わたしのこだわりブログ(仮)
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夜がメインの作業時間なのに、精神と体力の消耗による疲労で一瞬にして座ったまま寝ているこの頃なのです気を付けないと、うっかり私の方が先に逝きそうです。さて、アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí)の続きです。今回はまだ未紹介であったガウディ作品、コロニア・グエル(Colonia Güell)教会から・・。エウセビ・グエルの繊維工場の為に造られたコロニー内の教会です。観光ではあまり行かないかもしれませんが、世界文化遺産に登録されています。前回、ガウデイの芸術性を考察・・なんて言ってましたが、突き詰めたら建築家ガウディのすごさが見えてきました。見るのは一瞬。でも、内容は凄いのです。建築家志望の人は「一見の価値あり教会」です。ガウディは芸術家と言う以前に建築家。建築家としての究極を突き詰めた人であったかもしれない。と言うのがテーマです。この教会を建設するにあたり、ガウディが求め導いたのは数学的考察と実践による証明。ガウディは数学の公式から導いた構造の上にガウディしか想像できない世界感を魅せた造形物で飾った。つまり、ガウディは非常に想像力のある芸術家タイプではありますが、ただの創造物を造り出すだけの人ではなく、実際に建築家としての理論的な構造がベースに据えられている事が最大の特徴なのです。要するにガウディ作品は、夢のような根拠の無い理想の産物では無いという事です。彼の作品は、未完にしても、すべて現実に完成できる作品なのです。その上で、ガウディはおよそ普通の人では考えもしなかったような非常に斬新奇抜(ざんしんきばつ)な発想の建物を多数世に出した。建築家が芸術家に転身したのか? それとも建築を芸術に高めた人なのか?と、言う点で迷う人です。アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 2 コロニア・グエル教会とカテナリー曲線エウセビ・グエルの工業コロニー(industrial colony)コロニア・グエル(Colonia Güell)教会の建設未完の訳グエル公園住宅の販売不振問題のグエル公園の家コロニア・グエル(Colonia Güell)教会カテナリー曲線の幻の尖塔カテナリー曲線(catenary)カテナリー曲線の発見者教会内部聖具と調度品デスマスクからコロニア・グエルの末路アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí y Cornet)(1852年~1926年)ガウディの手掛けた教会はサグラダ・ファミリアだけではないのです。残念ながら、こちらも未完ではありますが・・。ガウディのパトロン、エウセビ・グエル(Eusebi Güell)の依頼で1898年教会建設の依頼が舞い込む。それはエウセビ・グエルの所有する繊維工場とその労働者の為の居留区(コロニー)内の教会建築である。コロニア・グエル(Colonia Güell)教会 計画案2つ。左が1910年頃の最終案?まるでサグラダ・ファミリアのような教会になるはずであったコロニア・グエル(Colonia Güell)教会。実はこのコロニア・グエル(Colonia Güell)教会の試作があったからこそのサグラダ・ファミリアの誕生につながるのです。エウセビ・グエルの工業コロニー(industrial colony)エウセビ・グエル(Eusebi Güell)(1846年~1918年)は実業家であり政治家。1890年、バルセロナ南部サンタ・クローマ・ダ・サルバリョー(Santa Coloma de Cervelló)に自身が所有する繊維工場を丸ごと移転する事にした。※ 土地はすでに所有していたらしい。カタルーニャはグエル家の本拠。移転理由は、エウセビ・グエルがカタルーニャ復興の為に尽力していた事。また、当時バルセロナで勃発し始めた市民による社会闘争からの工場隔離だったらしい。サンタ・クローマ・ダ・サルバリョーにはもともとグエルが所有していたカン・ソレル・デ・ラ・トーレ(Can Soler de la Torre)邸(1692年築)があり、そこを中心に工業コロニーの建設は開始された。※ カン・ソレル・デ・ラ・トーレ(Can Soler de la Torre)邸はもともとファーム・ハウスです。工場自体も当時最先端の技術を装備したもの。エウセビ・グエルは、そこに工場だけでなく、工員ら家族の住環境も兼ね備えるべく開発を進めた。