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「港八十三番地」沼津港の新鮮な魚介を使った海鮮丼や寿司、浜焼きバーベキューだけでなく、ベーカリーやカフェなど、10店舗以上の飲食・土産店が立ち並び、駿河湾の食を満喫できる沼津を代表するエリア と。特別な場所としてではなく、暮らしに溶け込んだ日常の一部でありたいという思いにより、この地の住所そのものから名付けられている と。 また、日本唯一の深海生物をテーマにした「沼津港深海水族館 シーラカンス・ミュージアム」やアトラクションもあり、丸一日楽しめる と。その横にあった「海天寿司 一富士丸」の看板。右手に「沼津魚市場」。 左手には「沼津港横丁」と「かもめ丸」。 バスを下車し「沼津港大型展望水門 びゅうお」を見る。沼津港大型展望水門「びゅうお」は沼津港に高くそびえる巨大な建造物で、東海地震の津波対策の一環として2004年(平成16年)に完成した水門です。津波をシャットアウトする扉体(ひたい)は、幅40m、 高さ9.3m、重量は406tと日本最大級で、制御設備は地震計と連動し地震発生後約5分で自動的に完全閉鎖されます。水門にはその高さを生かして地上30mのところに展望施設が併設されており、富士山や箱根連山、沼津アルプスをはじめ、駿河湾に突き出した大瀬崎をくっきりと見ることができるほか、魚市場の活気ある様子や往来する船、水門の心臓部である巻上機などを見学することができます。そして、夜になるとライトアップされフォトジェニックな水門をご覧いただくことができます。「びゅうお」は、令和7年12月に「日本夜景遺産」に認定されました。沼津港を訪れて新鮮な魚介類を堪能した後は、「びゅうお」からのパノラマビューを楽しんでみては?デートにオススメです! と。「びゅうお」の名前は英語の「View(ビュー)」+「魚(うお)」からとのこと。さらに、南に100mほど歩くと、同じく左にあったのが「沼津港横丁」。沼津港にある縁日スポットとして人気の「沼津港横丁縁日コーナー」ては、昔ながらのスマートボール・射的・サメ釣りなど、子どもから大人まて楽しめるケームが勢ぞろい!!していたのであった。 鯵の干物。「沼津牡蠣センター 牡蠣小屋2号店軒先のドラム缶テーブルでは、開放的な港の空気を感じながら焼きたての海の幸を味わえます。焼牡蠣やさざえ、生ガキもあり!生ビールもあります!テイクアウトなので食べ歩きにもぴったり!観光の合間にも立ち寄りやすい店。奥には、屋台メニューも楽しめるテーブル50席「米と魚」も併設。丼や定食など豊富なメニューをご用意し、バリアフリー対応でどなたでも安心してご利用いただけます。ペット連れのお客様も大歓迎!」と。 軒先のドラム缶テーブル。「創業明治二十二年 四代目 弥平四代目弥平を中心に、沼津魚市場やマルヤ水産の直営店です。四代目弥平シリーズに使用している原料は、脂のりが良い旬の魚を厳選して仕入れております。魚種に合わせた独自の乾燥方法により、旨味を引き出した干物に仕上げています。伝統を守りながらも新しい挑戦を続け、お客様に安心安全で美味しい干物をお届けしております。」と。 「徳造丸 海鮮家 直売所 沼津港店」。 そして、この日の昼食の店「魚河岸 丸天」に到着。 「天ぷら 魚料理 ジャンボえびフライ魚河岸 丸天」 と。「魚河岸 丸天」。 様々なメニューが。美味そうなメニューが所狭しと。「お土産コーナー」 マグロのかぶと煮(あら炊き)?金目鯛?そして私のこの日の昼食。刺身の盛り合わせと金目鯛の煮付け。これも食べたかったが・・・・。「徳造丸 沼津港」の店頭。 「金目鯛広場」はキンメダイのオブジェやベンチを配置して、記念撮影や休憩ができるようにしたのだと。赤色のオブジェは散策する行楽客の目を引き、座ったりポーズを撮ったりして記念撮影を楽しむ姿が見られたのであった。バスに向かって戻る。「金目鯛漁師煮」のお土産も売られていた。 2切れ入り。「さかなや 千本一」にあった巨大マグロ」。 様々な丼ものや刺身、魚のフライが。そして小雨の中、沼津漁港岸壁に停車していたバスに戻る。前方に見える緑は「沼津 港口公園」。 そして「狩野川」に架かる「港大橋」を渡る。 天気が良ければ(ネットから)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.05
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この日は6月29日(月)、地元の「ゆめクラブ六会」(老人会)の沼津周辺への親睦旅行に参加しました。自宅近くの集合場所に7:30に集合。バスは5分以上前に到着。その後、地区内の4箇所で参加者が順次乗り込み、総勢42人の親睦旅行となった。 「綾瀬スマートIC」から東名高速道路・下り線に入り、沼津を目指す。 「相模川橋」を渡る。「相模大堰管理橋」が橋の先に見えた。 相模川左岸の海老名市社家と右岸の厚木市岡田を結ぶ相模大堰管理橋。2020年に整備が終わり、人と自転車であればいつでも通行できるようになった。相模大堰は相模川の河口から12キロ上流にあり、約2.7km上流に相模大橋、約1.7km下流に戸沢橋がある。相模大堰は1998年に完成した県内有数の規模を誇る取水堰で、日量最大約62万m3の水を相模川から取水している。この堰から海老名市側に引き込んだ水は、海老名市社家の沈砂池で土砂などが取り除かれたあと、綾瀬浄水場と伊勢原浄水場に送られ、横浜市や川崎市、横須賀市、相模原市の水道水として供給されているのだ。「小田急小田原線」の線路を左手下方に見ながら進む。 「都夫良野トンネル」を出て「東名高速道路・左ルート」から「酒匂川」そして「山北町山北」の街並みを見る。大きく左にカーブする「東名酒匂川橋」が姿を現した。全長750mの曲線連続鋼トラス橋で、トラス部分は朱色に塗装されている。1969年(昭和44年)の完成当初は上下線各2車線の橋が2本並列していたが、1991年(平成3年)の拡幅事業により南側に離れた位置に上り線が新設され、現在は2本とも下り線(左ルート、右ルート)として運用されている。東名高速下り線は都夫良野トンネルを出てすぐに本橋に差し掛かり、酒匂川とその左岸に並行する神奈川県道727号川西線、右岸に並行する国道246号、神奈川県道76号山北藤野線を跨ぎ越す。橋梁区間が終わった先でJR御殿場線のトンネルと交差する。橋脚は鉄筋コンクリート製で、高さ65m・直径7m。開通当時は東洋一の高さを誇り、東名高速開通記念切手にも描かれた。1990年度には、4kmほど東京寄りに架かる東名皆瀬川橋とともにかながわの橋100選に選定されている。 こちらは以前の秋に国道246号線を走った時の写真。こちらも。切手にもなったと。この時には上り線になっていたようだ。(ネットから)「東名高速道路」上り車線の「東名足柄橋(とうめいあしがらばし)・790m」を左手に見る。 東名足柄橋は、静岡県駿東郡小山町に架かる東名高速道路上り線の橋で、斜張橋である。1991年3月に御殿場IC-大井松田IC間の上り線(東京方面)改良・新車線開通に伴い設置された。上り線が下り線(以前の上下線)を跨ぐ構造となっており、この橋より東京方面は都夫良野トンネルの先の高架橋まで、離れてはいるが対向車線の右側に位置する構造(右側通行)となっている。そして「足柄SA」にて最初のトイレ休憩。下り線(名古屋方面)・駐車場 ・大型 260台 ・小型 517台・トイレ ・男性 大22(和式4・洋式18)・小56 ・女性 95(和式8・洋式87) ・同伴の男児用 2 ・幼児用トイレ 2(洋式2) ・車椅子用 4・ガソリンスタンド(ENEOS(東京ガレーヂ)・岩谷産業 (オートガス)24時間)・給電スタンド(24時間)・水素ステーション(8:00 - 20:00)と ネットから。大型バスの駐車場に向かって進む。そしてバスを降りトイレに向かう。「EXPASA 足柄」エクスパーサ(EXPASA)とは、中日本高速道路(NEXCO中日本)が管轄する高速道路のサービスエリア(SA)に展開されている大型の商業施設ブランドです。地域の特産品や人気グルメが充実しており、「通過点」ではなく「目的地」として選ばれるような新しいスタイルのSAとして運営されています・EXPASAの特徴名称の由来:「外へ」・「超越」などを意味する「EXCEED」・「EXCELSIOR」の「EX」と、パーキングエリア(PA)・サービスエリア(SA)を組み合わせた造語。・充実した施設:人気の飲食店やカフェ、お土産店、アパレルショップなどが入り、 通常のSA・PAの枠を超えた多彩なサービスを提供しています と。 「ようこそ富士山エリアへ」。 天気が良ければ(ネットフリーから)。右手に「Family Mart」。 「EXPASA足柄 店舗案内板」👈️リンク 食べ物の店舗が並ぶ。そしてバスに戻る。「御殿場JCT」から「三国山」に続く山並みを見るが山頂付近は雲に隠れて。 そして「長泉沼津IC」から「伊豆縦貫道路」を利用して進み「6三島塚原」で下りる。そして「三島塚原」交差点の角にあった最初の目的地「伊豆フルーツパーク」に到着。静岡県三島市塚原新田181−1。 そして係員が我々のバスに乗車し、これ以後の説明を受ける。この日のツアーには、「マンゴー狩り1玉お持ち帰り」がSETで付いていたのであった。早速、我がバスで「マンゴー刈り」が出来る温室に向かう。県道142号線・三ツ谷矢田線を利用して10分ほど移動し、「マンゴー狩り」の温室前に到着。下車して多くの温室の最奥に向かって進む。 途中、マスクメロン栽培の温室を見ながら進む。販売用に収穫した「マスクメロン」であろう。 そして「マンゴー栽培」の温室に到着。 「マンゴー栽培」の温室内へ。多くの「マンゴー」が実っていたが・・。この温室には、馴染みのある「アップルマンゴー」が栽培されていた。マンゴーの実の上に掛けられている白い紙(紙袋他)には、主に次のような目的があるようだ。1.害虫や鳥から実を守るため・ハエ類や蛾などの害虫が実に卵を産み付けるのを防ぎます。・鳥などによる食害も軽減できます。2.日焼けを防ぐため・温室内でも強い日差しを受けると果実の表面が日焼けし、品質が低下することがあります。・紙袋は適度に光を遮り、美しい果皮を保ちます。3.傷を防ぐため・枝や葉と擦れてできる傷や、作業中の接触による傷を防ぎます。・見た目の美しい商品に仕上げるために重要です。4.農薬の付着を減らすため・袋を掛けた後は、果実に直接農薬が付着しにくくなります。特に注目したい点白い紙袋は果実全体を包むのではなく、上部だけを覆うように掛けられていた。これは、果実を保護しながらも風通しを良くし、湿気がこもるのを防ぐためのようであった。また、マンゴーは完熟すると自然に枝から離れます。そのため、多くの農園では袋が受け皿の役目も果たし、熟して落ちた実を傷つけずに収穫できるよう工夫されているのだと。この日の「マンゴー狩り」案内をネットから。6/27(土)からスタートしたようで、この日は3日目のようであった。案内された我々の「マンゴー狩り」の温室には、実が小さく細長い「マハチャノックマンゴー」が栽培されていたのであった。 大小様々な大きさの実が。私は手前のこれを収穫しました。係の方(インドネシア人と)が箱に入れてくれました。箱の中に入っていたのが「マハチャノックマンゴータイのラーマ9世前国王陛下の即位60周年記念として2006年11月より日本への輸入が解禁された新品種のマンゴーです。追熟が必要です。常温で追熟して下さい。熟すと赤みを帯びた黄金色となり、繊維質が少なく味は濃厚で華やかな香りが特徴です。柔らかくなって美味しそうな匂いがしてきたら食べ頃ですので、召し上がる1~2時間前に冷蔵庫で冷やしてお召し上がりください。」と。 8日経った7月7日(火)の追熟の状態です。色は黄色くなって来ましたが、香りがまだ弱いので、もう数日そのままにしておきましょう と。そして妻のアドバイスもあり、翌日7月8日に食べました。繊維組織が少なく味は濃厚で華やかな香りが。そして今回利用した観光バスに戻る。再びバスで「伊豆フルーツパーク」に戻り店内に。 「自社農園 マスクメロン お待たせしました。」 2玉入 5000円 と。ご当地のお土産が並んでいた。様々な菓子の土産物も所狭しと並んでいた。そして「伊豆フルーツパーク」を後にする。 「沼津港」を目指して、旧東海道の松並木を通過。 県道138号線の「大場川」に架かる「塚本新橋」を渡る。 沼津市内の「大手町」交差点を左折して沼津港に向かう。 ・・・つづく・・・
2026.08.04
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「富士屋ホテル」を後にして、この日の最後に向かったのが「石垣山一夜城」。石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われています。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。秀吉は、この城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されており、平成29年4月6日に日本城郭協会より「続日本100名城」に選定されました。この地は国立公園区域及び国指定史跡に指定されています。面積 約5.8ha富士箱根伊豆国立公園 昭和11年2月1日指定国指定史跡石垣山 昭和34年5月13日指定 愛車のカーナビを「石垣山一夜城」に設定し、箱根湯本駅前を通過し、国道1号を上り途中、右折し、早川方面に進むん。高架の新幹線沿いに進み、「石垣山一夜城歴史公園」右折⇒の案内に従い、「出世道」の坂道を上って行った。左手にあったのが「出世道」案内板。(以下2枚の写真は数年前に別々に撮影したもの)。「美しい日本の歩きたくなるみち500選 太閤・一夜城と長興山 史跡のみち 12キロコース」 「出世道緑と花の夢の道、風と雲の通い道、出会いがつくる心道農を育てる命道、歴史が誘う学び道」経済の国際化が進み、作物の転換と土地利用形態の改革が必要になり、大型農道なくして実現は不可能となりました。 幅員2.5メートルを5.5メートルの農道に改良するよう関係地権者が合意し、国県市の理解ある援助により、名刹海蔵寺山門跡より石垣山一夜城址まで団体営農道整備事業が採決されました。新しい道により、早川を訪れる方々に美しい四季の変化と眺望を見ていただくとともに、生産者の心のこもった農産物を手渡し、農業の必要性と緑の大切さを理解していただきたいと思います。この道が早川の農地に希望の光を運び、県西地域の文化的経済的活性化の出世頭になるよう祈願し、完成記念として石垣山農道組合にて建立いたしました。起 工 昭和六十年一月 竣 工 平成三年三月」小田原の市街を見下ろすことが出来た。小田原城の天守をズームして。「出世道」を上って「石垣山一夜城歴史公園」に向かって進む。 以下の武将紹介の写真は、以前に訪ねた時に撮影したものを再度アップさせていただきました。「石垣山に参陣した武将たち」案内板が通路脇に設置されていた。道沿いに、太閤の小田原攻めに従った武将や茶人など8人を紹介する看板があったので都度撮影した。「「堀 秀政(ほり ひでまさ) 天文22年(1553年)~天正18年(1590年)美濃の豪族、堀秀重の子。織田信長に仕え、側近として活躍。信長の伊賀攻めの年に近江長浜城主となる。秀吉に従い羽柴姓を与えられ、小牧・長久手の戦いや紀州攻めで活躍した。その功績により、越前、加賀に18万石の領土を与えられて北ノ庄城に入り、北国支配の中心となった。小田原合戦では先鋒として出陣し、小田原城の西南、石垣山城の前衛として陣をしいた。ところが、5月27日、小田原包囲陣中で病死し、福井の長慶寺に葬られた。早川の海蔵寺にも墓がある。」 「堀 秀政(ほり ひでまさ)」。 「これより早川駅までの道沿いに、太閤の小田原攻めに従った武将や茶人など8人を紹介する看板があります。散策しながら、今は昔の物語をお楽しみください。」「伊達 政宗(だて まさむね) 永禄10年(1567年)~寛永13年(1636年)米沢城主伊達輝宗の子、幼名は梵天丸。天正13年以降、佐竹・蘆名らの連合軍と戦い、仙道七郡を手に入れて勢力を広げていった。秀吉に従い小田原攻めに加わるべきか迷い、なかなか参陣したかったため、その遅れを責められ領地の一部を没収された。政宗が小田原攻めに加わったことは、その援軍を期待した北条氏にとって大きな痛手となった。秀吉の死後、まもなく家康に近づき、伊達62万石を確定させ、仙台城を築いた。幼少のころ、右眼を失明し、「独眼竜」と恐れられたが、自身は独眼にふれることを嫌い、死後に残る肖像には両眼を備えるよう遺言したという。」 「伊達 政宗(だて まさむね) 」 「宇喜多 秀家(うきた ひでいえ) 元亀3年(1572年)~明暦元年(1655年)備前岡山城主宇喜多直家の子。秀吉の養女となった前田利家の娘を妻とし両家と婚姻関係となり、備前・美作両国と備中東半分の約50万石を治めた。小田原包囲陣では、小田原城の西方、水之尾付近に陣場を構えたと言われている。合戦の最中、氏直の弟氏房に酒や肴を贈って籠城の苦労を慰め、伊豆の江川酒を返礼として贈られ、氏房に講和を勧めたとする物語が伝えられている。」「宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)」。 「早川・片浦ウォーキングトレイル太閤一夜城と長興山史跡巡りコース石垣山一夜城歴史公園 1130m」と。 「徳川 家康(とくがわ いえやす) 天文11年(1542年)~元和2年(1616年)三河岡崎城主松平広忠の子。長い人質生活の後、岡崎城に戻る。織田信長と同盟して、東海・中部一帯に勢力を伸ばした。娘の督姫を北条氏直に嫁がせ、北条氏とともに秀吉に対抗したが、その後に秀吉と和睦し、氏直にも秀吉に従うことを勧めた。小田原攻めが決まると、大軍を率い先鋒として出陣し、小田原城の北東、酒匂川の西岸に陣をしいた。秀吉死後、関ヶ原の戦いに勝ち征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた。家康の陣馬跡には今でも土塁の一部が残り、江戸時代に建てられた石碑(市指定文化財)や東照宮の建物がある。」「徳川 家康(とくがわ いえやす) 」 「羽柴(豊臣) 秀次(はしば ひでつぐ) 永禄11年(1568年)~文禄4年(1595年)豊臣秀吉の甥にあたり、近江八幡43万石の城主。小田原合戦では先陣として山中城を攻め落とし、韮山城、さらに小田原城の包囲に加わった。秀次の陣場は小田原城の北西、辻村植物園の東部付近に位置したと伝えられ、この時秀次が使用した陣鐘が久野の総世寺に寄進されている(市指定文化財)。秀次はこの後、秀吉の養子となり関白に就任するが、秀吉に実子秀頼が誕生すると次第に関係が悪くなり、謀反を企てたとして高野山に追放、切腹を命じられた。」「羽柴(豊臣) 秀次(はしば ひでつぐ)」 「千 利休(せんの りきゅう) 大永2年(1522年)~天正19年(1591年)和泉堺の納屋衆千与兵衛の子。堺の町衆の間で流行していた茶の湯にひかれ、武野紹鴎らに学ぶ。初め与四郎、のちに宗易と名乗った。茶人としての名声を高めて織田信長の茶頭の一人に加えられ、ついで秀吉に仕えて利休の名を授かるなど、天下の茶匠と言われるほどになった。小田原合戦でも秀吉に同行し、側近の一人として活躍する一方、陣中で茶会を催し、諸将の苦労を慰めた。茶道の一つである「侘茶」で使用される竹の花生けは、小田原合戦に随行した利休が茶会の際にその場で作ったことが始まりと言われている。」「千 利休(せんの りきゅう)」 「淀 殿(よど どの) ?~慶長20年(1615年) 生年を永禄12年(1569年)とする説あり近江小谷城主浅井長政の娘。幼名はお茶々。母は織田信長の妹お市の方。信長の死後、重臣であった柴田勝家と再婚した母とともに越前北庄に移った。勝家が豊臣秀吉に敗れると、秀吉のもとに移り、やがて側室となり、長子鶴松を身ごもった。喜んだ秀吉から淀城を与えられ「淀殿」と呼ばれた。小田原合戦に持久戦で臨んだ秀吉は、集まった諸大名の苦労を思いやって妻たちを呼ばせ、自身も淀殿を呼び寄せた。石垣山城井戸曲輪の井戸は「淀殿化粧の井戸」と伝えられる。秀吉の死後は、遺児秀頼の生母として大坂城にあったが、大坂の陣に敗れ、落城するとともにその生涯を閉じた。」「淀 殿(よど どの)」 「豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし) 天文6年(1537年)~慶長3年(1598年)織田信長に仕えて活躍、信長の後継者となり天下統一を進めた。四国・九州平定した後、東国の攻略に乗り出した。容易に従わない北条氏を討ち滅ぼすべく、諸大名に命じ大軍を率いて関東に攻め入った。石垣山(国指定史跡)に城を築いて本陣とし、小田原城を攻め、北条氏を滅ぼして関東を平定した。この城を「太閤の一夜城」といい、秀吉が一夜にして築いたと言われているが、実際は80日を費やしている。小田原合戦によって、東北の諸勢力も従い、天下平定を成し遂げた。」「豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)」。 そして「石垣山駐車場」に到着 。 石碑「国指定史跡 石垣山 石垣山一夜城歴史公園」。 「東国最初の総石垣の城 石垣山案内図」。 近づいて。① 南曲輪南西面石垣石垣山城は、西の石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」による野面積みの石垣です。関東大震災で一部は崩落しましたが、かなりの部分は往時の姿を留めています。② 二の丸東面石垣二の丸の東側にも石垣が積まれています。この辺りの石垣には比較的小さな石が使われています。③ 西曲輪から天守台を望む天守台は本丸南側に位置し、西曲輪からは約10メートルを超える高さの石垣が積まれていました。④ 本丸の石垣この辺りの石垣は10mを超える高さまで築かれており、「穴太衆」の技術の高さがうかがえます。小田原城から見える面のため、小田原側に最も意識を集中させた石垣の一つでしょう。⑤ 井戸曲輪渡辺化粧の井戸とも伝わる井戸です。谷を石塁でで塞いで井戸とした井戸曲輪の石垣は圧巻です。石垣山城は、豊臣秀吉が1590年の小田原攻めの際に築いた城で、関東では初めて本格的な総石垣を備えた城として知られています。現在は国指定史跡となっており、本丸・二の丸・井戸曲輪などの遺構や石垣を見学しながら城跡を一周できるようになっています。これも「東国最初の総石垣の城 石垣山城」案内板」。 「石垣山城は、天正18年(1590)、天下統一を目指す豊臣秀吉が小田原北条氏の本城である小田原城を水陸16万の大群を率いて包囲し、その本陣として築城されました。完成と同時に周囲の樹木を伐採し、あたかも一夜のうちに築城したと伝わり、「一夜城」とも呼ばれています。しかし、実際には、4月6日から築城に着手し、本陣を移した6月26日まで約80日間、昼夜間わずに工事が行われました。また、塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけたとも伝っています。秀吉は、この城に天皇の勅使を迎え、また淀君や千利休を呼んで茶会を開き、参陣の諸大名をなぐさめたりしました東国で最初に造られた総石垣の城で、白亜の櫓・塀を備えた近世城郭と呼べるものです。石垣は、自然石をそのまま使う「野面積み」で、近江の穴太衆(あのうしゅう)による当時の最先端の技術によって築かれました。大正12年の関東大震災で天守台などは崩落しましたが、南曲輪や井戸曲輪は崩落を免れ、当時の面影がよく残されています。一夜城伝説『北条記』には、秀吉が一夜にして城を築いたことに「関白は天狗か神か、かやうに一夜の中に見事なる屋形出来るぞや」と、一夜城伝説の一端を伝えていますが、石垣山城を築城するには山を削り、周囲の木を伐採して、大量の石垣石を掘り出す必要があります。夜間はかがり火を焚いて、大勢での作業の様子は、小田原城からも逐ー確認されていたものと考えられます。むしろ、短期間に築城したことこそが、伝説として語り継がれているものと考えられます。」 「城への登城ロは、東ロと北ロの2か所あり、東口が大手と考えられます。本城曲物(本丸)を中心に馬屋曲輪(ニの丸)、西曲輪、東ロの両側に南曲輪と東曲輪が配置されます。本城曲輪の西端に天守台があリ、馬屋曲物の北側には井戸曲輸、さらに北側には北曲輪(三の丸)、西曲輪の西側には大堀切があリ、出曲輪が配置されています。こうした城の縄張は、肥前名護屋城に似ておリ、黒田官兵衛の関与が想定されています。」正面には巨石が2つ展示されていた。「移設された石垣用石材国指定史跡石垣山(石垣山一夜城)の西側斜面一帯には、 17世紀半の江戸時代初期に江戸城修築のための石垣用石材を調達した「石丁場」(石を切り出した作業場)があります。この石丁場は、早川石丁場群関白沢支群という遺跡名で呼ばれており、平成28年(2016)には静岡県熱海市と伊東市の石丁場とともに「江戸城石垣石丁場跡」として国指定史跡となり ました。ここに置かれている石垣用石材は、平成17~18年 (2005~06)に小田原市早川の広域農道小田原湯河原線(市道2390) 建設に伴う発掘調査によって発見され、移設したものです。移設された2石の石材は、発掘調査の11区から発見された 7号石材(右側)と8号石材 (左側)です。元々ひとつであった石 に「矢穴」を一列に彫った後、矢(クサビ)を入れて2石に割ったものです。左側の石材の前面には「八」の刻印、右側の石材の割った面に「◯寸」の刻印が刻まれていることから、「八」の刻印より「◯寸」の刻印が後で刻まれたことが分かります。これらの刻印は、石を切り出した石工の集団が何らかの目的で刻んだマークであると考えられます。これらの石垣用石材は、広域農道小田原湯河原線(市道2390) の事業者である神奈川県、及びこの場所の土地所有者のご理解とご協力によって移設されました。」7号石材、左側の上部に「矢穴」の痕跡が。8号石材 (左側)。「生命の星・地球博物館までのハイキング「自然を楽しむ みち」のご案内石垣山一夜城の一帯は、自然にまれています。ここから生命の星・地球博物館までは約3.2キロの道のりてすが、その途中のの道沿いで見ることがてきる動物や植物などについて、その説明や道案内を9カ所に設けました。どうそ自然を楽しみながら、ゆっくりと歩いてみてください。はじめに少し坂道を登りますが、あとは下り坂てす。50分ほどて博物館につきます。博物館から入生田駅まては3分てす。」」 「小田原城と石垣山城の位置関係」の写真をネットから。 「小田原合戦の経過天正17年(1589) 11月 秀吉、北条氏討伐の宣戦布告状を発する天正18年(1590) 3月1日 秀吉軍、京を出陣 3月29日 山中城落城 4月6日 秀吉、箱根湯本早雲寺を本陣とする 4月6日 秀吉が築城を指示(現在の石垣山) 5月14日頃 北政所(ねね)に石垣の完成を伝える 6月9日 伊達政宗、秀吉に拝謁 6月26日 秀吉、早雲寺から本陣を移す 7月5日 北条氏直、降伏し、小田原城開城天正19年(1591) 8月 天守に瓦が葺かれる」「小田原合戦の攻囲陣立図」。ここが「国指定史跡 石垣山(一夜城)入口」と。 「旧城道 東登口」。「東曲輪」(右)と「南曲輪」(左)の間を上る旧城道。この先がかつて大手門があった場所とされている。東ロ城道は駐車場川にある入口から南曲輪・南腰曲輪を経て本城曲輪へと至る現在の園路。北側に東曲輪、南側に南曲輪を見ながら切り通し状の道を入口から直進すると、南腰曲愉の石垣に突き当たる。途中大きな石垣が城道に崩れ落ちていて、さながら登山道のような風景であった。また、説明板の付近では、城道の脇に造られた石組水路の跡を確認することができたのであった。突き当りを南へ折れて南曲輪へ人るところには、東口外門があったと。この東ロ外門を過ぎると、すぐ西へ折れて東ロ中門のある南腰曲輸へと登る。さらに南腰曲輪を北・西へと折れると本城曲輸東門に至るのであった。このように、東ロ城道は、東ロ外門・中門と本城曲輪東門の三つの門を通過して本丸である本城曲輪に至る構造となっていたのであった。左側に巨大な石垣が。「南曲輪」下の、穴太衆により築かれた野面積みの石垣。角度を変えて。移動して。この日は、前日の飲みすぎや腰痛の方もあり、「石垣山一夜城」の見学はここまでとして引き返して、「一夜城ヨロイズカ・ファーム」に向かう。「ご案内マップ」に近寄って。 「一夜城ヨロイヅカファーム」は、鎧塚俊彦氏が手がける自然豊かな施設。敷地内にはレストランやカフェ・スイーツショップがあり、美しい景色や美味しいスイーツを楽しみながら、妻・「川島なお美」さんを偲ぶことができるのだ と。「一夜城ヨロイズカファーム入口ゲート」。 入口には牛の親子であろうか?「相模湾」を望む。 小田原~二宮の海岸線。三浦半島の山々。最奥にあったのが「川島なお美慰愛碑」。2015年に胆管がんで亡くなった女優・川島なお美さんの生前の遺言を元に、夫であるパティシエの鎧塚俊彦氏が建立した記念碑。 碑に刻まれたメッセージ碑には、生前彼女が書き残した直筆の遺言が石板と金属板に刻まれています。「今までありがとう なお美より」という感謝の言葉とともに、自然やファームへの深い愛情が表現された詩のような文章である と。慰愛碑の中央に空いている丸い穴は、彼女が直筆で遺した「蝶となって舞う」という 遺言(下記参照) を表現しており、蝶が自由に飛び立つための通り道や、天国のなお美さんと繋がるための窓という意味が込められているのだと ネットから。「私は蝶となって 咲きみだれるお花から花へと舞い 毎年咲く桜となって花ふぶきをお客様に散らし たわわに実る果実となってあなたの作品として 美味しくお皿の上にのります美しく生き生きとしたファームガーデンは私の夢ですその夢をかなえて下さい🦋今までありがとう なお美より」と。 在りし日の川島なお美さんと夫・鎧塚俊彦氏(ネットから)。引き返すと、オレンジ色のグラジオラスの花が。紫のアジサイ。ガクアジサイに近づいて。カンナ:カノーバ レッドゴールデンフレイムであっただろうか。近づいて。ブルーベリーの実がたわわに。収穫期を迎えたものも。そして「一夜城ヨロイヅカファーム」のSHOPへ。 石垣山一夜城歴史公園前にある一夜城 ヨロイヅカ・ファーム。日本を代表する菓子職人・鎧塚俊彦氏が地産地消を目指して作った店。自家農園で穫れた食材や、小田原の食材をふんだんに使った美味しいスイーツやパンが並ぶ。相模湾を一望するレストランでは、山海の恵みが活きたフレンチやケーキセットなどを味わうことが出来るのであった。小田原市早川1352-110。様々な種類のパンが。ケーキも。レストランの写真をネットから。ソフトクリームを楽しみました。そして駐車場に戻る途中に振り返って。昼食は、「めし家 やまや」で。小田原市早川1丁目6−10 小田原水産会館 1F。小田原漁港仲卸やまや水産直営の食堂。 ミックスフライ定食を楽しみました。ここで、都内に戻る旅友3人と別れ、西湘バイパスを利用して帰途についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.08.03
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次に裏側にあった庭園散策。池には大きな鯉の姿が。右上には苔むした自然石が見え、左下には青々とした草木が茂っていた。人工的な装飾を控えながらも、自然の岩や植物を生かした日本庭園らしい落ち着いた景観が作られていたのであった。池の水面には、季節の花であるアジサイ(紫陽花)が木製の筏(いかだ)に美しく飾られていた。紫陽花の「花筏(はないかだ)」。水面に浮かぶ2つの木製の筏には、青から紫色の美しいアジサイが飾られていた。これは「花筏」と呼ばれる演出で、池や川に花を浮かべて季節感を楽しむ日本ならではの装飾。梅雨の時期の箱根では、アジサイが見頃を迎え、このような演出が庭園を華やかに彩っているのであった。小さな滝の姿も。別の場所にも少し大きな滝が。7,602坪の敷地を持つ富士屋ホテルですが、そのうち約5,000坪が広大な庭園。庭園の池や滝の水は箱根の湧き水で、水のせせらぎ、鳥の声に耳を傾けながら気持ちよく散策できるのであった。苔むした五重石塔の姿も。アジサイ(紫陽花)の姿も。庭園には、「幸福の丘の鐘」と呼ばれる鐘が設置されていた。庭園の散策路を登った高台「幸福の丘」にあり、緑豊かな自然の中で鳴らすことができる。四季折々の美しい風景を楽しめる人気のスポット と。庭園の中心近くにあった「水車」。この水車は「営繕さん」の手づくり と。営繕さんとは館内外の備品の制作・修復などを行う施設管理のスタッフで、富士屋ホテルの歴史において欠かせない存在である と。秋の紅葉も美しいのであろう。近寄って。ネットから。巨木の姿が。「セコイアこの木は山口正造氏(富士屋ホテル元社長)がアメリカから昭和4年に持ち帰り植樹したものです。セコイアは杉の近縁植物で二種類あり、そのひとつこの"Sequoia Sempervirens" はアメリカのカリフォルニア州とオレゴン州の海岸に野生し世界で最も高い木として知られています。セコイアは材質がよいので建材として使われ、そのため絶滅の危機にさらされましたが、ルーズベルト大統領の提唱で今では国立公園等で保護されております。この木は原産地に見られるような青空にそびえ立つ樹冠は見られませんが、日本で唯一の生存するセコイアとして異った環境に耐え育った雄々しい姿をご覧下さい。 1977年7月27日 学士院会員 木原 均 木原生物研究所々長REDWOODThis redwood tree was transplanted here in 1929 from the State of California,U.S.A.,by the late Mr. Shozo Yamaguchi, the former president of Fujiya Hotel.As a kind of cedar, this redwood is called "Sequoia Sempervirens", which originallygrows wild by the seaside of California or Oregon and is famous for the tallest treein the world.The redwood in our garden is not so tall as in California, but growsstrong in the different circumstance, being only one in Japan. Prof. Hitoshi Kihara, Ph.D. Member of Japan Academy」 奥には、「屋外プール」も。 人の姿はなかったが。箱根の山々を借景にした清々しいプールは、夏の間だけの愉しみ。間近に迫る緑と空の青に包まれて、日常から離れた贅沢な時間を楽しめる空間。そして館内に戻り、再びフロント横から階段を見る。花御殿の入口の回転扉と赤い絨毯の敷かれた階段を見下ろす。朱の手摺には龍の姿が。近づいて。金色の玉を抱えた2頭の「登り竜」が天に向け並ぶ迫力ある姿が彫刻。下部にも金色の玉が。そして再び外に出て、千鳥破風の屋根、校倉造りを模した壁が特徴の象徴的な「花御殿」を見る。昭和11(1936)年建造、外国人のお客様には「フラワーパレス」として親しまれた富士屋ホテルのシンボル的な存在。「花御殿」の玄関。 「花御殿(登録文化財)昭和11年(1936年)、和風意匠をテーマに建造されました。外観は寺社建築を思わせる屋根に校倉造りを模した壁、すべての客室に花の名前がついており、ドアにはその花の絵が飾られています。海外からのお客様にも人気があり、「フラワーパレス」と呼ばれ親しまれています。Flower Palace (Historical Monument)This building was designed with the Japanese taste and built in 1936 with itstemples/shrines-like roof and its traditional "Azekura", square log architecture style wall.Each room is given a floral concept, a flower name and a flower depicted door sinceits opening. This "Flower Palace" has been famous among foreign travelersas well as Japanese guests.」 振り返って。こちらが国道1号からの富士屋ホテルの入口国内屈指のクラシックホテルの一つで、明治後期から20年近く外国人専用ホテルとして営業していた歴史もある箱根の富士屋ホテル。耐震補強と改修工事のため、2年余の一時休館を終え、142年目の創業記念日にあたる2020年7月15日にグランドオープンしたのであった。和洋折衷の意匠を取り入れた文化的価値のある各棟の外観や内装の趣は変えることなく、可能な限り従来の姿を復元するとともに、新たな施設も誕生したのであった。「国際興業グループ 富士屋ホテル FUJIYA HOTEL」案内板。1878(明治11)年、宮ノ下で長い歴史を持つ旧老舗温泉旅館・藤屋旅館を買収して日本初のリゾートホテルとしてスタート。開業初期の頃はチャップリンやヘレンケラーはじめ、世界中のVIPご用達の「外国人客専用のホテル」として知られていた。武家屋敷をルーツとする日光金谷ホテル(1873年創業)より5年遅い開業だが、本館完成は1891年で、日光金谷ホテルが本格的な西洋式ホテルを建設した1893年より2年早い。富士屋ホテルを創業した山口仙之助は私財を投じて町内の道路を整備。水力発電会社を設立して電力を地域へ供給するなど箱根の振興に尽力した。富士屋ホテルの3代目社長は日光金谷ホテル創業者の次男で、両ホテルの縁も深いのだと。今では正月の風物詩ともなった、「箱根駅伝」の中継ポイントとして広く親しまれているのだ。「富士屋ホテル」の創業からの「歴史年表(1878~2018)」👈リンク。・1878年(明治11年)7月15日:山口仙之助が藤屋旅館を買収・改装し、 神奈川県足柄下郡底倉村に開業。・1883年(明治16年):火災により焼失・1884年(明治17年):平屋建て客室12室として再建し「アイリー」と命名そして・2018年 (平成30年) 7月15日 富士屋ホテルが創業140周年を迎える 富士屋ホテル 耐震補強及び改修工事(~2020年7月15日) 富士ビューホテル 大浴場 リニューアルオープン・2020年 (令和2年) 3月19日 箱根駅伝ミュージアムが15年を迎える 富士ビューホテル 新客室 オープン 7月15日 富士屋ホテル グランドオープン・2021年 (令和3年) 12月1日 箱根ホテル 外壁改修補強・設備更新工事のため一時休館・2022年 (令和4年) 1月 富士屋ホテル 安心・安全なリゾートホテルステイを 国際的衛生基準ガイドライン「 GBAC STAR™ 認証」を取得 3月 箱根ホテル プレミアムフォース 最上階スーペリアツイン 客室リニューアル 4月 箱根ホテル 外壁改修補強・設備更新工事を終え、オープン 7月 富士屋ホテル 創業144周年 7月 富士屋ホテル仙石ゴルフコース 開場105周年 9月 フルーツパーク富士屋ホテル 開業 25 周年・2023年 (令和5年) 2月 仙石ゴルフコース リモコン(電磁誘導)乗用ゴルフカートの 運用開始 6月 箱根ホテル 創業100周年 7月 仙石ゴルフコース ウッドチップを利用したバイオマスボイラーの稼働開始! 9月 湯本富士屋ホテル 開業50周年 10月 富士屋ホテル 公益財団法人日本デザイン振興会主催 2023年度 グッドデザイン賞を受賞!・2024年 (令和6年) 2月 富士屋ホテル 登録有形文化財の旧御用邸『菊華荘』がリニューアルオープン 3月 湯本富士屋ホテル 本館6階フロア・和洋室12室をリニューアル 4月 湯本富士屋ホテル 湯上がりラウンジオープン 6月 湯本富士屋ホテル 本館7階フロア・和洋室12室をリニューアル 7月 湯本富士屋ホテル 本館8階フロア・和洋室12室をリニューアル 12月 フルーツパーク富士屋ホテル 『災害時における要配慮者等の受入れおよび電力供給に 関する協定』~山梨市として宿泊施設と初の防災協定~・2025年 (令和7年) 2月 富士屋ホテル株式会社 社員の成長と持続的な活躍支援を目的に 2025年4月 新人事制度を導入 4月 湯本富士屋ホテル バー・ラウンジ『THE BAR』が新規オープン 6月 フュージョンダイニングF 開業20周年 8月 仙石ゴルフコース 将来のトップゴルファー育成へ 第10回 富士屋ホテル 仙石ゴルフコースU22ゴルフ選手権大会開催そして前庭。石碑「富士屋ホテル FUJIYA HOTEL」。「富士屋ホテル外観マップ」 そして「西洋館」前へ。西洋館一号館「カムフィ・ロッジ」・二号館「レストフル・コテージ」は、日露戦争勝利後の好況期に建てられた客室棟。デザインは軒が浅く、装飾が控えめで端正ですが、明治期の洋風建築の典型である天井や軒、階段の装飾、鎧戸付きの上げ下げ窓や、豪華な唐破風の玄関が存在感を放っている。比較的改造が少なく、富士屋ホテルの建築のうち最もよく創建時の姿が保存されているのだと。 「西洋館」正面。 正面右から1号館「カムフィ・ロッジ」、2号館「レストフル・コテージ」、同じデザインの2棟からなる木造2階建て。明治39年(1906)竣工の西洋館は、白亜の建物が二対になった典型的な明治の洋館である。1号館「カムフィ・ロッジ(COMFY LODGE)」を正面から。「COMFY」は「COMFORTABLE」の口語体で、「心地よい」の意味。鎧戸付の窓などさまざまな細部に西洋の文化を取り入れながらも、唐破風の屋根や寺院建築様式が施されているなど、外国からの客を楽しませるための工夫があるのだと。反対側から。そして「本館」を「洋館」側から見る。手前に「サンパーラー」が。「サンパーラー」に近づいて(以前の写真)。遠くからも見えた「食堂棟」の「三重塔」。いかにも外国人観光客が喜びそうな佇まいなのであった。三重塔の頂部は見事な「登り龍」が巻き付いて。「食堂棟」を南側から。◎設計:木子幸三郎◎施工:不詳◎竣工:昭和5(1930)年◎構造:鉄筋コンクリート造平屋、地下1階、塔屋は木造◎所在地:神奈川県南足柄郡箱根町宮ノ下359 ❖国登録有形文化財 ❖経済産業省指定近代化産業遺産上空からの写真をネットから。入口には「唐破風」が。唐破風に取り付けられる懸魚(げぎょ)は兎毛通し(うのけどおし)と呼ばれるのだ。唐破風の下の兎毛通の飾り彫刻が見事、牡丹の花か?駐車場に向かって「食堂棟」前を進む。向かいにあったのが「旧御用邸 菊華荘」入口。皇室の宮ノ下御用邸として造営され、後に高松宮家別邸となった由緒ある純日本建築の建物と名園。 富士屋ホテルが経営する菊華荘の日本料理が人気とのこと。国道1号の駐車場入口近くにあった「宮ノ下ノスタルジック散策路」👈️リンク。 そして「富士屋ホテル専用駐車場」へ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.02
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この写真は、富士屋ホテル・ホテルミュージアム「建築(ARCHITECTURE)」コーナーの展示の一部で、創業当時から明治時代にかけての富士屋ホテルの建物の変遷を紹介していた。「ARCHITECTURE建築富士屋ホテル最大の魅力個性豊かな建築群富士屋ホテルで生まれる様々な物語の舞台は、時代時代のニーズに応える個性豊かな建築群です。この舞台を守り続けるため、私たちは営繕部の仲間とともに様々な工夫を重ねてきました。滞在するひとときが、日常の喧騒から離れ、箱根の自然と動植物の息吹を感じる特別な時間となるよう、いつの時代もこの姿でお客様をお迎えし、皆様の思い出に新たな1ページを刻んでいきます。Fujiya Hotel's main attraction—buildings of rich characterFujiya Hotel's buildings, each of which expresses great individuality in meeting the needs of the times, are the setting of numerous Fujiya Hotel stories.Together with colleagues at the Buildings and Facilities Maintenance Section, we have devised numerous ways to continually preserve them.We aim to welcome guests with these same buildings throughout the ages andthey create lasting memories at Fujiya Hotel. We hope their stays here are special ones, during which they can escape the hustle and bustle of daily life andfeel the breath of Hakone's natural beauty, flora, and fauna.」この展示は、富士屋ホテル最大の魅力は「時代ごとの要望に応えながら守り続けられてきた個性豊かな建築群」であることを紹介していた。営繕部(建物の維持管理を担当する部署)が長年にわたり工夫と修繕を重ねることで、創業当時から受け継がれてきた建物を保存し続けています。そして、訪れる人々が箱根の豊かな自然とともに特別な時間を過ごし、新しい思い出を刻めるよう、その歴史ある建築を未来へ伝えていくという思いが込められていたのだ。 富士屋ホテル・ホテルミュージアム「建築(ARCHITECTURE)」コーナーの展示の一部で、創業当時から明治時代にかけての富士屋ホテルの建物の変遷を紹介。左:「アイリー EYRIE」 "Eyrie(アイリー)"とは英語でワシやタカなど猛禽類の巣高い場所の住まいという意味があります。この建物は富士屋ホテルにかつて存在した宿泊棟の名称で、・明治時代に増築された客室棟・箱根の山並みを見渡せる高台に建てられていたため・「Eyrie(高みにある住まい)」という名前が付けられました。写真を見ると、・大きなガラス窓・ベランダ・木造平屋・二階建てを組み合わせた開放的な造りで、当時としては非常にモダンなホテルだったことが分かります。アイリーは、宮ノ下大火の後、最初に建てられた建物であり、現在の富士屋ホテル建築群の記念すべきはじめの一歩であるといえます 。現存する我が国最初期のリゾートホテル建築としてもとても貴重です。正面左右に突出部をつくり中央に唐破風を設けるという富土屋ホテル建築の大きな特徴は、このアイリーの時点ですでに確立されていました。右上:「The first-generation Western-style building創業時の洋館no longer existing(現存せず)」これは1878年(明治11年)、山口仙之助が開業した当時の富士屋ホテル最初の洋館を写したもの。木造二階建ての洋風建築外国人旅行者を迎えるために建てられた日本でも珍しい本格的ホテル宮ノ下大火などにより現存していません。富士屋ホテルの原点ともいえる建物。 現在は現存しない建物群を紹介するパネル。写真には、富士屋ホテルの発展の歴史を物語る2つの建物が紹介されていた。・HERMITAGEは西洋風リゾートホテルとしての発展を象徴する建物。・日本館は日本文化を体験できる和風宿泊施設として、外国人旅行者を魅了した建物。いずれも現在は失われていますが、富士屋ホテルが西洋文化と日本文化を融合させた国際的なリゾートホテルへ発展していった歴史を伝える貴重な記録です。展示は、現存する建物だけでなく、時代とともに姿を消した建築にもホテルの歴史が刻まれていることを来館者に伝えているのであった。左:HERMITAGE ハーミティジ no longer existing(現存せず) とあります。「Hermitage」とは「Hermitage(ハーミテージ)」は英語で・隠れ家・静かな別荘・隠棲の館 という意味。富士屋ホテルでは、明治時代から大正時代にかけて建てられた洋館の宿泊棟の一つでした。写真を見ると・木造二階建て・大きなガラス窓・長いベランダ・箱根の山並みを望む立地となっており、避暑地ホテルらしい開放的な造りだったことが分かる。現在は取り壊され、現存していません と。右上:JAPANESE STYLE BUILDINGSno longer existing(現存せず)こちらは外国人旅行者に「日本らしい宿泊体験」を提供するために造られた純和風の建物群。写真を見ると・平屋や二階建ての日本家屋・庭園・池・飛び石・松や植栽など、日本旅館の趣を取り入れた造りになっている。外国人が「日本建築に泊まってみたい」という希望に応えるための宿泊施設として人気を集めた。こちらも現在は残っていません。富士屋ホテルを代表する建築物の歴史を紹介。左:「THE MAIN(本館)」この建物は現在も富士屋ホテルのシンボルとなっている本館です。本館は・1891年(明治24年)完成・建築は 久留正道(くる まさみち) による設計・和洋折衷建築の代表作として知られています。写真を見ると・石積みの基壇・左右対称の外観・ベランダ・洋館でありながら和風屋根を取り入れたデザインが確認できる。現在の本館は国の登録有形文化財であり、2020年の大規模保存修理を経て創建当時の美しい姿を取り戻しました。右上:「FOREST LODGE(フォレスト・ロッジ)」現在のフォレスト・ウイングの前身となる宿泊棟。展示写真は昭和初期の姿を写したものと思われます。特徴は・森林の中に建つ別荘風建築・木造二階建て・大きな窓・山荘を思わせる落ち着いた外観で、箱根の自然を楽しむ長期滞在客向けの客室として人気がありました。「Forest Lodge」という名称どおり、森の中の山荘という雰囲気を大切にした建物。この展示は、富士屋ホテルが「洋風ホテル」でありながら、日本文化も大切にしてきたことを象徴しています。・COMFY LODGE は洋館に日本建築の美しさを取り入れた宿泊棟。・菊華荘 は本格的な日本建築と庭園文化を今に伝える建物。つまり、富士屋ホテルは創業以来、西洋のホテル文化と日本の伝統建築を融合させた独自の建築美を追求してきました。この二つの建物は、その象徴的な存在として展示されているのです。左:COMFY LODGE 西洋館1号館(カムフィ・ロッジ)「Comfy」とは英語で「快適な」、「居心地のよい」という意味。その名のとおり、宿泊客が自宅のようにくつろげることを目指した宿泊棟でした。・白い下見板張りの外壁・張り出した出窓・唐破風(からはふ)の玄関屋根・洋館に和風意匠を取り入れた入口など、富士屋ホテルらしい和洋折衷建築であることがよく分かります。この建物は現在も敷地内に残っており、現在は「菊華荘」へ向かうエリア付近に位置する宿泊施設(コムフィロッジ・レストフルコテージ)へと受け継がれています。右上:KIKKA-SO 菊華荘菊華荘とは、旧三井財閥・三井家の別邸として建てられた純和風建築です。その後、富士屋ホテルが取得し、現在は日本料理「菊華荘」として利用されています。ここでは、ホテルの宿泊施設が時代とともに増築され、多様な滞在スタイルに対応してきた歴史を紹介していた。左:COZY HOUSE(コージー・ハウス)パネルにはCOZY HOUSE西洋館3号館(コージーハウス)とあります。さらに右下にはbuilding remainingとあり、この建物が現在も現存している建物であることを示しています。「Cozy」とは英語の・居心地がよい、・こぢんまりして暖かい・家庭的な という意味。その名前どおり、家庭的で親しみやすい雰囲気を大切にした宿泊施設であったと。右:RESTFUL COTTAGE(レストフル・コテージ)パネルにはRESTFUL COTTAGE西洋館2号館(レストフル・コテージ)と書かれています。「Restful」とは・安らぎのある・静かな・心休まる という意味。その名のとおり、静かな環境でゆったりと滞在できる宿泊棟として建てられました。写真を見ると、・富士屋ホテル伝統の白い下見板張り・和風の唐破風(からはふ)の玄関・洋館と日本建築を融合したデザインとなっており、富士屋ホテルを代表する和洋折衷建築の一つです。現在も宿泊棟として利用されており、クラシックホテルならではの趣を味わうことができるようだ。富士屋ホテル・ホテルミュージアムの締めくくりともいえる展示で、富士屋ホテルが長い歴史の中で受けた数々の文化財・歴史的価値に関する認定を紹介していた。(左上)① 文化庁「登録有形文化財」登録有形文化財Registered Tangible Cultural Properties登録日平成9年(1997年)12月12日登録対象・本館・食堂棟・西洋館1号館・2号館・花御殿・アイリー(Eyrie)・菊華荘この制度は、歴史的・建築的価値を持つ建物を後世へ保存することを目的としています。(右上)② 経済産業省「近代化産業遺産」近代化産業遺産Heritage of Industrial Modernization正式名称富士屋ホテルと箱根観光関連遺産群認定日平成19年(2007年)11月30日対象・本館・西洋館・食堂棟・花御殿・菊華荘これは富士屋ホテルだけではなく、「日本の近代観光の発展を支えた歴史遺産」として評価されたものです。富士屋ホテルは、日本のリゾート観光や国際観光の発展に大きく貢献したホテルとして認められています。(左下)③ 箱根町「重要文化財」箱根町重要文化財指定物件富士屋ホテル レジスターブック(宿帳)58冊指定日平成11年(1999年)6月22日宿帳には、・外国人旅行者・皇族・政治家・文豪・芸術家など、宿泊した著名人の記録が残されています。建物だけではなく、ホテルの歴史を伝える資料そのものにも高い文化的価値が認められています。(右下)④ 箱根町「特定歴史的建造物」特定歴史的建造物指定日平成30年(2018年)5月1日対象・本館・食堂棟・その他6棟地域の歴史を代表する建築として保存・活用していくための制度です。この四枚の認定証は、富士屋ホテルが単なる老舗ホテルではなく、・建築遺産・観光遺産・歴史資料・地域文化財という四つの異なる視点から高く評価されていることを示しているのだ。つまり富士屋ホテルは、「泊まる文化財」とも呼べる存在であり、建物や資料、そしてホテルそのものが日本の近代化や観光史を語る貴重な遺産となっているのであった。「GALLERY MAP資料展示 館内マップ① GALLERY COZY(ギャラリー・コージー)左側に表示されています。このエリアでは主に・ホテルの歴史・創業者・建築・サービス・花御殿・歴代経営者などを紹介する展示があった。※「宿泊客専用」と表示されているため、この一帯はホテル宿泊者のみが自由に利用できる エリアでもあるようだ。」 ② PALACE-DORI(パレス通り)右側にある通路です。こちらも・宿泊客専用 となっていた。花御殿(Flower Palace)を中心とした建物へ続く回廊になっていた。中央の館内図地図には現在の富士屋ホテルの主要施設が描かれていた。主な建物は・FLOWER PALACE(花御殿)・THE MAIN(本館)・DINING ROOM(食堂棟)・COMFY LODGE・RESTFUL COTTAGE・FOREST WING・CASCADE WING など。またYou are here(現在地)の表示があり、現在見学している場所が、花御殿地下(B1階)付近のホテルミュージアム入口であることが分かつのであった。富士屋ホテル・ホテルミュージアムの「実用(FACILITIES)」コーナーの入口。「FACILITIES実用ホテルサービスを支えた道具たち富士屋ホテルの歴史そのものはもちろんですが、それぞれの旅館経営から海外と同等のリゾートホテル経営への革新の歴史でもあります。生活様式の異なる海外からのお客様が家庭と同様にくつろげるよう、従来は見えない施設設備だけではなく、安全で安全な宿泊となるよう整えられた施設や設備はホテル経営を陰ながら支えた大切な役者ともいえます。The tools that sustained hotel serviceThe history of Fujiya Hotel certainly revolves around the architecture of its buildings,but there is also a history of innovation in how hotel management transitioned fromthat of a traditional Japanese inn to a resort hotel on a par with overseas establishments.The hotel's carefully selected furniture allowed overseas guests of different backgroundsand lifestyles to relax as if they were still at home, while the hotel's facilities and equipment played a key role in providing behind-the-scenes support to hotelmanagement so that guests could feel safe and secure during their stay.」 展示されていた史料①不明②山口仙之助の胸像 棚の中央に置かれているのは、富士屋ホテル創業者・山口仙之助の胸像です。 立派な口ひげが印象的で、これまでご覧になった展示にもたびたび登場した人物です。 仙之助は1878年(明治11年)、宮ノ下に日本初期の本格的な西洋式リゾートホテルである 富士屋ホテル を開業し、日本のホテル文化の礎を築きました。③ 昔の事務機器 胸像の下には、 ・ホッチキスのような器具 ・活字印刷や事務処理に使われた機械 ・金属製の事務用品 などが展示されていた。 ホテルの予約管理や帳簿、伝票作成などに使われた実用品であろう。④ ガラス瓶 下段には大きなガラス瓶が並んでいます。 これらは ・消毒液 ・薬品 ・洗剤 ・保存液 などを保管するための容器として使用されていたものであろう。 当時のホテルでは、衛生管理も重要な仕事。⑤洗面台 少し写っている白い陶器は、昔の洗面台。 蛇口が二つ付いており、 ・温水 ・冷水 を別々に調節する、昔ながらのホテル設備を見ることができた。⑥提灯 右上には 「富士屋ホテル」 と書かれた提灯が展示されていた。 ホテルで祭事や行事、案内などに使われたもので、和の伝統を感じさせる資料。そして「ホテルミュージアム」の総合年表展示。ホテル創業から現在まで約150年にわたる歴史を、歴代経営者と時代背景を交えながら一望できる、ミュージアムの中心的な展示。展示の構成壁面は半円形になっており、上部には日本の時代区分が並んでいた。・明治・大正・昭和・平成・令和その下には、各時代に富士屋ホテルを支えた歴代の経営者や支配人の肖像写真が配置されていた。読み取れる主な人物は、・山口仙之助(創業者)・山口正造・山口正造(H.S.K. Yamaguchi)・山口恒太郎・小佐野賢治 など。それぞれの時代にホテルを発展させた人物の功績が紹介されていた。年表の内容年表には、ホテルの歴史だけでなく、日本の近代化や観光の発展と重ね合わせながら、多彩なテーマが紹介されていた。主な内容は次のとおり。・文明開化(西洋文化の導入)・ホテル業(外国人向けホテルとしての発展)・リゾート観光開発・和洋折衷建築・外国人外交・ホテル建築ラッシュ・戦後復興・FUJIYA HOTEL CHAIN(富士屋ホテルチェーン)・保養所ブーム・近代建築・増築・改修・文化財登録・耐震化・改修工事富士屋ホテルの歩みこの年表から読み取れるホテルの歴史を簡単にまとめると、・1878年(明治11年) 山口仙之助が宮ノ下に富士屋ホテルを創業。・明治~大正 外国人旅行者の増加に合わせ、西洋館や本館などを次々に建設し、日本を代表する クラシックホテルへ成長。・昭和初期 花御殿の完成やサービスの近代化により、国内外の著名人が訪れるホテルとなる。・戦後 占領軍による接収を経て営業を再開し、日本の観光復興を支える存在となる。・高度経済成長期 フォレスト・ウイングなどを新設し、ホテルチェーン事業も展開。・平成以降 建物の保存と耐震改修を進めながら、登録有形文化財や近代化産業遺産に認定される。・令和 歴史ある建物を守りつつ、現代の快適性を備えたクラシックホテルとして営業を続けているのだ。 富士屋ホテルだけの歴史を語るのではなく、日本の近代化や箱根観光の発展と重ね合わせて 紹介しているのであった。 創業者・山口仙之助から現代まで受け継がれてきた「おもてなし」の精神や建築へのこだわり、 そして時代ごとの挑戦が一枚の壁面に凝縮されていた。 ホテルミュージアムを一通り見学した後にこの展示を見ると、それまで個別に紹介されていた 「創業」「建築」「サービス」「文化財」「防災」などが一本の歴史としてつながり、 富士屋ホテル約150年の歩みを総括する展示なのであった。展示テーマ「基軸(IDENTITY)「時空の楽園 精神の具現」富士屋ホテルが単なる宿泊施設ではなく、・「時代を超えて愛される空間」・「おもてなしの精神を形にしたホテル」であることを表現している。壁一面に並ぶ歴史資料壁面には富士屋ホテルを象徴する数多くの資料が飾られていた。■ 創業当時のポスター右上には「FUJIYA HOTEL MIYANOSHITA HAKONE」と書かれた大正から昭和初期頃の美しい観光ポスターがあった。外国人旅行者向けに制作されたもので、当時の国際リゾートホテルとしての雰囲気が伝わるのであった。■ 広告・パンフレット左側には・富士屋ホテルのパンフレット・海外向け広告・英文冊子・宿泊案内などが展示され、海外からの宿泊客を積極的に迎えていた歴史を物語っていた。■ 「140 since 1878」中央上部には140 since 1878というロゴが掲げられていまた。これは2018年に創業140周年を迎えた際に制作された記念ロゴ と。■ 富士山を描いたデザイン左中央には、富士山を大胆にデザインした作品を展示。ホテル名の由来である「富士」を象徴するとともに、日本を代表する景観とホテルとの結び付きを表していた。■ キーワード展示展示の中には富士屋ホテルを象徴する言葉も配置されていた。例えば・箱根山の王・建築群・時空の楽園・誠至(せいし) など。「誠至」は、誠を尽くしてお客様を迎えるという富士屋ホテルの精神を表している言葉。展示ケース下部のガラスケースには、・宿泊券・名刺・封筒・文房具・ホテル関連資料・古い印刷物など、ホテルの日常業務で実際に使われていた資料が展示されていた。これらはホテルの歴史を裏付ける貴重な実物資料。右側の電話交換機写真右端には古い電話交換機(交換台)が。自動電話交換が普及する以前、ホテルでは交換手が宿泊客や各客室との電話を一本一本接続していたのだ。富士屋ホテルの高品質なサービスを支えた設備の一つなのであろう。ROYALTY(皇室)皇室と富士屋ホテル明治28年(1895年)に建てられた宮ノ下御用邸は、昭和21年(1946年)に富士屋ホテルに払い下げられ、「菊華荘」となりました。そのほかにも皇室ゆかりは深く、多くの皇族の皆様に富士屋ホテルや仙石ゴルフコースでお過ごしいただいており、その時々の記念の品が富士屋ホテルに残っています。Imperial Family and Fujiya HotelMiyanoshita Imperial Villa constructed in 1895 was granted to Fujiya Hotel in 1946 and renamed KIKKA-SO. The hotel's connection to the Imperial Household also runs deep as a result of the many Imperial Family members visiting Fujiya Hotel and Sengokuhara Golf Course. Fujiya Hotel retains many commemorative items from those times.写真一覧(皇室ご来訪記録)① 昭和天皇大正6年(皇太子時代) 仙石ゴルフコースにてEmperor Showa (posthumous name of Emperor Hirohito)at Sengoku Golf Course1917 (in his Crown Prince days)② 昭和天皇昭和40年Emperor Showa1965③ 昭和天皇昭和40年Emperor Showa1965④ 上皇陛下昭和30年(皇太子時代)His Majesty the Emperor Emeritus1955 (in his Crown Prince days)⑤ 上皇后陛下昭和33年(当時は正田美智子様)Her Majesty the Empress Emerita1958 (then Miss Michiko Shoda)⑥ 上皇陛下昭和39年(皇太子時代)His Majesty the Emperor Emeritus1964 (in his Crown Prince days)⑦ 秩父宮殿下・高松宮殿下昭和2年His Imperial Highness Prince ChichibuandHis Imperial Highness Prince Takamatsu1927⑧ 常陸宮殿下昭和40年・平成8年His Imperial Highness Prince Hitachi1965 / 2006⑨ 秋篠宮皇嗣殿下平成13年His Imperial Highness Crown Prince Akishino2001ホテルミュージアム「史実の新発見(Newly discovered historical evidences)」コーナー。ホテルの保存・修復工事で発見された建築資料や遺構を紹介し、富士屋ホテルの歴史に新たな光を当てた展示となっているとのことその下には、「保存修復工事によって新たに判明した事実や発見された資料を紹介する」という趣旨の説明が添えられていたが詳細不明。保存修復工事で見つかった貴重な発見中央のモニターには、令和の大規模保存修復工事の様子が映し出されていた。左側には、工事中に発見された図面や資料が展示されていた。展示パネルには英語で、・Hidden corridor(隠し通路)・建物の構造に関する資料・修復時に判明した設計図 などが紹介されていた。右側の展示ケース右側には、建築材料や実際に取り外された部材が展示されていた。展示パネルには次のようなテーマが。・Tiles left under the ogre tiles (鬼瓦の下から見つかった瓦)・Colonial-style colors (創建当時の洋館の塗装色)・Evidence of completion year (建築年代を裏付ける証拠)展示ケースには、・屋根瓦・外壁や内装の塗装片・建築部材・漆喰や木材の断面などが並び、実物を通して修復調査の成果を紹介していた。ホテルミュージアムの「平成の大改修(2018~2020年)」を紹介する展示コーナー。2018年4月から2020年6月まで約2年2か月にわたって行われた、創業以来最大規模の保存修復工事について、その目的や内容を分かりやすく紹介していたのであった。RENOVATIONS(改修)2018-04 ~ 2020-06平成の大改修の全容詳細不詳であるが、文化財としての価値を守りながら、安全性や快適性を向上させるための工事であったことが説明されているのでだあろう。中央から下部にかけて、8枚のパネルで工事の内容が紹介されていた。① 「THE FUJIYA」改修全体のコンセプト。「伝統を守りながら未来へつなぐ」という考え方のもと、創業以来の歴史的価値を維持しつつ、現代のホテルとして必要な設備や機能を備えることを目指しました。② 「計画(PLANNING)」改修工事の計画段階を紹介。建物全体の調査や文化財としての保存方針を決定するまでの過程、建築史や構造の調査などが解説されています。③ 「保全(PRESERVATION)」歴史ある建物をどのように保存したかを紹介するパネル。老朽化した部分を補修しながらも、創建当時の意匠や建材をできる限り残す工夫が説明されていた。④ 「消失(DISAPPEARANCE)」過去に失われた建物や設備について紹介している。火災や戦災ではなく、時代の変化に伴って姿を消した施設や建築物について、古写真を用いて解説している。⑤ 「新築(NEW CONSTRUCTION)」歴史的景観に調和する新しい建物や設備の整備について紹介。写真には、新たに建設された施設や、伝統的なデザインを生かした外観が掲載されていた。⑥ 「復元(RESTORATION)」創建当時の姿へ復元した事例を紹介。歴史資料や写真をもとに、失われていた内装や意匠を忠実に再現した様子が説明されていた。⑦ 「耐震(EARTHQUAKE RESISTANCE)」建物内部に施した耐震補強工事についての展示。歴史的な外観を損なわないよう、壁や柱の内部に補強材を設けるなど、高い耐震性能を確保する工法を紹介。⑧ 「修復(REPAIR)」家具や調度品、内装の修復についての展示。写真にはソファや椅子などが写っており、客室やロビーで使用されてきた家具を職人が丁寧に修復した様子が紹介されていた。「幻の建築計画(Impossible architecture plans)」コーナー。富士屋ホテルでは、これまで多くの改修工事が計画されました。国内外の情勢や天災の影響により、その多くは実施されませんでしたが、当時の貴重な史料からは、歴代経営者たちの想いが伝わって来ます。展示されている設計図上下2段、計6枚の設計図が年代順に展示されています。1958年(左上・左下)フォレスト・ロッジ計画など、戦後の観光ブームを背景にした宿泊施設の拡張計画です。1964年(中央上)東京オリンピック開催の年に合わせて検討された増築計画。高度経済成長期に急増する宿泊需要を見据えた構想でした。1967年(中央下)ホテル全体の配置計画。建物や庭園、道路の位置関係まで詳しく描かれています。1968年(右上)ホテル敷地をさらに山側へ拡張する構想。建物を段状に配置する大規模な計画だったことが分かります。1970年(右下)大阪万博前後の観光需要を見込んだ大規模開発案。宿泊施設だけでなく、周辺施設も含めた総合的なリゾート計画となっています。青焼き図面上段の青い図面は、当時の建築設計で一般的だった青焼き(ブループリント)です。コピー機が普及する以前、建築図面は感光紙を使って複製されていました。そのため、このような青地に白線の図面になっています。下段の図面下段には原図に近い設計図が展示されていた。建物の間取りだけでなく、・客室配置・廊下・庭園・道路・敷地全体まで細かく描かれており、当時の建築計画の本格さがうかがえるのであった。このコーナーの魅力は、「実現しなかった歴史」を知ることができる点。現在の富士屋ホテルは、増改築を重ねながら歴史的景観を守り続けていますが、その裏には数多くの構想や計画がありました。経済状況の変化や自然災害、社会情勢などによって実現しなかった設計図も多く、それらは富士屋ホテルが未来をどのように描いていたかを物語る貴重な歴史資料となっているのだ。ホテルミュージアム「FLOWER PALACE(花御殿)」コーナーに展示されている、日本画家による花の原画(下絵)と完成作品を比較展示したもの。・左上・左下 ・花や草木だけが淡彩で描かれた下絵(原画)。 ・構図や植物の配置、色彩の試作が分かります。 ・余白を大きく残し、一つひとつの植物を丁寧に描いています。・右上 ・下絵をもとに色彩を加えた制作途中、または完成原画。 ・緑の葉や淡紫色の花が鮮やかに描かれています。・右下 ・最も完成度の高い作品。 ・金色を背景に、 ・紫色の花 ・桜色の花 ・白い花 ・黄色い花 ・青い蝶 が描かれ、花御殿で実際に使われた装飾画を思わせる華やかな作品になっていた。「食堂天井画の原画メインダイニングルーム・ザ・フジヤの格天井の天井画は、近代日本画の巨匠・川合玉堂に師事した渡部浩年をはじめ、本田蕉風・大沼南園・梅荘ら4名の画家によって、昭和5年(1930年)の食堂棟建設時に描かれました。159面の格間には数々の高山植物が、376面の支輪には鳥や蝶が、それぞれモチーフとなっています。当時高価であった合板に描くため、実際に描く前に図案を確認したと思われます。Original picture of dining room ceiling artworkWhen the building was constructed in 1930, the ceiling painting ofMAIN DINING ROOM "THE FUJIYA" was painted by four artists who studied underGyokudo Kawai, the master of modern nihonga (Japanese-style paintings): Konen Watanabe, Shofu Honda, Nanpo Onuma, and Baiso.Numerous alpine plants are featured in the 159 panels, and motifs of birds andbutterflies are painted on the 376 cornices. As the artists were painting onveneer board, a material that cost a lot of money in those days, they most likelychecked their designs before painting the pictures we see today.このパネルは、メインダイニングルーム「ザ・フジヤ」の格天井(ごうてんじょう)に描かれた装飾画が、どのように制作されたかを紹介していた。・制作年:昭和5年(1930年)・指導者:日本画の大家・川合玉堂・制作画家:渡部浩年、本田蕉風、大沼南園、梅荘・格間(天井板):159面に高山植物・支輪(格天井を支える部材):376面に鳥や蝶当時は天井板となる合板が非常に高価だったため、いきなり本番に描くのではなく、今回展示されているような原画(下絵・図案)を制作して構図や彩色を確認してから、本番の天井板に描かれたと考えられているとのこと。「食堂天井画」。 レトロ調イラストポスター。ホテルミュージアム内の「基軸(IDENTITY)」コーナーに展示されており、富士屋ホテルを象徴する建物や風景を現代的なデザインで表現されていた。ポスター中央には、富士屋ホテルの代表的な建物である本館(THE MAIN)が描かれていた。その特徴である、・唐破風(からはふ)の屋根・白い外壁・和洋折衷の建築様式がデフォルメされながらも忠実に表現されていた。手前には車寄せ(エントランス)があり、往年の高級ホテルらしくクラシックカーも描かれていた。いただいたパンフレットにもこの絵が表紙となっていた。「HOTEL BROCHURE(ホテルパンフレット)」の展示コーナー。創業以耒、お客様に情報をお届けする大切な手段として、ホテルプローシャが制作されてきました。その時代に求められるホテルの魅力を最大限にお伝えでさきるよう、表紙、全館マツツ、施設紹介などの表現方法に工夫が凝らされました。情報伝達手段が多様化した現在においても、ホテルぶランドを熟成し象徴化する「富士屋ホテルプローシャ」の存在意義は変わらず受けがれています。富士屋ホテル館内マップ。建物ごとに・客室・レストラン・バー・ラウンジ・温泉・売店などが分かりやすく示され、宿泊客が館内を散策しやすいよう工夫されている。写真入りで各施設を紹介している点も特徴。富士屋ホテル外観マップ。ホテル本館を中心に、・花御殿・フォレスト・ウイング・カスケード・ウイング・菊華荘・庭園・レストラン・温泉施設などの位置関係が一目で分かるようになっていた。「実用・サービス用品」展示コーナー。宿泊客には普段見えない、ホテルを支えてきた道具や制服、宣伝用品などが展示されていた。左右の大きな番傘最も目を引くのが、左右に展示された富士屋ホテルの番傘。左の番傘には「富士屋ホテル」の文字が大きく書かれていた。右の番傘には「HOTEL」と「富士屋」の文字が見えた。これらは宿泊客の送迎や雨天時の案内に実際に使用されたもので、ホテルの「顔」ともいえる備品。法被(はっぴ)番傘の下には2着の法被が展示されていた。デザインには、・富士山・ホテル本館・富士屋ホテルのロゴなどが描かれており、開業記念行事やイベント、スタッフの制服として使われていたものか。中央の展示ケース・古いタイプライター・手動計算機・事務機器・ホテルで使用された機械類・金属製の器具などがあり、フロントや事務所で実際に使われていた備品。ラウンジ?と思われる空間。・中央に黒いグランドピアノ・左奥にバーカウンター・ゆったりと配置された革張りのソファやテーブル・高い天井と太い木製の柱・大きな窓から自然光が差し込む落ち着いた雰囲気売店(ショップ)に展示・販売されている「寄木細工(よせぎざいく)」のリンゴ型小物入れ。箱根を代表する伝統工芸品である寄木細工を、現代的なデザインで表現した人気商品。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.01
