JINさんの陽蜂農遠日記

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聖書預言@ Re:江戸東京博物館へ(その54)(09/23) 神の御子イエス・キリストを信じる者は永…
けいぼう@@ Re[2]:辻堂古道散歩(その3)(08/18) jinさん ありがとうございます。 ご承諾…

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2026.09.10
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カテゴリ: JINさんの農園
「 T6-2 生活の変化 」。
昭和初期の都市化や生活様式の近代化、関東大震災後の復興と人々の暮らしの変容を扱うテーマ。



「 生活の変化
大正中期から、民間企業に勤める給料生活者、とくに事務労働に従事する会社員は、
〈サラリーマン〉と呼ばれた。彼らは、いわゆる.資本家と工場労働者にはさまれた新たな
階層として〈新中間層〉とも称され、勤務時間のさだめられた生活を毎日繰り返す一方で、
勤務時間外や体日を活用した余暇を楽しむことが増えた。やがれ第一次世界大戦による好景気を
うけて、サラリーマンや工場労働者の貿金が上昇すると、生活費に占める交際費・娯楽教養費の
割合も大きくなった。
また、それらサラリーマンや工場労働者など給料生活者の増加は、職場と住居の分離を促した。
それは、住宅の間取りや暮らし方にも変化を与え、交通の発達とともに東京近郊の住宅地では、
新しい生活様式が形成されていった。
その機運は、生活の合理化や洋風化をすすめる〈生活改善運動〉によって推進された。それが
目指したような急激な生活改革は難しかったが、たとえば家族全員で食卓を囲む卓袱台
(ちゃぶだい)や茶の間の普及など、家族中心の暮らしから徐々に生活の合理化が浸透していった。



住生活の諸相
近代化によって登場したガスと電気は、まず光源として普及し、照明から家事を含む
生活全般に広く用いられるようになった。これらによって、住生活のあり方は徐々に変化した。
ガス灯は石油ランプと並行して、明治期のあかりの主役であったが、大正以降はその機能を
電灯に譲り、むしろガスコンロ(ガス七輪)が調理用の燃焼器として一般化し、台所の配置
などにも影響を与えた。そのほか、ガスストーブは洋間の暖房具として文化住宅などで用いられた。
一方、電気は従来の火力に加え、水力発電の開発がすすんで供給量が飛躍的に増大した。さらに
東京市電気局、東京電灯、日本電灯の3者による値下げ合戦で電力料金が低下したため、
電灯が急速に普及した。当時の電球は20ワット程度のものが一般的だったが、従来の
あかりよりも明るく、器具の手入れも簡単になった。
また、扇風機やアイロンなどの電化製品は、山の手の家庭を中心に早くから取り入れられ、
欧米型の生活に用いられるトースター、ストーブ、洗濯機、冷蔵庫なども、昭和初期に
国産化されて珍しがられた。」


「 サラリーマンの服装 」。
 


「 サラリーマンの服装
Clothing Used by White-Collar Workers
パナマ帽
Panama hat
昭和前期
上着・ズボン
Jacket・Trousers
1935年(昭和10)
革鞄(かわかばん)
Leather Bag
昭和前期」 



・革鞄(仕事で使う書類鞄)
・『モダン日本』第4巻第7号(昭和8年〈1933〉)
・サラリーマンとビール
・ビヤホールで使うグラス各種
・栓抜き
・ビール瓶・ピッチャー・トレー
■「 モダン日本 第4巻第7号
MODAN NIPPON (MODERN NIPPON)
1933年(昭和8)
モダン日本社/発行
モダンなサラリーマンたちが愛読した雑誌。内容は芸能・スポーツのほか国産から舶来地の紹介、
漫画、グラビアと多岐にわたり、当時のサラリーマンの多様な趣味を感じさせる。第4巻第7号は
水着特集のグラビアが掲載されている。」 
■「 サラリーマンとビール
White collar workers and beer
ビールは幕末に欧米から日本にもたらされ、1899年(明治32)には、銀座に日本初の
ビヤホールが開店した。東京では、大正期に「新中間層」と呼ばれるサラリーマンが
登場すると、急激にビールの消費量が増えた。彼らは、当時流行したカフェーやビヤホールに
立ち寄って、ビールや洋風のおつまみを前に、会話を楽しんだ。」 
■「 ビヤホールで使われた品々
Articles used in a beer hall
昭和一~昭和前期
キリンビールビール瓶
キリンビールピッチャー
キリンビールグラス(大・小)
キリンビールつり銭皿
キリンビールの栓が入った包装袋」 


