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(少しも面白くなかった前編から続く)前編は第二寝屋川沿いにひたすら西へ下って行ったんだけど、最後の環状線のガードを潜り抜けて細い階段を登ったところは「弁天橋北詰」という交差点OBP(大阪ビジネスパーク)の東南角になる。いよいよここからは大阪城エリアになるんだ。↓どの写真も写真をクリックしたら大きな写真にリンクするよ♪ここは弁天橋北詰の交差点わきから第二寝屋川の川べりへ降りたところ。 大阪城と大阪城ホールが並んで見えるのは良かったんだけど、もう西陽が低くなっててほとんど陽が当ってなかったよぉ(^_^;)対岸の大阪城ホールが切れるあたりから大阪城方面を写した写真。川の対岸に大きく口を開けてるのは「大阪砲兵工廠」の水門跡。 砲兵工廠が稼動してた頃はこの水門を使って資材が運び込まれたそうだ。大阪砲兵工廠は明治の初め元長州藩士大村益次郎の構想の元に建設された軍事工場で東洋一の規模を持ってたらしい!太平洋戦争の終る1945年8月15日未明に空襲によってボロボロに破壊されてしまったんだって(>_<)なんせ、OBPの全域と大阪城の北と東の大阪城公園の全域とその更に東、環状線の東側の広い範囲まで広がる巨大施設を一気に破壊したんだから、きっと何万発の爆弾と焼夷弾を落としたんだろうな…。この破壊されてあちらこちらに鉄骨がむき出しになってしまった大阪砲兵工廠跡は戦後何十年もそのまま放置されていたらしい。なんせ雨あられとばら撒かれた爆弾の中には沢山の不発弾もあったみたいで撤去するのも大変だったんだろうな。この大阪砲兵工廠跡を舞台にした小説に開高健さんの『日本三文オペラ』がある。さらに、大阪砲兵工廠跡を舞台にして『日本三文オペラ』をパロった小松左京さんの『日本アパッチ族』というのもある。どちらも、凄く優れた小説だと思うし面白かったんだけど、絵空事として読めたら良いんだけど、この場所を知る大阪人としては少し辛いものがあるんだよな…。でも、まぁ『日本アパッチ族』はSFだから絵空事ではあるんだけどね。水門跡から少し下った新鴫野橋からの大阪城だよ。この橋が第二寝屋川最後の橋なんだ。この先で第二寝屋川は寝屋川に合流するためさらに下流に行くために、このあと新鴫野橋を渡って更に下った。新鴫野橋を渡り大阪城の外堀沿いに行くと、重さ数千トンとも言われてるこんな巨大な鉄の塊りがある。 これは大阪砲兵工廠の遺跡で溶鉱炉の底にあったんだそうだ。 歩道端の縁石が切れてるから地中まで埋まってるんだと思う。京橋口まで来た。これは、京橋口から入ったところにある大阪砲兵工廠の守衛詰所だとかトイレだとかいわれてるそうだ。京橋口の大阪城公園入り口に建つ大阪砲兵工廠の石碑。 「明治天皇聖躅」と彫ってあるから明治天皇がここに留まったということなのだろうけど、いくら調べても詳しいことは分からなかったよ。大阪砲兵工廠化学分析場跡。1919年(大正8年)築だそうだ。この建物も京橋口にあるんだけど、今はその回りを駐車場にしてるぐらい良い場所だしネオ・ルネサンス様式の建物もかっこいいしレストアして何かに利用したら良いのになぁって思ったな。大阪橋(京橋)の上からOBPの高層ビル群を望んだところ。 この川は寝屋川でOBPの北側に沿って流れてきてるのが見える。OBPの手前に右から第二寝屋川が合流してるのが少し見えるからOBPが寝屋川と第二寝屋川に挟まれた三角形の土地なのがここからは見て取れるよね。右の方に城見橋からの大阪城をマスキングしている環境事業局の赤白煙突も見える。大阪橋(京橋)の上から大阪城を望むと大阪砲兵工廠化学分析場跡と大阪城が並んで見える。大阪砲兵工廠化学分析場跡はここから目の前に見えるのだから立地条件も抜群なのが分かるでしょ。