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「箱根町港」を後にして、ナビの設定を「石垣山一夜城」に設定して、箱根駅伝復路の国道1号線を下る。途中、久しぶりに「宮ノ下・富士屋ホテル」の見学をしようということになり急遽訪ねたのであった。駐車場に車を駐め、「宮ノ下」交差点手前の入口からホテル敷地内に入る。 前方にあったのが「食堂棟」 。「HOTEL SHOP 」の入口を見る。 そしてフロントに行き、見学希望を伝え、「フロアガイド」をいただく。そして頂いた「フロアガイド」👈️リンク を見ながら散策開始。まずは「本館地下」から。 「クラシックホテルの仲間たち」と題して、戦前・戦後の日本の西洋ホテルライフの礎を築いてきた、富士屋ホテル、奈良ホテル。、ホテルニューグランド、日光金谷ホテル、軽井沢万平ホテル、東京ステーションホテル等が紹介されていた。左側にはホテルの「タグラベル」が並んでいた。 「CLASSIC HOTELクラシックホテルの仲間たち時代浪漫の真髄に触れる日本のホテルの黎明期に創業し、戦前・戦後を通じて西洋のホテルのライフスタイルを具現化してきた老舗ホテル。古い時代へのセンチメンタリズムや若いジェネレーションが憧れるレトロ感覚に応え六つの歴史的ホテルが手を結びました。ホテルには時代に応じたさまざまな人々が行き交い、多くの時間が降り積もってしまったかのような静寂と清潔な佇まいは、近代のホテルには見られない「凛」と安らぎの空間を見事に表現いたします。いま、ホテルの新しい世界にその門戸を開き始めたクラシックホテル探索の旅に是非お出かけください。・富士屋ホテル ・奈良ホテル ・ホテルニューグランド・日光金谷ホテル ・軽井沢万平ホテル ・東京ステーションホテル」 「西洋の品格を受け継ぐホテルたち日本各地には開港以来多くの外国人が訪れ、そのためにクラシックホテルとして人々を迎えてきたホテルがあります。歴史や伝統を受け継ぎながら日本の風土や文化と融合し、それぞれの地域ならではの魅力を育んできました。クラシックホテルは、国内に現存する歴史あるホテルとして、建築や調度品、サービス、そして受け継がれるおもてなしの精神など、今日まで大切に守られています。Hotels that assumed Western dignityThe prestigious hotels that have inherited the dignity of Western-style hospitality sinceJapan opened to the world. These classic hotels have welcomed guests fromaround the globe while preserving their history, architecture and traditions. They continue torepresent the elegance and hospitality of a bygone era.「FUJIYA HOTEL」タグラベル。 「SINCERITY至誠富士屋ホテルサービスの真髄創業した明治11年(1878年)以来、日本の心、「おもてなし」の精神として富士屋ホテルに脈々と引き継がれてきたものが「至誠」です。「至誠」とはこの上なく誠実なこと、まごころ。富士屋ホテルのサービスすべてに通ずる信念です。時を超えて、富士箱根の自然とともに人々を魅了し続けているのは日本精神の結晶といえる、この「至誠」なのです。The essence of Fujiya Hotel servicesSince Fujiya Hotel's establishment in 1878, the Japanese mindset, namely the spirit ofhospitality or omotenashi, has been passed down in the form of "sincerity," or utmost honesty and devotion.This steadfast belief is manifested in all of Fujiya Hotel's services.One could say this sincerity is the crystallization of the Japanese mind, that has continued to icaptivate people, along with the nature of the Fuji-Hakone region,over the years.」 このパネルは、富士屋ホテルが創業以来最も大切にしてきた理念「至誠」を紹介した展示。単なる接客技術ではなく、日本の「おもてなし」の精神を受け継ぎ、お客様に真心を尽くすことこそが富士屋ホテルのサービスの原点であることを伝えているのであった。「THE KING OF HAKONESENNOSUKE YAMAGUCHI(肖像写真)初代社長 山口仙之助「箱根山の王」と称された男のどかな湯治場であった宮ノ下の地に突如として現れた洋館は、それまでの旅館業では考えられない新しいホテル業の象徴でした。それを実現したのが富士屋ホテルの創業者・山口仙之助です。ホテル経営だけではなく道路の拡張などといった地域貢献を通じて、湯治場としての箱根を一大リゾート地に牽引した功績は、今もなお語り継がれています。The man described as "The King of Hakone"The Western-style building that suddenly appeared in the late 19th century was a newtype of hotel unlike any traditional Japanese inn.This was realized by Sennosuke Yamaguchi, the founder of Fujiya Hotel.He was more than just a hotel manager-his achievements in developing Hakone into one of the great hot spring resort desstinations through his contributions to thecommunity,such as by the expansion of roads in the area,is a storystill talked abouttoday.この展示は、富士屋ホテルの発展のみならず、現在の箱根観光の礎を築いた山口仙之助の功績を紹介していた。ホテル建設だけにとどまらず、交通インフラの整備を進めた先見性から、彼は「箱根山の王(The King of Hakone)」と称され、箱根近代観光の立役者として今も高く評価されているのだ。山口仙之助生年:嘉永3年(1851年) 没年:大正4年(1915年)養父・山口条載蔵が支記人を務めていた横浜・神風楼で外国人と接した経験や、20歳の時に日本を発ち、サンフランシスコなどで苦労を重ねた海外経験を原点として、ここ箱根・宮ノ下に日本初の本格的な洋式ホテルを開業した。 Sennosuke Yamaguchi1851–1915Based on his experience of interacting with foreigners at Shinpu-ro Inn, Yokohama, where his adoptive father Kumazo Yamaguchi was the manager, and his overseasexperience when he left Japan at the age of 20 and had some tough timesin San Francisco and elsewhere, he opened Japan's first full-fledged Western-stylehotel here in Miyanoshita, Hakone.山口仙之助は、富士屋ホテルの創業者です。横浜で外国人と接した経験と、若い頃の渡米経験を活かし、1878年(明治11年)に箱根・宮ノ下で日本初の本格的なリゾート型洋式ホテル「富士屋ホテル」を開業しました。外国人旅行者を迎えるための近代的なホテル文化を日本に根付かせた、日本のホテル史における先駆者の一人として知られています。ネットから。「HOT SPRING 温泉・CAT PAW BATHTUB 一般的に「猫脚バスタブ(猫足バスタブ)」を指す英語表現。 動物の「猫の足(Cat's paw / Cat paw)」をモチーフにした、 アンティーク調で優雅なデザインの置き型浴槽(クラウフット・タブ)を意味しています。 MERMAID BATHかつて花御殿にあった「人魚の湯(マーメイドバス)」。「MUSTACHESHOZO YAMAGUCHI(中央肖像)THE LATE MR. H. S. K. YAMAGUCHI髭のヘンリー「H. S. K.Yamaguchi」 は「Henry (海外生活をしていた時に労働者仲間から呼ばれていたニックネーム)」、「Shozo(正造)」、「Kanaya (金谷)」を組み合わせた3代目社長・山口正造のサインです。金谷ホテル創業者の次男であった金谷正造は山口家に婿入りし、海外のホテルと肩を並べる富士屋ホテルの地位を築き、多くの賓客と交流を深めました。正造は訪れたお客様に日本の文化と精神を伝えることに尽力しました。特徴のある髪は正造の存在感を立たせるとともに、交流の輪を広める重要な役割を担っていたことでしよう。Henry and his mustacheShozo Yamaguchi signed his name as "H.S.K. Yamaguchi." "H" was for Henry, the nickname bestowed on him by his work colleagues when living overseas,"S" was for Shozo, and "K" was for Kanaya. Born the second son of the founder ofKanaya Hotel, he was adopted into the Yamaguchi family through marriage, cemented Fujiya Hotel's position to rank alongside hotels in other countries, and deepened exchanges with many distinguished guests.Shozo strived to convey Japanese culture and spirit to hotel guests. His distinctivemustache served to enhance his presence and most probably played a key role inexpanding his socialnetwork.ネットから。「国際口ひげクラブ(International Mustache Club)」日本・箱根の伝説的な富士屋ホテルのメインホールの壁には、(数多くある興味深い展示品の一つとして)これが飾られていた。「口ひげのための国際クラブ」があった(今もある?)なんて、ご存じでしたか?写真はネットから。1931(昭和6)年、当時の専務取締役、山口正造氏が海外宣伝効果を高める為に結成。入会条件は最低2インチ(約5cm)以上の髭があること。10カ国43名の「髭自慢」が登録。髭を剃ったら、退会しなければならなかった と。MENUS & PRINTING毎日のメニューを印刷するホテルの建物管理を行う営繕部作業場の奥に、印刷品があります。現在は使われていませんが、かつてここでは毎日、ディナーメニューが印刷されていました。宿泊客の皆様に喜んでいただけるよう、厨房では多くの料理人が腕を振るっていますが、活字を拾ってメニューを印刷する職人もまた、ディナーを彩る富士屋ホテルの大事な仲間の一人でした。Menus printed dailyAlthough not in use today, at the back of the Buildings and Facilities Maintenancesection's workroom stands a printing press.It was there that the restaurant dinner menus used to be printed every day.Many chefs gave full play to their abilities in the kitchen in order to pleasethe hotel guests, but staff skilled at setting up types to print the menu cardsalso played a keyrole in enlivening dinners at Fujiya Hotel.」 展示品(判読できるもの)・活字ケース(木製)・活版印刷用活字・The Fujiya Hotel Christmas Greeting(クリスマス・グリーティングカード)・INDEPENDENCE DAY DINNER(独立記念日ディナーメニュー)・活版印刷用の版・インキローラー・印刷道具「HOTEL MANAGERKENKICHI YAMAGUCHI戦後の富士屋ホテルの発展に寄与した男第二次世界大戦後の連合軍による接収時に社長を務めていたのは14代目社長・山口健吉です。一般営業ができないなかでも、米軍の求めるホテルサービスを推進しました。安全衛生面の徹底やレクリエーションの創出、すきやきの提供のほか、菊華荘の開業や茶室の移築、東京・大阪案内所の開設、フォレスト・ロッジの新築を行うなど、戦後の激動のなか富士屋ホテルの発展に寄与しました。The man who contributed to the hotel's development after World War IIKenkichi Yamaguchi was president of Fujiya Hotel when it was requisitioned by the occupation forces after World War II. Despite its not being able to operate as usual, he promoted hotel services as required by the U.S. military. He took steps to ensurea safe and healthy environment, created recreational opportunities, and providedsukiyaki, for example.Amid the post-war turmoil, he contributed to Fujiya Hotel's development by openingKIKKA-SO, relocating the tea ceremony room, setting up Tokyo and Osakainformationcenters, newly constructing FOREST LODGE (now called FOREST WING), and so forth.」 山口健吉生年:明治18年(1885年) 没年:昭和43年(1968年)三重県桑名で蝋燭屋を営む商家であった倍井家の四男として生まれる。早稲田大学卒業後、日本郵船株式会社に入社し、外国航路の客船でパーサーとして勤務。その後、創業者・山口仙之助の次女・貞子の婿として富士屋ホテルの経営に携わる。1941年から5年間にわたって温泉村の村長を務めた。ネットから。「TRAINING SCHOOLサービス品質の向上かつて旅館は「ヤド(夜止屋)」と呼ばれ、夜の時間を過ごす場所と考えられていました。そのようななか、富士屋ホテルでは合理的な経営とホスピタリティを重要視していました。そして、昭和5年(1930年)、5代目社長・山口正造は日本全国の旅館・ホテル業界のサービス向上のために富士屋ホテルトレーニングスクールを開校しました。Ensuring a positive guest experienceIn the past, Japanese inns used to be called yadoya, which simply operated as places for visitors to spend the night. By contrast, Fujiya Hotel attached importance to rational management and hospitality.Thus, in 1930, Shozo Yamaguchi opened Fujiya Hotel Training School in order to raisethe level of services at Japanese inns and hotels across the country.」この展示は、富士屋ホテルが1930年に日本でいち早く本格的なホテルマン育成機関「富士屋ホテル・トレーニングスクール」を設立し、接客・ベッドメイキング・テーブルサービスなど、ホテルサービス全般を体系的に教育していたことを紹介するコーナー。現在のホテル専門学校やホスピタリティ教育の先駆けともいえる、富士屋ホテルの先進的な取り組みが分かる貴重な展示であった。「FUJIYA HOTEL & KANAYA HOTEL日本のクラシックホテルを牽引した兄弟3代目社長・山口正造は日光・金谷ホテル創業者・金谷善一郎の次男です。善一郎は日光で金谷カッテージ・イン(現在の金谷ホテル)を明治6年(1873年)に開業しました。その後、金谷ホテルは長男・真一に引き継がれました。同業者として手を取り合い、時には苦難を分かち合ってホテル経営にまい進した兄弟の情熱が、2つのホテルを今なおクラシックホテルとして輝かせています。Brothers at the forefront of Japan's classic hotelsThird-generation president Shozo Yamaguchi was the second son of Kanaya Hotelfounder Zenichiro Kanaya. Zenichiro opened Kanaya Cottage Inn (now Kanaya Hotel) in Nikko in 1873.Being in the same line of business, both families joined hands to share in each other's hardships on occasion, and the passion of the two brothers pushedahead as hotel managers is why both establishments are still illustrious classichotels today.」 展示品手前には、金谷ホテルのロゴ入りの陶器(洗面器・水差し)が展示されていた。右側には、富士屋ホテルと金谷ホテルの歴史を紹介した当時のパンフレット・冊子が展示され、両ホテルの深い交流の歴史を伝えています。この展示は、富士屋ホテルと日光・金谷ホテルが、山口家と金谷家という兄弟の絆によって結ばれ、日本のクラシックホテル文化を共に築いてきたことを紹介するコーナー。日本を代表する二つの老舗ホテルの歴史的なつながりを知ることができる、興味深い展示となっていた。「HOTEL SERVICESホテルサービスの多様化宿泊客の増加に伴い、多様なサービスが求められるようになりました。多くの職種が生まれて分業が進み、掃除、洗濯、調理、美容・理容、設備、営繕と部署が細かく分かれていきました。3代目社長・山口正造は機械化を進めるべく多くの設備を導入しましたが、それでも充実したホテルサービスを維持するためには多くの人手を要することとなりました。Diversification of hotel servicesAs the number of hotel guests increased, so did the various services required, which in turn created a variety of different job types.Each hotel department had its own specialized role, such as cleaning, laundry, cooking, hairdressing, facilities & equipment, and building maintenance.Shozo Yamaguchi introduced a lot of mechanization equipment. However, it requiredenormous labor to maintain the quality of hotel services.」展示品写真には、ホテルのさまざまな職種が紹介されていた。・barber(理髪)・washing(洗濯)・telephone operator(電話交換手)・cleaning(清掃)手前の展示品・タイプライター(Remington)・天秤ばかり(Balance scale)この展示は、富士屋ホテルが近代的なホテル運営を実現するため、職種を細分化し、それぞれの専門スタッフによる質の高いサービスを提供していたことを紹介しています。また、機械化を積極的に進めながらも、最終的には「人の手」によるきめ細かな接客こそがホテルの品質を支えていたことを伝える展示となっていた。「FLOWER PALACE「花御殿」という美術館華麗な和風の意匠や繊細な建築装飾、赤い欄干のついたバルコニー。富士屋ホテルの建築史において頂点を示す作品とされる花御殿は、3代目社長・山口正造が設計にあたり、昭和11年(1936年)に完成しました。各部屋には、宿号ではなく花の名前がつけられ、日本画家・三井翠松が部屋ごとに描いた花の絵を飾りました。同様の絵が描かれたルームキーは「花鍵」と呼ばれ、宿泊客の皆様を花御殿という非日常の空間へと誘います。The art gallery — FLOWER PALACEDistinguished by an ornate Japanese-style design, complex roof structure, and bright-red balcony balustrades, FLOWER PALACE, which is considered to be the pinnacle of Fujiya Hotel's architectural history, was designed by itsthird-generationpresident, Shozo Yamaguchi, and was completed in 1936.Instead of numbers, rooms were assigned the names of flowers, and floral motifs for each room were painted by nihonga (Japanese-style paintings) artist Baisui Mitsui. Room keys adorned with the same design are called "flower keys," enticing hotel guests to the extraordinary space that is FLOWER PALACE.展示品ケース内には、花御殿で実際に使用されていた「花鍵(Flower Keys)」 が展示されています。各鍵札には、・Lily of the Valley(スズラン)・Narcissus(水仙)・Iris(アヤメ)・Camellia(ツバキ)・Azalea(ツツジ)・Peony(ボタン)・Hibiscus(ハイビスカス)・Balsam(ホウセンカ)など、実際の客室名となった花々が描かれています。この展示は、花御殿が単なる宿泊施設ではなく、「花をテーマにした美術館」として設計されたことを紹介しています。客室ごとに異なる花の日本画が飾られ、宿泊客は花の名前が付けられた部屋と「花鍵」に迎えられることで、芸術と建築が調和した特別な滞在を楽しめるよう工夫されていました。」 近づいて。「SAFETY & SECURITYメインロビーに飾られている「達磨」の水墨画は、焼失して失意の底にあった3代目社長・山口正造のもとに届いた贈りものです。富士屋ホテルのたくましさの精神の象徴でもあります。Daruma ink wash painting was a present for Shozo Yamaguchi, who was in despairbecause of the Great Kanto Earthquake, from his friend.It is the symbol of Fujiya Hotel's spirit: never give up.富士屋ホテルの歴史は、災害からの再生の歴史富士屋ホテルが最初に経験した災害は明治16年(1883年)に発生した宮ノ下の大火でした。これにより、創業者・山口仙之助が建てた洋館は一夜にして焼失しました。長い歴史のなか、火災だけではなく、地震、大雨、噴火など様々な苦難をスタッフ全員で乗り越えてきました。その経験を活かし、私たちは定期的な訓練と時代に合ったテクノロジーで富士屋ホテルを守り続けています。The history of Fujiya Hotel is one of disaster recoveryFujiya Hotel's first experience of a disaster was the Great Miyanoshita Fire of 1883. The original Western-style building constructed by founder Sennosuke Yamaguchi wasburned to the ground overnight.In the course of its long history, all staff of Fujiya Hotel have overcome numerouscalamities other than fires, such as earthquakes, torrential rains, and volcanic eruptions. We will continue to utilize these experiences and safeguard Fujiya Hotelthrough regulardisaster drills and with the use of modern-day technology.防災(Disaster prevention)・関東大震災で被害を受けた西洋館 (Cozy lodge restored after the Great Kanto Earthquake)・平成の大改修における耐震補強 (Earthquake strengthening in recent major renovations)防火(Fire protection)・宮ノ下の大火で焼失した富士屋ホテル初代洋館 (The original Western-style building that burned in the Great Miyanoshita Fire)・自衛消防団による消防訓練 (Firefighting training by the fire brigade)展示品写真下部に展示されているものは、・消防鳶口(Firefighting tool)・カンテラ(Lantern)・消防用ベル(Fire bell)など、富士屋ホテルで実際に使用されていた防災・防火用品。この展示は、「富士屋ホテルの歴史は、災害を乗り越えてきた歴史でもある」というテーマで構成されていた。1883年の宮ノ下大火をはじめ、関東大震災や火災、豪雨など幾多の試練を経験しながら、そのたびに再建を果たしてきた歩みと、現在も続く防災・防火への取り組みが紹介されていた。」 ネットから。宮ノ下の大火で焼失した富士屋ホテル初代洋館。そして現在の「THE FUJIYA HOTEL富士屋ホテル」 近づいて。敷地マップ(主な建物)・FLOWER PALACE(花御殿)・FOREST WING(フォレスト・ウイング)・RESTFUL COTTAGE(西洋館)・COMFY LODGE(本館洋館)・THE MAIN(本館)・CASCADE WING(カスケード・ウイング)・DINING ROOM(食堂棟)・KIKKA-SO(菊華荘)・GREENHOUSE(温室)・GARDEN CHAPEL(ガーデンチャペル)・OUTDOOR POOL(屋外プール)・WATERFALL(滝)・PARKING(駐車場)・PICOT(ベーカリー&スイーツ ピコット展示されていた「本館」正面入口の写真。 羽を伸ばした鳳凰をかたどった木の彫刻が入口の回転扉の上に。富士屋ホテルで、最も古い彫刻の一つ。出入り口を覆うよう配置されていた。そして「本館」を「洋館」側から見る。手前に「サンパーラー」が。展示されていたフロント前の階段 の写真。以下の写真は、以前に訪ねたときの写真。この時は、フロントにて見学、写真撮影の了解を頂きました。フロント。受付カウンターの見事な彫刻は昭和5年製作のもの。けやきの一枚板を使用。源頼朝が「富士の巻狩り」👈リンク に興じる様子を描いているのだと。富士の巻狩りとは、建久4年(1193年)5月に源頼朝が多くの御家人を集め、富士の裾野付近を中心として行った壮大な巻狩のことである。左手に富士山の姿。中央に源頼朝の姿が。柱にもいろいろな彫刻が施されていた。主役は尾長鶏(おながどり)。ヘレン・ケラー女史が昭和12年に来館した際、ホテルで飼育していた尾長鶏を可愛がってくれた。2度目に訪れた際、尾長鶏が亡くなっていたため、彼女のために事前に彫刻をほどこし、愛でられるようにしたのだと。「尾長鶏」の裏の柱の彫刻には梅の木が刻まれていた。「梅の枝と花」。以下、展示コーナー・「ルー・ド・ラ・ぺ」 の展示写真に戻ります。レリーフ画「野馬追」昭和10年(1935年) 小倉右一郎作。レリーフ画「羽衣」昭和10年(1935年) 小倉右一郎作。ホテル・ミュージアムへ。赤い絨毯の部屋。箱根・宮ノ下の天然温泉を使用した温泉プール。室内には、クラシカルな趣を感じる絵画も飾られていた。
2026.07.31
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そして早朝5時前に起床し、温泉風呂へ。そして朝食を済ませ、今回も「大涌谷」に向かう。雨の影響か?噴煙の量が前回よりかなり多かったのであった。4月から4回目の大涌谷。大涌谷の背後にそびえる「とがった山」は、箱根火山の最後のマグマ噴出によって形成された「冠ヶ岳(かんむりがたけ)」 大地の奥深くから噴き上がる白煙が風に揺れ、山肌をゆっくりと包み込んでいきます。荒々しく削られた斜面には火山活動の痕跡が刻まれ、その圧倒的な迫力は自然の偉大な力を物語っています。静かにそびえる山々と絶え間なく立ちのぼる噴煙が織りなす光景は、生命を育む地球の鼓動を感じさせる、まさに大涌谷ならではの壮観そのもの。岩肌から立ち上る白煙は、まるで大地の息吹そのもの。硫黄の香りが漂う谷には、数千年にわたる火山活動が刻んだ壮大な歴史が息づいています。自然の偉大さを前にすると、人の存在がいかに小さなものかを実感させられるのであった。空中へ大きく張り出した展望デッキ・息吹のデッキの先に立つと、目の前には白煙が立ち昇る大涌谷の壮大な景観が広がるのであった。噴煙は風に乗ってゆっくりと谷を包み込み、火山が今なお息づいていることを実感させた。その雄大な自然を前に、人々は国籍を問わず皆歓声を上げ、シャッターを切りながら、箱根でしか味わえない感動のひとときを満喫していたのであった。「くろたまごモニュメント(北)」前で旅友3人を。 この日も、1個食べると7歳長生き出来ると言われている、「黒たまご」1袋・4個入を購入しました。 黒たまごの椅子に座って。Nさんから頂いた「黒たまご」を。 そして「大涌谷」を後にして、箱根町港へ箱。「箱根駅伝」のゴール地点で記念撮影。そして箱根海賊船のりば「箱根町港駅」を訪ねた。 「箱根海賊船のりば 箱根町港」。 駅舎内に入る。壁には「海賊船」の写真案内が。 一番左に「パイオニア号」 Pioneer 「パイオニア号」は、神奈川県の芦ノ湖で運航されている「箱根海賊船」の記念すべき初代の船.■初代海賊船「パイオニア号」の概要 ・就航期間:1964年(昭和39年)7月 〜 1991年(平成3年) ・デザインのモデル:1630年代のフランス戦艦「セント・フィリップス号」 ・特徴: ・日本初の本格的な海賊遊覧船。 ・日立造船(現:カナデビア)が製造。 ・赤を基調とした派手でゴージャスな外観。 ・約470トンの鋼船。 ・誕生の背景: ・当時、西武グループとの間で激しい観光開発競争(通称:箱根山戦争)が起きて いました。 ・小田急側が劣勢を覆すための切り札として投入し、子どもたちから圧倒的な人気を 集めました「ビクトリア号」 Victoria 1980年~2007年 (昭和55年~平成19年) モデル船:サブリン・オブ・ザ・シーズ号(イギリス)「ロワイヤル号」 Royal 1987年~2013年 (昭和62年~平成25年) モデル船:ソレイユ ロワイヤル号(フランス)。「バーサ号」 1991年~2019年(平成3年~平成31年)モデル船 パーサ号(スウェーデン) 「ビクトリー号」。 Victory 2007年~現在就航中 平成19年~ モデル船 ビクトリー号(イギリス) 「ロワイヤルⅡ」 RoyalⅡ 2013年~現在就航中 (平成25年) モデル船 ロワイヤル・ルイ・(フランス)。そして現在就航中の箱根海賊船「クイーン芦ノ湖」👈️リンク が入港。 船首に立つサモトラケのニケをモチーフとした女神像。そして「箱根遊船 大茶会」👈️リンク。そして芦ノ湖の先には純白の富士山の姿が!!??白雲が富士山の形に。天気が良ければ!!。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.30
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フランス式庭園の箱根強羅公園には中央に「噴水広場・噴水池」があった。周りにはベンチが並んでいるので、休憩で腰を下ろす人が多くいた。噴水や噴水の周りの草花を眺めながら、ベンチに座ってのんびりと過ごす時間は癒しのひととき。南側を見る。北側に建つ「Cafe Pic」を背景に。 サンドイッチ料理店「一色堂茶廊」。 白いアジサイが両側に咲く坂道を上って行った。左側。実はすべての紫陽花が色を変えるわけではありません。白い紫陽花は、もともと色の変化に関わるアントシアニンをほとんど含んでいないため、土壌の性質が変わっても白いままなのです。右側。こんもりとした毬のような花が美しい白いアジサイ、「アナベル」。ライムグリーンのつぼみから徐々に純白に移り変わる花の様子は清涼感を放ち、爽やかに初夏の訪れを知らせてくれます。一見、装飾花(花びらの部分)が主体の一般的な西洋アジサイと同じようにも見えますが、大きく異なるのは花を付けた様子と葉の雰囲気。細い茎をスッと縦に伸ばし、先端に付けた花は明るく華やかです。葉はいわゆるアジサイよりも薄く、ひらりと繊細な印象。「強羅遊園開拓之碑」。「強羅遊園開拓の碑強羅公園は、大正三年(一九一四)び開園された、日本ではただひとつのフランス式整型庭園です。強羅公園着工当時、この地には人家も無く、荒凉として石ばかりの風景でした。そのような場所が、別荘地・温泉他として開発されるに到った状況を、この碑文は書きとどめています。建碑者は宮ノ下温泉の旅館主、沢田鋓義で、彼はこの碑の他、箱根各地の各所や旧跡に碑を残してその顕彰につとめました。 箱根強羅公園 園長」「バラ園」はエピローグへと。 そして旅友・元同僚の2人と久しぶりの再会。箱根強羅公園の「シンボルツリー」が正面に。園内のフランス式庭園の中央に堂々とそびえ立つヒマラヤ杉。鮮やかな青のガクアジサイ。近づいて。こちらは、こんもりとした毬のような花ではない白いアジサイ。アジサイを「紫陽花」と書くのは、中国・唐時代の詩人である白居易(はくきょい)が、ある寺院で咲いていた美しい花に「紫陽花」という名前を付けたことが由来です。この漢名がのちに日本へ伝わり、定着したのだ と。漢字の由来と歴史・中国での命名: 白居易が花の名前を知らないまま「与君名作紫陽花(君を紫陽花と名付けよう)」と 詩に詠んだのが始まりとされています。なお、彼が名付けた花は本来のアジサイではなく、 ライラックなど別の花だったという説もあります。・日本での当て字: 日本ではもともと「アジサイ」を「集真藍(あづさあい)」と呼んでおり、これは 「藍色の小花が集まって咲く様子」を表していました。 平安時代に漢名である「紫陽花」が日本に伝わった際、この当て字として用いられるように なりました と。こちらは「カシワバアジサイ」それとも「ノリウツギ」? バラ「アンジェラ」は懐かしい名前なのだ。 「イワガラミ」?であっただろうか。装飾花は白色で、萼片が1個つく。 萼片は長さ1.5〜3.5cm、幅1〜2cmの卵形〜広卵形で、脈が目立つ。 両性花の花筒は長さ約1.5mmの倒円錐形で、短毛が密生する。花弁は白色で5個、先端はくっついたまま開かず、帽子を脱ぐように脱落する。そして戻って再び白いアジサイを反対方向から。「アナベルアメリカノリノキの園芸品種。花序は大きく、白色の装飾花だけからなります。」 再び噴水を見る。「一色堂茶廊」を再び。 「護見箱 Trash Box」「護美箱(ごみばこ)」とは、「ゴミを入れることで周囲の美しさを護る」という意味を込めて、寺院などで使われ始めた当て字です。日本の公的なゴミ箱の歴史は明治時代に始まりましたが、「護美」という言葉は、禅宗の教えや仏教的な美化の思想から生まれました。ゴミ箱の歴史と「護美箱」の経緯・明治時代(ゴミ箱の誕生) 1900年(明治33年)に「汚物掃除法」が制定されたのをきっかけに、 日本で初めて「塵芥箱(じんかいばこ)」と呼ばれる蓋つきの木箱が設置されました。 これが現在のゴミ箱のルーツとされています。・昭和時代(「護美」の広まり) 時代が進むにつれ、曹洞宗の「永平寺」や奈良の「東大寺」などの寺院において、不要な ものを捨てる箱を「美しさを護るための箱」=「護美箱」と呼ぶようになりました。 これは修行の一環である掃除や、万物を大切にする禅の思想を背景にしています。・現在(日常への浸透) 元々は寺院や特定の施設で用いられていた言葉ですが、近年ではその前向きな当て字の魅力が 広まり、環境美化の観点から一般家庭のインテリアや学校教育、環境保全の啓発活動などでも 広く使われるようになっています。 「とんぼ玉工作堂」。 「とんぼ玉とんぼ玉(とんぼだま)とは、中央に穴のあいた美しい柄入りのガラス玉の総称です。高温で溶かしたガラスに色ガラスで模様をつけ、トンボの複眼に見立てられたことから名付けられたとされています。現在では、かんざしやネックレスなどのアクセサリーとして親しまれています。」と。 入口。様々な商品案内が置かれていた。約30分の製作体験も出来ると。店内。カシワバアジサイ、花があまり長くない種類か?カシワバアジサイ「ハーモニー」か?「Hydrangea quercifolia 'Harmony'カシワバアジサイ「ハーモニー」カシワバアジサイの園芸品種。装飾花は白色の一重咲で、垂れ下がった大きな円錐花序に多数、密につきます。アジサイ科(旧 ユキノシタ科)」 カシワバアジサイ、花が細長い種類か?カシワバアジサイ「スノーフレーク」。東屋(あずまや・休憩所)。壁面に描かれたカラフルな絵は、箱根クラフトハウス20周年を記念して、小田原市の福祉事業所 アール・ド・ヴィーヴル のアーティストたちが制作したライブペインティング作品。2024年に開園110周年を迎えた箱根強羅公園の記念事業として、この東屋が鮮やかなアート作品へと生まれ変わりました と。そしてこの日の散策を全て終え、仙石原にある宿泊場所に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.29
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昨日・7月27日のわが家の前の畑に咲くヒマワリ・向日葵の花を我が部屋からズームして。この畑は、実家の畑ですが、維持管理に手が回らず、湘南台にお住まいのTさんが「趣味の菜園」として多種の野菜栽培に使ってくれています。我が部屋からズームして。 家の前の道路の出て撮影。日本に伝来した当初、向日葵はその極めて特異な姿から、さまざまな和名や漢名で呼ばれていました 。寛文6年(1666年)に刊行された、中村惕斎による日本初の図解百科事典『訓蒙図彙』には、「丈菊、俗に言う天蓋花、一名迎陽花」として紹介されています 。背丈が人の高さを優に超えることから菊に例えて「丈菊」と呼び、また仏教の厳かな法具に似ていることから「天蓋花」、太陽を迎える性質から「迎陽花」と名付けた先人たちの鋭い観察眼が光ります 。その後、元禄8年(1695年)に江戸の著名な園芸家である三代目伊藤伊兵衛が著した総合園芸書『花壇地錦抄』において「日廻」の名で紹介されると、元禄13年(1700年)頃には「ひまわり」という呼び名が広く定着していきました 。ここで見落としてはならないのは、漢字表記である「向日葵」がたどった深遠な歴史です 。現代の私たちはこの漢字を「ひまわり」と当然のように読みますが、実はヒマワリが日本に渡来するはるか昔、平安時代の室町写本に見られる『和歌童蒙抄』などにおいて、すでに「向日葵」という漢字表記が存在していました 。これは、唐代の詩人である白居易が文化7年(1810年)の作として詠んだ詩の中の一節「負気衝星剣、傾心向日葵」に端を発するものです 。この詩における「向日葵」は、天子や愛する者へ忠誠を尽くし、太陽に心を傾けるアオイ科の植物を指していました 。江戸時代の本草学者や歌人たちは、新しく渡来した「日廻り」が、まさに太陽を追って首を傾ける姿を目にしたとき、古典文学の中で長年培われてきた「絶対的な敬慕と忠誠」の象徴たる「向日葵」という美しき言葉を重ね合わせました 。こうして異国の新来植物は、日本の王朝文学が誇る高雅な精神の文脈へと幸福な合流を果たしたのです 。とネットから。ひまわり(向日葵)の別名には、主に日輪草(ニチリンソウ)や日車(ヒグルマ)など、太陽を連想させる名前があります。詳しい呼び方や外国語での名称は以下の通りです日本での主な別名・日輪草(ニチリンソウ):太陽のような丸い大きな花を輪に見立てた呼び方・日車(ヒグルマ) / 日車草(ヒグルマソウ):黄色い花びらを車輪に見立てた呼び方・日回り草(ヒマワリソウ) / 日廻り(ヒマワリ):太陽を追って花が回る性質に由来する呼び方・天竺葵(テンジクアオイ) / 日向葵(ヒュウガアオイ):アオイの仲間のような葉や姿から ついた呼び方・天蓋花(テンガイバナ):上を向いて大きく咲く姿を表した呼び方外国語・その他の呼び方・サンフラワー(Sunflower):英語での呼び方・ソレイユ(Soleil):フランス語で「太陽・太陽花」を意味する呼び方日本人がひまわりを好きな理由は、明るい見た目、強い生命力、そして夏らしさを感じるからです。明るい見た目と元気な印象・ビタミンカラー:鮮やかな黄色い花びらが、見る人に元気や明るい気持ちを与えてくれるため。・太陽のような姿:大きな花が太陽に向かってまっすぐ咲く姿が、爽やかで気持ち良いため。季節感と象徴・夏の風物詩:青い空と暑い夏にパッと咲く様子が、日本の夏のイメージにぴったりだから。・前向きな花言葉:「あなただけを見つめる」や「憧れ」といった、前向きで素敵なたとえが あるため。・親しみやすさ身近な存在:公園や花壇、ひまわり畑などで簡単に見ることができ、子供から 大人まで昔から親しまれているためひまわりが太陽を向くのは、成長する時期の茎の伸び方に偏りがあるからと、植物の体内時計が関わっているためです。一日中ずっと太陽を追いかけているのは若い時期だけで、花が咲く頃には東を向いて止まります。若いひまわりが動く仕組み・茎の伸びる速さの変化: 太陽の光が当たらない側の茎がより速く伸びることで、 花が太陽のほうへ曲がります。 その秘密は、茎の成長ホルモンの分布に原因がありました。 茎の成長ホルモンである オーキシンが、太陽光の当たらない側の茎に多く集まることで、その側の成長が促されます。 そして、ヒマワリは葉に効率よく太陽光を浴び栄養分をつくります。・体内時計: 昼と夜のリズムに合わせて動き、夜の間に西から東へ戻ることで 翌朝の太陽に備えます。太陽を追うヒマワリのメカニズムを、光を集めてエネルギーを作る太陽電池に応用すれば、沢山のエネルギーを最大限供給することができるかもしれません とも。花が咲いた後に東を向く理由・朝の温まりやすさ: 朝日を早く受けて花が温まり、受粉を手伝う虫が集まりやすくなります。・成長の終わり: 花が咲いて茎が固くなると、それ以上は動かなくなります。ヒマワリの花を西向きにすると、東向きにした場合に比べて訪れる昆虫が減少しました。ヒマワリの花は、東を向くことによって朝日を浴び、早朝から花の温度を上昇させることができます。花を訪れる昆虫は、気温が低い時には、暖かい花に好んで訪れる習性があることが報告されています。ヒマワリを訪れる昆虫も、夜間に下がった体温を上げるために早朝は、暖かい花を好んでいると考えられます。西向きにしたヒマワリをヒーターを用いて東向きのヒマワリと同様の温度に熱すると、訪れる昆虫の数が増加しました。このため、花が東向きであるのは、朝日でヒマワリの花を温め、多くの訪花昆虫を呼ぶということが理由の一つではないかと考えられています。ひまわりはなぜ黄色いのか?黄色のヒマワリは、黄色を示すルテインというカロテノイド色素を蓄積しています。一方で、茶色(赤色)のヒマワリは、ルテインに加えて赤紫色を示すアントシアニン色素(シアニジン配糖体)も蓄積します。ひまわりはなんの象徴か?太陽に向かうひまわりの姿は、何か大切なものに向かってまっすぐ進む姿勢や、尊敬する人物に対する強い思いを象徴しています。 また、「元気」や「明るさ」という花言葉も広く知られています。 ひまわりはその鮮やかな黄色や大きな花が目を引き、見る人に元気やポジティブな気持ちを与えます。ひまわりの花言葉一覧ひまわりには、複数の花言葉があります。・あなただけを見つめる・憧れ 花言葉の由来はさまざまな説がありますが、一説ではひまわりの印象的な特徴が由来に なったといわれています。 その特徴は、太陽を追うように咲く姿。 太陽をずっと見つめているように見えることから「あなただけを見つめる」という花言葉が 付いたといわれています。 そして太陽を見続けるひまわりは太陽にあこがれているのではないかと考えられ「憧れ」と いう花言葉が付けられたのだそう。・情熱 一説には、暑さに負けずに美しい花を咲かせている様子が由来していると。 また、「あなただけを見つめる」という花言葉の由来でも紹介した、 太陽の方向を向くように成長する様子が、情熱的だと考えられたから、ともいわれています。・光輝 太陽の光を浴びた黄色い花がキラキラと輝いて見えることから付けられました。ひまわりの本数ごとの意味ひまわりには、花言葉の他に贈る本数ごとに意味があるとされています。ひまわりだけで束ねたブーケや花束を渡す時は、本数の意味を意識してもいいかもしれません。・1本のひまわり:一目惚れ・3本のひまわり:愛の告白・4本のひまわり:あなたに一生の愛を捧げます・6本のひまわり:あなたに夢中です・7本のひまわり:密かな愛・9本のひまわり:いつまでも一緒にいてほしいプロポーズ・愛の告白には3本 と。9本のひまわり、私は誰に!!!?1本のひまわり、この言葉は私の辞書には既に・・・・??以下は、キャプション無しでお楽しみください。そして最後に、我がセイヨウミツバチの姿を。巧く撮れました。これにて「ひまわり・向日葵の花講座」を修了とさせていただきます。「ひまわり Les Tournesols /フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年」(写真はネットから) ・・・END・・・
2026.07.28
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「箱根彫刻の森美術館」から10分弱で、旅友との待ち合わせ場所の「箱根強羅公園」に到着。 正門から入園する。旅友は噴水池の先の展望スポットで待ってくれていると。神奈川県足柄下郡箱根町強羅1300。様々な色の紫陽花の花が、正門脇に。「強羅公園」と。 近づいて。「入口 ENTER」アジサイスポット開催中6/1~6/30 と。「強羅公園」配置案内図。「強羅公園」は、正門は標高約574m、西門は標高約611mという傾斜になっている。季節を通して様々な花が咲く園内には、様々な施設があるのだ。冬でも暖かい熱帯植物館や、歴史ある茶室、カフェ、工芸体験クラフトハウスなど、 1日中楽しむことができる園内 と。美しい色彩のアジサイ。最初に「熱帯植物園」に向かう。 「熱帯植物園」内に。濃いピンクのブーゲンビリア。「熱帯植物館」内の湿度を上げているのであろうか。「強羅公園(ごうらこうえん) 標高590M」。 ミッキーマウスノキ。近づいて。「ミッキーマウスノキみんなが大好きな「ミッキーマウス」にそっくりな木だよ!お花が実になると「ミッキーマウス」の顔みたいになるよ!小さい実だからよ〜く見て、いちばん「ソックリ」さんを見つけてね!チャンスは黒い実が3個ついているときだよ!」 近づいて。撮った写真を逆さにしてみました。ミッキーマウス。様々な色のブーゲンビリアを楽しむ。「ゼラニウム(センテッドゼラニウム/ニオイゼラニウム)」? この付近は「アジサイスポット」。 そして噴水をアジサイで彩る「あじさい花手水」。青、紫、ピンクや白など色とりどりのアジサイが噴水池の水面に浮かんで。そして屋外に。杉林のトンネルを進む。「白雲洞茶苑入口」。「「白雲洞茶苑」は、箱根強羅の巨岩怪石の間に、深山のおもむきを保存して、見るからに山家の風情の濃い茶室群です。 ここは大正時代のはじめ、利休以来の茶人と称された鈍翁・益田孝(三井コンツェルンの設立者で男爵)によってはじめられ、特に白雲洞は、翁の創案になる田舎家の席として貴重な茶室とされています。大正11年(1922)、この茶苑は三渓・原富太郎(横浜の富豪で美術品収集家として著名)に譲られ、この時三渓はあらたに対字斎を増築しました。 昭和15年(1940)、茶苑は再び原家より耳庵松永安左衛門(電力界の重鎮、松永コレクション創設者)に贈られ、こうして茶室は、明治・大正・昭和と3つの時代を代表する3人の茶人の間に伝えられてきたものです。」と。「鈍翁・三渓・耳庵の遺席登録有形文化財「白雲洞茶苑」ご案内ここに保存される三棟の茶席は大正時代のはじめ鈍翁・益田孝によって創始され、ついで三溪・原富太郎、耳庵・松永安左ヱ門と近代の三代茶人と称される人々に継承されてきたものです。益田鈍翁による開席当時、ここには不染庵、白雲洞の二席が営まれ、これに寄付と白鹿湯が附属していました。これらは一代の数寄屋師とうたわれた仰木魯堂の設計と言われています。大正11年原三溪に伝えられ、新たに対字斎一棟が増築されました。ついで昭和15年松永耳庵に受け継がれました。耳庵自筆の「白雲洞の主人となるの記」によって知られます。耳庵没後次第に荒廃していましたところ、当社に移譲されより全面的に補修の手を加え昭和57年5月に旧観に復しました。全苑の構成には山中の岩かげに建つ山家の趣が深く、岩上に根を占める巨桜の下に軒を低く佇むのは不染庵です。また囲炉裏に自在釣を掛け粗朶で瀗縁のある田舎家の席は白雲洞です。茶道界に鈍翁創案の田舎家の茶席はあまりにも著名ですが、現在その多くは失われここ白雲洞は唯一の遺構としてかけがえもなく珍重されています。益田鈍翁、原三溪、松永耳庵という偉大な茶人であり、明治・大正・昭和の日本経済に大きな役割を果たした稀代の経済人たちが遺した「白雲洞茶苑」は近代数寄の茶道の風雅を偲ぶ茶室群です。 箱根登山鉄道」。秋になると、紅葉は美しい「白雲洞茶苑」を望む。茶苑は比較的高いところに建てられ、白雲洞、不染庵、対字斋、白鹿湯から四つの席から構成されていると。そして巨岩の間に点在していた。2023年の秋に訪れた時の写真を。これぞ日本の秋!!石段の両脇も「アジサイスポット」。「あじさいスポット」では、青、紫、ピンク、白など色とりどりのアジサイが咲き誇り、初夏ならではの華やかな風景を楽しめます。木漏れ日ややわらかな光を受けた花々は、一輪一輪が異なる表情を見せ、園内を優しく彩ていた。雨の日はもちろん、晴れた日にも瑞々しい美しさが際立ち、散策しながら季節の移ろいを感じられる、強羅公園を代表する人気の撮影スポットなのであった。 色とりどりのアジサイが咲き競い、園内はまるで花のパレットのよう。青、紫、ピンク、白の花々が梅雨の季節を鮮やかに彩り、歩くたびに異なる表情を見せてくれた。初夏の陽光を浴びたアジサイは、一つひとつが宝石のように輝き、園内を華やかに彩る。色彩豊かな花々が織りなす風景は、まるで絵画の中を歩いているかのような美しさ。石段の両脇に咲き誇る色とりどりのアジサイが、訪れる人を優雅な花の回廊へと誘う。丸く愛らしい花房が重なり合い、初夏ならではの華麗な彩りを楽しませてくれるのであった。濃いピンクから淡い桜色、紫、青へと移り変わる色彩のグラデーションが見事。大小さまざまな花房が織りなす華やかな競演は、箱根強羅公園ならではの美しい季節の風景となっていた。深い瑠璃色から紫へと溶け合う花びらに、淡い黄緑色の縁取りが優しく輝き、まるで宝石を散りばめたような美しさ。光を受けた花々は神秘的な輝きを放ち、静かな庭園に気品ある彩りを添えているのであった。淡い藤色から澄み切った青紫へと移りゆく花びらが、初夏の光をやさしく受けて気品ある輝きを放っていまた。幾重にも重なる花びらは、まるで絹を重ねたように繊細で、ひとつひとつの花房が優雅な存在感を漂わせていたのであった。淡いピンクから乳白色へと移ろう繊細な色合いは、まるで春の名残を映した水彩画のよう。八重咲きならではの立体感が美しく、一輪一輪が優雅なドレスをまとった妖精のように咲き誇っていた。丸く咲く青や白の花房、星を散りばめたような可憐なピンクのガクアジサイ。それぞれ異なる表情を持つアジサイが一つの鉢に集い、まるで色彩豊かな花束のような美しさを見せていたのであった。初夏の陽光がその彩りを一層鮮やかに映し出して。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.28
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そして『ミュージアムショップ・MuseumShop』を訪ねた。ステンドグラスタワー「幸せをよぶシンフォニー彫刻」のジグソーパズルも。お菓子やGUIDEBOOKも。これも販売品のようであった。『徳持耕一郎KOICHIRO TOKUMOCHI鉄筋彫刻Iron SculptureLine Drawing in The Air』建築現場で使われる「鉄筋」を溶接し、わずか数ミリの線だけで楽器を演奏するジャズメンや動物などを立体的に表現するアーティスト。『後ろ向きのソプラノ』。『アルトマンG2』。『フルーティング Fluting』ミニ彫刻作品。そして「スーベニールショップ・Souvenir Shop」へ。 ミニ絵画。エレベーターホールにあった『田窪恭治「オベリスク」1985』。この作品は、美術館の中ではなくて、入口・出口付近に展示されていた。『フェルナン・レジェ(フランス) Fernand Léger (French) 花束をもつ女 Woman with Bouquet』。「フェルナン・レジェ(フランス)Fernand Léger (French)1881–1955花束をもつ女Woman with Bouquet1952モザイクmosaic太い輪郭線と単純な形態、明快な色彩を特色とする、石によるモザイクです。正面性が強調されています。This stone mosaic is characterized by thick outlines, a simple form and clear coloring, emphasizing its frontality.」 そして天候の回復した入口を再び見る。彫刻の森美術館の入り口、八角堂のレリーフは『建畠大夢(たてはた たいむ) 働く人々』近づいて。そして、入口を振り返りながら、駐車場に向かい、旅友との集合場所の『箱根強羅公園』に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.27
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『流 政之 Masayuki Nagare(Japanese) 風の刻印 Wind's Impression』。白花崗岩 393×310×137 cm。「流 政之Masayuki Nagare(Japanese)1923–2018風の刻印Wind's Impression1979花崗岩granite作者は、原石をたたき割ったそのままのような表面を「ワレハダ(割れ肌)」と呼び、簡潔な形の彫刻を制作しました。The artist refers the texture obtained by splitting rough stone as'warehada' (cracked surface), and utilizes it to create sculptures with simple forms.」 『イガエル・トゥマルキン(イスラエル)Igael Tumarkin (Israeli) 私の7本の知恵の柱 箱根へのオマージュ My Seven Pillars of Wisdom as a Homage to the Mountains of Japan』。「イガエル・トゥマルキン(イスラエル)Igael Tumarkin (Israeli)1933–2021私の7本の知恵の柱 箱根へのオマージュMy Seven Pillars of Wisdom as a Homage to the Mountains of Japan1992鋼鉄forged steel題名は、旧約聖書「箴言」第9章第1節「知恵は家を建て、その七本の柱を刻んで立てた」に由来し、天と地を結ぶことを表しています。The title references the "Seven Pillars of Wisdom" mentioned in Proverbs, Chapter 9, Verse 1 of the Old Testament, and the work expresses the linking of Heaven and Earth.」 『伊藤 隆道Takamichi Ito(Japanese)1939–16本の回転する曲がった棒Sixteen Turning Sticks』「伊藤 隆道Takamichi Ito(Japanese)1939–16本の回転する曲がった棒Sixteen Turning Sticks196ステンレス・スチール、鉄、モーター、塗料stainless steel, iron, motor, paint整列した集団が美しい、光と動きをテーマにした作品です。動くものを見る時、人は立ち止まる習性を利用しています。Based on the theme of light and movement, this carefully aligned group of poles is quite beautiful. The work exploits people's tendency to stop and look whenthey see something moving.」 『1.マッチンスキー=デニングホフ(ドイツ) Matschinsky-Denninghoff (German) 2.マルティン・マッチンスキー Martin Matschinsky 3.ブリジット・マイヤー=デニングホフ Brigitte Meier-Denninghoff シュトルム(暴風) Sturm (Storm)』ズームして。巨大なステンレス製の彫刻作品『シュトルム』。「シュトルム」は暴風、騒動、突撃などを意味するドイツ語。デニングホフはムーアらに師事し舞台美術も手がけた女性彫刻家。マッチンスキーは舞台俳優でしたがデニングホフと出会って彫刻家に転身した と。「マッチンスキー=デニングホフ(ドイツ)Matschinsky-Denninghoff (German)マルティン・マッチンスキーMartin Matschinsky1921–2020ブリジット・マイヤー=デニングホフBrigitte Meier-Denninghoff1923–2011シュトルム(暴風Sturm (Storm)1980ステンレス・スティールstainless steelシュトルムはドイツ語で嵐の意味。大きくうねる幹は、自然のもつ力強さを表わしています。夫婦による共同制作です。The German word, “Sturm” means “storm.” The powerfully bent trunk expressesthe power of nature in this work produced jointly by the husband and wife team.」 『箱根彫刻の森美術館』の屋外作品展示を全て?巡り、入口付近まで戻り再び『岡本太郎 樹人』を。青空を背景に。『井上武吉 My sky hole 84』。『カール・ミレス 人とペガサス』。『ポケっと』。2021年4月、彫刻の森美術館に体験型作品を中心に休憩できるエリア「ポケっと。」がオープン。美術館入ってすぐに目に飛び込んでくる大きなブールデル作品の壁面裏側に、地形の高低差でできた秘密基地のような空間が広がる。そこにはからだを使ったり写真を撮ったり、風が奏でる音に耳をすませ、こどもからオトナまでが体感しながら楽しめる色彩に溢れた作品を展示。さらに、このエリアの特徴でもある芝生面にも色どり豊かなソファを設置し、来館者にくつろぎの時間を提供する。頭上に広がる青空や箱根の眺望を、アートに包まれたポケットでぽけ~っとお過ごしください と。円形広場の右奥に設置されたブロンズの人物群像で。古代ギリシャ・ローマを思わせる装いの男女が、それぞれ異なる方向へ視線を向けながら円形に配置され、静かな緊張感と物語性を生み出していた。周囲を包む箱根の豊かな緑が彫刻の重厚な質感を引き立て、自然と芸術が調和した彫刻の森美術館ならではの風景を楽しむことができたのであった。近づいて。左から『エミール-アントワーヌ・ブールデル(フランス) 自由ー大』『同 雄弁ー大』『同 力ー大』『同 勝利ー大』この作品は『???』実は、観光客の女性の傘が風に飛ばされ、入口上部の木に引掛ってしまったのです。この傘の結末は?現在でも人気の『常設展示作品』か?「屋外展示場」を後にして「出口」の地下道を進む。 エスカレーターを上がる。そして『マルチホール常設展示』を訪ねた。「彫刻の森美術館のコレクションの中から、不思議な雰囲気を持った作品3点を紹介します。それらは巨人像と大きな樹、そして形容が難しいオブジェです。この不思議な森へ入り込んだかのような空間で、少しの間、足を止めて作品に向き合うと、作品の新しい見え方や感じ方、さらには思いもよらない発見があるかもしれません。This section introduces three works from the collection of the Hakone Open-Air Museumthat all possess a strange feeling. These are: a figure of a giant man, a huge tree, and a series of three objects that are difficult to describe.Together they create a mysterious forest. You may feel as if you have entereda mysterious forest, but if you stop and confront the works, they may find new ways of looking at them and make unexpected discoveries.」 『マッタ(ロベルト・セバスチャン・マッタ・エチャウレン)(チリ/フランス) エラメン(われら熱愛ス)』近づいて。「エラメン(われら熱愛ス)1985–86ブロンズマッタ(ロベルト・セバスチャン・マッタ・エチャウレン)(チリ/フランス)1911–2002人の意識の成長を、大地から育つ1本の樹にたとえています。それは、多くの芸術家との交流によって成長した作者自身の姿ともいえます。溢れるように広がる枝葉は複数のパーツを重ねて表現され、樹の割れ目からは蛙を飲み込もうと狙う蛇が垂れ下がり、その蛇は別の蛙の口から出てきています。[1995年に世界文化賞を受賞]Matta(Roberto Sebastian Matta Echaurren)(Chilean / French)1911–2002Eramen (Our Passionate Love)1985–86bronzeThis work likens the development of human consciousness to a single tree growingin the ground. It can also be said to represent the artist himself, illustrating the way in which he developed through his interactions with numerous other artists.The spread of the branches and leaves has been expressed through the combination of numerous different parts, while the snake, that can be seen hanging down from a crack in the trunk, about to devour a frog, is itself emerging from the mouth of another frog.Received the Praemium Imperiale Award in 1995.」 部屋の壁にはステンドグラスが。左。右。『トニー・クラッグ(イギリス) アトモス』「アトモス1991鋼鉄トニー・クラッグ(イギリス1949–壺を伏せたような形に管がついていて、実験器具や蒸留器のようにも見えます。作品名は「大気」を意味する英語 atmosphere を、形は大気を浄化する装置を思わせます。製作者は、自然界にも機能本位の世界にも存在しないオブジェを作り出そうとしています。[2007年に世界文化賞を受賞]Tony Cragg (British)1949–Atmos1991ironThese jar-like objects, with tubes emerging from their surfaces, resemble some kind oflaboratory or distillery equipment. The title of the work, Atmos, is an abbreviation ofthe word atmosphere, and these vessels represent devices for purifying the atmosphere. Through his work, the artist aims to create objects that do not exist in either natureor a world that focuses on function.Received the Praemium Imperiale Award in 2007.」 『ジョナサン・ボロフスキー(アメリカ) 心臓をもった男』。高さ3m75cm。緑色の身体の無表情な男の像です。胸の鮮やかな赤いランプが点滅し、規則的な音が聞こえてきます。 この音は、作者ボロフスキーの心拍音で、生命のエネルギーを表わしています。 ボロフスキーは、夢やおとぎ話から得たイメージを展開させて、独特の世界を作りあげている作家です。この作品では、〈巨人〉や〈赤いルビー〉といったボロフスキーの夢に登場するモティーフが組み合わされています。「心臓をもった男1995ガラス繊維、塗料、電灯、コンピュータージョナサン・ボロフスキー(アメリカ)1942–胸の赤いランプが点滅し、規則的な音が聞こえてきます。この音は作者の心拍音で、生命のエネルギーを表しています。この作品では、作家の夢に登場するモティーフが組み合わされています。作家の夢日記には、「赤いルビーをみつける夢をみた 2457977」と記されています。その「赤いルビー」は、緑の巨人に命を与えました。Jonathan Borofsky (American)1942–Man with a Heart1995fiberglass, paint, light, computerA red light flashes in the figure's chest in time with a regular, rhythmic beat. This is the sound of the artist's own heartbeat and represents the energy of life. The work consists of a combination of a variety of motifs that the artist sawin dreams. Dream number 2457977 in the artist's dream diary describes howhe discovered a red ruby, and it is this red ruby that imbues the giant green manwith life.」 胸の赤いランプが点滅し、規則的な音が聞こえて来たのであった。「ショッピングモール」に向かってエスカレーターにて上がる。 エスカレーター横にも作品が並ぶ。詳細は不明。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.26