「 サラリーマンの登場
Emergence of the "Salarymen"
サラリーマンの登場が、都市の文化とライフスタイルを大きく変えた。
The emergence of salaried workers, known as "salary men," drastically changed the
culture and lifestyle of the city.
上段写真
・丸ビル東側入口の一部
 (三菱経済研究所蔵)
 サラリーマンに親しまれて、丸ビルの姿も親しまれる。
・丸ビルエレベーター前のサラリーマン
 (三菱経済研究所蔵)
下段の漫画
左側
・サラリーマンの天国
右側
・サラリーマンの地獄
 (出典)
  北沢楽天『楽天全集』より(1930年頃)



昭和初期を代表するキリンビールの大型広告ポスター
① モダンガールを思わせる女性
赤と白のスカーフを頭に巻いた若い女性は、昭和初期の流行を取り入れた姿。
当時は洋装や洋風の生活様式が急速に普及し、広告にも「都会的で洗練された女性」が
数多く登場した。
② 麒麟が描かれた扇
女性が持つ扇には、キリンビールの象徴である麒麟が大きく描かれている。
麒麟は中国の伝説上の霊獣で、
吉祥
繁栄
平和
を象徴するとされ、創業以来キリンビールの商標として使われている。
③ 洋風広告デザイン
文字には英語
KIRIN BEER COMPANY, LIMITED
が入り、日本語と英語を組み合わせたデザインは、当時の国際都市・東京らしいモダンな
雰囲気を感じさせる。



「 キリンビール・キリンレモン
Poster: "Kirin Beer, Kirin Lemon"
昭和初期
精版印刷株式会社/印刷
麒麟麦酒株式会社/発行
水着姿の女性が広げている日傘に描かれているのは、1889年(明治22)の発売以来
用いられているビールのラベルデザイン。
麒麟麦酒株式会社は震災復興を機に炭酸飲料製造にも取り組み、1928年(昭和3)には
キリンレモンが発売された。」 



「 都市の新しい職業
1890年(明治23)、荒涼とした丸の内の官有地の払い下げを受けた三菱は、そこへ最新の
オフィス街の建設を企てた。赤煉瓦のビルが次々に建てられ、その一角は、ロンドンの
金融街・シティのロンバート・ストリートにならって「一丁ロンドン」と呼ばれた。
そして、1914年(大正3)に東京駅ができると丸の内一帯はさらなる活況を呈した。
丸ビルが関東大震災でさしたる被害を受けなかったこともあり、一帯はやがて
鉄筋コンクリート造のビルが立ち並ぶ一大ビジネスセンターへと成長した。
当時、「新中間層」と呼ばれたサラリーマンや、職場に進出した「職業婦人」たちは、
東京郊外から私鉄や省線電車(国有の鉄道)で通勤し、ビジネスセンターには新しい風俗を
生み出した。こうした現象はサラリーマンや働く女性たちの職住分離の進展を示すもので、
労働の形の変化は、新しい家族関係や生活様式を生み出すことになった。
また、サラリーマン家庭を中心に、女性は家庭内で家事をするという性別による役割分担が
確立され、〈女中〉〈子守〉の役割を妻が一人でこなす専業主婦というあり方も生まれた。
こうした主婦像の成立に『主婦之友』などの家庭・女性雑誌が果たした役割は大きい。
女性たちは家計簿をつけ、栄養を考えて食事をつくるなど、合理的な家事・育児についての
考えや知識を雑誌の記事から学びとり、模範的な主婦イメージをつくりあげていった。」



・パラソル
 Parasol
 大正期
・パナマ帽子(婦人用)
 Panama Hat (for Ladies)
 昭和初期 松屋/製
 パナマ草で編まれた夏用の帽子
・『婦人と職業』創刊号
 1924年(大正13)
 関東大震災後に創刊された職業婦人を目指す女性を対象とした雑誌。女性が憧れる職業の紹介や
 職業に就く事で女性の人生に起こる変化などについて、各界の専門家が文章を寄せている。
 各記事には、「震災の影響」という言葉が散見し、震災経験によって社會や人生観が変わった
 人々の存在がうかがえる。
・ 女性タイピストの活躍
 Activity of the women typist
 大正から昭和初期、官庁・会社等でビジネス文書や書簡の作成は英文・英文タイプによって
 作成していた。プロのなり手となったタイピストは「職業婦人の花」ともいわれる存在だった。
 昭和初期にはタイピスト養成専門の女学校が東京、大阪に設立されるほどの人気職業だったが、
 その習得は容易ではなかった。また、語学力も要求された。
・タイプライター
・タイピスト学校



