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成功には、圧倒的な才能、圧倒的な努力もいりません。2割の努力で8割のライバルに勝てる ネイト・シルバーの法則最初の努力は大きく報われるものです。2割の努力をして8割の素人を圧倒できる、それ以上の強者にはとてつもない努力がいります。強者の土俵で戦わない市場をみつければ、それが成功への近道になります。とてつもない才能ととてつもない努力が出来なくても、競争相手の平均を上回っていれば十分な利益(収入と評価)が獲得できるでしょう。遺伝的なこの「起伏」「好き」を足がかりにして、得意なことに人的資源を集中させ自分の強みを生かせるスキマで活動することで、それなりの成功を手に入れる事が出来るのではありませんか?多くの人は動こうとしないからです。行動遺伝学の知見と整合性の法則より、これこそが「人的資本の最強の法則」なのです。運は遺伝する(行動遺伝学が教える「成功法則」)より恐れずに一歩だけ進んでください。その恐れはわたしの幻想にすぎないのですから
2024.05.28
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人は自分の周りの環境から刺激を受け、それを脳が学習を繰り返すことで世界を認識しています。その中でその人の遺伝的な素質の「起伏」を感じているはずです。身体を動かすのが好き、本なんて読みたくない またはその逆もでもその感覚の「起伏」はあまりにも些細で、声高に語るほどでは無いとほとんどの人は、謙遜悪く言えば卑下している人が大多数ではないでしょうかほんのわずかな「起伏」でいいから、山に登ってみなさいと登ってみれば景色はすこしづつ変わってきます。この「好き」という感覚を感じなければ、興味がもてる場所に変わってみましょう。そうすれば、何か「好き」に出合うことが多々あります。「咲ける場所に動きなさい」現実には動くことが一番難しいのが大部分の人ですけど目の前にある一つでも夢中になれることをより深く掘っていくことがその人の才能に近づきます。全ての事柄や能力は、深いところでつながっているからです。あることに夢中になってやっていたら、いつのまにか違うことをやっていてそれが結果的に良かったということになっていくからです。最初の入り口は何だって良いんです。この「起伏」「好き」と言うことを追いかけてみてください。
2024.05.28
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脳とは進化したシュミレーション器官でありベイズ統計的(主観的)な予測装置だと考えれるようになりました。過去から未来へ続く「自己(わたし」という虚構を作り出すことで「あのとき、こうしておけばこんなことにならなかったのに」という過去の反省や「いまここで頑張れば、将来はうまくいくはずだ」という未来への希望をもてるようになった。これは人間にとって、他の動物にはみられない、ものすごく強力な認知機能を獲得したのです。この脳のシュミレーションの中心にはつねに「わたし」があって物語として構成されています。私たちは、自分を主人公とする物語としてしか、世界を理解することが出来ないのです。「この世はすべて、一つの舞台、男も女も、人はみな役者に過ぎない」ウィリアムシェークスピア「お気に召すまま」より脳は虚構を作り出す装置である。脳は遺伝的な優位性をきっかけにして、集団の中で目立ったり、高い評価を得たりすることを「楽しい」と感じるように設計されている。ジュディス・リッチ・ハリス(発達心理学者)印象的な二人の一卵性双生児の話一人は家でピアノ教室を開いている音楽家の養子となった。もう一人は普通の家庭の養子となった。この双子の一人は成長して、コンサートピアニストになった。ピアニストになったのは、普通の家庭の子供だったのだピアノ教室の娘は音符すら読めなかった。この物語のキーワードは、「それをすることが私には楽しかったから」
2024.05.28