この橋が「大阪橋」という名前であることをこの写真を撮るときに初めて知ったんだ。 このときまでは京橋だと思ってたんだけど、この歩行者用の橋の名前は「大阪橋」だった。長らく大阪に住んでたけど「大阪橋」という名前の橋があることを知らなかった。右に見えてる線路は京阪電車で、ちょうど京阪電車が地上から地下に潜るところが見えてる。ここから地下に潜ったところに天満橋駅があり終着のターミナル駅淀屋橋駅まで地下を走ってるので、天満橋から久しぶりに京阪電車に乗り、淀屋橋で地下鉄御堂筋線に乗って帰路についた。大阪にもまだまだ「おもろー!」な歩きルートがあると思ったよ(^^♪”「城見橋」から大阪城を見てみよう!”というだけの始まりだったのだけど天満橋まで歩くという訳の分からない事になってしまった(^^ゞ
2008年06月27日
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もう先々週のことなんだけど大阪城界隈を歩いてね、その時のアルバムが出来たので記事にすることにしたよ。大阪城に東方向から流れて来る川に第二寝屋川というのがある。この川に城見橋というのがかかってるのは前から知ってたんだよな。城見橋なんて名前が付いてるぐらいだから、きっと大阪城のベストビューポイントに違いないと思ってたんだ。先々週、この川の大阪城から上流2キロほどのところに用事があって行くことがあったので、地図を見てみたんだ。そしたらその用事ポイントから500mほど大阪城の方に下れば城見橋があるのが分かったんだ。で、よくよく地図を見てみると”なるほど”と思ったよ。大阪城の北東には大阪ビジネスパーク(OBP)という高層ビル群があって大阪城の展望の邪魔をしてるんだけど、OBPは第二寝屋川の北側にあるから川の南側にある大阪城は第二寝屋川の橋の上からは綺麗に見えるに違いない。きっと川面上の左に大阪城、右にOBPが綺麗に見えると想像できたんだ。↓どの写真も写真をクリックしたら大きな写真にリンクするよ♪で、城見橋にやって来た(^^♪じゃ~ん!これが城見橋から大阪城方面を望んだ写真だよ!なぁ~んにも見えませんでした!(>_<)方向から行って赤白煙突の左側の大きな建物の向こうにあるのは間違いないけど全く見えなかったんだよ~(^_^;)橋の中央にはおそらく城見のためのスペースだと思われるアーチ状の踊り場まで設けられてるから昔は見えたんだと思う…(>_<)この一つ上流に「上城見橋」というのがあるんだけど、そこからはこんなん。やっぱり何にも見えない…。一つ下流の「下城見橋」でやっと大阪城を見ることが出来たよ(^^)この建物が「下城見橋」のたもとに建ってた「環境事業局」で、「城見橋」「上城見橋」から見ると、大阪城の前に立ちはだかって大阪城をまったく見えなくしてしまってる建物だった。だけど思ったより大阪城が遠くて小さくしか見えなかったのでさらに第二寝屋川を下ってみたんだ。第二寝屋川の上を環状線が通ってるところまで来た。もう夕方で西日が逆行で分かりづらいけど川面と電車の距離がえらく近いと思った。第二寝屋川沿いに環状線の下をくぐるガードがあった。ガード下はこんな感じ!何十年も前にタイムスリップしたような、不思議な通路だったよ。自転車がおいてあるのは、この通路の向こうは細い階段だから登れないからだと思う。通路をぐって、階段を登ったところから通路を見下ろしてるところ。こんな通路があることを全然知らなかったんだけど、この写真を撮ったポイントは、実はおなじみの所で何十回も通ったことがあるところだったんだ。さっきの写真と同じポイントから後を向いて撮った写真。そう、そこはもうOBPだったんだ!そのあまりのギャップにびっくりしたよ!(少しは面白くなる後編に続く)