「 働く女性の進出
明治時代には教員・女医・看護婦・薬剤師や〈産婆〉〈女工〉などに限られていた女性の職業は、
第一次世界大戦(1914~1918年)当時の好況を反映して職種が増え、その社会的進出が
目立って〈職業婦人〉という言葉が生まれた。
それまでの職種に加えて、官庁・銀行・会社などの事務員をはじめ、電話交換手・バスガール・
タイピスト・デパートガールなどが女性の新しい職業として脚光を浴びた。
大正期に働く女性の進出が目立ったのは、「青鞜社」の運動以後の古い家族制度からの解放を
促す機運に負うところが大きかった。
その半面で、1920年(大正9)以後の不況期にも、働く女性が徐々に増大したのは、男性より
低賃金で雇用できたからである。
大正後期から東京都市は労働問題として職業婦人に関する実態調査を行ったが、それによると、
就職の理由に「家計補助」をあげた人が圧倒的に多く、また「経済的独立のため」とこたえた
人も1割前後いた。」 



「 「職業婦人」の実像 1931年(昭和6)
The True Image of "Professional Women" (1931)
「職業婦人」たちは、家計の補助や自活のための生活費、結婚資金など、さまざまな目的を
持って社会へ進出していた。」
① 就職の目的
円グラフを見ると、
・家計補助 76.57%
・自活          9.83%
・その他     9.81%
・結婚資金  3.22%
・貯蓄 0.57%
約4人に3人が「家計を助けるため」に働いていたことが分かる。
② 配偶者の有無
・未婚者 83.43%
・有夫者 11.61%
・死別者   3.68%
・生別者   1.28%
当時の職業婦人の多くは結婚前の若い女性だったことが分かる。
③ 職種別の比較
展示では、
・事務員
・店員
・タイピスト
・電話交換手
・エレベーターガール
・バスの車掌
・女工(工場労働者)
について、
・年齢
・勤続年数
・平均給与と支出
・学歴
が比較されている。

分かること
・タイピストは比較的学歴が高く、平均月収も高め。
・電話交換手は若い女性が中心。
・エレベーターガールは勤続年数が短く、若年層が多い。
・女工は学歴が比較的低く、工場勤務が中心。
など、職業ごとの違いが一目で分かる構成になっている。
「職業婦人」の実像(1931年)の展示では、働く女性の就職理由や年齢、収入、学歴などが
グラフで紹介されていた。就職理由の約76%が「家計補助」で、未婚者は83%を占めるなど、
当時の職業婦人の多くが家族を支えながら働く若い女性であったことが分かる。タイピストや
電話交換手、店員など職種ごとの特徴も興味深い展示であった。 



左側説明板
タイプスト学校修了証書
Diploma for Regular Typing School
1920年(大正9)6月30日
正則タイプスト学校/発行
タイプライターを打つことを仕事とするタイピストは、専門的な技術を必要とし、給与も
高かったことから職業婦人の憧れの職業であった。そのため、タイピング技術を教える
職業学校が各地で設立された。
中央
タイプライター
(明治後期)
右側説明板
実用タイプライティング摘要
A Manual of Practical Typewriting
1931年(昭和6)1月18日
黒沢太郎/著
泰文堂/発行
タイピスト学校で用いられていた英文タイプライター用の教科書。



「修了証書 
正則タイプスト学校 修了證書
修了證書
新潟県 河端マツ
    明治三十五年二月十五日生
一、タイプライタ科
右者本校ニ於テ前記ノ學科ヲ修了セルコトヲ證ス
大正九年六月丗日
正則タイピスト学校長
秋元正四
第三二五號
(赤印)
正則タイプスト学校印
正則タイプスト学校長秋元正四之印」 



「 女性解放の運動
女性解放運動の芽は、すでに明治時代に啓蒙思想家たちの婦人論、自由民権運動、日本基督教
婦人矯風会の廃娼運動にみられる。また、明治中期には、初のストライキが製糸工場の〈女工〉
によって行われた。
明治末期、女性のみの手による雑誌『青鞜』は、進歩的な若い女性の旧家族制度などへの反発を
促し、のちに活躍する多くの女性活動者がこれを愛読し、誌面にも参加した。
女性による団体は友愛婦人部、新婦人協会、赤瀾会、婦人参政権獲得期成同盟会など、労働運動・
社会主義運動・政治運動のそれぞれの分野で活躍したが、戦争が近づくにつれ、解散を余儀なく
されるか、政府の統制下におかれた。
女性の参政権獲得は、第二次世界大戦後の1945年(昭和20)12月まで待たなければ
ならなかった。」

