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平成28年10月19日(水) 午前4時過ぎ起床。5時半過ぎ、朝ジョグ40分+筋トレを少々。いい汗をかきました。シャワーを浴びて出勤。写真は拙宅犬走りの横に咲き始めた金木犀です。いい芳香です。 晴れのち曇り。夕刻にポツリきました。 終日デスクワーク。仕切りが思うようにいきません。能力不足。えいくそう、飲みに行きたくなりました。しかし、思い直して真っ直ぐ帰宅。まだ少し明るさが残っていました。ランシューズを履こうか迷いました。妻に促されました。「あなた、もう止した方がよくてよ」止めました。風呂を浴びてくどき上手をコップに半分。トラをブラッシングしてやりながら甘露を嘗めました。彼女がチキンカツと薩摩芋のフライを揚げてくれました。美味しかったです。写真は大根の芽です。これも妻が間引いて「生野菜よ」と出してくれました。それにしても石の多い畑です。 ついでなので、芽を出したホウレンソウも。こちらは若芽を摘むようなことをしません。当たり前です。 書くことがないので本の話を。先日、毎日新聞の書評に色川武大の「うらおもて人生録」新潮文庫の紹介がありました。人間万事塞翁が馬ということで、失敗・不如意・目の出ない人に読んで欲しいとのコメント。要読です。この人、小学館の昭和文学全集に「怪しい来客簿」「百」「遠景」「雀」が掲載されていました。読んでみましたが、面白い。文春文庫にもあります。お薦めです。さて、この方、麻雀好きの年配にはなじみが深いのではないかと。1970年代、週刊ポストに麻雀観戦記を執筆していたとはウィキの解説。私、卓遊びの世界は全くの門外漢。国士無双とかダイサンゲンという言葉は知っていますが、意味を知りません。セブンブリッジに似ていると聞いたことがあるだけです。写真は「怪しい来客簿」の中の一節です。 朝ランを始めるに当たり、ウェストライトを購入しました。今日届きました。これまでは懐中電灯を使っていました。 手を空けるため、一式をそろえました。アマゾンお薦めの品です。試しに点灯してみました。とても明るかったです。光量の調節レバーがついてあります。MAXにしたら、充電した単4電池の容量を1時間で消費するとのこと。注意しなければ途中で光を失います。今日の一句目刺し喰い金木犀に見送られ今日の写真はトラです。夜、玄関でニャゴニャゴ。ああ、これがいたのか。河岸の思い出(7)~天竹~ グーグルマップの写真で見ると、勝鬨橋付近の両岸は30年前の色がありません。高層マンションが隅田川の両岸にいくつも建ち、当時の風情は皆無です。橋のたもと、左岸にあった乾倉庫や商店街が消え、下流の中央水産研究所も跡形無しです。でも天竹は残っています。ふぐの料理店です。私のいた頃、築地界隈、晴海通りの本願寺裏は戸建ての民家が多く残り、空の視界が広かったです。広い通りにあって、天竹はことさら目立っていました。 河岸は朝の内までが勝負でした。午前中、売掛伝票を整理し、荷主への仕切りが終わったら仕事は終わりです。入荷の少ない土曜日は、セリも帳面の始末も早かったです。明日が休みなので、社内は浮ついた空気になりました。関西課の先輩が毎週のように誘ってくれました。行き先は決まって天竹その店でした。 玄関はガラスの引き戸でした。冬場も通いましたが、記憶にあるのは窓がはけ放たれ、開放感のある広い店内でした。テーブル席と、広い小上がりのある食堂風造りでした。当時20代前半の私にとってはおばさんに見える仲居さんが5人ほどいました。皆、白いエプロン姿でした。客層が河岸関係者なのか、接客はとてもフランクでした。先輩セリ人も馴染みのようでした。今聞いたらセクハラまがいのジョークを交え、決まってフグちりを注文しました。ビールの後はひれ酒。鍋の具が減ったらさらし米をもらい、溶き卵を混ぜて雑炊を作りました。このの段取り、先輩は仲居さんに任せず、自ら鍋奉行でした。 フグちりの値段、いつも奢ってもらっていたので判りません。今と違い、養殖フグはなく、天然に間違いの無いところですが、それがサバフグだったのか、トラフグだったのか。気になるところです。今となっては知るよしもない昔のことです。ただ、時折、東京人に会って、以前、河岸に勤めていた、週末は天竹に通い、先輩のおごりでフグちりを食べたと言う話をして、羨ましがられ、得意になったこと何度も。今年は残暑ですが、週末には寒気の予報。鍋が恋しくなりました。