例えるなら村を丸ごと造るような壮大な事業であった。そこで働くすべての労働者や家族らの住宅の建設。しかも部屋は一般よりも広く住環境の快適さを追求している。また、そこには労働者の為の組合、商店、カフェ、劇場、公園、農作地、図書館、病院などの建設に加え、家族の為の学校(男子のみ)も建設されているし、そこで働く商人や先生らの住居もある。ガウディが依頼されたのは彼らの祈りの為の教会だ。※ 後に(1955年)教区の教会に昇格する。※ 現在は工場地に隣接して鉄道がある。鉄道がいつできたかは不明。エウセビ・グエルの工業コロニー(industrial colony)配置図 1910年スペイン、カタルーニャ州バルセロナ県 ムニシピ(基礎自治体)クマルカ(郡)サンタ・クローマ・ダ・サルバリョー(Santa Coloma de Cervelló)耕作地170ヘクタールの内、工場と住宅地が36ヘクタールを占めた。1910年、工場従業員のほぼ半数の500人がコロニー内の150個の戸建て住宅に居していた。生活にかかわる全てが、その中で完結できる設備を整えた工業コロニー(industrial colony)の建設は、スペイン初。また、エウセビ・グエルは農村の貧困層を受け入れコロニー内の農地で働かせたるなど彼らの生活環境を改善。また有能だった者には家を与えたと言う。(家自体の所有権は会社の物)エウセビ・グエルはコロニー内の建築物にも手を抜かなかったからそれぞれ著名な建築家が起用され、カタルーニャのモダニズム建築として今に残されている。ガウディが頼まれた教会もその一つ。コロニー建設は、エウセビ・グエルが非常に高い社会主義の理想を持っていた事が伺える大事業でもあった。残念ながら、途中、政治情勢、社会情勢からの事業計画の失敗。資金難による計画の縮小となった。莫大な資金を投じていた計画であったので工業コロニー自体は完成したが、お金のかかる所は大きく変更される事になる。コロニア・グエル(Colonia Güell)教会の建設1898年、居住者が増え、グエル家の祭室では手狭になったのだ。それ故、居住区(コロニー)内にエウセビ・グエル(Eusebi Güell)(1846年~1918年)の繊維工場労働者の為の教会の新設が決まった。教会は、意識の高いカトリック国であるスペインにおいて、労働者の生活向上に欠かせない重要な施設。その教会建築設計に白羽の矢がたったのも、グエルと仲の良かったガウディであった。すでにガウディはグエルよりいろいろ仕事を任されていた。コロニア・グエル(Colonia Güell)教会は確かにガウディ設計し建設した物件の一つなのである。が、これが? の理由は後で説明。現在のコロニア・グエル(Colonia Güell)教会団地が眺望できる小さな丘の松林に教会を建設する事を決めたのはガウディ自身である。松林を一部伐採し、1908年10月4日、教会の第1礎石が置かれた。コロニア・グエル(Colonia Güell)教会の教会建築に対するガウディの意気込みもすごかったようだ。サグラダ・ファミリアで、すでにガウディのこだわりをたくさん見せられているが、彼はこちらでも究極の教会建築に着手している。何しろ、コロニア・グエル(Colonia Güell)教会の計画案作成だけで10年も要しているのである。計画案10年。しかし、1908年、満を持して建築が開始された教会であるが、実は工事の大方は未完のまま終わっている。6年後の1914年、ガウディはこの教会建築から完全に手を引いてしまったからだ。それが上の写真に見られる現状なのである。とは言え、コロニア・グエル(Colonia Güell)教会は未完ながら2005年、「アントニ・ガウディの作品群」の一つとして、「ユネスコの世界文化遺産」に登録された。建設された部分は設計のはわずかではあるが、それだけでも他者には無い奇想な物件であると評価されたのだろう。 さすが!!完成していたらこの規模になっていたはずの模型下の手前の部分が上の写真に見られる姿。教会は地下の一部分しか完成できなかった。そもそも地下は講堂になるはずだった場所らしい。要するに肝心な教会堂の聖堂部分は全く建築すら間に合わなかったのである。冒頭の絵図のように、予定では、40m級の尖塔の立つ、5身廊のバシリカになるはずであった。未完の訳ガウディが建築を途中放棄した理由は、一部には、サグラダ・ファミリア聖堂に専念する為、と書かれているものもあるが、本家のパンフレットに書かれているのは、グエル家により、1914年に工事資金の出資中止が勧告されたからだった。