2008年06月26日
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(その一から続く)どの写真もクリックすると大きい写真にリンクするよ↓橿原考古学研究所付属博物館へは大和高田バイパスであっという間にドピューンと行けたよ♪右前に畝傍山が見えてきた。橿原考古学研究所は畝傍山のすぐ東に建ってるんだけど『箸墓幻想』の物語の中での最も重要な施設”畝傍考古学研究所”のモデルになってるところなんだ。今開かれてる春季特別展「はにわ人と動物たち-大和の埴輪大集合-」は6月15日までやってるそうだ。5弦の弦楽器を弾いてる埴輪やピックのようなバチを持って演奏してる埴輪やバイオリンのように首に弦楽器をはさんでる埴輪があってびっくりした。そんなアホな!っていう思いから、この埴輪たちを作った古墳文化というのは、その後の日本文化とは全く関係のない別の文化文明じゃないだろか?みたいな妄想がわくほどびっくりしたよ。三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡なんかはドキドキしながら見たな。「マイ鹿ですから」なんて『鹿男あをによし』の田部未華子さんが三角縁神獣鏡を持ってる姿が浮かんだりして…(^^ゞ三角縁神獣鏡のキーホルダーと手鏡を自分土産に買ったよ♪三角縁神獣鏡の鏡って、良いでしょ(^^♪三角縁神獣鏡って元々鏡なんだからね(^_-)-☆閉館時間の5時まで博物館に居て箸墓に向かった。箸墓はうっそうとした樹木に覆われた深い森の山だった。孝霊天皇の皇女で倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)のお墓なんだけど卑弥呼のお墓って説もあるんだよね。だいたい日本書紀そのものが魏志倭人伝の卑弥呼を意識して倭迹迹日百襲姫の事を書いてるって考えたら、倭迹迹日百襲姫=卑弥呼って事もあるってどこかで読んだこともある。だけど何にせよ、ここが卑弥呼のお墓かも知れないと思うとなんか厳粛な気分になるよ。あの卑弥呼がここに眠ってるかもしれないんだもんね!箸墓はめちゃ大きくて僕の広角28mmのコンデジでも全体を入れて撮影するためにはかなり離れなくてはフレームに入らなかった。箸墓の北側には「大池」があるんだけどその北側で、光彦が「大池」に映る箸墓をバックに有里の写真を撮ろうとしたところは、ここしかないというほどの箸墓のベストビューポイントだったよ(^^♪結局有里は、長井明美と光彦が一緒に東京に行くことが気にいらなくて機嫌を悪くして写真に撮られるのをいやがって車の助手席に乗っちゃったんだけどね。箸墓からホケノ山古墳までは歩いても10分ほどなので歩いて行った。なんか、ただの小さな草ぼうぼうの丘って感じなんだけど、なんせ『箸墓幻想』の主舞台なもんだから、なんかとうとうやって来たって思いになったな。長井明美や平沢課長や丸岡やいづみもここでこつこつと作業をやってたんだもんなぁ…。ホケノ山古墳から初瀬ダムへは、小池拓郎が行ったと思われる山周りのルートを行った。細いワインディングで距離も遠回りで、通る車はほとんど無かったけど、たまに対向車があると怖いような道だったよ。初瀬ダムに着いたときはもう午後6時台で薄暗くなってたけど、事件の発端になった場所も確認できた。ダムの周りを1周して放水の様子なんかもゆっくり見物した。 なんせ、人っ子一人居なかったから、車は何処に停めても良いんだけど、なんせ小心者だから駐車スペースに車を停めてダムの上は歩いて見物したよ。初瀬ダムから、国道165号線への最短ルートを下りて行ったら途中に長谷寺があったけど、もう7時36分で真っ暗でお参りは出来なかったよ。だけど、行きたいところはほとんど行けて『箸墓幻想』をたっぷり体感できたし、ずっと古代を肌に感じることを出来た1日だったよ(^_-)-☆ただね、帰り道はめちゃ遠かった。ちょとづつちょっとづつ遠くへ遠くへ来たものだから、いつのまにか遠くの山奥に来てたんだよな(^_^;)こんなところまで高速を使わずによく来たものだよ!帰りは高速を使ったけど、それでも遠かった。家に帰ったら篤姫はとっくに終わって猟奇的な彼女をやってたよ。箸墓幻想
