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だいぶ前にイタリア語版の DVD を買って、5枚ディスクのうち途中まで観たのに久しく放置しておいた、『宇宙空母ブルーノア』。私が中学1年の時(1979~80年)のアニメーションだ。『宇宙戦艦ヤマト』の二番煎じとか、いつまで経っても宇宙空母にならないとか、BGM にちんたら節が多いとか、当時いろいろ言われて(自分も言って)いたが、それでも今日、不調であることを理由に38年ぶりに最終回まで一気に観た。最後の数話は、確かに放映当時に観ていたし、録音テープもあった。何と言っても最終回、ゴドムの高官ヘーゲラーが、地球人に対して、「お前たちも選ぶ指導者を間違えれば、いつ侵略者になるかも知れない」と言ったのは、当時いささか衝撃だった。ヒーローものと言えば、「悪い侵略者は外部から来るもの」というのがお約束だったし、被害を受ける地球側・人類側に「正義」があるのは自明だと、私自身も無邪気にそう考えがちだったからだ。ヘーゲラーに対して主人公の日下真が「ばかな、そんなことはあり得ない」と言い返したのはずっと記憶にあった。それを聞いた中1当時の、いろいろな違和感も含め、遠い記憶からいろんなものが蘇ってきた気がする。
2017.06.11
かつて「10年ひと昔」と言われたが、今は社会や時代の変化が速いから、「5年ひと昔」あるいは3年かも知れない。それはともあれ、30年間あることを貫いてくるというのはなかなか大変なことだ。30年前と言えば、私は二十歳で大学3年生。やることなすことうまくいかない大学生活で、もがいていた頃だった。夏休みには、鉄道で45日間のヨーロッパ貧乏旅行を敢行した。柄でもない大学祭実行委員の一員として、心で泣いた日々もあった。カール・マンハイムの『イデオロギーとユートピア』に取り組むようになったのも、この年の秋か冬だ。長かったと言えば長く、しかしあっという間だったとも言えるこの30年――自分はどの程度成長したのだろうか?
2017.06.01
前日の雨雲は去り、明け方には晴れていた河口湖。宿の部屋から見事な富士山が姿を現わした。母親は、山頂に雪がある富士山を見たがっていたが、まだ残雪がある状態だったので、ほぼパーフェクト。年齢が年齢だから、もうこうした遠出は最後になるだろうという覚悟のもとでの河口湖だったが、よかったと思う。八王子に車で戻った後、東京駅までJRで一緒に行き、常磐線に乗るところまで見送ったのだった。
2017.05.27
85歳の両親が上京。人気のそば屋・車屋でランチを食べた後、引っ越して7カ月になろうという新居に迎える。そしてその足で、車で河口湖へ向かう。雨模様で、富士山の姿は見えなかった。宿は、6年前の2011(H. 23)年秋にも一度泊まっている秀峰閣・湖月。
2017.05.26
よほど薬が効いたのか、機内で泥沼のように寝た。が、首や肩や腰は痛い。行きの KLM はそうでもなかったのだが。で、機内食の朝食の後、着陸態勢へ。ほぼ12時に羽田空港に無事帰着。飛行機を降りて、真っ先にトイレに入り、タイツとカーディガンを脱いだ。日本は晴天で、初夏のようだった。奥さんに連絡をし、14:50発のリムジンバスで京王八王子に向かう。奥さんには三鷹あたりでメールをするはずが、発車してすぐにうとうとしてしまい、気がついたら日野。慌てて奥さんにメール。何とかイースで迎えに来てもらう。やはり自宅は落ち着くのであった。
2017.05.06
朝5時台に起きる。帰国準備はすでに万端のはずだが、ついついチェックしてしまう。ロンドンを去る日は、そこそこの晴天の様子。ホテルでの最後のコンチネンタル・ブレックファストを食べ、8時にはお世話になった145号室に別れを告げ(持参したスリッパだけは置きっぱなしにして)チェックアウト。ジャンパーはキャリーバッグの中に入れてしまっていたが、Russel Square 駅まではさほど寒くなかった。で、ヒースロー空港のターミナル4に行くピカデリーラインに乗車。最初は立ちんぼだったが、ほどなく座れ、A. D. リンゼイ著『自由の精神』を少しひも解くが、結局はうとうと。しかし、西部の地上線になったあたりで、緑豊かなロンドン郊外の景色を車窓から懐かしく眺める。そしてターミナル4駅に到着し、使っていたオイスターカードを精算して残額を払い戻そうと思ったら…あろうことか、10ポンド以上残っている場合にはそれができないのだそうな。そんなん知らんかった。次回、いつロンドンに来るのだろうか?で、すでにチェックインは前日にホテルでインターネット経由で済ませていたが、ボーディングパスがまだ入手できていなかったので、エールフランスのカウンターへ。座席がちゃんと通路側であることを確認し、キャリーバッグを預けて、さっさと出国手続きに。免税店エリアに行き、様子を探りにウロウロしたら、シーフードバーの Caviar House & Prunier を見つけたので、10時ぐらいに入ってしまう。シャルドネの白ワインとプラウン・カクテルを注文。後から振り返れば、オイスターにしておけばよかった…が、まぁいい。そこでポンドの紙幣は使い切った。免税店ではこれといって買うものはなかったが、ゼミの学生用にロンドンの 3D ポストカードなるものをせしめた。また、ロンドン市内でとうとう買わないままだったキャドバリーのチョコレート Dairy Milk Whole Nut を発見したので、衝動買いして日本に持ち帰る。パリ行きのフライトが1時間遅れたが、無事にロンドンを出発して CDG のターミナル 2E へ。乗り換えゲートの K に行くと、以前に奥さんと来たところとはまったく違う、広く開放感のあるターミナルだ(壁面は木のようだし)。K43ゲート前は、さすがに羽田行きだけあってほとんどが日本人客だった。AF272便でも、しっかり通路側の席。ほぼ定刻通りの17:20には発進し、巨大な CDG 内を延々と taxi した後に17:50にはフライト。あとは、機内食で晩御飯を食べて、薬を飲んで寝るだけである。食前酒にはシャンペンを注文するドラゴン山田であった。