※ エウセビ・グエルは1910年に引退しているので、中止勧告はグエル家の会社からかも。ガウディの計画はあまりにも壮大で、時間もかかりすぎた事。お金ももっとかかる事。はっきり言えば、グエル家は教会と言うより、コロニーの為にこれ以上のお金をつぎ込む事は出来なかったのだろう。グエル家が壮大な建築を打ち切りにした理由は、ズバリ資金難だったのである。ちょうど、この時期ガウデイはカサ・ミラ(Casa Milà)にもかかわっていた。(1906年~1910年。)カサ・ミラ中断の理由は前回紹介しているが、やはり社会情勢の一変が関係していた。※ カサ・ミラの理由は、「アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅」の中、「ガウディら建築家の悲劇」で書いています。リンク アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅グエルの繊維工場はビロードなどの生産で売り上げをあげており、決して悪くはなかった。また、諸々の建設の為にグエルはアメリカより資材を輸入してカタルーニャ初のセメント工場も創設している。問題は、社会情勢の悪化に加えて、事業の一つが多額の負債を抱えた事だった。グエル公園住宅の販売不振資金難の理由は、同時に着工していたグエル公園(Park Guell)住宅の販売不振であった。それこそが社会情勢の一変が影響している。住宅が売れなかったのは鉄道も車もない不便な立地の問題だ・・とするものもあるが、ブルジョアには馬車もある。問題はそんな単純なものじゃない。何より当時は市民のブルジョアに向けられた目が怖かった?貧富の差は、市民の反ブルジョア感情を掻き立て、バルセロナでも暴徒による破壊も起きていたからだろう。だからブルジョアは目立つ行為はせず、息をひそめていた?当時最後の植民地、キューバ(1902年独立)やフィリピン(1899年独立)を失い、国益を失ったスペイン経済は失速。欧州の他の地域が産業革命で向上する中、国が主導できないスペインでの産業革命は遅々として進まない。反対に、こんな状況でも成功するブルジョア層もいた。。仕事さえ見つけられない市民との貧富の差は開いて行く。そんな両者の背景は右派と左派と言う対立で現れてくる。右派と左派の対立は第一次大戦(1914年~1918年)後に激化し、市民同士の殺し合いに発展していく。スペイン内戦(Spanish Civil War)(1936年~1939年)勃発。(左派)政府側 共和国人民戦線 VS (右派)フランコ率いる反乱軍(ファシズム陣営)この内戦でコロニア・グエルの工場は没収されている。ファシズムの政権下で強制的に資本、土地、財産などが国に集められたのだろう。内戦の終結で返還されたらしいが・・。おそらく、他のブルジョアらも同様にスペイン内戦下では会社や資産が取り上げられていたのだろう。スペイン内戦は右派(ファシズム陣営)が勝利するも結局はうまくいかなかった。スペインが近大化を迎え落ち着くのは、ほぼ近代に入ってからだ。話が脱線したので、戻します。問題のグエル公園の家グエルとガウディが計画していたグエル公園を中心にしたパーク内のデザイン住宅60戸が計画されブルジョア向けに販売されたが全く売れなかった。グエル公園の建設期間は1900年~1914年。販売は建設前から始まっていたと想像できる。1904年、公園内に2棟のモデルハウスが建設されている。(ガウディの作品ではない)その一つを1905年にグエルの友人弁護士マルティ・トリアス・ドメネク (Martí Trias i Domènech)(1862年~1914年)が購入してくれた。それが現在のトリアス邸(Casa Trias)である。※ 中央広場から少し離れた少し高台にある。残りの一棟は、なかなか買い手が付かず、グエルの提案で1906年にガウディが購入。父と姪と3人で移り住んだ。※ 二人とも先に亡くなり、ガウディが最後1人残った。公園内中央広場の左にはエウセビ・グエルも移り住んだが、こちらの物件はもともと地主のLarrard家の屋敷を改築したものだったらしい。現在小学校になっている所がグエル邸だった。結局売れたのは2棟のみ。その為1909年にすでに資金難で公園建設も中止になっている。※ 実際、グエル公園(Park Guell)の工期は1900年~1914年までかかっているが・・。因みに、グエル公園は破砕タイル打ち込みのプレキャスト・コンクリート工法(Precast Concrete)が特徴の造りとなっている。