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様々な植物が。花期になると一斉に開花。『Antony Gormley (British) 密着 III Close III』。「Antony Gormley (British)1950–密着 IIIClose III1993鉄iron作家の体を鉄で型取りしました。地球の自転と公転がもたらす遠心力や重力のため、地面に張りついています。[2013年に世界文化賞を受賞]The artist recreated his body in iron. The rotation and orbital revolution of the Earth produces centrifugal force and gravity, binding it to the ground.Received the Praemium Imperiale Award in 2013.」 廻り込んで。アントニー・ゴームリーは、自分自身の身体を型取った彫刻を数多く制作することで知られる現代彫刻家。この『密着 III』は、鉄で鋳造した自身の身体が大地に吸い付くように横たわり、人間と地球との深いつながりを表現しているのだと。移動して。一見すると静かな人体像ですが、その背景には「人間は地球の重力や宇宙の運動の中で生かされている存在である」という壮大なテーマが込められて。鑑賞者は作品を通して、自らの身体と大地、そして宇宙との関係に思いを巡らせることができるのだ と。『カール・ミレス(スウェーデン-アメリカ)Carl Milles (Swedish / American) 神の手 The Hand of God』.「カール・ミレス(スウェーデン-アメリカ)Carl Milles (Swedish / American)1875–1955神の手The Hand of God1954ブロンズbronze《宇宙》とも名づけられ、宗教と天文学を基底に、真理の探究を渇望する人間を表現しています。Also entitled The Universe, this work is based on religion and astronomy, depictinga person with a yearning to explore the truth.ネットから。『バリー・フラナガン(イギリス) Barry Flanagan (British)ボクシングをする二匹のうさぎ The Boxing Ones』。「バリー・フラナガン(イギリス)Barry Flanagan (British)1941–2009ボクシングをする二匹のうさぎThe Boxing Ones1985ブロンズbronze神話の中にトリックスターとして現れる、自由で生命力にあふれる野うさぎが、キリスト教の十字架の上で戯れています。In mythology the hare is depicted as being a trickster. In this work, the hares appear unrestrained and full of vitality as they play together on top of a Christian cross.」 近づいて。『セザール(セザール・バルダッチーニ)(フランス)César (César Baldaccini) (French)ヴィルタヌーズの勝利 Victory of Villetaneuse』石の女性像は、人類最初の人物彫刻ですが単純な形の中に種族の反映のもととなる母体としても女性の肉体的な特徴を強調した芸術性は今世紀の芸術家にも影響を与えています。「セザール(セザール・バルダッチーニ)(フランス)César (César Baldaccini) (French)1921–1998ヴィルタヌーズの勝利Victory of Villetaneuse1965ブロンズbronzeネジやボルトなどの屑鉄を組み合わせた人体像です。「ヴィルタヌーズ」とは作家のスタジオがある地名です。[1996年に世界文化賞を受賞]A human figure created from nuts, bolts and other scrap iron.Villetaneuse is the name of the area where César had his studio.Received the Praemium Imperiale Award in 1996.」 そして大きなウッドデッキ上には・・。目玉焼きのベンチが。移動して。『Sunny Side Upクライン ダイサム アーキテクツ2006 Klein Dytham architecture 2006』。移動して。ウッドデッキ上には連絡橋が。『ケネス・アーミテージ(イギリス) Kenneth Armitage (British)両腕 Both Arms』『ケネス・アーミテージ(イギリスKenneth Armitage (British)1916–2002両腕Both Arms1969–70ブロンズbronze作者独特のユーモアをもって、人体の一部分が実際より大きく拡大され、生命力に満ちたたくましい作品です。The artist expresses his unique humor by enlarging parts of the human anatomy to create powerful works, brimming with vitality.作者は人体の一部を誇張して大きく表現する独特のユーモアによって、生命力あふれる力強い作品を生み出しています。』『ウジェーヌ・ドデーニュ(フランス)Eugène Dodeigne (French)オーロラ Aurore』。「ウジェーヌ・ドデーニュ(フランス)Eugène Dodeigne (French)1923–2015オーロラAurore1981石(ソワニー石)stone (Soignies stone)石の塊に切り込みを入れ、中に閉じ込められた生命を解放するかのように、荒々しい形を作り出しています。In this rough-hewn sculpture, the artist has cut deeply into the lump of stone as if to release the life-force trapped within.」 『三木 富雄 Tomio Miki (Japanese)耳1、2、3 Ear 1, 2, 3』。「三木 富雄Tomio Miki (Japanese)1937–1978耳1、2、3Ear 1, 2, 31970–75アルミニウムaluminum「私が耳を選んだのではない。耳に選ばれたのだ」と語る作家は、強迫的な観念に突き動かされるように左耳を繰り返し制作しました。"I did not choose the ear, the ear chose me," so said the artist. Driven by a kind of obsession, he repeatedly created left ears.」 ズームして。3つ並んだ《耳》。その断ち切られた耳からは、「聞く」というコミュニケーションを断たれた孤独感がうかがえます。 三木が初めて耳を発表したのは、1963年に開催された最後の読売アンデパンダン展で、アルミニウムに鋳造された耳5点からなる作品でした。その後も、ほとんど左耳ばかりを制作しています。三木は「なぜ耳ばかり作るのか」という問いに、「私が耳を選んだのではない、耳が私を選んだのだ」と答えています。 三木の《耳》は、実物大のものから3メートルにおよぶものまであります。『ジュリアーノ・ヴァンジ(イタリア)Giuliano Vangi (Italian) 偉大なる物語 A Grand Story』。真っ白な大理石の塊から、様々な人間の姿が浮かび上がっています。作者のジュリアーノ・ヴァンジによれば、この作品は、人間の存在とその意味、とりわけ、男の人生を表わしています。目の前で、膝をかかえているのは、洞窟にかがむ古代の男。男の背後には、記憶のなかの女性の顔が、風のようなシルエットを見せています。向かって左へと進み、作品の周りを時計まわりに見て見ましょう。若いオリーヴの木が、青々とした葉を茂らせています。その横には、人生の入り口が開いていますが、先に行くにつれ、だんだん狭くなっているのがわかります。これは、人生の苦労を表わしています。飛び石をつたって、左側にまわる。樫の古木が大きく枝を伸ばし、愛し合うカップルの顔を豊かな葉でやさしく撫でています。人間と自然が共に生きることの大切さを表わしているのでしょう。その先には、顔をあげる男の姿があります。苦難にあっても、現代の男は、希望をもって前進してゆくのです。イタリアの巨匠―ヴァンジは、苦しみに満ちた閉塞した社会の中でも、なお存在してゆく人間の威厳やその孤独を表現してきた作家です。作品に登場するのは、みな平凡な人間ですが、不安、苦悩、心配、おごり、悪徳とともにありながら、なお存在する人間の威厳、それゆえの美しさを訴えかけてきます。「ジュリアーノ・ヴァンジ(イタリア)Giuliano Vangi (Italian)1931–2024偉大なる物語A Grand Story2004大理石(カラーラ産)marble (Carrara)人生の物語が時の流れと共に、時計回りに刻まれています。様々な葛藤を抱えながらも生きる人間の姿を表わしています。[2002年に世界文化賞を受賞]The story of humankind has been carved into a block of stone chronologicallyin a clockwise direction. It expresses the way that people persevere despitevarious hardships.Received the Praemium Imperiale Award in 2002.」 『森のアトリエ』に向かって進んだ。そして引き返して作品を追う。『柳原義達 道東の四季・秋』見上げて。『船越保武 道東の四季・春 』。『木内 克 エーゲ海に捧ぐ』。『水井 康雄 五合目標』『高村光太郎 みちのく』。『峯 孝 プリマヴェラ 』。『ジョージ・リッキー 2本の垂直線、箱根』。『有田暁子 足跡』この足跡は何だろう。有田は、制作時に次の言葉を残している。「この足跡のパターンは、かつてこの空間で展開されたある人々の行動の過程を表わしたものである。私たちにとって本来その全てが無であった筈の人々の行動が、それをもたらした認識・思考・意志の過程が、時の流れを越えて今なお空間を支配し、私たちに強力に働きかけてくる」。誰のどんな生の痕跡なのかは、わからない。けれど、知らず知らずの内に人々はこの足跡を辿り、振り返ってみる。見る人にそんな働きかけをする作品である。『後藤 良二 Ryoji Goto (Japanese) 交叉する空間構造 Intersecting Space Construction』「後藤 良二Ryoji Goto (Japanese)1951–交叉する空間構造Intersecting Space Construction1978素材FRP(繊維強化プラスチック)、鉄、塗料FRP, iron, paint金網の格子にヒントを得た、人間の連帯を謳歌し群舞しているようなエネルギーに満ちた作品です。Taking a hint from a wire mesh, the artist created this work depicting people dancing together in praise of their connections and it overflows with energy.」 黒い男性像と赤い女性像が、それぞれ72体、手と足をつなぎあい連なっています。両手を左右に大きく広げる姿は、踊っているようにも見えます。作者の後藤良二は、具象と抽象、有機的な形態と幾何学的な形態などの対照的な表現形式をひとつにする方法を探していたといいます。そうしたなか、ある日何気なく見た金網の格子に、人のつながりがオーバーラップして見えたことが、この作品が生まれるきっかけとなりました。人間の姿を幾何学的に組み合わせることで、個々の人間の情念や感情を消し去ったこの作品は、人間の連帯が生み出す若々しいエネルギーを謳いあげています。近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.25
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『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British)原子の形 Atom Piece (Working Model for Nuclear Energy) 』手前右:『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) ふたつに分けられた横たわる像・カット Two Piece Reclining Figure: Cut左奥:『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) 大きな糸つむぎの形 Large Spindle Piece』手前に『 ヘンリー・ムーア ふたつに分けられた横たわる像:ポイント Two Piece Reclining Figure: Points』。『ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)ふたつに分けられた横たわる像:カット Two Piece Reclining Figure:cut』。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986ふたつに分けられた横たわる像:ポインツTwo Piece Reclining Figure: Points1969–70ブロンズbronze見る角度によってひとつの形が他方を隠し、変化に富んだ多様な形が次々と現れてきます。Depending on the angle from which it is viewed, one form becomes hidden behind the other, a rich variety of forms appearing in succession as the viewer moves.」 『ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British) 横たわる像 Reclining Figure』。ズームして。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986横たわる像Reclining Figure1969–70ブロンズbronzeムーアは、横たわる人体のポーズについて「最も自由で、かつ安定している」と語っています。Speaking of reclining figures Moore said that they are "free and stable at the same time."」 『ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)ふたつに分けられた横たわる像・ポイント Two Piece Reclining Figure: Point』。ステンドグラスの塔(幸せをよぶシンフォニー彫刻)中央には金色の球体と周囲の青い装飾が。作品の一部としてデザインされたもので、・金色の球体:太陽や生命の源を象徴・周囲の青い輪:光の広がりや宇宙・生命のエネルギーをイメージした装飾下から見上げると、ステンドグラスを通した光と一体となって「生命・光・希望」を表現するように構成されていた。『伊本 淳 輝く太陽』を再び。『ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)ファミリー・グループ Family Group』。ズームして。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986ファミリー・グループFamily Group1948–49ブロンズbronze男性像を制作したことがほとんどなかったムーア。作品の構想中に娘が生まれ、母と子に父親が加わりました。Moore produced very few male sculptures; however, while planning this workhis daughter was born and he added a father figure to those of the mother and child.」 奥:『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) ふたつに分けられた横たわる像:カット Two Piece Reclining Figure: Cut』。手前:『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) 大きな糸つむぎの形 Large Spindle Piece』『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) 大きな糸つむぎの形 Large Spindle Piece』。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986大きな糸つむぎの形Large Spindle Piece1968–74ブロンズbronze高さ16センチのひな型(マケット)を最初に作り、次に86センチの原型、最終的には333センチの作品となりました。Moore first made a 16 cm high maquette, then an 86 cm working model, beforefinally producing a 333 cm work.」 『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) ふたつに分けられた横たわる像:カット Two Piece Reclining Figure: Cut』。『ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British) ふたつに分けられた横たわる像 No.1 Two Piece Reclining Figure No.1』。移動して。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986ふたつに分けられた横たわる像 No.1Two Piece Reclining Figure No.11959ブロンズbronze人体の形をふたつに分けることで、見る人の意識が人物像から離れ、より風景に溶け込むことを意図しています。By splitting the work into two, the intention is that the viewer's consciousness will bedistracted from the human form, allowing it to meld with the scenery.」 『ミクロネシア連邦ヤップ島の石貨』。「ミクロネシア連邦ヤップ島の石貨手のひらに乗るものから3mを超すものまであり、大きな石貨は動かさずに所有者の名義だけを変更します。材料のパラオブ石(石灰岩)は、約450km離れたパラオ共和国よりカヌーで運ばれ、貨幣の価値は搬送における困難さや歴史の古さに基づいています。この石貨は高松宮家の庭園に長年設置され、「幸福の石」として親しまれていました。高松宮妃殿下が2004年に亡くなられた後、賜ったものです。Rai Stone from Yap Island in the Federated States of MicronesiaOnce a form of money, Yap stones came in a variety of sizes, from those that fit in the palm of the hand to those over 3 meters tall. Due to their size, large stoneswere not moved; instead ownership was recorded. Carved from a crystalline limestone not found locally, they were transported by canoe from Palau, their monetary value deriving from their historical age and the difficulty of transport.This Rai Stone was displayed in the garden of Prince Takamatsu where it was knownas the "Stone of Happiness." It was donated to the museum after the princess passed away in 2004.」 再び手前:『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) 大きな糸つむぎの形 Large Spindle Piece』奥: 『ヘンリー・ムーア(イギリス)ふたつに分けられた横たわる像:カット』奥」再び「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986大きな糸つむぎの形Large Spindle Piece1968–74ブロンズbronze高さ16センチのひな型(マケット)を最初に作り、次に86センチの原型、最終的には333センチになりました。Moore first made a 16 cm high maquette, then an 86 cm working model,before finally producing a 333 cm work.」 『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British)母と子:台座 Mother and Child: Block Seat』。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986母と子:台座Mother and Child: Block Seat1983–84ブロンズbronze小さな生命を愛おしむ母親の姿を抽象的に表現しています。〈母と子〉はムーアにとって重要な主題のひとつです。An abstract expression of the love of a mother for her child. The “Mother and Child” motif was an important theme in Moore's work.」 『ふたつの形 1968 バーバラ・ヘップワース 』 イギリス 1903-1975ヘップワースは、『ふたつの形』について「ひとつの生物が他の生物のそばにいる時の、両者の優しい関係を表わしている」と語る。抽象的な形の構成であるが、この作品には寄り添うように立つふたりの人間のような風情がある。柔らかな曲線で縁取られたふたつの形の間には、程よい緊張感と優しい空気が流れている。上部に穿たれた穴は後ろまで突き抜けて、風景の中に溶け込む。穴は彩色され、窪みそれ自体よりももっと奥深い海や空を想像させる と。『猪熊 弦一郎 Genichiro Inokuma (Japanese) 音の世界 The World of the Sounds』。「猪熊 弦一郎Genichiro Inokuma (Japanese)1902–1993音の世界The World of the Sounds1979モザイク(ガラスタイル)glass tile鳥や動物などを題材に、それらが浮遊する澄んだ色彩と明快なリズムをもった抽象絵画を制作しました。Initially using birds and animals for his subjects, the artist later employed clear, floating colors to create abstract paintings and murals with well-defined rhythms.」 近づいて。『ニキ・ド・サン・ファール(フランス)Niki de Saint Phalle (French) ミス・ブラック・パワー Miss Black Power』。ズームして。「ニキ・ド・サン・ファール(フランス)Niki de Saint Phalle (French)1930–2002ミス・ブラック・パワーMiss Black Power1968ポリエステル樹脂、塗料polyester resin, paint妊娠した友人の、日ごとに大きくなっていくお腹に発想を得ました。生命の源として、全ての女性を讃えています。(2000年に世界文化賞を受賞)The artist got the idea for this work after seeing a pregnant friend whose stomachgrew bigger every day. It exalts women's role as the source of life.Received the Praemium Imperiale Award in 2000.」 」『アントワーヌ・ポンセ(フランス) Antoine Poncet (French) 伸びていくフーガ Fugue Fusante』。ズームして。「アントワーヌ・ポンセ(フランス)Antoine Poncet (French)1928–2022伸びていくフーガFugue Fusante1982–83白大理石(カラーラ産)white marble (Carrara)フーガ(遁走曲)のように、反復する旋律が軽やかに立ち上っていくような、詩情をもつ作品です。Possessing poetic sentiment, the repeating melody rises, fugue-like, towards the sky」 田窪恭治「サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂 箱根ヴァージョン」2012 フランスはノルマンディー地方のサン・マルタン・ド・ミューと言う小さな村の廃墟となった16世紀のサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂を、田窪が一家でフランスに移住し、作品として再生した。箱根ヴァージョンは、実物の礼拝堂と同じ大きさや同じ素材の床面を使ってイメージを再現したものである と。「田窪 恭治(日本)Kyoji Takubo (Japan)1949年~サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂 箱根ヴァージョンLa Chapelle de Saint Vigor de Mieux, version Hakone2012年耐候性鋼(コルテン)、鋳物(CORQ)、花崗岩anti-weathering steel (COR-TEN), casting (CORQ), granite協力:新日鐵住金株式会社、株式会社サカコーCourtesy of Nippon Steel & Sumitomo Metal Corporation, Sakako Corporationフランス・ノルマンディー地方のサン・マルタン・ド・ミューという小さな村で廃墟となっていた16世紀のサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂を、田窪が一家でフランスに移住し、1989~1999年にかけて作品として再生した(通称「林檎の礼拝堂」)。再生プロジェクトの資金は企業と個人の寄付によって調達され、フジサンケイグループも全面的に支援した。現地は林檎の産地であることから、礼拝堂の内壁には林檎の絵が描かれ、色ガラスの屋根からは光が色の帯となって降り注いでいる。この箱根ヴァージョンは、実物の礼拝堂と同じ大きさで、同じ素材の床面を使ってイメージを再現した「姉妹版」といえる。La Chapelle de Saint Vigor de Mieux in the small Normandy village of Saint Martin deMieux was a ruined 16th century chapel before Takubo moved to France with his familyand set about transforming the building into a work of art, now known affectionately as La Chapelle des Pommiers, meaning the Chapel of Apple Trees.Takubo began the project in 1989 and completed it in 1999. Funding for the reconstruction work was supplied through corporate and individual donations, including significant support from the Fujisankei Communications Group.Normandy is known for producing apples and that is why the chapel, which is bathed in light shining through colored glass roof tiles, has pictures of the fruit paintedon its walls.This work could be called a "sister version" of the chapel in Normandy. It represents an image of the chapel of the same size and uses the same floor materials as the actual chapel.」 写真キャプションサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂 外観/内部La Chapelle de Saint Vigor de Mieux – Exterior / Interior。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.24
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次に訪ねたのが「The Hakone Open-Air Museum Café」前にあった『ロバート・マンゴールド(アメリカ)Robert Mangold (American) 風の歌 V Windsong V』。「ロバート・マンゴールド(アメリカ)Robert Mangold (American)1930–風の歌 VWindsong V1989ステンレス・スティール、塗料stainless steel, paint六色に塗り分けられた48枚の翼が、風を受けて回転しながら球体を形成します。多様な自然を表現しています。The forty-eight vanes have been painted in six colors and when these rotatewith the wind, they create a spherical form. This work expresses the diversity of nature.」 そしてこちらは『森の足湯』。「森の足湯」では、箱根の森の美しい景色を一望でき、鳥のさえずりや沢の流れ、風の音を感じながらゆったりとおくつろぎいただけます。敷地内の源泉を利用した「足湯」に加え、手軽に温泉を楽しめる「手湯(てゆ)」や、車椅子の方にも配慮した席を新たにご用意しています。さらに、勾配のあるランドスケープを見直し、段差を解消することで、隣接するカフェや多目的に利用できる休憩スペース「丸太広場キトキ」とともに、誰もが一層くつろげるエリアとして生まれ変わりました。また、国内外から厳選した15種類の石をダイナミックに使用し、色や模様、表情の異なる石の質感を体感できます。彫刻の代表的な素材のひとつである石の迫力や魅力を身近に感じられるデザインとなっています。■⾜湯概要リニューアルオープン:2024年7月27日(土)源泉名 :⼆ノ平温泉泉質 :ナトリウムー塩化物温泉(無⾊透明無臭)⾜湯全⻑ :約28m利⽤⼈数 : 39名設計 :トラフ建築設計事務所 | 園⽥慎⼆建築設計事務所『森の足湯』案内ボード。温泉の成分について公式サイトより■源泉名 二の平温泉 台帳番号 宮城野 第28号■泉質 ナトリューム塩化物・炭酸水素塩・硫酸塩温 低張性 アルカリ性 高温泉■泉温 源泉 64.2℃ (地下の状態により64℃から75℃程度まで変化します)■成分 pH 8.5 無色透明、無味、無臭■飲用不可 県条例により飲用は禁止されています。「森の足湯Foot-Bath MORI NO ASHIYU森の足湯は、敷地内から湧き出る源泉を使用した、箱根の自然を感じながらくつろげる足湯スペースです。彫刻を素材のような原石を並べ、彫刻と箱根の山々を調和させています。野外美術館ならではのアートと自然の融合をゆっくりとお楽しみください。This foot-bath is where you can relax while experiencing the natural beauty of Hakone, using hot spring water from our own premises of the museum. It is harmonized bystones resembling like sculptures, harmonizing with the various sculptures and the mountains of Hakone. We hope you all enjoy this unique atmosphere of fusionof the art and the nature with the time to relax.石材一覧No. 石材名 英名 種類 産地① ニューインペリアルレッド New Imperial Red 花崗岩 インド② セルペジャンテ ベージュ Serpeggiante Beige 大理石 イタリア③ ブラウンファンタジー Brown Fantasy 花崗岩 インド④ オリーブグリーン Olive Green 花崗岩 南アフリカ⑤ ホワイトサンドストーン White Sandstone 砂岩 インド⑥ ブラックマリナーチェ Black Marinace 花崗岩 ブラジル⑦ ロッソガズビーラ Rosso Guazubira 花崗岩 イタリア⑧ ルナパール Luna Pearl 花崗岩 イタリア⑨ 暁サラサ Akatsuki Sarasa 大理石 日本⑩ レッドサンドストーン Red Sandstone 砂岩 インド⑪ グリーンウェーブ Green Wave 大理石 ノルウェー⑫ ジャッロサンタセシリア Giallo S. Cecilia 花崗岩 ブラジル⑬ ビアンコスペリオーレ Bianco Superiore 大理石 イタリア⑭ ジュライエロー Jura Yellow 石灰岩 ドイツ ⑮ ジンバブエ Zimbabwe 花崗岩 ジンバブエ『ガブリエル・ロアール 幸せをよぶシンフォニー彫刻 1975年』この塔のなかには、外からは想像もつかない華やかな夢の世界が広がっています。どうぞ、階段をあがり、塔のなかにお入りください。ふくろう、鳥、魔法使いの姿もあれば、踊ったり、音楽を奏でたり、パントマイムをしたり・・・、700色のガラスのかけらが外からの光を受け、子供たちの夢の世界を万華鏡のように映し出しています。螺旋階段を登れば、屋上から数々の作品を見おろすことができます。作者のガブリエル・ロアールは、フランスを代表するステンドグラス作家です。鎚でたたいて形をつくったガラスは、通常のステンドグラスの5倍の厚みをもち、外の光を複雑に屈折しながら透過させ、幻想的な輝きを放ちます。『伊藤 隆道(日本) Takamichi Ito (Japanese) 廻る曲線のリング Moving Rings』近づいて、ズームして。「伊藤 隆道(日本)Takamichi Ito (Japanese)1939–廻る曲線のリング👈️リンクMoving Rings1975ステンレス・スティール、鉄、モーター、塗料stainless steel, iron, motor, paint「光と動き」がテーマとなっています。たなびく雲のような形は、モーターで回転する機械に有機性をもたらし、詩的な空想を呼び起こします。Created on the theme "light and movement" this work consists of oblong forms, resembling clouds, that are rotated by a motor, transforming the mechanical into the organic and evoking poetic visions.」 高さ18m、内径は8m。この写真の中央にある金色と黒色の立体モニュメントは、ガブリエル・ロアール自身がデザインした「幸せをよぶシンフォニー彫刻」のシンボル。写真を見ると、・金色の大きな鳥のような形(右側)・黒い翼のように広がる部分・金色の球体(左側)から構成されています。これらは写実的な表現ではなく、ロアール独特の幻想的な造形です。それぞれの象徴・鳥 ・平和 ・自由 ・天へ向かう希望 ・幸福を運ぶ存在・金色の球 ・太陽 ・光 ・生命 ・宇宙・黒い翼状の部分 ・大地 ・樹木 ・炎 ・自然のエネルギーこれらが一体となり、「光が生命を生み、幸福が空へ広がっていく」というイメージを表現しています。ステンドグラスとの関係この塔の正式名称は「幸せをよぶシンフォニー彫刻」。内部には約480枚のステンドグラスが四季や子どもの夢の世界を描き、塔全体が「光の交響曲(シンフォニー)」として構成されています。中央のモニュメントは、その"序章"あるいは"象徴"として、外観に生命感を与える役割を担っています。正面中央の飾りは、「生の歓びを奏でるニンフ」井本 淳氏作。「ガブリエル・ロアール(フランス)Gabriel Loire (French)1904–1996伊本 淳(日本)Atsushi Imoto (Japanese)1915–1984幸せをよぶシンフォニー彫刻Symphonic Sculpture1975スパルビデュア・グラス、エポキシ樹脂、鉄sculptured-glass, epoxy resin, iron(上から/From the Top))耀く太陽Shining Sun1975FRP(繊維強化プラスティック)、金箔、塗料、鉄glass fiber, gold leaf, paint, iron生の歓びを奏でるニンフA Nymph Playing the Joy of Life1975ブロンズbronze480枚のステンドグラスによるパネルで壁面が構成され、色ガラスの光だけで空間そのものを造形した作品。ステンドグラスの技法のうち、ダル・ド・ヴェールという厚さ2〜3cmの板ガラスを使用する技法がとられている。ガラスをたたいて割れ模様を入れ、そこに差し込む光が屈折することで、独特のきらびやかさが出ている。ロアールは、このガラスを「スカルプチャード・グラス」と呼んだ。作品の構図は、ロアールの子供時代の世界が散文詩的に映し出されている。その情景は、東南西北の方角に合わせて春夏秋冬の場面が四分割されて、螺旋階段を昇り降りしながら四季を巡る。塔の外側には、伊本淳による、ロアールの詩調に合わせたレリーフ彫刻3点が螺旋状に設置されている。With walls consisting of panels, each made up of 480 sheets of stained glass,this workcreates a unique space, filled with light that has passed through the colored glass.Of the various forms of stained glass, this work uses the 'dalle de verre' (slab of glass) technique, employing sheets of glass 2 to 3 centimeters thick. The artist, Gabriel Loire,struck the glass to create patterns of cracks, the light being refracted throughthese to produce an unparalleled, glittering beauty that he refers to as 'sculptured glass'.The composition of this work presents the world as it was when Loire was a child, expressing it in the form of a prose poem. The scene is divided into four sections, facing east, south, west and north anddepicting the four seasons, spring, summer, autumn and winter, allowing visitors toenjoy the changing seasons as they climb and descend the spiral staircase inside.Three relief statues by Atsushi Imoto, which harmonize with the tone of Loire's poetry, are attached in a spiral around the exterior of the tower.」 黒い螺旋階段を一歩ずつ上るたび、色鮮やかなステンドグラスが光を受けて表情を変え、まるで光の渦の中を歩いているような幻想的な世界が広がるのであった。四季を映す色彩と光が美しく溶け合い、心を優しく包み込む至福の空間であった。見上げる先いっぱいに広がるステンドグラスは、赤や金、緑、白の光が幾重にも重なり合い、まるで天空を彩る光の絵巻のよう。刻々と変化する輝きが空間全体を包み込み、見る人を幻想的で詩情あふれる世界へと誘うのであった。青を基調に、緑や紫、赤の彩りが光の粒となって広がり、まるで宝石をちりばめた天空を見上げているよう。螺旋を描くステンドグラスが光と色彩を織りなし、静寂の中に生命の息吹と幻想的な美しさを感じさせるのであった。青や金、朱色の光が繊細な模様となって重なり合い、まるで物語の一場面を描く壮麗な絵巻を見上げているよう。光がガラスを透して優しく降り注ぎ、色彩と祈りが響き合う幻想的な空間が心を深く魅了するのであった。黄金色の光を放つ太陽を中心に、色とりどりのステンドグラスが放射状に広がり、生命の輝きが空間いっぱいに満ちあふれていた。見上げるたびに光が表情を変え、まるで大自然の息吹と希望の光に優しく包まれるような感動を覚えるのであった。琥珀色や黄金色を基調とした温かな光が幾重にも重なり、生命の樹を思わせる模様が優しく浮かび上がる。やわらかな光彩が空間を包み込み、自然のぬくもりと穏やかな安らぎを感じさせる、美しく詩情あふれる光景。黄金色を基調に、赤や青、白の光がリズミカルに散りばめられ、まるで生命の鼓動が色彩となって躍動しているよう。幾何学模様が織りなす光の世界は、見るたびに新たな発見をもたらし、心を豊かな感動で満たしてくれるのであった。鮮やかな赤や黄金色の光に包まれた少女の表情は、見る人に優しい微笑みを届けてくれるよう。色彩豊かなステンドグラスが生命の輝きと喜びを映し出し、温もりと希望に満ちた幻想的な世界へと静かに誘ってくれた。塔の頂上から望む箱根の山々は、深い緑と立ちのぼる雲や霧が織りなす幻想的な風景に包まれて。眼下に広がる彫刻の森と雄大な自然が美しく調和し、まるで一枚の風景画の中に身を置いているかのような感動を味わいながら。雨上がりの箱根の山々を、白い霧がゆっくりと包み込み、深い緑との美しいコントラストが幻想的な風景を描き出していた。刻々と姿を変える雲と山並みは、大自然が織りなす一瞬の芸術であり、静寂の中に心洗われる感動を与えてくれた。『緑陰広場』を見下ろして。塔の頂上から見下ろす芝生広場には、緑の中に彫刻がゆったりと点在し、自然と芸術が見事に調和した美しい景観が広がっていた。木々の緑と青空の光に包まれた静かな空間は、訪れる人に穏やかな時間と心安らぐひとときを届けてくれるのであった。屋上から螺旋階段を見下ろすと、足元には色鮮やかなステンドグラスが優雅な曲線を描き、光の世界へと誘う。一歩ずつ階段を下るたびに色彩が移ろい、まるで光の渦の中を旅するような幻想的なひとときを味わいながら。螺旋階段の優美な曲線が色鮮やかなステンドグラスと溶け合い、足元から光の芸術が広がりる。一歩ずつ歩みを進めるたびに光と色彩が表情を変え、まるで虹色の渦に包まれながら夢の世界を巡るような幻想的な美しさに心奪われるのであった。見下ろす螺旋階段の先には、色鮮やかなステンドグラスが光の帯となってどこまでも続き、まるで虹色の銀河へ吸い込まれていくような幻想的な眺めが広がる。光と色彩が織りなす美しい世界は、訪れる人の心に深い感動と静かな余韻を残すのであった。穏やかな弧を描くステンドグラスに、青や緑、金色の光が美しく溶け合い、まるで四季の彩りが天空へと続く大きな虹を描いているよう。見上げるたびに光が優しく表情を変え、幻想的な世界へと心を誘う、息をのむような美しさが広がる。柔らかな弧を描くステンドグラスに、黄金色や緑、青の光が幾重にも重なり、まるで四季の彩りが天空を優雅に流れていくように。繊細な光のきらめきが空間全体を包み込み、静けさの中に温もりと希望を感じさせる幻想的な美しさが広がるのであった。鮮やかな青や赤、黄金色の光が美しい調べを奏でるように広がり、一枚一枚のガラスが生命の輝きを映し出していた。色彩豊かな光のハーモニーは見る人の心を優しく包み込み、夢と希望に満ちた幻想的な世界へと誘ってくれるがごとくに。塔の中心を見上げると、螺旋階段が天空へと優雅に伸び、その周囲を色鮮やかなステンドグラスが光の大渦のように包み込んでいた。光と色彩が織りなす壮大な空間は、まるで天へと続くシンフォニーの中に身を置いているような感動を与えてくれるのであった。螺旋階段が天へ向かって優雅な曲線を描き、その周囲を色とりどりのステンドグラスが光の大空間として包み込んでいた。見上げるたびに色彩が美しく移ろい、光と芸術が織りなす壮麗なシンフォニーの中へ吸い込まれるような感動に満たされて。塔の中心から天へ向かって伸びる優雅な螺旋階段を、色鮮やかなステンドグラスが万華鏡のように包み込む。青や紫、赤、黄金色の光が美しく響き合い、まるで光のシンフォニーの中を天空へ旅するような、息をのむ感動的な光景が広がっていたのであった。天へと続く螺旋階段が力強く伸び、その周囲を色鮮やかなステンドグラスが光の大空間として包み込んでいた。降り注ぐ光は刻々と表情を変え、芸術と光、そして人々の営みがひとつに溶け合う、幻想的で心震える美しさを生み出していたのであった。 塔の下部には『井本 淳 愛のお告げを奏でるニンフ』。『ジャン・アルフ Jean-Alf 大きな種 Giant Seed』。再び「幸せをよぶシンフォニー彫刻」の頂部の作品『伊本 淳 耀く太陽 Shining Sun』を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.23
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『胸像と4人の男の顔 Bust of a Woman and Four Male Heads』。「胸像と4人の男の顔 1972年7月23日グワッシュ、紙若さを象徴する豊満な女性、欲望を隠そうとしない小男。背景には、死の影を漂わす童謡した男。その傍らの老人はおそらくピカソ自身である。90歳を超えて、愛した女性、人間の本能、そして死と直面していた。Bust of a Woman and Four Male HeadsJuly 23, 1972gouache on paperA voluptuous woman, symbolizing youth, and a small man who makes no attempt tohide his lust. In the background is a distraught man emitting an aura of death. The old man to the side is probably Picasso himself. He was over 90 years old,and confronted by the woman he loves, human instinct, and death.」 『アルカンのサルバド Portrait of the Painter Salvado』左腕をズームして。「アルルカンのサルバド原画(1923年):パブロ・ピカソ制作:ロジェ・マレルヴ・ナティエルジュマイユ原画は《新古典主義》の時代に描かれたもので、道化研究家アルルカンの衣装をつけたカタルーニャ地方の画家ジャシント・サルバドがモデルになっている。ピカソはこの頃よく、サーカスの道化を主題にして描いていた。道化はその仮面の下に悲しみや孤独を抱える存在で、生きることの本質がそこにあると思えたからである。Portrait of the Painter Salvadooriginal painting (1923): Pablo Picassogemmail: Roger Malherbe-NavarreThis work was painted during Picasso's Neoclassical period. The model, identified as a Harlequin, is Catalonian painter Salvador. During this period, Picasso often depicted circus clowns in his work. He chose to depict clowns because, although they are comic characters, they carry sadness and loneliness beneath their masks, and therefore express the essence of the human condition.」 「ピカソのフルネームピカソの洗礼名(フルネーム)は、当時のマラガ地方の慣例に従って、赤ん坊に聖人や縁者にちなんだ沢山の名前がついた。その上、スペイン人には姓がふたつあって、第1の姓は父方から受け継ぎ、第2の姓は母方から受け継ぐことになっている。パブロ = 祖父で父方の叔父ディエゴ = 父方の祖父と叔父ホセ = 父(ホセ・ルイス・ブラスコ)フランシスコ・デ・パウラ = 母方の祖父フアン・ネポムセノ = 男性の名づけ親、従兄マリア・デ・ロス・レメディオス = 女性の名づけ親、従姉クリスピン・クリスピニアノ = ピカソが生まれた10月25日に当たる殉職した手袋職人の守護聖人デ・ラ・サンティシマ・トリニダード = 三位一体ルイス = 父の名字ピカソ = 母の名字(マリア・ピカソ・ロペス)Picasso's full nameIn accordance with the customs of the Málaga province of Spain where he was born, Picasso was baptized with a long string of names, derived from the names of relatives and saints. Furthermore, Spanish people have two surnames: the first comes from the father while the second comes from the mother.Pablo: patron saint (Saint Paul)Diego: paternal grandfather (Diego Ruiz Blasco)José: father (José Ruiz Blasco)Francisco de Paula: maternal grandfather (Francisco de Paula Picasso)Juan Nepomuceno: godfather and cousin (Nepomuceno Blasco Navarro)María de los Remedios: grandmother and cousin (María de los Remedios Alarcón Herrera)Crispín Crispiniano: patron saint of shoemakers whose feast day falls on Picasso's birthday (Oct. 25)de la Santísima Trinidad: the Holy TrinityRuiz: father's surnamePicasso: mother's surname (María Picasso y López)」 『ピエロのポール Paul as Pierrot』。「ピエロのポール原画(1929年):パブロ・ピカソ制作:ロジェ・マレルブ・ナヴァルジュマイユピエロに扮装したポールは、最初の妻オルガ・コクローヴァとの間に生まれた長男で、《新古典主義》の時代に描かれた油彩が原画となっている。常に新しいものに興味を示すピカソは、20世紀に考案されたガラスと色彩と光を用いるジュマイユを、表現手段として採用した。Paul as Pierrotoriginal painting (1929): Pablo Picassogemmail: Roger Malherbe-NavarrePaul was the son of Picasso with his first wife Olga Khokhlova. This work is thought to be based on a painting from the neoclassical period. Picasso was always interested in new techniques, and this work uses the technique of gemmail, which was developedin the 20th century, harnessing glass, color and light.」 「ジュマイユジェマイユは、フランス語の「ジェム(宝石。ここでは色ガラスを指す)」と「エマイユ(七宝)」のふたつを合成した言葉。透明な板ガラスに下絵を描き、色ガラス片を積み重ねて色の濃淡を調節する。この重ね合わせによって絵画の絵具と同じような色調が得られる。そして作品を無色透明なエナメルに浸してから、窯で焼き固める。作品の背後から照明をあてることで、光が透けて輝き、色に溶け込むジェマイユ特有の透明感と立体感が生み出される。Gemmail (plural gemmaux)The word gemmail is a combination of the French words, gemme, meaning gem (in this case colored glass) and émail, meaning enamel. First a design is drawn ona sheet of transparent glass, then fragments of colored glass are built up on top of this, the number of layers of glass determining the intensity of the final colors. By superimposing colors in this way it is possible to achieve a greater range of colors as can be found with the artist's palette. Once the work is satisfied, it is submergedin colorless enamel and fired in a kiln, the enamel serving to bind the pieces of glass together. When light is applied from behind, it shines through the picture to create a feeling of transparency and illusion of three-dimensionality that is uniqueto the medium.」 まだまだ鑑賞したい作品があったが、旅友との待ち合わせの時間もあり、ここまでとした。そして出口へと向かう。出口のステンドグラスを内側から。右側下部。右側上部。左側上部。左側下部。外に出て、ステンドグラスを振り返って。「PICASSO館」を見下ろして。 「PICASSO」館正面。 「歩く花」を「picasso館」を背景に。 『フェルナン・レジェ(フランス)Fernand Léger (French)歩く花 Walking Flower』。「フェルナン・レジェ(フランス)Fernand Léger (French)1881–1955歩く花Walking Flower1952ブロンズ、塗料bronze, paint花びらが頭や手足となり、太陽に向かって力強く行進するかのような、力とエネルギーに満ちた作品です。The flower's petals form the head, arms and legs as it appears to march boldly towardsthe sun. It is a work filled with power and energy.」 正面から。花びらを頭、腕、脚に見立てており、太陽に向かって誇らしげに歩みを進めるような躍動感あるデザイン。鮮やかな色彩とロボットのように力強く行進する姿が特徴。再び「PICASSO」、 『エミリオ・グレコ 腰かける女No.2』自然な姿勢で腰掛け、片腕を腰に添えた落ち着いたポーズから、静けさと生命感が同時に伝わって来る。筋肉を誇張せず、なめらかな曲線で人体の美しさを表現しているのがグレコならではの魅力。『 エミリオ・グレコ(イタリア)Emilio Greco (Italian)水浴びをする女 No.6 Large Bather No.6』。「 エミリオ・グレコ(イタリア)Emilio Greco (Italian)1913–1995水浴びをする女 No.6Large Bather No.61962–64ブロンズbronzeグレコの作品の特徴は、憂いを含んだ端正で優美な女性像にあります。量感を感じさせながらも伸びやかで躍動感に満ちています。Greco's works are typically elegant sculptures of women possessing an air of melancholy, which despite projecting a feeling of mass, appear relaxed and full of vigor.」 ズームして。『うずくまる女 No.4 Large Squatting Figure No.4エミリオ・グレコ(イタリア) Emilio Greco (Italian)』「エミリオ・グレコ(イタリア)Emilio Greco (Italian)1913–1995うずくまる女 No.4Large Squatting Figure No.41973ブロンズbronze現代の女性をモデルとしていますが、その彫刻的な技術の巧みさと描線は、イタリア美術の伝統を感じさせます。Although featuring a contemporary woman as a model, the sculptural technique andskillful lines are redolent of Italian traditional sculpture.」 「PICASSO館」を後にして進む。 「平和のためのパイプ ピーター・ローガン作(イギリス)」。 ズームして。そして『草間彌生 われは南瓜』。黒い南瓜のオブジェを中央に据え、その周囲に草間彌生を象徴する黄色い水玉模様が広がる屋外展示。草間彌生は幼い頃から南瓜を好んでおり、「ユーモラスで、たくましく、どこか人間味のある存在」として繰り返し作品に取り上げていまる。南瓜は草間芸術を代表するモチーフの一つで、水玉模様(ドット)とともに、生命力や無限性、自然とのつながりを象徴している。この作品では、黒い南瓜と黄色い水玉の床面との対比によって、南瓜がまるで大地から生命力を放ちながら現れたかのような印象を与えている と。『うつろひ 宮脇愛子』。「うつろひ Utsurohi」は、10本のワイヤーで空間に素描するように線を描いた作品。ワイヤーはしなやかにたわみながら風にふるえ、光に輝き、瞬間瞬間の移りゆく時や風景を記憶に留めるための媒体となっていた。「カフェ&丸太広場 キトキ」へ。 広大な彫刻庭園内の一角にある同施設の1階はカフェ、2階はギャラリーとなっていたが、室内で休憩できるスペースが不足していたため、2階に休憩と展示を両立するスペースが求められた。彫刻の森美術館では、屋外展示の彫刻には基本的に触れることが出来ない。そこで、触れたくなる、また山に囲まれた環境ならではの素材として、箱根山で伐採された杉の丸太材と、360mm角の集成材を土台として井桁状に並べ、階段室を境に分断された細長い空間に一体感を与える提案とした。空間全体にグリッドを設定し、橋のように架け渡した丸太材は、ベンチとしてもテーブルとしても使え、お弁当を食べたりくつろいだり、来館者の憩いの場となる。ゴムチップマットのエリアでは靴を脱いで、角材を背もたれに寄りかかったり、またはローテーブルとして囲んだりもできる。 ごく単純なルールで出来た空間は、使い方を限定せず、訪れた人それぞれが能動的に使い方を発見できる余白に満ちた場所となっていた。1F:カフェ/ショップ2F:フリスペース/ギャララリー ・草間彌生《南瓜》(2017年) YAYOIKUSAMA Pumpkin1F:カフェ/ショップ階段下に「草間彌生《南瓜》(2017年)YAYOIKUSAMA Pumpkin」案内板。 階段を上る。「丸太広場 キトキ丸太広場キトキは箱根の木を使ったフリースペースです。木のぬくもりを感じながらゆっくりおくつろぎください。」 赤い水玉(ドット)で壁一面が覆われ、中央には巨大なカボチャのオブジェが展示されていた。草間彌生ならではの「無限の水玉」の世界を体感できる空間で、多くの来館者が写真撮影を楽しむ人気スポットであった。丸太広場「キトキ」木のベンチやテーブルが並ぶ休憩スペース「キトキ」は木の温もりを感じられる交流空間草間彌生作品を背景に休憩や記念撮影が楽しめるのであった。草間彌生と水玉草間彌生は幼少期から幻視体験の中で見えた無数の水玉を作品化してきた。水玉は「自己と宇宙の一体化」や「無限」を象徴するモチーフで、カボチャと並ぶ草間芸術の代表的なテーマである。廻り込んで。「丸太広場 キトキ」。 天井からも巨大なカボチャのオブジェが吊り下げられていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.22
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さらにPICASSOのセラミック作品を追う。「牡牛と闘牛士Bulls and Bullfighters」 近づいて。近づいて。近づいて。近づいて。「四角い顔Square Faces」 「四角い顔Square Faces「顔」ピカソは、自我の投影ともいえる「顔」を量産し、陶芸において数々の顔を描いた。晩年にかけてはいっそう戯画的傾向を強めた。ユーモラスな顔からは、無心に造形を楽しむピカソの童心が伝わってくる。"Face"Picasso produced large quantities of faces that can be seen as representing himself. These were used to decorate his ceramic works. In his later years,his work became increasingly decorative. The humorous faces are able to glimpse Picasso's childlike spirit of enjoyment as he devoted himself to his creativity.16の展示作品一覧」 「静物Still Lifes」 「模様のある花瓶1947年頃Vase with Decorc.1947ceramic」 「静物1956年3月10日セラミック花瓶とりんごを並置させ、単純化したフォルムと調和した色合いで、物のもつ重厚さを表現している。ピカソは、テーブル上の水差しや花瓶など日常的な情景をとらえ、静謐な威厳あるものとして存在の本質に迫っている。Still LifeMarch 10, 1956ceramicThis still life, with its simple forms and balanced colors, shows a vase andan apple side-by-side, stressing the weighty nature of objects. Picasso takes everyday items such as jugs and vases on a table to considerthe true nature of existence by portraying them as objects of serenity and majesty.首飾りをつけたヴィーナス1947年3月18日セラミック伝統的な陶器の形状を、最小限の手を加え、鳥や人物像などに再構成した。その多くは使用するためのものではなく、陶器の彫刻である。「陶芸は自由気ままにできる彫刻だ」とピカソは語っている。Venus with NecklaceMarch 18, 1947ceramicPicasso would sometimes take traditional ceramic forms and with a minimum of alteration, turn it into a bird or person, etc. The majority of these were not meant to be practical, but rather were created as ceramic sculptures. He is quoted as saying, “Pottery is form ofsculpture that can be created freely.”」 「人物Human Figures」。 「顔」。 「顔1957年頃セラミックFace1.1957ceramic」。 『水浴者』。「水浴者1961年頃セラミック薄い粘土板から人型を切り取り、それを垂直に折って絵を描いている。平面の組み合わせを中心に構成された立体作品であり、絵画と彫刻の関連性を示している。Batherc. 1961ceramicThis work, which is built around a combination of flat surfaces, depicts a figure that has been cut out from a thin slab of clay before being bentvertically. The work demonstrates the links between painting and sculpture.」 「ゆかいな顔Amusing Faces」 『二つの顔 Two Faces』。「二つの顔セラミック皿や水差し、食器などは職人による成形がすでに行われており、そこにピカソが絵付けをしていく。陶芸既成概念を次々と破っていったピカソの直感が完成作品に表われている。Two FacesceramicPicasso would take plates, jugs and tableware that had been created by a potter, then apply paintings to them. Picasso's intuitional ability tosubvert preconceived ideas of pottery is revealed in the completed works.」 左:女 1961年頃 セラミック Woman c.1961 ceramic右:二つの顔の花器 1952年8月24日 ブロンズ Pot with Two Faces August 24,1952 bronze左:顔 セラミック Face ceramic「三人の人物1948年1月14日セラミックThree PersonsJanuary 14,1948ceramic」 近づいて。「顔1965年6月21日セラミックFacesJune 21.1965ceramic」近づいて。近づいて。「フランコの夢と嘘1936年にスペイン内戦が勃発。この2枚組の版画は、反乱軍の指導者であったフランシスコ・フランコ将軍への批判であり、スペイン政府救援のために自筆の詩を添えて販売された。物語は画面の右上から左へと進み、フランコは醜悪で滑稽な怪物の姿で描かれ、非現実的でグロテスクな行為の主人公として告発されている。最後の4場面は1937年4月のゲルニカ空爆のあとに描かれた。The Dream and Lie of FrancoThe Spanish Civil War broke out in 1936. This set of two prints wasproduced as a critique of General Francisco Franco, the leader of therebellion, and sold, together with a poem written in his own handwriting, to aid the Spanish government. The narrative proceeds left from the upper right with Franco depicted as a ridiculous monster accused of advancing unrealistic and grotesque acts. The last four scenes were produced after the bombing of Guernica in April 1937.」 『フランコの夢と嘘 第1葉The Dream and Lie of Franco First Sheet』。「フランコの夢と嘘第1葉1937年1月8日エッチング、アクアティント、紙The Dream and Lie of FrancoFirst SheetJanuary 8, 193etchching, aquatint, paper」 『フランコの夢と嘘 第2葉 The Dream and Lie of Franco Second Sheet』。「フランコの夢と嘘第2葉1937年1月8–9日、6月7日エッチング、アクアティント、紙The Dream and Lie of FrancoSecond SheetJanuary 8–9, June 7, 1937etching, aquatint, paper」 「男の顔 Men's Faces」を振り返って。 『男の顔 Men's Faces』。ズームして。「男の顔原画(1967年7月31日):パブロ・ピカソ制作:ジャクリーヌ・ド・ラ・ボーム=デュルバックタピスリーピカソの水彩画(原画)に基づき、許可を得て制作された。タピスリー作家のジャクリーヌ・デ・ボーム=デュルバック(1920–90)によって2枚が織られたうちの2枚目。1枚目は作家蔵。Head of a Manoriginal painting (July 31, 1967): Pablo Picassotapestry: Jacqueline de La Baume-DürrbachReproduced with permission from one of Picasso's watercolors. Two works were produced by Jacqueline de la Baume Dürrbach (1920–90). This is the second. The first is part of the artist's collection.」 『腕を組む男 Man with Arms Crossed』に近づいて。『腕を組む男 Man with Arms Crossed』。 「腕を組む男 1964年12月31日細砂、キャンバス83歳のピカソはますます精力的であった。1964年の大晦日、この作品のほかに大作を2点。ほとんどが描かれ、前日には5点の油彩を制作している。速く簡潔で力強い筆致と余白のバランスが効果を生んでいる。Man with Arms CrossedDecember 31, 1964oil on canvasAt the age of 83, Picasso had become increasingly industrious. On New Year's Eve, 1964, he produced this and five other large paintings, while the previous day he hadcreated four oil paintings. The bold brushstrokes of that extremely prolific final periodreveal the artist's deep passion in his later years.」 『座る男 Seated Man』。「座る男1960年12月26日鉛筆、紙ピカソは線描を得意とし、この素描は、人体の正面と側面を一緒に描くという造形上の処理を力強い線で表している。Seated ManDecember 26, 1960pencil on paperPicasso excelled at line drawings and in this sketch he uses strong lines to createa figurative depiction of a seated figure, combining the frontal and side views.」 『画家とモデルArtist and Models』左:『156シリーズ No.150』右:『ジャクリーヌの顔』『156シリーズ No.150』。「156シリーズ No.1501971年6月7日–10月6日アクアティント、ドライポイント、紙《156シリーズ》は、ピカソが88歳から91歳を亡くなるまでの3年間に制作した156点の銅版画である。ピカソが長年にわたり繰り返し描いた《画家とモデル》のテーマが複雑に展開する。本作品では、豊満な裸婦の姿態を見つめる画家の表情に寂しさがただよう。156 Latest Prints, 1968–72 No.150June 7 – October 6, 1971aquatint, drypoint, paperThe "156 Series" is a set of 156 copperplate engravings Picasso produced over thethree years from the age of 88 until his death at 91. The series represents the complex development of the recurring theme of the "painter and model" that he explored throughout his life. In this work, an expression of loneliness is apparent on the face of the artist as he gazes at the voluptuous nude figure of the woman.」 『ジャクリーヌの顔 Head of Jacqueline』。「ジャクリーヌの顔1956年1月22日セラミック自画像を含め、身近にいる人物の肖像をたくさん描いた。横顔の美しいジャクリーヌと結婚したのは、ピカソが80歳の時。モデルのジャクリーヌはピカソの2度目の妻で、晩年の10数年間を共に暮らし、その死をみとった。Head of JacquelineJanuary 22, 1956ceramicPicasso painted numerous portraits of those closest to him, including self-portraits. When Picasso married Jacqueline Roque, known for the beauty of her profile, he wasalready 80 years old. The model, Jacqueline, was Picasso's second wife.The couple lived together for well over a decade in Picasso's later years, and she remained with him until his death.」 『冠をかぶる女 Crowned Head』。「冠をかぶる女1965年1月16日油彩、キャンバス1961年にジャクリーヌ・ロックと結婚し、ムージャンに近い別荘「ノートル・ダム・ド・ヴィ」に定住する。以降、あたかも追憶の絵日記のように制作の流れはとどまらず、表現は大胆になっていく。この作品は、キュビスム以来の特徴であるダブル・イメージを利用したピカソらしい人物描写である。Crowned HeadJanuary 16, 1965oil on canvasPicasso married Jacqueline Roque in 1961 and began living in the cottageNotre-Dame-de-Vie, near to Mougins. After moving to the cottage, Picasso continued to draw and paint as if writing a daily journal, becoming increasingly bold in his methods of expression. This work is a typical Picasso portrait that makes use ofthe double-image technique that typified his work from the Cubist phase onwards.」 『画家とモデル The Artist and His Model』。「画家とモデル1963年3月5日–9月20日油彩、キャンバスThe Artist and His ModelMarch 5 – September 20, 1963oil on canvas絵筆とパレットを持ちキャンバスに向かう画家はピカソ自身であり、モデルは最後の妻ジャクリーヌである。そこには創作への強い思いと、モデルへの愛が込められている。描くことは愛することとともに自らが生きている証であった。The Artist and His ModelMarch 5 – September 20, 1963oil on canvasThe artist standing in front of the canvas, holding a brush and palette, is Picassohimself, and the model is his second wife, Jacqueline. The work displays his strong feelings towards creativity and his love for the model. For him, to paint and to love were both ways of proving his existence.」 『パレット Palette』。「パレット1961年6月3日陶板PaletteJune 3, 1961ceramic board」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.21
