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松井秀喜(まつい・ひでき)さんのニューヨーク・ヤンキース時代のお話です。
ヤンキースでの背番号は、55番。 2007年 2月、著書『不動心』(新潮新書)を刊行。
自らの人生を振り返りながら、心構えや思考法を説いた本書は30万部を超えるベストセラーとなった。
開幕から4試合目の4月7日、ボルチモア・オリオールズ戦の2回の第1打席目に捕ゴロで一塁へ走った際、左太股に一瞬つったような違和感を訴える。
その後2イニングはストレッチなどで様子を見ながら守備に就いていたが、太股の張りが消えないため、4回の第2打席目の直前で首脳陣は代打を告げ、そのままベンチ裏に退き、翌日DL入りする。
MRI(磁気共鳴画像装置)診断の結果、左太股の軽い肉離れが判明。故障は順調に回復、DL入りの期限が切れる23日に出場選手登録され、同日のデビルレイズ戦へ16日ぶりにスタメン復帰となった。
5月6日、本拠地でのマリナーズ戦で日本人メジャーリーガー2人目となる日米通算2000本安打を達成。日本から駆けつけた名球会会長の金田正一の目の前での快挙達成であり、名球会入りを果たした。
当初は外野手の失策と記録されたが、後に二塁打に訂正され、直後判定に両チーム乱闘が起こった。試合後のインタビューにて、記念のボールについて問われると「エラーだと思ったから、どっかにいっちゃった」と発言し、周囲を笑わせたが、「ひょっとして」と考えた球団職員が保管しており、試合後に本人に渡されていた。6月は打率.252、3本塁打、OPS.706と打撃不振に陥り、6月26日には地元紙から他4選手と共に、勝てない直接の原因として名指しされた。
7月に入ると一転して打撃好調で打ちまくり、出場28試合で打率.345、28打点、OPS1.145の成績。長打率.735、13本塁打、31得点はリーグトップだった。8月2日には、7月のリーグ月間MVPに選出された。
8月5日、ヤンキースタジアムでのカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャー通算100本塁打を達成。26日には、コメリカ・パークで行われたタイガース戦では、カーティス・グランダーソンが放ったレフト線への詰まった飛球の処理を誤り、ランニング本塁打を許してしまうこともあった。
終盤からプレーオフにかけて右膝の故障に苦しみ、9月は打率.185、2本塁打、OPS.689を喫した。チームは3年連続でディビジョンシリーズ敗退、松井も4戦で打率.182(11打数2安打)に終わった。
シーズン成績は25本塁打・103打点と一定の数字を残し、打点を多く叩き出すため、ゲームのキャラクターのように打点をパクパク呑み込んでいく連想から、この年にはチーム内で「パックマン」という愛称が、本人はオフのインタビューで「今季は失敗しかなかった。話になりませんよ」と振り返り、怪我や要所での凡退を繰り返したことに悔しさを滲ませた。
シーズン終了後の11月14日にニューヨークの病院で右膝の軟骨を除去する内視鏡手術を受ける。
オフにはトレード候補として名前が挙がり、ストーブリーグの目玉候補の一人としてサンフランシスコ・ジャイアンツのティム・リンスカムとのトレードの噂が日米で盛んに報じられた。
その他にも、ロサンゼルス・ドジャースやミネソタ・ツインズとのトレードの噂も持ち上がり、松井本人もトレードを打診された場合には契約条項にあるトレード拒否権を行使する可能性を示唆したものの、結局トレードは実現せずヤンキース残留となった。
2008年 3月26日、富山県出身の25歳日本人女性(元OL)とアメリカ合衆国ニューヨーク市内で挙式。
翌日に新婦の似顔絵と共に記者会見を行い、結婚を報告した。相手が元会社員で一般人のため、プライバシーを考慮して、顔写真や出身地、氏名は公表していない。
レギュラーシーズンでは監督の交代もあり、開幕前はレギュラーが確約されなかった。
開幕は「8番・指名打者」からのスタートとなったが、序盤は打撃が好調で打順も上がり、一時は打率.337で首位打者に立ち、4月から5月にかけては自己最長となる19試合連続安打を放った。
また、この年のオールスターゲームは同年限りで閉場する地元ヤンキースタジアムで行われる最後のオールスターゲームということもあり、松井も「こんな舞台は二度とない。
出られれば一生の思い出になると思う」と出場を熱望し、地元の石川県の公式サイト上でファン投票の呼びかけが行われた が落選した。
6月になっても好調を持続させ、首位打者争いをしていたが、6月18日の試合前、突然古傷の左膝に痛みが走り、患部に溜まった水を抜く治療を受けた後、監督のジョー・ジラルディとGMのブライアン・キャッシュマンの意向で27日にDL入り。
オフに手術した右膝を無意識にかばい、左足に負担が掛かっていたことが原因だった。
持ち上がった手術の話に関しては、7月17日の段階では「(手術を)球団に勧められれば受け入れる 」との考えを示していた。
しかし、2日後にキャッシュマンから手術を勧められた際には態度を一転させ、2時間もの説得にもかかわらず手術を拒否した。その後、2ヶ月に渡る治療・リハビリののち、8月19日のブルージェイズ戦から復帰、主に「7番・指名打者」として出場を続けたが、万全には程遠く打撃は低迷。
チームのプレーオフ進出も困難になった9月後半からは再び控えに回り、21日のヤンキー・スタジアム最終試合の先発出場を最後にシーズンを終えた。
22日、左膝の内視鏡手術に踏み切った。その翌日、ヤンキースの14年連続プレーオフ進出の可能性が消滅、松井も「責任は感じている」と語った。最終的に打率は3割を下回る.294、安打数は99、本塁打も一桁の9本と寂しい成績に終わった。
