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「信長の墓所」は前回で終了ですが最後に書き残した(追記)分を載せました。
「
信長の墓所(追記) と 細川ガラシャの墓」から
タイトル変更しました。
写真は「大徳寺塔頭 高桐院」です。
ここは細川家の菩提寺で光秀の上司、細川藤孝の墓と嫡男忠興、それにガラシャ夫人のお墓があります。
信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓
信長の墓所(
追記)
大徳寺塔頭 高桐院
細川ガラシャの墓
信長と義昭
織田信長の上洛は1568年(永禄11年)。
本能寺で滅 するのが1582年(天正10年6月)なので正親町(おおぎまち)天皇(1517年~1593年)の在位期間(在位1557年~1586年)にすっぽり治まっている
。
この時代の将軍は室町幕府の13代 足利義輝、14代 足利義栄、15代 足利義昭である。
信長の上洛は足利義昭(あしかがよしあき)の依頼により将軍になる為のサポートをした事に始まる。
信長が畿内、隣国を平定。義昭を伴い上洛。
1568年(永禄11年10月22日)内裏に参内して義昭は15代目の征夷大将軍となった。
すべて信長のおかげであった。
さらに信長は将軍御殿と荒廃した内裏の修理も行っている。
朝廷に対しても将軍に対しても特別に敬意を示している事がうかがえる。
また当時逼迫していた宮中の収入面においても今後困る事がないよう配慮した対策をしている。
実は信長はかなり律儀で気配りのできる男だったようだ。戦いの都合、信長が焼き払った村や町にはちゃんとお金を渡し、後の税の軽減もしていたようだし・・。(信長公記より)
ところが将軍 足利義昭の方はとんでもなくわがままで嫉妬深く非礼な男だった。
1573年(元亀4年)将軍義昭が信長との約束ごとをことごとくやぶり問題行動を連発
。
義昭は信長に対して今までの恩に報いるどころか謀反を起こしては結局和睦し、またすぐに裏切る。
かくして1573年(元亀4年7月)将軍義昭は信長反対派を集めて挙兵するもあっさり敗北して降参。都より追放された 。
道理の通らない事象に関しての信長の切れ方はハンパなかったがさすがに殺すのは問題有りと考えたようだ
。
もはや義昭に従う公家も無し。それでも 朝廷もなぜか義昭の将軍職を解くことはなかった
。
(1336年より続いてきた足利幕府をどう扱ってよいか皆解らなかった・・と言う所が本音か? 正式な彼の退位は秀吉の時代に入ってからになる。)
もともと朝廷は単なる形式だけのトップ。幕府が実質国を統治していたわけであるが、その幕府ももはや自力で何もできない体たらく。将軍職はお飾りの世襲制になっていたが 棚
からぼた餅で予定外に将軍になれた義昭はその職を非常に享受していた。
それ故、都への出禁となれば信長への恨みはかなり強かっと思われる。
明智光秀の立場
ところで 明智光秀は信長の上洛(1568年)時点では室町幕府を支える直臣の細川藤孝の家臣だったようだ。
つまり幕臣だった わけである
。
細川藤孝は13代 足利義輝に仕え信長の擁立した15代 足利義昭にも仕えている。
そんな関係もあり 光秀は義昭が将軍になると義昭方(幕府方)の元で事務処理を担当していたようだ
。
今風に言うとおそらく細川の命で将軍の秘書として出向? と言うところだろう
。
(信長公記では1569年(永禄12年)義昭の居る六条の御所が三好らに包囲された時に御所の中で抵抗した勢力として明智光秀の名が出ている。
また明智憲三郎氏の著書でも幕府方を明智光秀、信長方が朝山日乗と、二人が朝廷との間の事務処理をしていた事が示されている。)
ではどこから明智光秀は信長の家臣になったのだろう?
信長公記では1570年4月(元亀元年は4月から)には信長の命で家臣のように働いている記述がある。
すでに信長の家臣になっていたのか?
