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今回は織田信長公の墓所として最も本物が納骨されていそうな墓所の紹介です ![]()
本能寺の変の時、すみやかに本能寺にかけつけ、明智軍の目を盗み、信長公の遺骨を持ち出して自らの寺に隠した? (埋葬した)と伝承されている寺
なのです。
(実はこの寺、近年までほぼ地図にも載っていなかった。)
現在、寺は御所の北、寺町通り沿い京都市上京区鶴山町にあります。
墓地を有する一見普通の寺なのですが、実は本能寺の変の 当時はかなりの広大な寺領(八町四方の境内と塔頭11ケ寺)を有し境内に市もたつ寺町を形成するような大寺だった
ようです。
前 に紹介した 豊臣秀吉の御土居(おどい)建設と街の整理と言う名目で 寺領を大幅に縮小され1587
年(天正15年)現在の場所に移転させられている。
信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)
蓮台山 阿弥陀寺の場所
蓮台野にあった阿弥陀寺の役目
無縁所 阿弥陀寺
浄土宗 、蓮台山 阿弥陀
寺
。
法然上人が開山した 知恩院が総本山で、その末寺
にあたるらしいが、寺の伝承にある信長公との特別の縁については確証が見つからない。
もし接点があるとすれば戦没者を弔って回る清 玉上人(せいぎょくしょうにん)に信
長公より特別の配慮と寄進があったかもしれない事だ。
現在の寺は京阪線の出町柳駅から割と近い。寺町通り沿いにある。
最初は近江国坂本(滋賀県)にあったとされる。 開祖は清玉上人(せいぎょくしょうにん)
1555年、細川家家臣、飯尾元運の協力で近江より上洛。
京では管領代(かんれいだい)の旧跡、芝薬師町に寺を創建
。(現在の今出川大宮)
管領代は細川家のみの官職。細川晴元と将軍足利義輝に仕えた三好長慶(みよしながよし)の管轄下に入ったようだ。
少なくとも1560年には室町幕府により千部経読誦も行われているので当初は足利幕府のバックアップもあったかもしれない
。
しかし1564年に三好長慶が亡くなり1565年に13代足利義輝が亡くなってからは不明。何しろ三好の家督を継いだ甥の義継と、15代足利義昭と彼を擁立した織田信長とは敵対関係になるからだ。

本堂には織田信長、信忠父子の木像等が安置されていて、毎年6月2日には「信長忌」の法要があり、堂内も参詣する事ができるらしい。
寺領の位置確認です。秀吉の 御土居(おどい)の時の地図に足しました

A・・阿弥陀寺 a・・現在の阿弥陀寺(1587年移転)
H・・本能寺 h・・現在の 本能寺(1592年移転)
M・・妙覚寺(織田信長嫡男、織田信忠が宿坊していた寺)
D・・大徳寺(秀吉が葬儀をした寺)
J・・聚楽第(1587年築の秀吉の平城)
蓮台野にあった阿弥陀寺の役目
当初の阿弥陀寺の場所は西は智恵光院通り、東は堀川通り、北は寺之内通り、南は今出川通りあたり。
前回紹介したように船岡(舟岡)山麓はもともと遺体捨て場に近い古来の風葬地。
仏様の座る蓮華座から転じた蓮華台。略して? 蓮台と野が合体して蓮台野は葬送の地名になった。
貴人の火葬場のあった船岡山西の麓(蓮台野)に向かう千本通りは遺体を運ぶ道となり供養の為に千本の卒塔婆が建てられそれが通りの由来に。(紫野とは冥途の入口とも・・)
1555年蓮台野に近いこの地に無縁所で,墓所たることを認められて阿弥陀寺が創建されたようだ。
阿弥陀寺の山号は蓮台山。つまり最初から供養の寺として創建されている。
応仁の乱(1467年~1477年)の後をひきずっていた京都、しかも時は戦国の時代である。
阿弥陀寺の 清玉上人(せいぎょくしょうにん)は行き倒れの者はもとより、戦場で無くなった兵士の遺骸をこの寺に集め葬り供養していたと思われる。
清玉上人はまさしくその為に京都に呼ばれて寺を創建したのではないかと推察する
。
墓地入り口(工事中でした。)

本殿裏手に広がる墓地は表側から見るよりもかなり横に広い。

それにしても墓地バックの家々はいただけない
昔は御土居(おどい)があった場所かもしれない。
誰かが3000坪あるらしい・・と言っていた。
立て札には 「織田信長公 本廟」とある。 左手側に家臣森蘭丸らの墓石が並ぶ。

森蘭丸はちゃんと今もそばに居る。


1917年(大正6年)、信長公の位階追陞(いかいついしょう)の件で宮内庁が来訪。
宮内庁の公式記録では
1582年(天正10年6月)に従一位太政大臣を贈位贈官。
1917年(大正6年11月)に正一位を贈位 と、なっているらしい。
これは信長公の廟がここが本物だと認定された事を意味している
。
右が織田信長の墓、左が二条で切腹した嫡男 織田信忠の墓。

本当に二人の遺灰が入っているかは定かではない。(移転もしてるし・・。)
ただ、 清玉上人が本能寺や二条より戦没者の遺骸を引き取り弔いをして旧 阿弥陀寺にて埋葬された事は確かとされる。
無縁所 阿弥陀寺
無縁所と言うのはおそらくこの寺がどこの権力下にも属していない・・と言う事で、寺内不可侵の権限を認められた寺だったと言う認定?
だから宗派関係無く、敵も味方も関係無く、誰でもこの寺に入る事が許され、逆に 1度なりと入った者は寺によって守られた・
・と推察。(だから信長の遺灰を渡さなかった? )
戦いがあれば遺骸の収容に戦場に赴き、敵味方関係無く弔い、災害が発生している場所に赴く事もあったろう・・。本能寺の変ははまさにそれだったかもしれない。
本能寺の変の時
1582年(天正10年6月2日未明)明智光秀は主君織田信長公を急襲、本能寺に火の手が上がる。
寺が燃える黒煙は阿弥陀寺からも見えたはずだ。
二条の屋敷か? あるいは妙顕寺か? 妙覚寺か?
清玉上人は阿弥陀寺の塔頭の僧侶や門徒を連れて黒煙の方向に進む。
本能寺が現場だと言う事に気付いたのはおそらく近くに来てからの事だったろう。
何にしても阿弥陀寺から本能寺まで徒歩で、かつ荷車を引いていたとしたら1時間じゃすまなかったかもしれない。 上人が到着する頃にはすでに事は収まり寺は完全に焼け落ちた後だったと推察できる
。
(ひっとすると種子島からの火薬の備蓄もあったろうから爆発も起きたかもしれない。)
北から近づくので本能寺境内は当然裏手門が近い。
阿弥陀寺住職が死没者の遺骸を引き取りに来た・・と言えば中に入る事は容易かったはずだ。
なぜなら阿弥陀寺はそう言う寺だったからだ。
そして、そう言う和尚 故、 たまたまどさくさの中、信長公の家臣より? あるいは本能寺住職により遺骸を預かった可能性がある。
「本能寺にて討死にせる者と、同じく二条城にて自刃せる嫡子信忠公、並びに討死した者らの供養する事を申し出、百十余名を収容し、各々法名を授与し丁重に葬り、合祀位牌を作成し弔った。」
次回
つづく
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信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)
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リンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)
リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)
信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)
リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)
リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓
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