全60件 (60件中 1-50件目)
久々にここを訪れました。久しぶりに自分の書いた内容を見ると、のべつまくなしに、ほかのひとに依存し、まるきり子供だなと思いますが、もっと良く見ると、ぐちゃぐちゃに歪んだ自分で、自分の中に、ほかのひとに対する愛を見いだせないことに苦しんでいることも理解できて、この時期の(今も?)自分を支えて下すった方には、本当に感謝のひとことにつきます。。ようやく、遅い春を迎えました。ありがとうございました。
2012.05.22
コメント(0)
久々にここを訪れました。久しぶりに自分の書いた内容を見ると、のべつまくなしに、ほかのひとに依存し、まるきり子供だなと思いますが、もっと良く見ると、ぐちゃぐちゃに歪んだ自分で、自分の中に、ほかのひとに対する愛を見いだせないことに苦しんでいることも理解できて、この時期の(今も?)自分を支えて下すった方には、本当に感謝のひとことにつきます。。ようやく、遅い春を迎えました。ありがとうございました。
2012.05.22
コメント(0)
おかげさまで、やっと、やっと!仕事が決まりました!今度の職場は、海の近くの最近都市開発されたようなところで、平日の出勤時間に普通に歩いていても、人との程よい距離が確保されているような、人工的だけれど居心地の良いところです。職場は24Fで、大きなガラスの窓から下を見下ろすと、最近出来たばかりのビルや広場や公園が、ジオラマのように一望できます。以前の職場は、お嬢な上司とか、1日に10回切れる情緒不安定社員とか、人間的で個性的な人たちが多く、もまれにもまれて本当にエキサイティングでしたが、お相手するのに多少、疲れたのも事実。でも、今度の職場の人たちは、良識があるお姉さまたち(女系の部署)なので、落ち着いて仕事させてもらえています。とても恵まれているなあと思います。ハッキリ言って幸せです。朝早めに出勤して、余裕があればコーヒー一杯飲みながら、新聞読んで職場に入ります。贅沢なひとときです。ビジネス研修関連のテキストなどを編集する、という比較的落ち着いた職場なのが、合っているのかもしれません。ビジネスにおける「教育」の内容は、読んでいて楽しいしなかなか面白いです。意外とこういう雰囲気は嫌いではないのです。同時期に中途で入ってきた同年代の同僚は、一緒にランチに行くたびに「こんな地味な職場…」と不満そうですが、私にとっては天国です。でも、仲良くランチしてくれてます。色々と寄って立てそうな基盤が安定してくると、欲が次から次へと出てきます。cカードとって南の海でダイビングしたい、引っ越したい、歌を歌いたい。破産に気をつけて、ひとつずつ、夢がじつげんできればいいなぁと思います。
2009.09.09
コメント(9)

夏が来ました。早く就職して出かけるぞ~(>_
2009.07.20
コメント(6)
豆腐屋の年齢不詳の女性アルバイター。いつから雇ったか忘れたけれど、いつも、何となくいつも、眉根に微妙にしわを寄せて不機嫌そうな顔つきで店番をしていて、口数も少ないし愛想もなくて、たまにタバコを吸っている。店屋の主人も、仕事忙しいし、気兼ねなく次々と身内のように檄を飛ばすけれど、顔色が変わらないから、10年も居るのに何を考えているのかサッパリ分からないバイトだと思っている。でも、職人的にこつこつとやるべき事はビシッとやってくれるし、愛想のわりには、豆腐屋の身内の誰とも、空気のようにうまくやっているし、実は、本人はそれほど好きってわけでもないのに意外と子どもに好かれていたりして、それに律儀に応えていくようなところもあって、良い、縁の下の力持ちだったりする。居るとさほど気にならないけれど、抜けるととたんに淋しくなるようなタイプなのである。店に子どもが来ると、いつの間にかかって用意していたアメを黙ってやったりするような、心憎い一面もあるので、話題には上らなくても、意外と集客に貢献しているようなところはあったりする。・・・・・・・・・・・・・・素直に物事を受け入れて生きればそんな風に幸せになっていたであろう自分。を、思い浮かべるとこんな感じ。また自分の話をしてしまった。
2009.07.06
コメント(4)
色々な人の温かい言葉や行動に、戸惑いを感じながらも湧き上がってくる感情に対して思うことがある。今まで、こういう感情の存在をあまり信じていなかった。「善の道」は、親に教わってはいたけれど、それを上回る、もっと大きな、こう、揺さぶられて、涙が出てくるようなありがたい何か。何かこう、自分のせいだと思うけれどもそういう感情を「信じない」という方向ばかりで、そういう大きな何かを感じそうになると、あわてて、嘘にしようとしたり、なかったことにしようとしていたり、していた気がする。何となく、本当の意味で、きっとそういう感情に共感してくれる人は居ないんじゃないかと、思っていたような気がする。そういう感情で満たされることは、否定されること、というインプットが、なぜかどこかにある。自分自身で居ると、どういうわけか、誰にも受け入れてもらえない、という感覚。きっと、私は私で良かったんだけれど、私の欠点への警告、向こう側に事情がある因縁、ちっとも思い通りにならない人生etcを、単純に「自分自身が否定されてる」と、間違えて受け取ったまま心を閉じていたのかもしれないな。分けて考えなきゃね。愛の鞭なのか、先方事情なのか。そして、それとは別に、そういう温かい現実はいつもそばにあることを、もっと信じていかなきゃ。
2009.07.02
コメント(6)
期間限定で始めた接客のアルバイト。今まで、パソコンに向き合って、しょうもないことを考えたり、しょうもない文章を考えたり、そういう仕事だけしてきたけれど、意外と適正を感じている、接客の仕事。とはいえ、一流百貨店のお中元コーナーだけあって、覚えるルール、使う神経、忙しさはそれなりのもの。忙しくなってくると、つい、昔の「緊張癖」が顔を出す。昔は、緊張する自分が嫌いだったな。今でも気持ちは良くない。情けなくて惨めで、嫌いで、周囲にばれないようにすることばかり考えていたっけ。お客様に不快な思いをさせないといいけれど。でも、そういう真っ最中なとき、状況を察したかのような笑顔で私を笑ってくれた、一人の、初老の女性のお客様が居た。「冷笑」じゃなくて、なんていうか、おおらかに包み込むような「微笑」。私がそう感じたんだから、本当の部分はどうでもいい。そういう下らないことに、最近救われる。最近、そういう体験、多い。嫌いで殆どマトモに話さなかった父と話してみたら、自分が必要としていたものを持っていたりとか。自分が明るい道を歩く方法は、もっともっとそういう風に笑ってもらって、自分も笑ってあげることではないかと思えてきた。たいしたことないんだね。でも、結構マジなんだよね。面白いでしょう。体当たりでやってることほど、ちっぽけで面白い。ドリフやダチョウ倶楽部の笑いに通じると思いませんか。ただし、自分は自分を絶対に笑わない。人が上辺だけ見て適当に笑うのを真に受けて、自分が自分を信じなくなることはしない。存在がラブリーだからつつかれたのかもしれないし、ヘンな状況の中で、結構一生懸命生きてるのは真実だからね。自分の人格を守るために他人を笑う人は、自分の人生の方向性と違う人だからスルー。ちょっと内容が違うよね。もう少し余裕ができたら、私も、上手に人を笑ってあげられる人になれたらいいな。
