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2023.01.25
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カテゴリ: ショートショート



 当時の湯屋は二階に待合所のような場所があって将棋盤などが置いてあり社交場となっていただけでなく、湯女などによる売春や賭博などやくざの資金源の場となっていたからである。

 だが依然として庶民の間では混浴が続いており、1853年に来日したペリーがその状況に驚愕し、日本人は道徳心に欠け淫蕩な人民であると「日本遠征記」に記している。そこで明治新政府は近代国家としての体裁を気にし、混浴禁止令を出すに至り、都市部では取締りが強化された。
 それでもなかなか混浴はなくならず、混浴禁止令はたびたび出されたものの、完全になくなったのは明治末期になってからのようである。と言いつつもなお、地方の鄙びた温泉地などの多くでは混浴が残るという時代が昭和30年代まで続くのだった。

 しかしながら昭和40年代頃になると、混浴に抵抗感を抱く都市部の観光客などが増加し、多くの旅館やホテルがそのニーズをくみ取り、浴場の男女別化に取り組むことになる。さらに保健所が「公衆浴場法」の条例に則り、新規の混浴施設建設に対しては衛生検査済証を発行しないことも、減少に拍車をかける一因となった。ただそれでもなお、九州や東北地方では未だに混浴が残っている古い温泉が少なくないことも否めない。

 前置きが長くなってしまったが、首都圏に近い群馬県の法師温泉では未だに混浴温泉が残っている。ここは旧国鉄時代にフルムーンのCMで、高峰三枝子と上原謙が混浴シーンを演じたことでも有名な混浴老舗温泉なのだ。ただやはり最近は、混浴に挑戦する勇気ある女性は少ないようである。
 それで宿の従業員が、「できたら混浴風呂に入りませんか」と女性に声をかけているのだが、老いも若きも殆どの女性が首を横に振って女性専用風呂に入ってしまうらしい。淋しいね、つまらない世の中になってしまったと言うべきか、いまどき当然だと言うべきであろうか……。

 そんなある日、この法師温泉に温泉マニアの吉川が東京からやってきた。温泉マニアと言っても、彼は決してオタク風のデブ男ではなく、まだ30歳になったばかりで華奢な感じの色白イケメン男なのだ。彼は温泉マニアを気取っているのだが、この老舗法師温泉に来るのは初めてであった。と言うのも、つい2年前までは岩手で働いており、東北の温泉をほぼ制覇し続けていたからである。
 ところが去年東京本社への転勤命令が下り、余り気が進まないまま東京に移ってきたのだ。そう彼は温泉マニアと言っても、東北を中心とした温泉しか知らなかったのである。


 吉川はさっそく会社帰りに、都内の温泉施設をはしごし始めた。そして休日には、奥多摩・厚木・丹沢など東京近辺の温泉を巡り歩いた。また温泉で知り合った「湯舟友達」と温泉巡りの話に没頭するのも楽しみの一つになった。

 そんな湯舟友達から聞いたのが、法師温泉の話である。その法師温泉は湯舟の底から温泉が湧出するという、全国でも珍しい温泉なのだと聞いた。さらに東京近県ではいまどき希少な混浴施設も残っているというのだ。
 湯舟の底から温泉が出ると聞いた吉川は、東北で入った鉛温泉、乳頭温泉、蔦温泉などを思い出してしまった。それに鉛温泉、乳頭温泉でも、混浴施設が存在していたではないか。……と言うことで岩手時代が懐かしくなり、わざわざこの法師温泉までやってきたという訳である。

 その法師温泉に行くには、上越新幹線の上毛高原駅で下車し、関越交通バスで猿ヶ京へ行き、そこから町営バスまたはタクシーに乗り換えてゆくしかない。あるいは車を使って、関越道の月夜野ICで降り、国道17号線で猿ヶ京温泉まで行き、そこから県道261号を走ることになる。乗車時間を比較すればどちらもほぼ変わらないが、吉川は乗り換えのない便利な車での移動を選んだ。

 猿ヶ京温泉と赤谷湖をあとにして、国道17号線で苗場スキー場方面へ走ってゆく。そして途中の分かれ道から県道261号に入るとだんだん寂しくなる、さらに山道を登ってゆくと急に道が細くなってくる。そして法師の沢から渓流を横目に眺めながら、爽やかな風を浴びながら緑のトンネルをくぐってゆくと、突き当りに法師温泉の看板が見えてくるのだった。



 そこはまるで別世界の桃源郷のようだ。なんと明治時代にタイムスリップしたかのような、古の建物がひっそりと建っているではないか。そして入り口には懐かしい赤い郵便ポストが鎮座し、古びた廂から『日本秘湯を守る会』の提灯が静かにぶら下がっていた。
 まさに美しい自然と古き良き日本の原風景が調和した静かな木造の一軒宿なのである。かつては与謝野晶子や川端康成ら多くの文人墨客もここを訪れ多くの作品を残したといわれている。またここは宿泊だけではなく、日帰り客にも入浴施設を開放しているのだ。

 吉川は入口にある帳場で日帰り入浴料を支払うと、さっそく混浴風呂のある法師乃湯に向かった。なんと脱衣所の扉が開いている。中に入ると全ての脱衣かごが空っぽではないか。なんだ誰も入っていないのか。吉川はさっそく裸になって風呂場へ向かう扉を開けた。
 そこはヒバや檜などの木々の香りが漂うだだっ広い大浴場で、どこかで見たような八つに仕切られた湯舟が郷愁を誘ってくるではないか。まさに東北の鄙びた温泉地で湯めぐりをした時と同じような感動にこころが奪われてしまった。

 ところが冷静になってハッと気が付くと、湯気の間からギラギラした粘っこい視線の嵐が襲い掛かってくるのだ。気味が悪くなった吉川は、慌てて湯舟の中に沈んだのだが、まだ粘っこい視線が追いかけてくる。それで湯舟の中から広い浴場を見渡すと、なんと誰もいないと思っていた浴場の壁沿いには、10人以上の男たちが座り込んでいるではないか。つまり先ほどから感じているギラギラした視線は、この男たちから発せられていたのである。一体これはどういうことなのだろうか……。


 慌てた吉川は、もう風呂どころではなくなってしまった。まだ粘ついてくる視線を無視し、急いで服を脱いだ脱衣所に戻ることにした。幸いまだ誰も入ってこなかったので、急いで服を着てこの脱衣室を出た。脱衣所を出てよく確認すると、やはり吉川が入った脱衣所には『女性』の札がかけてあり、その向かい側に『男性』の札が下がっている脱衣室があるではないか。

 改めて「男性用」の脱衣室に入ると、脱衣かごは大勢の男たちの服で埋まっている。結局のところ脱衣室は男女別になっているものの、浴場の中は男女混浴になってるという構造だったのである。つまり吉川が間違えて女性用の脱衣室から浴場に入ってきたので、待望の女性が入ってきたと勘違いした男たちが、一斉に視線の矢を放ってきたのであった。そして吉川が華奢で色白であることと、湯気に紛れていたため、いつまでも視線の集中砲火を浴びることになったのだろう。

 吉川はやっとギラギラ視線の正体を解明したものの、なんだかもう浴場に戻る気がなくなってしまった。せっかく東京からはるばるやってきたのだが、残念ながら次の機会にゆっくり心ゆくまで入浴することにして、今日はもうここを出ることにしたのであった。

作:蔵研人
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最終更新日  2023.01.25 13:30:21
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