2016年10月19日
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平成28年10月16日(日) 午前4時起床。終日雨。なすすべなし。 朝のうち、親方からTELあり。波越は晴れている、ちょっと来て10本ばかりを倒して欲しい旨でした。こっちは本降り。おかしいな。明日以降の段取りを考えてのことなんでしょうが、雨脚の強さを考え、断りました。親方も家に戻った方がいい。滑って怪我をしたら大変です。 一日中ゴロゴロしました。晴耕雨読という言葉がありますが、本も新聞も手に取らず。昼プシュもなし。音楽は少しだけ聴きました。午睡。完全休養になりました。昼ご飯を食べていて、奥歯が欠けました。具合が悪い。明日、歯科医へTELしなければ。今日の一句白帝が雨を払わず閑居なり今日の写真は昨日山で写した蛾、サツマニシキです。図鑑を調べて知りました。カラフルです。もう1枚、夕方、佐川急便のお兄ちゃんが配達してくれたチェーンソーオイルです。一斗缶。これがないと、チェーンがバーに焼き付きます。必需品。河岸の思い出(6)~河岸の華・喧嘩その2~ 河岸は男の世界です。切った張ったの空気があります。気っ風のよさ、いったらんかい!イケイケドンドンの雰囲気です。前のめりの空気なので、諍(いさか)いがつきものです。もめ事の多い時間帯は午前6時前後。原因の一番は混雑です。セリの終わった直後、混み合う狭い通路をセリ場から仲買店舗まで、荷を小車やターレーで運ぼうとする軽子同士が先を急いでのトラブルです。 軽子は仲買に雇われた荷役です。早く主人の仲買店舗まで荷を運ぶことが使命です。ぼやぼやしていたら叱られます。先を急ぎます。しかし、小競り合いも手を出しての殴り合いまでには発展しない、大声でのの知り合うのがいいところでした。 さて、小揚の一人にSのAさんという人がいました。任侠の世界に身を置くというもっぱらの噂でした。古参であったり凄みのある人は一目も二目も置かれ、先を譲られます。暗黙のルールがありました。Aさんがそうでした。見たては小柄で大人しいという印象でした。何時も白い割烹着のようなものを着て仕事をしていました。巻いた晒しが透けて見えました。私のような荷受け会社の新入社員にはことのほか優しい言葉をかけてくれました。 ある日、誰からともなく喧嘩だ!喧嘩だ!の声。そちらに目をやると、20m先を、マグロを解体する長い包丁(刀をイメージして下さい、テレビで見たことのあるあれです)を持ったAさんが、発泡スチロールを満載した小車やターレーの上を飛び跳ねるようにして某を追いかけていました。某は遠目に網半の模様をした印半纏を着ていました。見たことのない人でした。その後、どうなったのかは判りません。ただ、その日を境にAさんは河岸から姿を消しました。築地は刃物がいたる所にあります。くわばらの世界でもあります。
2016年10月16日
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平成28年9月27日(火) 午前4時半起床。曇り時々雨。このところ、湿りが続いています。未だ蒸し暑く、気温は30℃近くになります。今日もそうでした。この空模様、週末まで続きそう。 早朝出勤。終日、ミーティングやお客様の相手でした。投資計画案件は昨夜で終わりました。今日は早く返ることが出来ると思いきや、懸案事項の会議が長引きました。結局、午後8時をまわりました。帰り道にNHKFM。ゲルギエフ、ロイヤル・コンセルトヘボウ管をバックにニコライ・ズナイダーがベーヤンのコンチェルトをやっていました。続いてBWV1002からサラバンド。聴き終えて車を降りたら、会社のあれこれを忘れることが出来ました。 妻は出かけて不在。テーブルに作り置きがありました。鯖の塩焼き、牛肉のニンニクの芽炒め。今日も酒に手をつけませんでした。別にどこの悪いということではありませんが、飲んで腹一杯、直ぐにバタンキューして、翌日未明の早起きにはあまりにも芸がないです。でも、朝も晩も本を読むのは芸がありません。ラジオでロッテの応援をしたあと、GYAOで「深夜食堂」を2話見ました。昨夜の3話に続いてです。ほのぼの系。いい感じの番組でした。ipadを手に転がって楽しみました。