JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.04.29
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カテゴリ: JINさんの農園
この日は4月16日(火)、2024年2月末に
『​ 浦賀ドック【世界に4か所しか現存しない造船所跡】見学と軍港めぐり YOKOSUKA
クルージングツアー
』👈️リンク
に元同僚2人と参加し、その後にブログにアップしたが、
ブログを書きながらネットで調べて見ると、訪ねてみたい場所がまだまだ多くあったので、
この日に再び横須賀市浦賀に向かったのであった。
小田急線、横浜市営地下鉄、京浜急行線を利用して浦賀駅に到着し散策開始。



浦賀駅(うらがえき)は、神奈川県横須賀市浦賀一丁目にある、京浜急行電鉄本線の駅。
1930年(昭和5年)4月1日 - 開業
1957年(昭和32年) - 駅舎を築堤上(現在地)に移転。



現在地 」はここ。



近づいて。



神奈川県道208号線・「浦賀通り」 「浦賀駅前」交差点



浦賀駅前 」交差点。



横断歩道を渡ると、正面に観光案内用の絵画が並んでいた。



黒船来航 開国のまち・浦賀
ペリーが率いる4隻の第船が来航し、泰平の眠りから目ざめた日本は、近代国家建設へ向かうと
ともに国際社会へのデビューを飾った。
浦賀地域はその第一幕の舞台である。」



1853年 浦賀に黒船来航 」。



2014年に横須賀市立浦賀中学校 (同市浦賀3丁目)の美術部が4カ月かけて描いた
「黒船来航図」であると。
「浦賀・鴨居地域運営協議会」から依頼を受けたもので、縦1.5m、横4m。1853年にペリーが
黒船4隻を率いて浦賀に来航した際の模様を描き、アクリル樹脂絵の具で彩色した。

迫力のある船体に加え、波、雲や煙の描写でも趣向を凝らした。作品から少し離れた左側には、
黒船来航を受けて国の行く末を浦賀で語り合った吉田松陰と佐久間象山を描いた絵が既に
掲げられており、激動の歴史の流れに思いをはせることができる一角となっている 
とネットから。

浦賀に黒船“再来” 中学生49人が描く | 社会 | カナロコ by 神奈川新聞

黒船
サスケバナ ​  👈️ リンク  : SUSQUEHANNA 3本マスト木造外車フリゲート 76.20m長
ミシシッピー ​​ 👈️ リンク  :MISSISSIPPI         3本マスト木造外車フリゲート 67.06m長
プリマス 👈️ リンク     : PLYMOUTH           3本マスト木造帆送スルーブ    44.96m長
サラトガ  👈️ リンク        : SARATOGA           3本マスト木造帆送スルーブ  44.63m長




黒船来航を受けて国の行く末を浦賀で語り合った 吉田松陰と佐久間象山 を描いた絵。
徳田屋 」。 



徳田屋 鴨居中学校
東浦賀て始めて幕府の許可をえて正式に旅館を営業した家で、浦賀を訪れた武士や文化人が
泊まったと記録されている。
特にペリー来航の時には、佐久間象山と吉田松陰らがこれからの日本のことを熱く語った場所
である。
浦賀国際文化村推進協議会」



小林一茶と専福寺 」 



「​ 小林一茶と専福寺 👈️リンク​​  上の台中学校
江戸時代の俳人・小林一茶が残した日記の文化3年(1806)6月1日の記事に、東浦賀専福寺に
基参に訪れたことが記されている。墓参は一茶が20数年前浦賀の地で出会った初恋の人への
ものであった。その人はどんな人だったのでしようか。境内にその句碑がある。
浦賀国際文化村推進協議会」



雷電為右衛門 」。



「​ 雷電為右衛門 ​👈️ リンク  浦賀中学校
江戸時代から明治時代にかけて、三浦半島は相樸が盛んなところであった。
とくに浦賀には、江戸大相撲の力士が度々訪れた記録がある。なかでも文化6年(1809) 6月には、
江戸大相撲でも無敵を誇った雷電為右衛門が来て、東浦賀の東林寺境内て興行をしている。」


そして「浦賀駅」を振り返る。



「浦賀通り」を「浦賀ドック」方向に向かって進む。



その先、浦賀駅から久里浜に向かう道の左側と観音崎に向かう道の右側に歴史の町浦賀を表わした
十二枚の絵・「 浦賀歴史絵図 」がかけられていた。
浦賀国際文化村推進協議会が平成十二年の咸臨丸フェスティバルのイベントの一環として
作成、展示したものと。