2017.05.05
今日も朝から曇天のロンドン。しかし幸い、雨には降られなかった。4月30日の朝食からずっとコンチネンタル・ブレックファストだったが、さすがに飽きたので、5ポンド余計に支払って久々にブリティッシュ・ブレックファストを食べた。さて、ロンドン大学 UCL の Institute of Education でのリサーチも、いよいよ最終日となった。やることは多くは残っていないが、それでもカメラとウルトラブックを持参して10時前に到着。昨日までの時点でデジカメにおさめていない資料をチェックし、必要に応じてさらに撮影。さらには、パソコンに取り込んでひたすらファイルに名前を付けるという作業をした。正午までには片づけも済ませ、最後にスタッフの女性に、私と The Moot Papers の入った箱が一緒に写っている写真を撮ってもらった。ホテルに戻って、結局は3パック残っていた Walkers のクリスプスを食べつくして、お昼ご飯の代わりにした。そして、いよいよ帰国に向けてのパッキングを始めた。なかなか上手く入らない。16時過ぎに、ホテル周辺でまだ行っていない方向に向けてテクテク歩き出す。2008(H. 20)年の「シェフィールド殺し」以来となる St. Pancras 駅にも行き、駅構内を歩き回る。その足で、『地球の歩き方』に載っていたガストロ・パブ The Perseverance を目指すが、いざ着いてみたら、空いている席がみな予約席のようだったので、さっさと脱出。結局はホテルすぐそばのパブ The London Pub で、今回の旅で初のフィッシュ・アンド・チップスの晩御飯を食べる。ホテル1階のバーで食べるという手もあったのだが、何となく、入ったことのない店(しかも、ちゃんとしたパブ)で食べたいという思いが働いた。明日は早い。ひと風呂浴びれば、さらにパッキングが進むと見た。なお、メールチェックして発見したイギリス政治学会 PSA のニュースレターによると、来年2018年の大会はカーディフだそうな。問題は日程だが…。
2017.05.04
曇天で、朝から小雨のぱらつく5・3のロンドン。今日も午前中から IOE の図書館で資料収集。昨夜デジカメの電池をしっかり充電したので、全く問題はなかった(ということは、日本を出る前の充電が不十分だったということだ)。また、今日はパソコンも持参したので、図書館内でデータをパソコンに移し替え、どこまで文献を集めることができたのかを逐一確認した。14時ぐらいにはホテルに戻り、またしても、データのファイル名を書き換える果てしない作業が夕方までかかった。夕べのうちにインターネットで、ピカデリーサーカス近くのシーフードレストラン Bentley's (11-15 Swallow Street, London W1B 4DG) を予約しておいたので、17時には再び出かける。ピカデリーで地下鉄を降りて地上に出たら、よりによって風雨。早く着きすぎたので、昔よくウロウロした日本食レストランが集まるエリアに足を運ぶと、あの Ten Ten Tei がまだ健在であることを発見する(John Keane さんと来たのは2005年だったな)。また、30分弱だったが、ピカデリーの Waterstones に初めて入るが、4階の政治学書・哲学書・歴史書のフロアはなかなかの品揃えだった。18時に予約した Bentley's には今回初めてだが、やっと「美味しい」と思える食事にありついた。まずはシャンパンを注文し、養殖じゃない生のオイスター3つに、エビ(prawn)の料理に、最後はロブスター入りスパゲティ。ちょっと味が薄い気もしたが、高級店だけはあった。5・3に資料収集の「山場」を越えた自分へのご褒美だった。
2017.05.03
晴れた朝、University College London の Institute of Education 図書館(Newsam Library and Archives)に乗り込む。箱に納められた The Moot Papers は、カテゴリーごとに紙のフォルダに分類されていた。去年6月、Kettler 教授のところで資料収集した経験があるためか、さほど「ついにお目見えだ」というワクワク感はなかった。ここでいよいよ、科研費で買ったミラーレス一眼・オリンパス OM-D の出番だ。次から次へとシャッターに納めていくが、さすがに足腰が疲れる。正午前に、トイレに行きがてら、大学内で売っていた Prawn & Mayonnaise のサンドイッチのランチ。意外に速いスピードで資料収集が進むかに見えたが、予想外にカメラの内臓電池の持ちが悪く、途中で電池切れとなってしまった。やむなく今日はここでリサーチを打ち切り、ホテルに戻ることに。なお、その途中で HSBC に立ち寄り、1枚だけ残っていた旧札の50ポンド紙幣を、新札のもっと少額の紙幣に替えてもらった。ホテルでは、今日収集した資料のデータをパソコンに取り込んで、ひたすらファイルに名前を付けて整理を試みた。こういうことは、ここでやっておかないと、おそらく帰国後の日常生活ではやるまい。それにしても、やむを得ないこととは言え、写した資料に自分の影が映ってしまっていて、下から半分は暗くなっている。いずれ読む時には苦労するだろうと覚悟する。あっという間に夕刻になってしまったので、もう食事に出るのも億劫になり、30日(日)に TESCO で買っておいた Salt & Vinegar 味のクリスプス3袋で晩御飯をごまかしてしまった。ただ、ホテル1階のバーにビールを飲みにだけは行き、WADWORTH とかいうアンバーエールをハーフパイント飲んだ。そんなに美味しかったとは言えないが。
