因で思い当たることがありますかと聞いてみた。これといった原因は思い当たらないということだった。長年の付き合いの中で、自然発生的に、そうなってしまった感じがする。仕事をするのがつらい。できることなら、他の部署にかわりたい。それができないなら転職をしたい。でも転職をしても、今より条件が良くなることはないだろう。やめるにやめられない。八方塞がりで、悲観的なことばかり考えてしまう。その人は対人恐怖症で、もともと他人に対してはいつも緊張していた。目の前に他人がいると、なんとなく恐ろしい、怯えてしまう。いつも臨戦態勢をとって、自己防衛をしている。相手が自分に対して、暴言を吐いたり、危害を加えるのではないかといつもびくびくしている。その態度は相手にもすぐに伝わるようで、相手も売られた喧嘩は受けて立つというような雰囲気になる。だから人と接触することはできるだけ避けるようにしてきた。そのほうが自分としては、精神的に楽なのである。本当は他人と和気あいあいと付き合っていきたいのだが、自分にとってはそうすることは無理だと思う。朝、会社に行った時に、みんなに「おはようございます」と挨拶をしているのかどうか聞いてみた。したりしなかったりだという。その上司に限っては顔を見るのも嫌な上司なので、しないことが多い。すぐに自分の席に座って仕事を始める。営業の仕事は順調なのかどうか聞いてみた。一応ノルマがあり、毎月、それを達成することが求められている。自分の成績は、ノルマに対してだいたい80%から90%ぐらいな達成率だ。あまりノルマを達成すると、次第に目標数値を上げられてしまうので、良くもなし悪くもなしと言うところで抑えている。いつも目標数値に対して未達なのだという。目標数値が達成した月は、その月に計上しないで、翌月の実績に回すのだという。それに対して、上司はいつも叱責をする。課としての目標数値を達成することを考えているので、ノルマを達成したことがない自分のようなものをターゲットに定めて叱責をするのである。ノルマを達成したからといって、歩合制ではないので給料にそんなに差は出ない。 だからガツガツ働くような仕事はできないのである。課の中に1人だけ飛び抜けて営業成績を出す人もいる。他の人はドングリの背比べで、目標数値に届いたり届かなかったりする人が多い。大体は目標数値の90%から100%くらいにおさまる人が多い。そういう意味では自分の場合は、それよりさらに低く、最低ランクの営業マンである。そこまで話してきたところで、彼は何かに気がついたようだった。確かに会社の中で挨拶も出来ないような人間が、得意先に言ってきちんとした対応はできないかもしれない。挨拶を軽視するような人間を、可愛いと思うような上司はいないかもしれない。対人恐怖症があるけれども、 「おはようございます」 「お疲れ様です」 「承知いたしました」 「ありがとうございます」という挨拶はその気になれば自分でもできる。挨拶は積極的にするようにしたいと言われた。しかし、営業の仕事についてはどうも積極的になれない。このたびの同行営業も、営業成績を上げるために計画されたことだった。課の営業成績の足を引っ張ってばかりいる自分を軽蔑しないでくれというのは虫がいいかもしれない。人から一目置かれ、チヤホヤされるような人間になりたいという気持ちはあるが、そのための努力をすることを避けているのだから自業自得なのだ。自分の場合は、ある程度の営業成績が上がるとすぐに喫茶店や木陰で休む癖がある。サボらないで営業をすれば、ある程度の成績は出せる自信はある。上司との人間関係を良くするためには、サボらないで仕事に専念することかもしれない。そのためには携帯の位置情報を活用した営業活動にするしかないかもしれない。自分は自分で行動を律することができない人間なので、他の人の力が必要だ。私はこの話を聞いて、上司との人間関係を良好にするためには、挨拶をきちんとすることと、営業成績をもう少し上げていくことが肝心なのではないかと思った。今は上司の思惑ばかりに気をとられて、外堀を埋めることがおろそかになっているように感じた。
2018.06.16
コメント(0)
神谷美恵子さんは「退屈する」ということについて面白い話をされている。長島愛生園の患者の大きな悩みの1つは退屈という事であった。それを少し調べてみると、それはむしろ軽症で身動きの強いような人の中に多かった。失明してしまった人々のほうがかえって精神的にはつらつと生きている場合が少なくないという結果が出た。例えば肢体不自由である上に、視力まで完全に失ってベッドに釘づけでいながら、なお窓外の風物のたたずまいや周囲の人々の動きに耳をすまし、自己の内面に向かって心の目をこらし、そこからくみとるものを歌や俳句の形で表現し、そこに生き生きとした生きがいを感じている人はかなりいる。ベッドの上に端座し、光を失った目をつぶり、顔をやや斜め上むきにして、じっと考えながら、ポツリポツリと僚友に詩を口授する人の姿。そこからは、精神の不屈な発展の力が清冽な泉のようにほとばしり出ているではないか。肉体的機能が制限された人は、かえってエネルギーと注意が許された狭い「生存の窓口」に集中して、密度の高い精神的な産物を作り出しうるのであろう。(生きがいについて 神谷美恵子 みすず書房 60ページより引用)経済的に恵まれていて、欲しいものが何でも手に入り、何不自由ない生活をしている人やまた自分では何もしなくても3度の食事にありつける人で、毎日何もすることがなくて暇を持て余している人がいる。そういう人は時間をどうすれば潰すことができるかに悩んでいる。贅沢な悩みを抱えているのである。毎日、朝からテレビを見ているわけにもいかないので、病気でもないのに病院に行く。本を読むわけでもないので図書館に行く。買い物するわけでもないのにショッピングモールに行く。スーパーに行くのもドライブをかねて、少し遠いところに行く。楽しいことや、珍しいものを求めて貴重な時間を浪費しているのである。神谷美恵子さんは、身体の自由がきくような人は、自由であるということが、逆に退屈を助長させている、と言われる。光を失った人は、自由に本や景色を見る事はできない。そんな自分を他人と比較して、卑下していてはますます辛くなるばかりである。ところが、ハンセン氏病のために物が見えない、自由な身動きができないという事実をありのままに認めるとどうなるのか。自分の身体状況を良い悪いと価値判断しないで、あるがままに認めるのである。そこを出発点にして、残された身体の機能を見直してみる。そうすると、指の機能が麻痺して点字は読めないが、鍛えれば舌先で読むことができるということに気がつく。目が見えないが、その分聴力、触る、匂うがそれを補おうとして、敏感になる。その方面の五感を鍛えていけば、健常者が見逃すような敏感な感覚をビンビンと感じることができる。そのような機能を生かしていけば、詩や短歌、あるいは随筆のようなものが書けるようになるのだ。心の中の領域で、大きな世界が広がっていく可能性があるのだ。そういう人は、健常者が退屈で仕方がないと言っているときに、豊かなやりがいを見つけているのである。神経質者は最初から大きな生きがいを求める傾向がある。とるに足らない日常茶飯事は生きがいとは無関係だと思う。そうかといって大きな夢や目標はどこから手につけてよいのかわからないというのが実情ではなかろうか。我々神経質者は大きな特徴を持っている。細かいことによく気がつく。強い生の欲望を持っている。強い分析力がある。責任感が強く粘り強い。これらの特徴を仕事や日常茶飯事に活かして生きていく事を考えるべきではなかろうか。そのような気持ちで生活をしていると、神経症で苦しむことも少なくなり、何よりも生きがいが持てるようになる。退屈とは無縁な生活である。砂を噛んで暮らすような生活をしたくないならば、森田理論学習を続けて、それを生活の場に応用していくことが大切である。
2018.06.15
コメント(0)