2008年06月03日
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この前読んだ内田康夫さんの『箸墓幻想』は、めちゃくちゃ面白くて行きたい気持ちに抗しきれず出かけてしまったよ。というのが当麻寺というところは奈良県なんだけど地図で見るととんでもなく近いってことが分かって気軽に出かける気になったんだ。朝起きたのが9時で、わちゃぁ!早く出たかったのにって思ったんだけど、行こうと思ったときに行かなきゃ今度いつその気になるか分からないから仕度を始めた。でね、二上山にも登ろうと思ってたんだけど、山登りは紫外線や虫や木の枝のことを考えたら長袖にしようと思ってたんだけど、この日の陽射しときちゃぁ、もう真夏みたいにギラギラしてて、こりゃぁやっぱ半袖でなくちゃぁ暑くてかなわないぞって思ったんだ。ところが山に合ってそうな気にいる半袖が見つからないんだ(^_^;)それに、いよいよ暑くなったら半袖でも脱ぎたくなるかも知れないなんて思ったらTシャツもお気にのでなきゃ嫌だ!なんて思って探しまくってたもんだから出発は10時を過ぎてしまったんだよぉ(>_<)馬鹿だね…(^^ゞで、出発したんだけど、予定としては当麻寺→二上山(大津皇子のお墓)→橿原考古学研究所付属博物館→箸墓→ホケノ山古墳→初瀬ダム→長谷寺って、いっぱいなんだけど二上山登山が入ってなかったらどおってことのない予定なんだけど、時間のことを考えたらちょっと二上山が不安だった。書いてみたら、なんかとんでもなく長い記事になってしまったので、面倒な人はアルバムの写真だけでも観てやって!(^^)右の写真をクリックしたらそれぞれのアルバムへ飛べるよ♪『箸墓幻想』の舞台を訪ねて(前編)竹内街道~当麻寺~二上山登山~大津皇子のお墓~大和高田バイパスまでの前編のアルバム→『箸墓幻想』の舞台を訪ねて(後編)橿原考古学研究所付属博物館~箸墓~ホケノ山古墳~初瀬ダム~長谷寺までの後編のアルバム→ここから下の写真は、クリックしたら大きい写真にリンクするよ♪でもね、富田林の喜志大橋を渡るときに前方に二上山が見えたら、なんか気分が盛り上がってしまってわくわくしてきたよ(^^♪で、その先の竹内街道に入ったところにある道の駅「近つ飛鳥の里太子」に寄った。おにぎりでも買おうと思ったんだけど、この道の駅の奥に、裏の川を渡るための幅1mほどの細い橋が架かってて、250m先に「竹内街道歴史資料館」というのがあるって書いてあるんだ。竹内街道というのは、シルクロードの終点とかよく言われてて飛鳥時代からある古道なんだ。小野妹子が随の煬帝に届けた聖徳太子の「日出国の天使よりつつがなきや」とかいう親書もこの道を通って持って行ったに違いないし、中国からの使者もこの道から明日香にはいったんだ。こりゃあ行くしかないでしょう!時間ないのに…(^_^;)でも行って良かった♪一番興味深かったのが、竹内街道の始点が堺市の「大小路」という所だということだったんだ。実は僕は小学生の時に2年間、大小路の交差点のすぐ近く歩いて一、二分とこに住んでたんだ!全然知らなかった。 今度、大小路にも行ってみようと思う。そんなことをしてたもんだから当麻寺は12時を大きく過ぎてしまったよ(^_^;)『箸墓幻想』で光彦が滞在したところが当麻寺だったんだ。