2017.05.02
バンクホリデーの今日は、夜にミュージカル『Mamma Mia!』を観る日。ホテルに戻るのが遅くなる予定で、あまり疲れるのも問題なので、午前中はホテルでおとなしくしていた。日本から持参した A. D. リンゼイのもう1冊の本『自由の精神』(未來社、1992年)を手に取るが、あまり頭に入らない。ホテル1階のバーで、ローストビーフのサンドイッチのランチを食べた後、1990(H. 2)年2月の感覚を取り戻すべく出かける。昔の Dillons、今の Waterstones をかなりゆっくりウロウロした。政治学書・哲学書・歴史書がかなり充実しているように見える。が、これぞという本は決して多くない。なお、「Dillons」の名は、併設のカフェの名前として残っているが、どう見ても客はみなロンドン大学の学生だ。みんなパソコンを持ち込んで、テーブルに陣取っていろいろやっている。まるで大学のカフェといった感じ。そう言えばこの書店の前で、エディンバラ時代の友人・Cさんと最後に落ち合ったのが、1994(H. 6)年6月だったな――と記憶が脳裏をよぎる。その後、ロンドン大学本部や SOAS の界隈を歩き回り、いったんホテルに戻る。部屋の掃除は終わっていた。しばらくしてから、地下鉄で Covent Garden へ。わずか2駅だから早いものだ。この界隈は(確か)初めてだったので、地図を片手に慎重に歩き回る。『地球の歩き方』に載っているシーフードレストランが、このあたりに複数ある。また、コヴェントガーデンというのは基本的にマーケットだな、と思う(ロンドン交通博物館なるものもあったが)。『Mamma Mia!』が上演されるシアター・Novello に向かうが、途中で雨が降り出す。シアターの Box Office で、日本で事前に予約しておいたチケットを入手し、17時に予約のイタリアンレストラン・Orso に行くまで、そのあたりをウロウロする。別のシーフードレストラン・Loch Fyne が、『歩き方』の地図とは場所が微妙にずれているのを発見する。イタリアンレストランでのセットメニューは、スープにチキン料理だったが、正直イマイチ。しかも、食事の途中で変な汗をかいた。まぁ、50ポンドの旧紙幣が使えて新札でお釣りが来たのは幸いだった。が、早めにシアターに行って時間をつぶそうと思ったら、「19:15まで入れない」と言われ、40分ほどどこかで時間をつぶさなければならない。コヴェントガーデン方面に戻り、アップルマーケットとか言われるところをうろつく。ヴァイオリンの演奏があったり、大道芸人が何かやっていたり。そんなこんなしているうちに時間が迫り、シアターに戻ったら、今度は長蛇の列。まぁ、あそこに突っ立って40分も待つよりはましだったか。で、入場したら、右隣にいたく体格のよい男性がドッカと座り、かなり狭くなる。19:45開演だったが、正直、話をちゃんと理解していなかった上に、寒暖の差が激しく雨にも濡れたので身体が疲れていたのだろう、前半はほとんど居眠りをしてしまった。インターバルの時に白ワインを飲み、後半はそれなりにちゃんと観ていたし、最後はそこそこ感動したので、まぁよかったのではないか。確かに ABBA 三昧だったし。ホテルには、思ったほど遅くない時間に戻れた。シャワーを浴びて汗を流して、ひどく「スッキリ」したので、いかに汗で消耗していたかよくわかった。「消耗する汗」は、最近はあまりかかなくなっていたはずだが、今回は久々にかいたなぁ。
2017.05.01
夜明け前に、日本から訃報のメールが届く。わが恩師が逝去。しかも、すでに4月24日亡くなられていたとのこと。詳細はまだ公にされていないらしい。今にして思えば、恩師のフェイスブックの写真が4月24日に更新されていたのは、ご家族が「遺影」として残されたものだったのかもしれない…。この連絡を、ロンドンで受けるとは――1990(H. 2)年2月、マンハイムの資料収集のため LSE を訪れていた私は、疲れ切って B&B (Hotel Cavendish, 75 Gower Street) で昼寝(夕寝?)をした日があったが、その時に、恩師が飛行機事故か何かで亡くなるという嫌な夢を見て、ぐったりして目を覚ましたのを思い出す(詳細は、帰国してから当時の日記を引っ張り出すことにしよう)。それから27年経って、よりによってそのロンドンで本当の訃報に接するとは。恩師から受けた31年の学恩は、簡単に語り尽せるものではない。また、研究・教育の1側面が、過去の知的蓄積を未来に継承するところにあるのであれば、恩師が残された知的遺産を次の世代へと意味ある形で展開するのが、残された者の使命だろう。今、そのために私は、マンハイムの資料を求めてロンドンに滞在している。心よりご冥福をお祈りいたします。(追伸:帰国後に公にされたところによれば、亡くなったのは4月23日、葬儀が翌24日だったという。)
2017.05.01
