JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.04.26
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カテゴリ:
「ウィリアムアダムス・三浦安針墓(安針塚)を訪ねる」をアップ中ですが、昨日4月25日(木)の
早朝に、車で10分弱の地元の白旗神社に藤の花を愛でに車で行って来ましたので、本日は
これをアップします。

境内に車を駐め、まずは境内の奥にある 紫の「弁慶藤」 に向かう。。
ここ「 相州・藤沢 白旗神社 」は、奥州平泉で最期を遂げた源義経を祀る神社。
伝承によれば、 義経と弁慶の首は鎌倉の腰越の浜で首実検が行われた後、2つの首が
ここ白旗神社に飛んで来た



正面の藤棚に紫の藤の花が満開に。



1m余りの花房を幾重にもつけ見事な「 弁慶藤 」。



「藤」の原産は日本で、本州または四国から九州の比較的温暖な気候である林に見られる。
平安時代からは、観賞用として庭園でも育てられて来た。
そして現代では、つる性の特性を活かして藤棚となり、公園や遊歩道でも楽しまれているのだ。





これぞ「藤紫(ふじむらさき)」の色。
藤紫とは、藤の花のような明るい青紫色のこと。
平安の頃より女性に人気の高い『藤色』と、高貴な色の象徴である『紫』を組み合わせた色名で、
藤色よりも紫みが強い色。
藤紫が染め色として登場するのは江戸時代後期とのことだが、明治期の文学作品や美人画などに
数多く見られることから、明治文化を代表する色名の一つといわれていると。
また、「藤紫」は大正浪漫の女性を虜にしたことから「大正藤(たいしょうふじ)」とも
呼ばれたのだと。











左側に廻り込んで。
『万葉集』にはフジを詠んだ歌が題詞を含めて28首あるのだと。次はそのうちのひとつだ。
「須磨の海人(あま)の塩焼衣(しおやきぎぬ)の藤衣(ふじころも)間遠(まどお)にし
あればいまだ着なれず」
フジの繊維は織り上げると白い衣となったが、ゴワゴワして肌触りが良くなかった。
庶民の仕事着とされたり喪服として着用された。取り上げたこの歌では須磨(すま)の浜
(現・神戸市須磨区須磨海岸)で塩をつくり出すために働く漁師の作業衣とされているが、
和歌を詠みながらも、まだ着心地が悪いと愚痴をこぼしているのだと。
そして大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだ歌。
「わが屋戸(やど)の時じき藤のめずらしく 今も見てしか妹(いも)が笑(え)まひを」
奈良時代には山野の藤を観賞用として家の庭などに移植する技術が普及していたことが
うかがえると。
藤の木から垂れ下がる花房が芳しい香りをあたりにただよわせ、花房のまわりに蝶やクマバチが
羽音をひびかせながら乱舞している。平城の京の街中にある家の庭にはそんなフジの花が咲いて
いたことであろう。



我が 藤沢市の市の花「藤(フジ)」



そして「藤」の字を持つ名字は種類も数も多い。
桜や梅ほど花の美しさが評価されない藤が、なぜこれほどまでに名字や地名に用いられて
いるのか。それは日本人の生活文化のなかに藤が深くくいこんでいるということだ と。
藤原・藤田・佐藤・武藤・近藤・尾藤・首藤・安藤・伊藤・後藤、進藤・斎藤・加藤・・と。


近づいて。



風に僅かに揺れて。



藤棚にが 2本の老木 が。



そして「弁慶藤」の右横にあったのが「芭蕉の句碑」。



「草臥て 宿かる比や 藤の花」。
貞亨5年(1688年)4月11日、『笈の小文』の道中大和八木で詠まれた句。
文化2年(1805年)3月、以足建立。以足は江戸の人。別号牛文庵。
碑の裏に以足の句が刻まれている。
「東路や華にくるまる鈴の音」
ここ藤沢で詠まれた句ではないが、ここ藤沢の「藤」にちなんで建てられたものであろう。
この句は『猿蓑』にも収録されている と。



芭蕉句碑
草臥て(くたびれて) 宿かる比や(ころや) 藤の花 文化ニ年建 」と



再び右側の藤棚。



左側の藤棚。



そして次に「社務所」前にある 純白の藤の花「義経藤」 を訪ねた。
「弁慶藤」に比べて一週間ほど遅れて見頃になるのです。



こちらは未だ三分咲きか?