浦賀国際文化村推進協議会の案内絵
黒船来航の地 ようこそ浦賀へ 明日の浦賀をつくる会 」。



ペリーとサスケハナ号 」。



ペリーとサスケハナ号 浦賀小歴史絵委員会
嘉永六年(一八五三)六月、アメリカ大統領の国書を持ったペリーが率いるサスケハナ号以下
四隻の黒船が浦賀沖に姿を現わした。このペリー来航により鎖国政策はピリオドをうち。
日本の近代はここに始まった。
浦賀国際文化村推進協議会」



中島三郎丸と鳳凰丸



中島三郎助と鳳凰丸 中島三郎助と遊ぶ会
ペリー来航により、幕府は軍艦の必要性を強く感じ、浦賀奉行所の与カ・中島三郎助らに
軍艦建造を命じた。
安政元年(一八五四)五月、日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸は浦賀の地て誕生した。
浦賀国際文化村推進協議会」



勝海舟・福沢諭吉と咸臨丸 」。



勝海舟・福沢諭吉と咸臨丸 上の台中
日米修好通商条約批准交換の使節のお供として、安政七年(一八六〇)一月、勝海舟を艦長にした
咸臨丸は浦賀を出港した。福沢諭吉は軍艦奉行木村正毅の従者として乗り組んだ。
日本人の手に よる最初の太平洋横断の航海であった。
浦賀国際文化村推進協議会」



榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック



榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック 鴨居中学校
日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸の建造に貢献した中島三郎助の招魂碑の除幕式の列席メンバーに
よって「浦賀ドック」は創設され、この中心人物が榎本武揚であった。時を同じくして、西浦賀の
川間の地に同様に造船所を創ったのは明治期の大実業家渋沢栄一であった。
浦賀国際文化村推進協議会」



ヴェルニーと観音埼灯台 」。



 「 ヴェルニーと観音埼灯台 浦賀中学校
明治ニ年(一八六九)一月一日、日本で最初の洋式灯台である観音埼灯台が点灯した。
開国後の条約で定められた船舶の航行安全を図るためのものであった。
灯台建設には、横須賀製鉄所(後の造船所)の所長であり、技術者のヴェルニーの力による
ことが大きい。
浦賀国際文化村推進協議会」



虎踊り 」。



虎踊り  浦賀中学校美術部
享保 五年(一七ニ〇)伊豆下田から奉行所が浦賀へ 移転してきた。この時下田奉行所で足軽役
として廻船の船改めをしていた下田の問屋も浦賀へ移転してきた。この下田の問屋が伝えたのが
「虎踊り」であった。これに当時江戸で流行していた近松門左衛門の「国姓爺合戦」 の
ストーリーを取り入れ、和藤内を登場させ、唐子の踊りを入れて浦賀風の 「虎踊り」が完成した。
現在は六月中旬の西浦賀四丁目(浜町)にある為朝神社の祭礼の折に演じられる県の無形文化財
である。 
浦賀国際文化村推進協議会」



干鰯問屋 」。



干鰯問屋 浦賀小学校2001年度卒業生
干鰯(ほしか)とは、鰯を天日でカラカラになるまで干した物で、畑、特に綿作りの肥料としては
最適なものであった。浦賀の干鰯問屋は東浦賀のみにあり、江戸時代の初期には十五軒で
あったが、寛永十九年(一六四ニ)に三十軒の問屋株が成立し、大変な繁盛ぶりであった。
元禄五年(一六九ニ)からは灯明堂の維持管理と年間ニ〇〇両の運上金を収めるようになった。
町の浮き沈みはすべてこの干鰯と関係があるほど東浦賀は干鰯一色であった。
浦賀国際文化村推進協議会」



浦賀港とスペイン商館 」。



浦賀港とスペイン商館  鴨居中学校
徳川家康は江戸に入ると、対外貿易積極策を展開し、江戸に近い浦賀を貿易港とした。
貿易の相手にはイスパニアを希望しており、フィリピンに使いを出している。この要望を
受け入れて慶長十一年(一六〇六)と十三年(一六〇八)にイスパニア船が入港した。これらを
契機にして浦賀には修道院や商館が建てられ、金銀島探検の任務をもったビスカイノらも
浦賀に滞在した。しかし、浦賀の貿易港構想はこれ以上に発展することなく、家康の死去と
ともに消滅した。 
浦賀国際文化村推進協議会」




                 ・・・​ つづく ​・・・







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Last updated  2024.05.15 18:58:43
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