今日の一句和蘭のオケの響きの木霊する今日の写真はバッタです。先週末、居間の網戸に留まっていました。残暑の残り、まだ元気です。もう1枚、散歩途中に写しました。どうのこうのということはありませんが、こんな雄蘂の微細をして、毎日の路傍も悪くありません。河岸の思い出(5)~河岸の花・喧嘩その1~ 小揚に赤沢さんという人がいました。荷役をする子会社の社員です。築地に着いたトラックからセリ場に魚箱を降ろすのが仕事でした。年齢は50を過ぎていたと思います。生きているとしたら、もう90近い歳です。 小揚は、体力勝負です。腰が命です。傷めてコルセットをし、痛みを騙し瞞しの人が多かったです。中にあって赤沢さんは最年長でした。特別の役目がありました。重いものを持つ必要のない倹貫でした。箱の中身を秤を使って確かめる仕事でした。計った結果を紙に書いて、荷の横に表示しました。その数字は言わずもがな、荷の信用を表します。それはそれとして、彼、数字がとても下手くそだったことを覚えています。 さて、年齢のせいで少し動作が緩慢でした。人相は痩せた蛭子能収が眼鏡をかけるの図。加えて市場は水場でもあります。濡れても構わぬ襤褸を着ていました。小柄なこともあって貧相この上無しでした。しかし、優しさは一等。セリ人見習いの私を可愛がってくれました。 こんなことがありました。先輩の一人、Kはハマチ(養殖ブリ)のセリ人でした。押し出しがよかったです。自意識過剰の大酒飲み。何時もぎらついた顔をしていました。なんでもN大の応援団だったとか。年齢は30代後半かな。ある日の未明でした。赤沢さんの倹貫は、ハマチを何本計っても、どれも100~200g軽いのです。出荷の折、養殖業者が1本一本目方を計測。その数字を発泡スチロールの横にマジックで大きく書いていました。明らかに目方不足でした。正直な赤沢さんはそれを紙に書いて表示しました。遅れてやってきたKがそれを見て怒り出しました。K「足りねーじゃーねーか!」赤沢さん「だって仕方ねーんだよ、後で仲買から文句言われるのは俺だからね」K「てめー、何様の分際で言っているんだ。荷主の信用に関わる。いいから丁度の目方に書き換えろ、このやろう」赤沢さん「いやだね、できねーな。Kさん、あんたそれでもせりにんかい?」K「書かねーんなら書かせてやろうじゃないの、てめー、このやろー!」 Kは赤沢さんの首根っこを掴みました。喧嘩が始まりました。彼は固太りの威丈夫。腕っぷしが強そうでした。赤沢さんは鉄拳を顔に見舞われ、濡れたコンクリートに腹ばいました。小揚の仲間が飛んできて、助け起こしました。セリ人たちもKを後ろから羽交い締めしました。赤沢さんはKに毒づきました。「今日のことを仲買にばらしてやるからな」と。 こんなことを仲買にしゃべられたら,Kだけでなく、荷主の名は地に落ち、会社の信用も失います。セリの終わって、課長が見ていた人たちを一人ひとり別室に呼びました。私も招き入れられました。入る際、Kにじろり、睨まれました。見たままを正直に話しました。最後にKが呼ばれました。後で、赤沢さんに形ばかりのわびを入れたことを聞きました。 後日談がありました。Kが何処ぞのお触りバーで暴力沙汰を起こし、1週間、豚箱に入ったのですクビになるものと思い、喜びました。しかし、しばらくして出社してきました。何もなかったかの如く、あっけらかんとしていました。喧嘩は江戸の華といいますが、今から思えば、河岸には猶その空気の残っていたこともあってのことでした。結局、不問に付されたようでした。 後から、親分にあたる鮮魚部長のAが会社の首脳を言いくるめたと聞きました。Kが築地一番のハマチ売りだったからでした。仕事の出来る部下を失いたくなかったのだそうです。彼は荷の集荷、販売量とも河岸一だったのでした。いつぞや「俺は築地で一番のハマチ売りだ。築地で一番と言うことは日本で一番、日本で一番とは世界一と言うことだ」豪語していました。血走ったぎょろ目、厚い唇。今もよく覚えています。 余談ですが、若手社員は彼に目を付けられないよう、恨まれないよう、媚びたり避けたりでした。私は、赤沢さんの暴力事件以来、告げ口を睨まれました。でも、私自身が大柄だったせいか、彼からのいじめはありませんでした。
2016年09月27日