2009.06.25
コメント(4)
好きなイラストレーターさんです。オカモトチアキhttp://giggle.hacca.jp/温かくて、優しくて、たまにおとずれてホッとしています。オカモトチアキさんのHPで流れている音楽を作曲されている方も好きです。(確か、中野果林さんという方だったと思います)中野果林http://karin-nakano.com/contents.html
2009.06.22
コメント(4)

つい、こんな画像。(by イメージシェフ)お友達のdream kid 様江♪せめて2パターンは1パターンに絞れ、ちゅーの。作りすぎだっちゅーの。趣味なので、気にしないでください…。
2009.06.20
コメント(7)

以前から、キオスクについて気になっていたことがある。あの、キオスクの側面に貼ってある小さなポスター。町内会のお祭りの時に飾るPOPみたいな、身内が書いた、テーブルの上のメモのような、程よい人肌感というか、ハートフルさというか、微妙な「ヘタウマ」加減に、いつも、心を掴まれてしまう。広告の仕事を少しだけしたことがあるから感じるだけでしょうか…。JRとか大手の広告は、それなりの大手の広告代理店が関わっていて、作り手目線・代理店目線・発注側目線のいろいろな人のチェックを通って、ユルくてもどこか洗練されてスキがない、狙った感じに仕上がってることが多いのに、どうやったら、あのような荒削りな「産地直送」っぽい広告が日の目を見るのだろうか…。そして、今日、もうひとつ「やられた…」と思ったのが、キオスクと明治製菓の共同開発によるキシリッシュ。自分の身内がいつのまにか明治製菓と手を組んでいた、みたいな感動を勝手に覚えて、店員さんに断って写メする。店員さんも、まんざらでもなさそう。それで結局、あの広告は誰が作っているのか。いつか知りたい。↓JR某駅にて。今日は、自分的に「ヒット」と思えるものは見当たらなかったものの、例えば、このPOPの上の雲に微妙に小さく「AM」「PM」と入れる感覚とか…が。「このAMとPM要らないよ」って誰にも言われることなく、よく、掲示までたどりつけたなと。分からない話してすみません。↓これが、J-リテールオリジナルキシリッシュ1個買いました。美味しかったです。
2009.06.19
コメント(2)

青。黄色。オレンジ/緑。ピンク。大きい。黄色再び。黄緑。オトナな。得した(※北海道に行ったことがないので、ラベンダーを見ると得した気持ちになります)。田舎には 何はなくとも 色は一杯
2009.06.16
コメント(2)
福祉の業界用語には詳しいけれど、実は、障がい持つ人のことを軽く考えていたりとか、「親切ないい人」だけれど、本当に困っている人には以外と冷たいなと感じることがあったり、「人を助ける。固辞されても助ける」と押し付けられて、自分が助かりたいんじゃないの…?と思ってしまったり。微妙なモヤモヤが残る「優しさ」。みんな、一生懸命よくしてくれようとしてくれてるんだよ。でも、モノがモノなとき、結構、ため息が出てしまうときがある。きっと、自分がその手だからかも。「優しいいい人」って、自分にブランド価値をつけることと、心から人に優しくすることは、少し違うね。心から優しくする、って、結構難しい。余裕がないと無理だし。親と話していて感じたことだけれど。では私は?…微妙。
2009.06.16
コメント(2)

フォーマットや、自分で撮影した画像を好きなように組み合わせて、可愛いバナーが作れるサイトのコミュニティにお招き頂きました。イメージシェフコミュニティ*花言葉*http://my.plaza.rakuten.co.jp/sns/?menu=commu&func=detail&comm_id=27693色々遊んでいたら、随分たくさん作っちゃいました♪ご興味があれば、ゼヒ、コミュニティをお訪ねください♪
2009.06.15
コメント(4)
すずめの仔がやってきた。庭に落ちていて、猫に食べられてしまうとマズイと、父が拾ってきた。はじめ、部屋に放していたけれど、バッチイかもしれないので、衣装ケースをひとつ使って、仮の住まい。飛べなくて、バタバタしている。かつおぶしを水に浸したものを、やってみたけれど、食べない。衣装ケースの中でパニックになっているのを見かねて、結局、父が放した。「俺が子どもだったら、一生懸命育てただろうけど」そのあと、高いところに放したら、親が迎えにきたらしい。さようなら、すずめ。
2009.06.14
コメント(6)
皆様へお仕事始まりにつき、ブログへのアクセスの頻度が減ると思われます。メールへのお返事やコメントが遅れますが、なにとぞご容赦くださいませ。いつも、どうもありがとうございます
2009.06.10
コメント(0)

また散歩記です。今日も同じエリアを散歩。住宅街の小道をチラ見したら、見たこともない面白い樹がありました。思わず近寄って眺めていたら、近くに家主らしきおじさんがいたので、思わず…「これ、何の樹ですか」「スモーキーツリー」というんだそうです。この辺じゃ、珍しいかもしれないねぇなんて言っていました。写真の状態で、花が咲いているそうです。遠くから見ると、ぼわぼわとしていて目立ちます。最近、凝ったガーデニングをする家が多いので、こういう見たこともない樹や花を見かけて立ちどまることがあります。お隣が本格的にやっていたりすると、触発されて、地区全体が花いっぱい、みたいになってくのかな、なんて、勝手に想像したりしていました。みんな、すごく手入れしている感じです。楽しいです。紫陽花の花。咲き始めてからちょっと経っていますが、まだまだ綺麗に咲いていますよ。これは、なんだか分からないけど、山の上で見かけた気がして気になって撮った花。これも、あまり見たことがなくて思わず撮った花。今日は歩いていて、ホント自分アホだなーと思ったこと。真の意味で。でも、アホだからといって、自分のこと嫌いになることはしないでおこう。ただし、アホだからといって、周りにアホの償いやお返しをしないというのも図々しいしな。まあいっか。
2009.06.10
コメント(2)