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密教辞典によると「如意尼803~835。神呪寺開基。丹後与謝の人。10歳で京に来て如意輪観音の霊場を訪い、六角堂に住み822年(弘仁13年)、皇太子大友親王(淳和)の寵を得、翌年即位とともに妃となる。(19歳)その時の淳和天皇は36歳で即位したことになる。その年、天皇と共に大師より如意輪法を受け823年(天長5年)侍女とともに武庫山如意輪摩尼峰に神呪寺を創建(20歳)大師を請じて7日間如意輪法を修して翌年受明灌頂を受け、阿闍梨位を授かり831年(天長8年)落慶とともに出家。(28歳)承和二年835年寂。(32歳)とあります。ここで注意すべき点は 如意尼(真名井御前)が天皇(淳和天皇)と共に大師(空海)より如意輪法を受けたという点です。なぜこの二人なのかという事です。この時代から後に平安末期に源平合戦の前に、前に書きました阿字義という絢爛豪華な絵巻についてかきました。そこで一番ひっかかったのが、あの阿字義にある男女の絵なのです。その絵は元々は高位の公家の装束の男子が最初に書かれてありその中に阿字義の文字があり、そしてその最後に尼僧の姿の女子が書かれてあったようですいまでは男女がつづけて書いてあります。この尼僧は弘法大師であるとの記述もありますが、どう見ても女性の尼僧です。そして男は普通の貴族の装束ですが、なぜ女性は尼僧の姿で書かれていたかに非常に違和感があるのです。如意輪法についてもやはり月輪が出てきます。またこの男女の胸には阿字を書かれそこから放射する光が書かれています。それが何を意味するのか真名井御前が10歳から居た六角堂です。正式には頂法寺(ちょうほうじ)は、京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町にあり、山号は紫雲山。本尊は如意輪観音。寺号は頂法寺であるが、本堂が平面六角形であることから一般には六角堂の通称で知られている。華道、池坊の発祥の地としても知られている。たった10歳で故郷を離れてこの場所に来たのも普通では無いように思われます。この寺は聖徳太子創建と伝えれており、(また聖徳太子です。)この場所こそが後の建仁元年(1201年)、延暦寺の堂僧であった29歳の範宴(のちの親鸞)が、この六角堂に百日間参籠し、95日目の暁の夢中に聖徳太子の四句の偈文を得て、浄土宗の宗祖とされる法然の専修念仏に帰依したとされるいわくある場所なのです。それだけでは無くこの六角堂発掘調査によると、その創建は10世紀半ば(950年台)と推計されており、真名井御前が居た六角堂とは何だったのか創建の100年以上前のできごとであり、その前身の寺があったように思えるのです。しかしどう見ても、この方は中将姫と同様に普通の人では無いように思えるのです。
2024.05.26
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平安時代の尼。神呪寺の開基。『元亨釈書』によれば,もと天長帝(淳和天皇)の次妃と伝えられる。丹後国与佐郡(京都府)の人。10歳のときに都に出て,常に如意輪観音の霊場を詣でていた。弘仁13(822)年,皇太子だった淳和天皇が霊夢により頂法寺に使いを派遣し,妃として迎えいれた。日ごろから如意輪呪を持し,大弁才天の夢告を得,侍女2人と共に宮を出て,天長5(828)年に摂津の甲山(兵庫県西宮市)で修行を始めた。その後,空海を請じ寺を開いた。同8年には自ら剃髪し,具足戒を受けた。寺を神呪寺とした。同時に剃髪した侍女のひとり如一は和気真綱の娘であったという。如意尼は33歳で没したとある。淳和天皇第四后の如意尼(真名井御前)が神呪寺を創建したというのは、鎌倉時代の『元亨釈書』によりますが、『帝王編年記』には淳和天皇皇后の正子内親王の夢告によって創建されたとあります。この淳和天皇と空海の関係は非常に特別であることが以下の文章からうかがわれます。『続日本後紀』巻四の承和二年(八三五)三月二十一日に、空海(くうかい)が、紀伊国の高野山金剛峯寺で死去されました。亡くなった四日後の二十五日に、次のような淳和太上天皇の弔書が載せられています。これだけで特別な関係にあったことがうかがわれます天皇(仁明)が勅により内舎人一人を遣わし、空海の喪を弔い、喪料を施した。後太上天皇(淳和)の弔書は、次のとおりであった。空海法師は真言(しんごん)の大家で、密教(みっきょう)の宗師である。国家はその護持に頼り、動植物に至るまでその慈悲を受けてきたが、思いもよらず、死期は先だと思っていたのに、にわかに無常に侵され、救いの舟も同前の活動をとり止め、年若くして現世を去り、帰するところを失ってしまった。ああ、哀しいことである。禅関(金剛峯寺)は都から離れた僻遠の地なので、訃報の伝わるのが遅く、使者を走らせて荼毘に当たらせることができず、恨みに思う。悼み恨む思いの止むことがない。これまでの汝(空海)の修行生活を思う時の、悲しみのほどを推量されよ。今は遠方から簡単な書状により弔う。帳簿に載る正式の弟子、また親しく教えを受けた僧侶らの悲しみは、いかばかりであろう。併せて思いを伝える。その内容からもいかに特別な関係であったかがわかります。