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この日は7月19日(日)、車で10分ほどの場所にある大学の農園で開花しているヒマワリ・向日葵を愛でに行って来ました。夏の朝の陽光をいっぱいに浴びたヒマワリ畑の壮大な広がりが印象的。青空と緑、そして一面の黄色が見事な調和を見せていた。見渡す限り続くヒマワリの黄色い絨毯。その一輪一輪が太陽の光を受けて輝き、夏の生命力と自然の豊かさを力強く語りかけてくれる光景なのであった。緑豊かな木立を背景に、無数のヒマワリが夏の日差しを浴びて咲き競う。自然が描いた鮮やかな黄色のキャンバスに、思わず時を忘れて見入ってしまうのであった。ズームして。青空を背景に、一斉に咲き揃ったヒマワリたち。どこまでも続く黄色の波は、訪れる人の心まで明るく照らし、夏ならではの感動を届けてくれたのであった。一輪一輪が個性豊かな表情を見せながら、仲間とともに咲き競うヒマワリ。自然が織りなす鮮やかな黄色のハーモニーが、夏の喜びを奏でて。咲き誇る花も、静かに頭を垂れ始めた花も、それぞれが夏という季節を精いっぱい生きている。その姿に、自然の営みの尊さが溢れて。背筋を伸ばし、太陽を見つめるヒマワリの姿は実に堂々としている。その凛とした美しさは、「前を向いて生きよう」という静かな励ましを。それぞれが少しずつ異なる方向を向きながらも、力強く咲くヒマワリ。その個性豊かな姿が調和し、自然だけが描ける美しい風景をつくり出しているのであった。花に近寄って。大きく広げた黄金色の花びらと、無数の小花が集まる花芯。その精巧な造形美に近づくほど、自然が創り出した芸術作品であることを実感させられるのであった。真夏の陽光を浴びて咲く一輪のヒマワリ。その黄金色の花びらは、まるで太陽の光をそのまま映し出したかのように輝き、生命の力強さを静かに語りかけてくるのであった。一輪のヒマワリにそっと近づくと、放射状に広がる花びらと緻密な花芯が織りなす見事な造形美に目を奪われる。自然が生み出した芸術作品そのものであった。一輪のヒマワリに宿る生命の輝き。幾何学模様のように整然と並ぶ花芯と、伸びやかな花びらが織りなす姿は、自然が描いた見事な芸術作品である。一輪一輪が堂々と咲きながら、互いに美しさを競い合うヒマワリたち。果てしなく続く黄色の花の海は、夏だけが見せてくれる贅沢な風景であった。太陽に向かって力強く咲くヒマワリが一面を埋め尽くす。その圧倒的なスケールと鮮やかな彩りは、自然が創り上げた壮麗な夏の絵巻そのもの。一輪一輪が堂々と咲きながら、互いに美しさを競い合うヒマワリたち。果てしなく続く黄色の花の海は、夏だけが見せてくれる贅沢な風景。そして移動して、サルスベリ・百日紅とのコラボを。紅色のサルスベリが優雅に咲き、その向こうには黄金色のヒマワリが一面に広がる。夏を代表する二つの花が織りなす競演は、まるで季節が奏でる華やかな開花の約束。黄金色のヒマワリの海の向こうに、紅色のサルスベリがまるで舞台の主役のように浮かび上がっていら。そして、その間から一本だけ背高く咲くヒマワリが、まるで二つの花を結ぶ案内役のようにも。再び戻って。黄金色の花々が果てしなく続く景色は、まるで大地に敷き詰められた夏色の絨毯。一輪一輪が光を受けて輝き、見る人の心・そし9て後期高齢者の私に元気と希望を届けてくれるのであった。そして後ろ姿を。太陽を見つめるヒマワリたちの後ろ姿。華やかな花は見えなくても、その伸びやかな茎と力強く支える姿には、飾らない美しさと健気な生命力が感じられるのであった。表情豊かな花の陰には、しっかりと大地に根を張り、花を支える茎と葉がある。後ろ姿を眺めることで、華やかさだけではないヒマワリの本当の美しさに気づかされるのであった。ヒマワリにぐっと近づいたことで、花芯の精巧な造形と花びらの繊細な美しさが際立っていた。二輪が寄り添う姿も印象的で、まるで語り合っているようにも見えて。黄金色の花びらをいっぱいに広げたヒマワリ。その中心に刻まれた緻密な模様は、自然が長い歳月をかけて育んだ精巧な美しさを物語っている。そしてヒマワリの花の奥には富士山の姿が。一面のヒマワリの先に、かすかに浮かぶ富士山。その控えめな姿が、黄金色の花畑をいっそう引き立て、日本ならではの夏景色を演出していたのであった。富士山にズームして。夏の陽光に輝くヒマワリ畑。その遥か彼方には、薄い雲をまとった富士山が静かにそびえ立つ。力強さと穏やかさが響き合う、これぞ美しい日本の夏景色。最後に目を向けたのは、一輪のヒマワリで忙しく蜜を集めるミツバチ。その小さな命の営みが、夏の花畑に生命の豊かさと自然の尊さを静かに伝えていた。我が趣味の養蜂のミツバチ嬢もここまで訪花しているかも知れないのであった。黄金色のヒマワリの花芯に静かに降り立ち、夢中で蜜を集めるその姿には、懸命に生きる命の輝きがあった。広大な花畑の美しさも、一輪の花の精巧さも、この小さな命があってこそ次の季節へと受け継がれていく。自然とは、それぞれが役割を果たしながら支え合う、大きな生命のつながりなのである。ヒマワリへ舞い降りようとする一匹のミツバチ。その小さな羽ばたきには、花から花へ命をつなぐ自然の営みと、懸命に生きる力強さが凝縮されていた。蜜を求めて飛び交うミツバチと、それを優しく迎えるヒマワリ。互いに支え合いながら命をつないでいく自然の姿が、まさに眼前で凝縮されているのであった。ミツバチの体には黄色い花粉がびっしりと付着し、ヒマワリからヒマワリへ命をつなぐ、まさに働き者の姿そのもの。花芯に顔を寄せ、夢中で蜜を集めるミツバチ。後脚に実った花粉団子は、懸命に働いた証であり、自然から授かった小さな宝物なのであった。いつまでもヒマワリの花そしてミツバチをカメラで追いかけていたい時間、空間なのであった。入口には「生物資源生産実習センター」👈️リンク と。日本大学生物資源科学部の「生物資源生産実習センター(附属農場)」は、神奈川県藤沢市亀井野1866に所在し、乳牛、豚、鶏などの飼育や栽培実習、食肉加工などを行う教育・研究施設 。入口の花壇の花も地味に感じられたのであった。 ・・・おわり・・・
2026.07.20
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そして「PICASSO館」に到着。「PICASSO館」は、20世紀を代表するスペインの芸術家パブロ・ピカソの作品を専門に紹介するために、1984年に開館した。以来、マヤ・ピカソから購入した陶芸作品188点を中心とした319点のピカソ・コレクションを順次公開している。 「PICASSO館」入口。「PICASSO」。パブロ・ピカソは、91歳で生涯を閉じるまで、人間として、芸術家として劇的な人生を歩みました。1881年、スペイン、アダルシア地方の地中海をのぞむ町マラガに生まれたピカソは、幼少より画才を見せ、画家で教師をしていた父親の薫陶の下に、やがて父親を越えるほどの素描力を見せました。14歳でバルセロナへ移った彼は、翌年美術学校へ入学します。1900年にパリへ出ると、トゥールーズ=ロートレック[1864-1901]の影響を受けてアカデミックな表現を捨て、本格的に画家としての道を歩み始めます。その人生は起伏に富んだもので、生涯に幾人かの女性が相次いで登場しますが、彼女たちは創作活動のインスピレーションとなり、ひいてはピカソの作風の変化するきっかけともなりました。ピカソは、キュビスムのように理知的に対象を分析したリズム感あふれる作品を描いたかと思うと、古典主義的なしっとりとした作品を描き、愛情とユーモアあふれる作品を生み出す一方で、激しい怒りの叫びが聞こえるような作品を制作しています。異なる時期や様式のピカソの作品を見比べると、あまりに変化に富んでいるので、まったく別の人間が描いたかのように見えます。しかし、どの作品もピカソの人生を反映しており、彼の現実を見つめる一貫した意志や姿勢が感じられます。現在ピカソの作品を専門に収蔵している美術館は、生誕地のマラガや青年期を過ごしたバルセロナ、人生の大半を過ごしたパリ、古城をアトリエとして使っていたアンティーブ、南仏の陶芸の町ヴァロリスなどにあり、それぞれに特徴を持っています。1984年に開館した彫刻の森美術館のピカソ館は、ピカソの娘であるマヤ・ピカソ[1935-2022]から購入した陶芸作品188点がコレクションの中心となっています。鮮やかな色彩、遊び心にあふれた作品の数々は親しみやすく、見る者を豊かな楽しい気分にさせてくれます。その他、彫刻、絵画、タピスリー、ジェマイユ、金のオブジェ、銀製コンポートなど、多彩な作品が展示してあります。好奇心、探求心の旺盛なピカソは、様々な造形に挑戦し、独自の表現を開拓してきました。第1次世界大戦、スペイン戦争、第2次世界大戦など激変の20世紀を、ピカソは驚異的な創造カとエネルギーを持って生き抜き、その業績は生前すでに圧倒的な評価を受け、20世紀美術の最高峰としてそびえることになりました。『ピカソの肖像 Portrait of Picasso パブロ・ガルガリヨ Pablo Gargallo』。「パブロ・ガルガリヨ1881–1934年スペインピカソの肖像1913年ブロンズピカソと同年に生まれ友人であったガルガリヨは、伝統的な鋳造による制作を行っていたが、キュビスムに接してからは、透かし彫りを取り入れた多面的な形状の作品を作るようになった。この肖像はピカソの身長(約163cm)にあわせて展示した。Pablo Gargallo1881–1934SpanishPortrait of Picasso1913BronzeA friend who was born in the same year as Picasso, Gargallo was a sculptor who initially specialized in traditional casting techniques. After coming into contact with Cubism, he began producing sculptures using openwork and multiple planes. This portrait is displayed at the same height as Picasso himself, 163 centimeters.」 PICASOの創作風景をビデオで紹介。「このピカソ館は、1984年(昭和59年)7月7日、産経新聞創刊50周年、ニッポン放送開局30周年、フジテレビジョン開局25周年を記念して創設されました。The Picasso Pavilion opened on July 7, 1984.It was founded in commemoration ofthe 50th anniversary of The Sankei Shimbun Newspaper,the 30th anniversary of Nippon Broadcasting System, Inc., andthe 25th anniversary of Fuji Television Network, Inc.」 「ピカソの原動力」。 正面から。「ピカソの原動力PICASSO'S DRIVING FORCEピカソは、創作を引き起こす原動力となり作品を構成する重要なモチーフに、自分自身を重ねあわせ、度々、作品に登場させます。あるときは半獣半人の怪物ミノタウロスに、またあるときはモデルを描く画家として、そこに描かれているのは、愛と悲しみ、暴力と死、そして生きる歓びです。このような同一視は、湧き起こる感情をおさえ込む手段であり、心のうちをかたちにする方法であったと言えるでしょう。今回の展示では、コレクションを20のテーマに分け、創作モチーフからピカソ像を読み解く機会になりますと幸いです。PICASSO'S DRIVING FORCEPicasso often appeared in his own works, his method of overlaying the main motifin the composition with an image of himself being one of the driving forces behind his creativity. In one work he may depict himself as a Minotaur, a half-animal, half-human monster, while in another he could be the artist painting the model. His works express love and pathos, violence and death, or the joy of life, and this way of identifying with his subjects provided him with a means of expressing the emotions that welled up within as well as a method of manifesting whathe held in his heart.In this exhibition, the collection has been divided according to 20 themes, and wehope that these will provide the viewer with an opportunity to discover Picasso'simages of himself within his creative motifs.」 「私が歩んできた道をすべて地図に記し線で結んだとしたら、それはミノタウロスを表わすかもしれない。―― パブロ・ピカソIf all the ways I have beenalong were marked on a mapand joined up with a line,it might represent a minotaur.— Pablo Picasso」 「ミノトーロマシー」原版画(1935年):パブロ・ピカソ制作(1982年):イヴェット・コキール=プランスタピスリー 318x 450cmTapestry made by Yvette Cauquil-Prince after a work by Pablo Picasso「1930年代、ピカソの作品にはミノタウロスという牛頭人身のギリシャ神話の怪獣が登場する。人間的な弱さや愛情、ユーモアと、野獣の凶さや肉欲、残虐さを合わせ持つミノタウロスの多様な性格にピカソは共感を抱き、魅了された。自らの内にある獣性をミノタウロスに重ねて見ていたのであろう。彼の版画作品の中でも最高傑作である《ミノトーロマシー》は、1935年、ヨーロッパが第2次世界大戦へと向かう不穏な空気の中で描かれた。ミノタウロスは、愛らしい少女が差し出す蝋燭(ろうそく)の光を前に恐れたように立ちすくんでいる。中央には腹を裂かれ苦しむ馬と、馬の背に横たわる美しい女闘牛士。左手には逃げ出す髭(ひげ)の男、上方の窓にはふたりの女性が鳩と寄り添い様子を見守っている。いろいろな解釈を許す作品であるが、それらの題材は、2年後の大作《ゲルニカ》(1937年、ソフィア王芸術センター、マドリード)の悲劇に先駆ける象徴性を持ち、不吉な雰囲気を感じさせる。このタピスリーは《ミノトーロマシー》の原版画をもとにして糸の選択から仕上げまでタビスリー作家のイヴェット・コキール=プランス[1928-2005]が制作した。」 「女の顔Women’s Faces」 『女の顔1905年エッチング』『女の顔1905年エッチング1904年、モンマルトルの「洗濯船」と呼ばれる木造長屋に住んだピカソは、近くにある「ラベン・アジル」というキャバレーの常連となった。本作品の女性は、この店の主人フレデリックジュラール(愛称フレデ爺さん)の愛人であるマルゴ(Margot)になっている。』 『女の横顔 Woman in Profile』「女の横顔1956年頃セラミック一息に描いた無駄のない簡素な描写と、陶の粗い肌合いがあいまって、プリミティブ芸術を想起させるような素朴で、かつ端正な力強い女性像を想起させるような、素朴で、かつ崇高な女性を表現している。ピカソはあらゆるものをキャンパスがわりにして、陶板の破片までも芸術作品に仕立てあげた。Woman in Profilec. 1956ceramicThis modest portrait, drawn rapidly and unpretentiously, combines with the rough texture of the pottery to create a simple, yet sublime image of a woman, reminiscentof primitive art. Picasso even used all kinds of material as he was turning even this shard of pottery into a work of art.」 『イタリアの女 Italian Woman』。「イタリアの女1918–19年エッチン1917年、ピカソはイタリアのローマ、ナポリ、ポンペイ、フィレンツェ、ミラノの遺跡や美術館を巡り、その風土に魅せられた。画風もおおらかなものへと変化し、この頃から豊満な人物像が現れてくる。Italian Woman1918–19etchingIn 1917, Picasso toured historical sights and art galleries in the Italian cities of Rome, Napoli, Pompeii, Florence, and Milan and was struck by the culture and customs of Italy. The trip also softened his artistic style, and from around this period he beganto produce works featuring voluptuous women.」 『顔 Face』「顔1928年リトグラフ、モデルは当時19歳のマリ=テレーズ・ワルテルであろう。妻オルガ・コクローヴァと不仲になったピカソにとって、彼の名を知らなかった無邪気な娘は心の安らぎとなり、彼女を描いた多くの美しい絵画が生まれた。Face1928lithograph, paperThis work was likely modeled by Marie-Thérèse Walter, who was then just 19. As his marriage deteriorated, Picasso sought comfort from the young womanwho did not know his status as a painter, and she began to feature in many beautiful works.」 『二人のサルタンバンク Two Harlequins』。「二人のサルタンバンク1905年ドライポイント、紙ピカソがサルタンバンク(サーカス芸人)を描く時に選んだのは、彼らの華やかな舞台ではなく、幼い子どものいる家族や仲間たちと休憩したり、馬の世話をしたりする姿であった。現実の社会と人々へのまなざしは、ピカソ芸術の原点にあった。Two Harlequins1905drypoint, paperWhen Picasso drew the Saltimbanques (circus performers), he chose not to depict them on a flamboyant stage, but rather to show them with their families, including young children, relaxing with friends, or looking after their horses.The study of the real world and its people formed the foundation of Picasso's art.」 『フルート奏者と子ども Flute Player and Child』。「フルート奏者と子ども1971年9月1日鉛筆、紙子どもと大人との対比が晩年のピカソ作品の典型的な主題となった。大人は若さと活力を取り戻そうとし、子どもはそれに付き従う。子どもは、老いと死への抵抗を試み続けるこの芸術家の心強い味方で、両者は互いに助け合う存在であった。Flute Player and ChildSeptember 1, 1971pencil on paperIn Picasso's later years, he often depicted children alongside adults. The child follows the adult as the adult hopes the child can help them recapture some of their youthful vigor. Children provide a measure of support as the old painter fights against aging and death, with both generations assisting each other.」 「子供 Children」。近づいて。 『子供 Child』。「子供1956年頃セラミックピカソは、子供がとらえる世界に強い関心を持ち、子供のまなざしに自らも同化しようとした。本作品は、デフォルメされた子供と背景の色彩を大きく分け、さらに全体を六つに分割するという、絵画と彫刻の要素を同時に組み合わせた実験であった。Childc. 1956ceramicPicasso had a deep interest in how children see the world, and often tried to look atthings from a child's viewpoint. This is an experimental work in which he divided the composition between the deformed image of a child and a colorful background,while splitting the overall work into six sections, simultaneously combining elements of painting and sculpture.」 『クロードの顔 Claude』「クロードの顔1958年7月21日陶板ピカソは生涯を通じて子供という主題に取り組んだ。特定の個人を表わすことなく幼年時代を描いた作品とならんで、彼自身の息子や娘たちニ、パウロ、マヤ、クロード、パロマを描いた作品もあり、子供の世界は重要な主題であった。ClaudeJuly 21, 1958ceramic boardThroughout his artistic life, one of Picasso's most important themes was childhood. Some of his works focus on children generally without depicting specific individuals, and others show his own children, Paul, Maya, Claude and Paloma.」「ミノタウロスMinotaur」 パブロ・ピカソにとって「ミノタウロス(牛の頭と人間の体を持つ神話の怪物)」は、1930年代に彼自身を投影した重要な分身(オルターエゴ)でした。彼はミノタウロスを、野蛮な欲望、男性の暴力性、そして人間の本能的な感情の象徴として多くの絵画や版画に描きました。『ミノタウロマキア』(Minotauromachy, 1935年): 彼のミノタウロスをテーマにした作品の中で最も有名で複雑な銅版画です。盲目の怪物が少女に導かれる様子や、力と無垢の対比が描かれています。「イヴェット・コキール=プランス1928–2005年ベルギー1959年、パリにタピスリーのアトリエを開く。以後、ブラック、シャガール、工ルンストといった20世紀の主要な芸術家たちと共に仕事をする。またピカソの全面的な信頼も得て、ビカノの存命中に数多くのタピスリー制作を実現させた。実寸大に引き仲ばした写真を下絵として使い、1m²を織るのに2週間〜2ヶ月ほどかかり、この作品は10ヶ月間をかけて完成された。Yvette Cauquil-Prince1928–2005BelgiumYvette Cauquil-Prince opened a tapestry studio in Paris in 1959 where she worked with many of the major artists of the 20th century such as Braque, Chagall and Ernst. She also won Picasso's complete trust, and while he was still alive, she produced numerous tapestries for him. Working from actual size photographs, it would take herbetween 2 weeks and 2 months to weave a 1m² section. This work took her10 months to complete.」「イヴェット・コキール=プランス」。 「ミノトーロマシ原版画(1935年):パブロ・ピカソ制作(1982年):イヴェット・コキール=プランスタピストリーピカソは、ギリシャ神話の半獣半人ミノタウロスを好んで題材にした。残忍で好色なこの怪物は、悪や暴力、死を象徴する。自らの内にある獣性をミノタウロスに重ねたのであろう。画面中央の女闘士に残虐を行うミノタウロスの、一部始終を照らし出す少女――「真実と潔白さは、悪と暴力を打ち破る」ことが主題となっている。Minotauromachyoriginal print (1935): Pablo Picassotapestry (1982): Yvette Cauquil-PrincePicasso liked to use the Minotaur, a half-man, half-bull that appears in Greek mythology, as a motif in his work. A brutal, lustful monster symbolizing evil, violence and death, he overlaid it with the bestiality that existed within himself. In this work, the Minotaur can be seen ravishing a woman fighter in the center of the work while the wholescene is illuminated by a young girl, the theme being truth and innocence defeating evil and violence.」 『ミノトーロマシー Minotauromachy』。「キュビスムの表現cubism」 『イタリアの女 Italian Woman』。「イタリアの女1917年水彩、紙1917年、ピカソはジャン・コクトーとともにローマを訪れた。この時の古代ローマの彫刻や遺跡、ルネサンスの巨匠たちとの出会いが後の《新古典主義》の表現へと結実する。本作は、解体された対象を再構成しつつ点描を加えて、明るい光のなかに佇む女性を描いている。Italian Woman1917watercolor on paperIn 1917, Picasso visited Rome with Jean Cocteau. His encounter with the sculpture and ruins of ancient Rome, as well as the work of the great masters of the Renaissance, later bore fruit in his Neoclassicism. In this work, the subject has been deconstructed, reconstructed and rendered with pointillist touches to create the image of a woman standing in bright light.」 【本文にわいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています。】とのことでアップできません。「10コマ目死んだペガサスを食べるフランコ」 「動物 Animals」。 移動して。「鳥 Birds」。 近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.20
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『浮かぶ彫刻3 マルタ・パン』近づいて。木立に囲まれた池を舞台に、大小の朱色のかたちが周囲の景色と響きあっています。ゆるやかなカーブを描く大きな形の中央には穴が開いていますね。小さい形は、そこからくり貫かれたもので、まるで赤ん坊のように母なる大きな形から生まれてきました。小さい方は、風がふくと水の上を滑るように動きます。大きい方から離れたり、近づいたり、まるで池の鯉や自然との対話を楽しんでいるかのようです。大きい方も、時折その場で向きを変えながら様々な表情を見せます。ハンガリーで生まれ、その後パリを拠点に活躍してきたマルタ・パンは、環境芸術の先駆けとして知られる女流彫刻家です。ポリエステル樹脂やステンレスなどの現代的な素材を用いた作品は、作品が置かれる周囲の要素を取り込みながら、おおらかで心地よい自由な空間を生み出しています。移動して。『ハコネ Hakoneアリシア・ペナルバ(アルゼンチン-フランス)Alicia Penalba (Argentine / French)』「アリシア・ペナルバ(アルゼンチン-フランス)Alicia Penalba (Argentine / French)1918–1982ハコネHakone1968–69ポリエステル、鍍金polyester, plating原生植物的な様相と建築的な様相が交差しつつリズムを高め、何か呪術的な要素もあり、力強い作品となっています。In this powerful work, aspects of primeval plant life and architecture intersect,heightening the rhythm, while it also seems to contain some elements of magic.」 『イサム・ノグチ(アメリカ)Isamu Noguchi (American)1904–1988オクテトラOctetra1973セメント、塗料Cement, paint題名は、ギリシャ語の8=オクトと4=テトラを組み合わせました。さわって遊べるプレイスカルプチャー(遊具彫刻)です。The title of this sculpture derives from a combination of the Greek words "októ" for eight and "tetra" for four. This work is a play sculpture that visitors can touchand play in.』アメリカの彫刻家イサム・ノグチは、日常の遊び場にアートを持ち込み、こどもたちに夢を与えるために数多くのプレイスカルプチャー(遊べる彫刻)を制作しました。《オクテトラ》は、イサム・ノグチが制作したプレイスカルチャーで最も知られたものです。ギリシャ語の8=オクトと4=テトラを組み合わせて《オクテトラ》と名付けられたこの作品は、六角形の面4つと三角形の面4つをあわせた八面体の彫刻で、中に入って登ったり、くぐったりすることができます。作品案内板。振り返って。この作品は『ソファー / ポケっと。Sofa / PockeT.2021』『松原成夫Shigeo Matsubara1944–2012宇宙的色彩空間Cosmical Color Space1968鉄、塗料Iron, paint12色の正方形の連続がリズムとハーモニーを生み出して、見る人を色彩の小宇宙へと引き込むようです。A series of twelve different colored squares create rhythm and harmony,engaging the viewer with a microcosmos of color.』移動して。松原は、「物体を並列させることで空間がつながり、屋外の自然と融合して秩序のある宇宙空間が生まれる」と語ります。この作品では同じ大きさの正方形を1列に並べ、赤、黄、緑、青と虹色に移り変わる色をつけました。12色の変化がリズムとハーモニーを生み出して、まるで音でも聞こえてきそうな色彩の小宇宙を作っています。正方形の枠の連続が作り出している空間は開放的で、見る人を思わず作品の中へと引き込んでいくようです。子供たちだけでなく、大人までが枠をくぐり抜けてみたくなるこの作品は、人々の気持ちを和ませる環境彫刻として、また作家の造形の意図を越えて、遊具造形としての役割も果たしています。『風の奏でる音楽 Music by Wind 松本秋則 Akinori Matsumoto1951–1987ステンレス・スティール、アルミニウム(クロームメッキ)Stainless steel, chrome-plated aluminiumたくさんのパイプが風に揺れて生み出す音は、自然が奏でるリズムです。音楽好きの作者によるサウンド・オブジェです。Nature plays a rhythm when the wind blows the many pipes in this sculpture to generate sounds. The artist who created this sound object is a lover of music.』風が吹くと頭上よりずっと高いところから、カランカランという素朴な音が聞こえてきます。見上げると、周りの木立と背を並べるようにして、たくさんのパイプが風に揺れています。風に揺れて生み出される音は、自然が奏でるリズム。長さに違いのあるアルミニウム製のパイプは、音に高低があり、音楽を生み出します。例えば微風の時は、まるで風のささやきのような優しい音楽を奏でます。独学で美術・音楽などを学びました。「私は音楽が好き。でもピアノやギターなどの既成の楽器を演奏することはできない。そんな私が音楽活動をするにはどうしたら良いかと試行錯誤した結果、生み出されたのがサウンド・オブジェたち」と語ります。1992年から1年半アジア7 カ国で少数民族の芸能を研究。近年は竹を素材にしたサウンド・オブジェを制作し、アジアの芸能をヒントにした影絵仕立てのサウンド・インスタレーションで発表を続けています。『ポケつと』。2021年4月、彫刻の森美術館に体験型作品を中心に休憩できるエリア「ポケっと。」がオープンしました。振り返って。池に浮かぶ『浮かぶ彫刻3 マルタ・パン』見る。吊り橋。『狛犬 長野隆業』。『十一面観音像 木喰明満』『西行 松村外次郎』。『托鉢 矢崎 虎夫』。廻り込んで。『太陽の輝き カール・ミレス』『能姿の空間(弱法師)矢崎 虎夫』廻り込んで。『エヴァ Eva フランチェスコ・メッシーナ(イタリア) Francesco Messina (Italian)』。「フランチェスコ・メッシーナ(イタリア)Francesco Messina (Italian)1900–1995エヴァEva1949ブロンズbronze原罪を噛み締めるかのように、憂い気に佇む像です。作者は対象に深く迫り、モデルの内面を透過するほどに心理を描写しています。This figure projects a melancholy mood as she reflects on the original sin. The artist closes in on the subject, creating a psychological portrayal that expresses the model's inner consciousness.」 『パヴィリオン彫刻 Pavilion Sculpture マックス・ビル(スイス)Max Bill (Swiss)』。「マックス・ビル(スイス)Max Bill (Swiss)1908–1994パヴィリオン彫刻Pavilion Sculpture1969白花崗岩white granite12個の石を立方体の構造にそって積み上げた、東屋のような作品です。数学的な計算に基づいて制作されました。【1993年に世界文化賞を受賞】Twelve stone blocks have been stacked to create a cube resembling a pavilion.It has been constructed according to mathematical principles.Received the Praemium Imperiale Award in 1993.」 『若い女 Young Woman 佐藤 忠良 Churyo Sato (Japanese)』。「佐藤 忠良Churyo Sato (Japanese)1912–2011若い女Young Woman1971ブロンズbronze腰にあてた右手、降ろした左手、傾けた首。どの部分にも動きを重視する作者の意図を、感じ取ることができます。With her right hand on her hip, her left hand hanging down and her head tilted toone side, we can feel the intention of the artist to attach importance to the movement of every part of the figure.」 「星の庭 迷路」。 「星の庭Garden of Stars迷路 / labyrinth」 迷路 / labyrinth。「ネットの森」を背景に。 『「ハイッ」「Hey !」 山本 信 Shin Yamamoto (Japanese)』。「山本 信Shin Yamamoto (Japanese)「ハイッ」「Hey !」1992素材陶土タイル、陶板、FRP(繊維強化プラスチック)、鉄ceramic tile, ceramic plate, FRP, ironサーカス芸人が会心の技を決めた瞬間です。その掛け声が題名になり、カラフルな形態からは楽しい印象が伝わってきます。Capturing the moment when two circus clowns succeed in performing a trick,their cry as they do so provides the work's title, their colorful forms creatinga delightful image.」 この構造物の中にある『おくりもの:未知のポケット2 堀内紀子』を訪ねた。子供たちに大人気の「ネットの森」が、彫刻の森美術館の2017年の夏休みに新しくなって帰ってきた。大断面集成材を積み上げた木造ドーム。この角材を組んだ櫓は「設計:手塚貴晴+手塚由比構造設計:今川憲法英協力:チャールズ・マッカーダム/インタープレイ・デザイン・アンド・ マニュファクチャリング Designed by Takaharu Tezuka + Yui TezukaStructural design by Norihide ImagawaCooperated with Charles MacAdam / Interplay Design & Manufacturing Inc.」 「ネットの森ご利用にあたってネットの森は子供のための作品です。遊べるのは小学生までです。大人の方は、ネットの中に入ったり、ボールに乗ったりできません。」 大断面集成材を積み上げた木造ドームの中に、カラフルな手編みのネットがいくつもつなぎ合わされた巨大なハンモックの造形が組みこまれた「ネットの森」は、造形作家・堀内紀子と建築家・手塚貴晴+手塚由比によるコラボレーションから生まれました。「ネットの森」ならではの色鮮やかなネット作品と木組みの造形美は見逃せません。 テント幕の下にこのようにネットが張られる子供専用の遊具。『ジョアン・ミロ(スペイン) Joan Miró (Spanish)人物 Figure』。「ジョアン・ミロ(スペイン)Joan Miró (Spanish)1893–1983人物Figure1972合成樹脂、着色synthetic resin, paintミロによる彫刻は、ひとつの色や形、1本の線などが彼のイメージを呼び起こして生成されました。Miró's sculptures were created using one color, one shape, or a single line, etc., to evoke the image he had in his mind.」 そして「ピカソ館」に向かって進む。 前庭にも。『山野を歩くファン・ゴッホVan Gogh Walking Through the Fieldsオシップ・ザッキン(ロシア―フランス)Ossip Zadkine (Russian / French)』「オシップ・ザッキン(ロシア―フランス)Ossip Zadkine (Russian / French)1890–1967山野を歩くファン・ゴッホVan Gogh Walking Through the Fields1956ブロンズbronze作者はキュビスムの影響を受けた後に、理知的な形態の探求よりも劇的な表現を求めました。Influenced by cubism, the artist decided to pursue dramatic forms of expression rather than idealized forms.」 近づいて。ガクアジサイ。『預言者―大 Great Prophet パブロ・ガルガリヨ(スペイン)Pablo Gargallo (Spanish)』「パブロ・ガルガリヨ(スペイン)Pablo Gargallo (Spanish)1881–1934預言者―大Great Prophet1933ブロンズbronze聖書に「荒野で叫ぶ者」と記された洗礼者ヨハネの像です。ガルガリヨはピカソのキュビスムに接して、彫刻を面の集合として構築する、透かし彫りのような手法を生み出しました。This is a statue of the biblical figure of John the Baptist, whose coming had been prophesied as "A voice of one calling in the wilderness." Influenced by Picasso's Cubism, Gargallo constructed sculptures consisting of a collection of planes, creating a technique similar to openwork.」 『宮脇愛子 うつろひ Utsurohi』。『うつろひ Utsurohi』は、10本のワイヤーで空間に素描するように線を描いた作品。ワイヤーはしなやかにたわみながら風にふるえ、光に輝き、瞬間瞬間の移りゆく時や風景を記憶に留めるための媒体となっていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.19
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引き返して。『極 多田 美波』。1979年に開催された「第1回ヘンリー・ムーア大賞展」にて大賞を受賞したステンレススティール製の著名な彫刻作品。ステンレスの鏡面仕上げにより周囲の風景や光を映り込ませ、見る角度や時間帯によって表情を変える空間芸術として知られている。『ライナー・クリスター(ドイツ)Rainer Kriester (German) 大きな手 Big Hand 』。「ライナー・クリスター(ドイツ)Rainer Kriester (German)1935–2002大きな手Big Hand1973アルミニウムaluminum地面から突き出ている「大きな手」は、不安や悲嘆、抑圧や抵抗といった重いテーマが、単純化された形で表現されています。This Big Hand, that rises up out of the ground, expresses the weighty themes of anxiety, sadness, oppression and defiance through its simplified form.」 『サンティアゴ・デ・サンティアゴ・エルナンデス(スペイン)抱擁 EmbraceSantiago de Santiago Hernández (Spanish) 』ズームして。「サンティアゴ・デ・サンティアゴ・エルナンデス(スペイン)Santiago de Santiago Hernández (Spanish)1925–2023抱擁Embrace1986ブロンズbronze流麗な女性像を得意とし、中でも男女の愛をうたいあげた作品に、人間の本質と愛への共感が表現されています。This artist excels in the creation of elegant statues of women; in particular his works depicting men and women expressing their love convey the true essence ofhumanity and love.」 アジサイ(紫陽花)も美しく。『女 Woman 朝倉 響子 Kyoko Asakura (Japanese)』。深い緑に映える美しいシルエット。「朝倉 響子Kyoko Asakura (Japanese)1925–2016女Woman1970ブロンズbronze作者は、現代的な女性像を多く制作し、そのポーズやしぐさは女性の感情が表われる瞬間を鋭くとらえています。The artist produced numerous works depicting contemporary women, her keen eyecapturing the moment when a pose or movement expressed a woman's emotions.」 近づいて。『海辺の人々 Group in Front of the Seaフランシスコ・スニガ(コスタリカ)Francisco Zúñiga (Costa Rican)』「フランシスコ・スニガ(コスタリカ)Francisco Zúñiga (Costa Rican)1912–1998海辺の人々Group in Front of the Sea1984ブロンズbronzeメスティーソ(スペイン人と先住民の混血)の群像です。生きることのたくましさと哀愁、作者自身のルーツへの洞察がうかがわれます。This work features a group of mestizos (people of mixed Spanish and indigenousAmerican heritage). It expresses their strength and the pathos of their lives while simultaneously offering an insight into the artist's roots.」 近づいて。帰路に反対側から。『住まい The Dwellingオシップ・ザッキン(ロシア-フランス) Ossip Zadkine (Russian / French)』複雑な形に見えるが、2つの頭部や手がはっきり分かりウェーブした髪を持つ方が女性。人物が複雑に絡み合って家族を形成している。住まいとは建物のことではなく、人間の作る営みのことなのだろうか。帰路に反対側から。「オシップ・ザッキン(ロシア-フランス)Ossip Zadkine (Russian / French)1890–1967住まいThe Dwelling1963–66ブロンズbronzeウェーブした髪の女性と背後から支えている男性が、ひとつの集合体を作り上げ、家族の絆を表わしています。The woman with wavy hair is supported from behind by a man, the two combining to produce a single aggregate form, representing familial ties.」 『鶏を抱く女 Girl with Rooster 本郷 新 Shin Hongo (Japanese)』。「本郷 新Shin Hongo (Japanese)1905–1980鶏を抱く女Girl with Rooster1962ブロンズbronze作者が小学生の頃、家の近くで暴れる鶏をしっかりと胸に抱きながら歩く少女と出会った記憶をもとに制作されました。When the artist was still in elementary school he met a young girl near his housewho was clutching a struggling chicken to her chest, and this work was created based on that memory.」 『休息する女 Woman at Rest アギュスタン・カルデナス(キューバ-フランス)Agustín Cárdenas (Cuban / French)』「アギュスタン・カルデナス(キューバ-フランス)Agustín Cárdenas (Cuban / French)1927–2001休息する女Woman at Rest1976大理石marbleすべての面が優しい丸みを持ち、ゆったりと体を伸ばして脚を組む姿は、女性の豊かな胸や腰を想起させます。Every surface of this work presents gentle curves, evocative of the full breasts andhips of a woman relaxing with her legs crossed, leisurely stretching her body.」 『マント Mantle 佐藤 忠良 Churyo Sato (Japanese)』。「佐藤 忠良Churyo Sato (Japanese)1912–2011マントMantle196ブロンズbronze長女のマント姿を見て、作者も子供時代にマントで冬をすごした記憶がよみがえり、制作に至りました。Seeing his eldest daughter wearing a mantle, the artist remembered having worn one himself in winter when he was a child and decided to produce this work.」 『球体をもった球 Sphere within a Sphereアルナルド・ポモドーロ(イタリア) Arnaldo Pomodoro (Italian)』。ズームして。「アルナルド・ポモドーロ(イタリア)Arnaldo Pomodoro (Italian)1926–2025球体をもった球体Sphere within a Sphere1978–80ブロンズbronze磨かれた表面と蝕まれた内部が対照的で、発達した機械文明が地球という生命体を脅かしているようにも見えます。[1990年に世界文化賞を受賞]The striking contrast between the polished exterior and the eroded interior of this work seems to represent the threat that industrial civilization poses to the world. Received the Praemium Imperiale Award in 1990.」 帰路に反対側から。ズームして。『海 The Sea 高田 博厚 Hiroatsu Takata (Japanese)』。「高田 博厚Hiroatsu Takata (Japanese)1900–1987海The Sea1962ブロンズbronze渡仏時に作者の母が、去りゆく汽車に向かって膝に手が届くくらい深々とお辞儀をしたといいます。それが最後の別れとなりました。When the artist left home to travel to France, his mother bowed towards the trainas it left the station, bending so low that her hands touched her knees. That was their final parting.」 近づいて。『my sky hole 84 HAKONE 井上武吉』ズームして。『将軍の孫 Grandson of the General北村 西望 Seibo Kitamura (Japanese)』「北村 西望Seibo Kitamura (Japanese)1884–1987将軍の孫Grandson of the General1918ブロンズbronze軍人の銅像を制作中に、作家の子供が資料の軍靴で遊んでいる時、父と視線が合い、思わず敬礼したといいます。The artist says that while working on a statue of a soldier, his son was playing with the military boots from the uniform he had borrowed for reference. When their eyes met, his son suddenly gave him a salute.」 近づいて。『断絶 伊本淳』ズームして。移動して。『白い仮面をつけた頭像 White Masked Headライナー・クリスター(ドイツ) Rainer Kriester (German)』。「ライナー・クリスター(ドイツ)Rainer Kriester (German)1935–2002白い仮面をつけた頭像White Masked Head1981–82石灰岩(ポルトガル産)limestone (Portugal)仮面で覆われ、目をふさがれ、何かを叫んでいる頭像からは、現代の不安や恐怖に耐えている様子がうかがわれます。The head is covered in a mask, hiding the eyes, but the mouth appears tobe crying out, allowing us to feel the fear and unease endured by peoplewithin contemporary society.」 吊り橋を渡る。右下の池の水面にはオレンジ色の作品が。吊り橋の左下の小さな広場にはベンチも。『アルバ Sunrise 新谷 琇紀 Yuki Shintani (Japanese)』。「新谷 琇紀Yuki Shintani (Japanese)1937–2006アルバSunrise1972ブロンズbronze題名はイタリア語で「暁」の意味です。眠りからさめた女性の甘美流麗な動きに、これから始まることへの期待感が表れています。This work depicts the delightful elegance of a woman who has just awoken from sleep and expresses an anticipation of new beginnings.」 『ベアトリーチェ Beatrice フランチェスコ・メッシーナ(イタリア) Francesco Messina (Italian)』「フランチェスコ・メッシーナ(イタリア)Francesco Messina (Italian)1900–1995ベアトリーチェBeatrice1983ブロンズbronzeギリシャ彫刻の流れを汲む地中海・イタリア的な造形で、若々しい生命感が繊細に表現された、少女の立像です。A statue of a girl, the vitality of youth delicately expressed in the Italian style thatoriginally derived from ancient Greek sculpture.」 そしてさらに階段を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.18
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「円形広場」の先に立つ「エミール=アントワーヌ・ブールデル」作の4体の像を見る。 「「力」「勝利」「自由」「雄弁」は、アルゼンチン共和国を独立へと導いたアルヴェアル将軍(1788–1852)の功績をたたえる記念碑の一部として制作されました。ブエノスアイレスの広場では、高くそびえる騎馬像の四隅に置かれています。ブールデルは、アルカイック期のギリシャ彫刻やロマネスク彫刻の素朴な剛健さにひかれ、建築物のような堅牢さを持った造形を目指しました。“Force,” “Victory,” “Liberty,” and “Eloquence” were created as part of a memorialcelebrating the achievements of General Alvear (1788–1852), who led Argentina to independence.They stand at the four corners of a monument in Buenos Aires, surrounding a statue ofAlvear on horseback that is set atop a tall plinth.Bourdelle was attracted to the simple, sturdy forms of both archaic Greek andRomanesque sculpture and aimed for durable, architectural forms.」 廻り込んで。『勝利(Victory)-大見かけの特徴・若々しい女性像。・一歩前へ踏み出すような躍動感のある姿勢です。・風を受けるように衣が流れ、力強さの中にも優雅さが感じられます。・未来を見据えるような表情が印象的です。持ち物・長い剣を手にしています。剣は勇気と武勇、そして勝利の象徴です。表現する意味勝利とは戦いに勝つことだけでなく、困難を乗り越えて得られる栄光や希望を象徴しています。華やかさよりも、勝利を手にした者の気高さと静かな威厳が表現されています。顔をズームして。帰路時には天気が回復して。「エミール=アントワーヌ・ブールデル(フランス)Émile-Antoine Bourdelle (French)1861–1929勝利-大Victory (large version)1918–22ブロンズbronze」 『力(Force)-大見かけの特徴・堂々と立つ男性像。・太い腕や胸板、たくましい脚など、力強い筋肉が際立っています。・全身に緊張感がみなぎり、重心を低く構えた安定した姿勢です。・量感豊かな肉体表現が、揺るぎない力を感じさせます。持ち物・棍棒(メイス)を手にしています。棍棒は武勇や権威、不屈の力を象徴しています。表現する意味 肉体的な強さだけでなく、国家や社会を支える精神力や不屈の意志を表現しています。 重厚な造形は、建築物のような安定感を生み出し、ブールデルが理想とした力強い彫刻美を 示しています。帰路時には天気も回復して。『自由(Liberty)-大見かけの特徴・堂々と立つ女性像。・身体全体が上へ伸びるような軽やかな姿勢。・衣服のひだが柔らかく流れ、開放感を感じさせます。・穏やかな表情の中にも、揺るぎない意志と気高さが表れています。持ち物・ぶどうの枝(Vine stock/葡萄の蔓・枝)を掲げています。枝が輪状に見えるため、月桂冠のようにも見えますが、豊穣や生命力、平和を象徴するぶどうの枝とされています。表現する意味自由とは単なる束縛からの解放ではなく、人間の尊厳や平和、そして豊かな未来への願いを象徴しています。穏やかで気品ある姿は、精神の高貴さや希望を静かに表現しています。顔をズームして。帰路時には天気も回復して。「エミール=アントワーヌ・ブールデル(フランス)Émile-Antoine Bourdelle (French)1861–1929自由-大Liberty (large version)1918–22ブロンズbronze」。 『雄弁-大 Eloquence (large version)』。見かけの特徴・堂々と立つ男性像。・落ち着いた姿勢で、静かな存在感を漂わせています。・衣服は簡潔にまとめられ、力強い身体の量感が際立っています。・穏やかな表情の中に、知性と威厳が感じられます。持ち物・巻物(フィラクテリー)を手にしています。巻物は知識や言葉、学問を象徴しています。表現する意味 雄弁とは、人を導く知性や説得力を意味します。武力ではなく、言葉や理性によって社会を 築くことの大切さを表現しています。静かな姿勢の中に、人間の知恵と品格が 込められています。「エミール=アントワーヌ・ブールデル(フランス)Émile-Antoine Bourdelle (French)1861–1929雄弁-大Eloquence (large version)1918–22ブロンズbronze」 帰路時には天気も回復して。左:自由ー大、右:雄弁―大。左:力ー大、右:勝利ー大。左から自由ー大、雄弁―大、力ー大、勝利ー大。帰路時には天気も回復して。左から力ー大、勝利ー大、自由ー大、雄弁ー大。『日時計』。日時計設計製作 日時計作家 小原輝子 2009年6月「日時計(ひどけい)太陽は私たちに「時」を教えてくれました太陽は見かけ上、東から西に動きます。地面に棒を立てると、規則正しい動きで影が出来ます。大昔の人びとは、影を記録して日時計をつくり、時を知る道具としました。この日時計はここの経度・緯度を測定し精密に設計してあります。時刻盤面の影は「地方真太陽時」を示しています。 彫刻の森美術館の地方真太陽時と日本標準時には違いがあります。日本標準時を知るには、日時計の影から「時差表グラフ」の時差を引いてください。 ◆ 計算例 6月10日 時の記念日の時差は約17分です。 日時計の影が午前11時の場合の日本標準時は、11時 − 17分 = 10時43分です。◆地球儀について 地球儀は地軸と平行に取り付けてあります。 地球儀にあたっている太陽の光は、今地球に当たっている太陽の光と同じです。 この地球儀の頂点は彫刻の森美術館です。 あなたは、地球の頂点に立っているのです。 設置:2009年6月 日時計作家 小原輝子」 『追憶 Recollections ジュリアーノ・ヴァンジ(イタリア)Giuliano Vangi (Italian)』。近づいて。「ジュリアーノ・ヴァンジ(イタリア)Giuliano Vangi (Italian)1931–2024追憶Recollections2004花崗岩(スウェーデン産、ブラジル産)granite (Sweden, Brazil)作者幼少時の、黒地に花柄の服を着ていた優しい祖母の記憶を形にしました。自らの手を像に加えています。【2002年に世界文化賞を受賞】This work embodies the artist's childhood memories of his grandmother, who wore a dress with a floral pattern on a black background. He has added his own hands to the statue. Received the Praemium Imperiale Award in 2002.」『横たわる像:アーチ状の足 Reclining Figure: Arch Legヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British)』。「人体を抽象化し、自然の大地や風景と一体化させたモニュメンタルなブロンズ彫刻。広い大地の上に、堂々と横たわる褐色の彫刻。一見、抽象彫刻のようですが、横から眺めてみれば、丸みを帯びた有機的な形態は、横たわる人間の姿のように見えます。イギリスに生まれたヘンリー・ムーアは、20世紀を代表する彫刻家の一人です。「彫刻の基本は人体である」と考えていたムーアにとって、「横たわる像」は、生涯を通じて追求した重要なモティーフのひとつです。背筋を伸ばした胴体と、弧を描く長い脚は、見る位置により変化に富んだ新しい形を生み出していきます。「私にとって、その最良の背景となって彫刻を完成してくれるのは、自然である。」広大な自然のもと太陽の光を受けて、堂々と横たわるこの作品は、現代に生きる人間の生命の神秘を浮かび上がらせます。」 「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986横たわる像:アーチ状の足Reclining Figure: Arch Leg1969–70ブロンズbronze「彫刻の背景として空以上にふさわしいものはない」と、野外作品についてムーアは語っています。Speaking of outdoor sculpture, Moore said:“There is no background to sculpture better than the sky.”」 帰路に。『アルボレサンス Arborescence ジャン・デュビュッフェ(フランス)Jean Dubuffet (French)』ズームして。「ジャン・デュビュッフェ(フランス)Jean Dubuffet (French)1901–1985アルボレサンスArborescence1971エポキシ樹脂、塗料epoxy resin, paint題名はフランス語で「高木性、樹木状」を意味します。あらゆる形態が無限につながる、終わりのない作品です。The title of this work, Arborescence, means "resembling a tree in growth or appearance," and this work represents the fact that all forms are linked endlessly.」 『関係項―A Relatum—A リ・ウファン(韓国)Lee Ufan (Korean)』。「リ・ウファン(韓国)Lee Ufan (Korean)1936–関係項―ARelatum—A1979鉄、石iron, stone大きな石が空から落ちてきて、鉄板を切り取ってしまったかのようです。自然物と工業製品との出会いを表現しています。【2001年に世界文化賞を受賞】It appears that a large rock fell out of the sky and cut away a section of the steel plate.The work expresses the meeting of natural and manufactured objects.Received the Praemium Imperiale Award in 2001.」振り返って。『常陸宮正仁殿下同妃華子殿下お手植石楠花(しゃくなげ)「太陽」』。「平成18年5月10日 ご来館常陸宮正仁殿下同妃華子殿下お手植石楠花(しゃくなげ)「太陽」On the occasion of their visit to our museum, T.I.H. Prince and Princess Hitachi planted this rhododendron—a breed called "Taiyo"—by hand.May 10, 2006」 『空間力学 No.22 Spatial Dynamics No.22ニコラ・シェフェール(ハンガリー-フランス) Nicolas Schöffer (Hungarian / French)』ハンガリー出身のフランスの芸術家ニコラ・シェフェールによって制作されたキネティック・アート(動く美術)の彫刻作品です。風を受けると流線型のフォルムが生き生きと動き出すのが特徴 と。「ニコラ・シェフェール(ハンガリー-フランス)Nicolas Schöffer (Hungarian / French)1912–1992空間力学 No.22Spatial Dynamics No.221954–80ステンレス・スティールstainless steel磨かれた金属が光を取り込んで空や緑を映し、周囲の空間や環境も、作品を構成する要素として扱っています。The polished metal captures the light, reflecting the sky and greenery, the surrounding space and environment becoming elementsin the composition of the work.」 帰路に。『終りのない対話 Never-Ending Dialogue 新宮 晋Susumu Shingu (Japanese)』。「オレンジ色に塗った骨組みのうえに、白いキャンヴァスをはったふたつの帆。風の流れを綿密に計算した流線型の形態は、どんな風も逃すことはありません。ふたつの帆は、向きを変えながら時にうなずきあい、時に豪快に舞いながら終わることのない対話を繰り広げます。伊藤隆道より2歳年上の新宮晋もまた、日本における「動く彫刻」を代表する作家です。伊藤が、電気モーターで作品を動かすのに対し、新宮は、風や水の流れなど、自然のリズムをとらえることで、動きを生み出します。風と一体になり、生き生きと動き出すふたつの帆は、目には見えない風のリズムを見る者に伝えます。」 帰路に。ズームして。「新宮 晋Susumu Shingu (Japanese)1937–1978鉄、アルミニウム、キャンヴァス、塗料iron, aluminum, canvas, paintふたつの帆が風を受けて、対話するように動きます。目には見えない自然のリズムを、しなやかに表現しています。The two sails catch the wind and move, as if sharing a conversation, while elegantly expressing the invisible rhythms of nature.」 『フィギュール I Figure I ハンス・エッシュバッハー(スイス)Hans Aeschbacher (Swiss)』.帰路に。「ハンス・エッシュバッハー(スイス)Hans Aeschbacher (Swiss)1906–1980フィギュール IFigure I1969花崗岩granite直立柱を幾何学的に構築した、〈形態〉連作のひとつです。作者は肖像彫刻から、徐々に抽象的な形へ移行しました。One of a series of "figures" that employ vertical columns to create geometricalstructures. During his career, the artist gradually moved away from portraitsculpture to produce abstract shapes.」 美しい芝生の庭園が拡がっていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.17