神谷美恵子さんが、働いておられた長島愛生園に次のような患者がおられた。その人は30歳で生存目標がないために長年悩んでいた。おそらくそのために生じたと思われる心臓発作に苦しんでいた。森田でいう心臓神経症である。その人がある時、膀胱炎と腎盂炎にかかって高熱を出し、 1ヶ月近く病室で療養した。この間、肉体的苦痛はあっても、 「精神的にはかえって楽です」と自らいい、心臓発作は1回もおこらなかった。ところが、身体の病気が全快すると、以前の病気の時と同じ精神状態に戻り、心臓発作もまた起こるようになった。これはどういうわけであろうか。療養中は医師や看護婦から注意や世話が受けられる。それが孤独な心に安らぎを生んだ点もあろう。しかし、もっと根本的には、身体病という、はっきりした「生活目標」ができ、それに向かって日々歩むことができたから、それで心の統一と落ち着きが生まれたのではなかろうか。現に彼は毎日の熱の具合や尿検査の結果に積極的な興味を示し、快癒への道程に生き生きと充実感を味わっていたようである。長年結核を患っている人にも、このような姿はしばしば見られる。しかしいったん病気が治ってしまうと、社会復帰の困難も手伝って、新しい生存目標を見出すことが難しく、療養中よりもかえって悩む人がある。何のための快癒か、ということが問題になってくるわけである。(生きがいについて 神谷美恵子 みすず書房 126頁より引用)神経症で悩んでいる人は、生存目標を失っている人である。自分の症状と格闘を繰り返すことを唯一生きる目標にしている人である。さて私たちの自助グループで会員が6000人台になったことがある。 1993年のことだ。そのピークを境にして会員はどんどんと減り続けてきた。これはなぜか。いろいろとその理由は検討されてきた。薬物療法や認知行動療法などの他の精神療法、カウンセリングのせいだという人もいる。私はその理由は、 1990年にバブルがはじけ、それ以降失われた10年、20年ともいわれるパラダイム転換したことが1番の原因であると思っている。外部要因によるものだ。そういう時代では、ベースアップがなくなる。給料がカットされる。ボーナスが減らされる。どんどんリストラされる。挙げ句の果てには多くのしっかりとしていたと思われていた会社が倒産した。山一証券や北海道拓殖銀行などという一流企業も倒産する時代になったのである。運よく転職できた人も条件ではどんどん悪化してきた。パートやアルバイト、派遣労働者として必死になって働かざるを得なくなってきたのである。そんな時代では、神経症の克服に向けて悪戦苦闘している人はごく限られた人だ。その時に自助グループに参加している人を見ると、士業、団体職員、公務員、学校の先生、安定した職業に従事しているごく一部の人、経済的に恵まれた主婦の人たちが多かった。生活困難者といわれる人もいるにはいたが、決して参加者の大半を占めているわけではなかった。そういう意味では、ある人に言わせると、神経症は贅沢病であるという。生活の基盤が安定しない人は、何とか食い繋いで、自分と家族の命を守ることに専念するようになった。そういう目標を持って、毎日必死になって生き延びている人は、あれほどの苦しい思いをしていた神経症でのたうちまわることはなくなったのだ。そういえば、太平洋戦争を戦っていた時代には神経症で苦しむ人はあまりいなかったと言われる。これも過酷な状況に置かれた人間が必死に生き抜いていくことに専念していたからであると思われる。つまり生命の継続と安全を確保するという明確な生きる目標があり、生きがいを持っていたのである。1つのことにとらわれて、精神が内向化して悩んでいるばかりでは、目の前の 命の再生産ができないのである。生命の危機に追い込まれた人間は、なんとか生き延びようと必死になる。自然に精神の外向化が図られる。今現在神経症で悩んでいる人は、このことから教訓として学ぶことがある。問題や課題の解決に向かって日々努力していること。また夢や目標を持って挑戦していくこと。そして1番大事なことは、普段の日常生活を人に依存したりしないで、丁寧に取り組んでいくこと。この人間にとって基本的な日常茶飯事を大事にして日々生活をしていくこと。つまり神経症の克服に一番効果があるのは、内向化した精神状況が、自然に外向化してくることなのだ。しかし人間というものは、経済的に少し余裕ができると、ついうっかりして、気を緩めてしまう。これがいかに精神的な苦悩を招いてしまうか、これらの事例がはっきりと教えてくれているのである。
2018.06.14
コメント(0)
神谷美恵子さんは、肉体と精神の関係について、次のように述べられている。長い進化の歴史の中で、人間の意識は次第に肉体から分離してきた。分離しただけではない。精神が肉体を眺め、隷属、反抗、排斥、無視、蔑視などさまざまな態度をとるようになってきている。つまり精神が肉体の上に立ち、精神が肉体を自由自在に支配するようになった。このことは難病にかかったときほど強烈に意識されることはないであろう。たとえばハンセン氏病の人ならば、周囲の人は、病気が移らないように彼の傍から離れていく。彼は次第に孤立してくる。彼は自分と他人を比較して、自分の肉体に対して恐怖と嫌悪を感じるようになる。なぜ自分だけがこんな目に遭わなければならないのかと、理不尽だと病気になったことを呪う。そのうち身体が変化してくる。草履もうまく履けない。手足も自在に動かすことはできない。自分のかつての容貌は大きく変化して、喜怒哀楽の表情もうまくできなくなる。物が見えなくなったり、耳が聞こえない、うまくしゃべることもできなくなる。人の目を避け、自己嫌悪、自己否定ばかりするようになる。ハンセン氏病になった人は、普通の人のことを、「壮健さん」という。その人たちを別人種のように思い、絶対に頭が上がらないと思っている。あるいはまた、この劣等感が裏返しになって、反対に威丈高になる人も出てくる。しかし、人間の存在価値というものは、人格にあり、精神にあると考えるならば、自分の肉体の状況がどうであろうと、これに関わりなく、自己の精神の独立の価値を認めてよいはずである。患者が自分の存在に正しい誇りを持ち、自尊心を維持し、積極的な生きがいを感じようとするならば、この道しかないであろう。しかし、頭の中で観念として思想として考えるのは簡単だが、生存観自体にまで沁み込ませるのは容易ではない。そこに至るまでには、様々な迷路に迷い込む。例えば、精神の独立を強調するあまりに肉体の無視や蔑視に陥り、治療を怠ったり、悪いと分かっていながら不摂生をやったりする人もある。またときには自分の肉体がひどく弱っているのに素直に認めようとせず、無理な強がりの姿勢をとるのに苦労する人もある。稀には精神だけで生きているつもりになって、極端な禁欲的方向を取り、医薬のみならず、食事まで拒む人もある。失われた眉を植毛してもらう手術や整形外科術などを受けて、少しでも外観を普通に見せようと苦労する人もある。また自分の肉体の状態を客観的に評価し得ず、絶えず小さな故障にとらわれ、いわゆる心気症の形で肉体に隷属している人もある。肉体に対して、つかず離れずの適切な態度をとることは、人間にとってなんという難題であろうか。肉体からくる制約を素直に受け入れ、苦しい時は苦しみ、治療を要するときには治療をし、肉体の持つ自然治癒力を信じ、医学の力も認め、しかもこれにとらわれないこと。肉体とは離れた存在価値というものを適切な形で意識すること。これがどんなに難しいことであるかということを、ハンセン氏病にかかった人々の姿はまざまざとあらわしている。この人たちは長い時間かけて、次第に自分の肉体と融和して暮らす心の姿勢と技術を身につける。指はほとんど動かなくなった手で食事や洗濯や書きものまでもするようになる。指先の神経の麻痺した盲人は、舌で点字を読むようになる。これは精神が肉体を受け入れ、肉体とうまく融合しながら、しかもこれをリードしている姿である。