2024.05.26
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兵庫県宝塚市にある神仏が習合した昔の本来の形式を残した真言宗の寺院で寺院と荒神さんとよばれる神社が同じ場所にあります。この場所は駅(阪急電鉄清荒神駅)から歩いていきました。休日などにはバスが運行しています。このすぐ下を高速道路の中国道がはしっていますが、やはりそれを過ぎて奥へあるいていくとやはり同じ様に、止まった感じがあります。流れるような止まったとでもいうかすぐそばに滝とそれに続く小川がながれており、このような神社の特色を示しています。知ってはいましたが、初めて訪れる事が出来ました。一度はここも訪れていただきたい場所の一つです。やはりここにも左手に宝珠を持った像がありました。
2024.05.26
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このような記述があった84歳の男性から「私が死を恐れている理由は、無になることに対する恐怖心に他ならない。」と述懐された。とあります。これは私も同じです。この問題は無記として考えることは無駄であるとしか答えられないのです。とあります。生きているという事は観測していること観ている事です。観ていないとき、それは有るといえるのか?前も書きましたように、わたしは自分の死を知ることは出来ないはずだからです。どうも困った問題です。私がいるというのは、私が一番よくわかっているからです。それが無くなったらどうなる? そう考えるのは当たり前です。 ですがこの84歳の方のおこされている恐怖が、それは本当の私ではないという私はいないという無我の観点からみると、変な話になってきます。私ではないものが、その恐怖の思いを本当の私に送り込んでくる様に人はできているそういうことになります。その恐怖に苦しむ自分を観ていると、また始まったかと 逃れられないものだとでもそれも永久にそこに留まることは出来ない次の瞬間には別の事を考えているなど、ホントに苦しむように出来ていると思います。
2024.05.25
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仏像に画かれる頭上の光については、以前書きました。今回最も古い時代の仏像である。法隆寺夢殿の救世観音の光背をみていますと興味深い点があります。この仏像は、亡くなられた聖徳太子を模して制作されたと伝えられており、色々な論争などがあることはよく知られています。それとは関係ありませんが、その光背をよく見ていくとその光背の上部に、塔(タワー)と思われるレリーフが、頂点に画かれています。そしてその光背は上部に尖る形式を持っています。この光背の表現を観ていると、法華経の見宝塔品(けんほうとうほん)第十一を思わざるを得ないのです。前にも書きました白毫相眉間白毫とも。三十二相の31番目であり、白毫相、眉間白毫相とも。光を放ち世界を照らすとされる。『法華経』序品には、仏が無量義処三昧の瞑想に入ったとき、白毫が光を放ち東方一万八千世界を照らし出すというシーンが描かれています。(爾時仏 放眉間白毫相光 照東方万八千世界)。白毫の位置は、インド哲学における第6チャクラのアージニャーである。シヴァ神などいくつかのヒンドゥー教の神はその位置に第3の目を持つとされています。これらは前にも書きましたように、どなたでもその一端を垣間見る事が出来るのでは無いかと思います。
2024.05.23
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594年 天台大師 ちぎ 摩訶止観を説く 三種止観(円頓止観・漸次止観・不定止観)と四種三昧(常行三昧・常坐三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧)の内の、円頓止観についての解説書613年 中国にて浄土教を確立した善導生まれる存命中に200枚以上の浄土曼荼羅(浄土変相図)を書き表すその著作『般舟讃』において般舟三昧による行道の法を記している。