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さらに「彫刻の森美術館 本館ギャラリー」内の2F展示品を追いかける。『ヨブ Job 山本 稚彦 Wakahiko Yamamoto』詳細はこちらより「ヨブは聖書に登場する人物である。人が一般的に幸福になるためのあらゆるもの、つまりお金と家族、自身の健康に至るまでの一切を神から奪われ、それでも神と自我の絶対的な関係性を信じた。作家は1901年、高名な彫刻家である山本瑞雲の子として東京に生まれる。瑞雲は高村光雲の一番弟子であり、幼い頃から高村光太郎にも目に掛けられ彫刻家としてこれ以上望めない環境で育った。第二次世界大戦後は旧ソビエトに抑留されるが、多くが壮絶な強制労働で命を落とす中、家具の木彫工とされていたことは重宝的で、幸運であった。その後ローマに渡るが、「いままで身についた古いものをいっさい白紙に返そうと思って行った」と語っている。同時代のヘンリー・ムーアらの活躍のなか独自の芸術を模索し、行き着いたのが本作であった。「向こうで売れた最初の作品」であったが、帰国後も独自の芸術について葛藤は続いた。持つことと持たざること、恵まれることと恵まれないことの本質的で流動的な機微について、本作と作家の人生は含蓄を讃えながら私たちを揺さぶり続ける。 「山本 稚彦Wakahiko YamamotoJapanese1901–1993ヨブJob1967」 『リミニとウルビーノの間の谷、1964年6月Valley between Rimini and Urbino, June 1964ベン・ニコルソン Ben Nicholson』。詳細はこちらより「作家の表現があまりに澄んでいて静かなためか、20世紀の代表とされながらも同時代に生きたピカソやブラック、モンドリアンの知名度が圧倒的なことは作家の評価に必ずしも本質的な影を落とすものではない。それは単純な概念の抽象画ではない。実体の本質を突き詰めた結果、原形をほとんど留めないだけであって、自然との対話を追及した具現であり、詩情の抽出、再結晶化に他ならない。作家の現す詩情とは、自然が発する視覚化されない潜在的な“波”である。その波は往々にして本作に見られるように、円と矩形に慎重に置き換えられ、構成はミリ単位で効果を追求されている。モンドリアンの影響を最も強く受けたとされているが、ピカソやブラックとも交流がありキュビスムとの接点もまた作家独自の作風の醸成に寄与しているようだ。「幾何学的な形体は数学的に処理されるのではない」という考え方は、冷たい抽象と区別される作家の、作風に通う微かで清潔な熱の気配の証明でもある。」 「ベン・ニコルソンBen Nicholsonイギリス British1894–1982リミニとウルビーノの間の谷、1964年6月Valley between Rimini and Urbino, June 19641964」 『無題 Untitled アルマン(アルマン・フェルナンデス)Arman (Armand Fernandez)』。モノが集合すること(集積)で本来の製品に意図された目的が変質(破壊)され、工業化された社会や時代における都市環境を反映しています。The aggregation of things (accumulation) alters (destroys) the intended purpose ofthe original product, reflecting the urban environment in industrialized society andthe era.詳細はこちら「「ブラシ・シリーズ」と呼ばれる連作のひとつ。キャンバスを走った無数の刷毛たちは一斉に静止し、生々しくその姿を見せつけ続けている。作家は「集積と破壊」をテーマにし、写実主義(レアリスム)の発展としてヌーヴォー・レアリスムを台頭した。モノが集合すること(集積)で本来モノのプロダクトに意図された目的が変質(破壊)し、深層的なメッセージを生み出す効果を独自に追求。大量消費社会の豊かさを大衆が享受しはじめることで生じる盲目的な側面を、美術家ならではのエスプリで鮮やかに浮かび上がらせた。その時代性はさらに深まり、モノによる豊かさが横溢(おういつ)する現代、作品はより一層鮮やかさを増している。」 「アルマン(アルマン・フェルナンデス)Arman (Armand Fernandezフランス-アメリカ French / American1928–2005無題Untitled1987」 『天をつく柱 II Sky Shaft II アルナルド・ポモドーロ Arnaldo Pomodoro』。アルナルド・ポモドーロの代表作「天をつく柱 II (Sky Shaft II)」は、1978年から1980年にかけて制作されたブロンズ彫刻。亀裂や歯車のような内部機構がむき出しになった独自のデザインで、機械的な力強さと神秘的な雰囲気を併せ持つ作品 と。ズームして。・H262.5×W58×D50cm「アルナルド・ポモドーロArnaldo Pomodoroイタリア Italian1926–2025【1990年に世界文化賞を受賞】天をつく柱 IISky Shaft II1978–1980」 『白い物体 White Object 蟻田 哲 Akira Arita』。「蟻田 哲Akira Arita1947-白い物体White Object1989」 『SPACE PLAN(態) SPACE PLAN 水本 修二 Shuji Mizumoto』。詳細はこちら「作者は、空間や場所との関わりを軸に彫刻を制作してきた。初期は過度な加工を控えた構成が目立ったが、次第に鋼板の溶断や曲げ加工といった積極的な働きかけを通じ、物質へのアプローチを深めていった。「空間設計」という名を冠した本作は、平面作品でありながら、作者が追求し続けてきた空間構成の延長線上にある。3点一組で構成され、それぞれに異なる幾何学的な図象が描かれているばかりでなく、真鍮やアルミなど異なる素材が組み込まれている。また、あえて額縁を用いず、アクリル板とボルトで紙を固定する手法からは、多様な素材の調和によって空間を構築しようとする作者の強い意志が感じられる。」 移動して。「水本 修二Shuji MizumotoJapanese1941–2014SPACE PLAN(態)SPACE PLAN1993–1996」 『歩く女 II Walking Woman II スティーヴン・デ・ステブラー Stephen de Staebler』。ズームして。「スティーヴン・デ・ステブラーStephen de Staeblerアメリカ American1933–2011歩く女 IIWalking Woman II1990」 『オレンジ色を強調した現象 Phenomena Insistence of Orange ポール・ジェンキンス Paul Jenkins』。詳細はこちら「本作にもあるように、タイトルに「現象」という言葉が用いられるのが特徴的である。キャンバスに流し込まれた絵の具はそれぞれヴェールのような色面を形成し、そのおおらかなコンポジション、グラデーション、テンポが高難度の芸術論とは裏腹に直感だけで深みのあるメタファーを感じさせる。 作家は抽象表現主義の画家、自己の芸術を「砕けたプリズム」と隠喩しているが、それを理解するには「見ることにおいて、光のうちに形を見いだしたということが重要であり、それが固有の現象になっている」という本人の言葉が最大の手がかりだろう。つまり作家が表現する「現象」とは光の変換であり、自分というプリズムへその光を通し色面へと分解、色面は個別の目的(個々の作品ごと)によりさらに変換を繰り返す。その過程で「光のうちの形」として自己相似性を見いだしている。」 「ポール・ジェンキンスPaul Jenkinsアメリカ American1923–2012オレンジ色を強調した現象Phenomena Insistence of Orange1977」 『デュドネの二人の裸婦、ダンス no.2 シリーズTwo Nude Women in Dieudonné, from the "Dance No. 2 Series"ヤン・メイヤー Jan Meyer』。詳細はこちら「作者の画風は、一般に「熱い抽象」と称される叙情的抽象の系譜に位置づけられる。写実性よりも目に見えない主観や内なる感情を重視し、それを即興的な筆致に託すスタイルである。20世紀の抽象芸術には、幾何学的で厳格な構成を重んじる「冷たい抽象」という対照的な潮流があり、両者はしばしば二項対立として捉えられがちである。しかし作者はその双方に深い関心を寄せ、理性と感性の間にある独自の均衡を模索し続けた。 本作においても、画面にはパレットナイフによる重厚な絵具の層が塗り重ねられ、自由な筆致の中から二人の裸婦が鮮やかに浮かび上がっている。タイトルの「デュドネ」とは、作者が1960年から晩年まで創作の拠点とした、パリ郊外にある安住の村の名である。」 「ヤン・メイヤーJan Meyerオランダ Dutch1927–1995デュドネの二人の裸婦、ダンス no.2 シリーズTwo Nude Women in Dieudonné, from the "Dance No. 2 Series"1980」 『小浜の窓 Obama Window アンソニー・カロ Anthony Caro』。詳細はこちら「作者が福井県小浜市に滞在して手がけた、<小浜シリーズ>の1点である。5日間の滞在という限られた時間で、地元の職人のもとで和紙特有の性質を学び、マンホールの蓋や敷居などに濡れた紙を押し当て、次々とその型を写し取っていった。それらは帰国後にイギリスのアトリエに輸送され、1年余りの時間を経て44点からなる一連の作品群となった。本作は、窓枠を模した構造の中に、屋根瓦の質感を写し取った和紙を配している。窓越しに眺める瓦屋根の光景をそのまま定着させたような構図は、日本の障子や襖をも連想させる。滞在した古式ゆかしい旅館での記憶が、和紙という素材を通して鮮やかに結実した作品である。」 「アンソニー・カロAnthony Caroイギリス British1924–2013【1992年に世界文化賞を受賞】小浜の窓Obama Window1990–1992」 2Fの展示室の光景を振り返って。1F展示室に戻って。『Astrolabium no.1-時空の振動Astrolabium no.1 – Space-Temporal Vibrations長谷 京治 Kyoji Nagatani』。金色の細いリングが天体の軌道を思わせるように配置され、その中心に木のような有機物を包み込むような金属のフォルムが浮かんでいます。静止しているようでありながら、今にもゆっくりと回転し始めそうな緊張感があります。「Astrolabium(アストロラビウム)」とは、中世から用いられた天体観測器「アストロラーベ」に由来する名称。副題の「時空の振動」は、時間と空間が互いに影響し合い、宇宙全体が絶えず変化している様子を表現しています。中央の木質部分は自然(生命)を、周囲の金属リングは宇宙・軌道・時間を象徴しているように見えます。見る角度によってリングが重なったり離れたりし、作品の印象が大きく変わるため、「時間」と「空間」の変化を体感できる構成になっています。床面に設置された円錐台。この部分は、・床に固定されたアンカー(支点)・そこから極細のワイヤーが作品本体へ張られている・ワイヤーの張力によって、空中の造形全体を安定させているという役割を果たしています。この支点自体も、長谷京治は単なる金具としてではなく、作品の一部としてデザインしています。尖った円錐形は、・方位を示すコンパスの針・天体観測器(アストロラーベ)の中心軸・宇宙空間における座標の原点などを連想させます。「長谷 京治Kyoji NagataniJapanese1950–Astrolabium no.1-時空の振動Astrolabium no.1 – Space-Temporal Vibrations2019」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.16
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さらに「彫刻の森美術館 本館ギャラリー」内の展示品を追いかける。『ファイヤー Fire アレクサンダー・リーバーマン Alexander Liberman 』。サイズ:294×214×61cm材質:アルミニウム、塗料(aluminum, paint)「アレクサンダー・リーバーマンAlexander LibermanウクライナーアメリカUkrainian / American1912–1999ファイヤーFire1963」1F展示室を振り返って。中2F展示室へ。『東洋の幻想 Fantasy for the Orient アリク・カヴァリエレ Alik Cavaliere』.「アリク・カヴァリエレAlik Cavaliereイタリア Italian1926–1998東洋の幻想Fantasy for the Orient1972」 『きもの Kimono Alexander Archipenko』。「Alexander ArchipenkoウクライナーアメリカUkrainian / American1887–1964きものKimono1961」 「本館ギャラリー」の外の小庭にあったのが『my sky hole 94-6 森のラビラント 井上 武吉』。空を切り取るようなダイナミックな造形が特徴。井上武吉が追求してきた「空を覗く」というテーマ(my sky hole)を体現する代表的なインスタレーションとして、館内でも必見のパブリックアート と。 「井上 武吉Bukichi Inoue (Japanese)1930–1997my sky hole 94-6 森のラビラントmy sky hole 94-6 labyrinth of forest1994花崗岩、木(樅)granite, wood (fir wood)「マイ・スカイ・ホール」とは自分だけの空間であり、この作品は石と樹に囲われたシェルターのような構成となっています。my sky hole takes the form of a kind of shelter, surrounded by rocks and trees, that presents the viewer with a personal space.」 『変形された大きなアヤメ 下田 治』。「下田 治Osamu ShimodaJapanese1924–2000変形された大きなアヤメMetamorphosed Big Iris1987」 2F展示室へ。『脳髄 The Brain リー・グッドマン Lea Goodman』。アメリカの彫刻家リー・グッドマン(Lea Goodman)によって1971年に制作された彫刻作品。箱根の彫刻の森美術館が所蔵する作品であり、ステンレススチールを用いて脳の複雑な構造を立体的に表現したユニークな造形が特徴。サイズは64×64×64cm。「リー・グッドマンLea Goodmanイギリス British1936–脳髄The Brain1971」1936年イギリスに生まれ、本格的に彫刻に取り組むのは30代からとかなり遅め、ステンレスでの制作を追求する。作家が彫刻に転向し刹那的に強く輝いた瞬間と、当館が「第2回現代国際彫刻展」のために出品を募った時期の重なりは必然とも、偶然とも言える。作品を構成するステンレス板の切れ端は、脈打つような継ぎ目とともに内側に動きのある内容をつくっており、痛々しいまでに存在を主張している。またステンレスという素材感からは振り絞るような自己肯定が伝わってくる。多感でナイーブ、まるで10代の剥き出しの神経を感じさせるような造形感覚は稀有であり、数多いる出品者の中で別作品だがコンクール賞を受賞している。当館コレクションのユニークさを象徴するような作品だが、「第2回現代国際彫刻展」招待部門の作家が27名だったことと、本展「Unique collection」の作品数が27点であること、この事実は必然とも、偶然とも言えるかもしれない と。 『コンポジション 1983 Composition 1983 セザール・ドメラ César Domela』。「セザール・ドメラCésar Domelaオランダ Dutch1900–1992コンポジション 1983Composition 19831983」 セザール・ドメラは デ・ステイル運動の主要メンバーとして知られるオランダのアーティスト。ドメラは1900年にアムステルダムで、ルター派の元牧師でオランダ議会の有力な無政府社会主義者であったフェルディナンド・ドメラ・ニューウェンホイスの末っ子として生まれました。1919年からスイスのアスコナで 独学で学び、キュビズムの影響を強く受けた構成主義的な作風を身につけました。初期の作品は風景画や静物画で、人物は幾何学的な形態に還元されたものでした。1923年にベルリンに移ったドメラは、ジョージ・グロスやジョン・ハートフィールドらが所属していたドイツ表現主義のグループ「November Group」のメンバーと親交を深め、この頃に 垂直と水平の線と面で構成された主題のない絵画を初めて描きました。その後1924年に初個展を開催し、1925年にオランダの前衛美術運動De Stijl(デ・ステイル)の最年少メンバーとなり、ピエト・モンドリアンやテオ・ファン・ドゥースブルフらと密接に仕事をするようになりました。第二次世界大戦後は主にレリーフを制作し、その多くはデン・ハーグ美術館に収蔵されています。彼の作品は成功を収め、1936年にはニューヨーク近代美術館で開催された「キュビズムと抽象芸術」展に出品されました。ドメラは1992年に亡くなりました。死後、彼の膨大な私物や作品のアーカイブはオランダ美術史研究所に遺贈されました と。『コンポジション 1960 Composition 1960 セザール・ドメラ César Domela』。「セザール・ドメラCésar Domelaオランダ Dutch1900–1992コンポジション 1960Composition 19601960」 『コンポジション 1967 Composition 1967 セザール・ドメラ César Domela』。「セザール・ドメラCésar Domelaオランダ Dutch1900–1992コンポジション 1967Composition 19671967」 『擬似 Pseudo 重村 三雄 Mitsuo Shigemura』.「重村 三雄Mitsuo ShigemuraJapanese1929–2012擬似Pseudo1976」 作者は、人体や身の回りのものを直接型取りしたFRP(繊維強化プラスチック)に、金属色の塗装を施す独自の手法「カタメタージュ」で知られる彫刻家である。その制作工程は極めて緻密であり、顔の皺や毛穴、衣服の襞(ひだ)に至るまで克明に再現される。しかし、仕上げに施されるいぶし銀の塗装が、その徹底した写実性からあえて生々しさを剥ぎ取り、現実感を喪失させている。この視覚的な違和感こそが、ユーモアと風刺を孕んだ作者特有の物語性を引き立てている。 作者は人物像を制作する際、しばしば知人をモデルに型取りを行なった。本作のモデルは、人形劇『ひょっこりひょうたん島』の人形制作などで知られる劇人形作家・片岡昌氏である。左から近づいて。中央。右。移動して。『漂う祠(ほこら) Tabernacle Floating ピーター・ブリザード Peter Blizzard』。鋼鉄、粘板岩、アルミニウムを組み合わせた抽象的な造形で、自然と人工物の融合を表現。「ピーター・ブリザードPeter Blizzardオーストラリア Australian1940–2010漂う祠(ほこら)Tabernacle Floating2003」 『10.12.75 ザオ・ウーキー Zao Wou-Ki』。「ザオ・ウーキーZao Wou-Ki中国-フランス Chinese / French1921–2013【1994年に世界文化賞を受賞】10.12.751975」 彼の多くの作品は制作された「年月日」がタイトルとなっており、本作は1975年12月10日に完成したことを示している。ザオ・ウーキーの作品の特徴は、西洋と東洋の美意識が折衷されている点にあるといえます。彼のアーティストとしてのキャリア初期では、中国伝統の書画や水墨画を中心に学びましたが、西洋で抽象画家として活動し始めてもなお初期の作風が残っています。東洋の文化の拠点である中国の伝統的な絵画における墨の濃淡と余白を用いた美意識、そしてシンプルでありながらも豊かさを感じさせる宇宙観は、多くの西洋人を魅了しました。西洋画では数学的な考えを用いた透視図法で空間を描いていたため、感覚で奥行きをもたせた東洋の表現技法は新鮮に映ったことでしょう。加えてザオ・ウーキーは、パリ移住後にパウル・クレーらとの交流によって西洋的な抽象主義を作品に取り入れました。それゆえ、彼の作品には精神・技法ともに東洋と西洋の美意識が融合した独特の世界観が見受けられます。『青い影―未完の季節 No.13Blue Shadow – Unfinished Seasons No.13田淵 安一 Yasukazu Tabuchi』「田淵 安一Yasukazu TabuchiJapanese1921–2009青い影―未完の季節 No.13Blue Shadow – Unfinished Seasons No.131979」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.15
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『アートホール マンズールーム』の見学を終え、屋外展示に戻る。『フランソワ=ザビエ、クロード・ラランヌ嘆きの天使』特殊な水還元装置で目から涙が途絶えず流れ、泉となっている作品。水面に映った自分の姿に恋をして水仙の花に生まれ変わったという、ギリシャ神話の青年ナルシスのように、水面に頬をよせる天使。水面の恋人は言葉を返すこともなく、流れ落ちる涙は、水面に映る自分の顔をかき消してしまう。しかし、かなわぬ恋を嘆きながらも、その顔はどこか微笑んでいるようにも見える。作者のラランヌ夫妻は、動物の形をした家具など様々な分野の作品を、共同で生み出してきた。動物や昆虫、植物を題材にしたその作品は、愛らしくも不思議であり、見る者を空想の世界に誘う。ズームして。水面に横たわる巨大な天使の顔が、静かな水鏡に溶け込むように配置されていた。緑豊かな髪は自然と一体となり、眠りと夢、そして届かぬ想いを象徴しているかのように。見る角度によっては、穏やかな微笑みを浮かべているようにも、深い悲しみに沈んでいるようにも見えた。静寂の中で涙を流し続けながらも、幻想の世界へと見る者を優しく誘う、詩情あふれる作品。フランソワ=ザビエ・ラランス、クロード・ラランヌFrançois-Xavier and Claude Lalanneフランソワ=ザビエ・ラランヌ(フランス)François-Xavier Lalanne (French)1927–2008クロード・ラランヌ(フランス)Claude Lalanne (French)1925–2019嘆きの天使The Weeper1986トラニ石Trani stone水面に映った自分の姿に恋をして水仙の花に生まれ変わったという、ギリシャ神話の青年ナルシスのように水面に頬をよせる天使。かなわぬ恋に涙は途絶えることはありませんが、その顔はどこか微笑んでいるようにも見えます。見る者を空想の世界に誘う作品です。Like the young man, Narcissus, from Greek mythology who fell in love with his ownreflection in the water and was reborn as a flower of the same name, this angel restsits cheek next to the surface of the water. Despite shedding endless tears ofunrequited love, a smile seems to play on its lips, the work inviting the viewer intoa world of fantasy.移動して。頭部の後方から。水面に天使の顔が映っていたが・・・。その奥にあったのが『マリソール 三つの人像』。ベネズエラ出身のアメリカの彫刻家、マリソール・エスコバル(Marisol Escobar)によって1968年に制作された野外彫刻作品。鮮やかな原色(赤、青、黄色など)が目を引くポップで奇妙な立体造形。「マリソール(マリソール・エスコバル)(ヴェネズエラ-アメリカ)Marisol (Marisol Escobar) (Venezuelan / American)1930–2016三つの人像Three Figures1968鉄、ステンレス・スチール、塗料iron, stainless steel, paint箱につけられた顔は、作者自身から型取りされたもの。自分は誰なのかと、作者は問いかけています。The faces attached to the sides of these boxes are casts of the artist's own face. In this work she questions her personal identity.」 移動して。「箱につけられた顔は、作者自身から型取りされたもの。自分は誰なのかと、作者は問いかけています。」と。 霧雨の降る中、振り返って。芝生の中あったのが『my sky hole 79 天をのぞく穴 井上武吉』。「井上 武吉Bukichi Inoue (Japanese)1930–1997my sky hole 79 天をのぞく穴my sky hole 79 peephole on the sky1979強化ガラス、鉄、ステンレス・スチール、ゴム、コンクリートtempered glass, iron, stainless steel, rubber, concrete鑑賞者の体験を作品としています。地下の小部屋にある穴から空を眺めていると、地球の鼓動が感じられるようです。This is a participation work. By observing the sky through a hole in the ceiling of a small underground room, the viewer is able to feel the pulse of the earth.《独りだけの旅》Solitary journey入口In↓《天をのぞく穴》my sky holeここに坐って上部の穴をのぞくSit here and look up through the hole↓出口Out《旅の終り》Journey's end」と。 鑑賞者は黒い鉄の箱に入り階段で地下へ。小部屋の天井に開いた小さな穴から空を見上げた後、ガラスの箱から地上へ出ます。暗く落ち込んだところから、明るい世界へ出て行く。自分と向き合うための装置のような作品。地下通路の壁はゴム製のひだのような形状で産道を想起させ、母親の胎内を通って生まれ変わる旅とも言えるであった。「天をのぞく穴」が右側に。 「《天をのぞく穴》my sky holeここに坐って上部の穴をのぞくSit here and look up through the hole」 そして出口Out《旅の終り》Journey's end へ。そして「円形広場」を観る。 石段の上にあったのが先程訪ねた「ART HALL」、そして『ジャコモ・マンズー(イタリア) 衣を脱ぐー女』を再び。 そして「円形広場」の中央付近にあったのが『MY sky hole 84 井上武吉』。 「井上 武吉Bukichi Inoue (Japanese)1930–1997my sky hole 841984ステンレス・スチールstainless steel《マイ・スカイ・ホール》とは作者の入る穴を意味します。副題を「命」と名づけられた本作は、球体の中に万物が閉じ込められています。my sky hole is a series of works containing a peephole to view the sky.In this work, which has the subtitle, "Life," the hole pierces the center of a reflective sphere that "contains the whole of creation."」傘を差し、写真を撮る高齢者の姿が作品の中央に。その後、屋外展示場を全て回った後に、再びこの場所に戻って。天候も回復し青空、白い雲も映って。中央の穴を覗いて。左側に穴。周囲の景色や空を360度映し込むステンレス鏡面仕上げの球体に穴が開いており、「自分自身を取り巻く空間や天に続く青空」を体感できるアート作品。見る人が必ず中心になる、まさに自分だけの「穴」。そして『人とペガサス カール・ミレス』。ズームして。「はるか天空を駆けぬけてゆくのは、天馬ペガサスと、コリントスの英雄ベレロフォンです。怪物キマイラ退治への道を急ぐベレロフォンは、思い切りからだを伸ばし、さらに高く飛ぼうとしているかのようです。曲芸のような姿勢をとるふたつの彫刻は、厳密な力学的計算のもと、高く伸びた台座の上に絶妙なバランスで取り付けられています。まるで重さを感じさせない軽やかな姿は、重いブロンズで出来ているとは思えません。ギリシャ神話をテーマにしたこの作品は、スウェーデン出身の彫刻家カール・ミレスによるものです。世紀末のパリで、一時ロダンの助手を務めていたミレスは、その後、豊かな想像力を駆使し、自由奔放な動きをはらむ独自の作風を確立しました。彫刻の森美術館には、他にも神の手の上で男性が天空を仰ぎ見る《神の手》や、イルカに乗った人物を表す噴水彫刻《太陽の輝き》などのミレスの作品が展示されています。」 「カール・ミレス(スウェーデン-アメリカ)Carl Milles (Swedish / American)1875–1955人とペガサスMan and Pegasus1949ブロンズbronzeギリシャ神話の英雄ベレロフォンが天馬ペガサスに乗って、怪物キマイラの退治に向かう勇壮な場面を表わしています。Based on the story of the Greek hero Bellerophon, who rode the winged horse, Pegasus, as he set out to vanquish the monster Chimera. It presents a soul-stirring image.」 これも天候が回復した帰路に。移動しズームして。ブロンズ 380×207×100 cm『人とペガサス』は、ギリシャ神話の英雄ベレロフォンが天馬ペガサスに乗って、怪物キマイラの退治に向かう場面である。そそり立つ台座の上で人もペガサスも思いきり体を伸ばし、さらに高く飛翔しようとする。《神の手》は、《宇宙》とも名づけられ、ミレス晩年の代表作である。天空を背景にシルエットとして見るように作られ、宗教と天文学を基底とし、宇宙の真理への探求を渇望する人間を表現している。ミレスの彫刻には美術の諸様式が混合しており、ギリシャ・アルカイック期やゴシック、あるいはバロック的な要素が盛り込まれている。生涯を通じて、人間の存在について哲学的な考察を試みた。また、想像力豊かな構図、自由奔放な動きを得意とする彼の作品は、 空を背景にした野外に映える。『バルザック記念像 オーギュスト・ロダン』。「19世紀のフランスの文豪バルザックを表わすこの像は、オーギュスト・ロダンが制作したものです。人間の生命や激情を、動きのある肉体に表現したロダンは、近代彫刻への道を開きました。バルザックは、偽善的な社会に生きる人間の苦悩を容赦なく書き表わした作家です。像の制作を依頼されたロダンは、バルザックの精神を表現しようと、肖像写真をもとに試行錯誤を重ねます。そして、ガウンをまとい、夜中に書斎を歩き廻りながら小説の構想にふける姿にたどりついたのです。作品を、横からもご覧ください。巨大な体は、後ろに反り返り、深くえぐれた目で、遠く宙をにらんでいるのがよくわかります。ガウンをまとうことで、よけいな細部が覆い隠され苦悩する内面と強い生命力が感じられます。あまりに革新的なこの作品は、当時は理解されず、雪だるまなどといわれ、注文主の文芸家協会から引き取りを拒否されます。この像が、パリで公開されたのは、ロダンが亡くなって22年後のことでした。」 『エミール=アントワーヌ・ブールデル 弓を引くへラクレスー大』「1909年 ブロンズ、248×240×90cm『ギリシャ神話の英雄ヘラクレスが怪鳥を今まさに射止めようとする瞬間を表現したもの。1893年にロダンのアトリエに入ったブールデルは、その後約15年間ロダンの助手を務めた。彼はロダンを敬愛したが、ロダンのロマンティシズム、写実性から次第に離れ、建築物の様な堅牢さをもった《新たな現実としての彫刻》の創造を目指すようになる。作品の主題を神話に求め、造形的にはギリシャ彫刻とロマネスク彫刻の両者を自分の作品の中に融合しようと試みた。」 「エミール=アントワーヌ・ブールデル(フランス)Émile-Antoine Bourdelle (French)1861–1929弓を引くヘラクレス―大Hercules the Archer (large version)1909ブロンズbronzeギリシャ神話の英雄ヘラクレスが、ステュンファロス湖畔の怪鳥を今まさに射止めようとする瞬間を表現した作品です。This work depicts the moment that this hero of Greek mythology draws his bow todrive away the man-eating birds that haunted Lake Stymphalia.」 そして次に訪ねたのが「本館ギャラリー」。館内に入る。「新しい切り口から見る、彫刻の森コレクションの個性👈️リンクUnique CollectionExploring the Unique Character of the Hakone Open-Air Museum's Collectionfrom a New Perspective2026.1.31(土)〜「彫刻の森美術館 本館ギャラリー今、私たちが向き合っている現代という時代は、様々な分野で「多様性」が深まっています。美術においてもその傾向は顕著で、彫刻や絵画という分類にも当てはまらない表現が隆盛となっています。本展は、その兆しの一部を当館コレクションから見出す試みです。既存の表現枠を超えて新しい表現領域を切り拓く。生き生きとした可能性にあふれる作品群はそれぞれに豊かな個性を湛えながら、全体で新しい彫刻の森コレクションの個性をも体感させてくれます。あわせてアートホールで開催しているアカデミックな「名作展」を鑑賞いただくことで、主流とは異なる新しい美意識との出会いをお楽しみいただけることでしょう。Today we are confronted with a growing demand for diversity in a variety of fields andthis is particularly pronounced in art world where works defying the traditionalclassifications of “sculpture” or “painting” are flourishing. In this exhibition we willlook at some of these emerging trends through works from the museum's collectionthat surpass existing boundaries to pioneer new fields of expression. Brimmingwith potential, each of these vibrant works possesses a rich individuality whilecollectively they offer visitors glimpse of the progressive character of the museum’scollection. We hope that you will also take the time to visit the academic “Masterpieces Exhibition” that is being held concurrently in the Art Hall, highlighting the contrastthat exists between these new aesthetic sensibilities and mainstream art.」まずは1Fの見学へ。『安楽椅子 山縣 壽夫』・素材・技法:ブロンズ・作品サイズ(cm):87.0×39.0×110.0「山縣 壽夫Hisao YamagataJapanese1932–安楽椅子Portorona1976」 壁には巨大な壁画が。『魔女の宴 Witches Sabbat』。ネットから。「湿った空気感は作家の冷静な目によって異素材・文字・形態へ置き換えられ、その中にゴヤの名前も現れます。It is based on Francisco de Goya's " Witch's Sabbath"(c.1821-23). The dark and damp atmosphere of the subject matter is replaced by different materials, characters, andforms by the artist's calm eyes, and Goya's name also appears in it.」 「イガエル・トゥマルキンIgael Tumarkinイスラエル Israeli1933–2021魔女の宴Witches Sabbat1988」 『疑問符 Interrogation』。ロベール・クーチュリエ(Robert Couturier)の『疑問符(Interrogation)』は、1971年に制作されたブロンズ彫刻作品。人間の身体の繊細なラインと、空間に問いかけるようなポーズが特徴的な作品です。・制作年: 1971年・サイズ: 高さ86cm × 幅32cm × 奥行27cm・素材: ブロンズ作者のロベール・クーチュリエ(1905〜2008年)は、フランスを代表する彫刻家の一人。ロダンやマイヨールといった伝統的な具象彫刻の系譜を受け継ぎつつ、独自の詩的で細長いフォルムを探求したことで知られています。この『疑問符』においても、極限までシェイプされた人体表現を通じて、内省的な思索や問いかけが表現されています。「ロベール・クーチュリエRobert Couturierフランス French1905–2008疑問符Interrogation1971」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.14
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「彫刻の森美術館 名作コレクション」の作品をさらに鑑賞。 「アメデオ・モディリアーニ1884–1920Italianイタリア」の作品。 『頭部Head』「頭部Headc.1911–12ブロンズbronzeブランクーシから石の直彫りを指導され、アフリカの部族彫刻の力強さに影響を受けた頭部やカリアティード(女人像柱)を制作した。もともと石に彫られたこの作品は、柱になった古代の神のように超然としている。Brâncuși taught Modigliani the technique of direct carving. He created sculptures of heads and caryatids (sculpted female figures used as columns in architecture).He was strongly influenced by African tribal sculptures. This work was originally created in stone and has a transcendental atmosphere, like ancient goddesses who became pillars.」 「Alberto Giacomettiアルベルト・ジャコメッティ1901–1966Swissスイス」の作品。 『腕のない細い女Slim Woman without Arms』H60 × W8 ×D20 cm「腕のない細い女Slim Woman without Arms1958ブロンズbronzeモデルとの間には、作家にとって越えがたいと感じられる距離があり、その距離に隔てられるとモデルは痩せ細って見える。目に「見えるもの」の正確な再現を追求した結果、指の跡も生々しい突き詰めた人間表現となった。Between Giacometti and his model was a distance that he felt difficult to overcome.Blocked by the distance, his model looks thin. As a result of attempting to accurately recreate what he saw, Giacometti's work became a deep analysis of the human form and still shows the fresh-looking marks of the artist's fingers.」 「Kiyubey Kiyomizu清水九兵衛1922–2006Japanese日本」の作品。 『AFFINITYの継続Development of AFFINITY』。「AFFINITYの継続Development of AFFINITY1976アルミニウムaluminum「Affinity」とは「親和」の意味。平面と曲面や、床に這う形と壁に沿う形など、なじみ合う関係が作品を構成している。京都の町の屋根瓦の連なりに果てしない広がりを見出し、そのゆったりとした曲面の形状に惹かれたという。Affinity means a similarity of characteristics. This work is composed of relationshipsof affinity, such as flat and curved surfaces, and forms crawling on the floor andforms along the wall. The artist found an endless expanse in the rows of roof tilesof the city of Kyoto and commented that he was fascinated by the gently-curved shapes of the tiles.」 展示室の情景を。「Fumio Asakura朝倉 文夫1883-1964Japanese日本」の作品。『よく獲たりWinning』H51 × W52.5 × D29.5cm。『よく獲たりWinning1946ブロンズ(bronze)』朝倉文夫は、徹底して自然主義的写実を貫き、日本の彫塑界をリードした彫刻家であるとともに、無類の愛猫家としても知られています。10数体の猫と暮らしながら、数十体にのぼる猫の作品を残しています。1964年東京オリンピック開催記念〈猫百態展〉を目前に他界しましたが、これらの猫作品は、現在も時代を超えて多くの鑑賞者を魅了しています。この「よく獲たり」も猫が鼠を捕らえた瞬間の様子が、朝倉の鋭い観察眼と卓抜した造形技術によって見事に表現されています。柔らかで生き生きとした猫の姿態だけでなく、その作品名からも猫に注ぐ朝倉の溢れる愛情が感じられます。『眠りSleep』しなやかな体で丸くなって眠る猫の愛らしい一瞬を、徹底した写実主義で見事に表現しています。H13 × W37.5 ×D35cm。「眠りSleep1945ブロンズbronze」 『のびStretch』「のびStretch1947ブロンズbronze肖像彫刻の名手といわれ、その観察眼と造形力は動物彫刻にも発揮された。これらの猫像は、猫好きであった朝倉のそばで、気ままに過ごしていた中での一瞬をそのまま写し取られたかのようである。Regarded to be a master of portrait sculpture, Asakura's superior skills of observationand his ability to express a 3-dimensional form are also obvious in his sculptures of animals. These sculptures of cats show how Asakura has captured particular momentswhen his cats have been relaxing close by him.」 「美術運動の流れ(Timeline of Art Movements)」 美術運動の流れ(Timeline of Art Movements)は、20世紀を中心とした近現代美術の主要な流派や運動の誕生・発展・相互の影響を年代順に示した年表です。未来派、キュビスム、ダダ、シュルレアリスム、抽象表現主義、ポップ・アート、ミニマリズムなどがどのようにつながり発展したかを一目で理解できます。また、世界的な出来事や本展出品作家の活動時期も併せて示され、作品を歴史的背景の中で鑑賞できるよう工夫されていた。「Masanichi Yamamoto山本 正道1941–Japanese」の作品。 『古代への夢Dream of Ancient Times」。 移動して。 「古代への夢Dream of Ancient Times1980ブロンズbronz「南イタリアの乾いた大地、そこに深く根を下ろすオリーヴの樹、石を積み上げて作った貧しい家、そしてロバ・・・。この何か時間が静止してしまったかのような世界を造形化してみた」と作家は語っている。The dry earth of southern Italy, olive trees with roots reaching down deep into thatearth, a humble house made from stones piled up, and a donkey. According to the artist, he wanted to give form to this landscape where it seems as though timestands still.」 「Minami Tada多田 美波1924–2014Japanese」の作品。 『空閑'93Space '93』「空閑'93Space '931993ステンレス・スチールstainless steel多田は、建築や野外空間と結びついて生まれる美に取り組んだ。鏡面に映る周囲の風景が変容し、作品と人と環境の新しい関係が生まれる。無駄のない形態と光の反射を用いて、光と造形の世界を新たな世界を作り出した。Tada's art integrated architecture with outside spaces. The surrounding scenery reflected in the mirror finish of this piece is transformed and a new relationship with humans and the environment is born. The sleek form and reflecting light are used tocreate a new world of light and form」 「Cornelis Zitmanコルネリス・ジットマン1926–2016Dutchオランダ」の作品。 『午睡Siesta』。「午睡Siesta1982ブロンズbronze横たわる像と枕のかたちをした台座が一体化し、漆黒の肌の肉感と柔らかなふとんの質感がみごとに統合されている。再定住したベネズエラの先住民、とくに女性の姿の形態を強調して表現した。The recumbent figure and the base of the sculpture formed in the shape of a cushioncombine together as one, while the roundness of the jet-black body and the softness of the cushion complement each other beautifully. This work by Zitman emphasizesthe physical attributes of the Indigenous people, especially the women of Venezuela, where he relocated to from his home country of the Netherlands.」 「Tomotaka Yasui保井 智貴1974–Japanese」の作品。 『untitled2004』。『untitled2004漆、麻布、螺鈿、岩絵具、膠、スペクトラライト、大理石、鉄、etc.urushi, linen, mother of pearl, iwa-enogu (mineral pigment), glue, spectrolite, marble, iron, etc.私の制作活動は、世の中に浮遊する形の無い空気感を捉え、それらが何で、何処から来ているかを考える行為である。とある閑静な住宅街に、昭和初期に建てられた趣きのある洋風家屋があった。通るたびに植栽された四季折々の植物たちがその家を彩る様を眺めていた。何年か経った頃に、縁あって私はそこで展示をすることになる。建物の外観と同様に室内もレトロなデザインと漆喰の調和が美しく、郷愁と哀愁が入り混じり歴史が息づく空間であった。少しずつ変化する町の中で、いつまでも変わらないその家があることで、町の風景の記憶が蘇ってくるように感じた。そこには座像が似合うと感じた。私が制作した中で唯一の座像であるこの人物像は、とある街に佇む洋風家屋が背景となっている。My creative activity is the act of capturing the formless atmosphere floatingin the world and considering what it is and where it comes from.In a quiet residential area, there was a quaint Western-style house built in the early Showa period. Every time I passed the house, I observed the various plantsgrowing there that added seasonal color to the house. Some years later, by a fortunate chance, I was able to exhibit my works there. The same as the exterior of the building, the interior was a beautiful harmony of retro design and plaster, a space where history comes alive with a mixture of nostalgia and melancholy. As the town changes little by little, the presence of that forever unchanged house seemed to bring back memories of the town's former landscape. I felt that a seated figure would fit in well there. This Western-style house, located in a certain town, provided the backdrop for this seated figure, the only seated figure I have ever created.』『tictac2007』「tictac2007漆、麻布、螺鈿、岩絵具、膠、黒曜石、大理石、etc.urushi, linen, mother of pearl, iwa-enogu (mineral pigment), glue, obsidian, marble, etc.異国の地で、民族衣装を着たある少女が佇んでいた。その少女の目は、遠くを見つめていた。あどけなさの中に、何かを背負っているような厳しい表情をしていた。時を経てある少女をモデルとして制作した。遠くを見つめる表情に国籍や文化も異なる二人の少女の気配が時間を超えて重なった。保井 智貴In a land far away, a young girl in traditional clothing was standing with a composedappearance. She was staring into the distance. But amidst her childlike innocence, her expression seemed somewhat strained, as if she was carrying some kind of burden.Some time later, I created a work with a certain young girl as the model. The same atmosphere overlaps in the expressions of the two girls of different nationalities andcultures, as they gaze off into the distance, transcending time.Tomotaka Yasui」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.13
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次にアートホール「彫刻の森美術館 名作コレクション」を訪ねた。「彫刻の森美術館 名作コレクション」。「彫刻の森美術館Hakone Open-AirMasterpiece Collection名作コレクション彫刻の森美術館は、日本で初めての野外美術館として1969年に開館しました。これまでに収集された作品は、2,000点余りにおよびます。今回👈️リンクは、そのコレクションの中から近・現代を代表する作家であるメダルド・ロッソやコンスタンティン・ブランクーシ、アルベルト・ジャコメッティ、荻原守衛、清水九兵衛などの彫刻を紹介します。20世紀彫刻の展望をみる機会になりますと幸いです。The Hakone Open-Air Museum opened in 1969 as Japan's first open-air art museum.More than 2,000 works have been acquired so far for the collection.In this exhibition, we introduce sculptures from the collection by leading modern and contemporary artists such as Medardo Rosso, Constantin Brâncuși, Alberto Giacometti, Morie Ogiwara, and Kyubei Kiyomizu.We hope this will provide an opportunity to gain a perspective of sculpture in the twentieth century.」 「Medardo Rossoメダルド・ロッソ1858–1928Italian / Frenchイタリア―フランス」 『病院の病める男』。メダルド・ロッソの代表作『病院の病める男』(1889年制作)は、彼が困窮によりパリの病院に入院した際の体験をもとに制作した彫刻です。光と影が織りなす微細な表情や、周囲の空間と彫刻が一体化するような独自の作風を示しています。・制作年: 1889年・技法・材質: ワックス、石膏 または ブロンズ・制作背景: 窮乏生活の中でパリのラボリジェール病院に入院した際、同室の患者や自身の 内面的な印象を捉えて制作されました。・作風の特徴: 彫刻の輪郭をあいまいにし、表面の凹凸に当たる光の反射によって、 人間の感情や周囲の空間(大気)を表現する「印象主義彫刻」の 先駆的な作品です。「病院の病める男Sick Man in Hospital1889ブロンズbronzeこの作品は、窮乏によって体を壊し、ひと月ほど病院で過ごした時の観察をもとに作られた。眠っている老人と肘掛椅子と床とが織りなす空間と物体の結合が、小さな塊の中から現れる様は密な素描のようである。This work is the result of Rosso's observations when he spent about one month in hospital after he became ill due to poverty. The fusion of space and material created by an old sleeping man, the armchair and the floor seem like a delicately depicted sketch appearing from a small solid mass.」「Constantin Brâncușiコンスタンティン・ブランクーシ1876–1957Romanian / Frenchルーマニア―フランス」 『接吻 The Kiss』。石膏、27×25×16cm抽象彫刻の先駆となった、男女が抱擁し口づけを交わす姿をひとつの塊で表現した名作。ブランクーシの『接吻』は、写実的な表現から脱却し、石や石膏といった素材そのものの「本質」を引き出す手法で制作されています。二人の人間が互いに溶け合うような究極の愛と精神性が、極めてシンプルかつ力強いフォルムで表現されています。「接吻The Kiss1908石膏plaster「接吻」を主題にした石彫は6点あり、その第1作(1907–08年、クライヨーヴァ美術館、ルーマニア)から型取られた石膏像。抱き合う男女の姿は、四角いかたまりに還元され、ふたつにしてひとつという愛の形の核心を衝いている。Brâncuși's stone sculpture The Kiss has six versions. This piece was created from a plaster cast taken from the first work (1907–1908, Craiova Museum, Romania). The image of a man and woman embracing is reduced to a simple and solid square shape. It gets to the core of what love is, which is two entities being one.」 「Jacques Lipchitzジャック・リプシッツ1891–1973Lithuanian / Frenchリトアニア―フランス」 『出会い The Meeting』。・サイズ: 81 × 57 × 37.5 cm・パリで活動していたリプシッツが、ピカソやブラックらが切り拓いたキュビスムの 絵画的空間を立体彫刻として表現しようと試みた初期の代表作。「出会いThe Meeting1913鉛leadキュビスムや部族芸術の影響を受けた。左右対称のゆるぎない構図と形態の単純化が、堂々とした存在感を生んでいる。男女の出会いの一回性、運命性に形を与えた作品である。Lipchitz was influenced by cubism and tribal art. The solid and symmetrical concept ofthe sculpture together with its simplified form give birth to the strong sense of presence of this work. It is a masterpiece that gives form to the once-in-a-lifetimeand pre-destined meeting of a man and a woman.」 『空間の中の唯一つの連続する形 Unique Forms of Continuity in Space』。・作者: ウンベルト・ボッチョーニ(Umberto Boccioni)・制作年: 1913年「空間の中の唯一つの連続する形Unique Forms of Continuity in Space1913ブロンズbronzeうねるような姿が疾走する人体の躍動感を伝え、残像に形を与えることで時間の経過を表わした。運動や周囲の空間との関係、時間の感覚などを同時に表現する、「未来派」彫刻の頂点である。The surging silhouette of the running human form conveys a sense of energy,with the passing of time expressed by giving form to the afterimage. This piece is the simultaneous expression of movement in relation to the surroundingspace and a sense of time.」 「Henri Laurensアンリ・ローランス1885–1954Frenchフランス」 『布を持つ女-大 Large Standing Woman with Drape』フランスの彫刻家アンリ・ローランス(Henri Laurens)が1928年に制作したブロンズ彫刻。高さ226cmの堂々たる佇まいでありながら、優しく柔らかなフォルムが特徴の作品。「布を持つ女-大Large Standing Woman with Drape1928ブロンズbronzeキュビスムを彫刻に適用したのち、女性や神話の擬人像のモチーフを扱うようになり、丸みや量感のある自然主義的な形を追求した。片足に重心を傾けたコントラポストのポーズと布の襞が、海や水のイメージを醸し出している。After applying cubism to his sculpture, Laurens then began to work with female and anthropomorphic motifs in mythology, pursuing naturalistic forms that were rounded and voluminous. The contrapposto pose, with the weight slightly on one leg, and the folds of the fabric create an image of the sea or water.」 「CharlesDespiauシャルル・デスピオ1874–1946Frenchフランス」 『アッシア Assia』。シャルル・デスピオ(1874–1946)はオーギュスト・ロダンに見出されたフランスの彫刻家 で、代表作『アッシア』は1937年に制作されたブロンズの女性彫刻。日本の近代彫刻にも多大な影響を与えた作家。移動して。「アッシアAssia1937ブロンズbronze穏やかで自制的な印象を抱かせる古典性と、憂愁を内に秘めた現代的感性が融合する静謐な人間像を追求した。アッシアというモデルは、作家が探し求めていた要素(美・古典性・現代性)を完璧に兼ね備えていたという。Despiau aspired to statues that were tranquil and composed in a calm, classical stylewith an impression of self-restraint, together with a modern sensitivity hiding a feelingof melancholy. The model, whose name was Assia, is said to have perfectly embodied the elements of beauty, classicism and modernity that Despiau had been searching for.」「Morie Ogiwara荻原 守衛1879–1910Japanese日本」 「坑夫 Miner」。 近づいて。移動して。「坑夫Miner1907ブロンズbronze網を引くイタリア人がモデル。奔放な肉付けの緊張感と生命力にあふれた造形は、オーギュスト・ロダン(1840–1917)の影響を示し、当時の日本の彫刻界に多くの刺激を与え、日本近代彫刻の先達となった。Modeled on an Italian man pulling on a net. Full of life, this piece also expressesa feeling of tension within the freely modeled muscular form, and showsthe influence of Auguste Rodin (1840–1917). At the time, this work greatly stimulated the Japanese world of sculpture and was a pathbreaker in Japanesemodern sculpture.」 「原の城(頭B)Hara Castle: Head of a Warrior (Work B)」 作者:舟越 保武 Yasutake Funakoshi。「原の城(頭B)Hara Castle: Head of a Warrior (Work B)1964ブロンズbronze題名は1637年に起こった島原の乱で拠点となった城の名前。反乱軍はほぼ全員が殺害され、討ち死にしたキリシタン武士を「雨あがりの月の夜に、青白い光を浴びて亡霊のように立ち上がる姿」として表した。The title is taken from the name of the castle that served as the base of the Shimabara Rebellion in 1637. Almost all of the rebels were killed, and the Christian samurai who died in battle were represented as a figure rising like a ghost in the pale light of a moonlit night after the rain.」 「Giacomo Ballaジャコモ・バッラ1871–1958Italianイタリア」 「バレリーナ・ティク・タクBallerina of Bal Tic Tac1920–22真鍮、クロームメッキbrass, chrome platingスカートの裾がひるがえる様子や手足の動きなど、軌跡を線で描くことで速度と運動をとらえている。「バル・ティク・タク」は、1921年にローマで開かれた未来派スタイルのダンスホールで、バッラが内装を手掛けた。Balla depicted the trajectory of movement with simple lines to express speed and motion, as in how the skirts of the ballerinas seem to be fluttering as well as the movement of their arms and legs. Bal Tic Tac was a dance hall of the Futurist stylethat opened in 1921 in Rome, and Balla designed the interior décor.」 5つの作品が並ぶ。正面から。『バル・ティク・タクのバレリーナ/エカルテBallerina of Bal Tic Tac/Ecarte』『同上/パ・ド・ドゥ Pas de Deux』。『同上/火の踊り Dance of Fire』。『同上/蛇の踊り Snake Dance』。『同上/デュエット Duet』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.12
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次に訪ねたのが「マンズールーム Manzu Room」。「マンズールーム Manzu Room」では、イタリアの彫刻家ジャコモ・マンズーの「死の扉」習作12点を常設展示していた。ドアには彼のサインが。『婦人像 ジャコモ・マンズー(イタリア)』。とてもスレンダーな女性像。「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italy)1908–1991婦人像Donna1968ブロンズbronze」 「フラッシュ撮影はできません。」 と。「マンズーの「死の扉」。「マンズーの「死の扉」ヴァティカンのサン・ピエトロ寺院は、ルネサンス盛期の巨匠たちが、その信仰と芸術の粋を注ぎつくした精華であった。それらの傑作の数々に伍して、現代イタリア彫刻界の巨匠ジャコモ・マンズーの手になる「死の扉」が、少しの遜色もみせていないのは、真に偉観というべきである。1952年、ヴァティカンは、大寺院正面を飾る扉の制作を、マンズーに正式に依頼したが、完成までに実に17年の歳月を費す労作となった。その間、マンズーの創作欲を支えたのが、親友ジュゼッペ・デ・ルカ枢機卿、当時ヴェネツィアの総大司教だったジュゼッペ・ロンカリ枢機卿(のちの教皇ヨハネ23世)の示した友情と理解であった。しかし、1963年6月、マンズーが「扉」の最後の仕上げに精魂を傾けていたとき、ヨハネ23世が逝去した。マンズーは、意中にあった「水中の死」を「教皇ヨハネ23世の死」と代え、父とも仰いだ教皇にたむけたのであった。そして1年後の1964年6月28日、「扉」は新教皇パウロ6世によって除幕された。当初、ヴァティカンから与えられたテーマ「教会の聖人と殉教者たちの勝利」を称えるばかりでなく、名もなき庶民の信仰と、愛と、死をうたいあげた「死の扉」として――。「暴虐による死」にこめられた痛烈な戦争批判からも明らかなように、これは、まさしく20世紀的な宗教芸術の記念碑であった。貧しい靴直しの職人を父にもち、幼い頃から木彫師、左官屋のもとへ奉公にやらされた職人マンズーは、こうして、イタリア彫刻の栄光を継ぐ真の巨匠の列に加わったのである。」 「1961-1964 サンピエトロ大聖堂 死の扉」をネットから。この扉は、教皇や枢機卿の葬儀の際に棺が運び出される扉として用いられるため、「死の扉」と呼ばれています。しかし、その主題は単なる死ではなく、キリスト教における「死から永遠の命への希望」を表しているのだ と。■全体の構成左右二枚の扉に様々なレリーフが配置されていた。上から下へ向かって、・大きな宗教場面・麦束や枝葉(生命の象徴)・小さな場面(さまざまな死)・最下部の小さな生き物 という構成。■左上 聖母マリアの死(聖母被昇天)左上の大きな場面では、天使に抱え上げられるように、衣を大きくなびかせながら天へ向かう聖母マリアが表現されている。身体は地上にありますが、衣だけが天へ引き寄せられていくような独特の造形で、「肉体の死は終わりではなく、天へ迎えられる始まり」という希望が表されている と。マンズーらしい非常に柔らかな衣の表現が印象的である と。■右上 十字架刑右上は、十字架に架けられたキリスト。その下には聖母マリア、マグダラのマリアが悲しみに暮れています。人類最大の「死」でありながら、その死が復活につながるという、この扉全体の中心思想になっている と。■中央の植物左右中央には、左:木の枝葉、右:麦の束が表されている。これは豊かな実り、新しい命、復活を意味します。特に麦は、一粒の麦は地に落ちて死ななければ実を結ばないというヨハネ福音書の言葉を思わせる象徴です。■下部の八つの小さなレリーフここには、人間のさまざまな「死」が描かれています。マンズーは、宗教上の人物だけではなく、あらゆる人の死をテーマにしました。・左上左 暴力による死 苦しむ人物が描かれています。・左上右 死者を悼む人物 静かな悲しみを表現しています。・左下左 逆さになった人物 事故や処刑など、突然の死を暗示すると考えられています。・左下右 祈る女性 亡くなった人への祈りです。右側四場面も、戦争 苦悩 老い 病など、人間が迎えるさまざまな最期を象徴しています。マンズーは、死は王だけでも聖人だけでもなく、すべての人に訪れるということを表しています。最下部の小動物一番下には・小鳥・ネズミ・カエル・小動物のような小さな生き物が並んでいます。これらは、生命の循環や自然界を象徴すると同時に、人間だけでなく、すべての生命が神の創造の中にあることを暗示しています。この扉は「死」をテーマとしていますが、見る人に恐怖を与える作品ではありません。むしろ、キリストの十字架、聖母の被昇天、麦束や植物の象徴、そして名もなき人々のさまざまな最期を通して、死は人生の終着点ではなく、永遠の命への入口であるというキリスト教の希望を静かに語りかけています と。ジャコモ・マンズーの自筆のメッセージ。「彫刻の森美術館における私の作品の特別展示室開設にあたり、いく久しく時の流れにもすたれざらんことを念じつつ、館長並びにご来館の皆様に御礼申し上げます。 1974年5月21日 ジャコモ・マンズー」 『ヴァティカン、サン・ピエトロ大聖堂の「死の扉」(習作)ジャコモ・マンズー(イタリア) 』「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991ヴァティカン、サン・ピエトロ大聖堂の「死の扉」(習作)La Porta della Morte di Basilica di San Pietro in Vaticano (bozzetto)1962」 白壁上に作品が並ぶ。『聖母の死(習作) ジャコモ・マンズー(イタリア)』「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991聖母の死(習作)Morte di Maria (bozzetto)1962」 次の展示作品へ。『アベルの死(習作)ジャコモ・マンズー(イタリア)』。1963年に制作されたブロンズ彫刻。旧約聖書で兄カインによって殺害されたアベルの最期を題材としており、ヴァチカン・サン・ピエトロ大聖堂の「死の扉」の制作過程で作られた貴重な習作の一つ。「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991アベルの死(習作)Morte di Abele (bozzetto)1963」 『聖ヨセフの死(習作)Giacomo Manzù (Italian)』。「聖ヨセフの死」は、ヴァチカン宮殿サン・ピエトロ大聖堂の「死の扉」に彫刻された10の浮彫レリーフの一つ。このブロンズ作品は「幸福な死の守護者」である聖ヨセフの穏やかな最期を描いています。「Giacomo Manzù (Italian)1908–1991聖ヨセフの死(習作)Morte di Giuseppe (bozzetto)1963」 『暴虐による死(習作) ジャコモ・マンズー(イタリア)』。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂にある記念碑的なブロンズ扉『死の扉』(1964年完成)の制作過程で生まれた、非常に重要な習作(エチュード)として知られています。「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991暴虐による死(習作)Morte per Violenza (bozzetto)1963」 『教皇ヨハネ23世の死(習作)教皇ヨハネ23世の死(習作)』「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991教皇聖ヨハネ23区世の死(習作)Morte di Giovanni XXIII (bozzetto)1963」 『キリストの死(習作) ジャコモ・マンズー(イタリア)』「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991キリストの死(習作)Morte di Cristo (bozzetto)1962」 『聖ステファヌスの死(習作) ジャコモ・マンズー(イタリア)』。 「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991聖ステファヌスの死(習作)Morte di Stefano (bozzetto)1963」 『教皇グレゴリウス7世の死(習作) ジャコモ・マンズー(イタリア)』。「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991教皇グレゴリウス7世の死(習作)Morte di Gregorio VII (bozzetto)1961」 『空中の死(習作) ジャコモ・マンズー(イタリア)』。「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991空中の死(習作)Morte nello Spazio (bozzetto)1963」 『地上の死(習作) ジャコモ・マンズー(イタリア)』。「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù 1908–1991地上の死(習作)Morte sulla Terra (bozzetto)」 背景いっぱいにあるのは、ヴァティカン・サン・ピエトロ大聖堂の正面写真。中央の白い展示ケースには、「ルガンブワ枢機卿とヨハネ23世(習作)」の浮彫(レリーフ)が展示されていた。『ルガンブワ枢機卿とヨハネ23世(習作) ジャコモ・マンズー(イタリア)』。「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991ルガンブワ枢機卿とヨハネ23世(習作)Cardinale Rugambwa e Giovanni XXIII (bozzetto)1962」 ジャコモ・マンズーのサイン入り写真。『インゲの胸像』越しに展示品を見る。廻り込んで。『ジャコモ・マンズー インゲの胸像』。部屋の中央には、本展示室開設に際し、マンズー自信が寄贈した 1971年作のブロンズ像『インゲの胸像』 が設置されていた。インゲはマンズーの妻である。マンズーは「インゲと出会わなければ今の私はない」と語ったといわれている。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.11