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平成28年9月23日(金) 午前4時起床。曇りのち晴れ。早朝散歩を1時間。以下は途中の写真です。木立川の両岸にイタドリが咲き始めました。普段は遠目です。近づいてみると端正を感じる白です。 彼岸花が佳境です。シャリンバイの赤とのコラボ。 栗はヤマグリと早生が終わりました。次いで栽培物が本格化。台風を心配しましたが、落ちたのは僅かでした。よかったです。 運動会の秋です。木立小学校の運動場にそれが見て取れます。テントが並び、入場門の紅白柱も立ちました。今週末かな。ちなみにこの小学校、私の母校です。6年間を木造校舎で過ごしました。卒業して直ぐ、鉄筋コンクリートへ建て替えられました。娘・息子はその校舎へ通いました。それも築後40年を経て取り壊しになりました。10年近く前、建て替えられました。 ゴーヤジューズをジョッキ1杯が朝ご飯。早朝出勤。会社へ7時過ぎに会社へ。玄関に、台風の後片付けを手伝うため出発の連中が集まり始めていました。晴れの予報でした。頑張ってきてください。 終日、あれこれの打ち合わせ。途中、新案件(勿論懸案ですが)が持ち込まれました。抱えているのが片付かないうちにまた一つ、また一つ。嫌になります。夕刻、社員50人が出っ張った被災集落から連絡があったとのこと。明日、もう一日、ボランティアが必要とのこと。そうすれば個人住宅の片付けはあらまし終わるそうでした。今日同様、当課にも割り当てがありそうでした。それを耳にしたdatelineが、訪ねもしないのに「私が参ります!」粋に感ずとはこのことです。しばらくして、上からの達しが廻ってきました。紙に、軽率な言動を慎むこと、被災者の心を忖度、寄り添う気持ちを持つこと、水分を取り無理をしないこと、怪我をしないよう、弁当・飲み物は自己調達のこと。何だ、当たり前ではないか。ニコニコしながら読み進めるdateline、最後の一行に顔が歪みました。「喫煙は注意の上にも注意を」彼はヘビスモです。 余談です。被災の蒲江地区には、分校も含め小学校が7校あります。離島の一校を除き、来年4月に全部が統合、一つになります。ということで、各小学校とも今年が最後の運動会。 言うまでもなく、小学校は地区の文化、心の拠(よりどころ)です。保育園・幼稚園、PTAはもとより消防団・老人会も、区長さん、市議会議員、駐在さん、農協漁協の組合長・・・、一同が会する一大イベントです。いよいよということで、ひときわ盛り上がるんだろうな。ということで弊社、運動会のある明後日の日曜日を前に、明日の土曜日、あらましの片付けを終える手伝いをと考えたのでした。50名が突っ込みます。 午後6時前になって、やっと別室の机に座ることが出来ました。それから2時間あまり、設備投資案件について部下と協議。今日も遅くなりました。妻はコーラスにつき不在。しかも花金。絶好の飲み日和でした。でもな~、この時刻だとつね三の魚は好き勝手出来るだけのものが残っているかどうか。加えて日付変更線が近づくと、弱ってくる杣夫です。明日、朝早くから若手が被災の地区に向かおうとしているのに、飲んだくれていては申し訳もないし。ということで家路へハンドルを切りました。 シャワーを浴びて、頭を拭いたら午後10時前。その時刻がスタートでした。 当てが寂しいな。マックスバリューの冷凍締め鯖を開けました。亮さんではありませんが、しみじみ美味い。今日の一句曼珠沙華其処此処に咲き手を合わす今日の写真は、妻が借りてきたCDです。1枚を聴きました。いい感じでした。河岸の思い出(4)~隅田川~ 築地の横に川が流れていました。隅田川でした。当時、遠洋マグロ漁船が接岸、冷凍マグロの水揚げをしていました。大物のセリ、生は場内で行われていましたが、凍ったものは岸壁が競り場でした。夏、何百と並ぶ冷凍まぐろは、そこいら中に寝かせた標柱しかり。白い冷気が霞むこと霧の如しでした。 マグロは一本セリです。仲買は、一尾一尾を下付けします。尾部の切ったところを触り、肉質を見分けました。私はマグロの担当ではなかったので、マグロの善し悪しは判りません。余談ですが、鰹は毎日のように面を見ていました。一応判ります。 仲買が競り落とすと、その先から軽子がターレー(築地独特の三輪車、エンジン式もあれば電動もありました)に乗せたり、小車を引いて店舗へ運びました。ある日、こんな話が聞こえてきました。その一本を隅田川へゴロリ、落としたのでした。大きいものは100kgを越えます。何でも80万円の品だったとのこと。直後、飛び込んで探したそうですが、見つからなかったそうでした。 噂に過ぎませんが後日談がありました。落とした軽子が責められて弁償したとか、簀巻きにして隅田川に沈めるぞとすごまれたとか。なんとも恐ろしい世界ではあります。百万円近くするインドの上物が川に沈んだことだけは事実です。
