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先日、知人が語った一言が忘れられないのです。「従兄弟が、いまだ見つからない我が子を捜して、毎日毎日、流された家の跡地に行って、棒を持って、田んぼ跡や側溝を掘り起こしているんです。その姿を見るのが辛くて、可哀そうで、可哀そうで、…」たった、これだけの言葉だけれど…子を失った親の悲しみが痛いほど伝わって…その情景が目に浮かび…私まで貰い泣きしてしまいました。そこはね、もう自衛隊や警察や消防団がさんざん捜したんだよ って言ったって…骨ひとつ見つからない我が子の死を、どうやって納得できるだろう。今日現在で、行方不明者数、宮城県で、1359人 全国で、2768人1年8ケ月経っても、まだまだ震災は終わっていないのです。
2012.11.13
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あの日を思い出す時、私にはどうしても忘れられない光景があるのです。多くの人が避難していた公民館から、津波到達僅か前に「中学校に移動せよ」と言う誘導。津波の高さが予想以上なので、より高い場所に、と言うのは分かるのですが、誰もその後すぐに襲ってくるとは思っていなかったのも分かるのですが、誰を責める気持ちではないのですが現実には公民館から半径約400m以内で約250人が犠牲となったのです。こんな狭い範囲での犠牲者、行方不明者を出した地区は他には無いと言われてます。私はまさに「移動するように」との言葉を目の前で聞いて、自転車で走って助かったのです。後ろには、多くの車と多くの人が移動していたのです。あの方々はどうなったのだろう?どれだけの人々が助かったのだろう?心にずっと重く圧し掛かっていたのです。だからこの数字を知って、あらためて現実の悲惨さを思い知らされて…想像出来るでしょうか愛する子供を失った親の悲しみを(ごめんなさい。私自身も経験していないので想像するしか出来ないのですが)ある方のブログにこのように書かれていました。凄く納得出来る言葉なので抜粋します。「人間は、自然の法則によって、両親や配偶者の死に対する心構えは出来ていても、子供の死に対する心構えは出来ていない」「医療が発達した現代では、人の「死」は、どこか遠くにあるもの、ましてや自分より若い子どもにも縁のないもの、心構えなどできているはずなどないのです。だから、子どもになにかあれば、天地がひっくり返ってしまうようなおもいにもなるのです。」「もう一つの理由として考えられるのは、子どもを保護すること、子どもの安全を守ることが親の務めに含まれているということです。子どもの死は悲しみをもたらすばかりでなく、ちゃんと守ってやることができなかったという罪の意識をもたらすことがあります・・・」日本中を震撼させた大震災からもう1年7か月が経過し、世間ではもうあの大惨事は忘れ去られようとしています。紙一重で生き延びた私自身でさえも、日常の生活に心が支配されて、あの日の事を思い出さない日々が増えているのが現実です。人が生きると言うことは、そういう事なのかも知れません。我が子を失うと言う地獄を経験していない者にとっては…ですが、その地獄を経験し、これからも生涯背負って生きていかれる親御さんの思い…忘れてはいけないと思うのです。
2012.10.22
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「遺体」震災、津波の果てに 読みました。以前から読みたいと思いながら躊躇していた本です。けれどいつかは読まなければならないと思っていた本です。タイトルから内容が容易に推測出来るように、津波の恐ろしさがどんなものであったか、人が直視したくない現実がこの一冊に詰まっています。膨大な数の遺体に携わった方々を遺体安置所で丁寧に追った壮絶なルポルタージュ。こんな本は読みたくないと言う人がいるかも知れない、それはそれでいいと思います。ただ私は、あの日あの場にいた者として、本当の現実を心に刻んでおきたいのです。テレビで報道される映像は、自衛隊が瓦礫や遺体を撤去して道を開けたあとの映像ばかり。