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この日は6月21日(日)、4月以降4回目の箱根仙石原にある仙石高原ビラで、元同僚3人との親睦会に向かう。箱根強羅公園で合流することになり、私は単独で箱根に愛車で向かう。合流する前に、「箱根彫刻の森美術館」を久しぶりに訪ねたのであった。以下、ウィキペディアより。箱根 彫刻の森美術館(はこね ちょうこくのもりびじゅつかん、英語表記:THE HAKONE OPEN-AIR MUSEUM)は、神奈川県足柄下郡箱根町二ノ平および木賀にある、野外彫刻を中心とした美術館である。特定公益増進法人である公益財団法人彫刻の森芸術文化財団とフジサンケイグループが、姉妹施設の美ヶ原高原美術館とともに運営している。歴史・1969年(昭和44年)9月6日:開館(設計担当は彫刻家である井上武吉、 初代館長はフジサンケイグループ議長の鹿内信隆)。・1972年(昭和47年)3月15日:箱根登山鉄道(現:小田急箱根)二ノ平駅が彫刻の森駅に改称。・パビリオン [ネットの森]で、2010年度グッドデザイン賞受賞。彫刻の森美術館と マルマン株式会社が共同開発した図案スケッチブックが、2015年度グッドデザイン賞を受賞。・2012年(平成24年)7月5日:ファッションデザイナーの森英恵が館長に就任。・2019年(令和元年)7月27日:開館50周年記念事業としてピカソ館の全面リニューアルを行い、 一般公開された。・2023年(令和5年)7月1日:フジサンケイグループ代表の日枝久が館長に就任。主な彫刻・ヘンリー・ムーア・マルタ・パン「浮かぶ彫刻」・佐藤忠良・パブロ・ピカソ 館内にはピカソの彫刻に関する展示物を展示する専門の展示室「ピカソ館」がある。・ジャコモ・マンズー ・館内には「死の扉」(サン・ピエトロ大聖堂)習作などのマンズーの彫刻に関する 展示物を展示する専門の展示室「マンズールーム」がある。・水井康雄 「5合目標」・ガブリエル・ロワール「幸せをよぶシンフォニー彫刻」 ・1975年6月1日に完成した、展望塔を兼ねた全高18mの作品。 内部は480枚のステンドグラスが設置されている。・後藤良二 「交叉する空間構造」 ・多数の人体像から成る作品。夕刊フジのテレビCMに「オレンジ色の憎い奴」の キャッチコピーと共に使用された。入口にあったこの噴水も作品であると。 駐車場に車を駐め、入場券売り場に向かった。2000円でチケットを購入。突然雨が降り出して来た。「彫刻の森美術館 GUIDE MAP」👈️リンク。 近づいて。さらに、現在地に近づいて。駐車場入口の円い池の中の作品は『生命の響き 新宮 晋』👈️リンク。正面の八角形の建物のレリーフは『働く人々 建畠大夢』。 帰路時に近づいて。廻り込んで。展示場所に向かってエスカレータを下る。さらに。観光客の人の姿は少なかった。正面にプレートが。「公益財団法人 彫刻の森芸術文化財団 フジサンケイグループ」と。 その先にあった作品は『網目の球体 フランソワ・モルレ』・素材と構造: ステンレス・スティール製の細い格子状の網を組み合わせ、幾何学的な球体を 作り出しています。・錯視とリズム: 見る角度や背景(空や緑)によってフォーカスポイントが次々と変化し、 背景と形態の境界があいまいになる不思議な錯視を体験できます。・受賞歴: この作品のシリーズは、1992年に開催された第5回「ヘンリー・ムーア大賞展」で 優秀賞を受賞しました。近づいて。「入館口 Entrance」へと。 「わが国の現代彫刻が近年、活況を呈するとともに広く認識され始めたことは、喜ばしい限りです。現代の彫刻家たちは、生活空間、都市空間をより豊かにすべく果敢に創造精神を燃やしています。私どもフジ・サンケイグループが、彫刻の野外美術館を、ここ箱根の景勝の地に創設しましたのは、こうした状況を踏まえて、環境芸術としての現代彫刻の振興を計り、わが国の芸術文化に新たな活力を注入したいとの希いからであります。近代彫刻の優品が、多彩を誇る現代彫刻の数々が、箱根の山に集い、自然の美しさ猛々しさと融け合い、対決するわけです。皆様方も、箱根の山の風光を満喫しながら、彫刻と自然との対話に加わっていただきたいのです。そこにこそ、新しい造型の時代の、野外美術館でしか味わえぬ楽しさがあると申せましょう。本日、こうして開館を迎えられましたのも、美術界はもとより各界の方々のご支援の賜であります。ゆくゆくは東西の彫刻界の懸け橋、世界の彫刻家の理想郷に育てていきたいと存じます。どうか当美術館の行く手を暖かく、また厳しく見守ってくださるようお願い申し上げます。昭和44年8月1日 彫刻の森美術館 初代館長 鹿内 信隆」 地下道を案内に従い進む。「彫刻の森美術館 ピカソ館 ⇒」 正面が地下道出口。そして地下道を出て、振り返る。「屋外展示場」作品配置図(1/2)。「屋外展示場」作品配置図(2/2)。この2枚の作品配置図を自宅で印刷して、持ち込んで、これを見ながらチェックしながら「屋外展示場」の見学を始めたのであった。 左側にあったのが『樹人 岡本太郎』。「FRP(繊維強化プラスチック)、塗料 360×280×310 cm1929年の渡仏後、岡本は次第に純粋抽象の世界から離れ、シュルレアリスムに出会う。1940年帰国。戦後はいち早く対極主義を唱え、理論面でも日本の前衛芸術をリードしてきた。1970年、大阪万博のシンボル《太陽の塔》(万博記念公園)を制作。有名な「芸術は爆発だ」という彼の言葉は、コミュニケーションや理解も拒絶し、効果や結果、また歴史的、文化的、時間的な枠をも超えて、無目的に膨張し続けるという自己の芸術感が表されたものである。この《樹人》も、自由奔放に増殖し続けていくような、ダイナミックな生命力にあふれている」と。見上げて。帰路時の写真。近づいて。「岡本 太郎Taro Okamoto (Japanese)1911–1996樹人Tree Man1971FRP(繊維強化プラスチック)、塗料FRP, paint生命力や生き生きとした表現を求め、自由奔放に膨張し続けるという作者の芸術観が表れています。Creating a dynamic expression of life, this work sums up the artist's outlook on art, which he believed should be free to expand at will.」 『戦士 マリノ・マリーニ(イタリア)』。近づいて。「マリノ・マリーニ(イタリア)Marino Marini (Italian)1901–1980戦士The Warrior1959–60ブロンズbronze力尽き倒れかかった馬と騎士は、両者の区別がつかないほどひとつの塊と化しています。その悲劇的な姿は絶望を表わしています。Expending the last vestiges of their strength, both rider and horse fall to the groundwhere they merge to create a single mass. This tragic form manifests an imageof despair.」 右側にあったのが『とらわれのアクション アリスティド・マイヨール(フランス)』。近づいて。「ブロンズ 213×104×95 cm👈️リンクピエール・ボナール[1867-1947]やエドゥアール・ヴュイヤール[1868−1940]らと共にナビ派の画家として活躍していたマイヨールが彫刻に転じたのは、40歳を過ぎてからのことだった。彼の作る女性像は、鋭く突起した部分がなく、満たされた丸みのある形の連続である。この作品は、長く獄中生活を送った社会主義者ルイ・オーギュスト・ブランキ[1805-1881]の記念像として作られた。後ろ手に縛られ身をよじったポーズは、マイヨールの作品にしては珍しくダイナミックな動きをはらむ。豊満な女性の体に男性的な顔を備え、そのボリュームは見る者を圧倒する。」と。 「アリスティド・マイヨール(フランス)Aristide Maillol (French)1861–1944とらわれのアクションAction Enchained1906ブロンズbronzeフランスの社会主義者ルイ・オーギュスト・ブランキの記念像です。長い獄中生活を送った革命家の、自由への切望を表現しています。Created as a memorial to the French socialist activist, Louis Auguste Blanqui, a revolutionary who spent many years in prison, this statue represents a yearning for freedom.」 再び「Museum Journey Compass 屋外展示場を自由に旅する Web 3D Map」。 近づいて。さらに「現在地」を。 アートホール・マンズールーム前にあったのが『衣を脱ぐー大 ジャコモ・マンズー(イタリア)』近づいて。「「衣を脱ぐー大」は、現代イタリア彫刻の三大巨匠の一人、ジャコモ・マンズー(Giacomo Manzù, 1908-1991)の代表的な彫刻作品です。1960年代以降のマンズーが好んで制作した世俗的な主題の一つ。・作風の魅力:古代ローマやルネサンスの古典彫刻から影響を受けており、簡潔かつ直線的 ながらも人間味にあふれる力強い造形が特徴です。衣服のひだなどの複雑な構成を巧みに 表現しています。・制作年代:1967年(昭和42年)に制作された大作」 「ジャコモ・マンズー(イタリア)Giacomo Manzù (Italian)1908–1991衣を脱ぐー大Grand Striptease1967ブロンズbronze伸びやかな均整のとれた姿勢で表わされた女性の身体と、衣服を脱ぐところから発散される魅惑を限りなくとらえた作品です。Depicting a woman about to remove her clothes, this work captures the endlessfascination of the female form through unconstrained and well-proportioned lines.」 ・・・つづく・・・
2026.07.10
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この日は7月6日(月)、9:30~平塚で仕事の社内打ち合わせに愛車で向かう。2時間ほどで会議は終了、帰路に市内鵠沼にある「はす池・蓮池」を訪ねた。「第1はす池」の近くの空き地に車を駐め、カメラ片手に散策開始。「第1はす池」ここに咲いているのは「舞妃蓮(まいひれん)」 ズームして。舞妃蓮(まいひれん)は、昭和41年にアメリカの「王子蓮」と日本の「大賀蓮」を交配して作られた品種と。黄色がかった白地に淡いピンク色の覆輪が入る美しい花を咲かせていた。昭和43年、花弁の開閉する姿が女性の舞う姿に似ていることから名付けられたのだ と。御坊市の阪本祐二氏が、アメリカの黄花ハス(王子蓮)と日本の大賀蓮を交配して作り出した、御坊市生まれの蓮。「淡き紅 風に舞い立つ 舞妃蓮 水面映して 夏は静けし」・・・詠み人知らず そして「エピローグ(epilogue)・終章」に向かう蓮花を追う。盛りを過ぎ、花托(かたく)が大きく姿を現し、花びらがゆるやかに開いて「終章(エピローグ)」へと向かう美しさを感じさせてくれた。満開の華やかさとは異なり、静かな余韻や円熟した気品が漂っているのであった。満開の美しさだけが花の魅力ではない。舞妃蓮は歳月を重ねたような落ち着きを漂わせ、静かに命を未来へ託す姿に、人生の円熟を見る思いがするのであったが・・・。花びらが静かに役目を終え、黄金色の花托が主役となる。華やかな開花の先にあるのは、終焉ではなく実りへの道。舞妃蓮は最後の一瞬まで、気高く、そして美しく夏を語り続けているのであった。展望台には巨大なカメラを持ったカメラマンの姿が。そして再び花の「クライマックス」を追う。一輪ごとに異なる表情を見せる舞妃蓮。純白に淡い紅をにじませた花びらは、清楚さと華やかさを兼ね備え、見るたびに心が洗われるような美しさを感じさせるのであった。 舞妃蓮は、やわらかな陽光をまとい、淡い桃色の花びらを優雅に広げる。その気品ある姿は、静かに舞う天女を思わせ、見る人の心に安らぎと清らかな感動を届けてくれるのであった。そして徒歩で数分の北側にある「第二はす池・蓮池」を訪ねた。「第二はす池・蓮池」に咲くのは「誠蓮(まことはす)」と。 「誠蓮(まことはす)」は、紅蓮系の八重咲きハス。花弁数が120枚を超える華やかなピンク色の花を咲かせ、鑑賞用としてはもちろん、食用レンコンを収穫できる大変珍しい品種 と。観賞と食用の両方を楽しむことができるのだと。美しく清楚な開花前の蕾を。「誠蓮(まことはす)」は、誰の作品なのであろうか?この誠蓮の花は、開花の直前、幾重にも重なる花弁を大切に抱きしめるような姿が印象的。満開とは異なる、「これから咲く期待」と「内に秘めた華やかさ」が感じられるのであった。少し花弁が開き、黄金色の花托が姿を現し始めて。「秘めた美」から「華やぎの始まり」へ移る、最も心惹かれる瞬間なのであった。人生が円熟へ向かうように、誠蓮もまた静かに花開く。焦ることなく、一枚ずつ花びらを広げる姿は、本当の美しさは時とともに育まれることを、後期高齢者に教えてくれるのであった。誠蓮がほぼ満開を迎え、黄金色の花托が堂々と姿を現していた。濃桃色の幾重もの花びらが器のように花托を包み込み、豪華さと気品が見事に調和した瞬間。幾重にも重なる桃色の花びらが大きく開き、黄金色の花托を優雅に抱く誠蓮。満開のその姿は、夏の陽光を受けて気高く輝き、私の心を豊かな感動で満たしてくれるのであった。誠蓮が盛花を過ぎ、実りへと歩み始めた姿。黄金色の花托が高く立ち、花びらにはわずかな傷みが見られた。しかし、その姿には衰えではなく、生命を次代へつなぐ気高い美しさが宿っていると感じる瞬間。花びらがすべて散り、花托だけが静かに残る「蓮花の最終章」。しかし、それは決して終わりではない。花は種子を育み、新たな命へとつながる「希望のプロローグ」でもあるのだ。その姿には、侘び寂びにも通じる深い趣が感じられるのであった。花は散り、彩りは去る。しかし、命は終わらない。静かに立つ花托は、実りを育み、未来へと希望をつないでゆく。蓮が見せる最後の姿は、最も深く、最も尊い美しさである。実りを抱く花托の傍らで、新たな蕾が静かに目覚めの時を待つ。終章と序章が一つの景色の中で出会い、蓮は永遠に巡る命の物語をそっと紡いでいるのであった。そして最後に池の横に咲いていた「半夏生」を。半夏生の白く染まる葉を眺めながら、我が人生に思いを馳せた。若き日の情熱はやがて穏やかな緑へと戻り、派手さはなくとも、歳月を重ねた者だけが持つ深い味わいが静かに宿っているように思えたのであった。そして、「こうありたい」と。 多くの蓮の花の姿を観ながら、我が人生に思いを馳せる自分がいたのであった。固く閉じた蕾は夢に胸を膨らませた若き日。朝日に向かって咲き始める花は、希望に満ちた青春。満開の華やぎは、仕事や家庭に懸命に生きた壮年の日々。そして今、花びらを静かに散らしながら実りを育む花托に、人生の本当の豊かさを見る思いがした。人は華やかさのために生きるのではなく、歩んできた歳月を次へと受け継ぐために生きているのかもしれない。蓮は何も語らない。しかし、その一輪一輪が、人生の意味を静かに教えてくれているようだった。蓮は命の巡りを、半夏生は人生の移ろいを語る。どちらも華やかさだけでなく、その先にある静かな美しさを教えてくれる。私もまた、日々、自然の営みに触れ、そして学びながら、自分らしい人生の季節を一歩一歩感謝の心を忘れずに、穏やかに、そして心豊かに自分らしく歩んでいきたい!!・・・そんな少々欲張りな願いを抱いている後期高齢者なのである。 ・・・完・・・
2026.07.09
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「3D等高線図で確認された堀」展示を訪ねた。 「3D等高線図で確認された堀等高線図とは地図の表現方法の一つで、3次元の曲線を2次元で表したものです。一般的な等高線図は真上から見たものなので、他の角度から見ると対象物がどのようになっているか知ることができません。ところが3D等高線図だと、自分の好きな角度から対象物を見ることができます。平成29年(2017)に大庭城の簡易的な3D等高線図を国土地理院の協力のもと作成しました。これを見ると、普段樹木でかくれてしまい、目にすることのできない堀や平場を確認することができます。お城の調査は発掘調査が大きな役割を担うことになりますが、このような3D等高線図を補助的に使うことで、より多くの情報を得ることができます。」 「大庭城址」を「北東から」。 「東から」。 「南東から」。「北から」。 「真上から」。 「南から」。 「北西から」。 「西から」。 「南西から」。 「大庭城のその後大庭城は永正9年(1512)に伊勢宗瑞(北条早雲)により落城しましたが、その後はどのようになったのでしょうか。大庭城を落とした伊勢宗瑞は、その後勢力を東に伸ばし、永正9年ないしは翌年の永正10年に玉縄城(鎌倉市)を築きます。この城が伊勢氏の東相模における重要拠点となり、大庭城は廃城したものと思われます。定かではありません。なお「小田原衆所領役帳」には福島左衛門尉という人物が知行していたことが記されています。玉縄城主・北条綱成の旧姓は福島であり、北条氏の旗台では玉縄城主と血縁上近い人物が大庭一帯を治めていたことが分かります。小田原衆所領役帳北条氏康(伊勢宗瑞の孫)が作成させた一族や家臣の役高を記した台帳。福島左衛門尉は玉縄城主福島綱成に属し、大庭で180貫文を知行していたことが記されている。別名「小田原北条家所領役帳」「北条分限帳」とも呼ばれている。」 「福島伊賀守墓碑小田原市風祭の萬松院に所在し、墓碑には「相州大庭城主」の文字が刻まれています。福島伊賀守の法名は「道水」で、福島左衛門尉の法名は(道水)と似ていることから、二人を同一人物とみる研究者もいます。」写真右側(赤線部拡大)墓碑の刻字には、「相州大庭城主」と。福島伊賀守(勝広・道瑞)の墓碑に関する詳細な情報は以下の通り。・場所:萬松院(神奈川県小田原市風祭411)・死去:慶長15年(1610年)2月4日・戒名:実相院殿光翁道瑞居士・主な事績:川越夜戦での単身突破の伝令が名高く、小田原城落城後は剃髪して「道瑞」と 名乗り、晩年は小田原の板橋で暮らしたと伝わります。「子供用パネル大庭城落城!戦国時代、北条早雲という武将が、小田原周辺をおさめていました。最初、上杉氏と北条氏は仲良くやっていましたが、上杉氏の力が弱まると、同盟をやぶって攻めてくるようになりました。大庭城は永正9年(1512)に、北条早雲によって落城してしまいます。」 展示室の天井隅には凧が飾られていた。「神奈川県 引地川 藤沢市」 平成四年五月 全国ふるさと凧サミット愛媛県五十崎町 寄贈」 5.神奈川の城館コーナー。「5.神奈川県の城館神奈川県には江戸時代の御殿・陣屋や、鎌倉時代・室町時代の館を含めると、350を超す城館が存在したと考えられています。しかし残念ながら昭和以降の開発の波にのまれ、ほとんどの城館はその姿を偲ぶことができません。これは神奈川県だけではなく、全国的な傾向でもあります。藤沢ではこれまでに長後で鎌倉時代の館跡や江戸時代の藤沢御殿の一部が発掘されています。また戦国時代の城としては、二伝寺砦(渡内)・高谷砦(別名:村岡城、高谷)・御幣山砦(藤が岡)などが存在していた記録がありますが、これらは発掘される前に区画整理により破壊されています。その点で大庭城は公園として市民の方々の憩いの場として活用されているとともに、当時の面影が残る数少ない城といえるでしょう。今後このような貴重な歴史遺産をどのように保存・活用するかが課題となります。」 「二伝寺砦👈️リンク二伝寺は渡内に所在していた砦です。玉縄城の南西に位置し、玉縄城南西防衛上の要地だったようです。二伝寺砦には堀切や土塁が存在せず、平場を造成し、北側を大手とする構造であり、高谷砦と連動して南からの攻撃に備えることができた砦だと考えられています。現在二伝寺周辺は昭和40年代から始まった村岡地区の区画整理やその後の宅地造成により、旧地形が消失している場所は二伝寺周辺のみです。」 以前に訪ねたときの「二伝寺砦」の写真。大庭城・高谷砦・二伝寺砦は、村岡から渡内にかけての台地上で互いに連携しながら防衛網を形成していたと考えられている。特に二伝寺砦は、・玉縄城の南西方向を守る前線拠点・堀や土塁を持たない比較的小規模な砦・高谷砦と連携して敵の侵入を監視する施設であったと推定されている。また、パネルの最後にあるように、二伝寺砦は宅地造成によって旧地形がほぼ失われており、現地で遺構を確認することは難しくなっています。大庭城が比較的良好な状態で残っていることの貴重さを示す説明でもあります。 「高谷砦(村岡城)👈️リンク高谷砦は別名村岡城ともいい、高谷に所在していた砦です。二伝寺砦の南約350mの場所に所在していたとされますが、昭和40年代の圃場整備により砦跡周辺は削平されてしまい、現在では砦に関連する遺構を確認することができません。『鎌倉市史』によれば、砦はH字形をし、砦の北東「三日月の井」周辺(現在の村岡城址公園内)に建物が存在していた可能性を指摘しています。」 以前に訪ねた「村岡城址」碑の写真。「額 元帥伯爵東郷平八郎書村岡城の地位は古来武相交通の要衝に在り昔従五位下村岡五郎平良文公及びその後裔五代の居城なり蓋しその築城は今を距ること約一千年前に属す良文公は関東八平氏の始祖にして天慶二年鎮守府将軍陸奥守に任ぜられ多くの荘園を有し威を関東に振るひたり天慶の乱起るに及び藤原秀郷平貞盛と共に将門を征討し大に軍功を立てたり其の後裔に秩父平氏の一族澁谷庄司重國あり其の孫實重は薩州東郷氏の祖なり昭和六年村岡城祉を史蹟として縣廳より指定せらるる同七年村岡村の有志相謀り鎌倉同人會の賛助を得城址に碑を建て以て後昆に傳ふと云爾 海軍中将東郷吉太郎撰書 昭和七年十月三日」「高谷砦」は別名は「村岡城」 現在の藤沢市高谷付近に存在したと考えられる・二伝寺砦から南へ約350mの位置・二伝寺砦・大庭城と連携して防衛網を形成していた可能性が高い・昭和40年代の圃場整備によって地形が改変され、遺構はほぼ消失・『鎌倉市史』には「H字形の砦」と記録されている特に興味深いのは、現在の村岡城址公園付近が高谷砦の中心部と考えられている点です。大庭城・二伝寺砦・高谷砦を地図上で結ぶと、藤沢南東部から鎌倉方面へ向かう交通路や谷戸を監視できる配置となり、戦国時代の地域防衛ネットワークの一端をうかがうことができるのだ と。城址碑脇の「三日月井跡」。裏面には「ここより東百五十㍍の処に三日月井あり 村岡城内で用水として使われ又村岡城五代城主鎌倉権五郎平影正産湯井としても知られています後世になって近在の人々が眼病を治しにこの井で眼を洗いに多くの人が訪れたようです。」「玉縄城と藤沢所在の砦位置図」。 「大塚烽火台(のろしだい)『新編相模国風土記稿』の柄沢村の項に烽火台の記述があり、これが大塚烽火台と考えられています。大塚の地名は現在の藤が岡3丁目付近に「大塚山」や「大塚下」の地名が残ることから、『日本城郭大系』では現在の藤が岡中学校付近に烽火台が存在していた可能性を指摘しています。この一帯は昭和30年代の区画整理により、大規模な削平がおこなわれており、旧地形は残っていません。」 烽火台とは、戦国時代に煙や火を使って情報を伝達した通信施設です。敵の来襲や異変を発見すると、昼は煙、夜は火を上げて周辺の城や砦へ知らせました。この説明によると、・江戸時代の地誌『新編相模国風土記稿』に柄沢村の烽火台の記録がある。・「大塚山」「大塚下」という地名が現在も藤が岡3丁目周辺に残っている。・そのため、藤が岡中学校付近に烽火台があった可能性が高い。・しかし昭和30年代の区画整理で地形が大きく改変され、遺構は残っていない と。「御幣山砦(おんべやまとりで)👈️リンク御幣山砦は藤が岡1丁目あたりに所在したと考えられている砦です。『新編相模国風土記稿』には大谷公嘉という人物が砦を守備していたと記されています。この砦は永禄12年(1569)の武田信玄による小田原攻めの際と、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に攻められ、2度落城しています。御幣山砦一帯は昭和30年代の区画整理とその後の開発により、現在は城郭に関連する遺構を目にすることはできません。」 御幣山砦の位置図。今は藤が岡と呼ばれている藤沢駅北東の丘陵一帯が、かつて御幣山と呼ばれていた。地名としての御幣山はすでに失われ、御幣山自治会や藤が岡北麓の御幣公園などに、僅かに名を残すのみである と。神奈川県内の主な城👈️リンク。「祝大庭城跡が藤沢市指定史跡に指定されました!令和3年(2021)12月1日に大庭城跡は藤沢市指定史跡として指定されました。大庭城に初めて発掘調査が行われたのは昭和42年(1967)です。この時は城館に関する遺構・遺物は見つからず、翌年に行われた第2次調査で大庭城と関連のある遺構・遺物が初めて確認されました。それから約50年、第25次調査までの間に様々な発見がありました。これからも新たな発見があることでしょう。」大庭城は現在、公園として市民に親しまれているが、その地下には弥生時代から戦国時代に至る長い歴史が眠っており、藤沢市を代表する歴史遺産の一つと言えるのだ。「謝辞本パネル展を開催するにあたり、以下の皆様からご協力をいただきました。心より御礼申し上げます。佐久大権守 中川様伊勢原市教育委員会 小田原市文化財課 小田原城総合管理事務所相模原市教育委員会 大慈寺」 引用参考文献・梅原正吉 1959『藤沢市史 考古編』白川弘文館・井上光貞 『日本の歴史④ 平安京と貴族』中央公論社・牛澤秀爾 2018『神奈川県秦野市西大竹遺跡群 藤沢市指定史跡関連の発掘調査 その2 調査報告書』・柴田龍司 1968『大庭城址発掘調査概報』藤沢市西部開発事業局・香川元太郎 2019『よみがえる日本の城』学研プラス・加藤理文ほか 1991『大庭城址公園内発掘調査報告書 第23次調査報告書』玉川文化財研究所・黒田基樹 2004『北条氏と大庭城館跡』大庭城館跡発掘調査文化財講演会資料・黒田基樹 『戦国大名北条氏』戎光祥出版・黒田基樹 『日本の城郭大全 第6巻 千葉・神奈川』新人物往来社・藤木久志 1980『戦争の日本史6 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館・佐久大権守ほか 2017『小田原北条氏の外交』八木書店・下山治久 1999『北条早雲と東国百年戦争』有隣堂・新人物往来社 1972『藤沢市史 通史編』・神田千里 2015『一向一揆と石山合戦』吉川弘文館・中川真(ほか)2020『藤沢市文化財調査報告書 第10集 藤沢市指定史跡関連調査』・栗山一夫 1979『藤沢の武士と城館』名著出版・藤沢郷土研究会 2019『藤沢歴史探訪40選』・藤沢市教育委員会 2008『大地に刻まれた藤沢の歴史Ⅰ-旧石器時代~』・藤沢市教育委員会 2009『大地に刻まれた藤沢の歴史Ⅱ-奈良時代~』・藤沢市教育委員会 2011『大地に刻まれた藤沢の歴史Ⅲ-近世時代~』・藤沢市教育委員会 2013『藤沢の文化財』・藤沢市教育委員会 2015『大地に刻まれた藤沢の歴史Ⅳ-近代~』・郷土歴史課 2018『調査報告 平成30年大庭城展イベントについて』 藤沢市文化財調査報告書 第54集・郷土歴史課 2019『藤沢市指定史跡シンポジウム 上杉の城館~その特色と 役割をかんがえる~』藤沢市文化財調査報告書 第55集「指定重要文化財等指定書(史蹟)名称 大庭城跡当該史蹟の特徴 大庭城は扇谷上杉氏時代の城館と考えられており、この時代の城郭は湘南地域では 現存するもので唯ーのものである。築城した人物や時期については判明していないが、 扇谷上杉氏の歴代当主と非常に血縁が強い朝昌という人物が大庭城を守備していたことが 文献から確認されている。なお永正9年(1512年)に北条早雲により落城した後は廃城と なったと考えられる。 大庭城は関東の戦国史を考える上で貴重な遺跡であり、過去の発掘調査の結果、 掘立柱建物群や、土塁や堤が見つかっているほか、令和2年度から令和3年度にかけ おこなわれた第25次調査では、主郭西側斜面から帯曲輪の存在が確認された。 県内で発掘調査の成果から帯曲輸が確認されたものは大庭城が初めてとなる。藤沢市指定史跡に指定する。 2021年(令和3年)12月1日 藤沢市教育委員会」 「大庭自然探偵団」ポスター。大庭自然探偵団は、神奈川県藤沢市の大庭・遠藤エリアを中心に活動している市民の自然観察グループ。NPO法人「藤沢サンクチュアリ」などと連携し、地域の豊かな自然や生き物と触れ合う活動を行っています。 近づいて。主な特徴と活動内容は以下の通り。・定期的な自然観察会: 奇数月に遠藤地区、偶数月に大庭地区で毎月第2日曜日に開催されています。団員でなくても 誰でも無料で気軽に参加でき、途中参加や途中退席も自由です。・野鳥や昆虫の観察: 引地川親水公園や遠藤笹窪谷公園などを散策し、季節ごとの野鳥、昆虫、 植物、野草などを観察します。・情報発信: 高橋和也氏らが中心となり、公式サイト「ふじさわ自然通信」で観察会の予定 や、 藤沢市内で見られた動植物の記録・写真を日々更新しています。また、藤沢市が主催する 環境講座などの講師を務めることもあります。気軽に参加できる地域の自然観察コミュニティ として、初心者から愛好家まで親しまれている団体です と。最後に頂いたパンフレットを。以下、パンフレットから抜粋。「大庭城址公園内に残る主な遺構」 ■土塁■等高線で確認できる堀跡■発掘調査で見つかった堀跡「大庭城址公園は憩いの場として広く親しまれていますが、公園内にはここがかつてお城であった頃の名残が良好に保存されています。ここでは5カ所の地点を紹介しますが、この他にもたくさんの土塁や堀が存在しています。公園内にある小さな窪地や高まりも、もしかしたら大庭城の遺構かもしれません。※公園内には立入を制限しているロープがありますが、危険ですのでその外には絶対に 出ないでください。」 「①土塁 この場所は大庭城跡の中でも最も残りの良い土塁で、最大約4mの高さがあります。 これだけの規模の土塁が残る城は神奈川県内にはほとんどありません。 (写真内注記:赤い線が約4m) ②堀跡 番号の位置から東を見ると、大庭城に築かれた堀と土塁を見ることができます。 現在、堀はほとんどが埋まっていますが、相当深い堀であったと考えられます。 ③館址広場 昭和40年代の発掘でこの場所からは4棟の掘立柱建物跡が見つかりました。 現在はこのうち2棟の規模を石柱で表示しています。 ※石柱と実際に建物跡が見つかった位置は異なります。 ④南入口からの道 公園になる以前から存在していた道ですが、平成30年の発掘でこの道の一部区間が 埋まりかけた堀跡を利用して造られていたことが判明しました。」 「大庭城跡の発掘調査■昭和40年代の調査地点■昭和59年の調査地点■平成30年の調査地点■令和3年の調査地点」 「大庭城跡の発掘調査大庭城跡は区画整理事業に伴い昭和43年(1968年)に初めて発掘調査が行われました。その結果、多くの掘立柱建物や掘跡など様々な遺構や遺物が確認されました。その後、城址公園整備や法面整形などでも調査が行われ、令和3年(2021年)の調査では、人工的に平らな場所(平場)を造成した帯曲輪も確認されました。この調査成果がきっかけとなり、大庭城跡は令和3年12月1日に藤沢市指定史跡となりました。これまでの発掘調査は中央の平らな場所と西斜面にとどまり、本丸大庭城の正面である東斜面は現在のところ調査されていません。今後調査が進むことで大庭城がどのような解明に期待がかかります。」 下部「大庭城主郭部分の斜面模式図」 パンフレット表紙「藤沢市 大庭城址公園」。 「公園の概要大庭城址公園は、藤沢駅から北西に約4km、市の中心を南北に流れれて相模湾にそそぐ引地川沿いの大庭の地にあります。この地は古くから人々に大庭城山と呼ばれ、城址としての歴史性とともに緑の山として親しまれてきました。大庭城址公園はその特性を生かして昭和60年3月に供用を開始した広さ約12.6haの総合公園です。主な施設としては、大芝生広場、チビッ子冒険広場、休息広場、館址広場、花の広場等があり、フジ棚のバーゴラや複合遊具、四阿等も 設置されています。園内にはウメやツツジ、バラ、アジサイなどの花木の他、ソメイヨ シノを中心とした300本以上のサクラが植栽されており、お花見の時期には大変賑わいます。」 「大庭城址公園管理事務所」内の展示室にて「大庭城」の歴史そして発掘調査の成果等について多くを学び、帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.07.08
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「大庭城址公園管理事務所」内の展示室の見学を続ける。 次に訪ねたのが「3.大庭城を掘る」。近づいて。「3.大庭城を掘る!大庭城址公園の中を注意深く歩くと、地面が不自然にへこんでいる場所や、逆に盛り上がっている場所があります。それらの多くが大庭城に関連する防御施設の名残です。地面がへこんでいる場所は当時の堀(ほり)が埋まりきらずに残っているもので、土が盛り上がっている場所は土の壁である土塁(どるい)の名残です。大庭城はこれまでに複数回発掘調査がおこなわれており、特に昭和40年代の調査では、様々な中世城郭に関連する遺構・遺物が確認されています。発掘調査では、文献からではおぼろ気にしかその姿を見ることのできなかったお城の実像を、現代に蘇らせることができます。大庭城は扇谷上杉氏が使用した状態を現在に伝える数少ない城郭であるとともに、当時の遺構が良好に残っているということで、城郭の研究者から近年非常に高い評価を受けているお城の一つです。」 「発掘で確認された大庭城関連の遺構」 近づいて。ーーーーーー発掘調査で確認された堀ーーーーーー等高線から存在が確認できる堀発掘調査によって、大庭城では20を超える堀の存在が確認されている。図を見ると、城の中心部である館跡を取り囲むように複数の堀と土塁が配置されており、大庭城が単なる居館ではなく、高度な防御機能を備えた本格的な中世城郭であったことが分かる。石垣や天守はなくとも、まさに「土の城」の実像を伝える貴重な資料なのである。「子供用パネル大庭城の建物大庭城址公園の一番南にある「館址広場」を掘ったところ、4棟の建物が見つかりました。建物はとてもりっぱなものであったことから、ここに城主が住んでいたものと考えられています。またここからは、焼けたお米が見つかっています。」 「1~4号 掘立柱建物」配置図。 1号掘立柱建物(北東から)。 2号掘立柱建物(東から)。3号掘立柱建物(南から)。○炭化米が出土した柱穴。3号掘立柱建物の柱穴から出土した炭化米(左上)とその電子顕微鏡写真(右上・右下)。4号掘立柱建物(南から)。「大庭城の館跡大庭城址公園の最南端の「館址広場」は昭和43年(1968)から昭和45年(1970)にかけて3回発掘調査がおこなわれました。その結果、4棟の掘立柱建物跡・土塁などの遺構や、かわらけ・瀬戸製品などの食器が出土しました。掘立柱建物は合計4棟確認されており、この内2号掘立柱建物を除く3棟は、建物の規模も大きく、また4周に庇(ひさし)が付いていました。このような庇付きの建物は相応の身分の人物が使用していたと考えられており、ここが大庭城の中心的な場所(主郭)であったと考えられています。また、3号掘立柱建物の柱穴からは炭化した米が出土しています。この米を平成28年(2016)に化学分析にかけた結果、15世紀の中頃から16世紀初頭の時期に籾殻が付いた状態で燃えたことが判明しました。土塁は館を囲むような形で築かれており、昭和40年代の調査では南側を除く三方の土塁が、平成30年(2018)の調査では改めて西側の土塁が、令和2年(2020)の調査では新たに南側の土塁が確認されています。このように土塁は館址広場を囲むように築かれており、この場所がいかに重要であったか知ることができます。」 「子供用パネル大庭城の堀大庭城にはたくさんの堀がほられています.この堀は「ローム層」という、オレンジ色の土までほられています。なぜローム層まで掘り下げているのでしょうか?じつはローム層はすべりやすい土なので、お城を守るのにとてもむいているのです。」 堀・土塁 配置案内図。「8号堀周辺の現状(南から)」 「8号堀(東から)」。 「1号堀(南から)」「5号堀(南から)」。 「6号堀(東から)」「9号堀(西から)」「12号堀(西から)」。「22号堀(南から)」。 「第25次調査の成果大庭城跡西側斜面の法面整形にともない、令和2年(2020年)12月14日から令和3年(2021年)4月27日の期間で第25次調査が行われました。等高線の状況から当初の予定として、堀が2本確認されるものと考えていましたが、実際に発掘すると2本の堀のほか、斜面を盛土して造られた**帯曲輪(おびぐるわ)**が存在していたことが確認されました。この調査により大庭城の西側斜面には複雑な防御施設が存在していたことがわかりました。」 中央に「23次調査」時の「22号堀」。「帯曲輪(西から)」。 帯曲輪とは、山城や丘城の斜面の途中に帯状に設けられた平坦地で、・敵の侵入を妨げる・兵士の移動路となる・防御拠点となるという役割を持っていました。調査前は「堀が2本あるだけ」と考えられていましたが、実際には・2本の堀・帯曲輪・急斜面が組み合わされており、大庭城の西側が多重防御になっていたことが判明しました。24号堀(北から)。25号堀(南西から)。「4.台地に刻まれた城山の歴史」展示。「4.台地に刻まれた城山の歴史大庭城が築かれた城山台地上では、戦国時代のお城以外にも様々な時代の遺跡が確認されています。現在のところ、城山で人々の生活が確認されるのは弥生時代になってからと考えられています。弥生時代の遺跡は、1984年におこなわれた公園整備の調査で、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が確認されています。台地での人々の活動が活発になるのは、古墳時代になってからとなります。古墳時代は、大きく前期・中期・後期と分けられますが、中期の遺跡は市内全域でもあまり確認されていません。ところが、城山台地上ではすべての時期の遺構・遺物が確認されています。また奈良時代・平安時代の遺跡も台地の北西側の調査地点で確認されているほか、遺物だけですが、鎌倉時代の資料も出土しています。方形周溝墓弥生時代から古墳時代前期にかけて造られた墓のことです。墓穴の四周を溝で区画した形をしていますが、時には区画溝の中に骨を壺に入れて埋葬することもあります。」 「子供用パネル城山台地の歴史大庭城がある場所は「城山台地」とよばれていますが、ここにはお城ができる前から人が住んでいたことがわかっています。この公園を造った時の発掘では、古墳時代や奈良時代の家やお墓などがみつかっています。」 「公園整備に伴う発掘調査遺構配置図」。 SI:竪穴住居 SD:方形周溝墓「SD05〔古墳時代前期〕(西から)」。 「発掘状況-1」。 「発掘状況-2」。個別に。「SD04〔古墳時代前期〕(南から)」 「SD04 遺物出土状況」 「SI30〔古墳時代前期〕(東から)」 「SI30 遺物出土状況」。 「SI08 遺物出土状況」。「SI08〔古墳時代前期〕(北から)」 「SI22〔古墳時代前期〕(南から)」 「SI07〔奈良時代〕(南から)」「SI19〔奈良時代〕(南から)」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.07
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「大庭城址公園管理事務所」まで戻り、館内の展示品を観る。独り占めの展示コーナー入口。「藤沢市 西部開発事業区域現況模型縮尺 水平=1:3000 垂直=1:2000」 「開発前の大庭地区1970(昭和45)年頃縮尺 水平=1:3000 縮尺=1:2000」 移動して。「大庭城址」に近づいて。 廻り込んで。青緑の部分は沼や水田地帯だったのであろうか!?扇谷上杉氏の家紋竹に二羽飛び雀扇谷上杉氏は藤原北家勧修寺流藤原氏の流れで、鎌倉の扇谷に住したことから扇谷上杉氏と呼ばれるようになった。勧修寺流藤原重房は、丹波国何鹿郡上杉庄を領し、そこを名字の地とした。この重房が鎌倉幕府六代将軍として京都から宗尊親王が迎えられた時、親王に従って鎌倉に下向したのが上杉氏の始まりである。その子頼重の女清子が足利貞氏に嫁して、尊氏・直義を生んだことで、足利氏と密接な関係を持つようになった。頼重には重顕・顕成・憲房らの子がいたが、長子重顕は「元弘の動乱(1333)」に尊氏・直義兄弟に従って活躍した。重顕の家督を継いだ朝定は、室町幕府の引付頭人として主に京都にあった。嫡子朝顕も京都八条に住み、幕府に仕えてその子孫は八条上杉氏といわれた。朝定の養子の顕定は、鎌倉扇谷に住んで鎌倉公方に仕え、扇谷上杉氏の祖となったのであるそして大庭城(神奈川県藤沢市)は、15世紀末に扇谷上杉氏によって築かれた中世の山城(市指定史跡)。相模国東部における上杉氏の重要な拠点でしたが、1512年に北条早雲(伊勢宗瑞)によって攻め落とされました。歴史の概要築城・改修:文明年間(1469〜1487年)に扇谷上杉氏の家宰である太田道灌が改修し、扇谷上杉朝昌(ともまさ)らが在城したとされています。落城とその後:永正9年(1512年)、扇谷上杉氏の城主・朝良の時代に北条早雲の攻撃を受け落城しました。その後、北条氏によって利用・改修されましたが、玉縄城(鎌倉市)の築城に伴い重要性が薄れ廃城となりました と。1.はじめに大庭城跡は、舌状台地の先端部に立地しており、東側には引地川、西側には小糸川が流れる天然の要害です。現在でも公園内には、往事を偲ばせる土塁や堀の痕跡を目にすることができます。大庭城の知名度は、残念ながら高いものとは言えませんが、近年の研究で関東でも数少ない、小田原北条氏以前の姿を残した非常に重要なお城であることが分かってきました。ここでは、これまでに分かっている大庭城について解説したいと思います。「子供用パネルようこそ大庭城へ!今日は大庭城址公園にあそびにきてくれて、ありがとうございます!ここには昔「大庭城」というお城がありました。ほかにも色々な時代の遺跡が、この公園ではみつかっています。いったい、ここはどのような場所だったのでしょうか?下の2人(?)がご案内します。(イラスト部分)上杉朝昌(うえすぎともまさ)「いっしょに大庭城の歴史をべんきょうしようぞ♪」享徳3年(1455年)から勃発した享徳の乱の初期には相国寺鹿苑院の喝食だったが、後に何らかの理由で還俗して扇谷上杉氏の領国支配の一翼を担い、相模七沢城に入った。七沢城は相模中郡の、また後年守備した大庭城は相模東郡の要衝であることから、扇谷上杉氏の両郡支配を実質的に担う立場にあったと考えられる。すぱ郎「よろしくね~」」 大庭城址公園の空撮写真中央から下部が現在判明している「大庭城址」。 「大庭城および扇谷上杉氏関連略年表年号////////西暦///////////////////////主な出来事享徳元年/////1452//////この頃までに、扇谷上杉氏が大庭御厨を所領とする。寛正六年/////1465//////伊勢神宮、大庭御厨からの年貢未進を扇谷上杉氏の家臣、//////////////////////////太田道灌に訴える。文明元年/////1469//////伊勢神宮の荒木田氏経、大庭御厨代官の出口氏・室田氏により、/////////////////////////年貢が横領された旨を、太田道灌に訴える。長享二年/////1488//////扇谷上杉朝昌、山内上杉氏との合戦に敗れ、守備していた/////////////////////////七沢要害(厚木市)を放棄し、大庭城へ移る。明応八年/////1499/////『玉隠和尚語録』に大庭に城郭が存在していた記述がある。永正九年/////1512//// /伊勢宗瑞(北条早雲)、扇谷上杉方の城を攻撃し、岡崎城////////////////////////(伊勢原市・平塚市)や大庭城が落城。永禄二年/////1559//////玉縄北条氏の一族と考えられる福島左衛門が玉縄衆として、//////////////////////////180貫文で大庭を知行。(『小田原衆所領役帳』より)」 「伝承の中の大庭城「大庭城」の名前が文献上初めて登場するのは、天保12年(1841)、昌平坂学問所で編纂された『新編相模国風土記稿』です。この中で地元の伝承として、大庭城は平安時代後期に活躍した大庭三郎景親の居館跡を扇谷上杉氏の家宰である太田道灌が城郭として改修したものの、永正9年(1512)、伊勢宗瑞(通称:北条早雲)により落城したとあります。現在伝わる大庭城のイメージは、『新編相模国風土記稿』の記事を見ても分かるように、すでに江戸時代の後半には出来上がっていたようです。ただし、当時の資料を見ると必ずしもこの伝承が正しいわけではないことが分かります。なお大庭城に関連する伝承は、大庭城の南側に鎮座する舟地蔵や築山、稲荷神社などに残されています。」 この解説板で興味深いのは、・江戸時代にはすでに「大庭三郎景親の館跡を太田道灌が城に改修した」という伝承が 成立していたこと・しかし近年の研究では、その伝承をそのまま史実とは見なしていないこと・大庭城の歴史を考える上で、伝承と史料を区別して捉える必要があることを示している点。つまり、大庭城は単なる「景親の館跡」ではなく、近年の発掘や研究によって、扇谷上杉氏の重要な城郭として再評価されている中世城郭なのです。「新編相模国風土記稿 大庭城蹟「(前略)土人傳て大庭三郎景親の居城なり。後太田道灌暫時居城とし、北條氏の頃はその旗下某在城せりと云う。(中略)修理大夫朝良の時、永正九年北條早雲に攻落さる。是より北條氏の持城となる。」意訳「(前略)大庭の住民には、大庭城は大庭景親の居城であり、後に太田道灌が城に改修して、しばらくの間居城としていた。そして小田原北条氏の頃は配下の某氏が在城していた。」という伝承がある。(中略)上杉朝良の代にあたる永正九年(1512)に北条早雲に攻め落とされた。これ以降、大庭城は北条氏の城となった。」」 このパネルは、前の「伝承の中の大庭城」で紹介されていた『新編相模国風土記稿』の記事の原文を示したもの。ここで注目すべき点は、・大庭城を大庭景親の居城とする伝承・太田道灌が城郭として改修したという伝承・永正9年(1512)に北条早雲(伊勢宗瑞)によって落城したという伝承が、江戸時代に記録されていたこと。しかし近年の研究では、・太田道灌が実際に大庭城を改修したことを示す同時代史料は確認されていない・大庭景親の館と中世城郭の大庭城を直接結び付ける証拠も十分ではないと考えられており、現在では「伝承」と「史実」を区別して扱っているのだ。「子供用パネル大庭城はいつのお城?大庭城は、今から約500年くらい前の戦国時代につくられたお城です。このころのお城がそのまま残っているのは、とてもめずらしいのです。大庭城はナゾの多いお城です。でも最近いろいろな歴史の先生たちが調べて、新しいことがわかってきました。(写真の説明)こんな大きな堀があったことがわかっています!」 「大庭景親」。石橋山の合戦で敗れた頼朝が隠れる伏木の上にまたがる大庭景親。ネットから。 「大庭景親大庭景親(おおばかげちか)は大庭御厨を所領とする武士で、当初源氏に仕えていましたが、平治の乱(1159)以降は平氏に接近し、平清盛の信任を得ました。源頼朝が治承4年(1180)に旗揚げした際、景親は平氏方の総大将として源頼朝と戦い、石橋山の合戦で勝利を得ます。しかし安房国(千葉県南部)に逃れた頼朝が徐々に勢力を拡大し、鎌倉に入ると景親は対抗しきれずに京都へ逃亡を図ります。しかし途中で行き先を塞がれてしまったため、やむなく頼朝に降伏しますが、許されず、片瀬川の河原で斬首されてしまいます。」この解説板は、大庭城の伝承に登場する 大庭三郎景親 の人物紹介。大庭景親 は現在の藤沢市大庭を本拠とした豪族で、1180年の 石橋山の戦い では平氏方として挙兵直後の 源頼朝を破った。その後、頼朝が勢力を盛り返して鎌倉に入ると景親は敗れ、最終的に片瀬川付近で処刑されたと伝えられている。大庭城の伝承では、この大庭景親の居館跡が後に城郭化されたとも語られていますが、この展示パネルでも説明されているように、現在の研究では伝承と史実は分けて考えられているのだ。「舟地蔵大庭城の南に鎮座しています。大庭城を攻める際に合戦の犠牲となった老婆を祀っているとの伝承があります。伝承の詳細は、現地にある説明板をご覧ください。」 「築山築山(つきやま)は大庭城の南に位置する丘陵です。この山は伊勢宗瑞(いせそうずい)が大庭城を攻めた際、なかなか矢が届かなかったので一夜にして築いたという伝承があります。」 「舟地蔵」の南、熊野神社(大庭神社舊蹟)の北側の○が「築山(つきやま)」と考えられているようだ。 模型にも手前に「築山」の場所が示されていた。。 「大庭城の実像大庭城が築城された室町時代の記録に『玉隠和尚語録(ぎょくいんおしょうごろく)』というものがあります。この中で、玉隠和尚が明応8年(1499)に扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)という人物の三十三回忌の法要をおこなった際の言葉が記載されていますが、それを見ると大庭城と大庭景親の館跡は別の場所にあること、大庭城の城主は扇谷上杉朝昌(おうぎがやつうえすぎともまさ)という人物であったことが分かります。扇谷上杉氏は、享徳元年(1452)頃までには、大庭御厨(おおばみくりや)を支配していたことが知られており、関連する古文書が伊勢神宮などに残されています。」 「大庭御厨(おおばみくりや)」の推定範囲と、平安時代から中世前期にかけての地名を示した地図 。凡例赤色の線→ (推定)大庭御厨の範囲橙色の線→ 現在の市境白いラベル□→ 文献に登場する平安時代~中世前期の地名地図からわかること大庭御厨は伊勢神宮の荘園で、その範囲は現在の藤沢市西部から茅ヶ崎市北部、寒川町の一部にまで及ぶ広大なものであった。地図には、・大庭郷・羽鳥郷・石川郷・長後郷・渋谷郷・高座郡・田村郷・稲荷村・遠藤郷・村岡郷・善行郷・打戻郷などの古い地名が記されています。大庭城との関係地図の中央付近に「大庭郷」があり、その中心部に大庭城がある。つまり大庭城は、大庭御厨という広大な伊勢神宮領を支配するための重要拠点として築かれた城であったことが分かる。現代の地名で見ると、推定範囲はおおよそ、・東:境川・西:小出川・南:相模湾・北:寒川町付近に囲まれた地域です。現在の行政区分では、・藤沢市の大部分・茅ヶ崎市北部・寒川町南部を含む広大な地域になるのだ。現在の私の住居は「大庭郷」に含まれていたことが解かるのであった。 「子供用パネル大庭城はだれのお城?大庭城がいつ築城されたかは、まだあまり分かっていません。ただ上杉氏という一族が築いたのではないかと考えられています。ちなみにこの一人に上杉朝昌(うえすぎともまさ)という人がいたことが当時の記録に残っています。」 幟「湘南の名城 大庭城」。 扇谷上杉氏の家紋「竹に二羽飛び雀」 「扇谷上杉氏と朝昌上杉氏は鎌倉時代後期、初代・重房が丹波国上杉荘を領したことに始まります。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の外戚であったことから、幕府内に大きな影響力を持つようになり、一族は様々に分家して勢力をのばします。扇谷上杉氏は、顕定が鎌倉の扇ヶ谷に居を構えたことに由来します。応永23年(1416)に起きた上杉禅秀の乱では、扇谷上杉氏は鎌倉公方や関東管領である山内上杉氏と協力し、上杉氏の有力氏族であった犬懸上杉氏を滅ぼします。その後、山内上杉氏のもとで力をつけた扇谷上杉氏は相模国守護職に就任します。この相模国守護職は朝興の代まで、嫡流に継承されることになります。朝昌は『玉隠和尚語録』に出てくる持朝の子であり、父・持朝、兄・顕房と定正、甥・政真、子・朝良、孫・朝興が相模国守護職に就任しています。このように扇谷上杉氏の中でも嫡流と血縁上最も近しい関係であることから、相模国の重要拠点である大庭城の守備を任されていたものと考えられます。」 「扇谷上杉氏略系図」。 「扇谷上杉屋敷跡の碑鎌倉市扇ガ谷に建つ扇谷上杉屋敷の碑。関東管領は上杉氏だと山内上杉氏と犬懸(いぬかけ)上杉氏のみが就任できたので、石碑にあるような扇谷上杉氏が管領に就任したという事実はありません。」 ネットから「扇谷上杉管領屋敷迹内大臣藤原高藤十三代ノ裔ニ重房アリ。宗尊親王ニ從ヒテ鎌倉ニ下リ、食邑ヲ丹波國上杉荘ニ賜リテ、始メテ上杉氏ヲ稱セルガ、其曽孫憲顯、管領基氏ノ執事ト為リテヨリ一族勢力ヲ關東ニ占ム。門葉數家、重房五世ノ孫、顯定扇谷家ヲ創ム。文明ノ交、扇谷家六代ノ主、定正、賢臣太田道灌ヲ用ヒテ家聲ヲ揚クルヤ、世ニ宗家山内ト共ニ兩上杉又ハ兩管領ト稱ス。此ノ地即チ其ノ邸址ナリ。大正十一年三月建 鎌倉町青年團」 説明【藤原高藤(たかとう)より数えて、十三代の子孫に藤原重房(しげふさ)という人がおり、鎌倉6代将軍となった宗尊親王(むねたかしんのう)に従って、鎌倉に行きました。そして、京都の上杉に領地をもらったので、名前を上杉としました。その3代後の上杉憲顕(のりあき)は、将軍基氏(もとうじ)の高官となり、一族の勢力は関東に広がりました。さらに重房から5代後の顕定(あきさだ)は、扇谷家を起こしました。文明(1469‐1487)頃、扇谷家の6代目の定正(さだまさ)は、太田道灌を用いて勢力を拡大しました。世間の人々は、山内(やまのうち)家と共に、両上杉または両管領(かんれい)と言いました。この場所がその屋敷の跡です。】「子供用パネル上杉氏ってどんな一族?上杉氏は今から約750年前の鎌倉時代に京都から鎌倉に来た一族です。室町幕府の将軍である足利氏の家来として活躍し、関東で2番目の地位をきずきます。」 上杉氏の家紋「竹に二羽飛び雀」※家紋とは、家をあらわすマークのことです。ちなみにスパ郎は、この雀がモデルになっています。「悲劇の武将 太田道灌『新編相模国風土記稿』の中で、大庭景親の館をお城として改築したとされる太田道灌とはどのような人物だったのでしょうか。扇谷上杉氏定正の時、家宰・相模国守護代として活躍したのが太田道真・道灌親子です。特に道灌は、文明8年(1476)に起きた長尾景春の乱の際には、破竹の勢いで長尾氏の諸勢力を破り、相模国北西部における扇谷上杉氏の地位を確たるものとします。しかし文明18年(1486)7月26日、太田道灌は突如として扇谷上杉定正により相模国糟屋館で暗殺されてしまいます。この時、道灌が叫んだ「当方滅亡!」の言葉は有名です。扇谷上杉氏の勢力は道灌の死後衰退し、当時新興勢力であった伊勢氏(2代後の時に「北条」と改姓)により次々と拠点を落とされ、天文15年(1546)、河越城の戦いで当主・朝定が討ち死にすることで実質的な滅亡を迎えることになります。」「長尾景春の乱山内上杉氏の家宰である長尾景春が起こした乱。父・景信が死去した際、主人の山内上杉氏が家督相続を認めたものの、家宰の職は相続させなかった。これに不満を感じた景春が反乱を起こし、山内上杉氏と扇谷上杉氏の領国は大混乱となった。」 「太田道灌」像。 近づいて。ネットから。「太田道灌の首塚伊勢原市の大慈寺近くにある太田道灌の首が埋葬されたとの伝承が残る塚。この他に同市の洞昌院には荼毘に付した胴を埋葬したと伝わる塚があり、鎌倉市の英勝寺にも道灌の首塚があります。」 ネットから。太田道灌は文明18年(1486)7月26日、現在の伊勢原市上粕屋にあった糟屋館で主君の扇谷上杉定正によって謀殺されたと伝えられています。 「北条早雲像(堀内天嶺模写図)[原本所蔵 小田原城総合管理事務所]」。【初代】北条早雲(伊勢宗瑞)👈️リンク をネットから。「2.「土の城」と「石の城」」展示コーナー。 「2.「土の城」と「石の城」お城と言って多くの方々がイメージするものが、天守閣(てんしゅかく)と石垣を持つものだと思います。大庭城にも天守閣と石垣は存在していたのでしょうか。実は関東地方では、戦国時代のお城は、**土塁(どるい)と空堀(からぼり)で構成された「土の城」**で、大庭城もその例に洩れません。石垣と天守閣を持つ「石の城」は江戸時代になってから登場するものです。なおこの管理棟付近にある石垣について、当時のものかとのお問い合わせがよくありますが、これは公園整備の際に積まれたものであり、大庭城とは関係ありません。」 「子供用パネル大庭城はどんなお城?城というと「天守閣」や「石垣」というイメージがありますよね。でもあれは江戸時代になってからのお城です。大庭城は地面を掘って造った「堀」と、そこで出た土をカベのようにつみ上げた「土塁」というもので、お城を守っていました。公園の中には堀や土塁がまだ残っています。」 「「土の城」と関東ローム層神奈川県内の「土の城」と切っても切れない関係にあるのが、関東ローム層(赤土)です。藤沢周辺では、地上から1mほど掘り下げると、黒土からローム層へと変化します。この土の特徴として、非常に滑りやすい点が挙げられます。土の城は、堀をローム層まで掘り下げ、その際に出た残土を突き固めて土塁(土の壁)とします。堀はローム層に掘り込まれているため、一度落ちたら登ることが容易ではありません。これらの堀は当初水が無い空堀でしたが、北条氏の時代になると、堀内部に小さな区画を設けた「障子堀」が登場します。見た目が障子の桟のように見えるためこのような名称がつきました。堀の中に小さな区画を設けることで、雨水などが溜まり、より一層身動きが取れないような工夫がしてあります。」 「大庭城の斜面平成30年(2018)に館址広場の西斜面を発掘した際、確認された大庭城の切岸。斜面を急角度に削り出し、ローム層を露出させています。」 「山中城の障子堀[静岡県三島市]」。 ネットから。「数の少ない「石の城」東日本で天守閣と石垣を持つ本格的な「石の城」が神奈川県に築かれたのは、天正18年(1590)に 豊臣秀吉 により築かれた 石垣山城 です。ただし、これ以前にも津久井城(相模原市)や八王子城(八王子市)など部分的ではありますが、石垣を持つ城はありました。関東地方には1000を超える戦国時代のお城や館がありますが、その中で石垣を持つお城は16城のみです(2020年現在)。いかに少ないかが分かるのではないでしょうか。」 「津久井城の石垣津久井城は鎌倉時代に地元の豪族である筑井氏により築城されたと伝わっています。城の全体は土の城ですが、部分的に石垣を採用しています。石垣山城が築城されるまでは、神奈川県内で唯一石垣を持つ城です。」 ネットから。「石垣山城の石垣天正18年(1590)に豊臣秀吉により築城された、東日本の城で初めて天守閣を持ったとされています。後世に改修されていないので、戦国時代の石の城を知るためには欠かせない重要な城です。」 ネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.06
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県道43号線・藤沢厚木線に出て右折。そして次に訪ねたのが県道43号線の舟地蔵交差点角に立つ「舟地蔵」。 「藤沢市指定重要文化財 史跡 大庭の舟地蔵伝承地 平成31年2月1日指定この地蔵尊は、台座が舟型となっていることから、「舟地蔵」と呼ばれている。永正9年(1512)の夏、北条早雲(伊勢宗瑞)は鎌倉の扇谷上杉氏の居城であった大庭城を攻めたが、北条軍と大庭城の間には引地川がつくった大きな沼があり、なかなか攻め入ることができなかった。やがて、北条軍は、近くに住むボタ餅売りの老婆から、沼に引地川の水を取り入れている取入口の堰を止めて、下流の堰を開けば水が干上がることを聞き出したうえ、口ふさぎとして老婆を切り殺した。かくして、北条軍はようやく沼を越えて、大庭城を攻め落とすことができた、と伝わる。この舟地蔵は、殺されたあわれな老婆を供養するために、土地の人々がのちに城の近くに建てたという言い伝えがある。舟地蔵が建てられた時期は後世(江戸時代)に降り、その後この地区の開発により、何回かの移転を経て現在地に落ち着いた。この周辺が上杉・北条両軍の激戦の地であったこと、また引地川の水が昔より周辺を潤していたことを今に伝える史跡である。 藤沢市教育委員会」 「お参り頂いている皆様へ日頃から舟地蔵にお参り頂き、また数々のお供物やお賽銭を頂戴し感謝申し上げます。そのお供物についてお願いがございます。以前より食べ物や飲み物がカラス等により荒らされ、苦情が寄せられております。大変恐縮ですが、今後は食べ物、飲み物等のお供えはお控え頂きますようにお願い申し上げます。」 「舟地蔵」を正面から。 近づいて。ふくよかな地蔵尊。この地蔵の一番の特徴は、その台座が舟の形になっているところである。珍しい形ではあるが、稀なものではなく、おそらく“無事に三途の川を渡れるように”という意味合いで作成されたものではないかと考えられているのだと。藤沢市のホームページには舟地蔵伝説👈️リンクの紹介と、その検証された内容が書かれています。「北条軍がこの城を攻撃した際、城の前面と左右に広がる田のあたりは一面の沼地であった。攻略しかねた北条軍の武将達は、軍議を重ねたが、いたずらに対陣の日が過ぎていった。ある日、城の対岸の稲荷(小字名)でボタ餅を売っていた老婆に北条方の武将の一人がどうしたらいいものかと相談したところ、「わけはありません。堤を切れば水は干上がります」と堰(せき)の場所まで簡単に教えてくれた。喜んだ武将は、大事がもれるのを恐れ、老婆を斬り殺し、その夜のうちに堰を壊したので、満々と城の周囲に湛(たた)えられていた水は、すっかり引いてしまった。北条勢の正面からの総攻撃により、さしもの大庭城も落城してしまった。哀れな老婆の死を悼んだ土地の人々が城跡のそばに地蔵様を建てて祀(まつ)ったのが、舟地蔵である。地蔵様は、左手に宝珠をもっているが、土地の人々は、これは宝珠ではなくボタ餅だと言っている。また、堰のあったと言われる現在の柏山稲荷の付近は、大庭城の搦手(からめて)で、一旦有事の際には堰を閉じれば大庭の耕地は一面の湖と化し、大庭城をして難攻不落の名城とする使命を有した要害で、重臣の吉田将監(しょうげん)に守らせたと言われ、ショキヤシキ(将監屋敷)の地名が残されている。ほかに、大庭城の南、小糸川を隔てた台地には、「築山(つきやま)」という地名が残され、城をせめあぐねた北条勢が、大庭城に近付くために築いた山であると言われる。また、老婆がボタ餅を売っていた場所は、大庭城址の対岸にある「だんごくび」というところであるという。」 建立時期は江戸中期だという。地蔵尊は城の近くに建立されたというが、開発により何度か移転した後、現在地に落ち着いたとのこと。そしてこの県道43号線・藤沢厚木線の交差点名は・・・。「舟地蔵(Funajizo)」。 「引地川」に合流する「小糸川」を見る。「小糸川」は、藤沢市遠藤地区の永山橋付近に端を発し、大庭遊水地南側の城下橋上流で二級河川引地川に合流している。「舟地蔵」交差点の北側から、この後に訪ねた「舟地蔵公園」を見る。 「舟地蔵」交差点の手前、東側の広場・多目的ゾーンは「大庭遊水池」となっているのだ。この辺り一帯は、舟地蔵伝説にも書かれていたように、昔から引地川の流れが洪水時に川道から氾濫するいわゆる氾濫原で、しばしば洪水被害を蒙って来た。とくに建設の契機に至った大きな洪水は、昭和51年(1976)9月の集中豪雨であった。この豪雨によって、引地川周辺市街地の浸水面積45ha、353戸が浸水被害を受けた。さらに流域の都市化に伴いさらに大きな洪水被害を及ぼす恐れがあり、洪水対策として昭和55年(1980)から大庭遊水地の整備に着手し、平成5年(1993)3月に完成したものであった。この結果、平成10年(1998)8月、1時間当たり56mmの降雨があったが、浸水被害は2戸にとどまったという。遊水地の最大貯留量は約26.5万立方米。 といってもピンと来ない。東京ドームの容量は124万m3であるから、その2割程度ということになる。意外に小さいようであるが、遊水地は一時的に流水量を調整するものであるから十分なのであろうか!? 「大庭遊水地の機能大雨の時、遊水地は洪水を溜めて、水害から人々の暮らしを守ります。"遊水地"とは、河川堤防の一部区問を低くしておき、そこからあふれた洪水を溜め、地域への水害の被害を軽減させるためにつくられた池のことです。遊水地は普段、公園・スポーツ広場・緑地などに利用ができ、都市生活における人々の潤いの場としての活用もできるのが大きな利点です。引地川の大庭遊水地は神奈川県の総合治水対策の一環として昭和58年から着手され、平成5年に治水機能が完成しました。施設概要 位置 藤沢市大庭地内面積 1 1 .5ha (湛水面積10.3ha)洪水調節量 50m3/sec貯水容量 284,000m3貯水池H. W. L TP7.70m洪水調節方式 越流堤による自然越流方式遊水地施設越流堤 堤長 150m周囲堤 堤頂高 T. P8.60m 堤幅 4.0m 法勾配 3割自然排水樋管 1 .50mX1.50m」 この場所は、大庭城があった頃は、大きな沼地となっていたようであった。 「舟地蔵」交差点を渡り、「大庭城址」を振り返る。城山の標高は40.9mであると。 「舟地蔵公園」案内板。舟地蔵公園は、緑の入口、花の入口、街角の入口など5か所の入口がある自然豊かな公園。広場にはメタセコイアがシンボルツリーとして植えられており、周りには花壇が整備されている。遊具や多目的広場は子供たちで賑わい、草花鑑賞やウォーキングなど多くの方々に利用されています。また、舟地蔵公園はフジロード(引地川・フジ史跡ロード)に指定されています。近づいて。「藤沢市立 舟地蔵公園」 と刻まれた石碑。園内「出会いの広場」中央のメタセコイアの巨木。晩秋になれば(以前の写真)。緑豊かな「芝生広場」を見る。「おおば 古今東西」。 「おおば 古今東西 — 湘南大庭地区の歴史 ー相模野台地の南端部、引地川流域の低地、南部の湘南砂丘から成り、台地上の広大な野原が大庭の地名の由来とされます。かつては相模国高座郡に属していました。石川の南鍛冶山遺跡から奈良~平安時代の大集落跡が発掘され、延長5年(927)の『延喜式』に大庭神社、承平年間(931~38)の『和名抄』に大庭郷の名が見えます。大庭景親は当地の有力武士で、治承4年(1180)の石橋山の合戦で、平家方の総大将として源頼朝を破りました。大庭氏らが地盤とした大庭御厨は、12世紀初め~15世紀半ばに存続した広大な伊勢神宮領で、その範囲は現在の藤沢市南半部から茅ヶ崎市全域に及びました。御厨の名となった当地は大庭本郷と呼ばれ、城南に残る城の地名は在地武士の居館跡、小糸・台谷・城の神明社は伊勢神宮の所領経営の拠点だったと考えられます。大庭城は、15世紀末の扇谷上杉氏の居城で、永正9年(1512)北条早雲に攻め落とされました。現在城址公園に土塁や空堀が残り、落城にまつわる舟地蔵の伝説も伝わっています。江戸時代の大庭村は、折戸・稲荷・台・谷・入・小糸の6集落から成り、天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』に家数171軒と記録されています。明治34年(1901)からの県下初の耕地整理で、引地川流域の水田が整然とした姿に変わり、昭和42年(1967)に始まった市の西部開発事業による宅地造成で旧観が一変。昭和50年(1975)以降に湘南ライフタウンへの入居者で人口も急増しました。 平成20年(2008)3月 藤沢市教育委員会」 「大庭御厨」👈️リンク の範囲。その広大な範囲は、現在の神奈川県藤沢市から茅ヶ崎市にかけての一帯に及び、伊勢神宮の記録『天養記』などにより以下の四至(境界)が示されています。・東の境界:俣野川(現在の境川)・西の境界:神郷(現在の寒川神社周辺の社領)・南の境界:相模湾(海)・北の境界:大牧崎(現在の藤沢市亀井野・円行・湘南台駅周辺の丘陵地帯) 現在地はここ。「街区案内図」。 詳細の番地まで細かく記載されて。個人情報満載!!。防災用マップ。南北が逆転しているマップ。「指定避難所」の位置が示されていた。「舟地蔵」交差点まで戻る。 「舟地蔵」交差点は、「小糸川」に架かる橋の上に。 橋の名は「大庭橋」。 「大庭城址公園管理事務所」に向かって進む。旧家の門は立派な「薬医門」であっただろうか。 薬医門の特徴この門には次の特徴が見られます。・屋根が大きく前方へ張り出している・切妻屋根・正面に主柱が2本立つ・その後方に控柱(ひかえばしら)がある構造・屋根を4本の柱で支える形式・武家屋敷や寺院、旧家でよく用いられる薬医門は鎌倉時代から発達した門形式で、名称の由来には諸説ありますが、もともと医師の家に多かったためとも言われているのだ。この門は、・銅板葺き(緑青が出た屋根)・白壁・黒い木部・手入れの行き届いた庭木が調和しており、旧家や格式ある邸宅にふさわしい落ち着いた雰囲気を感じたのであった。その先、月極駐車場の奥の隅にあった「小社」。この小社の屋根は、前の門とは異なり、「切妻造(きりづまづくり)」を基本とした「反り屋根(むくり・反り付き)」。 巨大な休耕田か?そして「大庭城址公園管理事務所」まで戻る。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・少し脱線しますが、ブログを書いている時、参照ページの和暦と西暦の読み替えをして理解を深めたい場合がよくあるのです。その覚え方について先日テレビでやっていましたので紹介させていただきます。一部は私の追加もありますが。・明治○○年=〇〇+67+1800⇔明治30年=30+67+1800=1897年・大正○○年=〇〇+11+1900⇔大正10年=10+11+1900=1921年・昭和□□年=□□+25+1900⇔昭和25年=25+25+1900=1950年・平成△△年=△△+88+1900⇔平成15年=15+88+1900=2003年・令和●●年=●●+18+2000⇔令和 8年= 8+18+2000=2026年■和暦⇒西暦 下記の数字をたす・➕️ 西暦⇒和暦 下記の数字をひく・➖️■67、11、25、88、18の覚え方【みな(67)でいい(11)ふたご(25)のはは(88)をいわ(18)う】 と。 また令和の18はれいわ(018)であるとも。←覚えやすい!! もちろん、それぞれ元年は1とする と。なかなか、覚えるのが難しそうですが。読者の皆様、もっと覚えやすい方法があれば書き込みをお願いいたします。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.05
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そして広場の右側奥、石の標柱が並ぶ場所に到着。「堀立柱建物址(ほったてばしらたてものし)大庭城は、台地上を東西に横断する三本の空堀によって、一の郭、二の郭、三の郭、四の郭にわかれています。ここは、最南の郭にあたり、北縁の空堀によって、北側の郭と区画されています。周囲には、土塁の跡が部分的に見られ、東斜面には腰郭、西斜面には二段の空堀や帯状の腰郭が残っています。この石柱は、昭和43年の発掘調査で確認された高床建築の柱穴の配列(堀立柱建物址)を示したもので、実際の柱穴は現地表下50cmに保存されており、これは原位置ではありません。このほかにもいくつかの遺構が発見されていますが、この郭が大庭城のなかで、どのような役割をはたしたかは、今後の全面的な発掘調査をまたなければわかりません。」 「柱位置表示石」をカメラで追う。現在地は下図の「本郭」内部 と。ズームして。実際の柱穴は現地表下50cmに保存されているとのこと。「現地表下(げんちひょうか)」とは、現在実際に地面がある表面(現況地表)から見て、垂直方向に下がった地下の深さを指す専門用語であるようだ。4棟の建物跡であろうか?実際に見つかった場所は現在の復元跡よりも東寄り(写真の黄線辺り。南向きに撮影)。建物跡は4棟発見されたが、向きや柱間にバラつきがあるので、それぞれ違う時代に建てられた可能性もある。 と。移動して。建物想像図をネットで探したが!??振り返って。かつては、このあたりにも大庭景親がいたのであろうか。4号組立柱建物(南から)の発掘調査時の写真。3号掘立柱建物の柱穴から出土した炭化米(左上)とその電子顕微鏡写真(右上・右下)。「井戸跡」と考えられている と。 なんの説明板もなかったが・・・??その先に四阿(あずまや)。平坦な本郭・館址広場の外れが前方に見えて来た。右手にあった石碑。「大庭城蹟」碑。「此地大庭景親ノ居城ト云フ、後上杉定正修メテ、居城セシガ、永正九年子朝良ノ時、北条早雲ニ政略サレ、是ヨリ北条氏ノ持城トナッタ。廃城ノ年代未詳空塹ノ蹟等、当代城郭ノ制ヲ見ルニ足ルモノガアル。昭和七年九月 神奈川縣」現代文では【ここは大庭景親(おおば かげちか)の居城であったと伝えられています。後に上杉定正(うえすぎ さだまさ)が修築して居城としましたが、1512年(永正9年)、その子である朝良(ともよし)の代に北条早雲(ほうじょう そううん)に攻略され、それ以降は北条氏の支城となりました。廃城となった時期は詳しく分かっていませんが、空堀(からぼり)などの跡が残っており、当時の城づくりの様子を知る上で十分な遺構を留めています。】「大庭景親」の文字をズームして。 その横にあったのが石灯籠の屋根のような部分。石碑の裏側には文字等はなかった。比較的新しい?「南口出口 県道厚木線・舟地蔵公園方面」案内板。 「大庭城蹟」碑を振り返って。さらに進むと、急な下りの「丸太階段(まるただんかい)」が現れた。 「丸太階段(まるただんかい)」から枯れ葉の積もる坂をさらに下る。そして再び丸太階段が。右手にはアルミフェンス。右手にあったのが「小さな社」。石段の上には石鳥居もあった。平成元年二月吉日と刻まれていた。さらに下って。ズームして。神社の名前は??稲荷神社であっただろうか。フエンスがあるため社の前には行けなかった。さらに坂道を下る(ピンボケ)。前方に「南口出口」が現れた(ピンボケ)。「大庭城址公園の概要この大庭城山は、古くは縄文時代、弥生時代、古墳時代から奈良・平安時代まで、引きつづいて人々の生活舞台となり、中世の山城跡としても広く知られています。藤沢では、大庭城山のこのような歴史性と、豊かな自然に留意し、これを市民の財産として残すために、公園とする計画をすすめました。この公園は、西部開発事業の協力を得て、3.8haが提供され、その後、面積を11.8haにひろげ、昭和53年度に総合公園として都市計画決定し、事業認可されたものです。 藤沢市役所公園課 TEL.0466-25-1111」 ひたすら下って来た「南口出口」を道路側から振り返って。「大庭城址公園」と。「「址」「蹟」「跡」」の違いは?「址」「蹟」「跡」は、いずれも「建物や過去の出来事のあと」を意味しますが、現在は原則として「跡」を使うのが一般的です。厳密な意味の違いと使い分けは以下の通りです。1. 跡(あと)最も一般的に使われる漢字です。建物がなくなった場所(例:城跡)だけでなく、足あとや通った道筋など、広く「何かが存在したしるし」全般を指します。現代の常用漢字であるため、公的な表記や案内板の多くはこちらに統一されています。2. 址(あと / し)建物や城などの「土台」「基礎」があった場所を強調する漢字です。・使われ方: お城や寺院などの跡を「城址(じょうし)」「廃寺址」と表記する際に 使われます。・現状: 常用外漢字のため、行政や学校教育では「跡」への書き換えが進んでいます。3. 蹟(あと / せき)偉人の業績や歴史的な出来事が残した「足あと」や「事績」を指す漢字です。・使われ方: 「史蹟」「旧蹟」「事蹟」など、歴史的な価値や記録を強調したい場合に 使われます。・現状: 「蹟」も常用外漢字であり、文化財保護法などの公的な指定用語を除いて、 一般的には「跡」と書かれることが多くなっています。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.04