「壮健さん」に対しても、目に見える壁を乗り越え、卑屈さやその裏返しの攻撃的態度ではなく、同じ人間、対等の人間としての品位と友情を持って対することのできる患者もおられる。そういう自分を受け入れた人たちこそ、「肉体を持った存在」としての人間の最も本質的な問題と対決し、肉体を正しく受け入れる道を学ぶと同時に、精神の自由をもかちえた人々である。(生きがいについて 神谷美恵子 みすず書房 150ページから要旨引用)これは森田理論で言えば、どんなに理不尽で受け入れがたい事実であろうとも、事実は事実として認めて受け入れるしか方法がないということだと思う。そこが出発点でなければならない。しかし、その出発点に到達するまでが大変困難である。現在将棋界では、羽生善治名人が持っている竜王のタイトルを巡って死闘が繰り広げられている。羽生善治名人と対局するという出発点に立つまでには、次々に立ちはだかる難敵との死闘を乗り越えなくては出発点に立てないのである。果たして中学生の藤井7段がその出発点に立つことができるかどうか、大変興味深い。私たちも、事実を受け入れるしかないことは、頭の中でよくわかってはいるが、実行することは大変難しい。私の実感としては、 「かくあるべし」という思考方法は、私の身体を骨の髄まで縛り上げ、身動きも出来ない状態にさせている。自分は自分にとって最大の味方である。どんなに醜い容姿を持ち、弱点や欠点をかかえ、ミスや失敗を連発する自分であっても、決して自分は自分を見捨てない。そんな自分にそっと寄り添い、どこまでも行動を共にする自分でありたいと思っている。そのための手段として、森田理論学習にすがっていきたい。その道は大変険しい。一歩前進しても二歩下がる。二歩前進しても三歩下がることの連続である。しかしその方向性は間違っていないと思うので、いつかは事実を素直に受け入れられるような人間になっていきたいと思うのである。
2018.06.13
コメント(0)
精神科医の神谷美恵子さんの話です。精神的苦痛は他人に打明けることによって軽くなる。聞いてくれる相手の理解や愛情に触れて、慰めや励ましを受けるということもあろう。しかし何よりも苦しみの感情を概念化し、言葉の形にして表出するということが、苦悩と自己との間に距離を作るからではなかろうか。 「いうにいわれぬ」苦しみをいいあらわそうとするとき、人は非常な努力によって無理にも苦しみから自分を引き離し、これを対象として眺めようとしている。その時、自分1人ではなく、誰か他の人も一緒になって、それを眺めてくれれば、それだけでその悩みの客体化の度合いは大きくなる。悩みというものは少しでも実態がはっきりするほど、その圧倒的なところが減ってくるものらしい。したがって、いい加減な同情の言葉よりも、ただ黙って悩みを聞いてくれる人が必要なのである。そういう聞き手がだれもいないとき、または苦しみを秘めておかなくてはならない時、苦悩は表出の道をとざされて心の中で渦を巻き、沸騰する。胸がはりさけんばかり、という言葉はそれをあるがままにあらわしている。これはまさに危険な状況で、 ・ ・ ・精神的破局をきたす恐れがある。どうしても苦悩を打明ける人がいない時には、文章に書くというのも安全弁の役に立つ。苦悩をまぎらしたり、そこから逃げたりする方法はたくさんある。酒、麻薬、賭け事その他。仕事に異常に没頭することもその一つであろう。しかし、ただ逃げただけでは、苦悩と正面から対決したわけではないから、何も解決されたことにはならない。したがって、古い生きがいは壊されたままで、新しい生きがいは見出されていない。もし、新しい出発点を発見しようとするならば、やはり苦しみは徹底的に苦しむほかないものと思われる。(生きがいについて 神谷美恵子 みすず書房 127頁より引用)ここで神谷さんは苦しみに陥った時の対応方法について述べられている。自分の苦しみを自分ひとりで抱えているよりは、信頼できる人に口に出して吐き出すことが大切であると言われている。信頼できる人というのは、反論しないで、じっと受け止めてくれる人である。adult childrenの自助グループに参加している人は、言いっ放し、しゃべりっぱなしであると言う。私は幸運にも集談会の中でそういう人を見つけた。その人は直接的なアドバイスはされない。また、自分の性格やしぐさの良いところを発見しては評価してくれるのだ。こういう人の側にいると、とても心が安らぐ。一般的に、普段の生活ではグチはあまり言わない方がいいという。でも集談会では、心の中のもやもやは吐き出したほうがよいと思う。私も集談会に参加し始めた頃は、会社での人間関係に問題を抱えていたので、人間関係の愚痴を喋っていた。集談会で自分の気持ちを吐き出すとだいぶ気持ちがラクになった。自分ひとりで抱えていたら、どんどん八方塞がりになってつぶれていたのではないかと思っている。そのうち森田的な生活を続けているうちに、次第に愚痴を言うことが少なくなかった。仕事や生活面での気づきや工夫を話す割合が増えていったように思う。集談会では、他人の愚痴を聞いてあげることも大切だと思う。ともすると、相手の話を遮って、みんなでよってたかってアドバイスをする。あるいは仕事や生活上の問題点を取り上げて、相手のことを批判・否定する人もいる。これらは百害あって一利なしに終わることが多い。自分も悩みを聞いてもらって楽になったのならば、謙虚な気持ちになって悩んでいる人たちの話を最後まで聞くという態度を持ち続けることが大切であると思う。
2018.06.12
コメント(2)
引き続いて、 「苦海浄土」 (石牟礼道子著)より、水俣の漁師の話である。また例によって、わかりやすく紹介してみたい。茂平さんとゆきさんは、 2人とも夫婦運が悪くて、それぞれ前妻、前夫と死に別れた。網の親方の世話で、茂平さんが50 近く、ゆきさんが40近くで再婚した。ところがゆきさんは、結婚後わずか3年目で水俣病を発症した。体の自由が利かなくなり、重いものが持てなくなった。船は手放し、仕方なく漁業をやめた。それまでどんな漁業をしていたのか。どんな生活をしていたのか。2人は力を合わせて漁業をしていた。二丁櫓と言われる夫婦舟に乗っていた。浅瀬を離れるまで、ゆきさんが脇櫓を軽くとって小腰をかがめ、 ぎいぎいと漕ぎ続ける。渚の岩が石になり砂になり、砂が溶けてたっぷりと海水に入り交い、茂平さんが力強く艫櫓をぎいっと入れるのである。追うてまたゆきさんが脇を入れる。両方の力が狂いなく追い合って舟は前へぐいっとでる。夫婦の絶妙な共同作業により、舟は自由自在に進むのである。一心同体の仕事ぶりであった。不知火海はのどかであるが、気まぐれに波がうねりを立てても、ゆきさんの櫓にかかれば波はなだめられ、海は舟をゆったりあつかうのであった。それもそのはず。ゆきさんは、 3歳の頃から天草で舟の上で育った。だから不知火海は自分の家の庭のようなものであった。彼女は海に対する自在な本能のように、魚の寄る瀬をよく知っていた。ゆきさんは、「私は水俣の漁師よりも、魚のおるところはよくわかる。だから沖に出てから、あんたは漁場の心配をしなくてもいい。私が舵を取るから、あんたは帆網さえ握っていれば、私が魚のとれるところに連れて行く」と言っていた。漁場につくと、櫓をおさめ、深い藻のしげみをのぞきいって、 「ほーい、ほい、きょうもまた来たぞい」と魚を呼ぶのである。しんからの漁師というものは、よくそんなふうにいうものであったが、天草女の彼女のいいぶりにはひとしお、ほがらかな情がこもっていた。ゆきさんは、体の自由が効いた昔を思い出しては、舟の上は本当によかったという。イカは素っ気のうて、舟に上げるとすぐにぷうぷう墨を吹きかける。タコは蛸壺を上げると、ツボの底に踏ん張って上目遣いでいつまでも出てこない。タコに、 「早く出てこい、出てこんかい」といってもなかなか出てこない。仕方なしに、手綱の柄で尻を抱えてやると、出たが最後、その逃げ足の早いこと、よくも8本の足をもつれさせないで素早く走り回る。こっちも舟がひっくり返るくらいに追いかけて、やっと籠に収める有様だ。この舟は2人が結婚したとき、新しく買った舟だった。 2人はこの舟をとても大事に扱った。漁期が終わると、舟に付いたカキガラを落として、岩穴に引き揚げて雨にもうたれないようにしていた。蛸壺はタコたちの家だと思い、さっぱりとしてやった。漁師は道具を大事にする。船には守り神が付いている。道具にも一つ一つの魂が入っている。敬って、釣り竿も跨いで通るようなことはしなかった。派手ではないが、穏やかで平穏な日々の生活を紡いでいたのである。それを有機水銀を含んだ工場廃液を水俣の海にたれ流していたために、水俣の漁師たちは壊滅的な状況に追いやられたのである。元の海を戻してくれと抗議してみても、水俣市はこの工場のおかげで市の財政と多くの水俣市民の就職口を賄っていた。抗議すればするほど周囲から白い目で見られていたという。漁で生活を成り立たせていた人にとっては、これ以上の不条理なことがあるだろうか。