遺体など写っていない。本当はおびただしい数の遺体が横たわっていたはずなのに。私は震災の翌朝、避難のために津波が引いた街を自衛隊に誘導されながら自分の足で歩いたのです。異臭を放つヘドロの足元、無残な姿の車の中にある人影、瓦礫とヘドロにまみれた遺体らしき物…あの時点では生存者の救助が最優先でした。(それでも度重なる大きな余震のために、救助の車両も何度か引き返えしたりして、私が救助されたのは日が暮れてからでした)だからこの本を読むと、あの日の臭いや、空気の感覚や、地面の感触が、蘇るのです。あの場にいた人間しか知らない現実を心に刻んでおきたい、生涯忘れないように…この本を読んで、あの震災で遺体と真摯に向き合った多くの人々の存在を知りました。海上で遺体を回収する保安員、瓦礫に埋もれた遺体を探し搬送する自衛隊員、安置所へ運ぶ職員、死因を検索する医師、歯形の記録を取る歯科医、葬儀社スタッフ、消防団員・・・津波から間もない間に見つかった遺体は綺麗だけれど時間が経つにつれ発見される遺体の状態は段々と酷くなる。そんな遺体に向き合うことは想像を絶する大変な作業。だけどそんな現実に同じように向き合う事になってしまった普通の人々の存在。それは愛する家族を失い必死に探す人々。ご遺族になった人たちはこんなに残酷な現実を、見つかるまで毎日突きつけられていたのです。私はあの日ただの偶然で生き延びただけだから私も目をそむけず現実をしっかり見なければいけない責任があるそんな決意をさせてくれる本でした。我が町の広報にはいまだに「身元不明者のリスト」が載ってます。その中でこんな記述があります。「胴体腹部前面」 「左足のみ」 「骨数本」そんな姿で発見されているのです。あの震災の日まで同じ街に住んでいた人間が…著者があとがきにこう書いています。「復興とは家屋や道路や防波堤を修復して済む話ではない。人間がそこで起きた悲劇を受け入れ、それを一生涯十字架のように背負って生きていく決意を固めてはじめて進むものなのだ。」 重い読後感が残る本でした。
2012.05.06
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東日本大震災、あれから9ヶ月。3月11日で心の中の時計が止まったままの人たちがたくさんいらっしゃる。私が避難して一夜を過ごした中学校。校舎の大時計は、2時46分を指して止まったまま。その校舎に毎日足を運び花を手向ける人たちがいる。中学生14名が亡くなった、ご遺族の方々。今、遺族会が発足したことをある記事で読んだ。その中で語られた母親たちの言葉に涙が止まりませんでした。 「息子は、あの日必死に走って中学校へ向かった。その途中で津波にさらわれて亡くなった。だから息子が目指したかった中学校にになんとしても慰霊碑を建ててあげたい」「私ね、12日の朝、もう6時から水浸しの街に入ってね、息子探したのよ。でも不思議だよね、今になって思うと、道に横たわっていたたくさんの遺体には全く目がいかなくて覚えていないのよ。たくさんの遺体が横たわっていたのにね。 それはね、私がずっと息子が生きていることを信じて探し続けたからだと思うんだ。だから遺体には全く目がいかなかった。ひたすら動いている人、生きている人を目で探しながら街を歩き続けたの。」 「本当に探したね、これでもかってくらいに探したよね~!」「そうだった、本当に、本当に探し続けたよ、うちの子どもを・・・。」 「でも、遺体安置所で見つけたんだ・・・。」 私もあの日を忘れない。あの夜、明かりもなく寒さと不安の中を過ごした教室、夜が明けるのをどんな思いで待ったか、朝明けの中、目に飛び込んだ景色は無残な街の姿、 何もかも想像を絶する出来事で、現実の事だとすぐには心が認識できない。 それでもあの朝の空気の臭い、泥の中を歩く時の足音、心にしみこんでいる。 今あらためて、子を探す親の思いに触れ、涙が止まらない。絶対忘れてはならない。
2011.12.09
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あの日、閖上中学校に危機一髪で逃れて来た私が見た光景が、私の目の前で展開した光景が投稿されていました。津波の速さに驚愕です。あと一歩遅かったら …