純白の藤の花「 義経藤 」。



義経藤 」。



今年の「義経藤」の開花は例年よりもさらに遅く?



こちらも満開になると白房花が1m近くに。



藤棚全体を撮影。



神事の舞台会場。



藤沢市指定重要無形民俗文化財
湯立神楽
白旗神社を中心に神官により継承されている神事芸能。湯立てを伴う神楽で、湯花神楽、
鎌倉神楽等の名称で、藤沢、鎌倉から三浦半島一円におよんでいる。古くは、関東一帯に分布
したとされる神代神楽を源流とし、鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の神楽男が伝承し、次第に近隣に定着した
ものとされる。「湯立て」という神事手法に組み込まれた神楽には品格があり、舞にも洗練された
ものがある。演目は十一で打囃子、初能、御祓、御弊招、湯上、中入、掻湯、大散供、笹の舞、
弓祓、最後の剣舞・毛止幾で神人共楽の内に終了する。
  白旗神社神事 十月ニ八日
   平成ハ年三月一日指定

               藤沢市教育委員会」



おみくじ掛け 」。



一の鳥居 」。
日本初のグラスファイバー製 の「大鳥居」であると。
高さ8m、幅6mの明神鳥居で、昭和59年12月に建立された。
地震対策のために軽量で耐久性のあるグラスファイバーを取り入れ、建設時には
新聞、テレビ、週刊誌等で報道されたのだと。



向かい合うようにあったのが「 源義経公武蔵丸弁慶公之像 」。
この「源義経公武蔵丸弁慶公之像」は2019年(令和元年)10月竣工。
源義経公没後830年の「​ ​記念事業 ​​」👈リンク の一つとして建てられたのだ。



「義経公・弁慶公の御首は、文治5年(1189)6月13日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀に
乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の首塚は、現在の位置より北に40メートル、
当社から南に150メートルの場所にあり、その御霊は当社に祀られました。
一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺内にあり、その御霊は常光寺内の八王子社に
祀られていましたが、現在は塚のみを残しています。一般的に神社は南向きか東向きに
建てられていますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を
向いていたため北向きに建てられていたと謂います。
此度、令和御大典の嘉年と主従役儀830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵丸弁慶公の
銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。」



馬に乗る「 源義経公 」をズームして。
平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。
鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。



そして「 武蔵丸弁慶公 」。
武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。



拝殿への階段手前の右側には石碑が並んでいた。
右側から「御大典記念 永代御供米三俵 藤澤米穀肥料商組合」と刻まれた石碑。
次に「八海山大神」と刻まれた石碑。
次に「御嶽大神」と刻まれた石碑。
そして一番左に 「三笠山大神」と刻まれた石碑。



そして白旗神社のお参りに向かう。
拝殿への石段。



白旗神社
御祭神 寒川比古命 源義経公
配神  天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命
由緒
古くは相模の国一の宮の寒川神社の御分霊を祀って寒川神社と呼ばれていた。
しかし、くわしくはわからない。
鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、
文治5年(1189年)閏4月30日、奥州(岩手県)平泉衣川館において自害された。
その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は腰越の浦に着き、
和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、
首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。
このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、
義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として
祀られた。」



歌川 広重 東海道五拾三次の内 藤澤 遊行寺
藤沢は遊行寺の参詣者が多く、江ノ島への分岐点として賑わった。
遠くに北条時宗の本山、遊行寺の伽藍が描かれ、その右手にある家並は道場坂の存在を示し、大鋸橋を挟んで、江ノ島弁天の鳥居がある。お参りをすませた人々が山門をでて橋を渡り、
鳥居をくぐろうとしている。



