真理を求めて

真理を求めて

2004.07.22
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田中宇さんが、 「キリストの再臨とアメリカの政治」 という新しい文章を書いている。これは、 「「華氏911」とイスラエル 」 の続きの文章であると断っている。しかし、そこには「華氏911」に対する言及はほとんどない。つまり、前の文章もそうだったが、この文章も、「華氏911」という映画に対する批評なんかではないのである。ましてや、映画の価値を落とすような批判をしているのではない。あくまでも、ジャーナリストの目から映画の持っている位置づけというものを考えたものだと僕は思う。

ジャーナリストとしての田中さんから見ると、イラク戦争を理解するのに、ブッシュ大統領とサウジアラビアの関係だけを取り上げたのでは、正しい現状認識にならないと感じたのだと思う。ネオコンとイスラエルの関係に踏み込んでこそ本質が見えるというのがジャーナリストの目なんだろうと思う。だから、「華氏911」で<イラク戦争の問題は、ブッシュとサウジアラビアの関係こそが本質だ>と思い込むと、理解は半分だけにとどまると警告したかったのだろう。そこに描かれていないイスラエルについて注意をしなければならないと言いたかったのだろう。

これは、「華氏911」と映画の価値を落とすことではないと、僕なんかは思うんだけれど、マイケル・ムーアのファンの一部は、これが映画の評価を落とすと受け取ったのではないだろうか。確かに、この指摘は、マイケル・ムーアがジャーナリストとしてはその報告に欠けたところがあるという指摘になっている。しかし、マイケル・ムーアをジャーナリストではないと認識すれば、ジャーナリストとしては欠けているところが、他の視点で見ればすぐれているところにも見えてくるのではないだろうか。

僕は、マイケル・ムーアの本質は、運動家としての側面にあるんじゃないかと思う。「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見た限りでは、あれは、単に事実を知らせて、そこから社会の問題をあぶり出させてみせるというジャーナリスト的な手法ではないような感じもする。ムーアは、暴力の根元には銃を持つことの自由が存在する、という認識を明確に持っているように僕は感じた。つまり、ムーアの立場は、銃の保有の自由に対する反対であり、銃規制に対する賛成の立場ではないかと思った。

普通ジャーナリスト的なドキュメンタリーなら、問題の所在を知らせるための事実を映像にするだろう。しかし、ムーアは、映像にしながら、銃規制につながるような成果をそこで作り上げているような感じがする。ある大手スーパーでは商品として銃弾を売っていたが、高校生たちの運動で、それを商品としては置かせないという結果をもたらせたことを映画は報告していた。しかし、その映像は、高校生の運動の結果としてそのような成果があったというよりも、ムーアが撮影していたおかげで、それがスーパーへのプレッシャーになり、ムーアの撮影が高校生の運動を後押しして、それだけの成果をもたらしたというふうに僕は感じた。

普通なら、圧倒的多数の民衆の声が運動に勝利をもたらすと考えるのだが、このムーアの映像では、ほんの数人とムーアだけでこれだけの成果を上げているように見える。ムーアの持っているメディア的な圧力が運動において大きな力を持っているのだということが分かる。スーパーとしては、高校生たちの働きかけに対して、その対応によってはものすごいイメージダウンになるような宣伝になることを恐れたのだろう。

マイケル・ムーアは、新しいタイプの運動家だという感じが僕にはしている。そして同時にすぐれたドキュメンタリー作家だったので、それを有効に運動に活用しているように見える。「華氏911」も、ジャーナリストが作ったドキュメンタリーだと受け取ると、田中さんが指摘するような欠けた部分があることを感じてしまうが、運動家が作ったものだと受け取ると、運動としては有効に働いていると言えるのではないだろうか。



ジャーナリスト的には、イスラエルとネオコンの批判も必要だろうが、運動として、ブッシュとともにこれらも敵に回した場合、あまりにも敵の力が強すぎて、運動としては力に余る敵を相手にしすぎるかもしれない。運動というものが勝利を目指すのなら、まずは勝てる相手に力を集中する必要もあるだろう。今はブッシュを倒せる可能性の方が高くなったのだから、現段階ではある程度イスラエルやネオコンの勢力と妥協しても、目的であるブッシュの方に力を集中するというのは、運動としては正しい<政治的判断>だと思う。

運動には<政治的判断>が必要だと思う。よく「大事だからやらなければならない」とか、正論をもとに運動を進めようとする者がいるけれど、これは、<運動は勝てなくても良いから、自分の良心を満足させるためにやるのだ>と主張しているように僕には見える。僕は、これは運動論としては間違いだと思う。運動は、勝てる問題に力を集中して、勝つことを目的にしなければならないと思う。勝てない相手に対しては、<死んだふり>をして、勝てる条件が作られるのを待つことが運動論的には正しいと思う。

勝つためには政治的判断も必要だ。そして、勝てなかったときは、何が勝てない原因だったかを反省することも必要だろう。日本の古いタイプの運動は、勝てなくても、これは大事だからやらなければならないという悲壮感で行っているものが多い。僕は、悲壮感で運動をするのは嫌いだ。マイケル・ムーアに好感を抱くのは、彼の運動には悲壮感がないということだろう。勝てる条件のある運動には勝っているという、その計算の正しさに彼の優秀さを感じる。

マイケル・ムーアは、自分の立場を前面に押し出して表現をしているのであるから、彼はジャーナリストではない。ジャーナリストは、常に第三者的な立場で事実に対処しなければならないと僕は思うからだ。田中宇さんは、ジャーナリストだと思う。ジャーナリストは、あえて立場をなくして表現をしているのだと思う。客観性というものを守るために。

田中宇さんは、最新の記事で、人口比でいえば2%に過ぎないアメリカのユダヤ系の人々が、どうしてこれほどまでにアメリカの政治に影響力を持っているのかを解明しようと事実を集めている。イラク戦争を、ブッシュの失敗として糾弾をするということが目的ではない。それに影響を与えた、イスラエル勢力とネオコンが、なぜそれほどまでの影響力を持ち、彼らの真の目的がどこにあるか、ということがジャーナリストとしての関心なのである。

田中さんは、それに対して善悪というような道徳的な価値評価をしていない。これもジャーナリストとしての姿勢の表れだろう。問題は、価値判断をすることではなく、現状を合理的・理性的に理解することなのである。

田中さんは、イスラエルやユダヤ系という特徴そのものがアメリカの政治を動かしているというよりも、アメリカにおけるキリスト教原理主義の考え方が、イスラエルの利益と一致する部分があるために、一見イスラエルに有利なようにアメリカの政治が動いているように見えるだけではないかという推論を展開している。

アメリカにおいては、キリスト教原理主義は、ある程度の多数派を形成していて、それが国政に大きな影響を与えているという理解をしている。田中さんのこの解釈(仮説)に対しては、僕はまだ全面的に賛成するだけの材料を持っていないので、一つの仮説としては面白いなと感じる程度なのが今の時点での受け取り方だ。

田中さんの文章をもっとよく読み込んで、他の事実をもっとよく知ってから、この解釈(仮説)をもう一度考えてみたいと思う。





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最終更新日  2004.07.22 09:25:32コメント(0) | コメントを書く


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