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1921年1月25日24歳の宮沢賢治は家出して上京し前日は父の友人小林六太郎氏宅に泊めてもらいました。朝小林家を出て丸善書店で本の予約を取り消し29円10銭を受け取りました。貸間を探し本郷区菊坂町75(現文京区本郷4丁目)稲垣信次郎氏宅二階の三畳間を借りました。#AIイラスト東京都文京区本郷四丁目の宮沢賢治の下宿跡には、文京区教育委員会による説明文が設置されています。 https://g.co/kgs/PRvUBt8
2024.01.25
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1921年1月24日24歳の宮沢賢治は前日の夕方に突然花巻の実家から家出をして朝8時30分に上野駅に着きました。元同級生鈴木延雄氏を訪ね袴を惜りて着替えると国柱会館へ行って講師の高知尾智耀に会いました。住み込みで働きたいと言いましたが、親戚の家に泊まりなさいと断られました。#AIイラスト
2024.01.25
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1921年1月23日24歳の宮沢賢治は一人で実家の質屋の店番をしていましたが、すると仏教書が突然落ちてきて背中に当たりました。賢治は小さな仏像と仏教書と洋傘だけ持ち突然家出をして17時12分花巻発上野行き列車に飛び乗りました。妹宮澤クニ氏が目撃していました。#AIイラスト
2024.01.23
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ある日宮沢賢治が変なことを言い始めました。「山の奥、森閑として晝尚ほ暗い密林の中に、一條の河が流れてゐる、清澄の水は凄味を帯びてゆるやかに流れてゐる、今此の時河の上流から、女の腐死体が、而かも丈なす黒い髪を乱しつゝ、浮きつ沈みつ流れて来たと仮定したならば、吾々は如何に善処すべきか、皆さんの意見を聞きたい。」宮沢賢治の農学校教師時代、花巻高等女学校校長の高日義海氏の自宅に月に数回芸術好きの教師たちが集まりました。白藤慈秀、郡視学(現在なら教育委員長?)の羽田正や藤原嘉藤治などがいました。そこでの突然のヤバい発言です。誰も口を開かない中、白藤教諭は「率直に常識的の判断から駐在所に駆けつけて事情を訴へる」と言いました。賢治は「駐在所は遠いですよ」といって笑顔で否定しました。白藤は自分の答えの浅薄さを嗤われたような気がして軽率に答えてしまったと恥ずかしく思いました。しばらくして藤原嘉藤治が、「僕は此の戦慄すべき恐ろしさと、凄い淋しさとの交錯する心境を、そのまゝ音楽に表現したい」と答えました。賢治は会心の笑みを洩らし、一同も藤原嘉藤治を讃えたそうです。宮沢賢治と、白藤慈秀の凸凹コンビ的な微妙な関係、藤原嘉藤治との親しい関係がよくわかるエピソードです。出典 白藤慈秀著1939年「宮澤賢治の生活諸相」草野心平編「宮沢賢治研究」より#AIイラスト
2024.01.06
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