2011.08.11
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今回の津波で、愛する家族を失った人々を沢山見てきました。その方々の気持ちに思いを馳せてしまいます。家に戻った家族がいるのに、眼下に津波が押し寄せてくるのを、どんな思いで避難所の屋上から眺めていただろう。戻らぬ我が子を探して、遺体安置所にどんな思いで毎日通っただろう。変り果てた無残な姿の我が子を、どんな思いで確認しただろう。わずかな時間差で生死が分かれた事実に、時間を巻き戻せないかと、無理を承知で何度願ったことだろう。私がどんなに思いを馳せても、ご遺族の悲しみには到底及ばないのです。私は経験していないからです。自分がそのような理不尽な悲しみに遭遇したなら、私なら耐えられそうもない。そうなんです、私はそんなに強くない、弱い、情けない人間なのです。今まで明るく前向きな記事が書けたのは、そんな壮絶な悲しみに遭遇していないからなんです。それなのに、人々は「うちだけじゃないから、みんなが犠牲になったから…」って言う、けな気に生きる姿に心打たれます。どんなに悲しくても明日が明ける、辛くても人は生きなきゃならない、私は自分が見聞きしてきたことをブログに書くだけ、書かずにはいられない、そんな私が、褒められるのはとても嬉しいけれど、少しだけ後ろめたい気がしてます。ところで、一か月前にNHKで「閖上中学校に避難した人々…」と言う特別番組がありました。避難所で、みんな画面を食い入るように見ていました。私を含めほとんどの人がそこに避難したからです。中学校の廊下に、無残にねじ曲がり泥だらけで流れ着いた自転車が写っていましたが、あれは私の自転車(だと私だけ確信している)。中学校に逃げて来た時、後ろから津波が迫っているのも知らずに、しっかり鍵をかけてから階段を上りました。その時点で、津波より盗難を心配していた自分に笑えます。この番組についてはまた書きたいと思います。
2011.06.18
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私は今回、歴史に残る未曽有の災害を経験しました。何と表現したらいいでしょうか、二つの思いがあります。正直、私の中ではあの日、3月11日で止まったままです。あの日までの日常、あの我が家、買い物したあの店、二度と会えない人々、だけど間違いなくあの日から時を刻んでいる新しい日常があります。今までの人生で想像すらしなかった被災体験、新しい出会い。こんなに多くの悲しみを見たのも初めてですが、こんなに多くの感動も初めてです。人間の善意を肌で感じました。こんなにたくさんの義援金や見舞金、考えてもいませんでした。海岸から1キロの場所に家を買ったのは自分。千年に一度の大津波に遭遇したのも誰の責任でもない、全て自己責任。そう思っていたのに、降って湧いたように義援金やら見舞金やら救援物資。このブログを見ている方々の中にも、何も出来ないからせめてと、募金をして下さった方も沢山おられるはず…全国の心温かい方々の善意が間違いなく私にも届いています。この場をもって心からお礼申し上げます。そして親戚や友人たちからの寛大な見舞金や見舞品。さらには縁あって知り合った仲間たちからの細やかな心使いの数々。その繋がりから、お会いしたこともない方々からも沢山の物資の提供。自分だったら、人にこんなに出来るだろうか?なんてみんなこんなに寛大で温かいんだろう?有難いなぁ、人間ていいなぁ、生きているって素晴らしいなぁ今、私はすべての事に感動し、感謝しています。ありがとうございます。 三ヶ月に及ぶ避難所生活からようやく仮設住宅に移ることが出来ました。広い体育館での集団生活、夜はオナラも「あら失礼」とお互い様、班ごとにトイレ掃除と配膳準備、夫婦の力関係も丸見え、合宿だと思って私なりに楽しむことにしました。お蔭で同じ街に住んでても知らなかった人々とたくさん親しくなりました。この繋がりは、私たち夫婦にとっては特別なものです。同じ恐怖、同じ悲しみ、同じ体験をして、地図から消えてしまった街に対する同じ思い、三ヶ月を通して、共同体化してしまった仲間です。さあ、これから「一から出直し」です。私、「一から出直し」って嫌いじゃないです。結婚してから何度もそうだったから(笑)