2016年09月23日
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平成28年9月21日(水) 午前5時起床。薄曇り。時折、日が射しました。 午前7時過ぎ、早朝出勤。山向こう、蒲江に台風被害の出たことが判りました。小河川の氾濫、床上浸水、敷地内への土砂の堆積・・・。地方紙大分合同新聞に爪跡の写真が載りました。知事がそこを視察するという話を聞きました。深刻ということです。 終日、設備投資のヒアリング。午後6時を過ぎて役員会議がありました。それを終え、し残しの仕事をやっつけるかどうか迷いました。えいままよ。明日は秋分の日ですが、禁玉さんを真似て休日出勤すればよい。はやく家に帰ってぬる燗を嘗めたいし。午後8時前、仕事をうっちゃって通用口を出ました。星は見えませんでした。写真は持ち帰った本です。弊社アマチュア無線倶楽部、はきだめに一羽、鶴がいます。彼女に貸したものが戻ってきました。彼女とは、倶楽部の総会で本談義をして意気投合。清朝末期の時代背景に惹かれるとは彼女の弁。時折、拙宅の本を貸してあげるようになりました。10冊近くを渡しても一週間で戻ってきます。今回貸した中にはこんな本も混じりました。読書家です。 オマケに、通いの袋が素敵です。FURLAです。そのとおり、ブロ友のあっこたんに並ぶとも劣らぬ普段のオシャレが素敵です。 戻ります。真っ直ぐ帰宅。風呂を浴び、穫るものもとりあえずのスタートは午後9時でした。稀勢の里が豪栄道に敗れ、ハムが勝ったのを知りました。いいぞいいぞ。途端、隣に座った妻が「私、大谷選手が好きよ」といいました。てやんでい!ヤキモチの気持ちが湧きました。嘉風は7敗目。後がなくなりました。今日の一句さながらのぬる燗なしや甘露なり今日の写真はネタ切れにつき、控え要員に登場してもらいました。何とも間の抜けた顔です。河岸の思い出(3)~私の仕事~ 魚市場の朝ははやかったです。いや、早朝というよりも深夜出勤に近かった。独身寮は豊海にありました。午前2時過ぎ、起きがけ、顔も洗わず、玄関に止まったマイクロバスに乗り込みました。ライトアップの消えてなお赤い東京タワーが芝の桟橋越しに見えました。築地は隅田川の対岸でしたから、勝ち鬨橋を渡ってすぐ。3分ほどで到着しました。その時刻は、全国から集まった大型トラックは荷役をほぼ終え、河岸から脱出中でした。勝ち鬨門を入ると、ジーゼルエンジンの排ガスに咽せました。会社は隅田川沿いの低いビル。2階と3階でした。更衣室で着替えてタイムカードを押しました。勤務は午前5時から午後1時まででした。午前2時40分が関西課の出社時刻でした。早出の残業が付きました。給料はよかったです。当時、大卒の手取りとしては上位にランクされていました。 濃紺の上下が制服でした。仕切り伝票とメモ用のB5ノートを入れるため、ズボンの太もも横にもポケットがついていました。長靴を履いて、魚箱の積み上がる1階に降りました。戦闘開始。午前5時頃までに荷の見本品を並べなければなりません。例えば旋網物の鯵5kg入りのスチロール箱が500箱届いていたとします。このうち、5~10箱の蓋を開け、やがて現れる仲買さんたちの下付け用にその場へ陳列するんです。見本品の展示です。ちなみに「下付(したづ)け」とは、魚の産地、鮮度、大きさ、肉質を確かめることをいいます。広義には、入荷量や天気、曜日をして、今日の相場はどんな感じで、この鯵はいくらで「買い」かを推量することを言います。 500箱の箱には、どれも同じような鯵が入っていて、基本品質や入数に差はありません。それでも、トラックから降ろした折、小揚が倹貫(一箱に何kgの魚が入っているか、何尾入っているかを測ること)をします3~5箱程度を倹貫し、その結果を見えるところに掲げてあります。これも仲買の下付けに役立ちます。 私は売る方の人間でした。少しでも上等の品に見せようと、あれこれ工夫しました。