わたしのこだわりブログ(仮)

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2009年12月12日
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その本家がザルツブルクにあるのです。
なぜザルツブルクなのかは、今回の話から始まるのです。

オーストリア共和国(Republic of Austria)
ザルツブルク(Salzburg)
ヴォルフ・ガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)
(1756年1月27日~1791年12月5日)

この間の命日で、中央墓地のモーツァルト像をしたところですが・・・。
オーストリアと言えばあちこちモーツァルトなのだな・・・と感心スマイル

モーツァルト・ハウス(Mozarts Wanhaus)
ザルツブルクと言えば、モーツァルト抜きには語れない街です。
何しろここは、モーツッルトの生まれた家と育った家があり、観光の目玉となっています。

要するに モーツァルトはザルツブルクの出身者 なのです。
彼が25歳の時(1781年5月)に、ザルツブルク大司教と衝突(待遇の悪さに腹を立てたらしい)、解雇され、 ザルツブルクを捨ててウィーンに定住を決意するまでは・・・。
(彼はザルツブルクを捨てたのです・・・。)

モーツァルトの生まれた家
彼の父は1747年~1773年まで、「狭い狭い」と言いながらもここを26年間借りていました。
モーツァルト生家 1
ゲトライデ通り9番地にあるこのアパルトマンの4階でモーツァルトは1756年1月27日に誕生 したそうです。

本当はこの家で7人生まれたそうですが、育ったのはモーツァルトと姉のマリア・アンナだけだそうです。
モーツァルト生家 2

大家はザルツブルクの食料雑貨商ヨハン・ロレンツォ・ハーゲナウアーで、この大家はモーツアルト家の演奏旅行の援助もしてくれたようです。

そして、 モーツァルトの幼少期のエピソードが伝えられるのも、この大家とモーツアルトの父レオポルドの文通のおかげ なのだそうです。

例えば、1762年10月16日付けのハーゲナウアー宛の書簡
「ヴォルフガングは、女王陛下(マリア・テレジア)のひざの上で飛び跳ね、首にまとわりついて何度も接吻したりした。」
と、誇らしげに記されているそうです。

この時に女帝から賜った礼服を着て翌年1763年に描かれた肖像画がここにあります。
モーツァルトの肖像 1
中は撮影禁止なので、パンフより撮影。

タンツ・マイスター・ハウス
1773年、17歳の時にマカルト広場 8番地にあるタンツ・マイスター・ハウスに引っ越 しです。
手狭なゲトライデ通り8-9番の家からの引っ越しに手間取ったのは、度重なる演奏旅行で先送りされていたからのようです。
モーツァルト・ハウス 3
こんどの家は 8部屋付きの家
この家ではザルツブルクの宮廷音楽家を呼んで、親交を深める事ができたようです。

ここでは、交響曲、セレナーデ、デイヴェルティメント、5曲のヴァイオリンとピアノの為の協奏曲が作曲。

1778年7月に母がなくなり、
1781年5月にモーツァルトはウィーンに移り、
1784年8月に姉のマリア・アンナが嫁いでいなくなり、

寂しいこの家で父レオポルドは一人で暮らしていたそうです。そして、
1787年5月に父レオポルドが亡くなり、「モーツァルトの住まい」はザルツブルクから無くなった のです。

実際、この家は200年、波瀾な運命をたどり、1944年に爆撃されてほとんどが破損。
1989年にモーツァルテウム財団が世界中の音楽ファんとモーツァルト・ファンに寄付を呼びかけ1996年に再建 されています。

現在は展示館となっています。
日本の生命保険会社が特に多額の寄付をしたせいでしょうか、ヨーロツパにしては珍しく、日本語の解説が充実しているようです。

ザルツブルクの街
ザルツブルクの街 1

タンツ・マイスター・ハウスは、川の向こうの小さな森の前当たり?
ゲトライデ通り9番地の家はこちら岸で、写真前のとんがり屋根の先端でちょうど見えない。

次回モーツアルト・クーゲルにつづく。






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Last updated  2009年12月13日 00時14分38秒
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