4日経っても安否の分からない義母。お向いさんの安否も。
私は、もしかしてあの公民館で私を待っていたのではないかと…
よく探さないで中学校に行ってしまったけど、もしかしていつまでも私を待っていたのでは…
密かに自分を責めて眠れない日が続いた。
でも、そんな思いを抱えている人は私だけではなかった。
地震の後、近所の義父母を尋ねたが無事を確認して戻ってしまったと悔やむ方。
「あの時津波が来るから逃げるようにと一言、言っていれば」
みな紙一重で生死が決まった。生き残った人はみな壮絶なドラマがあった。
避難所で聞いた数々のドラマで、
特に痛ましかったのは、卒業式のあの日、中学生の息子さんを亡くされた方。
息子さんは友達と一緒に、公民館から中学校に向かった、私のように。
その途中、津波に呑み込まれた。2人の友達は危機一髪で逃れた。
「息子は太っていてドン臭いから逃げ遅れてしまった、先を走っている友達2人が目撃しているので間違いないらしい」
なんと言う、言葉もない。
母親の悲しみは勿論の事、2人もその光景から生涯解放される事はないだろう。
さて、
義母の生存は半ば諦め、それならせめて一日も早く見つけてやりたいと、最終手段と、私は遺体安置所に足を運びました。
この遺体確認についても、遺族と行政側ともめました。
沢山の遺体が集められているのに、一日も早く確認したいのに、見せられる状態にしてからでなければ対面させないと言う。
そして遺体をきれいにして対面出来る状態にしてから安置所に置かれた。
私がひとりで安置所に行った時に見た遺体は、最初に発見された方々ばかりで、損傷も少なくきれいな御遺体でした。
それでも他人さまの御遺体を覗く事に躊躇があり、出来るならば棺に添えられビニールに入れられた服で確認しようとしたけれど、どの方の服も真黒い泥にまみれ、みな同じにしか見えず難しい。
やはりひとつひとつ覗き顔を確認することにした。
小さなピンク色した棺があった。生まれてから何年愛されたのかと思うと痛ましくて…
100体近く確認したけれど、義母はいなかった。
この後、毎日のように沢山の遺体が運ばれて来るが、日を追う毎に損傷が増し、確認が難しくなっていく。
先の中学生は近くの瓦礫の下から先日やっと発見された。お母さんは
「普通なら顔見ても判別出来ない状態だったけど、親だから分かった」 と。
遺体安置所から避難所に私が戻ると朗報が待っていた。
義母はお向さんの高台にある親戚のお宅に共に避難していた。
あの日、公民館で降ろすつもりでいたが、車と人でごった返していたので、年寄りを置いていく事に躊躇してそのまま親戚宅に連れて行ってくれた。すぐ戻れると思って。
義母は自宅の電話番号しか覚えていない。私たちの携帯番号名などは頭にない。
お宅の方が市役所の避難所名簿の中から私の名前を見つけてくれて、やっと連絡ついた。
あの時の感激の涙を私たち家族は一生忘れない。
そして遺体安置所で横たわっていた方々の無念を私は一生忘れない。
あれから1年8カ月経ちました。 2012.11.13
3.11 避難誘導があだとなった地区 2012.10.22 コメント(3)
この本を読みましたか? 2012.05.06
PR