2011.06.07
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百円均一で買った貯金箱。500円玉を満タンにすると30万円貯まる貯金箱。毎日わずかな生活費を削ってコツコツと、もう何年になるだろう。間違いなく半分以上になってるから10万か15万貯まっているはず。それも家と一緒に流された。諦めきれず再度我が家へ行ってみた。毎回ながら、ここに立つと複雑な思いが…だって見て下さいな。あれから一カ月以上経つのに、いまだ瓦礫のまま、戦場跡のまま。車なんか、海水に浸かったから、この通りいまだに、この現実が信じられないんですよ~だから泣けないのかなぁ
2011.04.28
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日和山の桜が咲いていました。津波はこの丘を難なく越えて来ました。だから、ほら、桜の木が倒れている。でも、その枝には健気に咲いている。近寄って見て下さい。確かに、シッカリと、咲いている。涙 出ます。
2011.04.23
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被災地の小学校体育館で、流されたアルバムや写真、位牌などが集められている。私も先日行ってみた。体育館を所狭しと並べられたアルバムの数々。膨大な量のアルバムを前に、正直、我が家の写真を見つけ出すのは無理だと思った。それでも、すがる思いでひとつひとつの籠を覗いて、捜して歩いた。子供たちが誕生してから、成長していく一コマ一コマを大切に残した思い出の写真。それらすべてが津波に流された。ただの一枚も残っていない。それが私には切なくて…なんとしても捜そう、そう思って肌寒い体育館を捜し歩いた、執念で…泥水にまみれたアルバムはどれも重たく、泥が付着していて、まさに一瞬にして生活のすべてが、津波に呑み込まれた現実を突き付ける。いざ捜してみると、アルバムってどの家のも同じ色、同じ形のものが多いのだ。 本当にこの中から見つかるのだろうか?津波によって街のすべての家屋がなぎ倒され、膨大な量の瓦礫が溢れている、あの中から、我が家の写真が私の手元に戻って来るなんて、あり得るだろうか?まるで宝探し、まさに私にとっては宝探し、可愛い我が子の幼い日の写真求めて、「あったー!」引きちぎれたアルバムの中に、泥に汚れた中に、娘の幼い姿を発見!まるで奇跡!あるんだぁ、よ~し、もっと捜すぞ!この日、3時間かかって、失くした量の一割にも満たないけれど、確かに私の手元に戻って来た。瓦礫撤去という大変な作業の中、拾い集めて下さる自衛隊の方々に感謝です。そして、見つかった一枚一枚を丁寧に泥をよけ乾かして下さるボランティアの方々にも感謝です。(奥の方に、写真が一枚一枚丁寧に乾かす為に吊るされているのが見える) 特に、かけがえのないご家族を亡くされた方々にとって、ここで発見される写真はまさに宝。この日も、あちこちで宝を見つけた歓声があがっていた、涙ウルウル…
2011.04.14
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私は自分のブログの過去記事を見て驚愕した。昨年の2月28日となっている。「大津波警報」 こここの時は、広報車が警告を発し、消防車も家々を回って来た。なのに今回は地震の後、サイレンが鳴るだけで何も回って来なかった。防災無線も壊れていたとの話もある。この時の事が私の頭の中にあった。「確かあの時は消防が回って来たはず、まだ来てない、それから対応しても遅くないはず」この思いは私だけでなかったはず…避難所で話した方々の中にも「あの時、避難したのになんもなかったから」って…この記事のコメントに「でも繰り返しあると、狼が来たぞ~っと言っても誰も信じないことになるかも」って自分で書いている。まさにその通りの事になってしまった。