女性解放運動の歩みを紹介する展示。『青鞜』の創刊や新婦人協会、赤瀾会などの活動を経て、
女性たちは教育・労働・参政権の実現を目指して歩み続けた。しかし戦時下では活動が
制限され、女性参政権が実現したのは終戦後の1945年であった。



職種別にみる職業婦人の姿
Professional Women by Occupation
掲載されている写真は次のとおりです。
・女工(ライオン歯磨歯磨チューブ詰め)
 1930年(昭和5)頃
 『日本地理大系 第3巻』より
・エレベーターガール
 1934年(昭和9)頃
 『婦女界』昭和9年3月号より
・バスの車掌(東京乗合自動車)
 1934年(昭和9)頃
 『婦女界』昭和9年3月号より
・電話交換手
 1930年(昭和5)頃
 『日本地理大系 第3巻』より
・店員(松屋)
 1932年(昭和7)頃
 『婦女界』昭和7年2月号より
・事務員(東京都役所)
 1935年(昭和10)頃
・タイピスト学校で学ぶ生徒
 1935年(昭和10)頃
 『婦女界』昭和10年2月号より」

昭和初期に活躍した「職業婦人」の姿を紹介する展示。女工、電話交換手、エレベーターガール、
デパート店員、バスの車掌、事務員、タイピストなど、都市の発展とともに生まれた多彩な
職業が写真で紹介され、女性の社会進出の広がりを実感できる展示であった。



「 サンラッス海水着売出しチラシ
Sale Announcement for Sun Bathing Suits
昭和初期
銀座松坂屋/発行
松坂屋は、1925年(大正14)、社内に「流行研究会」という開発部門を創設し、
ネクタイ、洋傘など12品目の旅行商品を開発した。
「サンランス(太陽の恋人)」はここから生まれた海水着のブランドで、たちまち評判となり
ロングセラー商品となった。」
「 モダンガールの水着
左のイラストは雑誌『令女界』の附録として配布されたもの。
右は新舞子(愛知県知多市)の海水浴場に現れたモダンガールの姿が描かれている。」 
「 東横百貨店包装紙
(東横・目蒲線沿線図付)
Toyoko Department Store Wrapping Paper
(with a Guide Along Toyoko and Mekama Lines)
昭和初期 東横百貨店/発行
東横百貨店渋谷店(後の東急百貨店)は、渋谷に乗り入れる東京横浜電鉄の運営する
百貨店として、1934年(昭和9)に開業した。
資料は開業当時の包装紙で、路線図と沿線の名所が紹介されている。」
「 新時代婦人心得
知らねば恥大画帖
New Era Ladies' Manners,
Ignorance is Embarrassing: Picture Book
1932年(昭和7)1月
新井兵吾/編 講談社/発行
訪問接客の作法や食事のマナーに加え、美しい化粧や髪型の整え方を漫画やイラスト、
写真などで紹介している。
新妻としてのふさわしい振る舞いや親としての務めなど、この当時賞美された女性像を
垣間見ることもできる。
『婦人倶楽部』第13巻第1号の付録であり、全体が蛇腹折りで、誌内では女性向け広告も
掲載されている。」
昭和7年(1932)の『婦人倶楽部』付録『新時代婦人心得 知らねば恥大画帖』。
訪問作法や食事のマナー、化粧・髪型、新妻や母親としての心得を漫画や写真で紹介している。
モダンな生活文化の広がりと、当時理想とされた女性像を知ることができる興味深い資料である。


伊勢丹新宿店起工記念
大廉売チラシ
Corner-Stone Laying Sale
1932年(昭和7)6月
伊勢丹新宿店/発行
伊勢丹新宿店は関東大震災後、都心と郊外とを結ぶターミナルとして発展著しい新宿に開店した。
新宿にはすでに百貨店「ターミナル型」があったが、後に伊勢丹も新宿へ進出し、その建物は
新宿店の店舗に一体化された。
チラシには、着物、浴衣、コート、夏蒲団、傘などが6月1日から7日まで廉価で販売される
ことがうたわれている。」 
昭和7年(1932)の「伊勢丹新宿店起工記念 大廉売チラシ」。関東大震災後、急速に発展する
新宿への進出を記念して発行された。着物や浴衣、コート、夏蒲団などを6月1日から7日まで
特価販売すると宣伝しており、当時の百貨店の勢いと新宿発展の歩みを伝える貴重な資料である。