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この日は6月14日(日)、6月6日(土)に参加した歴史講演会「大庭城ーその役割と衝撃の真実」で学んだことをブログにアップしましたが、今まで持っていた大庭城に関する知識が、現実のかなり異なっていたことに気がついたのであった。よってこの日は、それを自分の目で確認するために「大庭城址」へ向かったのであった。自宅から車で20分強で、「大庭城址公園 駐車場」に到着。30台程停められる広さの無料駐車場。「大庭城址公園 」位置図をネットから。大庭城址公園は、藤沢駅から北西に約4km、市の中心を南北に流れて相模湾にそそぐ引地川沿いの大庭の地にあります。駐車場から石段を上がった場所には、「大庭城址公園管理事務所」があった。ここには、大庭城に関する資料が展示されていた。入館は無料で大庭城のパンフレットも置いてあった。大庭城のジオラマもあるので、当時の城郭の様子が分かるのであった。「大庭城址公園管理事務所」内の「大庭城に関する資料展示」は帰路に立ち寄ることとし「大庭城址公園」向かって進む。 「大庭城址公園管理事務所」を振り返って。新緑の美しい石垣に囲まれた石畳の坂道を登って行った。この石垣は、この公園の造成時に作ったもので、「大庭城」時代のものではないと、先日の講演会で学んだのであった。 坂道の横には様々な花が。「ガクアジサイ」。 こちらは「キンシバイ(金糸梅)」。 近づいて。キンシバイ は、オトギリソウ科オトギリソウ属の半常緑小低木。中国原産で、和名は中国名の「金糸梅」に由来し、これは5枚の花弁を梅に、長く突き出た雄蕊を金の糸に喩えたものである と。さらに坂を上って行った。前方に、「大庭城址公園」の建物が見えて来た。 「文化財ハイキングコース案内板大庭の歴史を訪ねて藤沢市の西にある新しいまち・湘南ライフタウン。稲荷台地に沿って流れる引地川の両岸には田園風景が一眼に広がり、季節の移ろいもひときわ美しいところです。大庭地区は、中世の城、大庭城が存在した所として知られ、かって縄文・弥生時代から人々が集落を営んでいた所でもありました。平安時代後期(12世紀頃)には、桓武平氏の流れをくむ鎌倉権五郎景政が、大庭を中心とした広大な所領を開発し、伊勢神宮に寄進しました。この土地が大庭御厨(おおばみくりや)です。大庭城は、鎌倉権五郎景政の子孫が後に大庭姓を名のり、源平合戦で有名な大庭三郎景親が居城したのが始まりといわれ、室聞時代中頃(15世紀後半)には扇谷上杉氏の執事、太田道灌が本格的な築城を行ったと伝えられています。扇谷上杉氏の守る大庭城は、永正9年(1512)、北条早雲に攻められて落城し、その後は北条氏の支配下に入りました。大庭橋協の舟地蔵は、この時の落城にまつわる悲しい伝説があります。やがて、北条氏は豊臣秀吉に滅ばされ、廃城となったようです。現在は、城址としての歴史性や緑を生かした大庭城址公園ができ、市民のいこいの場として親しまれています。また、裏門・ニ番構・駒寄などの地名が、大庭城の名ごりとして、いまも使われています。大庭城址周辺コースの文化財① 宗賢院(そうけんいん)② 市指定・台谷戸稲荷の森(だいやといなりのもり)③ 熊野神社(旧大庭神社跡)(くまのじんじゃ きゅうおおばじんじゃあと)④ 舟地蔵(ふなじぞう)⑤ 大庭城址公園(おおばじょうしこうえん)⑥ 熊野神社と市杵島神社(くまのじんじゃ と いちきしまじんじゃ)⑦ 市指定 寛文12年庚申塔(ししてい かんぶん12ねん こうしんとう)⑧ ーーーーーー⑨ 佐波神社(さばじんじゃ) 今までは、ここで間違えていたのであった。左へと進む「竪穴式住居跡広場」の方向も、「大庭城址」と考えていたが、これまでの調査で、この方向は、「大庭城址」ではなく、「館址広場」方向が「大庭城址」であることを先日の講演会で学んだのであった。 「館址広場」ではなく「大庭城址・館址広場」としてくれてば、真っ直ぐ進むと「大庭城址」の方向と理解できるのではと我儘にも。 こちらが「原始・古代の集落この台地上には、縄文・弥生・古墳・奈良・平安時代など各時代の遺物が広く散布しており、大庭城が築かれる以前から、人々の生活舞台となっていました。これまで数回におよぶ部分的な発掘調査でも、縄文時代の集石遺構をはじめ、弥生時代後期から古墳時代にかけての竪穴住居や方形周溝墓、さらに奈良・平安時代の竪穴住居などが、豊富な生活用具(土器・石器・鉄製品・装飾具等)をともなって、数多く発見されています。これらの貴重な資料は、特に弥生時代以降の人々が、東側の引地川や西側の小糸川流域に水田を開き、この地に大規模な集落生活を営んでいたことをもの語っています。」 「藤沢市 大庭城址公園」の案内図この案内板の後ろの道を進むと「大庭城址」と思い込み、「藤棚・パーゴラ」の方向に進んでいたのであった。以前に訪ねた時の「パーゴラ」の写真を。パーゴラ(pergola)・住宅の軒先や庭に設ける、つる性の植物を絡ませる木材などで組んだ棚であることを知ったのはこの時なのであった。 公園の概要大庭城址公園は、藤沢駅から北西に約4km、市の中心を南北に流れて相模湾にそそぐ引地川沿いの大庭の地にあります。この地は古くから人々に大庭城山と呼ばれ、城址としての歴史性とともに、緑の山として親しまれてきました。大庭城址公園はその特性を生かして昭和60年3月に供用を開始した広さ約12.6haの総合公園です。主な施設としては、大芝生広場、チビッ子冒険広場、休息広場、館址広場、花の広場等があり、フジ棚のパーゴラや複合遊具、四阿等も設置されています.園内にはウメやツツジ、バラ、アジサイなどの花木の他、ソメイヨシノを中心とした300本以上のサクラが植栽されており、お花見の時期には大変賑わいます。この日はもちろん真っ直ぐに進む。「ソメイヨシノ」の大木が並ぶ「大芝生広場」。 4月になれば。「大庭城址公園」案内図。 「大芝生広場」には、家族団らん用のテントが一つ、独り占め。 正面のロータリー風路地に向かって進む。「大庭城址」碑。 裏面には「大庭城址公園開園記念昭和60年4月11日寄贈 藤沢市城南5-4-3 端山進吉」と。 パブリックアート。楽し気にくつろぐ母子像。廻り込んで。「自然」作者:熊坂 兌子(くまさか・なおこ)。そして右に進むと、「大庭城址」案内板が左手に。 「大庭城址大庭城は、平安時代の末期(12世紀末)、大庭荘(おおばのしょう)を本拠としておこった関東平氏の雄、大庭氏の拠点であったと伝えられますが、明らかな記録はなく、室町時代中頃(15世紀後半)になって、扇谷上杉定正の執事太田道灌が、本格的な築城を行ったとされています。その後、上杉朝良のとき、北条早雲によって攻略され、以後、小田原北条氏の支配下に置かれました。そして、天正15年(1590)、小田原北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、大庭城は、廃城となったようです。現在残されている土塁・空堀などの城址の構えには、小田原北条時代の改修があったものと考えられますが、雄大でかつ綿密に設計されていたことは、築山、裏門、ニ番構、駒寄などの地名からもしのばれます。」 その先にあったのが「からぼり」碑。これは、開園時に設置されたものであろう。そして「空堀」・「薬研堀」。先日の講習会で戴いた資料によると「3号堀」か? 右側奥にあったのが「チビッコ冒険広場」。ズームして。2013年にリニューアルした遊具広場。小学生でも楽しめそうなちょっとかわった遊具に人気があると。さらに「大庭城本丸?・館跡」方向に向かって進む。「南口出口」案内板を見ながら。南口入口・出口があることも講演会で知ったのであった。 さらに「南口出口」に向かって。 右手にあった案内には左:花の広場直進:館址広場 と。ここにも「からぼり」碑が。 ここが堀(1号堀~2号堀)を渡るための橋の跡が検出された場所。木製の橋を掛けておき、敵が攻めてきた際には焼いてしまうことで進軍を阻んだのではないかと推測されているのだ と。この1号堀はだいぶ土が埋まってしまったためか、かなり浅めの堀。長い年月が経過してしまうと、どうしてもこういったなだらかな傾斜になってしまうのであろう。。 ・・・つづく・・・
2026.07.03
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さらに「大庭城-その役割と衝撃の真実」の講演会の受講を続ける。「幻の大庭城を巡る大庭城は「土塁」と「堀」を駆使した防御施設!?今も多くの謎が残される「大庭城」。その跡地には「大庭城址公園」(藤沢市大庭字城山5230-1)がある。「城」と言えば天守閣のある「建物」や領主の「住まい」をイメージしがちだが、本来の意味は土塁(防御用の土塁)や堀で守られている防御施設のことを言う。大庭城の役目は、いざ敵が攻めてきた際の避難場所であり、城主は別の場所に住んでいたと考えられている。大庭城関連では最も信憑性のある史料『玉隠和尚語録』(明応8〈1499〉年)にも、「大庭城と大庭氏の居城は別」という記述がある。しかし、使うかどうかわからない場所としてはあまりにも規模が大きいため、人が住んでいたとする説もあるとか。そこで、秋晴れの大庭城址公園を訪ね、年代・城主用途…すべてが謎だらけのお城「大庭城」の当時の姿を探ってみた。(案内:藤沢市教育委員会 生涯学習課 博物館準備担当・宇都さん)■石垣は無かった!入口から広場に続く石垣は、公園建築の際に作られたもので城とは無関係。大庭城が建てられたとされる室町時代の城は土で作られたものが殆ど。特に関東は戦国時代でも石垣が組まれた城はまれだった。地盤がしっかりしていた上、関東ローム層の土は滑りやすく、石垣よりも土で防御した方が優れていたことなどが理由と考えられる。(写真説明)・入口から続く坂を登りきった右手に土塁と堀。堀を掘った時の土をそのまま積み上げて 土塁にしたようだ。・チビッコ冒険広場に向かう途中、広い範囲がなだらかにへこんでいるが、実はここも堀の跡。 現在これだけ大規模であったら遺構が残っている城跡は珍しいらしい。■築山(つきやま)伝説舟地蔵公園の南にある台地。室町後期の武将・北条早雲が大庭城攻撃の足掛かりとして一晩で築き上げた山だという伝承が残っているが、弥生以降時代の生活遺跡が見つかっていることから、残念ながら後世の創作のようだ。■堀と土塁の役割堀堀は水を引かない空堀(からぼり)であった可能性が高い。数十メートルある重い具足を付けて武器を持った兵士達にとっては、それだけでかなり厄介な障壁だった。土塁花の広場北にある土塁と挟まれた堀。両端からのでこぼこ構造が分かりやすい。土塁に登ってすなどで攻撃されると容易には登れなかっただろう。■館を守る最後の橋堀を渡るための橋の跡が検出された場所。木製の橋を掛けておき、敵が攻めてきた際に抜いてしまうことで進軍を阻んだのではないかと推測されている。■大庭城本丸?館跡実際に見つかった場所は現在の復元跡よりも東寄り(写真黄線辺り)南向きに堀跡。建物は4棟発見されたが、向きや柱間にバラつきがあるので、それぞれ違う時代に建てられた可能性もある。■舟地蔵伝説👈️リンク永正9(1512)年、大庭へ侵攻して来た北条早雲は、舟を取り囲む湿地帯に苦戦していた。そこで、地元の“ボタ餅うり”の老婆に引地川の堰(せき)を切って水を干上がらせる方法を聞き、口封じのために切り殺してしまった。舟地蔵は、老婦の供養のため北条軍(又は土地の人間)が建てたと言われている。「館址広場で確認された掘立柱建物群(宇都2018より)」掘立柱建物群の跡を見る。近づいて。柱の位置には石が置かれていた。実際の柱穴は現地表下50cmに保存されており、これは原位置ではありません と。このほかにもいくつかの遺構が発見されていますが、この郭が大庭城のなかで、どのような役割をはたしたかは、今後の全面的な発掘調査を待たなければわかりません。掘立柱建物址(ほったてばしらたてものし)大庭城は、台地上を東西に横断する三本の空堀(からぼり)によって、一の郭(くるわ)、二の郭、三の郭、四の郭にわかれています。ここは、最南の郭にあたり、北縁の空堀によって、北側の郭と区画されています。周囲には、土塁(どるい)の跡が部分的に見られ、東斜面には腰郭(こしぐるわ)、西斜面には二段の空堀や帯状の腰郭が残っています。平成29年(2017)には燃えて炭化した米も発見され、分析の結果15世紀中頃〜16世紀初頭に燃えて炭化したことが判明。永正9年(1512年)の北条早雲の攻撃時に焼かれてしまった兵糧米かとも推測されています と。大庭城の案内の隣には『空堀』が存在している。「からぼり」碑。 「空堀」。3郭東隅にある「大庭城址」碑。 「此地大庭景親ノ居城ト云、後上杉定正修メテ、居城セシカ、永正元年九月子朝良ノ時、北条早雲ニ攻略サレ、是ヨリ北条氏ノ持城トナッタ。廃城ノ年代未詳、空塹ノ蹟等、当代城郭ノ制ヲ見ルニ足ルモノカアル。昭和七年九月 神奈川県」と刻まれている と。 7.まとめ・この10数年で大庭城のイメージは大きく変貌。 ①大庭城はただの山城ではなく、扇谷上杉氏の相模国支配における最重要拠点の一つ ②大庭城跡は藤沢だけでなく、神奈川を代表する城館の1つ。 ③国指定に値する価値がある城館跡。(とある研究者からの評価) EX)県内の国指定は小田原城と石垣山城のみ・まだ不明な点 ①築城・廃城年代の詳細 ②水の手(井戸)や儀礼痕跡(かわらけの一括廃棄など)の未発見 ③城正面にあたる東側斜面の構造 ④大庭城の範囲【参考文献】・宇都洋平 2018『神奈川県藤沢市 大庭城跡ー1968年~ 1971年の城郭に関連する発掘調査 の記録』藤沢市教育委員会・宇都洋平ほか 2021「神奈川県藤沢市 大庭城跡Ⅱー第24次・第25次発掘調査報告書ー 藤沢市教育委員会・黒田基樹2004「扇谷上杉氏と太田道灌』岩田書院・杉山 博ほか1972『藤沢市史 第四巻 通史編』藤沢市・貴 達人ほか1981『茅ヶ崎市史 4 通史編』茅ヶ崎市・湯山学1979「藤沢の武士と城ー扇谷上杉氏と大庭城ー』名著出版・郷土歴史課 2019「く開催報告〉平成30年度大庭城関連イベントについて」 『藤沢市文化財・調査報告書 第54集』藤沢市教育委員会そして「大庭城-その役割と衝撃の真実」の受講が終了し、多くのことを学び終えて1階に下りる。1階プロムナードでは10:40になり「第2回 いきいき応援フェアー」の開会式が始まっていた。藤沢市長・鈴木恒夫氏の開会挨拶もあった。藤沢市役所を出て振り返る。現在藤沢市の人口は5月1日現在・443,910人、世帯数207,606世帯 と。6月10日付け「広報 ふじさわ」 アート展覧会開催中麻生知子と武内明子の個展と「ワタリドリ計画」展を開催中。・130点以上の作品展示、絵本原画や日常をテーマにした作品を紹介。期間は6月13日から8月23日、無料、SNSて公開制作も実施 と。私と親しい方の奥様の作品展示会です。是非、ご鑑賞を!!場所はJR辻堂駅前の「ココテラス湘南」の6F・「アートスペース」です。 「藤沢市役所 分庁舎」前にある「藤沢メダカ池」に立ち寄る。 「藤沢メダカ池と水辺の植物実業家・故池田恵三郎氏(1895~1975年)は、1957年初夏、愛孫 博紀氏(現当主)にせがまれ、はす池から湧き出る湿田・小川で何万年も生き抜いたメダカを集め、観賞用の庭池に放ちました。その「はす池メダカ」を恵三郎氏の長男故池田正博氏(1925 ~2013年)が大切に守ったメダカたちが「藤沢メダカ」のルーツです。池の周りには、藤沢で少なくなってきた湿性植物も植えました。」 「藤沢メダカ日本のメダカは一種でしたが、近年、北日本にすむキタノメダカ、西日本にすむミナミメダカの二種にわけられました。「藤沢メダカ」はミナミメダカのうち、古くから藤沢にすんでいたグループです。」 「藤沢メダカ池」メダカの姿を探したが・・・?? 池の周りの広場には様々なアジサイの花が。紫のガクアジサイ。ズームして。半夏生(はんげしょう)。水辺に群生する白の斑がたいへん美しい涼しげな植物。「半夏生」の名は、夏至から11日目を半夏生(ハンゲショウ)と呼び、その頃に花を付けることから名付けられたそうです。葉っぱの半分ほどが真っ白な白粉を塗ったような様子から「半化粧」とも呼ばれます。開花と同時に花穂のすぐ下の葉が白く変わります。白くなる面積は個体差がありますが、半分くらい~9割ほどで、葉っぱ全体が真っ白くなることはありません。花が終わる頃には葉っぱは緑に戻ります。なんとも不思議で神秘的です。半夏生は虫媒花であるため、葉を白くして虫に花のありかを知らせるためではないかと言われているそうです。全国各地に群生地や名所があり、京都祇園の両足院、鎌倉の鎌倉中央公園、淡路島の淡路島国営明石海峡公園など、見ごろの時期にはたくさんの人で賑わいます とネットから。そして、「明月院ブルー」と呼ばれている色のアジサイの花をカメラで追う。咲き始めの花は、淡い乳白色の花びらの先にかすかな、やがて時を重ねるにつれ、その青は深みを増し、空の青とも海の青とも異なる、どこか神秘的な藍色へと変わっていく。丸く寄り添う無数の花びらは、一つひとつが小さな星のようでありながら、全体としては青い月を思わせる優雅な姿を形づくっている。柔らかな緑の葉に抱かれたその花姿は、梅雨の曇り空の下でも不思議なほど明るく、見る者の心を静かに潤してくれる。青をまとい、まるで朝霧の中から月明かりがにじみ出るような優しい色合いを見せる。一輪に目を向ければ繊細な美しさがあり、群れて咲けば青のグラデーションが織りなす幻想的な景色となる。淡青から群青へ、そして紫を帯びた深い青へと移ろう色彩は、まるで日本人が愛してやまない梅雨の情景そのもの。カメラのレンズ越しに見つめると、その青は単なる色ではなく、雨に洗われた空気の透明感や、静寂に包まれた古寺の佇まい、そして過ぎゆく季節への名残までも映し込んでいるように感じられるのであった。そしてこれが、以前に撮った「明月院ブルー」と呼ばれているアジサイの花。青の記憶を胸に、今日の「学びの散策」を終えて帰路へと。 ・・・もどる・・・ ・・・FIN・・・
2026.07.02
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この日は6月6日(土)、我が藤沢市主催の「第2回いきいきシニア応援フェア」に参加。豊かなセカンドライフのヒントがここにある!人生の後半戦をもっと楽しく、いきいきと過ごすヒントが見つかるイベント「第2回いきいきシニア応援フェア」 を開催します。ボランティア、地域活動、健康など幅広い活動内容の15団体の参加が予定されております。また、午前と午後に「豊かなセカンドライフのヒント」となる4つの講演会、各種無料相談、体験もあります と。「人生100年時代、思った以上に長いセカンドライフを豊かに過ごすため、自分にあったライフプランを考えてみませんか?生活する上で気になることを解決し、「学ぶ・遊ぶ・趣味を広げて頭の体操を!」、「身体をもっと動かして、心と身体をイキイキと!」、「ボランティア・就労で時間を有効に!」をキーワードに活動のヒントを見つけるイベントを開催します。」 と。裏面。そしてこの日の「講演会」に参加したのであった。 「【講演会】5階会議室・1階サテライト9 : 20 ~ 10 : 30「大庭城ーその役割と衝撃の真実」 講師 郷土歴史課学芸員謎の多い大庭城ですが、最新の発掘調査成果を含め、これまでの研究成果からその真実に迫ります。」 参加人数は25名程度?であっただろうか。講師は藤沢市郷土歴史家 宇都洋平氏。写真はネットから。大庭城址公園の航空写真と宇都洋平氏。大庭城は、12世紀関東平氏の雄、大庭氏の拠を15世紀になって太田道灌が本格的に築造し、その後小田原北条氏が改修したと伝えられています。太田道灌は関東管領上杉家に仕え江戸城を築造したことでも知られています。周辺に、駒寄、裏門、二番構(にばんがまえ)などの地名が残っているところからも当時の雄大な城が偲ばれます。今は周囲の景観も一変してしまいましたが、引地川、小糸川に挟まれた小高い大庭城址から、当時の新田「大庭御厨」を展望すれば気分はタイムスリップ!大庭城址公園は、指定管理者「公益財団法人藤沢市まちづくり協会・藤沢市緑化事業協同組合グループ」が維持管理をしています と。「大庭城址公園 イラストマップ」 「大庭城址公園」の航空写真。写真上方向が北側である。イラストマップを回転して航空写真と同じ方向に。大庭城址公園は、藤沢駅から北西に約4km、市の中心を南北に流れて相模湾にそそぐ引地川沿いの大庭の地にあります。この地は古くから人々に大庭城山と呼ばれ、城址としての歴史性とともに、緑の山として親しまれてきました。大庭城址公園はその特性を生かして昭和60年3月に供用を開始した広さ約12.6haの総合公園です。主な施設としては、大芝生広場、チビッ子冒険広場、休息広場、館址広場、花の広場等があり、フジ棚のパーゴラや複合遊具、四阿等も設置されています。園内にはウメやツツジ、バラ、アジサイなどの花木の他、ソメイヨシノを中心とした300本以上のサクラが植栽されており、お花見の時期には大変賑わいます と。説明入りのマップをネットから。このマップの説明は後ほどに。当日、配布された資料を順次写真でアップいたします。「大庭城ーその役割と衝撃の真実ー1 .「石の城」と「土の城」・石の城:石垣と天守閣・土の城:土塁と堀 →関東において本格的な「石の城」の登場は、天正18年(1590)の石垣山城 石の城「熊本城」。熊本城(別名:銀杏城)は、加藤清正が1607年(江戸時代)に完成させた「石垣の城」。敵を寄せ付けない急勾配の「扇の勾配」や、時代ごとの積み方が並ぶ「二様の石垣」など、日本屈指の石垣技術が有名。2016年の熊本地震から復興が進められています。講師は、熊本城、松山城、姫路城、松山城、亀山城の写真を紹介。「大庭城 イメージ図」 大庭城は熊本城や小田原城のような石垣の城ではない。丘陵地を削って平坦な曲輪(くるわ)を造り、その周囲に深い空堀や急斜面を設けて守りを固めた「土の城」である。図を見ると、本郭・二郭・三郭・四郭が複雑な空堀で区切られ、敵の侵入を防ぐ工夫が随所に見られる。大庭城は石の城ではなく土の城である。石垣の代わりに土塁と切岸、空堀を巧みに組み合わせ、自然の丘陵そのものを巨大な要塞へと変えていた。中世武士の知恵と土木技術の高さを実感させる城である。土の城「山中城」。山中城は、戦国時代末期の永禄年間(1558〜1570年)に、小田原に本拠を置いた後北条氏(北条氏康)によって築かれたとされています。 堀・土塁の構造。土塁は、土を盛って固めて敵の侵入や攻撃を防ぐ施設ある。「土の城」は、主に平安時代末期から戦国時代にかけて(12世紀〜16世紀末)に日本各地で築かれた城の形態。天守閣や総石垣を持たず、土塁(土の壁)や堀、切岸などを巧みに組み合わせて防御力を高めたのが特徴。土塁は堀を彫った時や曲輪を掘り出す時に出る土砂を利用して造られる。「曲輪」のイメージ図。山城を築城する際には、斜面を平たく削って余った土を土塁として積み上げたり、曲輪を造成する時には周囲を削り込み、直角に近い切岸に仕上げるという工夫が見られた。 『土の城は簡単に攻略できるのか…?土の城を歩いている時、こんなふうに思ったことがある人はたくさんいるのでは?「この堀、簡単に越えられるけど……こんなのでホントに敵を防げたのかな?」と! 山中城で出会う土づくりの空堀の多くが、フチは丸いし傾斜はゆるい、何よりあまり深くもない、という姿。こう思ってしまうのも当たり前なのです。一見するとしっかりと残っている遺構でも、そもそも土の構造物であるゆえに、使われなくなってから雨ざらしで400〜500年も経っているのです。崩れたり埋まったりしていて、現役だった時の姿とはかなり違っていると思わねばなりません。堀の形、気候、廃城後の土地の使われ方などによって差はあれど、だいたいどの堀も最低で人の背丈ほどは埋まってしまっている(!)といいます。特にV字型の薬研堀は、底が狭いから埋まるのも早くなります。この情報だけでも、足元にあるダラ〜ンとした堀が急に恐ろしく見えてきませんか? そう。土の城の堀をナメてはイカンのです。しかも、堀のフチの部分だってもっとググッと立ち上がっていて、そのぶん角度も今よりずっと急で切り立っていたのです。そして、その両フチに高低差があることも多いといいます。低い方の城外側のフチに立って向こう側のフチが数mも高ければどうでしょう。同じ堀幅でも迫力と防衛力が全く違ってきますよね。甲冑をつけていたらもちろん、平服でも飛び越えられるシロモノではないでしょう。実戦の場合はなおさら。堀の向こうに柵や盾などが並び、その後ろには弓や槍を構えた兵たちがこちらをにらんでいるのですから。さらに、堀の土には草など生えておらず、しっかり突き固められているゆえに、底に落ちてしまったら最期、とっかかりもなく、はい上がることなど不可能です。関東ロームなどの粘土質の土ならなおさら、ツルツルすべって蟻地獄のような苦しみを味わうことになってしまいます。そこに上から城兵たちによる攻撃が加わることを想像すると……ムリムリ!。とネットから。』2.現在に伝わる大庭城のイメージ①もとは大庭景親の館。平安時代には一帯は、大庭御厨(おおばみくりや)と称して広大な神宮(伊勢神宮)の寄進型荘園だった地(範囲は現在の藤沢市南半部から茅ヶ崎市全域)。御厨とは、「御」(神の)+「厨」(台所)で神宮への神饌を調進する場所でした。もともとは、相模国鎌倉を領有した平景正(たいらのかげまさ/鎌倉景正)が開発し、神宮に寄進した御厨でしたが、天養元年(1144年)9月、源義朝(みなもとのよしとも=頼朝、義経の父)の大庭御厨濫行事件(大庭御厨乱入事件)など、徐々に源氏の支配下に移りますが、鎌倉時代には相模国最大の御厨に発展しています。大庭城は、神宮に荘園(御厨)を寄進した平景正(鎌倉景正)が大庭氏を名乗って大庭景宗(おおば かげむね)が築城(大庭城は、大庭御厨が消滅した後の築城です)。「大庭の舘(たて)」とも呼ばれ、景親らの軍事拠点として重要な役割を果たしたと想定される。大庭景親(おおば かげちか)👈️リンクは、2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』において、國村隼さんが演じた相模国の有力豪族。平家方の武将として源頼朝の挙兵を阻み、石橋山の戦いで頼朝軍を撃破するなど、初期の頼朝最大の強敵として圧倒的な存在感を放ちました。石橋山の戦いで源頼朝に勝ったものの、一族のほとんどは筑前(現在の福岡県)に渡ってしまうが景親は最後まで抵抗し、捕らえられ斬首される。その後兄の大庭景義の子である大庭景兼(小次郎景兼)が和田合戦にまきこまれ大庭氏は滅亡したとされていたが、現在では、筑後(現在の福岡)に逃れたという説が有力とされている。大庭氏の子孫および一族の存続を示す具体的な記録の一つとして、相模国の大庭三郎景連が備後の新庄本郷に地頭として任命され、建保元年(1213年)、当地で築城した事例がみえる。のち大場氏と称した。②室町時代、太田道灌が城として改修。230年ほど経った戦国時代・室町時代中頃(15世紀後半)には、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が大々的に改修、築城したとされている と。太田道灌は、戦法にことのほか長じていたといわれる。その1つは築城術で、その方法は、曲輪式築城法と呼ばれ、江戸時代の兵法家から「道灌かがり」と呼ばれたものである。平城と独立した曲輪を核に、曲輪と曲輪の間に深い濠をめぐらす縄張りで、近世城郭の祖型となったものである。室町時代の記録を見る と大庭城と大庭景親の居館は別々の場所であることが記されている。大庭城は扇谷上杉氏 の相模国東部における拠点として機能し ていたと考えられる。③伊勢宗瑞々(北条早雲)により攻め落とされる。築城と役割: 15世紀後半、扇谷上杉氏の相模国東部における重要拠点(大庭御厨の中心)として 機能していた。早雲による攻略: 永正9年(1512年)、小田原を拠点に勢力を拡大していた伊勢宗瑞 (北条早雲)が上杉朝長を攻め、この城を落城させた。その後、早雲自身の 支配下で改修されたと伝えられている。大庭城について『新編相模国土記稿 大庭城蹟』より『新編相模国風土記稿』は、江戸幕府の昌平坂学問所地誌調所によって編纂された相模国の地誌。・編纂開始:文政7年(1824年)成立・完成:天保12年(1841年)「(前略)土人傳て大庭三郎景親の居城なり。後太田道灌暫時居城とし、北條氏の頃はその旗下某在城せりと云う。(中略)修理大夫朝良の時、永正九年北条早雲により攻略さる。是より北倏氏の持城となる。」・現代語訳「地元住民が伝えるには大庭三郎景親の居城である。のちに太田道灌がしばらくの間居城とし、小田原北条氏の頃は名前が分からないが、その配下が在城していた。(中略)扇谷上杉朝良の時、永正九年に伊勢宗瑞(北条早雲)により攻略された。これより以降は小田原北条氏の持城となった。」 大庭城 戦国時代 考証 西保総生 2019「歴史群像155」より扇ヶ谷上杉氏が山之内上杉氏との抗争時に築き、最終的には伊勢宗瑞(北条早雲)が攻略したとされる。 関東に多い台地の先端部を利用する城だが、 横堀を重ねた厳重な守りが特徴。3.文献と考古学から再認識される大庭城・大庭城研究の画期:湯山 学『藤沢の武士と城ー扇谷上杉氏と大庭城』 →これによりこれまでの伝承と史実が整理される。湯山 学『藤沢の武士と城ー扇谷上杉氏と大庭城』。武士が城を築いて割拠した争乱のころの藤沢を、はじめて室町時代を中心に実証的に描く労作。学習のため、この本をネットで購入しました。文献に記録された大庭城。①『玉隠和尚語録』:大庭城が機能していた時と同時代の資料『玉隠和尚語録(ぎょくいんおしょうごろく)』は、室町時代の建長寺の僧侶・玉隠が記した文献。大庭城(現在の神奈川県藤沢市)の歴史や大庭氏の居城に関する記述が残されており、大庭城の実像を知る上で最も重要な史料の一つとされています。・大庭氏の居館との区別: 1499年に記された記録の中で、「大庭城」と「源平合戦で有名な 大庭三郎景親の居館(大庭氏の居城)」は別のものであることが言及されています。 「(前略)一人〔朝昌〕大庭堅其塁、大庭氏館此去不遠(後略)」 実際の景親の居館は、大庭城から少し南の場所、現「芙蓉カントリー倶楽部」北側近く 「宗賢院」👈️リンク 付近にあったと推測されているとのこと。・上杉持朝の子息の記述: 明応8年(1499年)9月6日の父・持朝の33回忌法語が記録されており、 その中で持朝には7人の男子があり、 そのうちの1人が大庭城を守っていたことが記されています。・史料の所在: 現在、『玉隠和尚語録』は東京大学史料編纂所所蔵の写本と、鹿王院所蔵の 写本の 2本が知られています。「玉隠和尚語録 謄写本」(室町時代、原本所蔵:東京大学史料編纂所、複製)②「豆相記』:江戸時代初期成立(1600年前後)、「(前略)扇谷築城於相州大場而居之、後移河越城云々(後略)」「扇谷(扇谷上杉氏)が相模国の大場(大庭:現在の神奈川県藤沢市)に城を築いて 居城としたが、後に河越城(川越城:現在の埼玉県川越市)へと移ったと伝えられている」 という意味 と。③「諸国城主記』(江戸時代・19世紀写)「(前略)永正九年北條早雲、小田原の城を打取、大庭の城を責落とす云」とあると。 永正9年(1512年)、北条早雲(伊勢宗瑞) が扇谷上杉氏の拠る「大庭城(神奈川県藤沢市)」 を攻め落とした と。 ④『浅羽本上杉氏系図』(17世紀中葉(江戸時代初期) 扇谷上杉朝興(朝昌の孫 扇谷上杉の嫡流の養子となる)に「大庭又五郎」の注記が あることを指摘。大庭城に在城していた と。さらに発掘調査詳細報告書・大庭城跡 ー1968年~ 1971年の城郭に関連する発掘調査の記録ー 2018 藤沢市教育委員会・大庭城跡Ⅱ ー第24次・第25次発掘調査報告ー 2021 藤沢市教育委員会により、大庭城の研究が進み大きな研究成果が生まれた と。4.大庭「城」という名称と城主当時は「〇〇要害」や「〇〇陣」という名称が多い。・「要害」と「陣」の違い 要害:時間的にやや長く使用する防御施設。 陣:一時的に使用する防御施設。 →「称名寺造方同陣勘定状」では「大庭陣」。よって大庭陣か大庭要害。 当時は「大庭城」とは呼ばれていない。 ・大庭城の城主で確実なのは扇谷朝昌のみ。息子の朝寧も息子・朝興の仮名から大庭城に在城か。 →長享二年(1488)の七沢要害陥落以降は浅昌・朝寧親子が城主の可能性。大庭城は、主に以下の大庭氏、扇谷上杉氏、後北条氏が拠点として治めました。■大庭氏(平安末期〜室町時代) ・大庭景宗:築城者とされる。 ・大庭景親:平安時代末期の武将。城周辺一帯(大庭御厨)を本拠地とし、源頼朝と戦った (石橋山の戦いなど)。■扇谷上杉氏(室町時代末期〜戦国時代初期) ・太田道灌:扇谷上杉氏の家宰。大庭城を大規模に改修し、相模国東部における重要拠点とした。 ・扇谷上杉朝昌:相模国守護職にあった上杉氏の一門で城主を務めた。 ・上杉朝良:のちの城主。北条早雲(伊勢宗瑞)の侵攻に対し籠城戦を展開した。■後北条氏(戦国時代〜安土桃山時代) ・北条早雲(伊勢宗瑞): 永正9年(1512年)に大庭城を攻略・改修し、自身の勢力下においた。 その後、玉縄城(鎌倉市)が築かれると役割を譲った。 大庭城については、発掘調査や史料研究の結果、「誰が城主だったのか」が時代によって 異なり、必ずしも全てが確定しているわけではありません。 しかし、現在の研究で考えられている歴代城主は次のようになります と。・・時代・・・・・・・・・・城主・支配者・・・・・・・・・・備考平安末期~鎌倉初期・・大庭景親(大庭氏)・・・古くから「大庭景親の居城」と伝えられてきた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ただし現在残る城郭遺構は戦国時代のもので、・・・・・・・・・・・・・・・・・・。・・・・景親時代の城と同一かは不明。室町時代後期・・・・・太田道灌が築城・改修・・大庭氏ゆかりの地に、本格的な城郭として・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・整備したと伝わる。15世紀末・・・・・・上杉定正・・・・・・・・・扇谷上杉氏の相模国支配の拠点。16世紀初頭・・・・・上杉朝良・・・・・・・・・定正の子。大庭城を居城としたと伝えられる。1512年以降・・・・・北条早雲(後北条氏)・・・ 永正9年(1512)に攻略。以後は後北条氏の・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・持城となる。戦国時代中期・・・・・後北条氏・・・・・・・・東相模支配の拠点として利用されたが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・後に玉縄城の整備により重要性が低下。1590年頃・・・・・・・廃城・・・・・・・・ ・豊臣秀吉の小田原攻め後に廃城になったと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・考えられる。扇谷上杉氏略系図戦国時代に入り、大庭城は扇谷上杉氏の拠点となった。上杉定正:上杉定正(嘉吉3年(1443)又は、文安3年(1446)~明応3年(1494))は、 扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の当主で、相模国守護。 上杉氏は、藤原氏北家勧修寺流の流れを汲む貴族の出で、重房の代に鎌倉へ下り 丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉町付近)を得て武士となり、 足利氏に仕えました。 扇谷上杉氏は、室町幕府を開いた足利尊氏の母方の叔父・重房を祖とし、鎌倉の 扇谷に屋敷を構えたことから扇谷上杉氏の家名が興りました。上杉朝良:定正の子。大庭城を居城としたと伝えられる。北条早雲が1512年に大庭城を攻め落とした際の城主は、扇谷上杉氏の上杉朝良(うえすぎ ともよし)です。当時は周囲の沼地を利用した堅固な城でしたが、早雲に攻略された後は後北条氏の支配下となりました。 「大庭城と扇谷上杉氏関連年表・年号・・・・西暦・・・・・・・・・・・・・・主な出来事享徳元年・・1452・・・・・・・この頃までに、扇谷上杉氏が大庭御厨を所領とする。寛正六年・・1465・・・・・・・伊勢神宮、大庭御厨からの年貢未進を扇谷上杉氏の家臣・・・・・・・・・・・・・・・ 太田道灌に訴える。・文明元年・・1469・・・・・・・伊勢神宮の荒木田氏経、大庭御厨代官の出口氏・室田氏により //////////////////////////////////年貢が横領された旨を、太田道灌に訴える。長享二年・・1488・・・・・・・扇谷上杉朝昌、山内上杉氏との合戦に敗れ、守備していた//////////////////////////////////七沢要害(厚木市)を放棄し、大庭城へ移る。明応八年・・1499・・・・・・・『玉隠和尚語録』に大庭に城郭が存在していた記述がある。永正九年・・1512 ・・・・・・ 伊勢宗瑞(北条早雲)、扇谷上杉方の城を攻撃し、岡崎城・・・・・・・・・・・・・・・ (伊勢原市・平塚市)や大庭城が落城。永禄二年・・1559・・・・・・・玉縄北条氏の一族と考えられる福島左衛門が玉縄衆として・・・・・・・・・・・・・・・ 180貫文で大庭を知行。(『小田原衆所領役帳』より)4.大庭「城」という名称と城主 ・当時は「○○要害」や「○○陣」という名称が多い。・「要害」と「陣」の違い →称名寺造方同陣勘定状」では「大庭陣」。よって大庭要害か大庭陣。・大庭城主で確実なのは扇谷朝昌のみ。息子の朝寧も息子・朝興の仮名から大城庭に 在城か。 →長享二年(1488)の七沢要害陥落以降は朝昌・朝寧親子が城主の可能性。5 .大庭城の役割・相模国における扇谷上杉氏の所領 中郡・東郡:直接支配地 →支配拠点は糟屋館(伊勢原市)。北の備えは七沢要害(厚木市)。守護代は真田要害 (平塚市)か。 西郡:大森氏 御浦郡:三浦氏 奥三保:内藤氏「扇谷上杉氏の支配範囲と拠点(イメージ)」。 6.発掘調査で確認された大庭城の防御施設①堀令和8年4月現在、発掘調査で確認された堀は25本。竪堀(等高線に垂直に走る堀):7本 [箱堀:3本 薬研堀: 3本 不明: 1本〕横堀(等高線に平行に走る堀):7本 [箱堀:3本 薬研堀: 3本 不明: 1本〕区画の堀: 6本〔箱堀: 3本 薬研堀: 3本〕→堀が2種類あるのは時期差と考えられ、少なくとも大庭城は1回以上改修工事が 行われたと考えられる。大庭城跡で検出された堀(宇都ほか2021より) 太線黒色ーーー発掘調査で確認された堀 太線灰色ーーー等高線から存在が確認できる堀「薬研堀」と「箱堀」の図。 「薬研堀」:薬をすりつぶす器具「薬研(やげん)」のように断面がV字形をした堀の形状「箱堀」:凹型にくり抜いた物を意味する。堀の底に平面状の部分があるのが特徴で、 底から見たときに両サイドの壁が高い。これが「薬研」。江戸時代の医家が使っていた伝統的な道具「薬研」。生薬(漢方薬)やスパイスなどを、すり潰して粉末にするための伝統的な道具。舟形のくぼみを持った台(薬研)と、車輪状の押し回し器(薬研車)で構成されており、前後に動かして材料を細かく砕きます。 再び「堀」の位置、形状の解る「大庭城 イメージ図」を。 発掘調査でみつかった大庭城の防御施設②馬出状遺構・8号堀を中心とした周辺の堀で構成される。 →馬出は戦国時代後期に多用される防御施設。大庭城は戦国前期の城館であること から、仮に小田原北条氏時代の改変がなければ、北条や武田に先んじて扇谷上衫氏が 馬出を造ったことになる。「大庭城跡調査地点(宇都ほか2021より)」。 ・・・つづく・・・
2026.07.01
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さらに「大清水境川アジサイロード」を「境川」の下流方向に向かって歩く。しばらくは「キャプション(caption)」なしでアジサイの美しさをお楽しみ下さい。「キャプション(caption)」とは、写真やイラスト、動画などの視覚的な素材に添えられる「説明文」や「タイトル」のことです。 そしてここにも学校の正門があった。「藤沢市立大清水中学校」。 そして下流側には「鷹匠橋(たかじょうばし)」が現れた。 欄干には半透明ガラスにスミレとチョウを描いた洒落たステンドガラスの如き絵が飾られていた。廻り込んで橋上から近づいて。上流側を見る。下流側に見えたのが国道1号・藤沢バイパスの「境川大橋」 構造種別:1径間鈑桁 河口からの距離:6.4km 橋の長さ:36m 有効幅員:16m 完成:1961年(S36)右奥手前の一部が見えた建物が「藤沢市民病院」。「鷹匠橋」の欄干には同テーマ・スミレの花?の造形作品も。近づいて。「鷹匠橋」。徳川時代に将軍が鷹狩りをする目的で、藤沢御殿が造られた。現在の藤沢市民病院の側であった。その関係で、藤沢の辺りには鷹匠も住んでいたと。市民病院北東の境川にかかる橋は、『鷹匠橋』と名付けられているのだ。歴史を感じさせる橋名。藤沢市内にはもう一つの「鷹匠橋」がある。こちらは「伏見稲荷大社」に向かって進むと引地川に架かる橋であり「大場鷹匠橋」と呼ばれているのである。よって正確には「鷹匠橋」はこの橋のみなのであるが。 ・構造種別:1径間PC桁 ・河口からの距離:6.5km ・ 橋の長さ:33.5m ・有効幅員:11m ・ 完成:1990年(H2)下を流れる川は横浜市との市境になっている「境川」。「鷹匠橋」から「境川」の上流側を見る。境川に架かる鷹匠橋(たかじょうばし)の名前の由来は、江戸時代にこの一帯が徳川将軍家の鷹狩り(たかがり)の場所であったことに関係すると考えられているのだ。・鷹匠とは 「鷹匠」とは、将軍や大名の鷹狩りに用いる鷹を飼育・訓練し、狩りを補佐する専門職。・藤沢御殿との関係 現在の藤沢市民病院付近には、江戸時代に徳川将軍家の休泊施設である「藤沢御殿」が ありました。藤沢周辺は広い田畑や湿地が広がり、鷹狩りに適した場所だったため、将軍が 訪れて鷹狩りを行ったと伝えられています。これに伴い、鷹匠たちもこの地域に居住・活動 していたとされます。・鷹匠橋の命名 鷹匠橋は、境川の左岸の大鋸(だいぎり)地区と右岸の白旗地区を結ぶ橋ですが、 その橋名は、この地域に残る鷹狩りや鷹匠の歴史を記念したものと考えられています。 境川の橋を紹介した資料でも、「御殿橋付近に徳川将軍家の御殿や陣屋があり、鷹狩りの場 であったことが橋名の由来らしい」と記されています。現地を歩くと鷹匠橋のすぐ下流には御殿橋があり、「御殿」という名称自体が藤沢御殿の存在を今に伝えている。また周辺には「陣屋橋」「陣屋小路」など、江戸幕府ゆかりの地名も残っているのだ。下流側を見る。藤沢バイパスの先に大きな建物が現れた。「藤沢市民病院」をズームして。 「聖園女学院高等・中学校」をズームして。今年の2月にこの児童養護施設「聖園子供の家」に、米大リーグ・ロサンゼルス・ドジャースの山本由伸投手がサプライズ訪問したのだと。敷地を同じくする聖園女学院中学校・高等学校の生徒たちにとっても、地元でのビッグなニュースとして話題になっていたのであった。そして車に戻り帰路に。民家の庭先の「ガクアジサイ」。淡い紫が美しかった。そして帰路の道路沿いのアジサイ。八重咲きのピンクのガクアジサイ。緑のアジサイ。こちらも「アナベル」という品種でもう少しすると白いきれいな花色になるらしい。こちらは、既に純白のアジサイ。鎌倉・明月院の「明月院ブルー」に似て。民家の横の畑の道路沿いにも。「カシワバアジサイ」も。 カシワに似た形の5~7つに深く裂けた葉、円錐形の花房が特徴的なのが、カシワバアジサイ。花だけではなく、秋の紅葉も美しく、長期間観賞できるアジサイなのだ。そしてこの日に訪ねた近くの「わいわい市」にあった変わったアジサイ。今年も早朝約2時間のアジサイ鑑賞なのであった。このブログを書きながら、ふと『日本人がアジサイを特別に愛する理由は、単に花が美しいからだけではなく、日本の風土や感性、さらには人生観とも深く結びついているのでは』と。1. 梅雨を彩る花だから桜が春を代表する花なら、アジサイは梅雨を代表する花。雨の日が続く梅雨は、どうしても気分が沈みがちです。しかしアジサイは雨に濡れるほど美しさを増すのだ。・雨粒をまとった花・しっとりとした色彩・曇り空に映える青や紫日本人は古くから、「雨を恨むのではなく、雨の中の美しさを見つける」という感性を育んで来たのであろう。アジサイはその象徴ともいえる花!!。2. 色が変化する花だからアジサイは土壌の性質によって、・青・紫・ピンク・赤紫へと色を変える。さらに開花から散るまでの間にも色が移ろいます。この姿は、「諸行無常(すべては移り変わる)」という日本人の美意識に重なるのだ。桜が「散る美しさ」なら、アジサイは「移ろう美しさ」を表しているのだ。3. 派手すぎず、奥ゆかしいバラ(薔薇)やラン(蘭)のような華やかさではなく、・柔らかな青・淡い紫・優しい桃色といった控えめな色彩が特徴。日本人が好む・わび・さび・奥ゆかしさにも通じている。4. 寺社との相性が良い鎌倉や箱根などの寺院では、アジサイがよく植えられている。例えば、・明月院・長谷寺・箱根神社 周辺などでは、苔や石段、古木とアジサイが調和し、日本的な景観を作り出している。静寂な空間に咲くアジサイは、日本人の心を落ち着かせてくれる花。5. 身近な花だからアジサイは特別な庭園だけでなく、・民家の庭先・学校・公園・川沿い・線路沿いなど、どこでも見られます。豪華な花ではないが、「毎年必ず会える花」として人々の暮らしに寄り添っているのだ。日本人の心との共通点アジサイを愛する理由を一言で表すなら、「変わりゆくものの美しさを感じる心」にあるのでは!?。雨に打たれても咲き続け、日ごとに色を変え、やがて静かに季節を去っていく――。その姿は、日本人が古くから大切にしてきた「もののあわれ」の世界そのもの。まさにアジサイは、日本の風土と日本人の心が育てた花と言えるのだ とも。最後に日本人の心・『紫陽花・花手水』の写真をネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・おしまい・・・
2026.06.30
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この日は6月4日(木)、5時半過ぎに目が覚め起床。雨が降っていなかったので、車で10分ほどの場所にある「大清水境川アジサイロード」に再び向かう。藤沢市大鋸を流れる境川の両岸に植栽されているアジサイ。大清水橋から鷹匠橋までの約400メートルは、「大清水境川アジサイロード」と呼ばれている。地域住民が自宅の庭などで育てたアジサイを植栽したもので、毎年、アジサイ祭が開催されている。早朝なので、交通量はほとんど無いので道路脇に車を駐め散策開始。振り返って「大清水橋」を見る。 「大清水橋」橋銘板。右手の上流側に見えたのが「横須賀水道路境川水管橋」海老名市社家の相模川から有馬浄水場経由で田浦配水池へ送水される有馬系統の導水管であると。以前は半原系統の導水管(φ500)も敷設されていたが、需要減少、水質悪化、施設老朽化などに伴い2007年(H19)に取水が停止され、2015年(H27)に系統と共に撤去されたのだと。 構造種別:1径間三弦トラス(1個のトラス構造で上弦材1本と下弦材2本の三角形構造) 河口からの距離:7.1km 橋の長さ:約57m 水管径:φ1000 完成:不明「大清水橋」から下流側を見る。正面に「藤沢市民病院」の建物の姿が。「藤沢市民病院」は昨年度と同様、新型コロナウイルス感染症対策の医療提供体制「神奈川モデル」の高度医療機関として重症患者の入院治療を中心に診療を行っているのだ。同時に中等症患者を受け入れる重点医療機関の協力病院として、コロナ陽性の中等症患者の入院治療も行っているのだ。そしてアジサイの「七変化」を楽しみながら進む。「アジサイは咲き始めは白っぽく、開花が進むにつれ、淡い色から濃い色へ濃淡や色が変化していくため、別名「七変化」とも呼ばれます。一般的に、土壌の酸度によっても花の色が変わり、酸性だと青寄り、アルカリ性だと赤寄りの色になります。日本は元々酸性土壌なので、赤色品種のアジサイでも庭に植えると、次第に赤紫色に変化。鉢植えでも、根酸(根から分泌される酸)の影響で土が次第に酸性になり、同様のことが起こります。色鮮やかな赤色を維持するには、土に石灰をまいて、土をアルカリ性に傾ける方法があります。なお、青紫色のアジサイに石灰をまいてもきれいな赤色にはなりません。青紫色のアジサイは酸性の土壌で鮮やかな色が出る、日本の風土に合った花木と言えます。」とネットから。色の「七変化」をカメラで追う。アジサイ(紫陽花)の別名には、こんなものがあるのだと。 ●七変化(しちへんげ):七変化とは、咲き始めてから時間が経つにつれ、色を変えこと からついた別名 ●四片・四葩(よひら):「花びら(正確にはガク)が四片あること」からつけられた名前 ●手毬花(てまりばな):丸く集まった装飾花の形から ●オタクサ :この名は、シーボルトの美しき恋心から生まれた名前。 1823年、長崎に渡来したドイツ人医師シーボルト。 植物研究にも情熱を注ぎ、とりわけ紫陽花に夢中になった。 ●刺繍花(ししゅうばな):手毬花と同じく、刺繍に見立てる。 刺繍から連想するのは、西洋紫陽花ではなく山紫陽 ●八仙花(はっせんか):「七変化」と同じ。さまざまな色合いに変化することから 名づけられた名前「アジサイ」の語源ははっきりしないが、最古の和歌集『万葉集』では「味狭藍」「安治佐為」、平安時代の辞典『和名類聚抄』では「阿豆佐為」の字をあてて書かれている。もっとも有力とされているのは、「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」がなまったものとする説である。そのほか、「味」は評価を、「狭藍」は花の色を示すという谷川士清の説、「集まって咲くもの」とする山本章夫の説(『万葉古今動植物正名』)、「厚咲き」が転じたものであるという貝原益軒の説がある。日本語で漢字表記に用いられる「紫陽花」は、唐の詩人白居易が別の花、おそらくライラックに付けた名で、平安時代の学者源順がこの漢字をあてたことから誤って広まったといわれている。とウィキペディアから。そしてこちらは「ガクアジサイ」。ガクアジサイとアジサイ(一般的に知られるセイヨウアジサイ)の最大の違いは「花の咲き方」。日本の在来種である「ガクアジサイ」は中央に小さな花が密集し、その周りを大きな花(装飾花)が額縁のように囲みます。一方、一般的な「アジサイ」は全体が手毬のように丸く咲くのです。・花(装飾花と両性花) 周りの花びらに見える部分は「装飾花(ガク)」で虫を惹きつけるための看板の 役割があり、中心の粒々が本来の小さな花「両性花」です。・花の色 土壌の酸度(pH)によって花の色が変わります。酸性なら青、アルカリ性なら赤〜ピンク系に なりやすい性質ある。・葉 濃い緑色で卵形をしており、表面にツヤ(光沢)があり縁にギザギザがあります。 触ると少しひんやりとした質感があります。・育てやすさ 一般的なアジサイに比べて日光や乾燥に比較的強く、育てやすいのが魅力。・花言葉 「謙虚」「控えめ」 再び「大清水橋」を振り返って。 「境川」の下流方向に進むと左手にあったのが「神奈川県立藤沢清流高等学校」の正門。 神奈川県立藤沢清流高等学校は、神奈川県立大清水高等学校と神奈川県立藤沢高等学校が統合し、2010年(平成22年)に創立・開校したのだ。そして、ここは、神奈川県藤沢市大鋸1450なのである。境川の左岸であるので、横浜市戸塚区と考えてしまうが、この場所から境川の上流へ400mほどの場所・西部水再生センターから南側の左岸が横浜市戸塚区から藤沢市に変わるのだ。そして昨日・6月28日のタウンニュースによると『県立高校改革実施計画に基づき、2027年4月に再編統合を予定している県立藤沢清流高校(大鋸)と県立深沢高校(鎌倉市手広)の統合後の新学校名を「藤沢東高校」とする、県立の高等学校等の設置に関する条例の一部改正案が、神奈川県議会6月定例会に提出された。7月13日(月)に同議会の承認を得て、正式に決定する。現在の藤沢清流高校の敷地や校舎が、同校に活用される。』と。「女子サッカー部 県大会優勝」、「関東大会出場 女子サッカー部」と。 再びアジサイ、ガクアジサイをカメラで追う。「関東大会出場 陸上競技部」 「平成16年度藤沢市まちづくり賞 受賞ここは、大清水小、中、高等学校がひまわりの苗1200本を植え、境川を美しく彩りました。その活動が、「第23回藤沢市緑と花いっぱい推進活動」において「まちづくり賞」を受賞しました。」 昔の「大清水高等学校」があった時の受賞なのである。 暫くは、キャプション(caption)なしで。再び、色の「七変化」をカメラで追う。 ・・・つづく・・・
2026.06.29
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ブログアップのタイミングが大きく遅れてしまいましたが、この日は5月31日(日)、5月になって2回目の満月を楽しむことができたのであった。1回目の満月は詳細な時間は5月2日(土)、午前2時23分とのことであった。我が部屋からの5月の最初の満月のカメラ撮影は5月1日(金)19:30。詳細の満月の7時間前の写真なのである。アメリカ先住民の伝統では「フラワームーン」と呼ばれているとのこと。アメリカの先住民族(ネイティブアメリカン)が、農業や季節を把握するために各月の満月に付けた名称の一つであると。アメリカの先住民族が、野山に多くの花が咲き誇る季節であることにちなんで名付けたとされている。日本では「花月」とも呼ばれ、春から初夏へのエネルギーを象徴しているのだ。2026年の満月 呼び方。こちらにも。「月の満ち欠け」月の満ち欠けは、「太陽・地球・月の位置関係の変化」と「月が太陽の光を反射していること」の2つが主な仕組みです。月は自ら光る星ではなく、太陽の光を反射して輝いています。常に半分が太陽に照らされて明るく、半分が影になっています。月が地球の周りを公転(約29.5日周期)するにつれて、地球から見える「太陽に照らされている部分」の角度や割合が変わるため、形が変わって見えるのです。主な月の状態と位置関係は以下の通りです。・新月(しんげつ): 太陽・月・地球がほぼ一直線に並ぶとき。地球からは月の影の部分しか 見えないため、肉眼では見えません。・三日月(みかづき): 新月から数えて3日目頃。月が少し東へ移動し、右側が細く光って 見えます。・上弦の月(じょうげんのつき): 新月から約1週間後。月の右半分が輝く半月になります。・満月(まんげつ): 地球を挟んで月と太陽が一直線に並ぶとき。月が太陽の光を正面から 受けるため、丸く全体が輝いて見えます。・下弦の月(かげんのつき): 満月から約1週間後。今度は左半分が輝く半月になります 同じ月に満月が2回起こる理由は、月の満ち欠けの周期(約29.5日)が暦の1ヶ月の日数(30日または31日)よりも短いため。このズレが積み重なることで、約2〜3年に1度の頻度で同じ月に2回の満月が発生するのだと。すなわち、詳しいメカニズムは■月の満ち欠けの周期: 月が新月から満月を経て、再び新月になるまでのサイクルは 約29.5日です。■暦の長さとのズレ: 2月を除く暦の月は30日または31日あるため、1ヶ月の「1日」や 「2日」に最初の満月がくると、その月の終わり(30日や31日)に 2回目の満月が巡ってくることがあります。このように1ヶ月に2回満月がある場合、2回目の満月は「ブルームーン」と呼ばれることがある。実際に月が青く見えるわけではなく、英語の慣用句「once in a blue moon(極めて稀なこと)」に由来しており、「めったに見られない幸運な現象」として知られているのだと。2026年5月の満月スケジュール回数・・・・日付・・・・満月の瞬間 ・・・・・・・・ 特徴・別名1回目・・・ 5月2日(土) 02:23・・・・フラワームーン(小ぶりな満月)2回目 ・・ 5月31日(日) 17:45・・・・ブルームーン、マイクロムーン(今年最も遠い満月)2026年 新月と満月早見表我が部屋の前の、専業農家のガラス温室に映り込む満月の光・月光。ガラス屋根をズームして。天空の満月と、地上の温室に宿った月。二つの月が静かに向かい合い、ガラスの屋根には銀色の光が揺れていた。夜の静寂だけが、その美しさを見守っていたのであった。そして2回目の満月を撮影。時間は5月31日(日)20時前。月はこの日5月31日(日)17時45分に満月の瞬間を迎え、翌日6月1日(月)13時33分に遠地点(地球から最も遠ざかる点)を通過したのだと。そして5月31日(日)の満月はマイクロムーン(最小満月)。ズームして。2026年 月の地心距離の変化と満月 地球から最も遠い満月(2026年5月31日)。月の公転起動。地球の周りを公転する月の軌道は楕円形で、月の軌道は太陽や地球などの重力を受けて変化しています。このため、満月や新月のときの地球と月の距離は毎回異なります。月と地球との距離は平均して38万4400kmほどですが、最も近づく時の距離はおよそ35.6万km、最も遠い時の距離はおよそ40.7万km。ちなみに地球と月が最も離れて小さく見える月を「マイクロムーン」や「ミニマムーン(ミニマムムーン)」と呼びますがスーパームーンは遠いときの「マイクロムーン(約40.7万km)」に比べて約14%大きく、30%ほど明るく見えることもあります。2026年満月の距離のちがい約5万kmの距離差。地球1周が約4万kmであるから地球1周+1/4周の距離差。そして円の見かけの直径は 距離に反比例 します。距離が2倍になると、見かけの大きさは1/2になります。距離が3倍になると、見かけの大きさは1/3 になるのです。よって40.6/35.7=1.137よって見かけの直径は1/1.137=0.88よってこの日のマイクロムーンの直径はスーパームーンの88%であるのです。よって光っている面積は0.88✕0.88=0.77→77%に見えるのです。こちらが解りやすかったか!?2026年以降のスーパームーンは2026年12月24日(火)、2027年1月22日(金)です。晴れていたら、ぜひ夜空に浮かぶ今年最大の満月をゆっくり眺めてみましょう。 ・・・完・・・
2026.06.28
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「境内案内」を再び。 「龍神水」。龍神水は、箱根神社と九頭龍神社の信仰に結び付いた霊水。九頭の龍の口から清水が流れ出ていた。これは九頭龍大神(くずりゅうおおかみ)を象徴しており、芦ノ湖の守護神である九頭龍大神の御神徳を表しているのであった。 何とか9頭の龍を入れて。こちらも9頭を。九頭の龍の意味九頭龍神社の御祭神は「九頭龍大神」。九という数字は古来、最大・完全を意味するめでたい数とされ、九つの頭を持つ龍は強大な神威を表している。九体の龍が一列に並び、それぞれの口から水が流れ出ているのであった。ズームして。「九頭龍神甘露の霊水箱根神社の龍神水境内より湧き出ずるこの霊水は箱根大神の鎮座す箱根山を源とし権現御手洗の池と称え奉り九頭龍神が御守護り給う芦の湖を湧き満たす龍神甘露の霊水である故に掌にうけて口を漱げば一切の不浄を洗い清め家の神棚に供へて用ふれば家内清浄縁起の養生となる。」 「九頭竜大神の成就水盤誓願符に起請文を記し龍神水に溶し流して誓願成就!」 誓願符を流す成就水盤。成就盤の右手に龍神水があった。「成就水盤」碑。「安産杉」を見る。 「安産杉の由来樹齢千年を超えるこの大杉は「安産杉」と呼ばれる御神木です。安産杉は昔から幸運の霊妙杉として崇められてきたもので、古来この大樹の根幹は健全なる毋胎の象徴とみなされて 子孫繁栄を祈る子授け 安産の杉と信仰され 武家や庶民の間で安産祈願は安産杉と 盛んにお参りが行われるようになりました。鎌倉幕府を開いた源頼朝は当神社をたいへん崇敬し 毎年「ニ所詣」(箱根伊豆ニ所権現の参拝)を続けておりました鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』には 養和二年(一一八二)八月十一日夜 夫人の北条政子が産気づくと頼朝は奉幤使を当神社に派遣し安産祈願を行なったことが記されており 翌日に頼家(二代将軍)が無事誕生したことを伝えています。また建久三年(一一九二)八月九日 頼朝は当神社に神馬を奉献して政子の安産祈願を行ない 實朝(三代将軍)が無事誕生したことも記されています。どちらも当神社での安産祈願の折には 安産杉へのお参りが必ず行われています」 安産杉を見上げて。下部の幹の中心部が空洞化した安産杉。近づいて。そして参道石段を下る。左手奥にあったのが「武道場」の建物。「居合道全国選抜八段戦演武者芳名」が記されていた。 「居合道全国選抜八段戦箱根大会居合道界最高峰の大会である「居合道全国選抜八段戦箱根大会」は、曽我神社社例祭を奉祝して毎年五月二十八日に開催されています。この大会では、居合道「範士」並びに「教士」の称号を与えられた八段剣士の中より、卓越した技量と人格を備える九名が全国から選抜され、箱根大神、曽我兄弟二柱神の大前に演武を奉納し居合道の技を競います。更に全国から参集した初段から現最高位範士九段に至る二百余名の剣士も御神前に演武を奉納します。曽我神社の御祭神、曽我十郎祐成命・五郎時致命兄弟二柱神は、鎌倉時代の建久四年(一一九三)五月二十八日、富士の裾野で見事大願成就を成し遂げられました。曽我神社はその佳日が例祭日となっています。本大会は、御祭神の大願成就より八百年後(平成五年)に斎行された曽我兄弟八百年大祭を奉祝記念して開催されてより、「武士の鑑」と仰がれた曽我兄弟の御事績と御遺徳を顕彰して毎年盛大に行われています。大会参加選手の演武奉納を証す芳名板が道場壁面に掲掛されていますのでご覧下さい。」 「矢立のスギ・杉」。箱根神社の「矢立の杉(やたてすぎ)」は、本殿へ続く石段(第4鳥居前)にそびえる樹齢約1200年の御神木。古くから武将が戦勝祈願として矢を奉納したと伝えられ、勝負事や心願成就のパワースポットとして親しまれています。【矢立の杉の概要】規模: 樹高35m、胸高周囲6m由緒: 坂上田村麻呂や源頼義が戦勝祈願に矢を立てて奉納したと伝わるご利益: 勝運守護、心願成就 「神奈川県かながわ名木100選箱根神社の矢立のスギ平安時代に、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷平定に、また陸奥守源頼義が安倍氏追討に際して、このスギに表矢を献納したと伝えられている。樹高 35m、胸高周囲6.0m樹齢 約1200年(伝承)。スギは、本州から九州に広く分布する常緑高木で神社などに植えられるほか、造林樹種として多く用いられる。樹高60m、胸高周囲15m、樹齢約3000年に達するものもあると言われている。」 そして参道の石段を芦ノ湖湖岸まで下る。「九頭龍神社 本宮」。 移動して。箱根の中でも‟インスタ映え”スポットとしても人気の箱根神社の水中鳥居。この日も外国人観光客も含め多くの人が訪れていた。この水中鳥居は、今上陛下の立太子礼と日本の独立した際、講和条約締結を記念して1952年(昭和27年)今から67年前に建てられました。また、この鳥居には「平和」と書かれた額が湖に向かって掲げられており、陸からは見えないためなかなか見ることができないのですがこれは、1964年(昭和39年)、箱根大神(ハコネノオオカミ)御鎮座1200年と東京オリンピック開催を奉祝記念し、「平和」の扁額が掲げられました。筆で書かれた講和条約の全権特命大使として調印した吉田茂元首相の真筆になるもので、それ以来「平和の鳥居」と親しまれています。“箱根成川美術館”から見られる芦ノ湖に浮かぶ平和の鳥居その向こうには富士山の光景は箱根を象徴する景色としても有名です。(鳥居の‟平和“の文字は芦ノ湖遊覧船や箱根観光船に乗船するとみることができます。) 芦ノ湖畔に立つ朱塗りの大鳥居を目指して、インバウンドを含む多くの参拝者や観光客が湖岸に沿って50m程の列を作っていた。近年、湖上に立つ、湖上に浮かぶ鳥居を背景に記念撮影をする人が増え、休日や観光シーズンにはこのような長い行列が見られるのだ と。「箱根神社 九頭龍神社 参拝のご案内(箱根神社・九頭龍神社までの所要時間は約5分です)ようこそ おいで下さいました。この芦ノ湖畔に建つ箱根神社の水中鳥居は「平和の鳥居」と呼ばれ、正参道入口に位置しています。皆様には、箱根大神さま九頭龍さまの大きな御加護を戴かれますよう、御神前での参拝をご案内申し上げます。参拝順路は、この鳥居を背にして真直ぐ石段を昇ると、正面に箱根神社の御本殿がございます。御神前ではお賽銭を志納し、心静かに感謝と祈りを捧げてお参り致しましょう。神社での拝礼作法は「二拝二拍手一拝」です。箱根神社での参拝に続いて、すぐ右隣の九頭龍神社新宮にもお参りいただき、二社参りで大きな御神徳をお受け下さい。」 「ご協力をお願いします Please cooperate(英語) 攜手合作(中国語)記念撮影は3分以内でご協力をお願いします Please take a commemorative photo within 3 minutes(英語) 請在3分鐘内 拍攝紀念照(中国語)これは箱根神社の「平和の鳥居」前に設置された案内板。近年、「平和の鳥居」は国内外から多くの観光客が訪れる人気撮影スポットとなっており、長い行列ができるため、記念撮影は3分以内でお願いします と。3分→1分で良いのでは?とも・・・・・!!「平和の鳥居」に近づいて。「平和の鳥居の由来鳥居画額の題宇は前宰相吉田茂氏の墨蹟であります。氏は曩に平和条約を締結して太平の基を開かれその偉勲は炳として日星の如く輝き一世の欽仰するところであります。今茲箱根神社に鎮座千二百世界平和祈願祭に当り適オリンピック東京大会開催に際し特に平和の二字を して奉献せられたものであります。額は湖上正面大鳥居に掲げこの平和鳥居を新日本発揚の記念にして永く後生に伝えるものであります。 1964年10月25日 箱根神社宮司脇山時孝」 人の列がなければ(ネットから)。鳥居画額「平和」もネットから。ズームして(ネットから)。ネットからの美しい写真。そして駐車場に向かって引き返す。「宝物殿」と「狛犬」。 「宝物殿」に近づいて。箱根神社宝物殿は、神社伝来の彫刻・絵画・古文書・刀剣・祭具等を収蔵展示する博物館施設。主な収蔵品には、平安時代の男神坐像・女神坐像(重文)、万巻上人坐像(重文)をはじめ、鎌倉時代の箱根権現縁起(重文)や湯釜・浴堂釜(重文)、また、北条早雲、織田信長、豊臣秀吉等の戦国武将の書状など、箱根神社の歴史と文化を伝える貴重な史料が伝えられているとのこと。「斎館(さいかん)」。「斎館」とは、神職が神事(祭り)を奉仕する前に、心身を清めてこもる(参籠する)ための建物や部屋を指すのだ。 そしてこの日の最後に「大涌谷」を訪ねた。 「息吹のデッキ」。谷の方へ約11m突き出す「息吹のデッキ」が新たに造られた。息吹のデッキはガラス張りで、足もとには蒸気で真っ黒に立ち枯れた木々を見ることもできるのであった。 「早雲山駅」~「大涌谷駅」を結ぶ「箱根ロープウェイ」も見えた。 大涌谷の噴煙の向こうに見える特徴的なとがった山は、冠ヶ岳(かんむりがたけ)。標高は 1409 m で、約3000年前の噴火でできた溶岩ドーム。「早雲山駅」~「大涌谷駅」傾斜こう長:1512m 高低差:281m片道:2000円/大人往復:3000円/大人 と高価。前回は、相模湾に浮かぶ江の島の姿が確認できたが、この日は??ズームして。くろたまごモニュメント(北)。実兄&義兄を。この日も「黒たまご」を購入。1個食べると寿命が7年伸びると言われているのだ。早速、1つを食べて、7年長生きをお願いしました。駐車場はこの日も満車で渋滞発生。そして駐車場からの富士山の勇姿を。そして仙石原にあるこの日の宿・卒業会社の健康保険組合の保養所に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.06.27
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そしてこの日の最後に訪ねたのが「箱根神社」。「一の鳥居」下を通過。「二の鳥居」下を通過。 参道に立つ「三の鳥居」を車窓から見る。 「箱根神社 参拝者第2駐車場」に車を駐め、参拝のスタート。 左手に「お札所」。 「第四鳥居」。本殿へと続く正参道(90段の石段)の入口に建つ重要な鳥居。「箱根神社Hakone-jinja Shrine「駒ヶ岳の溶岩流の末端崖に建てられた神社」険しい地形の箱根では、山岳信仰が盛んとなり、山岳修行僧が多く往来していました。天平宝字元年(757年)にその一人である万巻上人が来山し、その後に勅願を得て創建されたのが箱根神社です。治承4年(1180年)の小田原石橋山の戦いで敗れた源頼朝をかくまって助けたことから、鎌倉時代以降は武家の信仰を集めて勢力を拡大しました。箱根火山の後期中央火口丘とよばれる山体は約4万年前以降の火山活動で形成されたもので、駒ヶ岳はその内の一つで、箱根神社はその山麓に位置しています。駒ヶ岳は約2万7千年前から活動を始めた成層火山で、地形をよく観察すると山頂付近から何枚もの「溶岩流」が流れ出たことがわかります。神社の本殿へ登る階段のある急斜面は、この溶岩流の末端崖で、本殿などの建物は溶岩流の上に建っています。後期中央火口丘の地形駒ヶ岳から南方面の地形を示した地図と写真。溶岩流がいくつも重なってできていることがわかります。(写真)駒ヶ岳から見える南西方向の眺め」富士黒土層(ふじくろつちそう)赤茶色の関東ローム層のなかにみられる黒色の地層で、約1万年前~5千年前の富士山の噴火活動が穏やかだった時期に形成されたと考えられています。溶岩流の姿山頂や火山麓の火口から溶岩が流れ下り、そのまま空気で冷えて固まることによってこのような形になります。溶岩の表面や側面は空気や地面に触れて冷えて固まりますが、中心部は熱いのでドロドロのまま流れ下るためにクレバスなどが形成されます。流れ下った中央部は口側が相対的に高まり、溶岩堤防という地形をつくります。駒ヶ岳でもこの溶岩流などの地形を観察することができます。(図中の主な用語)・溶岩の流れる方向・溶岩堤防・クレバス・末端崖箱根神社境内案内案内図には次の施設が描かれていました。・御本殿・九頭龍神社新宮・宝物殿・万巻上人奥津城・駐車場・芦ノ湖箱根神社は、約2万7千年前に活動した駒ヶ岳の溶岩流の上に建てられています。本殿へ続く急な石段は溶岩流の末端崖にあたり、神社の立地そのものが箱根火山の成り立ちを物語る貴重なジオサイトなのです。左側には「宝物特別企画展関東総鎮守― 鎌倉幕府将軍の箱根信仰 ―特別公開*国重要文化財「箱根権現緑起」*宝刀「徴塵丸(みじんまる)の太刀」「薄緑丸(うすみどりまる)の太刀」*「源頼朝」「石橋山合戦図」「源頼朝公行列図」など鎌倉幕府将軍の信仰に関する 数々の錦絵と古典籍」 境内案内。本殿へと続く正参道。溶岩流の末端崖の上に造られた90段の石段を上る。石段の途中、左側にあったのが「曽我神社」。 「曽我神社の由来一、御祭神 曽我十郎祐成(すけなり)之命 曽我五郎時到(ときむね)之命 一、例祭日 五月二十八日一、由緒 曽我神社は元来箱根権現の稚児であった曽我五郎の霊を慰めるため「勝名荒神 (しょうみょうこうじん)」として祭祀されたが、その後箱根権現に心願成就を祈念して 見事仇討本懐を遂げた曽我兄弟の孝心を称えて、江戸初期の正保4年(1647)小田原城主 稲葉美濃守正則が当地に石造の社殿を造営し、本社をを建立した。 爾来祥月命日の五月二十八日に故実による傘焼の儀などの神事が行われ、今日に至るまで 心願成就の守護神として崇敬されている。 曽我兄弟は幼名を兄十郎は一萬、弟五郎は筥王と称した。安元二年(一一七六)一萬が五歳、 筥王が三歳の時、実父河津三郎祐泰が工藤祐経に討たれるという不幸に遭遇した。 母満江御前は兄弟の身に危険の及ぶことを恐れ曽我太郎祐信(相模国曽我城主)と再婚し、 兄弟も曽我姓を名乗るという数奇な運命をたどった。兄一萬は成人元服し名を十郎祐成と 改めて曽我家を継ぎ、弟筥王は実父の菩提を弔うべく箱根権現別当行実僧正の下に預けられ 稚子となったが、孝心やみがたく杉の木を相手に秘かに武術にはげんだ。文治二年 (一一八六)正月、十三歳に成長した筥王は源頼朝の箱根権現参拝(二所詣)に 和田義盛等と共に幕僚として参列した仇工藤祐経を眼のあたりに見て復讐の念に燃え 隙を窺うも遂に果せず、却って祐経から赤木柄の短刀を与えられ諭される始末であった。 建久元年(一一九〇)十七歳になった筥王は出家を嫌い無断で箱根山をおり、元服して 五郎時致と名乗り兄十郎祐成と共に仇討を決意した。 建久四年五月初旬心願成就のため 箱根権現に参拝した兄弟はその折、別当行実僧正より神刀微塵丸、薄緑丸を授けられ 袂別した。 折から富士の裾野で大巻狩中の頼朝に従った工藤祐経を襲い、五月二十八日奇しくも 与えられた赤木柄の短刀でとどめを刺し本懐をとげた。が、しかし兄弟は壮烈な最期をとげた。 本社が建立された江戸時代は武士道が奨励され、赤穂義士の主君仇討と共に兄弟の孝心、 忠節は武士の鑑と仰がれて神社に祀られると共に多くの文芸や物語に語り継がれ、今日 尚その誠烈な気風をしたう多くの人々に尊崇されている。 一、御祭神に関する宝物(箱根神社宝物殿陳列) (一)曽我兄弟像 (二)赤木柄の短刀 (三)微塵丸の太刀 (四)薄緑丸の太刀 (五)曽我兄弟縁起 (六)曽我十番切 (七)その他絵額◯点」 「曽我神社」を正面から。正面に「曽我兄弟八百年祭の碑」。 「曽我兄弟八百年祭の碑鎌倉時代 建久四年(一一九三)五月ニ十八日曽我兄弟が父親の仇討本懐を遂げ 殉難してから八百年 今茲に兄弟の戚徳を偲び 平成の大御代に甦りを念って 式年大祭を奉仕し 御本殿造営等幾多の記念奉賛事業を奉修したまた曽我物語を出版し箱根 小田原とその周辺に記念行事を盛んに行い武道場に於ては初の居合道全国選抜八段戦と弓道大会を催し 文武両道を興隆して 以て御神徳の宣揚につとめたこの間 七九〇年祭を契機に奉賛会を組織して拝殿の建立と境内整備等の記念事業を奉修しかつまた武道場を建設して青少年教化の道場とした 寄託された氏子崇敬者各位の御芳志に感謝しつつ弥栄を祈念する 平成五癸酉年 祥月命日 宮司敬白」 「神輿舎」。さらに石段を上ると正面に「箱根神社」の「御本殿」が姿を現した。 左手に「神楽殿」その奥に「社務所」。 「神楽殿」に近づいて。振り返ると「宝物殿・脇参道」への案内板が。 シャクナゲ(石楠花)の花であっただろうか?「おみくじ掛け(結び所)」。苔むした狛犬(右)を「神門」を背景に。近づいて狛犬(右)。狛犬(左)。後方に「社務所」が見えた。「神門」。 朱塗りの神門は、俗界と神域を分かつ結界の門であり、ここをくぐると箱根大神を祀る本殿の静寂な聖域へと足を踏み入れることになるのであった。そして「拝殿」。朱塗りの社殿と背後の深い森が美しく調和し、古くから関東総鎮守として崇敬を集めてきた神域の厳かな空気が漂っていたのであった。 拝殿正面の向拝(こうはい)上部に取り付けられている見事な龍の彫刻。・中央に角を持つ龍の頭・長い胴体が左右にうねる・周囲を青い波が取り巻く・金・緑・朱・青の極彩色で彩られていた「神門」横の「札所」。 「絵馬掛(えまかけ)所」を見る。 その右に「九頭龍神社新宮(くずりゅうじんじゃ しんぐう)」への入口の門。「絵馬掛(えまかけ)所」に近寄って。「箱根九頭龍神社」の龍の「絵馬」。 箱根神社の「神馬(しんめ)」を描いた絵馬。杉並木に囲まれた石段を進む神馬の姿は、古くから続く神事の厳かさを感じさせ、開運厄除の願いが込められているようであった。そして「九頭龍神社新宮」へ。正面から。 近づいて。扁額「九頭龍神社」。 九頭龍神社由緒九頭龍神社(本宮)・鎮座地 芦ノ湖畔九頭龍の森鎮座・御祭神 九頭龍大神・月次祭 毎月十三日・新年祭 一月十三日・例祭 五月十三日・湖尻龍神祭 八月四日九頭龍神社(新宮)・鎮座地 箱根神社境内鎮座・御祭神 九頭龍大神・月次祭 毎月十三日・新年祭 一月十五日・例祭 四月二十九日・湖水祭 七月三十一日【由緒】当神社は、古来、「箱根権現御手洗の池」と称された「芦ノ湖」の守護神・九頭龍大神をお祀りする神社です。御祭神の九頭龍大神は、昔から人々に「九頭龍さま」と崇められ、商売繁盛・金運守護・心願成就・良縁成就等に特に御神徳の高い龍神様として信仰されています。九頭龍神社は、芦ノ湖畔九頭龍大神誕生の聖地に鎮座する「九頭龍神社(本宮)」と、後年、湖水祭斎場の聖地たる箱根神社御社殿横に建立鎮祭された「九頭龍神社(新宮)」の二ヶ所に祀られています。九頭龍神社(本宮)では、毎月十三日に月次祭が執り行われ、毎年六月十三日に例祭が斎行されています。お祭りでは、御本殿での祭典に続いて芦ノ湖畔の祭場で、祭典でお供えされた神饌の内、米・酒・鯣・卵の四品が、各々九度に分けて湖中の九頭龍大神に献供される「湖水神事」が執り行われます。湖水神事は、奈良時代の昔、箱根大神の神力を得た万巻上人が、里人に害を及ぼしていた九頭の毒龍を調伏し、芦ノ湖の守護神・九頭龍大神としてお祀りしたことに由来します。爾来、連綿として龍神湖水の祭りは継承され、毎年七月三十一日の夕刻には、箱根神社例大祭の宵宮祭として九頭龍大神を祀る年間最大の龍神祭「湖祭」が斎行されています。湖水祭は、粨根神社境内の九頭龍神社(新宮)で「庭上の儀」が斎行され、続いて唐櫃に納めて捧持する「御供」を中心に御列が整えられて湖畔に進みます。桟橋から御供を乗せた御供船と、伴走する楽船、御伴船が芦ノ湖に漕ぎ出し「湖上の儀」が始まります。三艘の船は元箱根湾を巡行した後、平和島居前の湖上で見送る楽船と御伴船を残して、宮司一人が乗る御供船だけが湖心の祭場へ向かいます。湖心に着き浄闇の中、宮司口伝で継承される神秘の湖水神事が厳粛に斎行されると、祭祀の恙無き奉修を祝福する大花火が芦ノ湖上を鮮やかに彩ります。「湖水祭」は往古より箱根神社固有の特殊神事として継承されており、新調のお櫃に納めて御神前にお供えする特殊神饌の御供(三升三合三勺の赤飯)は、精進潔斎した神職が忌籠り、清らかに炊き上げて献供しています。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー関東総鎮守として箱根山に鎮座す「箱根大神」の生み出だされる生命の根源たる水の力を、芦ノ湖の守護神として司ってこられたのが「九頭龍神」です。九頭龍神の誕生逸話こそ、箱根大神の御神徳なくして九頭龍神の御神威の発揚はないと言われる所以です。皆様には、箱根神社と九頭龍神社の「両社参り」、更には箱根神社の奥宮である箱根元宮への「三社参り」で、箱根大神と九頭龍神のいっそう大きな御加護をいただかれますよう祈念申し上げます。尚、三社へのお参りは、ご自身のご都合のよろしい日にそれぞれのお時間の中で、真心込めてお参りいただくのが一番よろしいものと存じます。九頭龍神社新宮の拝殿天井に描かれた「雲龍図(うんりゅうず)」。ズームして。・墨一色を基調とした力強い水墨画風・大きく口を開いた龍・鋭い角と長い髭・全身をうねらせながら円を描く構図・周囲に渦巻く雲や水気を表現した筆致墨の濃淡だけで表現された龍は、今にも雲間から飛び出してきそうな迫力を湛え、芦ノ湖を守護する九頭龍大神の神威を感じさせるのであった。鋭い眼光と力強くうねる姿に、しばし見入ってしまったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.26
