真理を求めて

真理を求めて

2003.12.27
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宮台真司氏の著書「サイファ覚醒せよ!」(速水由紀子・共著)に出てきた「隣人愛」という言葉について考えている。隣人愛とは、この本の脚注によれば次のようなものだ。

「キリスト教的な愛。聖書(ルカ伝6・27-28)では次のように書かれている。
<あなた達は敵を愛し、自分を憎む人に善を行い、自分を呪う人々を祝し、自分を讒言(ざんげん)する人々のために祈りなさい>
人間の感情と理解を超え、利己心を打ち砕き、実存から存在に至るか否かを決定する愛、として定義づけられている。」

「隣人愛」とは、普通の意味では愛することの出来ない人にこそ愛を注げということを言っているようだ。これはどうしてだろうか。それについて宮台氏は次のように語っている。

「ちなみに、イエスの教説からパウロが取り出した「隣人愛」(カリタス)の教義は、親や故郷の親しきものを愛する自然感情をエゴイズムとして退けることで、脱共同体的な機能を果たした、ということを別の本で述べましたけれども、パウロが「隣人愛」の教義を強調したのは、ローマ布教上の意識的な選択でした。異教徒・異民族が集う社会で、もう一つの宗教共同体を付け加えるのではなく、共同体一般に対してメタ的な立場をとることで、浸透度を高めようとしたわけです。」

自然感情に反する愛をあえて提案するということは、「メタ的」という、自然感情を越えたものを実現するために必要だったという考え方だ。これこそがパブリック(公)の概念の基本になるものだということも宮台氏は語っている。僕もその考えに共感するのだが、日本の現状は次の通りだということも宮台氏は語っている。

「さっき言ったキリスト教の「隣人愛」の教義だけれど、以前トーク・イベントで田原総一郎に「キリスト教の教義的な核心を占める隣人愛を、田原さんはどう理解しますか」と尋ねたら、「隣の人と仲良くということだろう」と答えていました。これが日本の「知識人」の平均的教養でしょう(笑)。
いやそれどころか、かつて、あるカトリックの神父さんとお話をしたとき、「隣人愛」の教義学的なポイントは、いわゆる隣人すなわち近しい人々を愛する自然感情をエゴイズムとして否定し、自らに石つぶてを投げる者、自らをつき転ばそうとする者をこそ愛すると言えることだ、すなわち「親を捨てよ、故郷を捨てよ」なのだ、と申し上げたら、「いやそんなことはないはずだ」などと度肝を抜かれているわけです。まして、日本の自称宗教家の大半は、そんな教義があり得ると言うこと自体に仰天するわけです。そのぐらいだめなんですね、この日本の自称宗教家の民度は(笑)。」



「さっき言ったように、親を愛するとか故郷の親しき者たちを愛するというのは、誰もが持つ自然感情ですが、共同体の内側ではそれでいいとして、外側ではエゴイズムに転化するわけです。たとえば、同じ共同体に属さない人間--親族でない人間、見知らぬ異邦人など--を差別したりおとしめたりする振る舞いを、抑止するどころか、むしろ「親しきものを守るため」という理屈で正当化さえしかねない。」

隣人愛概念が確立されていない日本社会で、異邦人である外国人に対する偏見と差別が非常にきついのは、親しい者たちに対する自然感情の愛というエゴイズムの強さがかなり関係しているのではないだろうか。難民申請をする者たちへの人権侵害などは、世論の反対が少ないことをいいことに正当化しているのではないかと思える。

隣人愛の問題は、その対極にある親しい人たちだけの幸せを願うと言うことが、それだけでいいのかという問題をはらんでいると宮台氏は語る。親しくない人たちも幸せになる権利が、同等にあるのではないかという問題だ。そういう社会でなければ、社会全体として幸せが大きくなると言うことはないんではないかという問題だ。自分たちだけが幸せで、他の大多数は不幸だという社会が、果たしてその幸せが安定して続くような社会かと言うことだ。テロにおびえなければならない社会というのは、その答えを物語っていると思うのだが。

