わたしのこだわりブログ(仮)

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2015年07月01日
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リンク先の追加をしました。

一昨年ロンドンからベルギーまでユーロスターで移動。その時、ロンドンのセント・パンクラス(St Pancras station)駅のセキュリティーが空港並だったのには驚かされました。
が、あちらは国際列車です。だから空港並警備も当然か・・。
※ 2013年09月「ユーロスター(Eurostar)」でセキュリティーをこっそり写真撮ってました ぽっ

それにしても非常識すぎる今回の事件。誰も想定などできなかった。人に迷惑だけは掛けてはいけない・・が日本の母の教えだったはずなのに しょんぼり
自分ご都合主義のテロリストに対処する方法は無いのかもしれない。


信長の墓所 ​4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)​

阿弥陀寺説の疑問
本能寺で消えた信長公

清玉上人(せいぎょくしょうにん)の廟  
pict-阿弥陀寺 11.jpg
信長公の墓所よりずっと右奧方面に置かれて居る。
pict-阿弥陀寺 12.jpg
生没年が不明。
石山本願寺や延暦寺の非道な坊主より、和尚として本来の使命を全うされた素晴らしい方だったに違いない。

阿弥陀寺説の疑問

阿弥陀寺が語る信長公との縁について疑問がある
「信 長公記」に阿弥陀寺に関する箇所は見つからない。

1. そもそも阿弥陀寺は信長の上洛よりずっと前に京都に創建されている。(信長の上洛は1568年(永禄11年10月))
信長が京都に呼んだとか、逆に信長の上洛を手助けしたとか言う事実は無いだろう。

.また 信長が阿弥陀寺に帰依した件 は、 らかの理由により信長公より寺に寄進があったと推察。寺はそれをもって「帰依した」と解釈 しているのだろう。
何らかの理由とは、戦死した部下達の弔いの件か? あるいは将軍の代替わりに際しての挨拶の時に事情を知った信長から寺の維持費を賜ったか・・と言うところだろう。

3. 阿弥陀寺が本能寺より織田家臣の遺骸を持ち帰れた理由 は前回説明した通り。
阿弥陀寺はそう言う寺であり、誰も不審に感じ無かった 事があげられる。

4. では 自害した信長の遺骸をたまたま焼いている所に清玉上人が遭遇? ・・と言うのはどうだろう。
これは全くあり得ないと思う。なぜなら 上人が到着する頃には100%寺は焼け落ちていたはずであり、まして日中である。裏の竹林で落ち武者が遺体を焼いていたらいくらなんでも目立ちすぎですぐに見つかったはず 。(6月の日出は早い。本能寺の変は現在の暦で6月21日)
だいたい木材だけで遺体を焼くのに何時間かかるか・・と言う点においても疑問しかない。

5.白骨を法衣につつみ・・・帰寺し白骨を深く土中に隠しおきたる 。の件
そもそも変の当日に 信長と断定できる遺骸のどこか一部でも持ち帰る事ができたのか? が最大の問題である。後日たまたま見つかった・・なら解らなくもないが・・。

6. 秀吉が真っ先にやって来た件 は、遺骸の引き取りを行った寺が阿弥陀寺しか無かったからだろう。
信長公の遺骨を出せ!  と、本当に言ったか? が、まず疑問である。
秀吉は本当に 信長公の 遺骸が阿弥陀寺にあるのか? 当初から阿弥陀寺にある・・とウワサされていた件に関して確認の為に行
ったのではないか?
秀吉は信長公の遺体が見つからない事を承知していたのではないか?  と思われるからだ。

7.阿弥陀寺で葬儀を執り行いたい。と、秀吉より申し入れがあった。・・と言う件 。・・これも実はあり得ないと思っている。
秀吉はもともと大徳寺を想定していたはずである。
申し訳無いが、信長の葬儀を盛大に行いたい秀吉にとって阿弥陀寺では寺の格が低すぎるからだ。(阿弥陀寺は庶民派の寺である。)


8.阿弥陀寺の場所が秀吉の怒りで縮小され移転された件。 これは前回も書いたし、 秀吉の御土居のところでも説明している通り、秀吉の都市改革の一環で洛中の寺のほとんどが寺町通り沿いか洛北の寺之内に移動をよぎなくされているから特別な沙汰ではない
寺領に関してもみんな小さくなっているし・・。(阿弥陀寺が特別大きかったのは無縁墓地が拡張して行ったからではないか?)