白血病で逝った人を看病した人の話を聞いた。白血病は血液のガンだから、全身が痛いらしい。恰幅の良かった明るい元気な女性が、小さく、小さくなって、逝ったと言っていた。全身が痛みながら死を迎える辛さなんか、想像できない。生身の肉体を持つ、ということは、痛みからは逃れられない、痛みは誰しも折込済みなんだって、感じた。心の痛みも体の痛みも。一生、「痛み」を宿命的に持って生まれて亡くなる方も居るんだし、痛みなんて当たり前のモンに自分からとらわれていくのは、そういう方たちに対して申し訳ないですね。「甘え」と「シリアス」の境目は、自分にしか分からない線だけれど。 …明るい話を書きたいと思っているのに、どうしてもシリアスな話になってしまうなぁ。
2009.06.08
コメント(6)
短い期間のアルバイトをすることになった。どうせ、2週間だし、みんな適度に仲良くしている感じ。そういうものでしょう。一昨日は楽器屋に寄りたくて、昨日はバイト用の地味な安いパンプスが一足欲しくて、同じ方向に帰る人とは別々に帰った。3日間の研修期間が終わった今日の帰り道、同バイト仲間の一人が、♪みきみっきー♪さんに似てる友達が居て、なんだか♪みきみっきー♪さんに勝手に親しみを感じて、もっと話したいと思ってたんだ♪って、人懐こく話しかけてくれた。またねー♪って分かれたら、ついに3日間、一緒に帰れなかった女性がバタバタ反対側から走ってきて、いろいろあって、今日は一緒に帰れることになった。楽しかった。些細なことが嬉しくて楽しいと、全体的に嬉しくて楽しい感じになるなぁなんて。単純だなぁ…。
2009.06.07
コメント(8)
隣町まで散歩してくる。うちは住宅街だけれど、少し歩くと隣接している隣町。のどかな風景が広がっている。もちろん、田んぼや畑も、田舎のにおいもいいけれど、古い農家とか、ビニールハウスの中をチラ見したときがなぜか一番落ち着く気がする。時代を経ても変わらないという、大きな確たる何かが感じられて。途中の農家で「トマト屋」なるものを発見した。お店の中を覗いたら、本当にトマトだけしか置いていない。無人販売より大きな店構えだけれど、トマト以外のものは置いていない。女性が一人でお店番。お店があるって、みち行く人に心が開いている感じがして(勝手に)いいなぁと思う。お店の近くに、綺麗なよく手入れされた色々な種類のバラの花が咲いていて、勝手に、きっと優しい人たちが育てているトマトなんだろう、と思い込んだのかもしれない…けれど。トマト、好きな食べ物じゃないんだけれどね
2009.06.04
コメント(6)
ようやく、何となく、20年振りくらいに落ち着いてきた。「過去なんて、全て忘れちまえ」と言ってくれた人の言葉。自分や他人の愛し方を思い出そうと努力している私の、背中を押してくれた、私より10歳も若いバンドの男の子達。痛みを理解してくれる、新しい出会い。すねをかじっている私を住まわせてくれている親。おひさまは、雲は、風は、はっぱも、土も、私がどんな気持ちでいようと、いつも温かく見守ってくれるよ。だから、隣の町まで散歩にでも行って来ようかな。
2009.06.04
コメント(2)
わかってきた。…というか、分かっていたし、他人に言われていたけれど、理解できていなかった。私は私で良いんだということ。それを求めて、今まで30年以上試行錯誤してきたらしかった。私は私で良いと思えないから、他人は他人でよいと思えなかった。自分には自分にもわからないことがたくさんあって、他人にも分からない。他人が他人について何か言うときなんて、まさに適当の極致。褒め言葉も、けなし言葉も、慰めの言葉でさえも。。。。自分が望むとおりに自分のことを知ってもらうことが、“理解される”ことではなかった。誰も、受容なんてしてくれない。そんな義務は無い。自分が相手に対してしてもいないのに。受容されるためのルールも守っていないのに。今まで、迷走に迷走を重ねてきて、吐き出して吐き出してもちっとも胸のつかえがとれなかったのは、これが無かったから。何事にも理想が高くて完ぺき主義なところがあるから、ネガティブな感情や感覚や自覚を自分が持つことが、ほぼ無自覚に許せないでいた。そういう「未熟」な自分を自覚することすら許していなかった。痛くても、「痛くない」と、自分をいじめ続けていた。母もそんなタイプであることが判明した。だから、私に対してそれができなかった。淋しくて不安で怖いだけなのに「私はいま試練と戦っている」と置き換えていた。ゆえに、私の人生は何かと戦いっぱなしだった。中学生の頃コケたため、家族以外の人に受け入れられるか不安が付きまとっていたのに、「不安」に真正面から向き合えずに、大丈夫なことにしたり、逆に、オーバーに考えたりしていた。ちんまりと「不安を感じています」というのは、自分が思っていたよりも自分が小さい感じがして、タダでさえあやしい自分の存在感に自信が持てなくなりそうだったから。自分の全てを認められないから存在感が怪しくなるのに、そこから逃げつつ、誰かに「存在」を確認してもらいたがる、という、連鎖を続けていた。今までどおり、目標は持って努力は続ける。でも、できなくても、自分を責めすぎない。その前に、自分に、器以上の無理難題を課さない。最近、自分の思考パターンが分かってきた。他人を心の中で軽く扱いたい気持ちになっているときや、雑念が多い時は、不安や恐れを感じている時。自分の心の奥底に訊いてみると、原因が出てくる。他人を心の中で軽く考える自分が嫌い!って、自分を責めていたりしたけれど、そういう形で心が悲鳴を上げていた。不安の自己防衛のために、頭の中で他人を軽くして、相対的に自分を大丈夫にするわけだ。どんなときに不安を感じるかも分かってきた。自分の感覚や感情に素直に。そうすると、本当に、他人に心から優しい気持ちを持つ余裕が出てくるから不思議。そうすると、自信がなかった人間関係に、ほんのり自信と希望が見えてくるから不思議。自分を受け入れられないと、どんなに頑張っても他人を受け入れることができない。って、本当なんだ…。私が私でよければ、無理に頑張って仕事で成果を上げたり、外見に対して過剰に努力する必要も無い。ひとに何を言われても、これが真実なんだから。確かなことなんだから。「受容」が、苦しみのゴールだった。
2009.01.02
コメント(6)
家に帰る途中。霞ヶ関界隈を歩いていたところ、アラブ系の外人男性2人に呼び止められた。手にカメラを持っているので、撮影を頼みたいのかなと思い、近づいたところ、カメラを渡されるのでなく、カメラを持っていない方の男性と一緒に被写体として写れと指示された。即効で逃げました。ぴゅーっと。びっくりした。
2008.04.30
コメント(2)
昨日、上野の国立博物館に、薬師寺展を見に行った。(買い物ついでに。会社でタダ券をもらったので)今回は、日光・月光菩薩像、吉祥天像などがやってきた。東京の人たちはみんなあくせくしていて気持ちが疲れて癒しを求めているから、はるばる奈良は橿原の「薬師寺」から、来てくれたのかなぁと思った。東京人の疲れっぷりに、きっと見かねたんだろう。美術展とは分かっていながらも、やっぱり、仏像を前にすると、合掌したくなりますね。合掌したい、でも、美術展だし…って思っていたら、目の前のお姉さんが合掌していたので、勇気をもらって、私も合掌しました。