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そして箱根関所の見学を終え、隣接する「箱根関所資料館」を訪ねた。江戸時代の関所に関する古文書や出土品、復元工事の資料などが展示されており、箱根関所の歴史をより深く学ぶことができたのであった。正面の看板には「箱根関所資料館」と掲げられていた。建物は関所建築の雰囲気に合わせた和風意匠で、・黒い暖簾・白壁と黒格子・切妻屋根・木製の看板によって江戸時代の関所町を思わせる落ち着いた外観になっていた。入口左側には、関所役人をイメージした等身大人形が置かれ、我々を迎えてくれたのであった。右側には・図録・絵葉書・箱根関所関連書籍・土産品 などを販売するショップがあった。「箱根関所資料館」内は写真撮影禁止であったので、以下の写真はネットから。資料館入口方向を振り返った画像であろう。【展示テーマ】 1.箱根関所の移り変わり👈️リンク 2.全国の関所👈️リンク 3.箱根関所の役割👈️リンク 4. 箱根関所の女改め👈️リンク 5.箱根関所の役人たち👈️リンク 6.関所破りと薮入り👈️リンク 7. さまざまな通行手形👈️リンク 8.要害山と守り村👈️リンク 9.箱根関所の四季👈️リンク10.箱根宿と箱根関所👈️リンク11.甦った箱根関所👈️リンク12.大名行列と江戸の旅👈️リンク13.箱根関所の武器・武具たち👈️リンク「日本遺産「箱根八里」👈️リンク旅人たちの足跡残る悠久の石畳道箱根八里で辿る遥かな江戸の旅路箱根旧街道「箱根八里」は、江戸時代初めに徳川幕府が整備した東海道の一部で標高約10mの小田原宿から標高846mの箱根峠を登り、標高約25mの三島宿まで下る8里(約32km)をいい、東海道第一の難所とされていました。箱根八里には江戸時代に整備された石畳や一里塚、樹齢350年を超える杉並木などが点在し、一部が国の史蹟に指定されています。また、それらを結ぶ道沿いには往時の面影が色濃く残ることから平成30年日本遺産に認定されました。ここでは箱根八里のうち、「東坂」と呼ばれた箱根峠から小田原宿までの間に残る見どころの一部を紹介します。」 ①箱根関跡【国史蹟】②箱根旧街道の杉並木【国史蹟】③芦の湖と箱根神社④甘酒茶屋⑤西海子坂(さいかちざか)【国史蹟】⑥畑宿一里塚【国史蹟】⑦寄木細工⑧畑宿の集落江戸時代の箱根。箱根の歴史と温泉、旧街道、史跡についての記録と説明が含まれていた。・江戸時代の箱根の歴史と用水について解説。・仙石原関所や箱根八里などの主要街道とその歴史的意義を解説。・箱根の温泉地や宿場、史跡、石碑の現存状況について紹介。「お玉の話元禄15年(1702年)のことです。伊豆国大瀬村(静岡)生まれのお玉という女の子は、江戸(東京)に住むおじさんの家で奉公(家事手伝い)していました。しばらくして、お玉は伊豆の実家が恋しくなってしまい、ついに帰ろうと決心し、おじさんの家を抜け出しました。箱根の関所の近くまできましたが、お玉は奉公先を飛び出してきたものだから、通行手形をもっていません。仕方がないのでお玉は厳重な関所の警備を避けて脇の山を越えて抜けようとしましたが、箱根の関所は芦ノ湖から山の上までずっと柵が巡らせてあり、その柵を乗り越えようとして、からまってしまったところを村人に見つかってしまい、関所破りの罪で捕まってしまいました。捕まったお玉は、箱根関所の獄屋に入れられ、裁判を経て処刑されてしまいました。2月に捕まったお玉は、4月に処刑されるまで、約2カ月の間、獄屋に入れられていました。関所破りは、江戸時代の刑罰の中では親殺しなどと共にもっとも重い罪だったので、お玉も死罪を逃れることは出来ませんでした。本来関所破りは磔という刑が定められていますが、お玉の場合、同じ死罪ながらひとつ刑が軽くなり、獄門(さらし首)とされたようです。箱根八里は坂の名前がいくつもついています。お玉が捕まったとされる付近には「於玉坂」という坂の名前がつきました。また、付近にある「なずなが池」は、「お玉が追手を逃れてこの池に身を投げた」とか、処刑された「お玉の首を洗った」などという言い伝えが生まれ、いつしかその名も「お玉が池」と呼ばれるようになりました。」「お玉ヶ池」碑をネットから。 そして「箱根関所資料館」を後にして、「箱根関所」方向に引き返す。再び富士山頂の勇姿を。「京口御門」に向かって進む。 左手に「足軽番所」。 屋根材の現地耐久暴露試験が実施されていた。「これは、4つの工法を用いた屋根の模型になります。同じ環境に置いた場合、どの程度長期的維持が図られるのか、また腐朽の進行程度を確認するために暴露試験を行っています。屋根材はすべて杉材(木の赤身部分の手割板、厚さ9mm)を使用し、竹釘を打ち込み固定しています。Cの無処理材は約15年程度で表層の劣化が進行しました。どの工法が健全な形で長期的な維持が図られるのか?長い時間をかけて調査を行っています。試験区分A 杉板材(真空過熱による炭酸亜鉛含浸処理)B 杉板材(真空過熱による炭酸亜鉛含浸処理)と差込銅板の併用C 杉板材(無処理)D 杉板材(無処理)と差込銅板の併用【注】① 木材の炭酸亜鉛含浸処理の採用について木の温もりを保ちつつ、防腐性や防蟻性を備えた高耐久性含浸木材処理であり、蟻が木材を 食べ物として認識しないため、蟻害の多い、箱根関所復元施設では効果が期待できます。 また、環境にもよりますが、無処理材の約5倍程度の耐久性が期待できます。② 差込銅板の採用について腐朽を抑え耐用年数を数十年より長くすることを目的として、重要文化財でも採用 されている工法です。木材の重なり合う部分に銅板を差し込んでいます。カビや藻類による腐食から木材を守る効果があるとともに、雨水に溶け出した銅のイオン成分が、屋根材に付着して保護する効果もあり、20~30年の耐用年数以上に長くなることが期待されます。」 復元工事では文化財建築に用いられる伝統的な杉板葺きを採用していますが、・炭酸亜鉛含浸処理・差込銅板・両者の併用・無処理の4種類を同条件で比較し、長期耐久性を検証していたのであった。A 杉板材(真空過熱による炭酸亜鉛含浸処理)B 杉板材(真空過熱による炭酸亜鉛含浸処理)と差込銅板の併用C 杉板材(無処理)D 杉板材(無処理)と差込銅板の併用この花は ヤマボウシ(山法師)??「箱根関所」を後にして、旧東海道・県道75号線を「箱根関所南」交差点まで歩く。交差点角の「駅伝広場」にあった「襷(TASUKI)」碑。毎年、正月の2日(往路)、3日(復路)で行なわれる『箱根駅伝』の芦ノ湖ゴール直前にある箱根関所南交差点。『箱根駅伝』テレビ中継で、国道1号の箱根神社鳥居を抜けて最後のコーナーを回ると、ゴールテープの張られた芦ノ湖の湖畔(駅伝碑)。その最後のコーナー部分に設けられた広場がここ駅伝広場。駅伝広場の中央には、平成15年5月に設置された「襷-TASUKI-」のモニュメントが。 5区の往路でゴールするランナーをイメージした石碑の裏側には、箱根駅伝の歴史と第5区(小田原-箱根間)の難コースぶり(コースmapと高低差)が刻まれていた。「箱根駅伝の由来東京・箱根間往復大学駅伝競走、いわゆる箱根駅伝は、1920年(大正9年)に慶大、早大、明大、東京高師の4校が参加し、第1回大会が開催されました。その後、昭和、平成と襷が引き継がれ、数々の名勝負、感動シーンを生み、全国の駅伝ファンを魅了するとともに、学生ランナーにとっての憧れの舞台となっています。この箱根駅伝は、ストックホルム五輪のマラソン選手で、「マラソンの父」とも呼ばれる 金栗四三 氏の「二世紀に通用するマラソンランナーを育てたい」という熱い思いから誕生したもので、その思いを引き継いだ数多くの名ランナーが、箱根から世界の舞台へと羽ばたいています。」 「第5区「山登り」といわれる区間です。標高差約800mを駆け上がる箱根駅伝一の難コース。大半が急な上り坂で曲がりくねった道が続きます。それゆえ選手のコース取りやペース配分が難しく、予断を許さないスリルに富んだ区間です。」 「第6区箱根駅伝の折り返し区間です。スタートして少し上ると、あとは長い下り坂。ランナーの脚にかかる負担は平地の何倍にもなるそうです。ここでオーバーペースになると、下りなのに残りの距離が、選手にとって恨めしく思える区間です。」 旅館「川口屋」の先にあった案内パネル。「箱根宿の成立一六一八年(元和四年)徳川幕府によって宿場が開かれた。時の松平政綱が命を受けて山野を拓き、伊豆国三島宿(幕府の代官支配地)と相模国小田原宿(小田原城府地)から各五十戸づつ移住願いし、約六百人為的に箱根宿を創設し、まちを二つの系統に依って支配していた。現在も箱根宿主要部は、字三島町・字小田原町と名付けられている。尚、箱根宿成立に寄与された先人たちの不動の祖霊として現在、九家が実在し、歴史・伝統等を伝承して行く重責を担い道標を築き努めている。 箱根字三島町 祖嗣 川口屋(中央の古文書引用)一六一八年頃当宿場無高、五穀野菜無御座候霧深キ激寒ニテ田畑無御座候湖水三面、八九月頃鱒、三四月頃赤腹中候、山川ニ而、山生魚取申候」「箱根駅伝東京箱根間往復大学駅伝競争(現在二百十七・九km)は大正九年(第一回大会)に四校で争われました。以来、第二次世界大戦により、五回中断されましたが、昭和、平成と三世代に渡り、シード権の獲得校と予選を通過した大学、二十校(二百名)のみが毎年一月二日・三日の決戦に挑み、母校の名誉と栄光のために、勇気と汗と苦しみ、孤独感を一身に背負い、熾烈な戦いをしております。また箱根を制した者が陸の王者となり得ているのです。 箱根芦ノ湖折返し地点 川口屋」 石柱・「東京箱根間往復大学駅伝競走 往路ゴール」 廻り込んで「復路スタート」を。 今年、第102回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)は2日、往路(東京・大手町の読売新聞東京本社前~箱根・芦ノ湖駐車場入り口)が行われ、青山学院大が5区で大逆転を演じ、3年連続8度目の往路優勝を果たした。タイムは5時間18分8秒で往路新記録を樹立。青山学院大・黒田選手は1時間07分16秒で区間新の快走。 従来の記録を1分55秒も更新する驚異的なタイムで駆け抜けたのであった。また「シン・山の神」として大きな話題を呼んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.25
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そして「上の間(かみのま)大番所の建物の中で、上の間と呼ばれる部屋です。この部屋は、箱根関所の中でも最も格式が高く、通常は伴頭、横目が座り、大名や家老などの接待の間としても使われました。また、鉄砲や弓も置かれ、旅人を威嚇していました。」Kaminoma (Drawing Room)This room is called "Kaminoma". The Kaminoma is the highest grade room in the Hakone Sekisho, where the Bangashira and the Yokome usually worked.Sometimes the Kaminoma was used as a reception room for the daimyo, feudal lord, and the karo, chief retainer of the daimyo. Guns and bows were displayedin order to oppress passersby. 図面内の表記・長持・六曲一双屏風・鉄砲・状箱・弩瓢(どひょう)・燭台・火鉢・伴頭・硯箱・文机・横目・弓・矢櫃・靱(うつぼ)・槍「上の間」。 箱根関所の大番所にある「上の間(かみのま)」を復元した展示。説明板にあったとおり、関所内で最も格式の高い部屋で、伴頭(ばんがしら)や横目(よこめ)が執務し、大名や家老を迎える応接の場でもありました。左側の鉄砲 左には多数の火縄銃(ひなわじゅう)が整然と立て掛けられていた。 これらは関所の武装を示すもので、実際の警備用であると同時に、関所の権威を旅人に示す 役割を果たしていた。鉄砲の下には黒漆塗りの銃箱が置かれていた。中央の弓 部屋の中央には多数の和弓が並べられていた。 ・長大な弓が一列に整然と立てられている ・弓弦は外され保管されているように見える ・武具庫としての性格を強く感じさせる 配置。背後の屏風 六曲一双屏風(ろっきょくいっそうびょうぶ)が置かれていた。 墨絵風の山水画が描かれており、武具が並ぶ厳粛な空間に格式を与えていた。 大名や家老を迎える応接間としての性格を示しています。右側の役人 白色のシルエット人形は、先ほどの説明板にあったように、 ・顔立ち ・体格 ・衣服の色 が不明であるため、あえて白色で表現されています。 机に向かって文書を扱う姿から、伴頭または横目の執務風景を再現したものと思われます。背後の長持 右奥には家紋入りの長持(ながもち)が積まれています。 長持は衣類・書類・備品などを収納する大型の箱で、格式の高い部屋らしい調度品。 これは箱根関所が単なる事務所ではなく、江戸幕府の威信を背負った警備・取締り施設で あったことを示していた。 旅人がこの部屋を目にしたとき、 「ここは幕府の関所であり、規則に従わなければならない」 という緊張感を自然に感じるように設えられていたのでしょう。 まさに「権威を見せる部屋」であったことが、この復元展示からよく伝わって来たのであった。「伴頭(ばんがしら)」 「伴頭(ばんがしら)箱根関所役人の中で最上級の武士である番頭です。関所の日常業務や審理運営を統括していました。BangashiraBangashira was a samurai who was dispatched from the Odawara Domain and was the highest-ranking among the officials working at Hakone Sekisho. He assumed fullresponsibility for the daily operations and management ofthe checkpoint.」 「横目(よこめ)伴頭に次ぐ地位で、関所業務の正常で円滑な遂行について監視する役ところです。江戸時代後期に新設、常置された役職です。」 「京口御門」を振り返って。 「足軽番所大番所・上番休息所の次に大きな建物で、大番所・上番休息所の向かい側、江戸口御門の脇にあります。昼間は足軽が控えていたり、夜は足軽が寝ていた場所です。建物内には足軽のための部屋や休息所、不審な武士などを留め置く「揚屋(あがりや)」、関所破りをした罪人などを一時的に拘置する獄屋(牢屋)などがあります。屋根は大番所と同様に杉板を薄く割って重ねた「栩葺(とちぶき)」で、外壁は壁板を「渋墨(しぶすみ)」で黒く塗られています。特に、「獄屋」は格子で囲まれており、とても頑丈に造られています。」 移動して。「足軽番所」の左側隅に「獄屋」関所破りをした罪人などを一時的に拘置する獄屋(牢屋)などがあります。屋根は大番所と同様に杉板を薄く割って重ねた「栩葺(とちぶき)」で、外壁は壁板を「渋墨(しぶすみ)」で黒く塗られています。特に、「獄屋」は格子で囲まれており、とても頑丈に造られています。「獄屋(ごくや)」 「獄屋(ごくや)足軽番所に付属する獄屋です。関所破りなどの罪人を留め置くところで、とても頑丈に造られていました。」「獄屋(ごくや)」は、「足軽番所」という建物内に設けられていた。獄屋自体の明確な畳数や平米数の記録は公開されていませんが、獄屋がある足軽番所全体の広さは 約15×9m(平屋建て)であると。「和釘(復元)"Wakugi" (Japanese traditional nails)関所の復元に使用した釘(くぎ)で、江戸時代に使用されていたものと同様の作りとなっています。この釘は断面が角ばっていることと、巻頭(まきがしら)と呼ばれる頭の形に特徴があるものです。この釘を打ち込むと表面に釘の頭が突出せず、平に仕上がります。The nails used to restore the Checkpoint are the same as those used in the Edo period.These nails are characterized by the angular cross section and by the shape of a nailhead called "Makigashira" or "Rolled-head".When they are driven in, the nail head does not protrude from the surface but lays flat.」この展示は、箱根関所の復元工事で実際に使用された 和釘(わくぎ) を紹介しています。現代の洋釘は丸い鉄線を機械で作りますが、和釘は鍛冶職人が鉄を叩いて作ります。そのため、・断面が四角形または長方形・先端が鋭い・頭部が「巻頭(まきがしら)」になっているという特徴があります。なぜ和釘を使うのか箱根関所は江戸時代の建築を忠実に復元しているため、・柱や梁の仕口・板壁・屋根下地などに、できる限り当時と同じ工法・材料が採用されました。和釘は木の繊維を切り裂くように入るため保持力が強く、さらに頭が目立たないので、建物の外観を美しく仕上げることができます。 「金輪継ぎ(かなわつぎ)関所の建物には、「金輪継ぎ」という日本古来の建築工法が使われています。これは、つなぎ合わせる材木を手できざみ組み合わせ、くさびを打ち込んでとめるという大変強固な継ぎ方です。建物の柱と梁など骨組みの部分は、この「金輪継ぎ」となっており、足軽番所の軒下などで見ることができます。」 右側の図の説明上段 つなぎ合わせる材木に切り込みを入れます中段 はめ込み組み合わせます下段 楔(くさび)を打ち込み、はずれないように固定しますネットから。「休息所」の光景。 「休息所(きゅうそくしょ)足軽番所の休息所と呼ばれる部屋です。身の回りの日用品などを置き、夜に休むところでした。この奥の部屋は下番居所と呼ばれ雑用をする下番が控えていました。Kyusokusho (Rest Area)This room was a rest area for foot soldiers within the foot soldiers' quarters. Here was where the soldiers kept personal items and rested at night. At the rear of the rest area was the Shimoban Kyosho, a place where workers called shimoban waited to be called on to perform routine tasks.」 「足軽(あしがる)伴頭などの下で施設の営繕や御門の開閉、遠見番所での監視など多くの業務にあたっていました。AshigaruAshigaru were tasked with various duties, including serving as gatekeeper sat the Kyoto side gate and Edo side gate and guarding Hakone Sekisho from the elevated lookout post 24 hours a day.」 畳敷きの部屋で、勤務の合間を過ごす足軽たちが表現されています。・左手前の足軽は横を向き、仲間の様子を見ています。・中央奥の足軽は囲炉裏端で一服しているように見えます。・右手前の足軽は振り返り、仲間との会話に加わろうとしているようです。・奥には二人が向かい合い、談笑している姿も見えます。厳しい警備任務の合間の、ほっとした時間を切り取った場面なのでしょう。左手前の足軽は、仲間たちの会話に耳を傾けているようです。右手前の足軽は振り返りながら微笑んでいるように見え、緊張感のある関所勤務の中にも、仲間同士の親しさが感じられます。奥では二人の足軽が向かい合って座り、勤務の情報交換や雑談をしているようです。移動して様々な角度から。移動して様々な角度から。白いシルエット人形でありながら、足軽たちの視線や姿勢からは、囲炉裏を囲んで語り合う江戸時代の詰所の空気がよく伝わってきます。まるで夜勤の合間に交代の時刻を待っているような、静かな緊張感と親しみやすさが同居した光景なのであった。・中央の四角い設備は かまど。・上に載っている丸い容器は 釜(かま)。・右側の人形は、かまどの火を管理したり炊事を行ったりする足軽の様子を再現しています。・土間は土足で作業する場所で、炊事・雑用・警備用品の保管などに使われました。・説明板にある 六尺棒(ろくしゃくぼう) は長さ約1.8mの棒で、罪人の捕縛に用いられた 捕物道具です。 廻り込んで。米を炊いているのであろうか。「土間(どま)足軽番所の土間です。炊事などを行っていました。ここには日用品のほか、六尺棒などの捕物具が置かれていました。Doma (Room with Earthen Floor)This is an earthen-floored room located in the foot soldiers' quarters.It was used for cooking and similar activities. Tools used for apprehending criminals,such as rokushakubo long staffs measuring about 1.8 meters in length, were also stored here.」 「遠見番所」を見上げて。 「井戸」。江戸口・京口の千人溜にそれぞれ1ヶ所ずつ、関所構内に2ヶ所、井戸があり、関所の役人たちが利用していたものです。近づいて。「井戸Well箱根関所絵図には描かれていなかった場所から遺構調査によって井戸が発掘されました。この井戸は山水を蓄え涸れることなく一定の水位を保っています。A well was excavated during a survey of remnants of ancient structures from a location that was not illustrated in the Hakone Checkpoint Picture Map. This well is full of mountain spring water, has never dried up, and maintains a certain level of water after its resurrection.」 「足軽番所雪隠」。雪隠とは、便所のこと。足軽が利用するためのもので、旅人は利用できませんでした。 「遠見番所」を下から見上げて。「遠見番所」に上る江戸時代の石段を見る。 「石段Stone steps遠見番所に上がるこの階段には、発掘調査によって出土した江戸時代の踏み石がそのまま使われ、急な傾斜も当時を再現しています。いにしえの役人が行き来した石段を登ると芦ノ湖の対岸まで見渡せます。(下から数え17段目より上は当時の踏み石です)These steps leading up to the tomibansho make use of the stepping stones fromthe Edo era, which were discovered during an excavation project, and the steepinclination reflects what it was like at the time.From the top of the flight of steps that the officials regularly used to come and goin the ancient times, you can look across the sweep of Lake Ashi to the opposite shore.(Stone steps from the 17th step, counting from the bottom, all the way to the top, are from the Edo era.)」 「遠見番所」。 箱根関所で唯一の二階建ての建物。四方に開かれた大きな窓から二名の足軽が昼夜を問わず交代で、芦ノ湖や街道沿いを見張っていたのだ と。 江戸期の芦ノ湖は船の通行は禁止であった、遠見番所は芦ノ湖を監視する番屋でもあった。「箱根関所」の大番所・上番休息所を見下ろす。 芦ノ湖の観光海賊船と富士山の勇姿も見えた。この高札は箱根関所に掲げられていた「定(さだめ)」の一部を復元したもの・御制札場。江戸口御門から関所に入って、すぐ右手に「御制札場」という小さな屋根のついた掲示板のような施設があった。ここに掲げられた札には、正徳元年(1711)に幕府道中奉行が箱根関所に出した、五項目の取り調べ内容が記載されていた。板葺(いたぶき)の屋根や渋墨が塗りこまれており、威厳を感じさせる建物。「定一、関所を通る旅人は、笠・頭巾を取り、顔かたちを確認する。一、乗物に乗った旅人は、乗物の扉を開き、中を確認する。一、関より外へ出る女(江戸方面から関西方面へ向かう女性:出女)は詳細に証文と照合する 検査を行う。一、傷ついた人、死人、不審者は、証文を持っていなければ通さない。一、公家の通行や、大名行列に際しては、事前に関所に通達があった場合は、通関の検査は 行わない。ただし、一行の中に不審な者がまぎれていた場合は、検査を行う。」 と。「江戸口御門」京口御門の対面側にあった。高麗門という形式の門で、その高さは6.1mで、大番所・上番休息所をしのいでいます。屋根や外観は「栩葺」、「渋墨塗り」です。江戸方面から来た場合には、この門から中が箱根関所の構内で、西へ向う旅人はこの門の前で身支度を整え、関所の中へと入りました。 再び「遠見番所」を見上げて。 「江戸口御門」にも「箱根関所」案内板があった。 再び「箱根関所 案内図」。 「江戸口千人溜」を振り返って(写真はネットから)。江戸口御門の外にあり、旅人たちが関所改めを待つ待機場として利用された広場。 「矢場」(写真はネットから)。弓や鉄砲の練習場で、江戸口御門の外の湖側にあった。そして「箱根関所資料館」に向かって歩を進める。 「御番所茶屋」手前横の藤棚そしてその先に芦ノ湖の湖面。藤の花を見上げて。「芦ノ湖」。 海賊船「ビクトリー」。 「箱根関所散策マップWalking map江戸幕府が設けた全国5 0数カ所の関所の中で、箱根関所は、江戸時代第一の街道である東海道を監視するために設けられた関所でした。東海道の旅人は箱根関所を通り、特に江戸方面から京都方面に行く女性の旅人「出女」には、念入りな取り調べが行われたと言われています。箱根関所周辺には、今も、当時の石畳や杉並木が残され、車が行き交う国道1号と、時には交差し、あるいはすぐ横に沿うようにして、江戸時代の街道の風情を色濃く伝えています。地図中の主な表示芦ノ湖・芦ノ湖(Lake Ashi):湖面の高さ724m、周囲21km、最大水深40m)・遊覧船乗り場(Sightseeing boat)関所周辺・箱根関所資料館・箱根関所跡港・箱根町港・箱根駅伝ミュージアム・箱根駅伝往路ゴール/復路スタート地点散策ポイント・箱根やすらぎの森・杉並木公園・杉並木の石畳・森のふれあい館街道・峠・箱根旧街道(Hakone Old Tokaido)・箱根峠・玉ノ浦峠・外輪山展望歩道(Gaikanzan Observation Trail)・芦ノ湖西岸歩道(Ashinoko West Bank Trail)所要時間箱根関所 → 杉並木の石畳 約20分杉並木の石畳 → 森のふれあい館 約25分箱根関所 → 箱根峠 約55分箱根峠 → 玉ノ浦峠 約85分玉ノ浦峠 → 湖尻峠方面 約100分」「ミヤコワスレ(都忘れ)」か?近づいて。「箱根関所資料館」に向かって、湖岸に沿って遊歩道を進む。富士山山頂の勇姿を。「恩賜箱根公園駐車場側」にあった「箱根御関所」案内板。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.24
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そして「箱根関所」へ。江戸時代交通史の重要な史跡、箱根関所。当時の匠の技や道具を使い、およそ140年の時を経て、再び芦ノ湖畔にその姿をあらわしました。渋墨塗りで黒く塗られた威厳溢れる佇まいは、江戸時代さながらに通る者を緊張させます。前面に芦ノ湖を望み、背後に屏風山が控える眺望豊かな立地は、まさに箱根・芦ノ湖の旅の玄関口。今も昔も箱根の旅はここ箱根関所を越えていきます と。 「関所通り」を「京口御門」に向かって進む。 「京口御門」が前方に現れた。「京口御門」。江戸口御門の対面側にあります。高麗門という形式の門で、その高さは6.1mで、大番所・上番休息所をしのいでいます。屋根は外観は「栩葺(とちぶき)」「渋墨塗り(しぶすみぬり)」です。京都方面から来た旅人は、この門から中が箱根関所の構内で、旅人はこの門の前で身支度を整え、関所の中へと入りました。 フォトスポット「箱根関所」。 「箱根関所」案内板。 「箱根関所(国指定史跡 箱根関跡)箱根関所が、江戸幕府によって、山と湖に挟まれた交通の要衝であるこの地に設置されたのは、元和5年(1619)のことと伝えられています。箱根関所は、江戸幕府が江戸防衛のために、全国に設置した53ヶ所の関所のうち、東海道の新居(静岡県)、中山道の碓氷(群馬県)、木曽福島(長野県)と並んで規模も大きく、特に重要な関所と考えられていたようです。この関所の配置は、箱根山中の東海道の中で、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区画し、江戸口・京口両御門を構え、大番所と足軽番所が向き合うものとなっています。一般的に関所では、「入り鉄砲に出女」を取り調べたと言われていますが、この箱根関所では、江戸方面からの「出女」に対する厳しい取調べを行っていました。江戸時代を通じて機能を果たしてきた関所ですが、設置から250年後の明治2年(1869)、新政府により関所制度が廃止され、その役割を終えました。箱根関所の跡地は、大正11年(1922)、「箱根関跡」として国の史跡に指定されました。昭和40年(1965)には番所の建物が建設され、その後、昭和58年(1983)、江川太郎左衛門家(静岡県伊豆の国市)から、慶応元年(1865)に完成した箱根関所の大規模修理についての克明な資料『相州箱根御関所御修復出来形帳』が発見され、資料の解析や跡地の発掘調査を経て、平成19年(2007)春、国土交通省、文化庁、神奈川県の補助を受けた復元整備を終え、箱根関所は往時の姿によみがえりました。 平成19年(2007) 箱根町教育委員会」 案内図をトリミング。「京口御門」を正面から。 箱根関所は、元和4年(1618)ごろには、既に設置されていたものとされています。江戸幕府は、東海道の本道として整備して、箱根峠寄りに人工の町である「箱根宿」を設置して、元箱根側の芦ノ湖畔に箱根関所を設置しました。平成19年(2007)に、関所が復元され公開されています。東海道の江戸寄りを「江戸口御門」、京寄りを「京口御門」と称し、屋敷門に比べて簡素な造りとなっています。この門は、切妻屋根コケラ葺、両袖小棟板塀付。「京口御門」。箱根関所の京都側の門。江戸口御門と同じく、「明け六つ」(日の出)から「暮六つ」(日の入り)の間だけ開いていました。江戸時代260年にわたって機能してきた箱根関所は、明治2年にその役目を終え、取り壊されていましたが、平成16年に復元されたました。往時の姿を忠実に復元された建物は木目もわからないほどに真っ黒に塗られています。この、黒い塗装は渋墨塗といって、柿渋と松木を焼いた煤(松煙)を混ぜたもので、防虫・防腐効果がある他、建物の化粧として用いられています。日本古来の伝統技術でした。箱根関所の建て位置は、湖畔に面しているので、風雨によりこの渋墨塗が薄れてきますので、定期的に補修が行なわれています。「渋墨(しぶすみ)関所の建物は渋墨で黒く塗っています。この渋墨とは、柿渋と松を焼いた「すす」を混ぜたもので、防腐効果とあわせ建物の化粧として用いたものです。この黒い部分に触れると黒い「すす」が付着しますのでご注意ください。※ 特に濡れていると付着しやすいので注意してください。」 チケット・500円。箱根関所通行手形。箱根関所通行手形の内部には箱根関所見学案内絵図。こちらも箱根関所見学案内絵図(ネットから)。京口御門を入って直ぐ左側にあったのが「「厩(うまや)」。 「箱根関所の厩(うまや)江戸時代、箱根関所に建てられていた厩には5頭の馬をつなぐことができるようになっていました。しかし、実際には2頭しかおらず、空いた場所には関所の廻りにめぐらした木柵の予備や外掃除の道具、火を消す道具などが納められていました。厩は納屋と兼用だったようです。」 「シルエット展示関所内に展示している役人などの人形は、当時の記録から役職や人数、名前などは判明していますが身体的特徴や衣服の色などは明らかではありません。また馬も毛並みの色などは特定することはできないため、あえて淡い色で全体をシルエットのようにして、史実と異なったイメージを与えにくい「シルエット展示方法」にしています。」 奥にあったのが「上番所下雪隠」。 近づいて。便所のこと。関所役人が使用するためのもので、旅人は利用できませんでした。「上番所下雪隠」の内部を見る。「ひかりつけ👈️リンクHikaritsuke石の凹凸に合わせ木材が削られ、建物の土台と石垣がぴったり取り付いているのがわかりますか?この加工技術を「ひかりつけ」と呼びます。ひかりつけを行うには、石垣上部に石灰を撒き木材を乗せ、密着具合を確認しながら木材を削っていきます。木材全体にまんべんなく石灰が付くまで、何度も確認しながら作業を続け完成します。矢印の先、建物土台と石垣上部の合わせ目をご覧ください」 「ひかりつけ」の作業の写真をネットから。湯殿。「湯殿(ゆどの)大番所・上番休息所の建物の中で、湯殿と呼ばれる部屋です。湯殿ですが、風呂桶が置かれていたわけではなく、たらいに湯を汲んで、湯浴みをしていました。」「勝手板の間(かっていたのま)」。 「勝手板の間(かっていたのま)大番所・上番休息所の建物の中で、勝手板の間と呼ばれる部屋です。この部屋には囲炉裏が置かれ、関所役人の食事や休息に使われていました。」 図面内の表記・三つ道具置(Mitsudoguotate)・戸棚(Todana)・行燈(Andon)・岡持(Okamochi)・火鉢(Hibachi)・番士(Banshi)・自在鉤(Jizaikagi)・鍋(Nabe)・囲炉裏(Irori)・中間(Chugen)・炭箱(Sumibako)・鉄瓶(Tetsubin)・炭壺(Sumitsubo)・煙草盆(Tabakobon)・七輪(Shichirin)左:番士(ばんし) 箱根関所における「番士(ばんし)」とは、旅人の手形(通行証)の確認や所持品の 検査など、関所の実務を直接担当していた役人のことです。江戸時代の箱根関所に おける番士の主な役割や体制は以下の通りです。主な役割手形の改め: 旅人が差し出した 「通行手形(現代のパスポートに相当)」が本物かどうかを確認し、目的地などを 記録していました。取り締まり: 幕府の治安維持のため、「入り鉄炮(江戸へ持ち込まれる 武器)」と「出女(江戸から国元へ帰る大名の妻など)」の監視・取り締まりを厳重に 行っていました。送迎と手配: 大名や幕府役人の通行時の送迎手配なども担っていました。右:中間(ちゅうげん) 箱根関所における「中間(ちゅうげん)」とは、関所の役人に仕えた使用人(武家奉公人)の ことです。足軽などの下で、関所役人の身の回りの世話や、関所で使われていた馬の世話 などの雑務を担当していました。箱根関所の役職と構成箱根関所は小田原藩が警備を任されて おり、主に以下のような身分や役職の人々で構成されていました。役人・番士:証文(手形) の改め(確認)や記録などを行う足軽:関所の門番や警備を担当中間:役人の身の回りの お世話や馬の世話などを担当定番人:地元(近辺の農民)から雇用され、警備や庶務を補佐。移動して。「土間」と「下番(しもばん)」。 「土間大番所・上番休息所の建物の中で土間とよばれる場所です。ここには、竈が据えられていたほか、箒や提灯、蓑・菅笠などさまざまなものが置かれていました。また、この土間が建物と外との主な出入りの場所でした。」 図面内の主な表記・大釜・団扇(うちわ)・水甕(みずがめ)・柄杓(ひしゃく)・水汲桶・番傘・高張提灯箱・弓張提灯箱・龕灯・松明・菅笠・蓑「下番(しもばん)関所役人の食事の支度をはじめ、かまどや囲炉裏の火の番などさまざまな雑用をしていました。」 「シルエット展示関所内に展示している役人などの人形は、当時の記録から役職や人数、名前などは判明していますが身体的特徴や衣服の色などは明らかではありません。また馬も毛並みの色などは特定することはできないため、あえて淡い色で全体をシルエットのようにして、史実と異なったイメージを与えにくい「シルエット展示方法」にしています。「大番所 上番休息所関所の一番主要な建物です。二棟が継がれている建物で、街道側が大番所、湖側が上番休息所と呼ばれています。共に栩葺(とちぶき)と言われるうすく割いた杉板を重ねた屋根を持ち、また外観は、渋墨で塗られた黒い建物です。近づいて。「大番所 上番休息所」。 廻り込んで。手前に立てられている6本の長い棒は、槍(やり)や長柄武器の展示左:鑓建(やりたて)右:長柄建(ながえたて)関所に配備された鑓や長柄という武器が建てられ、関所を通る旅人を威嚇していました。「人見女」。 「人見女(ひとみおんな)定番人同様、関所周辺に住んでおり、小田原藩から小禄が与えられていました。関所唯一の女性役人で「出女」の改めを専門に行っていました。HitomionnaHitomionna was the only female official at Hakone Sekisho. Her job was to conduct body searches on all women traveling from Edo (now Tokyo) to Kyoto.」 廻り込んで。江戸時代、関所では特に・入り鉄砲・出女を厳しく取り締まりました。このうち「出女」とは、江戸から無断で出ようとする女性のことです。大名の妻子は江戸に住まわされる「参勤交代」の制度のもとで、事実上の人質として扱われていました。そのため、大名家の女性が無断で国元へ逃げ帰ることを幕府は警戒していました。女性旅人が関所を通過する際には、人見女が・通行手形の確認・本人照合・身体検査(人相改め)を行い、「出女」ではないことを確認しました。箱根関所は全国でも特に重要な関所であり、人見女はその中でも重要な職務を担っていたことになります。箱根関所の役人詰所(大番所・上番休息所)を再現した展示。①畳敷きの広間 木壁に囲まれた和室で、江戸時代の役所・番所の室内を再現しています。②シルエット人形 白色の人形が3体置かれています。先ほどの説明板にあった「シルエット展示」の方針に 基づき、身体的特徴や衣服の色が不明なため、あえて淡色で表現されています。③役人の業務風景 ・左:箱や帳面を扱う役人 ・中央:書類(通行手形や文書)を確認する役人 ・右:机で記録・事務を行う役人 箱根関所での 旅人の通行手形の確認、記録、取調べ などの業務を表現していた。④展示パネル 各人形の前に役職名と説明が書かれたパネルが置かれており、関所勤務の役人の役割を紹介。⑤背景の武具 壁際には槍などの長柄武器が見え、関所が単なる事務所ではなく、警備・取り締まりを担う 施設であったことを示していた。「面番所大番所・上番休息所の建物の中で、面番所(めんばんしょ)と呼ばれていた部屋です。関所役人や定番人(じょうばんにん)が詰めており、部屋の前の縁側では、「出女」の取調べが行われていました。面番所の内部には、関所役人用に、机を始め硯箱、煙草盆、火鉢などが一人ずつの側に置かれており、奥の壁際には様々な記録を収めた木箱がありました。また、鴨居には槍や刀が掛けられていました。」 左の人物 :札には 定番人(じょうばんにん) 。関所に常駐し、通行人の取り調べや監視を担当した役人です。机の前に座り、実務を行っている様子が表現されています。番士(ばんし)旅人の改めをはじめ、関所施設の維持管理など実務を担う役どころです。箱根関所には常時三名の番士が勤務していました。中央の人物 :通行手形(旅券)を確認している場面。 関所では旅人が提示した通行手形を確認し、身元や通行の正当性を調べました。右の人物 :書類の記録や事務作業をしている役人です。 関所では通行者の確認だけでなく、各種記録・報告業務も重要な仕事でした。「横目(よこめ)番頭に次ぐ地位で、関所業務の正常で円滑な遂行について監視する役どころです。江戸時代後期に新設、常置された役職です。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.23
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この日は5月20日(水)、卒業した会社の健康保険組合の温泉保養所が箱根・仙石原にあり何回となく利用したが、今年の8月末にて閉鎖されるとのことで、今春既に2回訪ねたがこの日は、実兄、義兄と共に3人で訪ねることに。自宅を9時に出発し、実兄、義兄を乗せ、我が軽自動車で西湘バイパス~アネスト岩田ターンパイク箱根(箱根ターンパイク)を利用して最初に大観山展望台を訪ねた。時間は10:11。自宅から1時間10分ほどで到着。大観山展望台からの富士山の勇姿を。前回は4月15日(水)から1か月以上経過し、山頂附近の積雪量もかなり少なくなっていた。ズームして。さらに。これが、前回の4月21日(木)の朝の富士山の積雪状況。「日本景勝百選地 箱根大観山 標高1011M」と。 芦ノ湖とのコラボ。標高は芦ノ湖:723m箱根大観山:1,011m富士山:3,776mそしてこちらは標高:1,356mの駒ヶ岳山頂。「箱根町港」方向をズームして。 再び富士山頂付近をズームして。「箱根のぶらんこ」越しに富士山を。一応幸せのブランコということで2人まで乗れるらしいですが、2人で110Kgまでと書いてあったので、大人のカップルには厳しくないか?!と 。箱根のぶらんこ「箱根のぶらんこ」は、大切な人と一緒にこの大観山で素敵な思い出を作ってしい、という願いから作られた「二人乗りブランコ」です。毎年一組のカップルがこの場所で挙式し、ブランコの前に愛を誓う「幸せのブランコ」であり、前に小田原産のヒノキを使った「地産地消の木製ブランコ」でもあります。雄大な富士山と芦ノ湖を背景に思い出の一枚を残してください。」 歩道橋を渡り「アネスト岩田スカイラウンジ」に向かって進む。この場所からの眺望写真には山々の名前が記入されていた。南アルプスの山々そして愛鷹山も。 駒ヶ岳方向。二子山そして丹沢山地方向。そして「アネスト岩田スカイラウンジ」を訪ねた。館内図。フードコートからのこの日の眺望。「小田原・箱根・伊豆エリアガイド 足を伸ばして想い出をもう一ついつでもどこでもターンパイクアネスト岩田 ターンパイク箱根箱根・湯河原Hakone / Yugawara緑豊かなリゾート「天下の険」と称された箱根。歴史を残す「箱根関所」や芦ノ湖、大涌谷、仙石原など温泉地として有名。湯河原温泉は古くから多くの文豪・画家などが逗留し、創作の筆を執った場所。また、万葉集にも詠まれている歴史のある温泉です。箱根・湯河原は様々な観光地やレジャー施設等も点在し、年間国内外から多くの観光客が訪れています。中伊豆Naka Izu癒しの温泉郷伊豆半島の中央・中伊豆工リア。8 0 7年に弘法大師が開いたとされる伊豆最古の温泉「修禅寺温泉」や演歌にも歌われる天城、「浄蓮の滝」などがあります。また、わさびやみかんの名産地としても広く知られており、お土産としてはもちろん、収穫体験なども楽しめます。東伊豆・南伊豆Higashi Izu / Minami Izu海と自然を満喫日本一の早咲きで有名な河津の桜や、数々の温泉地、花火大会、海水浴などで賑わう東伊豆。マリンスポーツのほか、季節の花々やハイキングなども楽しめる南伊豆。レジャーはもちろん、日本屈指の絶景スポット・獲れたて新鮮な海鮮グルメも魅力です。」アネスト岩田ターンバイク箱根四季折々の楽しみが、あなたの旅の思い出づくりのお手伝いをします。アネスト岩田ターンバイク箱根は、本線小田原料金所から終点の大観山まで約14km。標高1 , 011mまで、大自然・景色の美しさ、数々の歴史的スポットが点在する清々しい道のりが続きます。標高差があるため、桜ゃあじさいをはじめとした四季の草花は段階的に咲き誇り、訪れる人々を楽しませてくれます。 館内の土産物店「星の国」。この日も「湘南ゴールド」が販売されていた。 「湘南ゴールド」は、神奈川県が12年かけて開発した黄色い小ぶりの柑橘で、3月から4月上旬が旬です。レモンのような見た目ですが、糖度12度前後と甘く、爽やかな香りとバランスの良い酸味が特徴。皮がむきやすく、そのまま食べるのはもちろん、加工品にも人気 と。「青梅」1袋 500円と。1kgはなさそうであった。 「アネスト岩田スカイラウンジ」を振り返って。 そして「大観山展望台」を後にして、箱根港に到着。時間は10:41日本の伝統文化を散りばめた「クイーン芦ノ湖」が出航。富士山の勇姿が箱根港からも。ズームして。標高1,101mの「三国山」の後方に富士山の姿が。箱根外輪山のピークの1つで、芦ノ湖の西側に位置する山。かつては駿河、相模、伊豆の三国の境にあったために名付けられたが、現在は静岡県と神奈川県の境のみとなっている。箱根スカイラインが近くを通るが、外輪山の縦走路は展望が良く、付近はブナの大木もあり新緑時期や紅葉期は特に美しいのだ。 「箱根町港」の旅客ターミナル建物。 芦ノ湖の桟橋(箱根海賊船の乗り場)。箱根海賊船の時刻表・特別船室案内。写真の左側は特別船室(ファーストクラス)の案内、右側は海賊船の出航時刻表。湖岸近くには大きな石碑があった。「パウル・シュミット(1872 - 1935)の碑」。 「Paul Schmidt」。「パウル・シュミット(1872 - 1935)の碑パウル・シュミットは1895年、24才の時に来日したドイツ人てす。40年間箱根に暮らし、ドイツのライカカメラを扱うエルンスト・ライツ社の代理店を営み活躍、母国から功労賞を受けました。箱根をこよなく愛し、芦ノ湖の湖畔に「赤門」と呼はれた最初の別荘を建てました。内外人に箱根の美を紹介した先駆者てあり、また大変な親日家で、日本通としてドイツ大使代々の相談役でもありました。恵まれない方々に匿名で金品を贈るなど、その優しい人柄は箱根の人々から大変親しまれました。1935年、出張先の上海て死亡。享年63才でした。その遺徳を偲び、永く顕彰するために、この碑を建立しました。建立: 1936年5月 箱根DMO (一般財団法人箱根町観光協会)」箱根駅伝ミュージアムからすぐ近くの芦ノ湖湖畔にも箱根駅伝記念碑があった。箱根町港の湖畔に建つ「箱根駅伝栄光の碑 若き力を讃えて」。ちなみに、この記念碑の高さは214.7cm、すなわち建立当時(平成6年)の箱根駅伝総距離の10万分の1に相当する と。箱根駅伝栄光の碑「若き力を讃えて」の台座の側面には歴代優勝校の名前が刻まれていた。「東京箱根間往復大学駅伝競走優勝の記録(1/2)」。 「東京箱根間往復大学駅伝競走優勝の記録(2/2)」。ズームして。既に今年「2026年 令和8年 第102回 優勝校 青山学院大学」と刻まれていた。 前方に「平和を願う碑」。「私たちは、人々の幸せと世界の平和に貢献できる町づくりを目指す」という内容が刻まれていた。その後ろにあったのが「駅伝を讃えて」と書かれた石碑。箱根駅伝の60回大会を記念して建てられた詩碑。勝承夫の詩が刻んであった。「駅伝を讃えて 若い豹は春の象徴 君たちが走ると 東海に春がよみがえる 富士はおおらかに微笑み 相模の海は夢多い調べをおく 君たちは意志と力の群像 君たちは青春の花々 赤や海老茶や紫が入りみだれて 春のさきがけのテープを織りなす 君たちは光のようにはつらつと走り 町々を 並木を 野を 山を 呼びさます 春のつばさ 東京箱根間大学駅伝 二日間のレースは 二つないスポーツの交響楽 自然の美とスポーツの美の 明るく展ける新春のフィルム よろこびと涙を わかち合う二百二十キロ若い日の楽しい感激よ 勝 承夫 」 石碑の裏側。「東京箱根往復大学駅伝競走第六十回大会を記念して、この詩碑を建立する昭和五十九年 新春」と。 「東京箱根間大学駅伝競走記念碑」。 裏側には「私たちは、人々の幸せと世界の平和に貢献できる町づくりを目指すことを目的に町制施行五十五周年を記 念してこの碑をここに設置します。平成二十三年九月三十日 箱根町長」と。 そして次の訪問場所「箱根関所」に向かって「国道1号」を進む。左に大きなホテルがあった。 「箱根ホテル」と。そしてその先にあったのが、大きな土産物店。 「箱根関所 旅物語館」。足柄下郡箱根町 箱根10。 ・・・つづく・・・
2026.06.22
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この日は5月13日(水)、我が趣味に養蜂の畑に、今年もキジ(雉)の夫婦!?が訪ねて来ました。この日はスマホ(IPHONE14)で撮影しました。赤い顔の雄のキジの後ろに茶色のメスの姿が。毎年、5月中旬になると、毎朝、我が菜園に遊びに?来るのです。雄のキジを追いかけて。オスのキジは、金属光沢を帯びた緑色の頭部、赤い顔、長い尾羽が美しく、日本の野鳥の中でもひときわ存在感があるのです。春から初夏にかけては「ケーン、ケーン」👈️リンク と甲高く鳴いて見せるのです。そして、翼を打ち鳴らす「母衣打ち(ほろうち)」👈️リンク も見せてくれるのです。畑の土の上を悠然と歩む雄のキジ。陽光を浴びた羽は、まるで絹織物のような光沢を帯び、首筋は青から緑へと微妙に色を変える。赤く彩られた顔は精悍で、遠くを見据える姿には野生の誇りが感じられるのです。灰青色の胴に銅色の羽根が散りばめられ、長く美しい尾羽は一本の筆で引いたように後方へ伸びる。その姿は、まるで日本画から抜け出してきたかのように。耕された我が菜園の中を静かに歩く姿は、訪問者というよりも、この土地の主のような風格を漂わせているのです。キジは雑食で、およそ食べられる物なら何でも食べるようです。 主に草の葉や花、種子などを食べるようですが、昆虫や小動物なども好んで食べるのです。昆虫、ミミズ、クモ、ネズミ、ヘビ、トカゲも食べるのだとネットから。この時期、雑草の新芽等も好んで食べているようです。美味そうな雑草の新芽を探していたのでしょうか?長芋の栽培場所を訪ねていました。ズームして。・真紅の肉垂(にくすい)・金色に輝く虹彩・瑠璃色から紫色へ変化する首の羽毛・緑金色に輝く胸の羽が見事!!。まさに日本の国鳥にふさわしい華やかさ。1947年に日本鳥類学会が日本の国鳥に選定。キジが選ばれた理由は以下の通りと、ネットから。・日本固有種:日本列島にのみ生息する固有種であること。・文化的な結びつき:『古事記』や『日本書紀』、『桃太郎』などの民話に古くから登場し、 人々に親しまれていること。・象徴的な姿:オスの羽色が美しく勇敢で、メスは母性愛が強いとされていること。そしてこのツガイ(番い)のキジは、数年前にデジカメで撮影したものです。雌(メス)のキジです。雄のような鮮やかな緑や赤はありませんが、その美しさはむしろ繊細な自然の色彩に。・頭部は淡い黄褐色から薄茶色・首から胸にかけては細かな黒褐色の波模様・背中には栗色・黄土色・黒色が複雑に織り込まれた羽模様・尾羽は枯草に溶け込むような淡褐色と黒褐色の縞模様・全身は草原や畑の土と見事に調和する保護色近くで見ると、一枚一枚の羽に描かれた繊細な模様は、まるで職人が描いた友禅染めや西陣織の文様の如くに。これが5月16日(土)早朝の写真です。雄のキジの後ろ姿を。畑の高みに静かに立つ一羽の雄キジ。朝の光を受けた背中は、銀灰色の羽毛に覆われ、その上に栗色と黒色の細やかな模様が散りばめられている。首筋には紫から緑へと移ろう金属光沢が残り、振り向いた横顔の赤い肉垂れがひときわ鮮やかに映えるのであった。長く伸びた尾羽は、幾筋もの縞模様をまといながら地面へと流れ、まるで名工が描いた筆の一閃のように。背を向けていても、その姿には野生の誇りが漂う。静かに佇むだけで、周囲の景色を引き締める風格があるかのごとくに。ズームして。鮮やかな紅色の顔を掲げ、雄キジが凛々しく立つ。首筋は紫紺から瑠璃色へと移ろい、光の加減によって青にも緑にも見える。その羽はまるで磨き上げられた宝石のような輝きを放っていた。肩羽には銀色の縁取りを施したような精緻な鱗模様が重なり、その間から栗色の羽がのぞく。自然が一羽の鳥に与えたとは思えないほど緻密で豪華な装いなのいであった。白銀色の胴体は柔らかな光を受けて輝き、全体として気品と力強さを兼ね備えた姿を見せていたのだ。さらにズームして。昨年と同じキジであろうか?ネットで調べて見ると、「キジの平均寿命は約10〜15年です。渡り鳥ではなく、ほぼ一年中同じ場所に定住する「留鳥(りゅうちょう)」に分類されます。行動範囲はそれほど広くなく、縄張りを持ちながら生涯を同じ地域で過ごす習性があります。」と。よって雄は同じキジ君!!?さらにズームしたがピンボケ!!残念!!キジ(オス)の顔の周りにある赤い部分は「肉垂(にくすい)」と呼ばれる と。羽毛が生えておらず、皮膚が露出してコブやヒダのようになっている部分と。また、この肉垂はニワトリなどの「とさか」と同じく、毛細血管が非常に多く集まっている器官。特に春の繁殖期になると大きく鮮やかに肥大し、メスへのアピールや縄張りを主張するために使われているのだ と。こちらを向いてくれたので慌てて。ズームして。やっとピントが合った写真を!!顔の表情真紅の顔は細かな粒状の肉垂(にくすい)で覆われ、まるで珊瑚(さんご)を散りばめたかのように。その中央で、淡い黄色の虹彩が鋭く光る。野生の鳥ならではの警戒心と力強さが宿り、一瞬たりとも周囲を見逃さないという緊張感が伝わって来るのであったが。首元の美しさ首から胸にかけては、深い瑠璃色と紫紺色が溶け合っていた。一枚一枚の羽が光を受けるたびに、・青・紫・緑へと色を変え、まるで宝石のラピスラズリや孔雀石を重ねたような輝きを見せて。羽模様拡大すると羽は単なる一色ではなく、小さな鱗を幾重にも重ねたような構造を。その繊細な重なりが光を反射し、金属を磨いたような光沢を生み出しているのであった。これも数年前の写真。親子の写真と思っていたが、ネットからは違うようだ。以下、ネットから。「キジは鳥類の中で非常に珍しい縄張りを持った1羽のオスが複数のメスを囲うのが特徴で、繁殖期にはオスが派手な求愛行動を行います。キジの繁殖における主な特徴は以下の通りです。オスの役割:大きな声で鳴き、翼を激しく羽ばたかせて「母衣打ち(ほろうち)」という音を 立てて自分の存在をアピールします。テリトリーに入ってきたメスと交尾しますが、 子育てには一切参加しません。メスの役割:巣作り、抱卵、ヒナの育成などすべての育児を単独で行います。 敵から卵やヒナを守る母性が非常に強いのが特徴です。見た目の違い:オスは緑や赤の鮮やかな目立つ体色をしていますが、メスは枯草に同化する 地味な保護色をしています。」 と。なるほど、この時期の子供だと体が大きすぎることが解ったのであった。羨ましい!?雄のキジの姿なのであった。これも、何年か前の母と子の姿を。3羽の子供を連れて散歩中であったか?本当に子連れでの夫婦のキジの姿は見ることが出来ないのであろうか??そして雄のキジの「母衣打ち(ほろうち)」の写真をネットから。両翼が高速で振り下ろされ羽が残像となって扇状に広がり赤い顔が緊張感に満ち口を開いて鳴いている様子が。まさに「ケーン!」と鳴いた直後、「ドドドドッ!」と翼を打ち鳴らしている瞬間。この翼を打つ音が武士が背負った「母衣(ほろ)」という袋状の装具が風を受けて膨らむ様子に似ていることから、「母衣打ち」と呼ばれていると。戦国武将の「母衣」 一例。「母衣(ほろ)は、日本の武士の道具の1つ。矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、後には旗指物の一種ともなった。ホロは「幌」「保侶(保呂)」「母蘆」「袰」とも書く」と。 そして昔、このキジが我が菜園で鳴きましたが、いつもの鳴き声と異なる鳴き方だったので、アレ!?と思っていたら、直後に外にいても判る地震・震度4の揺れがありました。地震予知能力が間違いなくありそうですが!!ネットAIに訊ねてみました。その回答は『キジには、人間が感じ取れない微小な振動(初期微動・P波)を素早く察知する能力があります。古くから「キジが鳴くと地震がくる」という言い伝えがありますが、これは厳密には地震を「予知」しているのではなく、人間よりも数秒早く揺れに反応しているためと考えられています。なぜキジは地震に敏感なのか?足裏の感覚細胞: キジの足の裏には、ごくわずかな震動に反応するヘルブスト小体という 感覚細胞が発達しています。P波への反応: 地震の際に最初に届くカタカタという小さな揺れ(P波)を鋭く感じ取り、 人間が大きな揺れ(S波)を感じる前に「ケーン」と鳴いて騒ぐことが多い ようです。地上生活: 基本的に地面の上で生活しているため、樹上の鳥などに比べて地面の異変に 気づきやすいという特性もあります。』と。さてさて、真相はいかに!?そして最後にキジの漢字「雉」について。「雉(キジ)」は、鳥を表す「隹(ふるとり)」と、音を表し「まっすぐに飛ぶ」という意味も併せ持つ「矢」を組み合わせた形声文字(会意兼形声文字)です。「雉」の漢字の成り立ちやポイントは以下の通りです。・隹(ふるとり):短い尾の鳥の姿から、「とり」や「鳥類」を意味します。・矢(や):音符(発音を表す部分)として働くとともに、キジが直線的に素早く飛ぶ・ 走る様子を表現しています。これらが合わさることで、「矢のようにまっすぐ飛ぶ(走る)鳥」としてキジを表す漢字が成り立ちました とAIから。 今日は、キジの生態等・・・について多くを学ぶことが出来たのです。これからも好奇心を忘れないで生きて行こうと考えている後期高齢者なのです。とは言え、「雉も鳴かずば撃たれまい」👈️リンク は忘れずに!! ・・・完・・・
2026.06.21
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この日は5月28日(木)、現役時代に大変お世話になった、平塚にある元協力会社の社長を訪ねた。そして帰路に、茅ヶ崎にお住まいの先輩宅に立ち寄り、玄関前の梅の木にたわわに実った青梅を先輩に採ってもらい2kg以上戴いたのであった。そして帰宅途中にスーパーに立ち寄り、氷砂糖とホワイトリカーを購入し帰宅。戴いた大粒の青梅。青梅を水洗いし、傷つけないようにフォーク&竹串の先でヘタ(なり口)を取り除いた。妻が手伝ってくれました。そして熱湯消毒し乾燥させた保存瓶に、キッチンペーパーで青梅の水分を1粒ずつ完全に拭き取り少しずつ丁寧に入れる。購入した「氷砂糖」・1kg。そして青梅と氷砂糖を交互に入れた。横から見る。そして今年は「ブランデーベースリキュール 35%」を購入。ブランデー特有の高級感あふれる味と香りが際立ち、よりグレードの高い果実酒づくりに最適とのこと。因みに、酒税法により、アルコール度数20度未満のお酒で漬けることは禁じられているのです。国税庁のルール(自家醸造のQ&A)では、この行為は「酒類の製造」とみなされる と。しかし、一定の条件(消費者が自分で飲むことなど)を満たした場合にのみ特例として許可されているとのこと。そのため、無免許での製造でも安全性が保たれるよう、腐敗や新たなアルコール発酵が起きにくい20度以上のお酒を使うことが絶対条件とネットから。ただし、この自家醸造の梅酒を販売することは禁止されているとのこと。「おいしい果実酒 つくりましょう ブランデーベースリキュール」と。 ブランデーは果実酒を蒸留して造られる「蒸留酒」そのもの。一方ブランデーリキュールは、ブランデーに果汁や糖分、香料などを加えて飲みやすく調整した「混成酒」と、ネットから。「ブランデーベースリキュール 35%」を入れて、瓶の上から。1.8Lを静かに注ぎ入れ、しっかりと蓋を閉めたのであった。今年は2本の梅酒を作りました。横から見る。そして台所の床下にある 直射日光の当たらない涼しい場所の冷暗ボックス・床下収納庫に入れる。現在、1週間に1回程度、瓶をゆっくり回して氷砂糖を溶かしています。3か月程の9月上旬になれば飲めるようになるようですが、私1年以上熟成させ、色が十分琥珀色に深まり、コクと深みが増した味わいに変化してから楽しんでいます。昨年仕込んだ梅酒です。梅の実を取り出すタイミングは、仕込んでから1年後が目安としています。1年経つと梅のエキスは十分に抽出されており、それ以上漬けておくと実から苦味や渋みが出てくることがあるからです。ただし、半年程度で取り出す方もいれば、2年以上漬けたままにする方もいるようです。好みや梅の状態を見ながら判断するとよいでしょう。我が家は梅の「甘露煮」を楽しんでいます。 それでは、今日も床下収納庫の梅酒瓶を掻き回しに行って来ます。 ・・・完・・・
2026.06.20
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そして、品川駅で知人に会う約束があるので、残念ながらこの日の見学はこれまでとし、展示室を後にする。江戸東京博物館リニューアル記念特別展「大江戸礼賛」👈️リンク ポスター。会期:2026年4月25日(土)-2026年5月24日(日)会場:1階特別展示室江戸時代中頃に、人口100万を擁する大都市へと成長した江戸。人々は「花の御江戸」「大江戸」などと称して、その繁栄を寿ぎました。江戸に暮らした武士や町人たちは、この地の何を誇り、自慢としたのでしょうか。泰平の世における武家の道具、相撲・歌舞伎・吉原の賑わい、流行を生んだ出版文化、頻発する火災に立ち向かった火消、趣味や学問を介した文化人たちの交遊――。選りすぐりの逸品と初出品資料を軸に、都市「大江戸」の魅力に迫ります。「江戸東京博物館リニュール念特別展、大江戸礼賛」と。 上記ポスターの原画は以下2作。「東都両国はし夏景色」。 「東都名所 高輪二十六夜待遊興之図」。 上部パネル「江戸東京たてもの園へようこそ東あふれる緑の中にたたずむなつかしい建物が、江戸・東京の歴史と文化を伝えています。江戸時代の農家から昭和初期の看板建築まで、30棟の建物が移築されています。」下部パネル復元建造物のご紹介江戸東京たてもの園の園内案内図と、復元建造物の紹介が掲載されていた。 「墨田区観光情報コーナーSUMIDA CITY TOURIST INFORMATION・左側ポスター すみだ五彩の芸術祭 縦書き部分 すべての人が真ん中 そんな芸術祭がやってくる 下部 2026年9月スタート・中央モニター 屏風・右側ポスター すみだ 上部英語 AUTHENTIC TOKYO SUMIDA」 「地球の歩き方 2023-24GLOBE-TROTTER TRAVEL GUIDEBOOKwww.arukikata.co.jpすみだの歩き方Sumida, Tokyo」 旅行ガイドブック『地球の歩き方』の地域版で、東京都墨田区を特集した冊子。「電子版はこちら→地球の歩き方 2024〜25GLOBE-TROTTER TRAVEL GUIDEBOOKwww.arukikata.co.jpすみだの歩き方葛飾北斎Sumida, Tokyo」 表紙の図柄は、墨田区ゆかりの浮世絵師 葛飾北斎の代表作である神奈川沖浪裏(『富嶽三十六景』の一図)をモチーフにしている。そして「江戸東京博物館」の北口から外に出る。 「言問橋の欄干と縁石」 腐食が進んでいたが・・・。「言問橋の欄干と縁石言問橋は、1928年(昭和3)に完成した、いわゆる震災復興大橋梁のひとつである。1945年(昭和20)3月10日未明の東京大空襲の際、浅草方面から向島方面へ避難しようとする人びとと、その反対側に渡ろうとする人びとが橋上で交錯し、身動きがとれない状態となった。人だけでなく、荷車やリヤカーも通行を妨げた。そこへ火が燃え移り、橋上はたちまち火炎に包まれた。橋上で逃げるすべもなく、多くの市民が焼死した。1992年(平成4)の言問橋の改修工事にあたって、当時の欄干と縁石が撤去されることになったため、東京大空襲の被災資料として、その一部を当園に譲っていただいた。Railing and Curbstone of Kototoibashi BridgeKototoibashi Bridge, completed in 1928, is one of the so-called Great Kanto Earthquake reconstruction bridges. During the Tokyo air raids in the early hours of March 10, 1945,people attempting to evacuate from the Asakusa area toward Mukojima collided withthose trying to cross to the other side. Carts and rickshaws also obstructed passage, and people were trapped on the bridge. Fire then spread, and the bridge was instantly engulfed in flames. With no escape route on the bridge, many perished in the fire.During the 1992 renovation of Kototoibashi Bridge, the original railings and curbstones were scheduled for removal. Parts of these were donated to our museum as materials documenting the damage from the Tokyo air raids.」 「徳川家康像 山下恒雄作」👈️リンク 東京都墨田区横綱1丁目4−12。平成5年3月、江戸東京博物館が両国の地に落成すると、江戸消防記念会の会員に、徳川家康像建立気運が一気に盛り上がり、ついに平成6年4月、東京都で初となる徳川家康公銅像が落成。贔屓(ひき=中国における伝説上の生物/亀趺・きふ)の背に、鷹狩の勇姿で江戸城を望む鷹狩り姿を表した像で、鍛金作家・山下恒雄(やましたつねお=東京藝術大学名誉教授)の制作。あえて亀趺の上に乗る姿なのは、亀趺に乗ることで、運河が巡る江戸の町を従える姿を表現しているのだと推測できます。台座が15段なのは、幕府の将軍職が15代続いたことに因んだもの。像の高さは3.7m。(台座からの高さ7.76m)、重量30トン。鷹狩の勇姿をズームして。「徳川家康公銅像建立由来鷹狩の勇姿で江戸城を望んでいる徳川家康公が始めて、草深い江戸の地に天正十八年(1590年)に、豊臣秀吉の命により国替えとなった。そして、関ヶ原の戦い後慶長八年(1603年)征夷大将軍となり江戸に幕府を開き天下普請を大名に命じ、本格的な都市づくりの大事業を行い、政治の中心地として明治に至るまでの永き亘って現在の東京の基礎となったことは周知の事実である。社団法人 江戸消防記念会では、このような、江戸開府の大事業を成し遂げた徳川家康公の偉業を称え、顕彰すべく銅像建立の計画を練っていたところ、平成五年三月、江戸消防記念会が両国の地に落成の運びとなるや徳川家康公銅像建立気運が一気に盛り上がり記念会創立以来の名誉ある事業であることから、これを積極的に推進し、東京都をはじめ関係諸機関に格別のご協力をいただきまして、江戸消防記念会が主体となって平成六年四月銅像を建立、東京都に寄贈したものである。」 「江戸東京博物館」を左手に見ながら、両国駅に向かう。 江戸東京博物館前の広場に並ぶ赤いフレームは、まるで時間の回廊のよう。歩くたびに空や建物の見え方が変わり、来館者を江戸と東京の歴史世界へ誘う印象的なアート空間となっていた。江戸東京博物館(両国)の正面外観を振り返って。ズームして。1. 巨大な高床式構造写真右側の白い建物が江戸東京博物館本体。設計者は 菊竹清訓氏 。建物は日本の伝統的な「高床倉庫」や校倉造を現代的に解釈したもので、地上約25mの高さに展示空間が持ち上げられていた。巨大なコンクリート柱が建物全体を支えており、その迫力は博物館の象徴となっていた。2. 大階段正面の幅広い階段は来館者を迎えるメインアプローチ。開館中は多くの来館者がこの階段を上り、エントランスホールへ向かうのだ。3. 赤いフレームのアート左側に並ぶ赤い門型フレームは近年設置された演出空間。フレーム内部には江戸や東京をイメージしたデザインが描かれ、連続する額縁のように見えることから、来館者を「歴史の世界」へ導くゲートの役割を果たしていた。4. 江戸東京博物館らしいスケール感写真左下の人物と比較すると、柱・階段・建物がいかに巨大であるかがよく分かった。この圧倒的なスケールは、徳川家康による江戸開府から現代東京までの歴史を扱う博物館にふさわしい「都市そのものを展示する器」として設計されたもの と。そして「JR両国駅」まで戻る。「全勝 昭和五十三年十一月場所 横綱 若乃花幹士関」 。若乃花幹士・四股名 下山 勝則→朝ノ花 勝則→若三杉 幹士→若三杉 壽人→若乃花 幹士・本名 下山 勝則・愛称 カンボ、美剣士、五月人形・生年月日 1953年4月3日[1]・没年月日 2022年7月16日(69歳没)・出身 青森県南津軽郡大鰐町[1]・身長 186cm・体重 136kg・BMI 39.31・所属部屋 二子山部屋・得意技 左四つ、上手投げ、外掛け・成績 最高位 第56代横綱 生涯戦歴 656勝323敗85休(88場所) 幕内戦歴 512勝234敗70休(55場所) 優勝 幕内最高優勝4回 賞 殊勲賞2回 技能賞4回データ 初土俵 1968年7月場所 入幕 1973年11月場所 引退 1983年1月場所 引退後 年寄・間垣備考 金星3個(北の湖3個)JR両国駅構内にある「両国ステーションギャラリー」入口江戸東京博物館見学を終えて駅へ戻った際に出会う、両国駅ならではの「鉄道遺産の入口」。JR両国駅構内には、旧3番線ホームへ続く「両国ステーションギャラリー」が設けられている。赤いカーペットとレンガ風の柱が並ぶ通路には展示パネルが掲げられ、かつての臨時ホームの面影を残しながら文化発信の場として活用されているのであった。移動して。ペットボトルのキャップを並べて作ったモザイクアート。・力士が化粧まわしを締めて立っている姿・背景には土俵や相撲部屋を思わせる建物・下部に大きく「両国」の文字・緑色の部分は木々や公園の景観・青色の部分は空や屋根が描かれているようであった。両国ステーションギャラリー内に設置されているストリートピアノ。ピアノの左側には、「ステーションギャラリーは 17:00 でクローズします。あらかじめご了承ください。」と。 旧3番線ホームへ続く歴史ある空間で、鉄道写真に囲まれながら自由に演奏できる。駅の文化発信拠点らしい温かみのある風景であった。「両国ステーションギャラリー」内部の回廊を、中央から正面に向かって。この通路は、かつてのJR両国駅3番線臨時ホームへ続く通路。大相撲開催時には全国各地からの団体列車が発着し、多くの観客がこの付近を行き交った。現在は「両国ステーションギャラリー」として保存活用され、・鉄道史・両国駅の歴史・相撲関連展示・地域文化展示などが行われているのであった。「両国駅歴史展」両国ステーションギャラリーの回廊は、赤いカーペットが一直線に伸び、左右にはレンガ風の柱と展示パネルが並ぶ。駅構内とは思えない落ち着いた空間で、かつて臨時ホームへ向かった旅人たちの足音が聞こえてくるようであった。 そしてJR両国駅のホームから見えた「ちゃんこ 江戸沢 両国総本店」の巨大な看板。・建物正面に横綱のしめ縄(注連縄)を模した立体看板・周囲に相撲を連想させる白い綱状装飾・上部には店名の「ちゃんこ 江戸沢」の大きな文字・「総本店」の文字が入り、両国が相撲の街であることを強く印象づけていた そしてホームから東京都墨田区にある「東京スカイツリー」・634m高も見えた。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.06.19
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