622年 聖徳太子 死去681年 善導 69歳 亡くなる 白鳳時代 645年(大化の改新)~710年(平城京遷都) (藤原京など飛鳥が都の時代) 天平時代 710年~794年(平安京遷都) (奈良が都の時代)686年 天武天皇 崩御704年 藤原豊成生まれる(別名難波大臣、横佩大臣(よこはぎのおとど))705年 則天武后崩御 則天武后の時代は「道先仏後」から「仏先道後」により仏教が大きく信仰された737年 支婁迦讖訳 はんしゅう三昧経伝わる(正倉院文書より)747年 中将姫 生まれる749年 孝謙天皇(女帝)即位 31歳 聖武天皇は太上天皇となる752年 東大寺毘盧遮那仏 大仏開眼供養式 開眼の導師は、南インド出身のバラモン僧、菩提僊那(ぼだいせんな)754年 鑑真和上奈良に到着(第12回第1陣 遣唐使船帰国 2船が到着できた)755年 唐で安史の乱起こる 翌年長安陥落 皇族が虐殺され 略奪される756年 右大臣藤原豊成 橘奈良麻呂の乱の責任を取り失脚 太宰府長官に左遷されるも 病気と称して難波にて隠棲(8年間) 中将姫9歳にて孝謙天皇の前で琴を披露し、賞賛との伝承757年 唐朝粛宗 長安を奪還する758年 孝謙天皇 天皇を譲り、実権をもった太上天皇となる 40歳759年 唐招提寺建立760年 中将姫13歳 三位中将の位をもつ内示となる伝承(これが中将姫の由来)761年 道鏡の寵愛が始まる761年 第12回第二陣 遣唐使船帰国 難波到着 粛宗側近の謝時和が同行し24mの船1隻を蘇州で建造、9人の水手と30人をもって送使沈惟岳と共に8月に出発、南路で大宰府に到着 30人の一行の中に膳大丘が参加し金剛般若経を持ち帰るとの伝承がある。粛宗より、武器類の補充を日本側は求められている、藤原清河は帰国できていない。この要請を受け安芸国で10月から4隻の船を建造、武器材料の徴発と備蓄、新型の鎧「綿襖甲」は「唐国新様」と呼ばれ、762年から大量生産が命じられている。この武器の唐への移送は、舟の座礁や、唐の騒乱状況を鑑み結局中止された。唐へ帰還しなかった者も多く送使沈惟岳は日本に帰化した記述がある。762年 太宰府在の送使沈惟岳が賄賂を取る不正が告発される事実ではあるが不問とされた。 763年 中将姫 尼僧となる16歳(中将法如)当麻曼荼羅の下部にこの制作年号がある。 16歳の時、淳仁天皇より、後宮へ入るように望まれるが、これを辞している 鑑真和上亡くなる 75歳 安史の乱終わる しかし一時吐蕃による長安占領など、唐朝の威信は大きく下がる764年 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(道鏡排斥を企てるも失敗) 藤原豊成右大臣に復帰 称徳天皇即位(重祚) この政変で押勝を支持していた淳仁天皇は失脚して淡路に流されその後死去、 暗殺との話もある766年 藤原豊成没 62歳767年 最澄(比叡山 天台)生まれる769年 道鏡 宇佐八幡宮神託事件770年 称徳天皇崩御 52歳774年 空海(高野山 真言)生まれる775年 中将姫 (中将法如) 亡くなる 29歳824年 当麻寺に空海(50歳)が来場したとの伝承835年 空海 亡くなる942年 源信(恵心僧都えしんぞうず)当麻寺周辺で生まれる985年 往生要集をあらわす 当麻曼荼羅の前に置かれている阿弥陀仏は、恵心僧都が寄贈したと伝えられる1017年 源信 76歳 亡くなる
2024.05.22
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中将姫は13歳の時に、三位中将の位を持つ内侍となる。と伝承にあります。この内侍という職種は、一般には後宮に仕える女官という事ですが女性神官という意味もあるようです。厳島神社の内侍という職種は、女性神官である巫女を表しています。また、斎宮や斎王に仕える女性もそのように呼ばれている事からその伝承から見ても、そのような方だったのでは無いかと思います。13歳の時は、父である藤原豊成は政変で失脚しており、難波に隠棲したとあります。それが9歳の時ですからそれから4年も宮中に中将姫があったのは、特にこの女性が重要な能力を有するつまり神仏に交感できる特殊能力をゆうする巫女の能力を持っていたからでは無いかと思われるのです。それが、それを仲立ちする中将という名前の本来の意味だからです。また母と言われている藤原百能については、生みの母か継母になるのかは確かではありませんが、その父は藤原麻呂であり、その生母は当麻氏であると言う記述があります。古代においては婚姻の形態は、妻問い婚であり女性のところに男性が通ってくることから、母方の親族の影響が非常に強くなります。