破砕タイル打ち込みは資金難後に廃材が利用されてかろうじて仕上げに利用された工法かもしれない。ところで、建設の中断が決まった翌年(1910年)、エウセビ・グエル(Eusebi Güell)は伯爵に叙されたが、同時に現役引退し公園内で隠遁生活に入っている。エウセビ・グエルが1918年に亡くなると、1922年に公園はバルセロナ市に寄贈されグエル公園となったのだ。※ 寄贈したのは遺族、エウセビ・グエルの息子と思われる。息子らはグエル伯爵家とコミーリャス伯爵家の爵位を持ち政治家にもなっている。アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí y Cornet)(1852年~1926年)の没年から考えると、ガウディが生きている時にすでに公共の公園になっていたようだ。コロニア グエル(Colonia Güell)教会時系列で見ると、そもそも教会の着工時点(1908年)でグエルに資金難は見えていたはずだ。その時点で教会建設を続行させたのがある意味不思議。 言えなかったのかな?構想段階でガウディの作品は工期も、お金も無限にかかりそうな予感がするのにね。それでも中止勧告まで、グエルは一切の注文をつけなかった事から、制作の全過程を通してガウディが理想とする建築ヴィジョンが貫かれた作品となっているらしい。まさしくガウディの作品として評価されている訳です。おそらく、ガウディはお金の事は一切考えなかったと思われる。制約なしに彼の理想を詰め込んだ傑作であったかもしれない。当初予定の40mの中央塔を備えた上部身廊と下部身廊の2身廊からなる壮大な教会の建築の完成を見る事はできなかったが・・。下部身廊だけでも、比類ない奇抜な教会にはなっている。※ 幻の教会尖塔については後で触れます。玄関ポーチポーチの横には半地下の待合所1898年 教会建設の依頼~構想10年1908年 着工1914年 工事資金の出資中止が勧告。ガウディはこの時点で手を引き弟子にまかせた。1915年 上部身廊は未完。唯一工事の終わっていた身廊下部を礼拝堂に転用。11月にバルセロナ司祭による竣工式が行われた。 それ故、下部の身廊は「地下礼拝堂」と呼ばれるようになった。1915年~1917年 別の建築家によって、セメントの屋根とレンガ造りの上部身廊の壁が加えられる。玄関前の柱(上の写真右)のみ玄武岩が使用され、この支柱でポーチ全体を支えている。玄関前のちょっとじゃまな場所にあるのはその為なのだ。中央玄武岩の柱以外はレンガ造りの柱。それらには破石被覆(はせきひふく)が施され、周りの松の木の幹に似せている。もともここが松林を伐採して造られている事からか? 柱も 教会壁の石積みも周りの松に同化させる為?松林が意識されているのは明らかだ。ガウディ作品は奇抜ではあるが、環境に対する配慮もされてのデザインらしい。モザイクのみで表現されているティンパヌム(tympanum)あたるドア上の装飾。ガウディ作品ではよく使われる語であるトレンカディス(Trencadis)。トレンカディス(Trencadis)とはカタルーニャ語です。要するに破砕タイルによるモザイク画の事です。スペインではイスラム支配の時代の影響から西洋とイスラム文化が融合したチャンポン文化が生まれている。それがある意味スペインらしさですが、スペインではイスラムの完璧なタイル貼りが主流? だったのかもしれない。モザイク画はそもそもローマ時代から存在する。ヴィザンチン時代のモザイク画の芸術性は高い。それはイスラム文化にも継承されたが、イスラムから逆輸入? されたモザイクはスペインでは割と目新しかったのかもしれない。たまたま予算不足のカバー? も含めて、売れない割れタイルを引き取り、さらに砕いてモザイク貼りをしたガウディの作品は、トレンカディス(Trencadis)が、ずいぶんクローズアップされているが、要所要所のカラーリングや使い方はともかく、モザイク自体はそれほどの物じゃない。ガウディのすごいところはそこじゃない!!外壁と鐘楼ステンドグラスで閉じられた窓も全てに工夫が・・。窓の金網にも文様が・・。いちいちオシャレです。どうも織り機のスクラップを編んで利用されているとか。もともとここは繊維工場だったから・・。下部のステンドグラスがまるでプロペラのように角度を変えて・・。中から見たらこんな秘密が・・。ステンドグラスにこんな発想をもたせるなんて・・。主階段、玄関ポーチ立面図鉄鋼スラグや焼成しすぎの黒いレンガが利用されている。未完の上部身廊(聖堂)ができるはずだった所は1916年~1917年に閉鎖する事になりレンガと石綿セメントのフラットな屋根が左官屋によって造られた。