当麻寺の住職の娘有里と光彦とのロマンスもちょっとときめく"^_^"でね、光彦が当麻寺に到着した日に、住職夫人にお茶請けに出してもらった当麻名物「中将餅」というのを食べたかったんだけど売ってないので奥院の宝物館のお坊さんに訪ねてみたんだ。そしたら、近鉄当麻寺駅前の中将堂でしか売ってないと言われたもんだから、二上山に登る前に、当麻寺駅前に中将餅を買いに行った。またタイムロスだよ(^_^;)あっと、言い忘れちゃいけないのが中将餅というのは中将姫から来てて、当麻寺の宝物館には中将姫が一夜で織り上げたという当麻曼荼羅が展示してあった。一辺4.5mという大きな曼荼羅でとても美しいものだったよ!で、デイパックに中将餅とお茶とスポーツドリンクを詰め込んで当麻寺の裏から二上山に登った。途中祐泉寺というところから右に折れるコースが光彦と有里が登った馬の背コースなので僕もそのコースを登った。このコースは二上山の雄岳と雌岳のあいだの鞍部の部分に直線的に登るコースでとっても険しかった。光彦は革靴で登ったんだけど、そんなことをしたら滑落するかもしれないって思う場所もたくさんあったな。途中へばってしまってコース横に座って休憩してたら上からお爺ちゃんが降りてきたので「鞍部はまだ遠いですか?」って訊いたら「もう、すぐそこだよ。ほら、そこに見えてるよ。」って教えてくれた。それはもう嬉しくて、また頑張れたよ。でも、そのお爺ちゃんは嘘つきで、そこから鞍部まではまだ遠かったんだけどね…(^^ゞ鞍部では、たくさん休憩をとってから大津皇子のお墓のある雄岳をめざした。『箸墓幻想』では、鞍部から光彦は雌岳を、有里は雄岳を往復してから、あらためて二人で雄岳経由で香芝側に降りたのだけど、僕には雄岳に真っ直ぐ行く体力しか残ってなかったんだよね。僕はGTホーキンスのトレッキングシューズを履いてたのに、革靴の光彦に負けてたのは情けないと思ったよ(^_^;)充分休憩をとったから鞍部から雄岳山頂の大津皇子のお墓までは休憩なしでなんとか登れた。お墓はとてもきれいに整備されてて、ウグイスの鳴き声以外は何にもしなくて静かで清潔で感じが良かった。内田さんがよく使う”静謐”という言葉を大津皇子のお墓のシーンでは使ってなかったけど、僕はここにしばらく居て”静謐”って言葉が浮かんだよ。ほとんどの登山者はこのお墓にはよらずに少し離れた登山道を素通りして行ってくれたのも良かった。お墓にゆっくり手を合わせてから、お墓の周りをぐるっとまわってベンチで中将餅をいただいた。よもぎ餅をあんこで包んだもので一口大の大きさで、とても美味しかった♪お腹が膨れたら、なんだか眠たくなってきたんだけど、この時点でもう午後3時!まだまだ行くところがいっぱいあるのに眠たいなんて言ってる場合じゃないと気合を入れてとっとことっとこ山を下りた。(その二へ続く)
2008年06月03日
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事のおこりは一昨日の晩に、テレビでもうすぐ公開される映画『僕の彼女はサイボーグ』の番宣を見たんだ。その映画は綾瀬はるかさんがサイボーグの役なんだけど「神戸旧居留地」でロケがたくさん行われたって事を、そのシーンを流して紹介してたんだよね。「神戸旧居留地」というのは、1868年慶応が明治になる年に神戸に造成された外国人の住居や通商の場として設けられたところなんだ。旧居留地といえば、僕には英国人アーサー・ヘスケス・グルームの商館101番館の事が思い出されるんだ。昔、いっときグルームに夢中になっていろいろ調べたことがある。グルームは明治元年、ちょうど旧居留地が出来た年に日本にやってきた英国人で居留地101番で茶の貿易などをしてた人なんだけど、まだ日本に”別荘”なんて文化のない時代に六甲に別荘を建ててしまった人なんだ。