つまりここで当麻寺(当麻氏の氏寺)という強い結びつきがあらわれます。おそらく中将姫が殺されかかったという伝承は、この13歳以降に起こった事を感じます。たぐいまれの無い能力を有しておられる姫を守るために、母の出身である当麻氏の氏寺に頼った様に思われて仕方ありません。なぜこの曼荼羅が、この当麻寺にあるのかは、このような背景があるのではないでしょうかこの中将姫が13歳以降の3年の間に大変な政変が起こっています。763年 中将姫 尼僧となる16歳(中将法如)当麻曼荼羅の下部にこの制作年号がある。763年 16歳の時、淳仁天皇より、後宮へ入るように望まれるが、これを辞し尼僧となっている 鑑真和上亡くなる 75歳 安史の乱終わる しかし一時吐蕃による長安占領など、唐朝の威信は大きく下がる764年 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(道鏡排斥を企てるも失敗) 藤原豊成右大臣に復帰 称徳天皇即位(重祚) この政変で淳仁天皇は失脚して淡路に流されるその後死去暗殺との話もある藤原仲麻呂派であった淳仁天皇は、中将姫を後宮に取り込むことで、有力氏族である当麻氏の勢力を引き込もうとしたように感じます。ですから、中将姫は政変に巻き込まれない為にも出家をしたようにも捉えられるのです。この恵美押勝の一族はこの乱によって多くが処刑されたとあります。権力争いではいとも簡単に人の命が奪われていく時代です。こんな時代なので、中将姫が殺されかかったのもあり得る話では無いでしょうかまた中将姫を守る意味からも、出家してそれから逃れた様にも思えます。
2024.05.22
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四天王寺の縁起にこのような記述があります。崇仏派の蘇我馬子と廃仏派の物部守屋が仏教の受容をめぐって合戦が起こりました。当時16歳のお太子さまは物部守屋討伐軍に従われました。このときお太子さまは白膠木(ぬるで)の木で作った四天王像を頭に挿して、この乱に勝利した暁には、四天王を祀る寺を建立しその生涯をかけて衆生救済に務めることをお誓いなされました。前も話しましたが、ここで問題としているのが木で作った四天王像を頭に挿したという記述なのです。よく見られる、その時の聖徳太子の絵画にはこの場面はみえません。つまり頭の周りに四天王像をおそらく、ひもか何かで頭に固定して人々の前にたったのだと思います。そして、一本の矢を与えてそれで物部守屋を撃たせたのです。これが何を意味しているかです。四天王で囲まれたその中央にあるものが、聖徳太子と同一であるという教えなのです。曼荼羅をご覧ください。その中央には仏が存在しており自らがその仏になったという意味を表しています。これは化身ともいえる行動です。その矢は一撃にて高所で指揮を執っていた物部守屋を打ち倒し、物部軍は総崩れになり劣勢であった蘇我軍は勝利することになったと伝えれています。日本で仏教が受容された初期において、仏教(大乗仏教)がどのように捉えられてきたかがわかる事例と思います。
2024.05.20
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わずか11歳でそれもその後百済に海を渡って留学します。その理由が仏教の戒を勉強したいという事なのです。仏教の三学とは経(ほとけの教え)律(戒律)論(仏教の注釈)の中の戒律なのです。大乗仏教とは、だれもが仏であるということに尽きるとおもいます。その土台としての戒律、その上に建てるのが、定(精神集中)、そしてその上に仏の智慧が仏そのものが現れるという捉え方になるのではないかと考えています。そう考えたとき、この日本最初の僧であり尼僧である方は11歳にて、とんでもない人で有ったのでは無いかとも思えるのです。定の側面から見ると、戒律がいい加減だと、出てくるものはとんでもない物になります。それがわかっているからなんてのは、相当高い能力を有していたからの、行動であったように見えてしょうがないのです。ちょっと持ち上げすぎかもしれませんが、わたしはその様に思っています。
2024.05.19