2008.04.21
コメント(4)
昔から、人と関わる仕事よりも、人を関わらない仕事が楽だと思っていた。人間はややこしいし、表面的に上手くやるので精一杯で本当は苦手。編集も、言ってみれば(取材したりはするけれど)文字が相手の、職人的な仕事。だから選んだのかも…。生物生態系のNPOの活動に参加したりしたのも、なんとなく、無機的なところがらくだと思って「私は人間よりも自然相手かな」と思ったから。昔、占い師にも言われた「あなたは、人相手よりも自然相手」みたいなことを。占いってつくづくいい加減だけれど。当たっていても、表面的なことばかり。でも、そうかな、最近思う。人のことよりも自分への執着が邪魔をして、人のことをまっすぐに見られない嫌な自分とまざまざと向き合う羽目になる。自分の心の願望にきちんと向き合って、願いをかなえる器というか、度胸と技術があまりにもなくて、だから、いっそのこと「人間レス」に。「温かい人」という言葉に軽く嫉妬を覚えて、そんなにアタタカイヒトが、この孤独を放って置くのよ、と僻んだり。本当は、すごくそうなりたいと思っているくせに。
2008.04.19
コメント(2)
浦和REDSの試合を見てきた。正直、私は内向的な文系人間だし、スポーツにも興味が無いし、サッカーも身内が盛り上がっているのを横で見ているタイプだったけれど、今日、行ってしまった。そして、ハマりそうな予感がしている…。ここ5ヶ月ほど負けっぱなしなのに、少しも揺らぐことのない、サポーターの愛にやられた。折角、近くにホームのスタジアムがあるのだから、たまには見に行こうかな…。などと、考えている。浦和レッズ万歳。
2008.03.30
コメント(0)
高いところに置いてけぼりにされれば寂しいのはみんな一緒。和に入って孤独を癒やしたい安心したい気持ちも一緒。和に入れば、人間関係のゴチャゴチャが出てくるのは必須。あなただけが通った道ではなくて、全員がもれなく通る道。みんな一緒だから、優しくする。私は私、あなたはあなただけれど、私はあなた、あなたは私。笑われてもそのままでいいよ。
2008.03.29
コメント(1)
死を覚悟したことのある人間は、と言っても、思い通りに物事が運ばないとか、悲しすぎて逃げ出したい死とか、そういう甘えの延長のような死でなくて、ある日、何者か、自分の意志の及ばないものがいきなりもぎとっていくような…そういう種類の死の覚悟を乗り越えた人は、エゴというものに以前よりも拘らなくなることができるのかもしれない。自分は自分の意志で生きているんじゃない。生かされている。そういう事実を目の当たりにする瞬間だから。知人は、車の事故がきっかけで、自分の骨髄に不治の遺伝病があることが分かり、その手術は難易度が高くて、一つ間違えば、下半身不随とか自分でトイレにいけないとか、そんな局面に立たされたことがあって、折角結婚して、無理して家も買って、カミサンもできて、娘もできて、ローンもたんまり残っているのに、何で俺だけと、健康なヒトに嫉妬して、自分の運命を恨んで、でも、結局「これからは、家族のためだけに自分の身を捧げる」と言っていたのだが、その言葉がすごくズシンと来た。与えられた命と分かれば、制限された時間をいかにこなすか、と考えれば、毎日、自分の限界など考えずに必死で生きていくという生き方が出てくる。文明の中で普通に生きていることで、人間という動物として「普通に一生懸命生きる」ことができなくなっているけれど、こういう経験をした人は、気がつくことができる。皮肉なものだけれど。
2008.03.22
コメント(0)
自分の中に、仲良くして欲しいけれど、なかなか交じり合わない2つの感覚がある。それは、「あいまい」と「明確」という逆の衝動。中学3年の頃の日記をひょんなことからめくってみると、荒れた海のように些細なことで激情的になりやすい、それをもてあまし気味の自分の胸の内を言葉で整理しようとしたのかこんな風に書いている。『ゼリーのようなふらふらな崩れやすくもろいこころを、「言葉」というワイヤーで規定しなければ』そうすれば、形が無かった自分を「明確化」できる、コントロールできると信じていたみたいだ。いつしか、それはある程度特技になって、文章を書く仕事に進んだ。でも、その日記から約20年後、ブログにこのように書いている。『職業も、書く仕事を選んだ。心を言葉のワイヤーで規定する技術は発達したはずなのに、巻いても巻いてもどうしても包みきれない部分がある』それで、こんなブログを作って、ワイヤーに包んでもらえなかった自分をなんとかしようとしているそして結局、ワイヤーまきになってる。「明確化」が、はっきりしなさいよ、ちゃんとしなさいよ、つまり貴女はどうしたいと思っているの?つまりなんなの?要するにどうなの?やりたいならやりなさいよと、志向性を持ったエネルギーを得ようとすると、「あいまい」な部分が、どれも含めて、いろいろな思いや感覚が混沌としている状況のままたぷーんたぷーんと行きたがる。理想に向けて、それを現実に落とし込んで、それを守って目標に向けて日々を過ごそう、と考えるのは、高揚感があることだけれど、そのうち、そういうやり方に息が詰まってくる。かといって、「あいまい」に流れると何か物足りない感覚がつのってくる。明確にして方向性のあるエネルギーを得たい感じ、あいまいなまま、感じや感覚をあるがままに認めて行きたい感じ。もうちょっと仲良くなるといいな。
2008.02.16
コメント(2)
神様を信じるか信じないか。と、よく言うけれども、神様って、信じるとか信じないとかじゃなくて、存在する現実のものではないか。ただし、大きくて、私の日常生活の中に納まりきらない現実か、もしくは、小さすぎて日常生活に収まりきらない現実。ものすごく遠くから引いてみたり、ものすごくミクロの世界を見れば出会えるかもしれないけれど、普通の日常生活ではめったに実感できないだけ。頭の中でごちゃごちゃ考えても、所詮雑念。ふっと思い浮かんでも、所詮インスピレーション。だから、ものごとがごたごちゃしてるときは、何も考えずに、淡々と、目の前のことを丁寧に、気持ちを込めて、こつこつと、行うというのは一つのいい手なのかもしれない。私にとっては、だけど。現実こそカミサマ。そう考えると、日々がまた有難くなる感じがする。
2008.01.16
コメント(7)