「 昭和モダン
関東大震災後の復興は東京の姿を大きく変え、昭和に入ると新たな都市の景観と文化が
生み出された。欧米文化の受容はこの時期さらにすすみ、欧米の流行は日本においても
同時代的に取り入れられていくようになった。また、日本の生活様式のなかに欧米の様式を
取り入れた和洋折衷の文化も一般的になった。
大正末期から昭和初期にかけてのこの時期、昭和恐慌による不況の影がありながらも、
都市文化は大いに花開いた。そして、それらを象徴する言葉として流行し、さかんに
用いられたのが「モダン」である。建築や文学、美術などを含むさまざまな分野でモダンな
作品・様式が生まれたほか、最新流行の服装をし、自由で行動的なライフスタイルを求める
モボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)と呼ばれる若者たちも登場した。彼らは
震災復興後、より近代的な街並みに生まれ変わった銀座などを闊歩し、モダンのイメージを
形づくっていった。
また、休日に百貨店などへ買い物に行くという消費文化の端緒も、この時期より多くみられる
ようになった。銀座や新宿、渋谷などに新たに展開された百貨店は、延伸される私鉄各線とも
結びつき、多くの人々を集める流行の発信地となっていった。」
関東大震災からの復興により東京は近代都市へと生まれ変わり、昭和初期には欧米文化を
取り入れた「昭和モダン」が花開いた。モボ・モガに代表される自由で活動的な若者文化が
誕生し、銀座をはじめとする街並みは時代の象徴となった。また、百貨店と私鉄沿線の発展
によって買い物を楽しむ消費文化も広がり、現代都市生活の礎が築かれていった。



「 昭和モダンの風景
Scenes of Shōwa Modern
「銀座交叉点」
1939年(昭和14) 師岡宏次 撮影
1932年(昭和7)に竣工し服部時計店(現・和光)は、モダンの街銀座の象徴となった。」 
「散歩」1935年(昭和10) 師岡宏次 撮影
銀座には多くのモダンな服装の若者たちがつどった。」 
「 繁華なる新宿通り 」1933年(昭和8)頃
画面右手には百貨店ほてい屋と、開店間もない伊勢丹が写る。



「 置時計
Clock
1938年(昭和13)
模様の異なる石を組み合わせたデザイン。」 
「 置時計
Clock
昭和初期 精工舎製
直線的なデザイン、はっきりした色の対比といったアール・デコの特徴がみられる。」



「 東京の子供たち
Children of Tokyo
・シーソーで遊ぶ子供たち(日比谷公園) 1931~1933年(昭和6~8)
 加藤五百蔵 撮影
 台東区立したまちミュージアム 所蔵
・絵本売りの少女(浅草仲見世) 1932年(昭和7)
・写生を指導する山本鼎(自由学園) 1921年(大正10)
 自由学園資料室 所蔵」 
・活動写真街を歩く丁稚奉公の少年たち
 (浅草六区) 大正~昭和初期



「 東京の子供たち
子供のおもちゃは、明治から大正にかけて転換期を迎えた。
それまでの手づくりのものに加えて、ブリキ製の汽車、セルロイド製の人形などが登場し、
キャラクター商品も生み出された。一方、ベーゴマ、メンコ、人形遊び・ままごと遊び
などは相変わらずさかんで、路地裏や駄菓子屋は子供たちの社交の場としてにぎわった。
また、組み立て模型や双六など、少年少女雑誌の付録も人気を集めた。
さらに大正期には、子供の趣味や自発性を尊重する自由教育運動が起こり、成城小学校、
成蹊学園、池袋児童の村小学校、自由学園などの私立学校が誕生した。
『赤い鳥』『コドモノクニ』といった児童雑誌に、子供の自由詩・綴り方・自由画などの
投稿作品が掲載されたのもこのころである。
しかしその一方で、義務教育を終えるとすぐ、商家に奉公するか、工場に勤める働き手となる
子供たちも多かった。」



「 手回し式映写機
Hand-operated Cinema Projector
昭和初期
大正~昭和に入ると、家庭で映画を上映できる手回し式の映写機が登場し、やがて量産も
された。専用のごく短いフィルムも販売され、時代劇やアニメなど様々な作品が楽しまれた。
こうした販売品には、映画館で使用されなくなったフィルムを切り売りしたものも多くあった 。」