そして拝殿への階段手前の左側にも石碑が並んでいた。
江の島弁財天道標が一番右に。道標の横には、20数基の庚申塔群があった。
正面に「えのしま道」、側面に「一切衆生」「二世安楽」と刻字されていた。
杉山検校が江ノ島弁財天に祈願し、成就したお礼に藤沢宿から江ノ島まで48基の道標を建てた。
10基が現存し、そのうちの1基。
昭和41年1月17日藤沢市重要文化財 に指定された。



藤沢市指定重要文化財となっている「 寛文五年庚申供養塔 」。



市指定重要文化財 寛文五年庚申供養塔(有形文化財)
庚申信仰は十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、
徹夜で無病・息災・長寿を願う信仰である。
「人の体内にいる三尸(さんし)虫が、庚申の夜、天に登ってその人の罪過を天帝に告げるため
生命を縮められる」とする道教の教えに由来している。
この供養塔の中央上の梵字は釈迦如来(主尊)、続く八字ナムアミダブソワーカーの一呪、
下の梵字はここでは青面金剛を表している。
猿像の脚ぼその彫刻は、江戸時代初期のものに見かけられるものである。
江の島弁財天道標(建造物)
その昔、杉山検校が「多くの参詣者が道に迷うことがないように」との祈念から
建てられたものと伝えられる。もとは四十八基あったといわれ、現在は十基が
残存している。いずれもほぼ同型で、この道標も尖頭角柱形の三面に「一切衆生」
「ゑのしま道」、「二世安楽」と刻まれており、造立者の温情がしのばれる。
 昭和四十一年一月十七日指定
                   藤沢市教育委員会」



拝殿への石段を上り参道を進む。



左手に「 絵馬掛所(えまかけどころ) 」。


「絵馬」を追う。
令和六年 絵馬 」。



心願成就 絵馬 」。
白旗を掲げて馬上の源義経公。弁慶の姿も。



初宮詣」絵馬



「七五三詣」絵馬。



「合格絵馬」絵馬



左側には義経公に纏わる「 齋源義経公鎮霊碑 」があった。
白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を
象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。



拝殿前の最後の石段を上る。



拝殿 」。
白旗神社がいつごろできたのかは定かではないが、鎌倉時代より以前から、相模国
(神奈川県あたり)にある寒川神社の神様・寒川比古命をお祀りして、同じ名前の寒川神社と
呼ばれていた。
文治5年(1189)閏4月30日、源義経公は兄源頼朝から怒りをかい、追い詰められ、奥州
(岩手県)平泉の衣川館において自害した。その首は奥州から新田冠者高平
(にったかじゃたかひら)という者によって鎌倉に送られた。高平が、腰越の宿(鎌倉市)に
到着すると、そこで和田義盛・梶原景時によって義経かどうか確認された。
伝承では、弁慶の首も同時に送られ、夜の間に二つの首は、白旗川を上り、この地に辿り着いたと
いわれている。
このことを頼朝に伝えると、白旗が源氏の旗であったことから、白旗明神としてこの神社に
祀るようにと指示した。こうして義経公を神様として祀ることとなり、のちに白旗神社と
呼ばれるようになった。弁慶の首は、白旗神社のそばに八王子社として祀られることになった。
現在の社殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成 した。
本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は
江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。
昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置されたと。



近づいて。
主祭神
 寒川比古命(さむかわひこのみこと):相模国一宮の寒川神社の祭神。
 源義経(みなもとのよしつね)
共に祀られている神様
 天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
 大国主命(おおくにぬしのみこと)
 大山祇命(おおやまつみのみこと)
 国狭槌命(くにさつちのみこと)
 日本武尊(やまとたけるのみこと)



扁額「 忠友殿 」と。



源氏の家紋・笹竜胆 」が多数装飾されていた。



白旗神社の幟
「寒川比古命 源義経公 白旗神社」と。
寒川比古命(さむかわひこのみこと)は寒川神社の御祭神。









                    ・・・おわり・・・







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Last updated  2024.04.26 13:55:44
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