2018.06.11
コメント(0)
石牟礼道子さんの「苦海浄土」という本は、水俣病の悲惨な状況を伝えている。この本の中で、私の目に焼きついたのは、水俣病で心身の自由を奪われた人々の姿であった。またそれ以上に心に残ったのは、水俣病が発生する前の地元の漁師の生活ぶりであった。この本は方言で書いてあるので、現代語風に訳して紹介したい。水俣の漁師は小さな舟に、鍋や釜、七輪、茶碗、皿、みそや醤油、焼酎の瓶も載せて漁に出た。昔から、鯛という魚は殿様が食べられる魚というが、我々漁師には普段の食べ物です。そうしてみれば、我々漁師の舌は殿様の舌と同じだ。海が濁らない梅雨の前の夏の初めには、魚が多く取れて、時を忘れて朝まで漁をすることがある。大漁になれば、すぐに港に帰りたいのだが、そういう朝に限って全く風が吹かなくなる。不知火海のベタ凪だ。そういうときは、いつ風がきても帆をあげられるように帆綱を緩めておいて、舟の中で飲食をする。奥さんにご飯を炊かせて、自分は刺身を作る。沖の綺麗な海水で炊いたご飯はとても美味しい。ほんのり色がついて、かすかな潮の風味がする。刺身は自分たちが釣った魚のうちから、 1番気に入った魚の鱗をとって、海水で洗う。どんな魚が脂がのっていておいしいか私ら漁師にはすぐ分かる。鯛はあまり太ったものより少し小さいものが私たちの口に合う。鱗をとって、腹をとって、まな板も包丁も海水で一旦洗えば、それから先は決して海水をつけてはいけない。骨から離して3枚おろしにしたあとで、もし海水で洗えば魚の風味がなくなってしまう。その鯛の刺身を山盛りに盛り上げて、ご飯が蒸れるあいだに、奥さんと一緒に焼酎を飲む。至福の時だ。これ以上の贅沢はどこにあるだろうか。寒くもなし、また焼き焦げるような暑さもない夏の初めの朝の海の上でございます。水俣のほうも、島原のほうもまだモヤに包まれて、そのモヤを七色に押し広げて太陽が昇ってくる。こうしてみると、空というものはつくづく広いものだと思う。そんな風な会話をしながら、海と空の間に漂っていれば、昨夜の働きにくたびれて、とろりとろりとなってくる。そんな時ひときわ涼しい風が吹いてくる。西風が吹いてきたのだ。急いで帆を上げる。西風が吹けば不知火海は、舟の向きは自分たちの水俣の港のほうに向かっていく。私たち夫婦は、破れた作業着を修理して着ていたが、自然の恵みをいただいて食べて、先祖様を大切に扱って、神様を拝んで、人のことは恨まずに、人の幸せを喜んで暮らしてきました。都会の人たちは、汽車に乗って、この水俣に来て、高いお金を出して旅館に泊まって、舟を借りて釣りをされる。それが都会の人たちの贅沢な遊びであるという。私たちは都会の人がうらやむような生活を毎日楽しんでいるのである。日々淡々と過行く生活に身を置きながら、贅沢はできないが漁師として毎日充実した日を過ごしている。都会で生活している人は、自分の意思とは無関係に会社に行って、自分の労働力を売って生活費に変えている。水俣の漁師の人たちは、換金のために漁師をしているとはいえ、労働が生活と一体になっているのである。そこにはストレスや人間関係の煩わしさはほとんどない。むしろ生活を楽しんでいる。人間本来の生き方としては、こちらのほうが本物に近いのではないだろうかと考えさせられる。
2018.06.10
コメント(0)
精神科医の神谷美恵子さんは、岡山のハンセン病隔離施設である長島愛生園で15年間仕事をされていた。そこで「生きがいについて」という著書を書くきっかけとなった出来事があったという。それは11歳でハンセン病で長島愛生園に入園した近藤宏一さんとの出会いであった。近藤さんは目が見えず、指先の感覚が麻痺していたので、点字を読むことができませんでした。特に赤痢に罹患してからは、ハンセン病が暴れ出したという。しかし、近藤さんは本を読むことを諦めませんでした。最初は聖書を読みたいという気持ちから、唇と舌先で点字を読む「舌読」に取り組みました。熱心に取り組んでいると、唇の皮膚が破れ、舌先は赤くただれ、点字本は血に染まっていたそうです。近藤さんは、長島愛生園の中でハーモニカバンド「青い鳥楽団」を結成していました。演奏だけではなく、作曲や編曲、指揮者を務めることもありました。楽団員の中には眼が見えない人もいる。近藤さんと同じく、指で点字を追えない人もいる。彼はそうした人のために音符を舌読し、それをどうにか仲間に伝えようとしていたのです。近藤さんの奮闘によって、 「青い鳥楽団」は次第に演奏技術を磨いていった。楽器もハーモニカのほか、チェロ、コントラバス、アコーディオン、チューブラーベル、ドラムなどが加わった。その他、メインボーカルに佐々木さんという看護学校の女性コーラスがバックについた。そして、愛生園や施設外での演奏活動を盛んに行った。眼が見えない人が多いので全員サングラスをかけている。近藤さんは、 「ハーモニカの歌」という本の中で次のように語っている。「メロディー、リズム、ハーモニー、それぞれの楽器の特色や、全体の曲想など、どのように楽団員に割り当てて行くか・ ・ ・ 楽団員一人ひとりの癖や、息遣いや、その表情までが私の目の前に浮かんできて、 一点一点牛の歩みにも等しい、私の点字楽譜はこうして編まれてゆくのだった。点字は私のものとなった。そして点字楽譜は完全に楽団のものとなった」そのうちシューベルトやビゼーなどの大作にも取り組めるようになった。1975年には念願かなって、東京での演奏会が実現した。会場は有楽町の第一生命ホール。 700名の会場には三笠宮寛仁殿下も臨席された。最後に、司会者からマイクを向けられた近藤さんは、一言「生きていてよかったと思います」と言われた。のちに、堪えていたものが急に込み上げてきて、瞼の裏が熱くなるのをどうすることもできなかったと述べておられる。神谷美恵子さんは次のように語られている。(近藤さんが記している喜びが)真の生の充実感から湧き上がっているものである事は、これを楽団の練習をこっそりと覗いてみればわかる。指揮者の、必死と形容するほかないような、激しく、厳しい指揮のもとに、全員が力を振り絞って創り出す協和音。これほど素晴らしい生命の燃焼の光景を、筆者はあまり見たことがない。近藤さんは亡くなられる2年前にウェルズリー・ベイリー賞を受賞されている。この賞は、ハンセン病に対する勇気と成果の類い稀なる貢献をされた人に与えられるものである。現在はハンセン病の特効薬もあり、離島に隔離されるようなことはない。しかし当時は不治の病であり、人種差別を受けていたのである。隔離施設は劣悪で、ただ生命を維持しているに過ぎない人が多かった。そんな劣悪な環境下、身体的な不自由を抱えながら、わずかに残された体の機能を活かして、精一杯生きていかれた近藤さんの生き方は、私たちに「生きるとは何か」という問いに対して明確な答えを差し示しているように思われる。
2018.06.09
コメント(0)