目の前のことを解決しようという意識で居ると、ふっと、タイムリーな面白い本が目に留まったり、ふっと、タイムリーな面白い言葉を他人から言われたりする。それを参考に、問題に臨むと、問題が以前より小さく感じられたり、どうでもよくなるコツを得ることがある。でも、こうやってあまり順調に物事が良くなっていくと、不思議なもので、「何かうまく行きすぎではないだろうか。あんなに悩んでいた問題なのに」「こんなに上手くいくと、かえって怖い」「ダメダメな私が本当の私で、私らしさを離れているのではないか」と意味も無く不安になったりする。未熟な自分じゃ生きにくいから成長したいと思ったのに、一歩成長してみると、昔の自分が懐かしくて、変わる必要なんかないんじゃないかと思ったりする。勝手なものだ。さらに、どっちのスタンスが本当の自分のスタンスなのだ、と意味不明に難しく考え始めたりする。でも、今日、母を見ていて思った。自分の本心にたがわない方向性であれば、賢い考え方をするほうが良い。昔の自分を懐かしく思う気持ちは、古くて小さい、昔住んでいた家を懐かしむようなもので、ちょっと成長するということは、以前住んでいた家を引っ越して、以前より少し高台にあって、周囲が以前よりよく見渡せるほんの少しきれいで広い家に引っ越したということなのかもしれない。
2008.01.12
コメント(1)

時々「海に行きたい病」にかかる。そんなときは、東伊豆の伊豆北川温泉に行くことにしている。以前、「海に行きたい病」にかかったとき、まっぷるマガジン「伊豆・箱根・富士ベストプラン」のグラビアページでどーんと海に面した公共露天温泉「黒岩根風呂」を目にして出かけて以来、すっかり病みつきになってしまった。以前は日帰りで決行したために、相当余裕の無い工程になったから、今度は泊りがけで行こう。折角泊まるなら、露天風呂から日の出を見ちゃおうと言うわけで、「汐見荘」にお世話になって一泊二日の旅行をしてきた。伊豆北川温泉は、東伊豆の中ほどにある、繁華街も無い小さな猟師町。JR伊東線の伊豆北川駅を降りたときの第一印象は、寂しいところだな、だったけれど、なぜか、宿に向かって歩いていくうちに、何もないところだけれど、やさしくて、繊細で、温かい雰囲気がどんどん感じられて、すっかりここが好きになってしまった。お世話になった「汐見荘」は、大きなリゾート旅館と違って、家族で経営している温かい、どちらかと言うとこじんまりとした旅館。客室が5室だけの小さな旅館だけれど、建物はしっかりした感じで、中は広々と開放的で、明るくて清潔。家族経営だけれど生活臭が無くて、小さなところまでおもてなしの気持ちが行き届いている、すっごく嬉しい旅館でした。お値段もリーズナブルでした。旅館としては、本当はこの時期に一人宿泊は避けたいと思うけれど、「お一人様はちょっと…」とほかで断られた私を泊めてくれた、すごく親切な旅館さんです。料理も、一皿一皿丁寧で、皿数多くてとっても美味しかった!この写真の料理の倍以上出てきました。海向きのお風呂と、山に面したお風呂の2種類あって、どちらもとても良いお風呂でした。伊豆北川温泉 汐見荘お目当ての海露天温泉「黒岩根風呂」は、旅館から5分ほど歩いたところ。北川温泉の旅館利用者は、無料で入れて、お風呂だけのお客さんは600円かかります。町営露天風呂です。まず、チェックインして早速、ひとっぷろ。日が沈むまで2時間くらい入りました。そして、お目当ての朝風呂。露天風呂のオープンが朝6:30なので、今頃の日の出時刻(6:40頃)より早くお風呂に入れることになり、お風呂から日の出が見えるんですね。これは、行くしかないでしょう。絶対に見たいと思ったので、まだ暗い、漁師さん以外誰もいない静かな温泉街を、ダウンジャケット着て、下駄を履いて露天に向かって歩きました。朝、6:17の写メ画像です。真っ暗です。寒い寒い!お風呂に行くと、10分前にも関わらず、すでに大勢の人が!しまった。もっと早く来ればよかった。でも、幸い良い場所が確保できて、1月6日の日の出を見ることができました。日の出前。向こうに見える島は大島です。海の波って、見ていると、ピアノの音色を思い出すんですよね。太陽が水面から離れていくたびに、波に反射する「きらきら」の色や光の強さが変わって、とっても綺麗でした。丸の内のイルミネーションなんかメじゃないです。30分後…カメラが携帯のカメラなので、真っ赤な太陽が写せなくて残念!!今日は、ここのところでまれに見る、日の出がきれいに見えた日、だったそうです。おじちゃん、黙って撮ってゴメン。大自然、というと「山」を連想しがちだけれど、「海」も、大自然なんですよね…。夜の暗い海や、空に浮かぶ細い月や、波の音や、優しい大気や、大きな太陽に、これほど癒されるとは思いませんでした。
2008.01.06
コメント(8)
ひとを愛する。私にとっては簡単じゃない。自分が傷つくかもしれない恐れや傷つく痛みを超えて、否定されることにうずくまらないで、受け入れられない恐れを超えて、それで、愛することができるんだ。他人の些細な言葉に傷つく。一生懸命やっても、悪意にしか取らない人が居る。そしてそれを、遠巻きに眺めるだけの人も多い。でも、そういう人を逆に観察してみる。優しい気持ちが沸きあがるといいな。そうしたら、私の勝ち。できそうな気がする。本当に憎むべきひとなんて、この世にいないのは分かってるから。みんな怯えているだけだから。
2007.12.29
コメント(3)
私は弱いと思う。しかも、それを、あまり認めたくないと思っている。ほうっておくと、自己欺瞞に陥りやすい。そして、目に見えるものの中に、普段隠している弱さや恐怖を見つけ出しては、いつも戦っている。何と?自分の弱さと。以前、「白八は何と戦っているの?」といわれた。剣を構えて、現実の中に自分の弱さという敵を見つけ出して。でも、それは敵じゃなくて自分自身。いかに、本当の弱さを守るための分厚い鎧を、自分自身とカンチガイして生きていたか。
2007.12.18
コメント(0)
べつにロマンチストじゃないんだけど。海に行って、無意識的にしている自分への嘘をしなくても良いときとか、ピアノをがーっと弾いて、我を忘れるくらい熱中したとき、必ず「涙」が出る。感動して、とか、感極まって、とか、そういうニュアンスとは違う。甥っ子が、発育が悪いと保健婦さんに言われた。母親である妹は、心配で心配で、やつれてしまっている。こんなに小さい子なのに、なんで、そんなこと言われて苦労しなければいけないのかって、思う。何の悩みもなく、摩擦なく、幸せに生きることが、3歳児ですら、私たちはなおさらできないと思ってしまう。どうしてかな。目をそむけて見ないようにしている人も居ると思うし、実際よりも大きく感じすぎる人も居るだろうし、賢く考えて、荷物を前向きな気持ちで背負う人も居るだろうし、でも、みんな何かしら背負っている。なぜ背負ってるんだろう。はじめから背負ってこなければ、重さにあえいだり、怯えたり、頑張ったりしなくてすむのに。そういう風に考えると、哀しくて、いとおしくてたまらない気持ちが沸いて来る。それで泣けてきてしまう。
2007.11.29
コメント(4)