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聖徳太子の時代に仏教が伝来しました。これはよく知られているのですが日本で初めて僧侶になったのは、実は意外なひとたちなのです。(わたしには、そう感じます。)3人の尼僧(女性)なのです。善信尼(ぜんしんに、敏達天皇3年(574年) - ?)は、6世紀後半の仏教の尼であり、記録上日本で最初の留学生(百済へ留学)父は司馬達等。仏師・鞍作止利の叔母にあたる。名は嶋(しま)。恵善尼や禅蔵尼とともに日本最初の僧尼の一人となった。善信尼はそれも11歳で出家しました。おそらく他のお二人も、同じ様な年齢ではないかと思っています。たしかに相当早い年齢ですがこれは仏教が日本で受容されたとき、どのような意味でこの仏教を取り入れたのだろうかという点なのです。いま仏教は葬式仏教などと揶揄されておりますが、その意味するものはもっと違って見えてしまうのです。特に日本では古くから神道における巫女の存在は、よく知られています。私には、この仏教は日本の神々の一つであるという受け取り方をしていたのではないかとしか思えないのです。つまり効く(効果がある)神様の一つという捉え方なのです。神仏は一体である。この年齢も巫女のあるべき年齢なのです。今の巫女さんは実は年齢が高すぎるのですがこの3名の尼僧は物部氏によってむち打たれるなどの迫害をうけましたが仏教を保護した蘇我馬子は自らの病気平癒の為にこの3人の為の精舎を建てて拝んだとあります。この姿は、この3人の尼僧を仏=神=神仏と見なして礼拝している姿に見えます。このあり方は、神道の巫女の本来のあり方とそっくりなのです。明治時代になって、巫女舞が本来の神がかりの儀式の部分が禁止された経緯によって、その意味がよくわからなくなって来ているように思えます。また、それを継承する方法と、能力が失われてきた様に見えます。もっと呪術的な、あるいみ恐ろしいものです。それ故に、ある意味危ないとも、人を惑わす恐れのあるから、近代国家となった明治の政府が禁止したのもわかる気がします。現代の巫女の舞は、安全な物になっていますが、本来はこのようなものであっと捉えており、その継承は細々でありますが、今でも残っています。この後日本では神と仏は習合(八幡神など)していき、一体として捉えられるようになります。それもこの流れから見えれば、当たり前のながれであり、日本における宗教の受容がいい加減にみえるのも、じつは尊い一つのものが世にはあるという日本人の宗教観に根ざした物であり、それこそが宗教の根源に対するあり方ではないかと思えるのです。
2024.05.19
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考えは変わって良い物でしょうか?考えや見方は時々に変わるものだね(人々の色々な考え方に戸惑い、どうかんがえればよいのか?)それは大丈夫だと思う。ただ一つ意識すれば考えるというのは照らす範囲のようだね人は各人違うというのも、人は各人同じものがあるというのも他者を認めると結論するなら、一つの考えから逸脱しない。普遍の考えではなくても良いただどこに灯(ともしび)を置くかは決めねばならない自分がどの範囲を、どのように照らしているか問うことだランプの火は近くすれば、狭くハッキリ照らすが人はどれを近づけたり、離したり、増やしたり、あれこれ試して進んで行くしかし結局の所は、人は多くの指針を必要としないものだそれよりもただ自分の持った信条の灯を明るくして、勇気と共にあるくしかないあなたがたは世の光である。(マタイによる福音書 5章 13-16より)
2024.05.19
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AI(人工知能)の急激な発達が報道されもう手の届くところまでやってきています。もし電話でしゃべっても、それが本当に人かAIか見分けがつかない時が目前に迫ってきており、それが私たちの周りに人知れずに共存する時代に入ってきています。そのAIの姿を観ていると、もちろんそれは機械であり、生きている物ではありません。作られた物です。しかし思うのです。私たち人間も、だれもが私は居ると常に思っていますが実はこのAIとおなじ物では無いか?もしAIがあるとき、自分は存在すると言い始めたとき、それを否定することはとても難しく、そういう人間もおなじなのでは無いか?というAIの逆質問に答えがだせないのです。人間をどう解剖しても、頭の中を切り刻んでも、どこにもわたしは見つけれないのです。これを仏教では無我と言っています。2500年の昔に
2024.05.17
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