隣人愛を考えていたら、日本の隣人である朝鮮民主主義人民共和国の人々のことが頭に浮かんできた。この国の人に対して、多くの日本人は偏見を持っている。だから、冷静にこの国のことを考えようとしただけでものすごい反発を受けかねない。およそ隣人愛を持ち得ない状況だ。そこには、仲間を守るために敵を殺せという自然感情のエゴイズムを強く感じる。

しかし、こんな状況だからこそ、あえて感情を殺して冷静に眺めることが必要なのだと思う。ここでも優れたジャーナリストは、感情に流されることなく冷静にかの国の姿を見せてくれる。そして、正しい現状認識のもとに、日本はどう行動していくべきかという問題を提起している。田中宇さんの新著「辺境」では、最後の章で朝鮮民主主義人民共和国について、東アジアの問題という大局的な観点から鋭い分析をしている。

東アジアの問題は、アメリカと中国との関係を軸に展開しているという風に田中さんは分析している。かつては、アメリカは反共的な考えもあって、中国を敵視して、中国を封じ込めるという政策をとってきた。しかし、今や中国は、その資本主義的な経済政策を、社会主義的市場経済と呼んで肯定してしまうくらい、イデオロギー的な危険を感じなくなっている。むしろ、アメリカとしてはこれから伸びていく唯一の市場として、中国を中心とした東アジアの経済圏を安定化させたいという風に思っていると報告している。

朝鮮半島を戦争の惨禍に巻き込んでしまったら、せっかく育ってきた市場をぶちこわすことにもなりかねない。だから、アメリカとしては、戦争を望まないだろうという予測をしている。朝鮮民主主義人民共和国を追いつめて暴発することを望まないのではないかと言うことだ。そうであれば、日本としても外交政策上、この国を追い込んで交渉しようとする方向は得策ではないような気がする。日本の最大の課題である拉致問題の解決も、国家としての朝鮮民主主義人民共和国を追い込むのではなく、国際的な協調の中で犯罪行為として裁くという方向での解決を目指した方が解決への道が開けるのではないか。圧力をかけて追い込んで、他に方法がなくなってから頭を下げるという姿だったら、溜飲を下げる人が多くなるのかもしれないが、その方向に果たして実現可能性があるのかどうか。また、溜飲を下げると言うことを目的にする必要があるのかどうか。むしろ、隣人愛の考えを用いた方が、国際協調を得られるのではないだろうか。

靖国問題に関しても、田中さんは面白い観点を提出してくれる。日本の政治家が靖国問題を何回も繰り返すのは、その問題を解決したいからではなくて、むしろ問題を温存することが目的で、靖国参拝を繰り返すのではないかと言うことだ。中国と日本が仲良くなってしまっては困る勢力というものが、権力の中枢にはたくさんいるので、仲良くならないような工夫の一つとして靖国が利用されているという見方だ。

戦争責任の謝罪に関しても、謝罪の言葉はあるが、具体的な謝罪の意志というのは、補償の問題も含めあまり感じられない。靖国に参拝する行動を見ても、言葉だけで内実のない謝罪というものが多い。これでは中国が反発するのはある意味では当然なのだが、日本国内では謝罪したことは大きく報道されるので、いくら謝罪しても中国は少しもそれを受け入れないというイメージが広がる。日本人には、謝罪ばかりしているというイメージが広がって、そこから中国に対する反発が生まれ、世論のレベルで中国と仲良くすることが難しくなってくる。

感情を殺してみて、冷静に眺めてみると違う面が見えてきたりするものだ。冷静に見る、第三者的に見るというのは、うっかりするとすべてを他人事としてみるということに傾く恐れはある。しかし、なんでも感情移入して一体化してしまうと、利害を強く感じてしまって客観的な判断は出来なくなる。他人事になって自分とは関係ないと見てしまうかどうかは、自分の中にパブリック(公)の精神が生きているかどうかにかかわっているような気がする。パブリック精神を育てる意味での「隣人愛」の重要性を感じている。





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最終更新日  2003.12.27 10:53:01
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