シーズン終了後に、ニューヨーク・デイリーニューズが実施したアンケートでは、47%が松井の放出に賛成という結果になった。
11月にはシアトル・マリナーズとの間でトレード話が持ち上がったが、結局立ち消えになった。 2009年 「3割30本100打点」「4盗塁」 を個人成績での目標に掲げてスタート。
膝のリハビリを最優先したために、調整が遅れてしまい、スプリングトレーニングでも序盤は不振が続いたが、故障のため離脱したアレックス・ロドリゲスに替わって4番に座り、4月4日には、新ヤンキー・スタジアムの杮落としに花を添える本塁打を放つ等、4本塁打を放った。
開幕戦では4番・指名打者として出場し、7回には恩師である長嶋茂雄の通算444号を超える日米通算445号となる2点本塁打を放った。
しかし打撃の調子はなかなか上がらず、5月に以降も膝の腫れや太もも痛などの怪我が断続的に発生した。
ロドリゲスの復帰後は、打順が5番や7番に下がり、休養を入れながらの指名打者としての起用が続いた。
また、2009年は完全に指名打者としての登録になったため、指名打者制のないナ・リーグの本拠地球場(ブッシュ・スタジアム)で行われるオールスターのファン投票にはノミネートされなかった。
5月下旬には守備練習を再開。5月27日、敵地でのテキサス・レンジャーズ戦では、日米通算450号となる6号本塁打を含む2打席連続を放った。
しかしその後、18打席連続無安打を記録するなど打撃不振が続き、指名打者制が採用されないナ・リーグ本拠地でのインターリーグ(交流戦)では全試合で先発を外れた。
交流戦期間中の6月17日には阪神タイガースが松井の獲得に向けた調査を進めていることが明らかになり、松井本人は「ありがたい」とコメントし、他にも巨人やオリックス、さらには独立リーグの石川ミリオンスターズが松井の獲得に意欲を見せていると報じられたが、「それと日本に戻るという話は別問題」と語り、メジャーで現役生活を最後までやり抜くことを強調した。
7月20日のオリオールズ戦では、2003年以来6年ぶり2本目のサヨナラ本塁打を放ち、7月は打率.293、5本塁打、OPS.967と好調を続けたが、直後から13打席連続無安打に陥った。
8月13日のマリナーズ戦では2本塁打を含む4安打5打点と爆発したが、直後に左ひざの状態が悪化してシーズン初の連続欠場となった。しかし復帰後の21日のレッドソックス戦にて3点本塁打を2本放つなどして自己最高の一試合7打点を記録。
2日後のレッドソックス戦でも2本塁打を放つ活躍を見せた。こうして8月は中旬から比較的好調を維持して打率.281、8本塁打、25打点、OPS.918という成績を残し、勝負強い打撃を見せた選手に贈られる「クラッチ・パフォーマー賞」を贈られた。
9月19日のマリナーズ戦で26号本塁打を放ち、ドン・ベイラーを抜いて指名打者での年間最多本塁打の球団記録を更新。メジャー移籍後2番目に多い28本塁打を放ち、チーム3位の90打点を叩き出す勝負強さで3年ぶりの地区優勝に貢献した。
レギュラーシーズン全日程終了後、「明らかに打率が低いのは反省点。(28本塁打は)よくも悪くもない」と総括した。また、4年ぶりに1度も故障者リストに入らなかったことを喜んだ。米国のスポーツ専門誌「スポーティング・ニューズ」が選定するア・リーグ・オールスターメンバーにも指名打者部門で選出された。
ポストシーズンには主として「5番・指名打者」として出場。
ミネソタ・ツインズとのディビジョンシリーズ第1戦では、試合を決定付ける2点本塁打を放った。
ロサンゼルス・エンゼルスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは初戦で2打点と活躍したものの、第4戦・6戦では無安打とやや調子を落とし、打順も6番に下がったが、チームは4勝2敗でエンゼルスを下し、メジャー1年目の2003年以来6年ぶりにワールドシリーズへと駒を進めた。
迎えた前年の覇者フィラデルフィア・フィリーズとのワールドシリーズでは5番に復帰し、持ち前の勝負強さを存分に発揮した。
初戦は1安打のみに終ったが、第2戦では1-1の同点で迎えた6回裏に、ペドロ・マルティネスから決勝本塁打を放った。
フィリーズの本拠地シチズンズ・バンク・パークで行われた第3~5戦は、指名打者が使えないため代打での出場となった。
第3戦では2試合連続となる本塁打を放ち、第5戦でも左前打を放つなど、わずかな出番ながらも結果を出した。
ヤンキースの3勝2敗で本拠地に戻った第6戦では先発に復帰し、2回にペドロ・マルティネスから先制の2点本塁打を放つと、3回には中前適時打、5回にも右中間を破る適時二塁打で2打点ずつを加え、ワールドシリーズ・タイ記録となる1試合6打点をマークし、スタジアムのファンからは「MVP!」の大歓声が沸き起こった。
9年ぶりの世界一に貢献し、13打数8安打3本塁打8打点、打率.615、OPS2.027で日本人選手初、フルタイムの指名打者としても初めてとなるワールドシリーズMVPに選出された。
また、日本シリーズMVPとワールドシリーズMVPを共に受賞した初の選手となった。
ヤンキースとの契約満了に伴い、11月9日にFAとなる。
ヤンキースGMのブライアン・キャッシュマンは松井よりアンディ・ペティット、ジョニー・デイモンとの交渉を優先し、松井は「ヤンキースで現役を終えたい」と残留を望んでいたが、ヤンキースからのオファーはなかった。
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