当時の六甲山は人が入るような山ではなかったんだけど、グルームは六甲山でハンティングを楽しんだりしてたんだ。そんな中、六甲山の三国池からの眺望に感激したグルームはその地に別荘を建てしまったんだ!それは六甲山での初の人家だったものだから、今の別荘地としての六甲山の最初の別荘ということになったんだよね。グルームは神戸旧居留地101番地に商館を構えてたことから、そのグルームの山荘は「百壱」と呼ばれた。その後、六甲の開発に労をいとわなかったグルームのことを、麓の住民は親しみをこめて「百壱番の旦那」と呼んだそうだ。その別荘が建ったのは明治28年(1995年)のことだから113年も前のことになるので、別荘はもう今は無いけど、グルームの足跡はいろいろ残ってる。でね、以前グルームのことを調べた時にはネットもカーナビも無かったし旧居留地に101番地を訪ねようとは思わなかったんだけど、一昨日旧居留地の映像を見てむしょうに行ってみたくなったんだ。だけど、昨日は昼から大雨になるって天気予報で言ってるもんだから、夜明け前に出発して神戸旧居留地と六甲山のグルームの別荘のあった六甲山三国池畔に行ってきた。旧居留地に着いたのはまだ5時頃だったんだけど、もう充分に明るくて人も車も全然なくてゆっくり見学できたよ。↓どの写真もクリックすれば大きな写真にリンクするよ。 グルームが100年ほど前に商館を構えてた旧居留地101番に現在は「三井生興スカイビル」が建ってた。仲町通りと江戸町筋の交差点の北東角で、その1階にはローソンがあった。「三井生興スカイビル」の江戸町筋側には「旧居留地101番」の金属プレートがあった。旧居留地から車で約40分でグルームが別荘を建てた六甲山の三国池に行けた。 このポイントは六甲山のガイドには必ず載ってる三国池の南側からの眺めで、以前は池の回りを一周出来たんだけど現在は東にも西にも回り込めずに南側だけしか池には近づけないようになってた。三国池の北側からの眺望。 北側からだと目の前の池中の島が邪魔をして池全体の見えかたが今一なんだな…。 この中島は100年ほど前にグルームが作ったんだそうだ。この写真の右手が西になるんだけど、この西側の岩の上からグルームは三国池に飛び込み水泳をするのが日課だったそうだ。三国池の近くの土の中から見つけて掘り出した「ミヤサキ」と掘ってある石柱。 グルームの妻は大阪の玉造の士族の娘宮崎直でグルームは妻との9人の子供たちにもすべて宮崎姓を名乗らせてたんだ。 最初にこの別荘地を借り受けたときの名義も長男宮崎亀次郎名義だったし、この石柱はグルーム家の土地の境界を示すものだと思う。もし、この石柱を見たい人が居たらお教えするのでメールくださいね(^_-)-☆グルームの法塔。 池の北側100mぐらいのところにある。 グルームの次男米吉の妻、宮崎春子が六甲山を開発するにあたって樹木や野性動物を傷つけたことを悼み、法華経を69384文字を小石一つに一字ずつを書いて埋めたそうだ。↓裏面に刻まれてる文字をそのまま書き出した。 「六甲山発展為法華経一部八巻二十八品六万九千三百八十四文字一字一石ニ謹寫此燈下ニ蔵ム 昭和七年三月建立 発願主 グルーム 宮崎米吉 有志者」そのあと、もう10年以上行ってない「グルーム地蔵」と「101番館(復元)」というところへ行こうとしたんだけど、以前は通れた道に柵がしてあって通れないんだ(>_<)なんとか違うルートで行けないものかと山の中をうろうろしてたんだけど、道がなくて諦めかけてたら、前の方にこの冬の大雪の日に助けてくれたあの山のつわもの(←過去記事参照)とさくらちゃんが散歩してるのが見えたんだ。思わず「サクラちゃ~ん!」