時差ボケは若干残っているが、2日目の朝、ホテルを出撃。1990(H. 2)年2月にリサーチでロンドンに来た時にうろうろした界隈を(宿にしていた B&B, Hotel Cavendish の前も)歩き、地下鉄 Goodge Street 駅から Northern Line に乗る。が、なぜか Edgware 行きが来ず、途中の Camden Town で乗り換えることに。事情が分かったのだが、目的地の Golders Green の1つ手前の駅 Hampstead までしか今は地下鉄が走っていないのだ。そのため、Hampstead 駅からバスで振り替え輸送になっている。そうして、苦労して何とか Golders Green 駅に到着。そこから歩いて、マンハイムが葬られているはずの Golders Green Crematorium に行く。非常に静かで、花がたくさん咲いている墓地だったが…とうとうマンハイムと妻ユリアの名が刻まれた墓石を発見することはなかった。インド系の人々のお葬式も入っていたようで、うかつにチャペルを覗くこともできず、結局は不明のまま11時過ぎには去る。その足で、マンハイムが住んでいたとされる 5 The Park に行ってみた。本当に小さなラウンドアバウトがある住宅街に、その家と思しき建物はあった。が、バイクや車が停まっていたので、住んでいる人がいるのだろう。さすがにカメラを向けることははばかられた。ちらほらと桜の花びらが舞う中、「ここをマンハイムは LSE に通勤していたのか」と想像しつつ、再び Golders Green に戻り、逆方向で地下鉄で久々の Leicester Square へ。中華街は2008(H. 20)年の「シェフィールド殺し」以来だと思うが、こんなに発展していたっけ?というくらいの繁栄ぶりだ。新世界(ニュー・ワールド)という名前の中華レストランでランチを食べる。何といっても、50ポンド紙幣を崩さなければならない。ところが、今日知ったのだが、いつの間にかイギリスはポンド紙幣を新札に替えていたというのだ。三島時代に静岡銀行で調達したポンド札は、すでに古く、このレストランでは「使えない」「クレジットカードも受け付けない」と言われた。泣く泣く、近くのHSBCの ATM で30ポンドおろし、支払いを済ませた。銀行に行けば新札に替えてくれると言うが、今日は日曜日、明日はバンクホリデー。ついてないではないか。で、中華の味は、やはりイマイチだった。その足でフォートナム・メイソンへ行き、奥さんに頼まれた買い物一式を済ませる。ここでは、レジでポンドの旧札を受け入れてくれたので、50ポンド札を2枚出してお釣りが新札で来た。これで数日は持ちこたえられよう。寒いと思って冬の支度をしてきたが、今日は結構気温が上がった。汗こそかかなかったものの、明日以降の服装は苦労しそうだ。ホテルへの帰り道、ラッセル・スクエア駅前の TESCO で WALKERS のソルト&ビネガー味のポテトチップスを買い込んで、かつてエディンバラ時代の友・ Cさんが在学していたロンドン大学 UCL Institute of Education の場所を確認。なお、ホテルの1階、朝食会場の手前には、Woolf & Whistle というバーがあり、そこにはピルスナー・ウルケルの生ビールがある。それをハーフパイント、それから London Pride というビターをハーフパイント、飲む。そして、トマトスープとパンという非常に簡素な夕飯となったのであった。
2017.04.30
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夜明けの街を奥さんに車で送ってもらい、リムジンバスで成田空港へ。そして、アムステルダム経由ロンドン行きの旅に出た。ロンドン大学 UCL 教育研究院の図書館で、The Moot に関するリサーチを行なうためだ。リムジンと飛行機内では、A. D. リンゼイ著(山本ほか訳)『キリスト教諸教会とデモクラシー』(聖学院大学出版会、2006年)を読み切る他、Brexit についてのアンドリュー・ギャンブル先生の記事が載る PSA 機関誌 Political Insight にも目を通す。思ったほど寒くない KLM の機内だったが、それでもタイツを履き、カーディガンを羽織り、ついには靴下用カイロも貼った。スキポール乗換でヒースローへ。ヒースローは実に久々だ。2007(H. 19)年の新婚旅行以来ではないか。2008(H. 20)年がロンドン最後の訪問だったが、あの時はパリからユーロスターだったし。しかも、ヒースロー・ターミナル4の地下鉄駅で初めてオイスターカード(ロンドン版 SUICA)を買い、ピカデリーラインに乗り込むと、こうしてヒースローから地下鉄で City Centre に行くのはいつ以来だろう、と考えてしまう。おそらく、BAのストで悲惨な目にあった2005(H. 17)年が最後だったのではないか。新婚旅行の時にはすでに、高速でパディントンに行くヒースロー・エクスプレスがあったし…。ラッセルスクエアで地下鉄を降り、ホテルにチェックイン。エレベーターのすぐそばの部屋をあてがわれた。案の定、廊下で他の客がギャアギャア言っているのが全部聞こえる(苦笑)。しかし、暖房が十分に効いている。4月末だが、冬仕様といったところだ。キリスト教諸教会とデモクラシー価格:1728円(税込、送料別) (2017/4/30時点)
2017.04.29
"Planning does not mean rule by arbitrary forces over the living body of society, nor the dictatorial attempt to supplant creative activity. Planning means a conscious attack on the sources of maladjustment in the social order on the basis of a thorough knowledge of the whole mechanism of society and the way in which it works. It is not the treatment of symptoms but an attack on the strategic points, fully realiing the results."(from Man and Society in an Age of Reconstruction, p. 114)
2016.08.21