わたしは獣なんだ。生きるための本能にいつも捕らわれて、悩まされる。怖い、生きたい、食べたい、なにごとにも有利でありたい・安全でありたい。これは、いってみれば、獣であることにくっついてくること。受け入れるしかない宿命を嘆いたり、恥じたり、かなしんだりしてる。でも、逆の部分もある。それは、たとえ自分に益にならなくても、有利であることを放棄しても、獣の衝動に逆らっても、美しいことをしようとする。
2007.11.24
コメント(0)
またまた3歳の甥っ子が来ている。小さい子が来ると、家の中が本当に明るくなる。朝起きたときの空気が違っている。会社から帰ってきたときの空気が違っている。小さい子って不思議だ。
2007.11.17
コメント(0)
「愛」とか、そういう抽象的なふわふわしたものについて考えることじゃないよな。そういうもんにあこがれるほど、ワタシはその逆の何かにあえいでいる、ということは理解できるけれど。
2007.11.15
コメント(0)
私は私。他の人は他の人。たとえ、他のヒトに攻撃されたとか、傷つけられたという気がしても、これだけ良くやっている、とても大事なかけがえの無い私の魂は誰にも傷つけることができない。私が私の感情と感覚を守る。大切にする。他人に対する調整・弁護役をやる。でも、そういう言葉を向けてきた人の気持ちになって、いろいろな面から解釈してみる。他人の言葉にはミミを貸す。他人の言うことをしっかりと聞く。人を大切にする。年齢の割には傷つきやすいと言われる私の、気持ちの持ち方。そして、いつも、こういう決心をすごく強いパワーで挫こうとするもう一人の私のささやきは、こんな感じ。「お前はそのように思うが、真実はお前の思いもよらないところにあるかもしれないぞ。盲目で無知のまま、『自分を守る』という大義名分で、もしかしたら他人に知らない間に迷惑をかけていたら、その責任をどう取るつもりだ?お尻に穴の開いたスカートを履いて最高の笑顔で歩くように、最悪の恥をさらしているかもしれないぞ」そう、『無知』『恥』って言う言葉は、私にとって、心の深いところでとっても残酷に響く言葉なんだ。生まれてこのかた、わりと、お勉強はできるほうできたはずなのに、なぜか『無知』ということに、深いコンプレックスを持っている。好きになる男の子も、何となく賢そうな子ばかり。『自分には知恵が足りない』という意識がどっかにある。どっかに。
2007.11.12
コメント(0)
本当は、のびのびとじっくり集中して丁寧に生きたい。縦割りの世界なんて正直あっていないと思う。泣きたいときに泣いて、笑いたいときに大声で笑いたい。弱いところも強いところも、全部丁寧に表したい。ずっと、優越意識に拘って生きてきたハズのに、なぜか、黒人の歴史みたいな、虐げられた魂が踊りや歌で自己表現する様子にぐっと来る。すごく共感する。歌とか、ピアノで、できるだけ、言葉にできない部分を表現したい。実際昔は、唯一ヒトに注意してもらえる分野だったし。ヒトに優しくしたい。でも、時々自分のことで頭が一杯になることを許されたい。
2007.11.11
コメント(0)
早く早く、早くしないと愚図で無能な人間みたいに自分とか人が思って自信がなくなっちゃう。早く決めて、早く行動して、サッサと、早く、早く!!何で、私に対してなんか張り合ってくるの?私はアナタなんて興味がないんだけど。目立つ?知らないよ。勝手に言っていて。え、成績が良くて、元気が良くて、色々なことが器用にできると、男の子にももてないの?好きな子にも。私だってね、本当に強いなら「悪い?」って言えるけれど、すごく、すごく、傷つきやすいところだってあるんだから…。でも、いつもみんなが元気だって言うから、期待に応えなきゃいけない気がして、心が揺れたって、そいんなこといちいち顔に出さないだけなんだから。でも、振り向いてもらえないなら、私は私の強いところなんて大嫌い。女のこ達にも、こういうところは都合のいいように利用されているみたいだしさ。人を比較の品として持ってきて、「自分はおんなのこらしいの」って。生きるうえで損した気分になるんだよね。私だって、傷ついたり、落ち込んだり、気持ちに振り回されたり、するんだから。もう、自動的に明るく振舞うようにインプットされている自分が嫌い。これでは、自分の全部が誰にも伝わらない。傷ついた。みんなが私のことを傷つけないように、一分の隙もないくらい「弱強い人」でなきゃ。誰も批判することができない、誰も私を傷つけないように、まず、私を傷つけるタイプの人間を克服しなきゃ。そういう人と仲良くできるようになれば、多分、人間関係で傷つくことはなくなる。そういう「批評家タイプ」が、傲慢に、他人のことをけなしたりしたら、私も合わせて、つんと澄まして「そうよフン」って、言わなきゃ。さらに、その上を行く、面白い批評をしたほうがいいかな?何か、心が辛いけれど、そうすれば地味とか面白くないって言われないで生きていけるもんね。ちょっとくらい、自分が我慢したって…。えっ、今の発言は傷ついたけれど、このくらいで傷ついたら、きっと「なんだこいつ、だせー、イモーい」って言われて、見下されて、自信がなくなっちゃうから、顔にも出さないようにしないと。っていうか、それじゃ、自分は惨めだということを知っていて自己嫌悪するから、自己嫌悪すらしないように、都合の悪いことは奥に閉じ込めてしまおう。あれ、でも我慢しすぎたら、どれが自分の感情だか分からなくなってきちゃった。私は何を感じているのかな。なんか、不都合なことを感じているような…。まあいいや。今さえ良ければ。今風の自分って、きっとこんな感じだよね。過去にいろいろ嫌なことがあったせいで、すっかり自信がなくなってしまって、それを見返すため、絶対に失敗しない、ハッピーな人生を送りたいから、占いを利用して運の流れを知って前向きに人生を送ることにしよう。占いによれば、私はこんな性格みたいだから、それを、今風にアレンジして、こうすれば、きっと誰もが「おしゃれな人」って認めてくれて、仲間はずれで寂しい思いをすることはないよね。ん?占いにこう書いてあるけれど、私の性格はそうじゃないかな?まぁ、いいや、占いが言うから間違いないんだよ、きっと。ほーらやっぱり当たった。誰も私を嫌わない、否定しない。ヤッター。何?私のダサくて激情型で思い込みが激しくて気が短くてマジメで面白くない、勝気でイモい本性に、気づきそうな人が居る!怖い!離れないと、折角築いた、生きていくための私のイメージがめちゃめちゃにされてしまう。でも、周りに居る子たち、どうも、落ち着かないんだ。なんでだろう。一緒にいても、奥底でどんどん暗い気持ちが募るの。何でかなぁ。努力して惨めな自分は脱却したはずなのに。傷つけられることはなくなったけれど、雪のように、冷たいくらい気持ちが積もっていくのはどうしてかな。
2007.11.11
コメント(0)