って呼んだら、即効でサクラちゃんはその巨体を翻して駆け寄ってきてくれたよ(^^♪「どなたですか?」と僕に尋ねて来られた、つわものというか山の達人に、「この冬の大雪の日には、とってもお世話になりました」って、挨拶代わりにお礼を言ったら、達人は破顔して「ああ!あの時の!」ってすぐにおっしゃってくれた(^^♪ でね、「「グルーム地蔵」に行くルートが無くなってるんですよ(^_^;)」って達人に言ったら「あるよ」って、また『ヒーロー』の田中要次さんばりにそっけなく言ってくれちゃったよ(^。^)で、そのままサクラちゃんと達人で僕をその道の入り口まで案内してくれたんだ(^^)「また後で寄ってよ」と言ってくれた達人に、重ねて礼を述べて僕は教えてくれた道に入っていった。グルーム地蔵に向かう入り口を少し入ったところにサクラちゃんもついて下りてきたところ(^^)グルーム地蔵。外国人の子供が壊した地蔵をグルームが修理してここに祭ったんだそうだ。グルームの別荘「101番館」を復元したものらしいけど今は荒れ放題だった。 グルーム地蔵のすぐ近くにある。それから、一旦山荘に寄ってワインを手土産に達人の山荘を訪れた。達人は赤ワインが大好物ということで、めちゃ喜んでくれた(^^)あの大雪の日のお礼とこの日のお礼が出来てほんとに良かったと思う(^^)達人の山荘→これカッコイイでしょ!窓からの眺望は明石海峡大橋も見える。薪を積み上げて壁になってるのもカッコイイ!下の階は土間で工具がいっぱいと作業台があって垂涎ものだったよ!↓いつも達人と一緒のサクラちゃん
2008年05月25日
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昨日の記事の「百歳の階段」を登って上八(上本町8丁目)に行った帰りは口縄坂を降りることにした。もう午後6時をまわってたので、かなり暗くなってたし雨も降り続いてたんだけど、それが返って面白かったんだ(^^♪下の記事を読むのが面倒な方は→こちらの口縄坂のアルバムに飛んでね(^_-)-☆↓どの写真もクリックすると大きな写真にリンクするよ。 裏通りを歩いたので口縄坂の場所がよく分からなくなったんだけど角を曲がると向こうの方にぼんぼりみたいな黄色い街灯の明かりが見えたので、そこかなって思って向かった。 口縄坂の降り口の左手に、坂の名前の由来を記した立て看板があった。 口縄坂を少し下ったところ。相変わらず雨は降り続いてて、濡れた石畳にぼんぼりの様な黄色い街灯が反射してきれいだったよ。口縄坂は何度か歩いたことがあるけど、天気の昼しか歩いたことがなかったので、こぉれは良かったって思ったよ(^^♪雨だからやめようとか、もう日が暮れるからやめようとか思うことってよくあるけど、雨の夜にしか見せない顔とかもあるんだよな。 坂の中ほどで猫ちゃんと出合った。坂の横の柵の向こうの繁みに逃げ込みじっとしてた。行ってしまわないで、じっとしてたのは坂を登る用事があったのに僕が写真なんか撮ってるもんだから”早く行けよ”とか思ってたのかもしれない。おまけに何回もフラッシュを炊くし、鬱陶しい思いをさせたかもしれないな(^_^;) 坂の下から上を見上げると、木々の枝葉のトンネルの向こうに、日暮れ前の空がまだ青色を残してたよ。 松屋町筋からの口縄坂への入り口。目立たない路地だもんね、石碑がなければ見逃してしまうかも…。僕の知り合いはみんなこのあたりの坂の中で、この口縄坂が一番好きみたいなんだけど、きっとこの可愛い感じが良いんだろうな(^_-)
2008年05月22日
