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高倉健さんは・・・
1963年に出演した『人生劇場 飛車角』以降
・・・・仁侠映画を中心に活躍しました。
1964年から始まる『日本侠客伝シリーズ』
1965年から始まる『網走番外地』シリー
ズ
『網走番外地』シリーズの主題歌(同タイトル)は、
のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で
一時は放送禁止歌になったが公称200万枚を売り上げ、
『昭和残侠伝』シリーズの主題歌
『唐獅子牡丹』もカラオケなどで歌い継がれている。
70年安保をめぐる混乱という当時の社会情勢を背景に
「不条理な仕打ちに耐え、ついには復讐を果たす着流しのアウトロー」
である高倉演じる主人公は、
学生運動に身を投じる学生を含め、
当時の男性に熱狂的な支持を受けたが、
本人は年間10本以上にも及ぶ当時のハードな制作スケジュール
毎回繰り返される同じようなストーリー展開、という中で心身ともに疲弊し
気持ちが入らず不本意な芝居も多かったという。
そうした中で、
何度か自ら映画館に足を運んだ際、
通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって喝采し、
映画が終わると主人公に自分を投影させて、
人が変わったように出ていくさまを目の当たりにし、強い衝撃を受けたという。
これについて「これ、何なのかな……と思ったことあるよ。
わかりません、僕には。
なんでこんなに熱狂するのかな、というのは。
だからとっても(映画というのは)怖いメディアだよね。
明らかに観終わった後は、人が違ってるもんね。」と、
当時の様子を客観視し語っている。
当時の風貌は、劇画『ゴルゴ13』の主人公・デューク東郷のモデルにもなり
同作の実写映画版への出演は、
原作者のさいとう・たかをたっての要望であったという。
【東映から独立】
映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』 (1966年、にんじんプロダクション / 國光影業) を皮切りに
ハリウッド映画や東映以外の作品にも出演していたが
1970年に「ヤクザ映画にも出演し続けるが、好きな映画を作る自由も認めてほしい」と
東映社長・大川博の了承をもらい、高倉プロを設立する。
しかし翌1971年8月に大川が死去。
社長が岡田茂に代わり、特例は認めないと反故にされた。
1972年11月、高倉の海外旅行が、
“高倉健 蒸発”
“仕事を放り出して蒸発することで、
高倉プロを認めさせる最後の手段に出た”と報道された。
帰国した高倉は
「僕はそんな手段を使って、会社とやり合うようなケチな根性は持ってない」
と説明したものの、1973年の『仁義なき戦い』がヒットしてから、
岡田は「鶴田浩二も高倉健もしばらく止めや」と実録路線に変更したため、
高倉と岡田の関係は悪化。
「このまま東映にいたら、ヤクザ役しかできなくなる」という危機感も加わり、
東映作品の出演を拒みだした高倉は、1976年に退社した。
フリー転向後、
同年の映画『君よ憤怒の河を渉れ』(永田プロ / 大映) にて主演。
10年以上、出演し続けた仁侠映画のイメージから脱却した。
1977年には『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』の2作品に主演し、
第1回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞と、
第20回ブルーリボン賞の主演男優賞のダブル受賞に輝いた。
これ以後も数々の作品に出演し
合計4度の日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞
2度のブルーリボン賞の主演男優賞に輝いている。
これと前後してアメリカ映画や中国映画などの海外作品にも出演しており
1998年には紫綬褒章を受章した。
一方でテレビドラマへの出演は
1977年の初主演作『あにき』をはじめ、5作品である。
その出演理由も
「故郷にいる母親に、テレビで毎週自分の顔を見て安心して欲しいから」というものである。
CMにも数多く出演しているが、
富士通のパソコンFMVのCMでは
『幸福の黄色いハンカチ』で
夫婦を演じた倍賞千恵子と再び夫婦役で共演、コミカルな演技を見せた。
2006年4月2日の『世界遺産』(TBS)で初めてナレーションを務めた。
・・・ウィキペディアより・・・
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