先日参加した集談会で雑談恐怖の話が出た。その人は仕事で初めて面会する人に対しては実に堂々とした話ができるという。ところが、会社の中で同僚達と雑談をする段になると、急に借りてきた猫のようになるという。自分としては、その雑談の輪の中に入りたくて仕方がないのである。ところが、どんな話をしていいのか皆目見当がつかない。また、同僚たちは自分のことをある程度知っている。長所や強み、仕事で成果を上げた時のことも知っている。問題は、自分の欠点、弱み、ミスや失敗のことも知っていることだ。雑談の場で、急に自分のことが話題になり、面白おかしく取り上げられてはやり切れない。そんなことになるくらいなら、雑談の場から離れ、いかにも仕事が忙しいと言うような態度で仕事をしていた方が気が楽だ。でも、みんなと同じ行動をとっていないので、心の中は穏やかではない。雑談もできない自分のことを、同僚たちはどう思っているのだろうか。そのうち、昼休みの時間になっても外食で誘われなくなった。自分は1人寂しく会社の中で食事をとっている。この人の場合は、本心はみんなと和気あいあいとした会話を楽しみたいのである。ところが、同僚達から拒否、無視、批判、否定、からかわれるという予期不安が強く、雑談を楽しむという自然な行動が出来ないのである。本人は人間関係がうまくいっていない。どうしたらよいでしょうかと相談されているのである。この人の場合は注意や意識が自己内省的に働いている。本来は仕事に向かうべき注意や意識が、自己防衛一辺倒に偏っているのである。そのことばかりにとらわれているので、仕事ではうっかりミスがでるという。そして精神交互作用によりどんどん増悪している。それは苦しみ以外の何物でもない。仕事をするのも、会社に出るのもイヤで仕方がない。生きていくのも投げやりになってきた。本来雑談というのは、どうでもいいような話、意味のない話、目的のない話、価値のない話、役に立たない話、いい加減な話、面白い話、スキャンダラスな話、面白半分の話である。責任を負わなくてもよい話。まとまりのない話。気の置けない話である。つまり、親しい人とリラックスして、相手をけなしたり、自分がけなされたりして、たわいのない話をすることである。自分のこと包み隠さず開陳して、会話自体を楽しむことである。雑談は本来人間関係における潤滑油のようなものだが、その役目を果たしていない。自己防衛に偏っていると、雑談の中で、自分のことに話題が及ぶことに耐えられないのである。今までの経験から、雑談の中では自分のことがちやほやと評価され、一目置かれるような会話にはならないことがよくわかっている。雑談を面白くするためには、相手のミスや失敗、欠点や弱点を必要以上に大きく拡大してまな板の上に乗せたほうが、よほど面白いのである。雑談恐怖の人はそのことが身にしみて分かっている。これは将棋で言えば、攻めることを忘れて防衛一辺倒になっていることである。そして自分の弱点や欠点をとりつくろい隠すことばかり考えているのだ。事実をありのままに認めることを拒み、捻じ曲げようとしているのだ。だから雑談恐怖の人で言えば、自己防衛一辺倒を修正する必要がある。自己内省一辺倒を改めて、専守防衛以外のものに注意や意識を向けていく。森田理論では、そのことを「生の欲望の発揮」と言っている。雑談恐怖を持ったまま、自分の欲望と向き合うことが大切なのだ。雑談恐怖と生の欲望のバランスを意識することが大切なのである。そう考えると打開策を思い浮かべることができる。できるだけ雑談に加わって、話すだけではなくむしろ聞くことに専念する。面白ければ笑う。雑談の場にいることは、「私はみんなと友好的な関係を築きたい」という意思表明なのだ。そして自分から雑談の話題を毎日用意しておく。例えば、報道ステーションや新聞を見て、毎日2つ3つは雑談のネタを用意しておく。また人の役に立つことはないかと常日頃から探して、見つかればメモしておく。そして少しずつでも実践をする。さらに、自分の欠点、弱点、ミス、失敗の事実を隠したり、捻じ曲げたりしないようにする。10個のうち1つでも2つでも素直に認めることができるような態度が身につけば、雑談はそんなに苦にならなくなる。とにかく雑談恐怖の人は、注意や意識が自己内省的に偏っているということをよく認識し、それを打破していく実践・行動が大切になる。
2018.06.08
コメント(0)
NHKの「100分de名著」で神谷美恵子さんの「生きがいについて」があった。私はテレビでは分かりにくい面があるので、テキスト買って読んでみた。今回は私の考える「生きがいについて」述べてみたい。生きがいとは、 「この子は私の生き甲斐です」と言うような対象物を指すのではない。人生の中で、生き生きとした喜び、何かに一心不乱に取り組んでいる時の精神状態を言う。そういう意味では正確には「生きがい感」のことを言うのである。私が考える生き甲斐とは、前提として、理想とはほど遠く、コントロールできないどうにもならない問題や課題を抱えていることが大事であると考える。これは多かれ少なかれ人間である以上、誰でも抱えていると考える。例えば、日々生きていくために食べ物を作ったり確保して、命の再生産を行うという問題や課題は、すべての人間が持っている。問題は、個人個人が、どのように対応するかにある。大切なことは、積極的に問題や課題に対して真摯に向き合うことが大切である。そういう態度は、意欲ややる気に火をつけて、一心不乱になれる。生きがいとは問題解決に向かって努力精進している状態を言うのである。森田理論でいう「努力即幸福」の精神状態である。解決することを諦めて、逃避してしまったり、自己嫌悪、自己否定に陥ってしまうと精気が失われてくる。そうなると生き甲斐とはほど遠く、生きていることに意味を見いだせなくなってしまう。恵まれた経済環境のもとで、好きなものに取り囲まれ、飽食三昧生活をしていても生きがいは生まれない。高額宝くじに当たる。国から補助金をもらう。多額な遺産が入る。死亡保険金が出る。個人にとってはこれ以上の幸福はないといえるかもしれない。しかし、他人に依存し、消費一辺倒の受け身な生活をしていては決して生きがいは生まれない。ただ単に延命を図っているだけでは苦しい。生きがいのない人生はとてもむなしいものだ。神経症に陥って葛藤や苦悩を抱えている人は、当の本人は苦しいだろうが、問題や課題を抱えているので生きがいのある生活を送る権利を有している。ただし、神経症を克服しようとしてやりくりをしたり、苦しいから逃避したりしていては生きがいはすぐに失われてしまう。苦しみが増悪してしまうので、すぐに対応能力を超えてしまうからである。森田理論は基礎編の学習ををして、「森田理論全体像」を中心とした応用編の学習に進むとよい。そしで実践・行動していけば、神経症を克服できるのみならず、人生観まで確立できる。後で振り返ってみると、これこそ私の生きがいをはぐくんでくれたものだと分かるようになる。神谷美恵子さんは、生きがいを失ったときは「待つ」ことが大事だと言われている。ああでもない、こうでもないと迷っている状態が大事だと言われているのである。短絡的にどちらかに方向性を決めて突っ走るのではなく、気をもみながら右往左往している状態が大切なのである。この時期は精神的にきつい時期である。悩みを抱えて右往左往している時期だ。でも悩みが深ければ深いほど、それを克服した喜びは大きくなる。決してあきらめないことだ。森田理論にしがみついて、自助グループの人たちと交流を続けておくことだ。ジョン・ミルトンという詩人は、失明して物が見えなくなった。孤独と苦渋の中で生きがいを見失った。その期間は15年の長きに及んだ。悩み苦しまれたが、最後には失明したことを受け入れ、「失楽園」などの作品を発表された。苦しんでいた時の15年間は、未来に向かって試行錯誤していた大切な時間であったという。シュバイツァー博士は、楽器演奏でも有名な人であったという。彼は裕福な家庭に育ったが、近所の貧しい人たちを見ていて、 30歳を過ぎたら、人のために尽くすことを使命感として捉え、アフリカのコンゴで生涯医療活動にあたられた。これは自己犠牲の上に立った行為ではない。生活の中で、自分自身の目標や課題、夢や希望を発見し、その達成のために立ち上がられたのだ。これがシュバイツァー博士の生きがいの発見だった。さらにその生きがいを生涯持ち続けられたことが立派だった。目標や課題を見つけるためには、現実、現状、事実をありのままに観察する必要がある。観察していれば、何らかの感情がふつふつとわき起こってくる。その感情は次第に高まっていく。すると関心や興味が湧いてくる。アイディアや工夫や発見を思いつくようになる。やがて、やる気や意欲が自然に湧き上がっていく。それに従って手足を出していけばよいのである。自分ひとりでできないときは、他人の力を借りる。時期早尚の時は、期が熟してくるまで待つ。せっかくの問題や課題は、私たちが生きがいを持って生きるための餌のようなものである。貴重なものであるから、簡単に投げ出したり、手放してはならないのである。神谷美恵子さんの生きがいに関する投稿は、 2014年7月19日にもある。生きがいに関心のある人は、ぜひ参照してもらいたい。