今回は誰にとっても予想を超える出来事で、対応出来なかったのかも知れないが、一年前のあの事がなかったなら、もしかしてもっと多くの人が助かったのでは…と、愚かな私は思ってしまう。 先日も避難所に設置された無料公衆電話を使っていたら隣の方の話が聞こえて来た。「DNA鑑定で親子である確率が高いと言われた、でも服装からお袋に間違いないと分かっていたよ」悲しい報告。 正直、これから見つかる方々はそうやって身元確認されるのだろう。それでも、見つかるだけまし、海に流れてしまったら永遠に見つからない。 ところで私たち夫婦には息子夫婦が県内にいるが、あえて地元の人々との避難所生活を選んだ。それは長期化が予想される事。町の今後を共に考える事。行政の情報をいち早く知る事。知り合いの消息が得られる事。そして何よりお金が掛からないし(笑)食費も光熱費も掛からないし、何より楽しい!合宿所みたい! こんな事が言えるのも、同じ班の人たちがとても良い方々で、共に協力し、助け合って生活しているから。他の班ではもめ事も起きているようで、その点はとても恵まれている。お酒? まさか、不謹慎な! 悲しみの人々の中で、まさかお酒なんて!はい、スイマセン。ご想像のとおり不謹慎者です。我が家、車一台だけ財産として残りました。軽ワゴン。ここなら許されるよね、毎晩ここが夫婦の憩いの場、ところが匂いを嗅ぎつけて、仲間が入れ替わりにやってくる「居酒屋」に。こんな時は飲みたくもなります、お許し下さいませ。
2011.04.06
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今回の大津波で犠牲になった方々は地震の後、散らかった片づけをしてまったく逃げなかった人、避難所まで間に合わなかった人、避難所まで来たのに、物を取りに引き返してしまった人、 これらの他に地震の大きさを知り、家族を心配して職場から戻られた人がいた。戻る道すがら目の前からせまる津波を見て、車を捨て歩道橋に逃げた。歩道橋に昇って助かった方の話では、50人ほどの人が避難した。間に合わず顔だけ出して助けを求めた人を、手を伸ばして全員で助けた事、瓦礫につかまって流れて来た人を奇跡的に助けた事、それでも 「助けて~」 と、叫びながら流れて行った、助けられない多くの人を見て来た事、車や船舶や屋根がぶつかる度に、凄い衝撃を感じ、壊れたら自分もダメだと思った事、ぶつかって来た船から火の手があがり、ビニール袋で水を汲み、みんなで消火しようとした事、信じられない光景を語ってくれた。ずぶ濡れになった人と、幼子抱えた人と、お年寄りが緊急要請のヘリで助けられ、その他の人々は夜11時頃にやっと救助のバスが来て助けられた。あの夜は特に寒い日だった。長い時間、歩道橋で助けを待つ人々。でも、こうして町のシンボルである歩道橋が多くの命を救ったのです。
2011.04.05
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4日経っても安否の分からない義母。お向いさんの安否も。私は、もしかしてあの公民館で私を待っていたのではないかと…よく探さないで中学校に行ってしまったけど、もしかしていつまでも私を待っていたのでは…密かに自分を責めて眠れない日が続いた。でも、そんな思いを抱えている人は私だけではなかった。地震の後、近所の義父母を尋ねたが無事を確認して戻ってしまったと悔やむ方。「あの時津波が来るから逃げるようにと一言、言っていれば」みな紙一重で生死が決まった。生き残った人はみな壮絶なドラマがあった。避難所で聞いた数々のドラマで、特に痛ましかったのは、卒業式のあの日、中学生の息子さんを亡くされた方。息子さんは友達と一緒に、公民館から中学校に向かった、私のように。その途中、津波に呑み込まれた。2人の友達は危機一髪で逃れた。「息子は太っていてドン臭いから逃げ遅れてしまった、先を走っている友達2人が目撃しているので間違いないらしい」なんと言う、言葉もない。母親の悲しみは勿論の事、2人もその光景から生涯解放される事はないだろう。さて、 義母の生存は半ば諦め、それならせめて一日も早く見つけてやりたいと、最終手段と、私は遺体安置所に足を運びました。