"Laissez-faire Liberalism mistook neutrality for tolerance. Yet, neither democratic tolerance nor scientific objectivity means that we should avoid the discussion of the final values and objectives in life. The meaning of tolerance is that everybody should have a fair chance to present his case, but not that nobody should ardently believe in his cause. This attitude of neutrality in our modern democracy went so far that we ceased to believe, out of mere fairness, in our own objectives; we no longer thought that peaceful adjustment is desirable, that freedom has to be saved and democratic control has to be maintained."(from Diagnosis of Our Time, p. 7)
2016.08.20
過去の思想家が何を考えてきたか明らかにするために、彼/彼女の著書や論文など公刊された文献ばかりでなく、未公刊のいろんな1次資料を入手して読み解くーーこうした研究は、文字通り「思想史」つまり「思想の歴史」研究であり、やることは歴史家と同じになってくる。こんなことは言うまでもないことだろうが、しかし長年「理論研究」をやってきた私にとっては、50歳を目前にしてようやく足を踏み入れる領域になる。30年近く前から関わってきた、イギリス亡命期のカール・マンハイムの思想の歴史がそれだ。これがようやく可能になったのは、6月にニューヨークの Bard College に行き、貴重なマンハイム資料の一部分を入手することができたからだ。その「一部分」に過ぎない資料を読み解く作業だけでも大変なのだから、先の長い話である。マンハイムはドイツからイギリスに亡命する直前に、「精神の民主化」の問題を、自らの大学教員としての仕事との連関性で考えていたふしがある。すでに当時のワイマール共和国は、ヒトラーが政権を取る直前であり、ファシズムの足音はひたひたと迫っていた。ドイツ語では「Geist」である「精神」は、いろいろないきさつから英語では「culture」(文化)と訳され、「文化の民主化」と直訳できる「democratization of culture」として表現されることとなった。それは、マンハイムの死後に遺稿として出版された論文集 Essays on the Sociology of Culture の第3部に明らかだ。これはもともと、イギリス亡命前にマンハイムがドイツ語で書いていた複数の論文だが、彼の逝去後に英訳されて世に出たものであり、編集者や訳者の解釈が入ってしまっていると考えれば、資料としての取り扱いは「要注意」の文献ではある。しかし、この「democratization of culture」について、昨日から今日にかけて読んだ未公刊の1次資料 "Reply to T. S. Eliot by Karl Mannheim (1944)" でも触れられていたので、おやと思った。こうした1次資料がなければ、通俗的な理解で終わってしまうからだ。マンハイムはしばしば「エリート主義者」という扱いを受ける。ドイツ時代の知識社会学で「自由に浮動するインテリゲンチア」を重視し、イギリス亡命後は大衆社会における社会計画論を唱えた彼だから、確かにそういう面は否定できない。だが、エリート主義者たるマンハイムが、なぜ最晩年はロンドン大学教育研究院に迎え入れられ、教育社会学に傾倒したのか、ジョン・デューイなどを通して「大衆の教育可能性」を考えていたからではないか。とすれば、単に「エリート主義者」とレッテル貼りをしてしまうことを許さないほどに、彼の思想は複雑だということになる。この1944年の1次資料は、イギリスのキリスト教知識人サークル Moot での仲間 T. S. エリオット(詩人)に対するマンハイムのコメントだが、マンハイムは「democratization of culture」の1つの側面として、専門家にしか分からないような高度な知識を、内容を薄めることなく社会に広めていくことを考えていたようだ。言わば知識の民主化と言ってもよい。もちろんマンハイムは、少数者としての知識人を重視していたことに変わりはないだろうが、彼の大衆社会論が決して大衆を上から目線で蔑視するものでなかったことは推察できる(その意味で、ウィリアム・コーンハウザーによるマンハイムの「貴族主義的」という分類は、やはりいささか単純に過ぎる)。このマンハイムのコメントに対して、エリオットは、一般大衆に高度な知識を普及させることには悲観的だったと伝えられているが、それについては別の1次資料 "Comments on Mannheim's Letter by T. S. Eliot (1944)" が存在する。それを読むのはこれからだ。なお、これらの1次資料が載っているのは、以下の未刊行の文献の巻末資料としてらしい。Moot でのマンハイムの議論についてはとにかく資料が少ないので、貴重な1次資料だ。Cooper, L. C., "The Hindu Prince: A Sociological Biography of Karl Mannheim", Vol. 2, appendices (unpublished typescript).