「 漫画常設館
The Comic Work of Shūichi Tagawa
1933年(昭和8)
田河水泡/画
『のらくろ』シリーズなどで知られる漫画家、田河水泡の初期作品集。
大ブームを巻き起こした『のらくろ』シリーズの第一話「のらくろ二等兵」のほか、ロボットを
主人公にした最初期のSF漫画などが収録されている。」 
「 漫画『ベティの日記』
A Comic book of "Betty Boop" published in Japan
1935年(昭和10)
湯浅栄次/画作」 
「 漫画『ベティお嬢さん』
A Comic book of "Betty Boop" published in Japan
1934年(昭和9)
湯浅修一/画
春江堂/発行」 
「 まんが合せ
Diploma for Regular Typing School
昭和前期
当時人気のあった「ノンキナトウサン」をはじめ、ミッキーマウスやベティ・ブープ、
キューピーなど、様々なキャラクターを用いた絵合わせかるた。海外で生まれた
キャラクターが輸入され、子供たちの間でも一般的になっていたことがわかる。 」


「 東京府内の私営鉄道路線の開業年
Year of Opening of Private Railways in Tokyo Prefecture
大正から昭和の初めにかけて、都心から郊外へと延びる鉄道が次々と開業した。
From the Taisho era (1912–1926) to the beginning of the Showa era (1926–1989),
railroads extending from the city center to the suburbs were opened one after another.」 
国営鉄道
国営鉄道
市営電車
私営鉄道(開業年)
・東武鉄道        1899年
・京浜電気鉄道  1899年
・玉川電気鉄道  1907年
・王子電気軌道  1911年
・京成電気軌道  1912年
・京王電気軌道  1913年
・東上鉄道        1914年
・武蔵野鉄道     1915年
・城東電気軌道  1917年
・西武軌道線     1921年
・池上電気鉄道  1922年
・目黒蒲田電鉄  1923年
・東京横浜電鉄  1926年
・小田原急行鉄道 1927年
・東京地下鉄道  1927年
・西武鉄道村山線 1927年
・帝都電鉄    1933年
・東京高速鉄道  1938年



「 交通の移り変わり
1903年(明治36)にはじまる東京市の路面電車は、1911年から東京市電車(市電)となり、
市民の足として欠かせない存在となっていた。その一方で、関東大震災を契機とした市街地の
復興によって、震災後から車の機動性も活用したバスの利用者が増加した。車体の前部が
箱形の東京市電のバスとともに、車体が平箱の民営バスは「青バス」と呼ばれて市民に
親しまれた。
タクシーは、外国自動車会社の国内生産開始による自動車台数の増加と、市内1円の均一料金制
によって「円タク」の名で人気を博し、それまでの馬車・人力車に代わって関東大震災後から
急激に普及した。
明治末期に電化された山手線は、1925年(大正14)、環状運転が開始して完全な環状運転と
なり、市内交通の動脈となった。震災前後に次々と開業した郊外電車は、山手線の池袋、
新宿、渋谷、目黒、五反田などから放射状に路線を延ばしていった。
しかし都心部に直接乗り入れる郊外電車はなく、山手線内の交通は市電や自動車に限られていた。
こうしたなかで、大量輸送を実現する新しい交通手段として期待された地下鉄は、1927年
(昭和2)に初めて上野・浅草間で開業した。 」 



「 東京市内の交通網 1935年(昭和10)ごろ
Transportation Network in Tokyo City (ca. 1935)
東京市内には市電やバスなどさまざまな交通機関が網の目のように張り巡らされていた。
A network of various transportation systems, including streetcars and buses,
ran throughout the city of Tokyo.
東京市営バス電車連絡路線図 」 



「 東京市バス青バス運転系統図
Route Maps for Tokyo City Public Buses and Private Buses
1937年(昭和12)12月10日
鉄道省監督局/発行」
東京市内のバスの運転系統をまとめた図面。
「青バス」は東京乗合自動車の運営する私営バスのことで、系統色の塗装した車体を使用
していたことからその愛称がある。東京乗合自動車は市バスに先駆け1919年(大正8)より
営業を開始していた。


「 東京市営バス運転系統
Map of Tokyo City Bus Routes
昭和初期
東京市電気局/発行
三越百貨店の広告入りバス冊子で、銀座・新宿・浅草の名所があることから1930年(昭和5)
以降の発行と思われる。市バスの利用者は昭和期に入ると大幅に増加し、1935年(昭和10)
には1日約22万人の利用者があった。」
「 市営バス乗車の栞
Guidebook to Riding Municipal Buses
1931年(昭和6)
東京市電気局/発行
関東大震災により被害を受けた東京市電の代替として運行が始まった東京市営バスは、
市電復旧後も需要増から営業が継続し、正式な事業として拡大が図られていった。
資料は当時の運転系統と所要時間を同心円状の図で示したもの。」


