「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2019.10.13
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​【世界遺産】ブリュッセルのグラン・プラス La Grand Place,Brusselsは、1998年にユネスコの文化遺産として登録されました。2019年4月12日(金)友人と2人で夕方の訪問です。最初は、ブリュッセル市庁舎を見てみましょうそして


グラン・プラスの歴史・・・とは


​​きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第174回​​


​Hotel de Ville​

​ブリュッセル市庁舎​


【グラン・プラスの手書き地図】

ザックリと書きました


15世紀に建てられ広場で最も大規模な建築


「後期ゴシック・フランボワイヤン様式」の美しい建築。


15世紀の初めには、


現在のライオンの階段と左翼は


1402年、建築家ヤコブ・ヴァン・ティーネン





1445年、多少短い右翼を増築されたので左右対称では無い

1445年、中央の鐘塔が


建築家ヤン・ヴァン・ライスブルック


Van Ruys broek によって建てられました。


鐘塔の高さは、96mである。


その軽妙で優雅な姿は無比のものと絶賛されてきた。


頂上に『竜を倒す聖ミカエル』の像が立っているが


聖ミカエルは・・・


ブラバント州の守護聖人である。


1520年、ここを訪れた


アルブレヒト・デューラーは、


『ネーデルラント旅日記』で


「大きく、美しい


 飾り格子の窓のある立派な市庁舎と



 透けて見える塔を見た」





1694年、フランス軍による


砲撃時にも奇跡的にこの塔は爆破を免れた。


この鐘楼が大好きです手書きハート



​グラン・プラスの歴史・・・とは?​


ブリュッセルという地名は、



​「湿地の村」 ​​ というフランコニア語に由来する。


966年の記録以前のブリュッセルは、

​まだ湿地帯の中の一村落であった。​


977年に低地ロートリンゲン大公が

センヌ川の島(現在のブリュッセル)に城塞と聖堂を建て

聖ガウゲリクス(カンブレの聖ゲリー)に献堂した。


1047年頃、同大公はより高台の

カウデンベルフ(クーデンベール、16世紀の宮殿の所在地)に

居を移したと推測される。


​この地方に流れるセンヌ川は・・・​

ドイツのケルンと

ベルギーのゲント、ブルージュを結ぶ

水上運輸の利便性を提供していたので

ブリュッセルは、

都市として次第に発展していった。


​ブルゴーニュ公国時代になると・・・​

歴代の統治者は、

ディジョン、ブルージュなど各地に宮殿を持ったが

シャルル突進公(在位1467〜1477)と

3番目の妻マーガレット・オブ・ヨーク(1446〜1503)は、

ブリュッセルを含む、ゲント、リール、メヘレンなどに宮殿を置いた。


彼らをはじめ

突進公の一人娘(2番目の妻と子)で

後継者マリー・ド・ブルゴーニュ(後のマクシミリアン一世の妻、在位1477〜1482)も

とりわけブリュッセルをブルゴーニュ公宮廷の所在地として重要視した。



15世紀を通じて・・・

ブリュッセルの宮廷を訪れる各国の使節たちや貴族

またこの都市の旅行者たちは、

この都市の贅沢な美術品に瞠目し

こぞって注目した。


例えば・・・

ヤン・ボレマンとその一族は、

ひとつの大きな木のブロックから

数体の彫刻を彫り上げる木彫祭壇を製作。


ローヒル・ヴァン・デン・ウェイデンとその弟子たちは、

光沢のある油彩で祈念画的な要素を含む写実的な祭壇画を製作。


すでに13世紀から

ブリュッセルの特産として著名なタペストリー

華麗な彩飾写本、精巧な金銀の工芸品

良質の革製品などであった。


「マリー・ド・ブルゴーニュ公の画家」による

いくつかの時禱書から

当時の華やかな宮廷生活を垣間見ることができる。



16世紀になると・・・​


神聖ローマ皇帝カール5世

(スペイン国王・在位1516〜1556、神聖ローマ皇帝・1516〜1556)が

ブリュッセルにおいて果たした役割は大きい。


​彼は、わずか6歳で​

ブルゴーニュ家の所領を継承したが

伯母のマルグリート・ドートリシュ(在位1507〜1530)は

まだ幼い甥カールのために摂政を務めた。

彼女は、

宮廷をブリュッセルからメヘレンに移したが

それにはさまざまな歴史的な背景があった。


すでに1473年、

ブルゴーニュのシャルル突進公が

メヘレンに大評議員を置いていたこと

突進公の没後(1477年)

妻マーガレット・オブ・ヨークが

メヘレンの宮殿をこよなく愛し

ここを居住地としたこと。


こうして彼女と親しかった

マリグリート・ドートリシュにとっても

メヘレンには数々の思い出があった。


だがカール5世は・・・

1515年、15歳で

ハプスブルク家の継承者となると

ネーデルラントの統治者として

ブリュッセルで入市式を行った。

その時、

グラン・プラス(大広場)でも

さまざまな公的なページェントが繰り広げられたに違いない!