いま、目の前に、水玉のタイツを履き、ピンク色のバックに、シュールな豚の絵柄の銀のCD入れに、肩にボリュームがあるジャケットを着た、普通の格好をした女の子が座ってる。彼女がどんなハートを持ってるか、どんな子なのか分からない。きっと、銀色の豚ポーチはお気に入りなんだろうし、フレンチカジュアルなファッションは、なかなか考えられているんだと思う。でも、パッと一瞥しただけで、彼女を小馬鹿にしたような、そのがんばりを冷笑するような、そんな気持ちが沸き起こってる。むかし、私のような誰かに、真剣にやっていることを批判されて、かなり傷ついて、批判の中身を鵜呑みにして、そのレッテルから逃れたくて、彼らが「よし」という人間になるための努力をしていたことがある。大切な自分を、そんな浅薄なやつらに差し出した。自分が生きるために、罪のない人を頭の中でないがしろにした。心臓がどきどきした。静かに鼓動に耳を傾けると、気持ちが興奮してる。なぜ興奮したか。罪悪感で。彼女に対する。そして、自分の魂に対する。批評家になることで、自分を攻撃したと思い込んだ相手からの攻撃をかわして安全な場所に来れたと思った。でも実際は、私の魂にすごく申し訳ないことをしていた。自分自身が、これほど偽り難いものかと知った。生きるためには、他人の尊厳も、自分自身も二の次になる自分。しかも、こんなことにマトモに引っ掛かってる自分。
2007.11.11
コメント(2)
「オペラって、なんか、中途半端だよね。クラシックという一つの世界をバックに、歌という全く別の世界をぶつけて、もともとは、大衆娯楽なわけでしょ。下手なオペラなら、映画の方が面白いよ…」…と、ものすごい勢いで自分とか他の人に言い訳をしながら、トゥーランドットやマリア・カラスのカルメンを聴いて、すごくドキドキしている自分。
2007.10.31
コメント(0)
私は悪くない!と両親に向かって叫ぶ。でも、無駄だった。お母さんもお父さんもすぐ悪い子って言う。悪い子って言わないで。わたし、悪い子じゃない。でも、私が悪いことをしたんだからしょうがないと分かっているけれど。でも、悪い子って言わないで。どうせ私なんて。かわいい、いい子だって言われないよ。もういいよ。ふーんだ。学校では先生の信頼が厚かったけれど、ホンネの顔は、憎まれっ子。この「消えた憎まれっ子」は、私の中でどういう役目を果たしているんだろう??私はこの子となかよくなれてるのかな?
2007.09.26
コメント(0)
まえまえから思っていたけれど、どうしてもこの連休に海に行きたくて我慢できずに、急にひとりで伊豆に出かけた。「海絶景が楽しめる波打ち際露天風呂」の、黒岩根風呂なる温泉を満喫して、嫌なことなんて吹き飛ばしてしまおう、と思って出かけ、伊豆急に乗って伊豆北川駅で降りたら、そこは、淋しい、でも優しい雰囲気の漁村だった。海を見ながら温泉に浸かって、波の音を聞きながらボンヤリしていたらきっと気も晴れるだろう、と思っていたのに、逆にどんどん封じていた弱さが吹き出してきた。すっぱだかで、気持ちがよいお湯に包まれて、優しい波の音を聞いていると、家や職場みたいに、生きるために明るく強がっている理由が無くなって、普段深いところに押し込めている弱さが主張をはじめてしまった。海でどんな自分に会えるのかと思ったら、泣き顔の私だった。「弱さ」というものを扱い慣れていないから、なぜ泣きたい気持ちなのか、そんな気持ちが潜んでいるのかぜんぜんわからない。ひたすら泣きたいだけの気持ちを海に捨てた。海を見たせいでセンチメンタルになって悲しいんじゃなくて、海が、「誰も見ていないから無理しなくていいよ」と言ってくれた気がして、溢れ出した感情。意味がわからないけど、殻の下は私のもうひとつの核心部分。これがもうひとりの真の私なら、普段の異様に強い私は何だろう?でも、それも自分の一面。強すぎたり弱すぎたりバランスが悪いなと思う。吹き出してきた感情は、ず-っと前から、私の奥底に潜伏していた感じ。うまく言えないけれど、こんな感じ。「わからない。どうしたらいいの。誰かに力になって欲しい」そういうことに伴うなにか。誤解に対する苦しみ。なんなのかわからない。でも、とても大切なこと。
2007.09.23
コメント(0)
寧ろマネーの世界に興味がなく、環境保護について自分で熱心に勉強していた学生が、就職を機に、ぴたっと活動をやめ、一転、起業を目指してマネーと製薬メーカー向けのソフトの勉強にいそしむようになった。理由を聞いたら、「環境も大切だけど、まず自分が生きていけること、食うことが第一ですよね」かと思えば、バリバリのビジネスマンが、ふとしたことをきっかけに環境問題に取り組みはじめたりすることもある。他人が「いま、こういうことに興味を持っている」と言って、それが、自分がとうの昔に飽きたり、卒業したと思ったものだと、つい「フーン(いまごろ、その良さに気付いたのか…遅いよ)」って、わたしは思ってしまうのだが、これを勉強したから、次はこの勉強、それが終わったから次の勉強、なんていう「勉強の順番」は、良く考えたらないのかも。A面からB面に行っても、B面からA面に行っても、新鮮な気付きとともに、両面を勉強したことは変わらない。
2007.09.23
コメント(0)
大学時代の友人知人と6人ほどで都内のお寺に坐禅にいってきた。そのお寺は、曹洞宗のお寺で、月曜日だけ初心者のために道場を開放している。黒い僧衣を来た雲水の人たちがものものしく歩いている様子を見てると、はじめは友達に誘われててれーんと参加したものの、そんな気分はどこかに吹き飛び、いつのまにか、全員、緊張で顔が堅くなった。手には、例の「バチーン」と叩くための棒が握られている。ひー…。30分、40分、と、部屋を変えて2回に分けて座った。すごくすごく緊張して臨んだわりに、蓋を開けたら、隣で座っていた人のやる気の無さに気が散ったくらいで、思ったよりもちゃんと座れた。坐禅を終えて気がついたこと。最近、自分の欠点ばかり睨み付けて、不安になりすぎていたかなぁ…ということ。もっと、「なんとかなる」って思ってもいいかなぁ。苦手意識が強いコミュニケーションだって、そもそもの苦手意識が強すぎるし(実際にはそんなに苦手じゃないかもしれない)、やってみてダメでもいいかもしれない。苦手ということは、可能性がある分野、ということだし。そのまま苦手でよい、とほうっておくのもよし、でも、そんな風に考えてもよいかもしれない。それから、自分を愛せること=他人を愛せること?そんなことを考えた。100円の成果はあったかな。
2007.09.17
コメント(2)