1902年にガウデイが考案した鍛鉄製の十字架の1970年製のレプリカ。もともとはバルセロナのミラージェス別荘の塀の上に飾る為に考案されたデザインだったらしい。修復の度に移転しているもよう。下左 ここにできるはずであった聖堂の計画案。下右 現在の地下の聖堂。カテナリー曲線の幻の尖塔先に「完成していたらこの規模になっていたはずの模型」を紹介した。実はこれは「カテナリー曲線(catenary)」にのっとって造作された模型なのである。ガウディは今までの教会建築に造形的な不満を持っていたのだろう。高くそびえるゴシックの尖塔(せんとう)は素晴らしい代わりに、構造的にどうしても保護の支えが必要になる。それはフライングパットレスなどの支え壁である。それを「美しく無い」「余計な物」と感じたのかもしれない。※ ノートルダム大聖堂パリ(Cathédrale Notre-Dame de Paris)はフライングパットレスだらけです。とは言え、ロマネスクのドームでは高さに限界もあるし、尖塔には向かない。そこで目をつけたのが懸垂曲線(けんすいきょくせん)とも呼ばれるカテナリー曲線(catenary)による公式で導いた構造物である。普通の人は考えも及ばない発想ですカテナリー曲線(catenary)カテナリー曲線は、鎖やロープなどを水平に張った時に自重でたわんだ時にできるU字曲線がそうである。我々の身近では送電線を吊った時に起こるたわみがその現象であり、送電線のたわみを一定に維持する方法としてカテナリー吊架(ちょうか)が利用される。※ 「鎖」を意味するラテン語「catena」から由来している。ところで、このカテナリー曲線は重力下で起きる現象である。それ故、重力と両サイドからの圧縮力が力学的にバランスをとっている状態であり、これは逆さにしても同じなのだそう。アーチ構造はまさにそれであるが、ガウディはこれを利用してアーチを最大限、突(とつ)ったのである。下は参考にウィキペディアからお借りしたカテリーナ曲線による放物線の例ですが、ガウディが利用しようとしたのがグリーンのラインのような突出した形のアーチです。下は、カサ・ミラ(Casa Milà)で撮影。ガウディの「逆さづり構造模型」を示す為に造られた簡易モデルの吊るされたクサリ。右は天地を逆にしたものです。ガウディはコロニア・グエル(Colonia Güell)教会の建築の為、実際に天井から吊るしながら逆さにデザインを考案していた事がわかっている。※ ガウディはそれをサグラダ・ファミリア(Sagrada Familia)建設の為の事務所で実験していた。要するにガウディはこの構造研究の為、コロニア・グエル(Colonia Güell)教会の構想に10年を要したのである。結果、その間に時世はどんどん悪化。建築は地下だけで終わってしまった。幻(まぼろし~) の計画となったのだ。最も、この構造研究は、サグラダ・ファミリア(Sagrada Familia)建設やカサ・ミラ(Casa Milà)で役立たされている。以下はカサ・ミラ(Casa Milà)の屋上部を支える屋根裏。カテナリー曲線の発見者ヨハン・ベルヌーイ(Johann Bernoulli)(1667年~1748年)スイスの数学者。※ カテナリー曲線の方程式を発見(1690)。また指数関数の微積分法を確立(1691年)し、ロピタルの定理を発見(1696年)。ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)(1646年7月1日~1716年)ドイツの数学者、哲学者。※ 微積分法発見。現在使われている微分や積分の記号は彼によるところが多い。今から300年以上前の17世紀にはこんな難しい事を考えて、理論を構築していた人がいた。ガウディはこの理論に着目して、しかも逆さに応用しようとした発想がすごい。芸術家はデザインを考えるが、建築家はデザインをどう構築するかまで考えなければならない。それには物理と数学が必須なのだと改めて思う。ガウディはカテナリー曲線から導かれる数値に着目しながらデザインをさらに深めてコロニア・グエル(Colonia Güell)教会をデザインした。先に紹介した1910年頃の最終案ガウディの事だから、建築中にまた改築して、デザインが変わったかもしれない事は想像できる。もともと金銭的に不可能であったかもしれないが、本当に建築されていたら評価は世界遺産だけではなかったはず。ロマネスクでも、ゴシックでもない教会建築。カテナリー(catenary)・スタイルとか、ガウディ・スタイルとジャンルされたかもしれない。