2016.08.08
八王子に転居して4年半。冬場、ちょっと多めの洗濯をすると、洗濯機が斜めに向きを変えてしまうことは以前からよくあったのだが・・・、朝食を食べている間、いつもより激しい「ドンドンドン」という音が洗濯機から断続的に聞こえてくる。変だなと思って見に行くと、何と、かつてない、斜め45°の傾き様であった。しかし、この時点ではまだ、その後に起こる衝撃的な事件に気づかなかった。朝食後に廊下に出たら、廊下が大洪水に! 洗濯機が斜めになった時に、排水用パイプが排水口から外れ、すすぎの水があふれだしたのだ。一転、妻と二人で洪水の処理に追われることとなった。こんなことは初めての経験だった。
2016.03.14
「あの日」から5年となる3・11。これまで基本的に沈黙してきた私だが、5年目を迎える昨日10日、フェイスブックの方で若干のカミングアウトをした。自分自身の「魂」もまた、救われるに値するのだ。
2016.03.11
グリフィス大学のスタッフ Sharon 氏が、職場を来訪。年に少なくとも2回は来て下さる。しかし、日本にかつて10年ほど住んでいたことがあるとは。その後、ロンドンに数年いたのだとか。「わさび」とか「あわび」とか、よく知っているわけだ。
2016.03.10
ネット上で、さまざまなイベントなどがシェアされていた。
2016.03.08
ジュネーブ時間で7日(月)、国連の女性差別撤廃委員会の、日本政府に対する最終見解が出た。それにしても、日本国内では、「慰安婦問題へのリアクション」という形でしかほとんど報道されないようだが・・・。
2016.03.08
妻の昔の教え子で、広島から研修で上京しているHさんが、わが家を訪問。この八王子の住まいに迎えるのは2度目。
2016.03.07
DVD『キャンディ・キャンディ』を観終えてから、録画で見続けてきた『真田丸』だが、やっとリアルタイムに追いついたぞ。
2016.03.06
数日前に届いた、イタリア製のDVD-BOX『宇宙空母ブルーノア』。『キャンディ・キャンディ』に味をしめて、安めの海外製DVDをまた買った。ブルーノアは、1979(S. 54)年、私が中1の時に放映開始。しかし、最初から観ていたわけではなく、いつの間にかそんな新番組が始まっていた、という感じであった。だから、第1話を観たことはない。第1話がスペシャルフィーチャーか何かで長いものであったことは、当時の雑誌か何かで見て知っていたので、帰宅後に途中まで見る。イタリア語の字幕が消せないが、パソコンで問題なく観れる(PALなのでパソコンでないと観れないのだが)。字幕を見て思わず笑ってしまう。主人公・日下真(クサカ・シン)の名前が「Makoto」になっている。この字幕を作ったイタリア人、よほど日本語に長け過ぎていたに違いない、と想像たくましくする。主題歌は、このCDで聴ける。しかし、当時発売されていた音楽集のLPレコードは、CD化されないのだなぁ・・・。
2016.03.06
雨が降る降ると天気予報で言われながら、結局降らなかった1日。板橋・本蓮沼まで往復する。昨秋激励した受験生が、見事大学合格を勝ち取ったので、入学前にさらなる激励をしてきた。夕方八王子に戻ったら、生け花の後に駅前で買い物をしている妻と合流。
2016.03.06
ここのところ苦しんだ偏頭痛は、首や肩や肩甲骨が固まっているから――というのが妻の見立て。NASである程度ほぐすことができただろうか。
2016.03.05
そんなに疲れていたのか・・・2月中、新学期の授業準備に没頭してきたのは確かだ。しかし、首や肩や背中が凝り固まっていることを自覚していなかったのだろうか。断続的な偏頭痛に苦しめられる1日となった。もともとこの日は、前々から妻と一緒に、おいしいそばを食べに車屋に行く計画だった。そして、この日を迎えるまでにやるべきことをやってしまおうと頑張ってきた。思ったほどできたわけではないものの、それでも今日はランチでおいしいそばを食べることでリラックスする日のはずだった。それが、この頭痛である。そばを食べている間は忘れたが、帰宅したらまたしつこく復活。午後はひたすら寝てしまったぞ。
2016.03.03
はじめて知ったぞ、YouTube で。Dunbine Tobu English lyricsThis is the Aura Road It's right hereThe sparkling lights just going through outIt's holding the secret power from the AuraThe flashing wings just going through the skyDon't be afraid of my shaking heartDon't be afraid of my fight nowThe fire flraes up to be the gruthful justiceThe sword cuts through the severe thunder stormWhen I have made the trip for the battleAura battler Dunbine, Aura shooter DunbineAttack, attack, attack...yes, I'm