この遺体確認についても、遺族と行政側ともめました。沢山の遺体が集められているのに、一日も早く確認したいのに、見せられる状態にしてからでなければ対面させないと言う。そして遺体をきれいにして対面出来る状態にしてから安置所に置かれた。私がひとりで安置所に行った時に見た遺体は、最初に発見された方々ばかりで、損傷も少なくきれいな御遺体でした。それでも他人さまの御遺体を覗く事に躊躇があり、出来るならば棺に添えられビニールに入れられた服で確認しようとしたけれど、どの方の服も真黒い泥にまみれ、みな同じにしか見えず難しい。やはりひとつひとつ覗き顔を確認することにした。小さなピンク色した棺があった。生まれてから何年愛されたのかと思うと痛ましくて…100体近く確認したけれど、義母はいなかった。この後、毎日のように沢山の遺体が運ばれて来るが、日を追う毎に損傷が増し、確認が難しくなっていく。先の中学生は近くの瓦礫の下から先日やっと発見された。お母さんは「普通なら顔見ても判別出来ない状態だったけど、親だから分かった」 と。 遺体安置所から避難所に私が戻ると朗報が待っていた。義母はお向さんの高台にある親戚のお宅に共に避難していた。あの日、公民館で降ろすつもりでいたが、車と人でごった返していたので、年寄りを置いていく事に躊躇してそのまま親戚宅に連れて行ってくれた。すぐ戻れると思って。義母は自宅の電話番号しか覚えていない。私たちの携帯番号名などは頭にない。お宅の方が市役所の避難所名簿の中から私の名前を見つけてくれて、やっと連絡ついた。あの時の感激の涙を私たち家族は一生忘れない。そして遺体安置所で横たわっていた方々の無念を私は一生忘れない。
2011.04.02
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左上:宮交バスが分かりますか! 右上:我が家前の電柱もこのとおり 左上:遥か遠くまで瓦礫の山 右上;土台だけ残ったお向いさんの家 左上;田んぼの水が海のよう 右上;我が家の残骸
2011.03.31
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私の逃れた避難所は地元の中学校。ここまでは救助の車両も入れない状態だったが、そこから歩いて行った小学校は、次の日の午前中には救助のバスが出たらしい。この小学校には800人の人が避難した。最初にその人たちを輸送してから、私たち中学校組を1200人を小学校まで歩かせ、更にそこから輸送した。「自力で歩ける人は小学校まで歩いてもらいます。どうしても歩けない人は申し出て下さい」と言われた。歩けない人は自衛隊員に背負われた。通常なら徒歩10分足らずの距離だが、足元は泥水でぬかるんでいて滑りやすかった。あの時の異様な行進は今でも脳裏を離れない。瓦礫をかき分けてやっと人が通れるようにした道路。辺りいちめん瓦礫の山。あちこちに流れついた船や車。時折火災の跡から出る煙。まさに戦場の跡のような静けさと異様な光景。戦争で焼け野原になった町は、きっとこんなだろうと思った。年寄りも子供も、幼子背負った母親も、みんな黙って歩いた。靴から靴下からドロドロになって歩いた。小学校に着いてやっと初めて水を貰った。小さな紙コップ一杯の飲み水だった。一日近く水分を取ってないのに、特別辛いとも感じなかったが、やはり美味しい。ここでまた各教室に分けられ、順番にバスで輸送される事になる。年寄り子供が優先。私は一人だったし、最初に小学校に避難したであろう義母は先に輸送されているはず。ここまで来れば急ぐ事はない。最後の50人の中にいた。その頃にはもう日が暮れていた。バスの運行は終わり(民間のバスで時間が決められていたらしい)、私が輸送されたのは赤い消防車。サイレンの音を鳴り響かせて戦場跡を走った。こんな体験は二度とないだろうと私は脳裏に焼き付けた。こんなにノンビリ最後に輸送された私をよそに、家族は今か今かと長い時間待っていたらしい。中学校に避難した事はメールで知らせてあったので、安心しているだろうと思っていたが、待っていた夫と息子にすれば何台もバスが来て大勢の人が降り立つのに母はいつまで経っても降りてこない。