「認めて」という心の叫びがあるみたい。それは、仕事で褒められることもそうだけど、もっと根源的な部分も含んで。「私自身を受け入れて」。いままで、そんな風に自己主張する人に、嫌悪感を感じていた。会社の同僚が、障害を持つ子どもを放ってまで仕事に来ることにも嫌悪感を持っていた。「だって、わたしは子育てとか向いていないから…。家に籠もって子どもたちと過ごしていたら鬱になっちゃう。仕事をして、仕事で認められることはストレスを溜めないために必要なこと」だから、子どもをストレスのはけ口にして殴ったり、会社に来て私や上司に八つ当たりしても仕方が無いということらしい。当然、子ども達は異常行動をしたり、やたらと体調をくずしたり、SOSサインを出す。子ども達には、あなたしかいないんだよ?子どもは、あなたが死んだ後も生きなきゃいけないんじゃないの?どうなの??彼女に対してそんな風に思っていた。でも、わたしが先日体調を崩したのは、「認めて」が満たされない、というのが根本にあったから。仕事で褒められない、ということではなくて、誰も自分の存在を知らないのではないか、このままずっと淋しいのではないか、という、大昔から深いところに横たわるような、「恐れ」。彼女の身勝手を一方的に責めていたわたしだけれど、彼女も、仕事で認められることと、障害を持つ子どもを必死で孤独に育てている自分を誰かに知って欲しい、という、深い「認めて」を摩り替えているだけかもしれない。そう考えたら、彼女を責められなくなった。
2007.09.16
コメント(0)
土日に、山のサークルの人たちと常念岳に行って来る。標高が2500m以上の山に登山として登るのは生まれて初めてだ。普段、運動の「う」の字も無いので多少、心配だったが、登りは、メンバーの気遣いもあって、高山植物を見ながらゆっくり上ることができた。夏の山は、きれいなものだらけで、山に感謝感激雨あられ。美味しい空気も、きれいな水も、色とりどりの高山植物も、本当にありがとう…思わず「幸せ~」などと声に出して言ったら、メンバーに「そんな白八さんが心配」と心配されてしまった。でも、そのくらい本当にシアワセでした。どうも、下界に居ると、「ピュア」を感じさせるものに素直になれない。けれど、普段そんな感じに考えている「ピュア」が自分の中にあることを、山で見つけたりする。自分の中に眠っている、未熟で晒せない、無防備な「ピュア」を。
2007.08.08
コメント(2)
途中からしか見ていないけれど、チーズ職人さんの厳しい仕事の様子を、打たれ弱い学生が見学している様子をやっていた。「なぜ、あんなに厳しく言うのか」という学生さんの質問に、チーズ職人さんは「俺達は、君達より先に死んじゃうんだよ。君達に、俺達がいなくなった次の時代を支えて貰わなければいけないんだよ。だから、強くなって貰わないと困るんだよ」と、言っていた。思わず、学生さんと一緒に「そうだなぁ」と学んでしまった。私達が世の中を支えていかなきゃいけないんだ…。こんなブログ書いている場合じゃないかもしれない。以前、産業医のカウンセリングに通ったりしていた頃、先生はこう言ってくださった。「昔は、がんばらなきゃいけない時代だったけれど、今はがんばらなくていい時代になったんだよ。○○をしなきゃいけない、あれをしなきゃいけない、考えないで、もうちょっと適当に生きてごらん。法に触れなければ、何でもありなんだよ、今の時代は」過労でへとへとだったその時の私には、必要な言葉だった。以前からよく聞く話だけど、そうなるまで、自分には関係ないと思っていた「会社」っていうシステムの目的。「利益を追求する存在」ということ。どんどん価格破壊していく、金銭感覚が無いお役所の広報費の世界で、いちばんの安値で営業がとってきた仕事からさらに20%営業に持っていかれて、書類上でしか利益が出ていない仕事を、薄利多売でこなす。担当が倒れても、次の人を入れるだけ、法律ギリギリのことをしなければ採算が合わなくなっても、ばれなければいい。余裕のある資本主義の世界はいいけれど、伸び盛りの会社だったとはいえ、それゆえに余裕が無い資本主義の世界は、当然、こうなるんだ。判っていたはず。みんな余裕が無くて、産業医の先生みたいな、母性的な考え方が幅を利かせている。「がんばらなくていい」「参っている他人に『がんばれ』と言ってはいけない」「弱くったっていい」。自分も、こんな言葉にたくさん助けられた。今と昔は、時代が違うのは判っている。昔は、きっともっとゆとりがあったのだと思う。でも、みんなが疲れすぎて、「いいんだよ」ってみんなで言い合って、「鬱」や、精神的な分野の「~シンドローム」とか「~障害」という言葉があちこちで聞かれるようになって、時に印籠のようなものになって、…自分だって、そういうメに遭った人間の一人だから、辛さはわかるつもりだけれど、でも、昔の人は、もっと強かったんだろうな、と、つい思ってしまう。「しっかりしなさい」という言葉は、弱っている人を追い込む言葉というイメージが強いけれど、本当は「一人でも生きていける、次の世代を担える人間になるために」「貴方の中に眠っている力をもっと引き出してみてごらん、きっとできるから」という、愛に満ちた言葉だったはず。許しすぎ、許されすぎて、本当はできることまで出来ない人間がたくさんできてしまわないかな。全体的に弱くなってしまわないかな?
2007.07.21
コメント(2)
このあいだ、Google Earth なるものをダウンロードしてみた。バーチャル地球儀というか、旧式のMYパソコンでは、あんまり細密に見られないけれど、地面に接近すれば、木立の様子や海の浅瀬の水色なんかがリアルに見られ、フェードアウトすれば、宇宙に浮かぶ地球が見れるという、ちょっとオモシロイ代物であった。接近したときの画像は、多分、航空写真(を貼り合せている?)ので、本当に空から地球を眺めている気分になったりする。これがきれいで、なかなか癒されるものがある。ずっと眺めていると、地上にあるものは、みんな「ありがとう」で出来ているのかなーなーんて気になってくる。普段、あらゆるものに感謝する意識がなくても、この美しい(バーチャルだけど)物体は、「ありがとう」がなければ成立しないのかなー。いろんな生き物の、よきもあしきもいろんな面をきらきら輝かせながら、地球はぐるぐる回り続けてて、でも、地球に生を受けたからには、他に依存しないと、「ありがとう」がないと、地球に居られない仕組みになっている。というか、個体は、地球という一つの生き物の、臓器みたいなモノなのかもしれないけれど。生まれたときから、何もかもが「ありがとう」ベースにプログラムされている。りんごはりんごらしく、スイカはスイカらしく、貴方は貴方らしくなんて、自分を見失ったときによく言うけれど、植物を見ていると、本当にみんな「私は松よ」「私はヒマワリよ」と、何の疑いも無く松全開、ヒマワリ全開で生きている。あるがままの謳歌、というか、それが「ありがとう」なのかな。それが、地球が美しいのは、それが無数に集まった宝石箱だからなのかな。上手くいえないけれど。
2007.07.18
コメント(2)
全60件 (60件中 1-50件目)