the warriorSomeone's coming through thr Aura RoadHiding himself behind the blowing wingDo you ever realize the power from AuraFire the madness with our hatredTime is up, I will do itYes, I'll run for the survivalI know killing it doesn't makethe truthful justiceBut I must still fight on for the forever peaceSo I gotta wave my hnds, an' spirits to callAura battler Dunbine, Aura shooter DunbineAttack, attack, attack...yes, I'm the warriorThe Aura Road's shakin' It's waveringThe stray mind might has gone awayWhy don't you shout for the powerfrom the AuraThe road might be found in the darknessOpen your eyes Try to find itThere is a star in the darknessYou might make your hands bloodyfor the truhful justiceBut there's nothing you should be afraid ofGet yourself together You'll be the winnerAura battler Dunbine, Aura shooter DunbineAttack, attack, attack...yes, I'm the warrior
2016.02.28
今日は、2010(H. 22)年に亡くなった義父の命日である。本来なら7回忌。
2016.02.28
今朝メールが届いていたのだが・・・参加することになっている今年の世界政治学会 IPSA の会場が、イスタンブールでなくなるらしい。最近もアンカラでまたテロがあったし、トルコ国内の安全を確保できないと考えたのだろう。スケジュールは変更しないまま、他のヨーロッパの都市へと開催地を替えるらしい。3月中には決定されるのだろう。これがもしプラハだったら笑える。3年連続で行くことになるから。もっとも妻は、「スイスだったらいいのに」と言っているが。
2016.02.27
今年のNHK大河ドラマ『真田丸』。すでに放映開始から7週ぐらいになるが、録画だけして観ていなかった。ようやく、第1話を観る。
2016.02.26
長かった、全115話。この韓国版DVD-BOXを買ったのが去年のクリスマスイブだったから、観終えるのにほぼ2か月かかったわけだ。平均して1日に2話ずつ観てきた、往年の人気アニメ『キャンディ・キャンディ』。これを観終えないと、大河『真田丸』も『ダウントン・アビー4』も観始められないのであった。初期のエピソードでは絵も雑だったし、やはり「アニメ」でなく「テレビ漫画」と言われていた時代の作品だけはあると思っていた。それでも、登場人物1人1人を(ゲストキャラも含めて)割と丁寧に扱っているのには感心した。2年以上のロングランだったのは、やはり漫画の人気と並行していたからだろうか。ただ、最終回は何ともいただけない。悪辣としか言えないイライザやラガン夫人、また家の体面を何より重視するエルロイ大おばさまに、最後の最後まで救いというものがないように見えたから・・・(救いがないのが現実の人間社会でもあるか)。それにしても、階級がもともとない社会と言われたアメリカに、T. S. エリオットや H. アレントが考えるような「階級」があったことを、こんなところで学ぶ機会になろうとは。最近は音楽集CDも出たようだな。もちろん買わないが。
2016.02.25
政治学者・岡野八代氏の著書『戦争に抗する――ケアの倫理と平和の構想』(岩波書店、2015年)を読み進める。この国の人権や立憲主義の考え方について、暗澹たる思いになるが、そこで負けない「希望」を見いださなければならない・・・。
2016.02.18
ジュネーヴで国連女性差別撤廃委員会(CEDAW)が2月15日から開催されており、昨日16日には日本審査が終わった。友人が参加したはずだが、いずれ詳しく話を聞きたいものだ。
2016.02.17
暖冬はどこへやら、厳しい寒さが続いていたが、今日は気持ち悪いくらい気温が上がっている。明日の夜からまた冷えるそうだが。この、極端な寒暖の差が、身体にはよくない。妻が先週、急性の胃腸炎になったが、治りかけていたというのに今週また悪くなった。週末の今もまだまだ本調子ではなく、おかゆ生活が続く。冬場の健康管理は、ここ八王子では殊に死活問題だ。
2016.02.13
関西大学の寺島俊穂先生より、『戦争をなくすための平和学』(法律文化社、2015年)をたまわる。感謝
2016.02.11