見た目、大きい鯵を目につくよう箱のまん中に、痩せや赤目、口開きがあると下に隠しました。こういうのを「上引(うわび)き」といいます。ズバリ言うと、商品を上げ底に見せる作業でした。ずるい作法を先輩に学んでしまいました。こんなことをしてもプロの仲買さんは承知の助。何の意味もない作業ではありました。 見本出しが終わると、看板作りです。弊社社名の入ったB5の紙に荷口ごと、荷主、魚種、全体の個数、箱売りかキロ売りかの区別を書いていきます。それを荷の目立つところに張りました。この折、箱の数を確認しました。間違ったら大変です。競った後、余ったり足りなくなったりはトラブルのもと。注意を要しました。 これを一通り終えたら、先のB5ノートに看板の内容を書き取っていきます。それを持って大急ぎで2階のセリ場へ駆け上がります。誰もいないセリ台で、荷に貼り付けた看板と同じものをこさえます。次いでセリ帳を作成。エクセル画面のような紙面に、荷印と商品名、販売単位を書いていきます。これは、セリ人が競る横で、売り先である仲買と数量をメモするためのものです。ちなみに、メモをする者はその行為の通り、「記帳」と呼ばれていました。セリ人と記帳、二人一組でセリを行うのでした。 5時40分にセリが始まりました。最初の頃は見習いでした。私が記帳とセリ、真似事のようなことを始めたのは入社一年後からでした。 さて、セリが終わると、再び1階の現場へ。そこは、ごった返していました。整然と並んでいた荷は、軽子(仲買の荷役をする人たちのこと)が小車に載せて仲買店舗へ運ばれていきます。罵声・怒声が渦巻いていました。荷を引き渡す小揚の人たちも殺気立っています。一箱数千円から1万円です。数を間違うと大変なことになります。狭い通路は、一応秩序のようなものがありますが、たて込んで身動きの取れないことも茶飯事でした。 さて、午前6時をまわると、山積みになっていた魚箱は、潮が引いたよう。仲買も軽子も自分の店舗に戻り、買い出しの魚屋相手に商売しなければなりません。困ったのは、売れ残った魚です。所謂「出来ず」です。セリで値の付かなかったたものをなんとかしなけければなりません。直ぐに値を下げて「相対売(あいたいう)り」を始めました。文字通り、向き合って価格交渉をするんです。その時刻、値の下がるのを狙って残り物を漁る仲買人や売参人がいます。安く買いたい彼等と丁々発止のやりとりをしました。 例えば500個口の鯵、5kg入りが箱値3,000円とします。売れ残りが100箱出たら、もうその値段の買い手はいません。どんどん値を下げて、売り切ってしまわないといけません。どうしても売れない時は、「おっつけ」と称し、セリで落としてくれた仲買へ5箱10箱届けます。割り引くから買って頂戴とお願いするんです。「しょうがない、おいていけ、この野郎」人のよい仲買は引き受けてくれました。堅い仲買には「すまぬなー」断られました。その時は哀しかったです。 魚には浜値があります。産地仲買さんがそれぞれの漁港で競り落とした値段です。それを東京・築地市場へ送り、私たち荷受会社に販売を託します。築地の売値、その差がが彼等の儲けになります。相場を読み違えると逆ザヤ。荷主に損をさせることになります。「浜値」が損益分岐点の目安でした。セリ人たちは少しでも高く売るよう必死でした。 いよいよの時は「止め」と称し、箱の上に氷を山積み、青のビニールシートで囲いました。これは翌日のセリに廻しました。しかし、大方は、前日の値を下回ってばかりでした。 現場から3階のデスクに戻ったら、汗びっしょり。隣の社員食堂に朝ご飯が待っていました。食べ終えた後は伝票整理。セリ帳をもとに、導入したばかりのコンピューター向き合いました。荷主、ロットごとに売り先(仲買)と価格を入力していきました。これを終え、セリ帳の写しを場内の一角にある東京都の事務所へ提出したら一段落。その日の仕事は終わりです。 売掛の整理中、先輩セリ人は電話に首ったけでした。明日の市況を産地仲買に伝える大声が飛び交いました。午後1時前、再度社員食堂で昼をして退社。耳に残る市場の喧噪と体についた魚の匂いは、勝ち鬨橋を歩いて渡り戻す折、隅田川の風が消してくれました。一日の経つのが速かったことを覚えています。
2016年09月21日
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