バスの運転手に聞けば、この便で最後ですと言われる。それでも母は帰って来ない。役所の人間に聞くと、ここだけではなく数か所に振り分けているとのこと。手分けして全部の場所を回って見るが何処にもいない。最後の最後にやっと消防車から降り立つ母を見つけて、どんなにホッとしたか。息子に言われた。「母さんはどうせ最後の方にまわるとは思っていたけど、こっちが心配していたのに、のん気に写メとったり、友達作って楽しそうに帰ってくるし、まったく~」本当に家族に心配かけました。この日から、第3の避難所となる役所近くの中学校で生活することになります。ところで義母ですが、私より早く生環したはずの義母が帰っていません。喜び束の間、義母の安否を確認出来ず、私はこの数日後、遺体安置所まで足を運ぶことになります。
2011.03.31
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危機一髪で逃れて来た中学校。ここで人々が見たものは… 窓から見える景色にみんな絶句。まさか、まさか、眼下に、船が家が家財が車が、淀んだ水と共に流れて来るとは…絶望の声、すすり泣く声、…私も言葉もなく、ただこの場所より海寄りの我が家も当然流された事を察した。 普段は児童数150人の校舎に1200人の避難者が集まった。各教室は、机と椅子を寄せてスペースを作っただけの所に50~60人の人々。お年寄りも子供も体を横たえるスペースなどなく、椅子を確保出来た人はいいほうで、私は机を逆さにして座る場所を確保。他の人は段ボールを敷いて場所確保。若い男性は立ちっぱなし。暖をとる物もなく、明かりもなく、不安の中一夜を過ごす。多くの人は防寒着を着て逃れて来たが、私は義母の防寒着に気をとられて自分は着の身着のままで来てしまい毛布は数少なくお年寄り優先。 誰かが教室のカーテンを引き剥がしていたのを真似て、私もカーテンを体に巻いて寒さをしのいだ。カーテンは湿っぽく重たかったけど、寒さをしのぐには充分だった。この時一枚のカーテンを分け合って共に寒さをしのいだ方は今も同じ避難所にいて、カーテンを大切に持っておられます。「これはusaさんと分け合って命守った大切な物、捨てられないっちゃあ」とおっしゃる。この方、靴も律儀に下駄箱に置いて来てスリッパ。一階の下駄箱は水浸し。トイレは流れないので当然てんこ盛り状態。スリッパで滑っては大変な事(笑)になるので、私の靴を貸してあげた。実は私も慌てて逃げて来たので、靴は夫の物、それも左右違う靴。これが彼女に丁度良かった。夜、水が引いてから次のような発表があった。「自衛隊警察が救助活動を行っているが各地に被害があり、ここの避難所には救援物資は届きません。よって水は赤ちゃんのミルクと病人の薬用以外はありません。食料も一人ビスケット2枚だけです。誠に申し訳ないが、明日自衛隊がブルで瓦礫を撤去しここまでの足場を作るまで救援隊は来ません、みんなで協力し合い乗り切りましょう」大変な事態でしたが誰も文句を言う人はいません。何よりもみんな家族の安否を心配していた。隣にいた女性は息子さんの携帯にひっきりなしに電話していた。一緒に避難してきたのに、携帯の充電器を取りに引き返したらしい。それを心配してご主人も迎えに行ったまま。二人が戻らないうちに津波が押し寄せて来て、どんな心地でいただろう、痛ましくて涙が出る。一人そっと震えていらした。(結局、息子さんは助かりご主人が亡くなられた)近所のTさんは、この春卒業就職が決まったお孫さんがたまたま帰省していて、一旦避難したのにパソコンを取りに二人で戻ったらしい。そのまま戻らず、奥さんが泣き崩れていた。津波が校舎に来た時は玄関を閉ざされ、間に合わなかった人は車を捨てて、非常階段から逃れて来た。この時下半身は泥水に浸かり正に危機一髪。近くの家の二階から助けを求める人の姿が … でも誰にも何も出来ない、流されないように祈るだけ。この方たちは、水が引いてから学校まで歩いて来た、下半身ずぶ濡れになりながら。校庭の木に釣り船が引っ掛かった。それに流された車が引っ掛かり、中にいた男性が助かった。水が引いてから自力で歩いてきた。この男性は正に地獄を見て来た。津波に流され、流れのままに乗っていると、家が人が呑み込まれる様子を車から見て来た。走って逃げている人間はアッという間だったと…命からがら生き延びた人々の話はまだまだ続きます。この最初の避難所から一夜明け、やっと瓦礫の撤去に自衛隊がすぐそこまで来るが、救助のための車両が入れず、午後になってやっと人が歩ける道だけ確保し、次の避難所まで泥濘の中、全員歩くことになります。