1530年、

マルグリート・ドートリシュが没すると

カール5世は、妹でハンガリー王の未亡人

マリー(在位1530〜1555)に執政を命じた。


カール5世は、

これを機会に宮廷をふたたび

ブリュッセルに移し、

この地を政治活動(国事評議員、内務評議員、政務評議員)

などの中心地にした。


彼は、カウデンベルフの宮殿を再築(1731年に破壊された)し


​グラン・プラスの「王の家」の建築​

(1515年着工、17世紀初期に再築)にも着手

ナッサウ礼拝堂(1530年着工、現在の王立図書館の一部)

を建てた。

後に・・・

カール5世が退位したのも

ブリュッセルの宮殿であった。


16世紀のブリュッセルの経済的、文化的な発展にとって

地場産業であるタペストリーは、

大きな存在であった。

1477年、生産者たちが

独立した組合(ギルド)を結成すると

飛躍的に発展した。


ピーテル・アールストが、

1493年にブリュッセルに居を構え

タペストリーの事業に成功させる頃には

この産業は、ブラバント地方の中心的な存在となる。


ブリュッセルで活躍した画家たちは・・・

多かれ少なかれタペストリーのための下絵を製作したが

ベルナルト・ヴァン・オルレイは、

その主導的な役割を演じた。

タペストリー連作『マクシミリアンの狩猟』の

下絵素描は、彼の代表作である。


しかし、

地元の画家だけでなく

ラファエロのような

同時代のイタリアの画家にも

下絵が注文された。



​16世紀中期には・・・​

オルレイの弟子でフェリペ2世の宮廷画家となった

ミヒール・コクシーやピーテル・クック・ヴァン・アールストは、

イタリア・ルネサンス様式を反映した

タペストリーやステンドグラスの下絵を製作した。


ブリュッセル産のニードル・レースやボビン・レースも

この時代の特産であった。


非凡の才能を持ったジャックリーン・マスケリールは、

芸術性の高いレースを

アントワープの出版業者プランタンに供給した。


プランタンは、

人物や動物の動きが緻密に編み込まれている

美麗なレースがヨーロッパの上流階級の人々を

魅了することを知っていた。



​広場は・・・​

一般に政治的な行事や祝祭用のイベントの場所

また経済的活動としての市場になるなど

さまざまな機能を持っている。


だが、

16世紀の後半、

ブリュッセルのグラン・プラスで

誰しも忘れることのできない

ある歴史的な悲劇が起こった!


1566年のネーデルラント各地での

カルヴァン派の聖像破壊運動を鎮圧するために翌年

猛将アルバ公が引率する1万人あまりのスペイン軍隊が

ブリュッセルに侵攻した。


しかし、

地元の貴族たちは、

ネーデルラントの秩序回復という名目で

強硬な弾圧政策をとるアルバ公を厳しく批判し

エグモント伯とホルン伯などの有力貴族が

スペイン国王フェリペ2世に緩和政策を嘆願した。



こうした行為に対し

1568年6月5日、フェリペ2世は


グラン・プラスで反逆者として


エグモント伯とホルン伯を斬首


他の多数の貴族をも処刑した。



そんな歴史を持ちながらも

グラン・プラスは・・・

絢爛豪華な祝祭行事の場ともなった。


例えば

1614年に描かれたデニス・ヴァン・アルスロートの

『グラン・プラスのオメハング』では

精霊降誕後の日曜日、

アルバート公夫妻の隣席のもとで

荘厳な祝祭行事がパノラミックに描写されている。


貴族、役人、各組合(ギルド)の構成メンバー

楽隊、大旗の名手など・・・

数百人による行列とイベントが繰り広げられている。


今でも伝統的なオへマング祭は継承され

毎年7月の第一木曜日に同じ広場で

「時代祭り」的な行事として開催されるが

その中央席に座るのは、

ハプスブルク家の末裔である。



グラン・プラスがこうむった


最も悲劇的な事件は・・・


17世紀末に起こった!


1695年8月13日と14日、

フランス王ルイ14世の命令で

ヴィルロワ将軍がモーレンベークの丘から

ブリュッセルのグラン・プラスおよび隣接する道路に向かって

36時間にわたって大砲や銃弾を浴びせかけた!


グラン・プラス広場に面した建物のうち

さいわい市庁舎の塔は、爆破を免れたが

広場のほとんどの建物は木造だったため

同業組合(ギルド)会館や個人住宅の大半は消失した

それだけでなく

周辺の16の聖堂、約4000件の家が戦火の犠牲となった


この仏軍の攻撃は・・・

アウクスブルク同盟(オランダ・イギリス・ドイツ・スペイン)

への報復行為であった。

というのは、

同盟国の連合軍が

すでに北フランスの海岸都市を砲撃していたからである。

そんな最中、

オランダやイギリスの軍隊は、

ナミュールに駐留していたため

ブリュッセルの守備は、かなり手薄となっていた。



仏軍の爆破の後・・・

ブリュッセル市の指導者たちは、

復興へ奔走し始めた!

アントワープ、メヘレン、ルーヴェンなどの周辺の都市から

さらにブラバントやホランド州からも支援を得た。


当時、バイエルンの

マクシミリアン2世エマヌエル選帝候は、

再建の援助を条件に

広場を選帝候の権力の場にしようとし

再建プランにさまざまな注文をつけた。


だが、

都市の実質的な実力者である

商人たちや手工業者たちは結束し

選帝候の要求を退けた。


彼らは、

グラン・プラス広場に

同業組合の存在感をアピールするために

斬新で当世風なデザインでありながら

それぞれが特色を持った組合会館を林立させた。

多くの組合会館のファサードに ​1697年​​


浮き彫りの数字で1697年という年号が記されている


1695年の砲撃後、

2年間で復興したという組合の自負を物語っている!


こうして、

グラン・プラスは・・・

市庁舎を中心とした

中産階層の「経済力の象徴」となった。



星グラン・プラスの歴史終わり星

長々。歴史にお付き合いありがとうございました手書きハート



グラン・プラスの観光客たち


いっぱいです〜手書きハート大人気スポットです手書きハート



グラン・プラスの建物については明日からさらに詳しく



カフェもしっかりご紹介。

(スタバもあります)



・・・つづく・・・


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最終更新日  2019.10.13 00:10:07
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