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フィンランドの話が書けないので、代わりと言ってはなんですが、 突然ながら、福井の織物クラスターの話
をしたいと思います。
アフリカとか東南アジアを考える前に、 日本だって途上国だった時代があるんだから、日本の経済成長の牽引車になった産業を振り返るのも意義があるかもしれません
。
なので、うまくいかないかもしれませんが、 福井の織物クラスターの成長ストーリーを 、「ダイヤモンド・フレームワーク」
をあてはめながら
、書いてみようと思います。
なんどもアピールしているとおり、僕の出身地は、福井です。
福井なんていうと、まず「 は?どこ、それ?九州か東北だよね
(それは、福岡と福島なのに。。。)」とかいわれます。
どこにあるか知ってる人でも、多分海と田んぼしかないド田舎というイメージしかないでしょう。
ところがどっこい、福井には、 かつて日本の輸出を牽引し、 「外貨獲得マシーン」
と呼ばれた産業
があるのです。
それが、 絹織物産業
。
いまでこそ中国などの海外勢にやられて衰退しましたが、織物によって、福井県の経済は大きく発展しました。
実はいまだって、細々とメーカーがあって、 洋服の襟のところについているタグなんかはほとんどが福井県産
だったりします。
* * *
福井の織物の歴史は、はるか古代に遡ります。
一説によると、西暦2、3世紀ごろ、大陸から集団移民してきた人々が、越前、若狭地方にも移り住むようになり、その妻や娘達によって絹織物が織られるようになった、といわれています。
福井は年間を通して 湿っぽい気候で、製造プロセスで静電気が起こりにくいので高品質の製品が作れる
ということが幸いし( ”Factor conditions”
)、中世、江戸時代にかけて、絹織物生産はどんどん盛んになっていきました。
これに伴い、 養蚕農家
も増えていきます( ”Related and supporting industries” – クラスター形成のはじまり
)。
福井は、 京都や大阪に近い
ので、関西の織物に精通した商人たちが、福井の織物業者に発注をかけていたのでしょう。
そして、 目の肥えた商人たちの厳しい注文によって、より品質のいい織物を作るための技術革新
が起こっていった面もあると思います (”
Demand conditions” – sophisticated buyer
)。
明治に入ると、一気に近代化
が進みます。
明治4年、旧福井藩士由利公正が 欧米を視察
し、イタリアなどの国から多種の絹布見本を持ち帰り、県内の繊維業者に欧米絹業の発展と状況を伝え、これが福井の繊維産業近代化の端緒となりました( Technology transfer
)。
明治中期までは、「富岡製糸工場」で有名な群馬県が、日本の織物産業の中心地でしたが、 福井県は群馬から積極的に技術を導入
していきます。
輸出
も比較的早い段階で始まりました。
福井県内の織物業者もどんどん増えていきます。
明治後期には、福井県内の織物業者は3000社に達したそうです。
当時の織物産業にはそこまでeconomies of scaleはなく、機織機1台で事業がはじめられたので、おそらく 参入障壁
はそんなになかった
んだと思います。
しかも、 万が一事業がうまくいかなくても
、周りに織物業者が多いので、彼らの工場や機械を売れば、 簡単に exit
できます。
なので、「いっちょう織物事業をはじめるか!」といい人が多かったのはうなずけます。
そうすると、 地域内での競争も激しくなり、生き残った企業は強い生産性と競争力を持つようになります
( ”Rivalry”
)。
海外の需要増も後押しし、ついに、 明治28年に群馬県を抜いて、福井は、日本最大の絹織物産地になりました
。
大正時代に入ると、設備の近代化が大幅に進み、 バッタン機から力織機への転換
が進み、 大量生産や商品タイプの多様化
が可能になります。
この頃、第一次世界大戦の勃発に伴い、 日本の輸出絹織物業界は空前のブーム
となりました。
この間、 クラスターの形成
も順調に進みんでいきます。
絹織物の染色を起源として、 化学品
の会社がたくさん設立されました。また 繊維商社
なども増えていきます( 関連産業の形成
)。
これにより、養蚕農家 -> 生糸メーカー -> 織物機メーカー -> 織物業者 -> 染色業者 -> 繊維商社、という 織物バリュー・チェーンの大半が、福井県内にそろう
ことになりました。
また、織物業者たちは、 組合
を作り、 最新の技術情報を交換
したり、 統一の品質基準を設定して福井産織物の評判を高める努力
をしたり( クラスター形成に伴うreputation効果
)、「染織伝習所」という 職人養成所
を作ったりしました。
福井県も、福井県工業試験場を設立するなど、 技術革新を後押しする政策
を打ち出します( Innovation
)。
これらの要因もあり、福井県の織物業者は、 人造繊維など新しい素材の生産
もいちはやく始めていきます。
また、 金融業界も、織物業界の成長投資を後押し
したはずです。
これは僕の想像ですが、バンカーは、同じ産業ばかりみていると、だんだん産業構造やビジネスモデルがわかってきて、自信を持って融資ができるようになるはずです。
そうすると、不当に高い金利で、お金を貸すということはなくなるでしょう。
であれば、当時の福井県の織物業者は、他県の織物業者よりも、安いコストで資金を調達できていたのかもしれません。
実際、記録によれば、 福井銀行は、大正14年に織物を担保にした融資を開始
した、とされ、これは、「担保といえば土地」だった当時としてはinnovativeなファイナンス手法だったのかもしれません。
( Local context that encourage investment and productivity
)
大正、昭和初期にかけて、織物の輸出はどんどん伸びていき、福井は 「織物王国」
としての名声をほしいままにします。
この辺が、「織物王国」のピークでした。
その後、 太平洋戦争開始に伴う物資不足や輸出市場へのアクセス喪失
、 空襲
や、戦後すぐの 福井大震災
で、織物産業は、いったんメタメタにやられます。
これらのダメージからは立ち直ったものの、 海外の繊維事業者の競争力強化
、アメリカとの貿易摩擦に伴う 輸出自主規制
、 石油ショックに伴うコスト増
など、日本の繊維事業者には手厳しい打撃が続き、
福井の繊維産業は衰退
していきました。
でも、ポーター教授的には、「世界には不利な要因を跳ね返して競争力を保っているクラスターは多い(石油ショック後の日本の自動車業界とか)。 みんなが横並びになった結果、企業間の競争がやわらぎ、危機を乗り越えるためのイノベーションが起こらなくなったせいだ
。」とか言ってくるのかもしれません。
また、ポーターは、「 産業振興のための政府の重要な役割のひとつは、輸出を振興するべく、他国のtrade barrierを下げさせることだ
」と言っています。
福井県出身の政治家は、その辺の動きがいまひとつパワフルにできなかった、ということもあるのかもしれません(もちろん、そんな簡単にはできませんけどね!)。
* * *
以上、長くなりましたが、ポーターの「ダイヤモンド・フレームワーク」と福井の織物産業のお話でした。
オチは。。。そんなのないです。すいません。
アフリカのプロジェクトで、これらのフレームワークをうまく使って、いい提言ができるように頑張りたいと思います。
出所) このエントリーは、 福井繊維協会
の情報と、僕の想像に基づいています。
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