手前には、余暇に使用する数々の道具が。



「 工場労働者の家計支出構造の動向
Trends in Household Expenditure Structure of Factory Workers
余暇活動への支出割合は年々増え、さまざまなレジャー・スポーツが楽しまれていた。
The percentage of spending on recreational activities increased over the years,
and people enjoyed a variety of leisure and sports.
凡例
・修養・娯楽費( 緑 )
・飲食物費( 黄 )
・住居費 ( 赤 )
・被服費( 青 )
・その他( 灰 )
家計支出の推移
1916年(大正5)
実支出 26.43円
修養・娯楽費 1.4%
1919年(大正8)
実支出 69.76円
修養・娯楽費 2.5%
1922年(大正11)
実支出 106.15円
修養・娯楽費 2.8%
1926・1927年(大正15・昭和2)
実支出 111.76円
修養・娯楽費 4.6%」
下段写真の説明
・明治神宮外苑野球場(大正~昭和初期)
・八ヶ岳への登山道 1937年(昭和12)6月12日 宮本馨 撮影
・大磯海水浴場 1925年(大正14)
・浜町公園水泳場 昭和初期
・テレマークを決めるスキーヤー 大正期
・蒲田ベビーゴルフ場 1928年(昭和3)
このパネルは、大正から昭和初期にかけて、日本人の暮らしが「生活を維持するだけ」から
「余暇を楽しむ生活」へ変化していったことを示すためのもの。
特に注目すべき点は、
修養・娯楽費が1916年の1.4%から1926・27年には4.6%へと約3倍に増えていること。
食費は依然として家計の大きな割合を占めるものの、その比率は徐々に低下し、娯楽に
回せるお金が増えていること。
その結果、野球・登山・海水浴・水泳・スキー・ゴルフなどのスポーツやレジャーが一般の
人々にも広まり始めたこと。
つまり、この展示は、昭和モダンの時代には経済成長や都市化を背景として、人々の生活に
「余暇」や「趣味」を楽しむ文化が根付き始めたことを、家計調査のデータと当時の写真を
組み合わせて分かりやすく紹介しているのであった。



「 余暇とスポーツ
工場労働者とサラリーマンの台頭は、労働時間の短縮とともに余暇時間を成立させた。
マス・メディアの発達によって生まれた時間や、雑誌、映画、レコード、ラジオといった
媒体による娯楽の提供も、さかんに行われるようになった。
一方、西欧で発達したスポーツやレクリエーションは、まず明治期の学校制度に組み込まれて
活用された。それらはやがて一般に普及するようになり、野球・水泳・登山などが、大正期から
昭和初期にかけて、生活の近代化とともに浸透していった。また、テニス、スキー、ゴルフと
いったスポーツも富裕な層を中心に愛好された。都市公園を中心に愛好された。
そして1926年(大正15年)、明治神宮外苑に野球場が完成し、以後神宮外苑での
六大学野球が熱狂する観衆でぎわった。また、郊外電車の発達につれて、近郊への
ハイキングがさかんになり私鉄各線の案内所には、釣りや遊園地へのガイド記事も掲載される
ようになった。」


① 東京市鑑札付自転車
② 釣道具箱
③ 釣道具類一式
④ 麦茶ひやし



① 東京市鑑札付自転車
  Tokyo City model with marked bicycle 
② 釣道具箱
    Fishing gear box
    昭和前期
    淡路宗一氏  寄贈
③ 釣道具類一式
   One set of fishing gear
   瀧本喜代氏 寄贈
④ 麦茶ひやし
   Barley tea cold water tool
   大野欣雄氏 寄贈