2011.03.31
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皆様、この度の東日本大震災におきまして、大変ご心配をおかけ致しました。お電話やメール等を頂き、お礼申し上げます。今回の津波では、まさに危機一髪で難を逃れ、しぶとくこうして生きております。あの日のあの瞬間、私の周りで起きた事を忘れないうちに書いておきたかったのですが、家と共にパソコンも何もかも流れてしまったので、更新することも出来ずにいました。今、息子の家にて更新しています。あの日、大地震の時、家にいたのは私と義母だけ。夫は仙台市内で仕事でした。仕事のお陰で車一台だけ、現在まで残す事ができました。名取市の海に面した町。地震の後に津波が来るのを誰しも知らないわけじゃないけれど、過去の宮城沖地震の時さえも被害が無かったため、町の人々誰も緊急感がありませんでした。私は移り住んでまだ2年足らず、ご近所さんの落ち着きようにすっかり安心していました。さて、津波から危機一髪で助かったのですが、避難所を3ケ所移されました。私の家から指定避難所は、海に近い順に、公民館、中学校、歩道橋をまたいで小学校、と3ケ所あります。小学校は海から一番遠いので、そこに避難した人は殆ど助かりました。小学生もその時まだ下校前だったので、みな助かりました。私の家から一番近い公民館に避難した人から多くの犠牲者が出ました。私は年老いた義母をお向かいさんの車に同乗お願いして、見送ってから、自分も公民館目指して自転車で走りました。ところが着いても、先に出た義母の姿がありません。駐車場は沢山の車と人で溢れていました。もしかしたら、お向かいさんは小学生がいるので、迎えがてらそっちに避難したんだと隣人に言われ、納得して、いざ中に入ろうとしたら公民館側から 「予想を超えた波がくるため、2階建のこの建物では対応出来ないので、至急3階建の中学校に避難して下さい」 と言う指示がありました。私は自転車で走った走った、歩いても数分位の距離なのだが、公民館駐車場は車と人で大混雑。どれだけの車が、どれだけの人が間に合っただろうか?後ろを振り返った人が見たものは、立ち込める黒い煙のように襲いかかる波。私が中学校に着くと、階段は上に昇る人々で大混雑、車椅子のお年寄りを数人の若者が担いでいるため、益々進まない状態の時、下から 「早く早く、上に昇って!そこまで波が来ている!」と叫ぶ声が。私が三階に上がる階段の途中で窓から見たものは …スマトラ沖大津波のテレビ映像そのもの …釣り船や瓦礫と共に波が逃げ遅れた人と車を呑み込んで行く …目の前で展開する映像のあまりの凄さに心の反応が追いつけない自分が危機一髪で助かった現実に心の反応が追いつけない人は想像を超えた事柄に会うと無感覚になるものだろうか?私は屋上に上がって、津波に襲われた自宅付近から火の手が上がっているのを冷静に携帯から写メとりました。中途半端に残るより、潔くきれいさっぱり残らないほうが諦めがつくのかも知れません。写メとりながら、私の頭の中は「住宅ローンだけが残ってしまったんだなぁ、これからどうなるのかなぁ」なんて現実的な計算してました。 津波が通った後、屋上から我が家の方角を 屋上からいつも行く生協を見て生協は一階部分が浸水し、2階に逃れた人は助かりました。 この時から避難所生活が始まり、危機一髪で生死を分けた数々のドラマを知ることになります。私が見聞きしてきた海辺の町の惨事と人々の悲しみを少しづつ書いてみたいと思います。
2011.03.29
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