阿弥陀寺に伝わる「信長公阿弥陀寺由緒之記録」なるものは宝永の大火(1708年)or天明の大火(1788年)で寺と共に消失していて、その後に造り直されたものらしい。その時に寺の箔付けに話を盛ったのではないか? と推察する。



唐銅香炉「三足の蛙」 本能寺宝物館所蔵  内部撮影禁止なのでリーフレットの写真から借りてきました。
pict-三足の蛙.jpg
本能寺の変の前夜、突然泣き出して危険を知らせた・・と伝承される香炉がこれである。
三足の蛙はもともと後漢書の伝説より生まれた蟾蜍(せんじょ)と呼ばれる月に住むヒキガエル(月の精)だそうだ。
もとは天女だった姮娥(こうが)が西王母より不老不死の薬を盗んで月に逃げてヒキになったらしい。
※十五夜の元となる「月でうさぎが杵(きね)を突く」のウサギが実は姮娥(こうが)が杵(きね)を突いて不老不死の薬を造っている姿らしいのだスマイルなぜカエルでなくウサギに変わった?


本能寺で消えた信長公
明智光秀がさんざん捜索したにもかかわらず信長公の遺骸は見つからなかったようだ。
だからこそ 家臣の遺骸の中に信長公が混じっていた可能性は大である
何しろ焼け落ちた寺の残骸の下には信長はじめ小姓達の炭化したであろう遺骸が折り重なってあったであろうから・・。

信長公記によれば、信長は最初は応戦したものの、手傷を負い、弓の弦も切れ、覚悟を決めて納戸に入り中から扉を閉め切腹したとされている。( 以降の事は書かれていない。)
一方、二条で応戦した嫡男 織田信忠の方は 「私が腹を切ったら縁の板を引きはがし遺体を床に入れて隠せ」と言い介錯(かいしゃく)は鎌田新助に頼み彼はそうした。隠した 遺骸は後に荼毘に付された と書かれている。


信長公がかつてライバルの首を取った時の事を考えれば、自らの時の事も想定していたはず。
二条の信忠のように隠して後に同じように掘り起こされてひっそりと荼毘に付された可能性は信長の場合も考えられる

しかし、信長は介添えを伴っていない。一人で入った先は納戸である。
遺骸を敵に渡さない最善の策が一つある。
爆死である。

「信長の墓所 1 (本能寺)」の時に紹介したが、本能寺の特殊性は種子島ルートの武器と火薬が手に入る事だ。(つまりここは織田家の宿所だけでなく武器の補給庫でもあった。
)

信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)
中国に赴く秀吉や光秀が持って行っていたとしても、まだこの寺には多少の火薬が備蓄されていたはずである。そして万が一の時に備えて準備していた事も十分考えられる。

信長公は切腹の後、爆死。時をして本能寺は焼けて屋根が落ちて全焼。
遺体のかけらさえ残らず燃えて、何も解らないように焼けて消えてしまったのではないか?

・・と、言うのが私の推論である。

つまり 信長公の遺骸は本能寺と共に本当に灰燼(かいじん)に帰してしまったと 言う結論になる。

秀吉は本能寺の火薬の事は当然知っていた。もしかしたら親方がどのように最後を遂げるか・・も聞いていたかも知れない。
だから彼は本能寺の灰と、香木で彫った信長公を納めた棺を荼毘に付した?
そう考えると全ては納得がいくのである。


日本最古の種子島銃(火縄銃)・・・下段
pict-最古の火縄銃.jpg
天正11年の年紀がある信長、秀吉に仕えた家臣の火縄銃だそうだ。
偶然入った大徳寺塔頭 龍源院にて撮影。

信長の墓所・追加
リンク ​ 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓

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リンク ​ 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)
リンク ​ 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)
リンク ​ 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)

​リンク​ ​ 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓

リンク ​ 大徳寺と茶人千利休と戦国大名






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Last updated  2020年12月06日 16時24分52秒
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