真理を求めて

真理を求めて

2004.07.21
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現代社会は、テロの危険が日常的なものになり、理解不可能とも思える衝撃的な事件が起こり、予想もしていなかった天災にも襲われる(一部では人災ではないかという声もあるが)というように、「一寸先は闇」というような不安の時代であると言ってもいいだろう。何が起こるか分からないというのが不安のイメージだが、その分からないものに備えなければいけないということが、いっそう不安を高めるということになっている。

この不安の時代を考える上でとてもいいヒントが宮台氏のBlogの 「「相互監視社会」の到来が生み出す恐怖~公権力と市民、アウトローの関係性 」 という文章の中にある。

宮台氏は、社会に存在する漠然とした不安感の背景に、「〈社会〉が自分で問題を解決できるという「自信」を失っていることがある」ということを指摘している。そのため、かつてなら「凶悪事件など、〈社会〉が自ら解決できない例外的な場合にのみ〈国家〉が介入する、というあり方が基本」だったけれど、今はあらゆる場面での国家の介入を、むしろ国民の方が望むというあり方が出てきてしまっている。

確かにテロなどを防ぐには、国家的な仕組みが必要だろう。しかしそれを警戒するために、国家の介入を許すというのは我々の自由を侵すことにならないだろうか。テロの対策のためには、一人一人が、どんな人間で、彼が危険がないかの情報を持たなければならないが、それを無制限に権力の側に許していいのだろうか。かなりの部分で我々のプライバシーが侵されることにも耐えなければならないとしたら、その不安の種をもう一度考えてみる必要があるのではないだろうか。

犯罪を防ぐためということで、あらゆる場所に監視カメラを設置するように求められているという。宮台氏は、かつての日本社会では、小さな共同体がかなりの地域の問題を解決する力があったと語っている。しかし、今の日本ではもはやそのような地域共同体はなくなってしまったという。だから、我々に地域でのトラブルを解決する力がなくなっているので、監視カメラに頼ったり、それをもとに国家権力に守ってもらうという発想になってくるという。

我々の問題を我々で解決できなくなったのだから、国家にその解決をゆだねるのはある意味では仕方のないことだとも解釈できる。しかし、これほどまでに、我々に解決能力がなくなったのは、日本的特徴というものもあるのかもしれない。

宮台氏は、「近代社会は、本来、「〈国家〉とは怖いものだ」という認識を出発点としていたはずなのだ」と語っているが、日本人にはその感覚が薄いということも指摘している。「〈国家〉よりも、テロリストやアウトロー、外国人犯罪のほうが恐いらしい」というふうに見える。

最近は、<プチ右翼>と呼ばれる人たちの中に、「国家は間違いをしない(国家は善意によって動く)」「(無条件に)国家は国民のために働く」という受け取り方をしている者もいるようだが、日本社会が西欧のような近代を通過しなかったために、「〈国家〉とは怖いものだ」という自覚がないのだろう。このようなメンタリティに対して、宮台氏は、



と喝破している。権力の中枢にいる小泉さんが、イラクで人質になった青年たちのバッシングにお墨付きをつけたとたんに、その声が一気に溢れてきた状況などを見ると、この宮台氏の言葉の正しさを感じる。近代社会に生きている人間のメンタリティを持っていれば、かえって政府の攻撃から個人を守ろうとする気持ちが浮かんでくるものだろうと僕なんかは思うのだが。

国家と一体化する人間が出てくるのは、その方が不安を持たずにすむからだろうと思う。「長いものには巻かれろ」という言葉があるが、不安から逃れたくて、そうしたくなる人間が増えたということだろうか。かつてもそういう人間はいたが、かつてはそういう人間は軽蔑の対象だった。しかし、今は市民権を獲得したというか、強い(長い)アメリカに追随する(巻かれる)ことが必ずしも軽蔑の対象になっていない姿もあったりする。

「長いものには巻かれろ」ということわざは、今は抵抗しても相手に勝つだけの力がないから、その力を蓄える間は、潰されないために面従腹背をするために、いわばネタ(あえてするウソ)として長い(強い)ものに巻かれているのだという使われ方をしたのではないだろうか。いつまでも巻かれる状況にいることがいいという意味での使われ方ではなかったと思う。それが今では、どんなに軽蔑されようとも、最強のアメリカに追随することが日本の幸せだと信じている人がいるのに驚かされる。

人々の不安が高まると、「長いものには巻かれろ」という雰囲気はますます高まるかもしれない。その不安を高めるのに大きな影響を与えているのはマスコミだ。宮台氏も次のように指摘している。

「こうした傾向を後押ししたのがマスコミだ。かつては「テロ」などと呼ばなかった対象まで、〈国家〉の役人が言うがままに、何もかも「テロ」だと称するようになった。何もかも「テロ」だと称することは、〈社会〉のほうが〈国家〉よりも恐いという印象を強める機能を果たす。時代の流れを呼んで役人どもはワザとそうしている。
かつてハイジャックはテロと呼ばれなかった。「海外旅行するときはテロやハイジャックには気を付けて下さい」という具合に、テロとハイジャックは別カテゴリーとして並列された。79年のダッカ空港事件も「テロリストがハイジャックをした」というふうに報道された。今ではハイジャック自体がテロだと呼ばれてしまう。
テロリズムやテロリストの「テロ」は「恐怖」を語源とする。この言葉は、クーデターと並んで何やら「国家転覆」の匂いがする。「犯罪」と呼ばず「テロ」と呼ぶことで、「〈社会〉が〈国家〉を脅かしている」「〈社会〉のほうが〈国家〉よりも恐い」といった印象が強められる。マスコミがこうした流れに加担している。」

マスコミのあおる不安が世論に影響を与え、必要以上の支配する力を権力の側に与えている。この不安は、センセーショナルな事件を繰り返し報道することで、心理的な雰囲気として作り上げているようだ。宮台氏は、次のようにも指摘している。

「青少年犯罪は減少傾向なのに、衝撃的事件を繰り返し報道し、「子供たちは恐ろしい」との不安が植え付けられる。かくして少年法重罰化や有害メディア規制の流れが作られた。 」

このような不安の時代に、我々はどう対処していけばいいだろうか。マスコミの煽動に乗せられず、冷静に現状認識するためには何が必要だろうか。

不安の原因は、それが分からないということにあることは確かだ。実際に恐いのは何なのかが具体的に指摘できるようになれば不安にはならない。テロが不安をかき立てるのは、それがいつどこで起きるかが全く分からないからだ。可能性だけが肥大していくことが不安を高める。



不安を沈めるには、最終的には、現代社会というものを本当に深く理解するしかないのかという感じがする。自分に都合のいい面だけを見るのではなく、世界の多面を、多面として受け止め、その中から本質を表している象徴的な一面を嗅ぎ取る直感を養うことが不安の時代を生き抜く知恵になるのではないだろうか。宮台氏の文章は、その知恵をつかむヒントを与えてくれると、いつもそう感じている。





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最終更新日  2004.07.21 21:24:44
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