2006(H. 18)年の今日、英文拙著 Democracy and Mass Society: A Japanese Debate が学術出版会より刊行された。10周年である。もともと英国シェフィールド大学に提出した Ph. D. 論文をベースに、加除修正を施したもの。英米の出版社を探ったがどこも引き受けてくれず、日本の出版社にお願いした。また、当時勤めていた職場より出版助成金を受けたが、それで足りない差額分は自腹を切った。あの当時としてはベストを尽くしたに違いないが、今の目から読み直せば問題が多々ある。もっとも、書き直すということには非常な困難を伴うからなかなかできないが・・・。この本は、学問の恩師に捧げられている。また、本書で取り上げた松下圭一先生(昨年ご逝去)も非常に喜んでくださった。自分で買い上げた分は、これも自腹で欧米の大学図書館や研究者に贈ったりした。どれだけ読まれたものかはわからないが、ウクライナの研究者の目に留まって彼女の博士論文に引用されたと知ったのは、2年前の今頃だ。どこでどう読まれているかわからないものだと実感した。
2016.02.11
花キューピッドから、花を届けてもらったぞ。
2016.02.10
まずは、日本女子大学の圷洋一先生から、ご共著『問いから始める社会福祉学』(有斐閣、2016年)。感謝。また今日は、名古屋大学の田村哲樹先生から、やはりご共著『リアル・デモクラシー』(宮本太郎・山口二郎編、岩波書店、2016年)。感謝。
2016.02.10
1年前、気づかないうちに会員になってしまっていた、アマゾン Prime。買い物が翌日に届くとか、いろんなサービスがあったようだが、年間4,000円近くも支払う価値があったかどうかは不明。翌日に商品が届くというが、その日に留守だったり帰宅が遅かったりしたら、いつもと変わりない。しかも、それだけのサービスのために、社員がどれだけ過酷な労働を強いられているのだろうか。同じことは、深夜まで走らされる宅配便業者にも言える。Prime のビデオ見放題サービスのおかげで、Kindle で『仮面ライダー』や『仮面ライダーV3』をタダで結構の話数見れたのは一定の恩恵だったが、それも期限切れとなった。期限切れの日とは、もう使えなくなった日なのだな。使える最終日なのではなく・・・。
2016.02.06
正月4日に一気に組み立てた、1/72 Xウィングファイター。その後、途中までシール貼りをしたのだが、しばらく放っておいてしまった。ここのところ仕事づくめで、今日はあえてOFFの日にしたので、午前中ちょっとだけいじり、さらにシールを貼った。残りのシールまでは細かすぎてとても貼る気になれないので、これで一応の完成と見なしたい。
2016.02.05
寒い。年末年始の、あの暖冬はどこへ行ったんだよ、と言いたくなる。去年プラハで買ってきた2016年カレンダーも、めくられたぞ。
2016.02.01
カール・マンハイムの論文集の計画に参加することになった私。1月末までに自分の章の概要を提出することになっていたが、今日何とか提出した。Ketteler 氏には、6月に会いに行くことになろう。
2016.01.29
国際基督教大学の授業「政治学概論」で、ゲストスピーカーとして呼んでいただき、現代デモクラシー理論に関する特別講義を担当した。テーマは「ラディカル・デモクラシーとマス・デモクラシー」。ちょっと内容を詰め込み過ぎたかと思ったが、ともあれ90分をオーバーせずに話し終えることができた。
2016.01.21
18日(月)の午前中が雪で休講になった分、今日その代替授業を行った。これで、学期の最終回の講義と期末試験のヒントを語ることができた。
2016.01.20
今年7月にイスタンブールで開催される世界政治学会 IPSA で発表しようと、ペーパープロポーザルを申し込んでおいたのだが、つい先ほど連絡があり、採用されたとのこと。今、イスタンブールはシリア難民やテロ事件で揺れていることと思うが、ともあれ、参加することになった。さぁ、他の仕事も抱えながら、準備が大変だぞ!
2016.01.19
首都圏は夕べからかなりの積雪になり、私の職場も午前中の授業が休講になった。昨日・おとといのセンター試験の時でなくてよかったなぁ。さて、徐々に雪から雨になりつつあるが、夕方までには一度雪かきをしなければならないだろう。
2016.01.18
2日連続で監督業務に着くのは、実に久々である。
2016.01.17
去年に引き続き、監督業務である。晴天。
2016.01.16
年末からフェイスブックを始めたが、それを通じて、シェフィールド Ph. D. の同期で音信不通になっていた Joe の所在が分かった。イギリスのある大学で教えているようなので、そのサイトからメルアド情報を入手し、「覚えてますか?」とメールをしたのだが、今日返信があった!本当は、2003(H. 15)年1月16日のシェフィールド大学卒業式で、一緒に Ph. D. の学位記を授与されるはずだったのだが、式に彼女は姿を現さなかった。最後に会ったのはその前年2002(H. 14)年8月、私が採集の口頭試問を終えた時だったはずだ。
2016.01.14
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