2018.06.07
コメント(0)
元落語家の笑福亭小松さんの一生は、横山やすしさんの生き方とよく似ている。常識を無視した自由奔放な生き方で、反社会的な行動も見受けられた。残念ながら、結局最後には、心も体もボロボロにぼろになって亡くなられた。しかし、その有り余るエネルギーと落語に取り組む姿勢は素晴らしいものがあった。森田理論学習の参考になる面があるので紹介したい。小松さんは、 39歳の時に進行性の胃ガンになられた。胃と脾臓を全摘、膵臓・肝臓・胆のうの1部を切除されました。その時はさすがに意気消沈されていました。気づくと、小学生の男女2人のお子さんが、それを見て悲しそうにしていました。その時小松さんは、 「父親として、自分がすべき事は、人生の困難に直面して、どのように対処したかを子供たちに教えることだ」と思いました。悲しんでばかりいないで 「何か大きな目標を持つことによって困難を乗り越えよう」と考えました。そして、手術後1年の時 、「鹿児島県庁から北海道庁まで、日本列島を縦断しよう」と、とんでもない事を思いつきました。そして思い立ったが吉日、2月に鹿児島県庁を出発し、5か月かけて、ついに 6月26日北海道庁に到着しました。北海道庁ではたくさんの人に出迎えられました。その途中なんと19カ所の病院などで「がん克服落語会」を開催しました。この落語会はガン闘病中の人に大きな勇気や励ましを与えました。その後小松さん自身も元気になり、文部省主催の芸術祭に参加して演芸部門で優秀賞を受賞しました。さらに頼まれれば病院に行ってボランティアで講演をし、看護学校で話をし、大学へ行って1日教授等をするなど、忙しく過ごされておられました。私も1度講演というか漫談を聞きに行きました。とにかく話が上手でおもしろかったです。がんの闘病中のことを面白おかしく話されました。何度も笑いが出たのを覚えています。特に入院中相部屋の人が、夜中になると「ボリボリ、ボリボリ」とせんべいをかじるという話がとても面白かったのを思い出しました。その後、ニュージーランドに招かれて英語落語にも取り組まれました。手術後、4年8ヶ月経った時に、血液検査をされました。すると、ナチュラルキラー細胞は正常、中程度。インターロイキン12とかインターフェロン・ガンマーなどは正常値よりもはるかに高い数値でした。これはガンになっても心機一転して生きる目標に懸命に取り組み、社会の役に立っているということが精神的に良い効果を生んでいるのではないかと思われます。(生きがい療法と精神腫瘍学 伊丹仁朗医師 要旨引用)この話を聞くと、ガン克服にあたっては、手術、放射線、抗がん剤治療だけで済ましてはならない。その後免疫力を回復し、免疫力を増加させるための心理療法の学習と実践が非常に大切になる。進行がん以外で、もしがんが治るとすれば、その両方から取り組んでいくことが欠かせないということが分かります。この点森田療法理論を学んで、生活に活かしている私たちは、普段からガン予防的な生活を送っているといえます。
2018.06.06
コメント(0)
生きがい療法4つの柱の中に「体験学習」というのがある。これは、それぞれのがん患者の方々が、自分の生きがいに取り組んでいくことです。海外旅行、油絵制作、短歌集の出版、楽器の演奏、フラダンスなど、実にさまざまです。また集団で生きがいに取り組む活動もされています。「ゴミ拾いの実習」では、参加者は近くの道や公園などで約30分間清掃活動をします。終了後のミーティングでは、それぞれどんなゴミを拾ったのかを報告します。最後に、司会者が、ゴミを拾っている間、 「日頃の心配・不安はどうだったのか」と尋ね、それぞれの人がゴミ拾いの作業に打ち込むことによって、不安と共存しやすくなるコツを体系的に学ぶことになります。「ペイント・フェスタ」と呼ばれる共同体験では、病院の協力を得て、院内の真っ白な壁に美しい壁画を描く活動です。この催しは世界の病院で同様の活動を行っています。日本国内では過去に国立がんセンターなど8カ所の病院でも開催しました。この活動の意義は、広く社会の役に立つボランティア活動を通して、生きがいを実感する機会ともなるのです。次にガン闘病中の人々が、看護学校や大学でご自分の闘病体験を語る「 一日教授体験」も行っています。この共同体験の意義は、ガン闘病中の人々が、人生の後輩の若い世代の人々に、病気や人生の困難への対処法を語り伝えるという、広く社会の役にたつボランティア活動です。この催しは、大学病院、看護学校だけではなく、一般市民を対象とした会合や、中学校小学校などでも行われてきました。共同体験学習の目的で登山をすることもあります。 1987年ガン闘病者の方々とヨーロッパアルプス最高峰のモンブランに登山しました。これは全国の病気闘病中の人々に大きな勇気を与えました。たとえば、 「私はこれまで病気の心配ばかりして過ごしていましたが、この登山のニュースを聞いてから、自分も生きる目標を持って病気克服に取り組みたいと思うようになりました」というお便りが多数寄せられました。2000年にはガン克服日米合同富士登山も行われました。これは日本のガン闘病者220名。アメリカのガン闘病者80名で行われました。登山参加者の多くの感想は、 「準備トレーニングに取り組んだ1年間は、生きる目標ができ、運動習慣も身に付き、それまでよりもずっと気力体力が充実した」というものでした。生きがい体験が、それぞれの人のQOLに良い効果をもたらしたと考えられます。2003年の新年には北極圏オーロラツアーも行いました。 16名のガン闘病者が参加され、北極圏の寒さや犬ぞり体験、オーロラ観賞等を行いました。こうした旅行やアウトドア活動に参加した人々の感想は、 「日頃の生活を離れて、広い世界を体験したり、さまざまな困難を乗り越えて、旅から帰ってくると、なぜか生きる意欲が大幅に大きくなっていた」という点に集約出来るように思われます。森田先生も旅行やアウトドア活動に積極的に取り組んでおられます。森田先生自身、富士登山を2回体験されています。その他、筑波山や奥多摩にも行かれています。森田先生は旅行について、 「余は・ ・ ・精神の訓練法として用いる」 「余の特殊療法を終りたる後に訓練療法として行えば有効である」と述べられています。 (第17回森田正馬賞受賞記念講演より要旨引用 伊丹仁朗)現在森田理論学習を行っている人たちは、このような体験学習に取り組んでいるだろうか。森田理論が詳しいだけに、このような体験学習を個人で、あるいは集団で取り組むことによって、その人の人生は大きく花開いていくのではなかろうか。森田の達人と言われるような人は、そのような活動に取り組んでいる人の中から出現してくるのである。決して森田理論に精通した人が「森田の達人」の域に到達することはないと思う。
2018.06.05
コメント(0)