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このあいだ「おでかけアルバム」を作ってから”旅がしたい”なんてことを思うようになってたんだよな(^_^;)でも、旅になんか行けそうにないし”ああ、やだやだ…”って思うこの頃だったんだ(^_^;)で、思ったのが旅は出来ないけど「おでかけアルバム」ぐらいいつでも作れるかも…、ってことなんだ。”普段は車で行くところでも、歩きだったら「おでかけアルバム」になるんじゃないか?”なぁんてね(^^♪そんなわけで昨日は雨模様だったんだけど、上八(上本町8丁目)に行く用事があったので、難波から歩いてみた。以前の記事にも書いたけど、このルートは上町台地に登ることになるので途中に急坂があるんだ。天王寺七坂なんていわれて、風情のある坂がいくつもある。大阪というところは、まっ平らなところなので坂というものがほんとにない街なもんだから、このあたりの風景はちょっと特異なんだ。どの坂も松屋町筋から登って行って登りきったところが谷町筋って感じになってる。だから、どの坂を登ってやろうかと松屋町筋の東側の通りを覗き見ながら歩いてると、通りの奥に大きな鳥居とその向こうにやたらと長い階段が見えたんだ。↓どの写真もクリックすると大きい写真にリンクするよ。 鳥居とその向こうの階段という風景は日本中のどこにでも見られて、云わば日本の原風景って感じがしないでもないけど、ここは大阪だし、しかも環状線の内側なんだし”ありゃぁ~?”って思ったよ。坂を探してたんだけど、なんか知らない階段の方が面白そうなので行ってみたんだ。 ここまで来れば大江神社の字が見えたので、この階段の上に大江神社があることが分かったんだけど、すごい階段だなぁ!って思ったよ。 中ほどに一箇所踊り場をこしらえてあるのも分かった。 この階段の謂われが書いてあって「百歳の階段(ももとせのかいだん)」と言うんだってことが分かった。階段の段数は101段あると書いてあった。「心も身体も健康でありますようにと一歩一歩踏みしめて神様にお参りしましょう」と書いてあったので、この時は一歩一歩、神様にお祈りしながら登ろうと思ったよ。 中ほどの踊り場から下を見たところ。松屋町筋まで見通すことが出来た。下からこの中ほどの踊り場までで階段はちょうど50段あった。 踊り場から階段の方向と直角の北方向にうっそうとした道があり、その奥に大江護國神社というのがあるみたいなんだけど柵がしてあって入れなかった。なんかミステリーの舞台にありそうなところだったな。 「百歳の階段」の上まで登った。踊り場から一番上までは51段あった。下の部分と合計で101段ということだな。だけど、階段の段数を数えることで頭がいっぱいで、神様にお祈りをすることをすっかり忘れてたんだよな(^^ゞ 「百歳の階段」を登りきったところが大江神社の境内だった。 写真の左の端が「百歳の階段」で、その右横に舞台もあった。写真のうしろが神社の表玄関なのだと思う。だから「百歳の階段」は大江神社の表側からだと境内の奥になり中々目立たなくて、あまり知られてないんだと思った。濃いい木々に覆われた、ここ大江神社は、とても松屋町筋と谷町筋にはさまれた町の中だとは思えない静かな場所だった。 大江神社の谷町筋側の入り口。ここが表玄関だと思う。 大江神社から100mも行かないで谷町筋に出た。そこはもう見慣れた天王寺の喧騒の真っ只中なんだよね。ここは天王寺警察署西の交差点で、谷町筋から勝山通りへの右折レーンは2車線もとってあり、とても交通量の多い交差点なんだ。いつも、すぐ間近を車で走ってるんだけど、今回ちょっと歩いてみただけなのに面白い発見があったよ(^^♪でも”面白くねぇ!”って思う人の方が多いかも知れないけど、まっ、いっかぁ(^^ゞ
2008年05月21日
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