ひょっとすると光秀の給料は細川からでも出向先の義昭の事務所(幕府)からでもなく信長から支払われていたかもしれない。
もしそうであるなら光秀は主君を3人持っていたわけで立ち位置が難しかったはずだ。
1571年(元亀2年9月)比叡山焼き討ちの際は光秀はなぜか幕府方でなく織田方で出陣。焼き討ち後は滋賀郡をもらい坂本に居城を構えている。
もしかしたらこれが正式に信長の家臣になった印か?
1573年(元亀4年)信長が義昭に送った17ヶ条の意見書の中に明智光秀の事が登場してくる。
「光秀が所領で徴収したお金をそこは延暦寺領だからと没収した件は不当だ。」
信長は光秀に対する不当な対処を批判しているのである。
義昭は信長に対して友好的な者に非情な態度をとる・・同じく17ヶ条の意見書の中で指摘しているが、実際信長に可愛いがられ、所領ももらった光秀を憎んでいたのではないか?
また、所領ももらった光秀は普通であれば信長の家臣になったはずなのだが、義昭はそう思っていなかった? かもしれない。
誰の家臣かはっきり明確にされていないまま光秀の存在があった可能性がある。
だから・・と言うのは突拍子かもしれないが、 本能寺の謀反はこうした光秀の微妙な立場が関係していて起こされた事件だった可能性も考えられる。
今や光秀が天下をとりたかったとは思えない。
光秀をそそのかした黒幕の存在。あるいは光秀を脅して決起させた黒幕の存在。あるいは光秀を追い詰めた存在がいたはずだ
。
ひょっとしたら、最初から光秀はスパイとして信長の家臣として送り込まれていた可能性も考えられる
。
言わずもがな、何となくそこに見え隠れしている誰かは形勢の良い方にすぐに鞍替えしてきた元上司である。
(完)
大徳寺塔頭 高桐院 (こうとういん)
1601年(慶長
6年)
に嫡男 細川忠興が父細川 藤孝の菩提を弔う為に、また細川家の菩提寺とするべく建立。
忠興は、千利休門下の茶人なので茶室や庭が特に素晴らしい寺でした。
細川 藤孝(ふじたか)(1534年~1610年)
光秀を見捨て変の後に出家。幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と名乗る。嫡男 忠興の嫁として来た玉(ガラシャ)は光秀の娘。
実は信長の勧めによる縁談だったそうだ。(1578年 天正6年婚)
細川 忠興(ただおき)(1563年~1646年)
ガラシャの夫であり利休七哲の一人
。号は三斎
こちらの寺は外の門から奧舎までのアプローチが非常に素晴らしいお寺です。
ちょうど新緑の頃。まさに絵になる美しさです。
竹林が青々とすがすがしい気で満ちていました。
細川忠興(三斎) 作の茶室「松向軒(しょうこうけん)」

1628年(寛永5年) 忠興(三斎) 66歳の時の作とされる。
広間から見える庭は絶景
秋の紅葉の時は朱で染まるこの庭。JR東海が「そうだ京都に行こう。」とポスターに起用しています。
細川ガラシャと夫 細川忠興の墓所
細川 玉(1563年~1600年)
明智光秀の三女にして細川忠興の正室。キリスト教に帰依し洗礼名がガラシャ(Gratia)。
逆臣の娘となり辛い日々が彼女をキリスト教の道に進ませたようだ。
因みにガラシャの死は石田三成が彼女を人質にしようとした為に 夫との約束通り自刃し、その後爆死
。
「遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛けた・・。」前回信長の死について私が提唱したのと同じではないか。
墓石代わりの石灯籠は利休の遺品。秀吉が欲しがったと言う「天下一」と銘のある灯籠らしい。

忠興(三斎)は利休切腹のおり、これを相続した。
初代藤孝(中央奧)11代目までがここに眠る細川家の墓所
信長の墓所リンク先
リンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)
リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)
リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)
リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)
信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓
リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名
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