生きがい療法の伊丹先生は、免疫力を増加させるために簡単な方法があると言われる。1つはカラオケを歌うことです。ただし、カラオケの嫌いな人が渋々歌うとストレスになって、かえって免疫力が低下する。下手でも楽しむことが大切です。また、高齢者の女性がが、毎日丁寧に化粧を続けますと、免疫力が強くなる。もうひとつ簡単な方法としては歩くことです。ガンの学会で9,000人くらいのある会社の社員を16年間追跡調査すると、毎日1時間以上歩いている人とほとんど歩いていない人を比べますと、 16年後のガン死亡率が2分の1になりました。ウォーキングを続けると、いろんな病気での死亡率も2分の1になります。3年寝太郎のような生活をしていては、身心の機能だけではなく、免疫力もどんどん低下してくるのです。免疫力は、例えば悲しみが強くなったり、憂鬱が長く続いたり、ストレスが強くなると弱くなってしまう。それらはなるべく短く乗り越えることが大切です。とくにストレスが高い人は、免疫力が弱い。これは、タバコを吸わない人と吸っている人との免疫機能の差よりももっと大きな差がある。タバコよりもストレスの方が免疫機能に悪影響を及ぼしているのです。阪神大震災の後、多くの人は、免疫力が大幅に低下しました。免疫力が全国平均並みに回復したのは、 3年後のことでした。大きなストレスに遭うと免疫力が1年ぐらいは弱ったままになってしまうのです。もう一つ要注意なのは、うつ病です。うつ病は、免疫力を低下させます。また癌に対する抵抗力も低下させる。一般人口のうつになっている確率は5%くらいですが、がん治療中の人はうつ病の確率が高く、 45%から55%という研究結果があります。ガンの専門病院の多くは、ガンになってもうつ病を見逃して治療していない場合が多い。家族がよく注意して異常を早く見つけ、心療内科などの専門医にかかって早めに治療することが大切です。うつ病は薬物療法で治る病気です。(生きがい療法と精神腫瘍学 伊丹仁朗医師の講演より要旨引用)普通ガンになると、ガンの専門病院に行って、外科手術、放射線治療、抗がん剤治療を受けます。しかし再発や転移があるともうお手上げです。病院から余命宣告されてホスピスに送られます。そこに決定的に欠けているのは、がん細胞に打ち勝つ免疫力を高める治療の導入です。ガン治療には、この2つの治療をセットとして導入する必要がある。ガンになるような生活習慣や食生活を見直し、ガンで意気消沈して何もしないのではなく、ガンと戦っていく気持ちが大切なのではないでしょうか。森田療法理論から「生きがい療法」を開発された伊丹先生は、手を尽くしたがんの治療とともに、一方では生きがいを持った生活態度が自然治癒力を高めて、結果としてガンの克服につながるものだと言われています。私は5年生存率10%以下と宣告された方を知っています。その方はガン治療とともに、生きがい療法にも取り組まれました。現在手術後12年になられますが、主治医から「がん細胞は見当たらないので、今後は定期健診は不要です」といわれたそうです。森田では心身同一論の立場ですが、そのことをまざまざと思い知らされました。
2018.06.04
コメント(0)
日本大学のアメフト部の悪質タックル問題は、、それ自体が嫌悪感をもたらすものである。しかしそれ以上に、国民を怒らせているのは、内田前監督やコーチ、大学の広報部や大学の経営陣が事実をありのままに認めようとしないことである。言い訳をすればするほど事実を隠蔽したり、ねじ曲げようとしているのではないかと思わせてしまう。事実をありのままに認めようとしない事は、他人にとってはとても腹立たしいことなのである。日大の問題は、詳細なビデオ映像が残されている。また、当該選手や他のアメフト部員の証言などもある。客観的な立場から見れば、事実はほぼ確定しているのであるから、その事実を認めようととしないことは自分たちの首を絞めるようなものである。森友問題では、総理の意向を忖度して、決済済みの公文書を偽造していたことが分かった。それ以前に、佐川前国税庁長官は公文書自体が廃棄されて存在しないと公言していた。これは大ウソだった。しかし、肝心の安倍総理側が、籠池氏の土地購入に際し、大幅な値引きのために便宜を図ったという確たる証拠はつかめなかった。加計問題では、安倍総理大臣と無二の親友である加計氏は、平成29年1月まで何回もゴルフや会食をしていたにもかかわらず、愛媛県今治市に開校した獣医学部新設については全く会話をしたことはないと公言している。常識的に考えて、無二の親友同士で、自分の仕事の近況について全く話さない関係というものがあるだろうか。そういう人のことを無二の親友だなどというのはおこがましい。愛媛県庁の職員が平成27年に東京に出張した際、安倍総理と加計氏が面会した話は、岡山理科大学の事務局長が捏造したということで幕引きを図ろうとしている。なにしろ証拠がないのだから、いかようにもごまかせると思っているのであろう。これが事実とすれば、安倍総理が加計氏に自分の立場を利用して、利益供与をしたことになるので絶対に認めることができないことである。だからのらりくらりとかわして事実を隠し通そうとしているのである。この状況は、薄いカーテンだと、夜部屋内から外のことはよく見えないが、外からは人の動きが手に取るようにわかるのと同じようなものだ。また上司は部下のことはよく分からないが、部下は上司のことはよく見えているのと同じことだ。どちらの場合も、事実を事実として認めないで隠そうと躍起になっている。証拠がないのでいくらでも言い訳ができると思っている。だが嘘を隠そうとすると、その嘘を正当化するためにさらに嘘をつかなければならなくなる。ご本人たちの心労はいかばかりかと察する。しかしもっと問題なのは、事実を隠くし通そうとすればするほど、それをテレビなどで見ている人にとってはとても見苦しい態度に見えてしまうのである。同情などする人はほとんどいないのではないか。自分たちはうまく事実をごまかして切り抜けてしまえば、そのうちほとぼりが冷めると思っているのだろう。しかし、国民にしてみれば、腹の中では嫌悪感でいっぱいなのである。証拠がなくて、そのまま忘れ去られるのではない。事実を隠すという態度が、体質的に相手のことをもう信用はできないと思ってしまうのである。ある優秀な営業マンが、 「得意先はコツコツと10個相手の役に立つことを積み重ねても、1個信頼を失うこと行なえば、今までの努力は無駄になる」と言っていた。事実を隠蔽すると言うことは、その1個の信頼を失う行為に当たるのである。私たち神経質者も、この人たちと同じように、ミスや失敗を犯してしまうと、すぐに事実を正直に公開してしまう事をためらう。特に証拠がない場合は、何とか責任逃れをしようとする。事実を隠す。ねじ曲げる。ミスや失敗を認めない。相手のせいにする。その他いろいろとやりくりする。最後に隠し通せなくなってやむなく認めてしまう。その時は自分の力では収拾できないほど大きな問題に発展している。そして自分の信頼はガタ落ちになる。以後、信用できない奴だとレッテルを貼られて、仕事がやりにくくなる。私たちは日大アメフト部や森友問題、加計問題に学ばなければならない。事実をありのままに認めず、隠したり、ねじ曲げたりすると、その後大変生きづらくなるのだという事実を反面教師として学ばなければならないのではなかろうか。そのせいで、あとから罪悪感や懺悔の気持ちで後悔することだけはやめたいものだ。
2018.06.03
コメント(0)