教会内部下部身廊は上の写真に見られる4本の玄武岩の柱でほぼ支えられている。この教会には、今までの教会に必ずあった控え壁やフライングパットレスなどの支え壁が存在しない。先に紹介したカテナリー曲線(catenary)と傾斜柱によって空間をシンプルに保つ事を可能にしている。アーチの曲率は外壁への側面荷重を縮小。柱の傾きも同じように最大鉛直荷重を軽減する。※「鉛直」・・重力が働いている方向の事。要するに、敢えて柱はまっすぐ立たせていないのだ。聖具と調度品ガウディはコロニア・グエル(Colonia Güell)教会から手を引く前に聖堂内の装飾品を制作して設置している。聖水盤(2つ)、ベンチ(20数脚)、聖器室の扉。聖水盤上からの写真しかなくて・・。柱に鉄で取付けられているので下にも支えの鉄が装飾されている。本当にオオシャコ貝を使っているようですね。これはフィリピンのルソン島から運ばれた。これを運ん船はグエルの義理の父(コミーリャス侯爵)が経営していた開運会社のトランス・アトランティカ社。入口近くの柱、左右に取り付けられている。ガウディ考案のベンチ現在のものは複製品。1913年~14年に20脚造られ、13脚が保存されている。上の写真からは見えないが、ベンチの後方には、後部座席の人がヒザをつく懺悔台が付属している。オリジナル・デザインには無かったものらしい。ガウディが手を引いた後に教会は聖具の購入をしているがどれもこの聖堂に合ったものとは言えない不揃い品。エウセビ・グエルの寄贈品 無原罪の御宿 18世紀の木彫モンセラートの黒マリアを模した聖母子像1965年制作。制作者はカタルーニャ人建築家イシドラ・プーチ・ボアダ(Isidre Puig Boada)(1890年~1987年)。彼はガウデイと共にサグラダ・ファミリアの建築に携わっていた建築家。また、黒マリア像の置かれているモンセラート自体がガウディがかつて携わっていた教会。ガウディに対するリスペクトが込められているのかも。※ モンセラートは前回少しふれています。リンク アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅そもそもガウディが望んだ聖堂は建てられず、無念のリタイアとなったが、それでも完成している部分をうまく活用してコロニア・グエル教会は1915年に竣工式を迎え、1915年~1917年に天井屋根が取り付けられて完了となった。完成している部分だけでも、比類無い空間に世界文化遺産に登録されているのだ。カテナリー曲線(catenary)を利用したガウディの考察力。もはや「凄い」とだけしか言えない。デスマスクからアントニ・ガウディのデスマスクから造られた頭部像グエル公園内、ガウディ博物館からこれだけの偉業を残してくれたガウディの最後はちょっと悲しい。父も姪も亡くなり、1人残されたガウディ。グエル公園の家をすて、サグラダ・ファミリア内で寝泊まりをするようになっていた。1926年6月7日、自由の利かなくなった体をむち打ち、サグラダ・ファミリアからいつもの聖フェリプ・ネリ(Sant Felip Neri)教会に祈りに出かける途中、双方から来る路面電車をよけきれずにぶつかり、肋骨骨折、右足に打撲、重度の内出血を負ってしまった。その時の彼はあまりにみすぼらしいカッコだったので、身元はすぐにわからなかったそうだ。病院(L'Antic Hospital de la Santa Creu i Sant Pau)に運ばれたが、3日後の1926年6月10日に亡くなった。享年73歳。今なら早すぎる死である。最後ま信仰心を持って教会(神の家)を建設していたガウディ。これだけの偉業も後世に残してくれた人なのに、神の対応は冷たいよ。因みに、彼の墓はもちろんサグラダ・ファミリアの聖堂地下にある。コロニア・グエルの末路コロニア・グエルの繊維工場は1943年に売却されグエル家から離れた。1973年繊維工業全体の不振から、コロニアの工場も閉鎖され、所有権は住宅、企業、公共団体などに分売されている。もはやコロニア・グエルは無くなったが、ガウデイの教会は未来永劫ここに残る。Back numberリンク アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅 アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 2 コロニア・グエル教会とカテナリー曲線
2024年03月03日
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