① 2号共電式卓上電話機
No.2 Common Battery Desk-type Telephone
川北電気製作所/製造
戸塚佳雄氏/寄贈
共電式は、受話器を上げると交換手につながる。それまでの磁石式と違って発電機や電池を
内蔵する必要がなくなったため、本体が小型化され、故障も少なくなった。
② 2号自動式卓上電話機
No.2 Automatic Desk-type Telephone
1927年(昭和2)
赤木コレクション
自動式は、相手の番号をダイヤルすることで、交換手を通さずに通話できる画期的なものだった。
電話機の使い方がそれまでと大きく変わったため、「送話口の下の回転盤を指示まで廻して放す」
と使い方が書かれている。
③ 3号自動式卓上電話機
No.3 Automatic Desk-type Telephone
1953年(昭和28)
戸塚佳雄氏 寄贈
送話部分と受話部分をつないで一本化させ、素材に人口樹脂・ベークライトを用いた
初めての電話器。
戦後に普及した、いわゆる「黒電話」の原型として、長い間活躍した。
④ 23号自動式壁掛電話機
No.23 Automatic Desk-type Telephone
1954年(昭和29)
東京電話機器工業会 寄贈
戸塚佳雄氏 寄贈
1953年(昭和28)、2号自動式壁掛電話機の伝達構造(音の伝わり方)と品質を3
号自動電話機と同一のものに改良し、23号自動式壁掛機として使われた
⑤電気スタンド型真空管ラジオ
A desk lamp type radio
1950年(昭和25)
全日本真空管友の会 寄贈
昭和に入り、ラジオの普及が進むと、こうした一風変わった製品も作られるようになった。
ラジオが日常のものとなり、同様に普及が進む洋風のインテリアに合うような形に求められる
ようになったことがうかがえる。



「 自働式電話交換の良し悪しは使ひ方一つ
ポスター本文(右側・縦書き)
一、先づ相手の番号をよく調べてから
一、受話器を静かに外して耳にあてかすかな連続音を聞えてから
一、送話口の下の廻轉盤を指止まで廻して放す
一、ジー ジーの音は「お話中」 
一、ツー ツーの音は「呼出中」 
          逓信省」 



「 ガス・電気の普及とその利用
Diffusion and Use of Gas and Electricity
灯火用の利用がもともとだったガスは、電気の普及とともに熱源への利用に機能を変えていった。
The use of gas, which had been mainly for lighting, shifted to that as a heat source with
the spread of electricity.」 
ガスの灯火用と燃料用の利用割合
ガスはおもに燃料用として使用されるようになった。
(棒グラフ)
灯火用( 灰色 )
燃料用( 青色 )
推移の概要                ■   ■ 
1918年(大正7)   43%・57%
1919年(大正8)   44%・56%
1920年(大正9)   46%・54%
1921年(大正10) 46%・54%
1922年(大正11) 49%・51%
1923年(大正12) 74%・26%
1924年(大正13) 80%・20%
1925年(大正14) 83%・17%
1926年(大正15) 85%・15%
1927年(昭和2)   88%・12%
1928年(昭和3)   92%・  8%
1929年(昭和4)   94%・  6%
1930年(昭和5)   95%・  5%
1931年(昭和6)   95%・  5%
1932年(昭和7)   96%・  4%
東京府におけるガス灯・電灯数
ガス灯は開始当初のあかりの主役であったが、大正以降は電灯がそれに取って代わった。
(折れ線グラフ)
赤線: 電灯数
青線: ガス灯数
グラフ中央には関東大震災が示され、震災後も電灯数は急速に増加。
電灯数は約227万灯から最終的には約692万灯まで増加。
一方、ガス灯数は75万灯前後から9万灯前後へと減少。

1.照明の主役がガス灯から電灯へ移ったこと
  ・電気の普及によって、街路や家庭の照明はガス灯から電灯へ急速に切り替わった。
2.ガスの役割が変化したこと
 ・照明用だったガスは、電灯の普及後は炊事・給湯などの熱源として利用されるようになった。
 ・棒グラフは、その用途の変化を割合で示している。
3.近代都市・東京の生活インフラが完成していったこと
 ・電気・ガス・電話・交通網などの都市インフラが整備され、人々の生活はより便利で
  快適になった。
つまり、このパネルは「昭和モダン」の背景となった都市生活の近代化を、エネルギー利用の変化
という視点から分かりやすく示す展示になっていた。



左:電気スタンド型真空管ラジオ
電気スタンド型
真空管ラジオ
1935年(昭和10)頃
日本ラジオ博物館 寄贈
昭和に入り、ラジオの音をみながら楽しむこと、こうした一種のインテリア性をもつ製品も
現れるようになった。電気スタンドが日常のものとなり、照明と音を兼ね備えた実用的な
インテリアにもつながる例がみられるようになったことがわかる。
右:電気蓄音機
Electric Gramophone
昭和初期
日本ラジオ博物館 寄贈
電気蓄音機は、レコードの再生だけでなく電気増幅器(アンプ)を備え、電気的に音を大きく
して再生することができる。初期の電気録音・電気再生技術の普及により、より高音質で
音楽を楽しめるようになった。



振り返って。




                                ・・・​ もどる ​・・・



                   ・・・​ つづく ​・・・



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Last updated  2026.09.10 12:58:29
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