神経質者の場合、社会に適応してうまくやっていけるのかどうか自信がないという人が多い。特に、良好な人間関係を築くことに対して自信がない。あるいは、目の前の仕事や課題に対して、目的を達成するまでできるかどうか自信がないという。今日は、この自信について考えてみたい。第一の点であるが、社会に放り投げられた時、 防御一辺倒になり、自分の気持ちや意思を表現することができない。他人や社会はいつも自分を攻撃する存在であると思っている。その攻撃から自分を守るために、常に自分に対する相手の言動に注意を払っている。自分のことを非難、叱責、拒否、無視、抑圧、脅迫、否定されることに神経過敏になっている。少しでも予期不安が発生するとすぐに身を守ろうとする。貝がすぐに固い殻を閉じるようなものだ。逃避欲求に従ってすぐに逃げる。良好な人間関係作りに自信がない人は、注意や意識の方向が内向き一辺倒で、外向きになっていない。この原因は、生後1年6ヶ月の間に母親とのあいだで形成されるという愛着の形成が不十分であることにあると考えられている。しかし今更親を憎んでも、益々自分がみじめになるだけだ。(これについては、岡田尊司氏の「愛着障害」の本を参考にしていただきたい)愛着障害の人は、無条件で、他人に信頼をよせることができないのである。さらに他人を信頼することができない人は、自分も信頼できない。だから常に社会的な死ばかりを警戒しながら防衛的な生活しているのである。私の場合も全くその通りである。その苦しみや生きづらさは大変なものであった。このような問題を抱えている人は、森田理論学習を始める前に、遅まきながらても、「愛着の形成」に手をつけることが必要である。特定の人との間で、信頼され信頼できる人間関係を作る必要があるのだ。配偶者、師、友人、上司、趣味の仲間など、どんな関係でもよい。心の安全基地となるなる人ならどんな人でもよい。ただ利害関係目当ての人はまずい。私の場合は、森田理論学習の集談会の中で見つけてきた。それも支部研修会や懇親会に出席することで可能となった。学習から少し離れたところで見つかった。精神的なピンチに陥った場合、一時的に緊急避難する場所が確保できていることは本当に心強いものだ。自分の苦しみをわかってくれて、共感し受容し励ましてくれる人のことだ。自分の存在を信頼できるようになるためには、他人からのサポートが必要だと思う。そしてできれば自分も相手の安全基地となるべく努力していくこと。次に、目の前の課題や目標に対して、達成できるかどうか自信がないということについて考えてみよう。当然、初めて挑戦することに対しては、うまくいくかどうか自信がないのは当然だ。普通の人は、どっちに転ぶか分からないけれども、やるべきことから逃げずに見切り発車している。自信がないなりに挑戦して、成功したり失敗を繰り返しているうちに、いつの間にかやれるという自信をつけている。神経質者は、ミスや失敗を極度に恐れるがために、いつまでも頭の中でシュミレーションを繰り返す。頭の中で納得し、これならできるという確信を得てから初めて取り組もうとする。試行錯誤しているうちに、チャンスが逃げていく。また、悲観的に考えすぎて、そのうち手も足も出なくなる。そうなると、実際に行動しないから、ミスや失敗の経験を積み重さねることができない。結局成功の足がかりがつかめない。1人前の大人になるまでに3000回の失敗をする必要があると聞いたことがある。我々は、ただの1回のミスや失敗も許せないのである。ミスや失敗を重ねていると、次に挑戦するときに、その失敗は繰り返さないようになる。次第に成功へと近づいていくのだ。考えるばかりで行動力の少ない人は、目の前の日常茶飯事に丁寧に取り組んでみることだ。できれば自分の得意な分野、好きな分野にも積極的に取り組んでみる。頭の中で試行錯誤を繰り返すよりも、実践・行動力をつけることで、少しずつ自己効力感を身につけていくことが大切である。
2018.06.02
コメント(0)
先日テレビで石牟礼道子さんの番組を見た。石牟礼さんは、水俣市に住んでいた。そこで水俣病の人たちと出会った。水俣では、かってチッソという会社が有機水銀を不知火海に垂れ流し、深刻な身体障害である水俣病を引き起こした。石牟礼さんは、水俣病をきっかけとして、人間の豊かさとは何か、人間いかに生きるべきかを問い続けた人であったのだ。その内容は、「苦海浄土 わが水俣病」など数冊の本にまとめられている。もし、石牟礼さんの活動がなければ、水俣病は国とチッソを相手どった損害賠償請求に終始していただろうといわれている。人間が生きるということを、水俣病を通して考えられた優れた作家であると思う。また石牟礼さんは、水俣病で苦しんでいる人達に大きな影響を与えたといわれている。たとえば被害者に緒方正人さんという方がいて、 「チッソは私であった」という本を書いておられる。その中で自分はチッソの被害者であるけれども、この水俣の海を漁師として荒らしまくった加害者でもあるのだ。有機水銀を流した人たちと同じ側に立っているんだと考えるようになった。緒方さんは、 「命の尊さと、命の連なる世界に一緒に生きていこうという呼びかけが、水俣病事件の核心ではないかと思っている」と言われています。水俣病で苦しむようになって、人間がこの地球上で生きるという問題をより深く考えるきっかけになったといわれているのだ。その後、訴訟運動から離れ、水俣病認定申請を自ら取り下げた。そして、水俣病で死んでいった人たちの慰霊碑の周りに自作の野仏をたくさん建てる活動を続けられたという。また杉本栄子さんは、水俣病で口ではいえない苦しみを抱えながら、 「チッソを許す」と言われた。かって杉本さんは以前はチッソ恨み、損害賠償請求の先頭に立って活動しておられた。その時心の中は国やチッソに対する怨念でいっぱいであった。しかし、国やチッソを許さないと自分の精神状態は苦しいばかりだっという。 国やチッソを「許さんと自分がきつか」と言われた。相手の非ばかりを探しまくり、相手とのにらみ合いばかりの生活は精神的には地獄の苦しみがある。理不尽なことを引き起こしたチッソの悪態の事実を認めて受け入れることをしないと、自分の精神状態がボロボロになってしまうといわれた。杉本家がある集落には、 「のさり」という独特の言葉がある。この言葉の意味は、幸運に限らず、病も不運もすべて天からの授かりものという意味です。今となっては重い病やチッソによる理不尽な公害を、起きてしまった事実として認めるしかない。そこを出発点にして生きていくしか方法はない。そんな生き方が人間が生きていくということではないのか。公害を引き起こした企業を憎み、自由の効かなくなった自分の身体疾患を否定するばかりの生活は、生きがいが持てず、みじめな気持ちになるばかりで精神的にきついということが身にしみてわかったといわれているのである。水俣病の原因を作ったチッソという会社に対して闘争を挑んでいくことは大切なことです。決して公害を垂れ流す企業は野放しにしてはならないと思う。もし闘争をあきらめてしまえば、チッソという会社は有機水銀を海に垂れ流すという事をいつまでも続ける。そして環境汚染を繰り返し、いつまでも人々を苦しめる。胎児性患者は、生まれてきた時から死ぬまで障害と付き合わなければならないのだ。そういう場合は、周到に準備して闘いを挑まなければならないと思う。その上で、先に述べたように「チッソを許す」という考え方も大事なのかもしれない。チッソを恨み、 「昔の安全な海を戻してくれ、健康体に戻してくれ」と思ってみたところで事実は覆えすことはできない。また地元にはチッソという会社のおかげで、生計を成り立たせている多くの住民がいる。その結果、水俣市に住んでいる人同士が対立して生活しにくくなっていた。「チッソを許す」というのは、体の自由が効かなくなった事実を受け入れるという面がある。事実を認めて、そこを出発点として生きていく方が、どんなにか精神的に楽な生き方ができるのではないだろうか。事実に向き合えばそこから新しい展開が開けてくる。そうすることで、自己否定に陥らず、自分たちが正面から苦悩と向き合うことができる。また自分達の体験をより多くの人に知ってもらう活動などに取り組むこともできるようになる。そうすれば自分達も窮地の中で、生きる意味を見出して生きがいを持って生きていけるのではなかろうか。
2018.06.01
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1

![]()
